将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Category: 周の酒の話

11093002 下谷落語会の開催する「大江戸屋形船お花見ツァー!」に昨日参加しました。TANUKI夫妻と一緒です。
 下谷落語会の例年のイベントですが、私は初めての参加でした。この下谷落語会というのは最初の会長を歌人の福島泰樹さんがやっており、現在の会長は私の友人の松本晃氏がやっています。福島さんも元気に参加されていましたが、彼はもともと下谷のお寺の息子さんなのですね。
 福島さんの歌で、私の好きなのは、

  二日酔いの無念極まるぼくのためもつと電車よ  まじめに走れ
  カタロニア讃歌レーニン選集も売りにしコーヒー飲みたければ

でしょうか。福島さんの縁でか、立松和平さんも奥さん同伴で参加されていました。
 このお二人とも、昔の早稲田大の活動家ですから、私のたくさんの友人たちをたどれば、私も友人という関係になるのでしょうが、今回はそうしたお話はしませんでした。
 ところで参加者は80人もいて、実に大勢で下谷落語会というのはいいなと思いました。会長の松本晃さんとは、私は実に長い付き合いになります。彼とは私が75年11月に入社した会社で、出会いました。彼がコピーライターでの私の上司でした。彼と私と、今は進学教室をやっている牧田和美さんという3人で、その会社で労働組合を作って暴れました。
 この松本さんは実に面白い人です。非常な酔っぱらいです。そのうちに私たちのオフ会に参加してもらいますから、ぜひそのときに面白がってください。
 私もこのお花見に、着物で行きましたが、彼も着物姿で、しかも彼は完全に決っています。そういえば、随分昔日経新聞で、彼のことを、「ただ和服が着たいがために谷中に住んでいる」人と紹介されていたのを覚えています。
 もっとも着物姿は、女性でも何人もいました。そして当然、出演してくれた、

  桂南なん、桂小南治、桂小文
  お囃し 森本規子

の4人も着物姿で、特に落語の3人は紋付き姿です。でも私は小文さんが男の子のような女の子で、愉しかったな。
 屋形船は4時に浅草橋を出発、隅田川を遡って、浅草へ出てそこで両岸の桜をみて、落語を聞いて、ただひたすら飲みました。私も当然詩吟をやりました。
 そしてたしか2時間くらいで、また浅草橋に戻りました。TANUKIご夫婦と別れまして、私は2次会の浅草「菊水」へ行きました。30人くらいの参加でした。この2次会でまたいろいろ話していると、結局また別に知合いがいたりして、面白かったものです。
 さすが疲れて、もうこれで終りというところなのですが、私と松本氏で、結局谷中の「浅野」へ行って、最後の宴会をやりました。
 私は屋形船に乗ったのは2回目ですが、お花見では初めてです。いいものですね。それと私は着物がいくつも欲しくなりましたね。

11092905 私が大学6年生のとき、1972年のことです。あるときに酒の席で何故か、7月14日(パリ祭であり、祇園祭の宵山の日であったかな)京都駅で集まろうという話になりました。しかも全員ダークスーツにサングラスで集まろうというのです。私たちはみんな貧乏な学生ばかりです。しかも夏のスーツなんて持っていないほうが多かった。でもなんとか9人が集まりました。
 私は3人の仲間とスーツケースを持って前もって京都へ行きました。私たちは立命館の活動家たちのいる「ぷくとん寮」というところにお世話になりました。私たちは、たしか8日くらいに京都へ行きました。それから何をしていたかというと、ただ毎日ひたすら飲んでいました。
 14日の約束の前の日は、次の日にスーツを着る関係で、大酒とくにビールを飲むのはやめようとの決意のもと、四条や木屋町あたりで飲んでいました。それでもけっこう飲んで、夜の8時頃私が四条大橋の上で鴨川に向って詩吟をやり出しました。
 大勢の人がただ私を眺めていきます。そのときに、全く不思議な格好をした60歳くらいの老人が私のそばへやってきました。ちょうど鵜飼の装束のような格好です。烏帽子みたいなものをかぶっています。そして、驚くほど長い尺八を担いでいました。その尺八はその人の背よりも長く(160センチくらいあったのではないかな。かなり湾曲していたから担いで歩けたように思えます)、紐で上下を結んで肩で担いでいました。
 その人が私たちに声を掛けてきました。

  うん、桜田門外の詩(うた)ですか

と。私がやったのは、私が一番好きな黒沢忠三郎「絶命詩」(註)なのです。そこで私たちは話し出しました。そしてぜひその尺八を聞かせてくれと頼みました。

 (註)この詩は私が一番よく吟う詩です。

      絶命詩     黒澤忠三郎(勝算)
    呼狂呼賊任他評 狂と呼び賊と呼ぶも他の評に任す
    幾歳妖雲一旦晴 幾歳の妖雲一旦晴る
    正是櫻花好時節 正に是桜花の好時節
    櫻田門外血如櫻 桜田門外血は桜の如し

 その老人は、

  人にお聞かせできるようなものではありませんが

といって、私たちを鴨川の河原へ導きました。なるべく人が大勢いないようなところまで行って、「では……」の尺八をならし始めました。
 とにかく長い尺八なので、おそらく低い音なのだろうと想像していましたが、それは低いが、かなりな音で、鴨川の流れの音にも負けません。
 演奏が終ったとき、私たちは思わず拍手していました。そしてその老人は、私たちの誉める言葉に

  いやいや、桜田門外の詩にはかないませんが

といいながら、その尺八をまたかついで鴨川の河原を下流に歩いていきました。
 なんだか、時代が現代ではないような、そしてついさっきまでの尺八の音が私たちの耳にそのまま残ってしまいました。でも嬉しい出会いであり、嬉しい思い出です。

 そしてまた年月がたちました。その4年後のことです。1976年の夏に私はまた京都の鴨川の河原にいました。7月13日の午後7時くらいでしょうか。河原を歩く中、またあの老人を見つけたのです。老人は何故か同じような不思儀な格好でしたが、寂しげに鴨川の流れを見つめ、佇んでいました。尺八をまた持っているのですが、前のときのような長さはありません。もう120センチくらいの尺八です。
 私はその老人の背を遠くから眺めながら、一緒にいる私の連れの女性に、この老人との愉しい思い出を語りました。なんだか、その寂しい背を見ていると、哀しくなりますが、どうしても声を掛けられません。
 でもあまりにその老人が動こうとしないために、随分経ってから私たち二人で隣へ行って、挨拶して話掛けました。4年前のことを話しました。老人は覚えていてくれました。

 老人「あゝ、そんなこともありましたね
 私  「あのときはもっと長い尺八をお持ちでしたね
 老人「そうでした。……もうあの尺八は、私には吹けないんです
   よ、年を取りました

 なんだかあまり声を交わさないまま、しばらく一緒に鴨川を見ていましたが、やがて、その老人は「ごきげんよう」とまた鴨川の下流へ向って歩いていきました。その背中がやけに寂しく見えたものでした。
 なんだか私たち二人も、なんだかその日は沈んでしまいました。あの人の元気なときにもっとお会いしたかったなと思ったものです。
 これが、私が尺八で思い出す話です。なんだか不思儀で寂しい思い出です。

20170411702 私のごくごく親しい酒飲みの友人の激辛庵さんのことを少し書きます。
彼は私より学年がひとつ下で、昭和25年の1月生まれだということです。私の埼大の3年下の後輩で村本修という活動家と彼は高校(東京の北園高校)で同級生でした。この村本という男もこれまたとんでもない男で、私は彼が浪人で代々木ゼミナールへ通っていたころ知り合いました。彼は代々木ゼミナールで何をしていたかというと、勉強などせず、「代々木ゼミを如何にバリケード封鎖するか」などというとんでもないことを仲間と話してばかりいました。彼が70年の4月に埼大に入学してきて、私は偶然大学構内で声掛けられてびくついたものです。

え、今度は埼大を壊しにきたのか?11092605

なんて思ったものです。そうしたら、ちゃんと入学したということで、これまたえらい男と一緒になっちゃったなと思ったものです。彼のことでもいくらでも話せるエピソードにことかきません。私が詳しく軍歌を唄えるのは、すべて彼のおかげです。彼は熱心に執拗に軍歌を唄える、どうしてか社青同解放派の活動家でした。どう間違ったか、彼は自分のことをマルキストだと思っていたらしい。
この70年の10・21国際反戦デーの日、当然埼大はストライキになるわけですが、前日から我々は大学でバリケードを作って次の日にそなえます。私たちが教養学部棟を占拠しているのに対し、日本共産党民青が大量動員で夜中にやってきました。我々は槍ぶすまで、彼らと対峙します。そのときは結局はゲバルトにはなりませんでした。次の日の昼に今度は私たちが彼等のところへ押しかけ、これは激しいゲバルトになりました。当然私らの完勝でした。
この夜中、民青と槍ぶすまで対峙しているときに、どうしてか一人の男が現れました。私たちの指揮者は、この男を警戒して、声を荒げます。そうしたら、村本が急に隊列を離れ、「これは俺の友達なんだ」といいます。この夜中、風呂敷でヘルメットを包んで埼大に来たのが、若き日の激辛庵さんだったのです。彼はそのときには浪人生でした。
このときからの付き合いになります。彼はなぜか埼大が気に入り、そのときからいりびたってしまいました。当時道路掃除の仕事をしている仲間がいたのですが、彼もそのバイトに加わり、なんだかもう埼大の活動家仲間になってしまいました。なぜか飲むときは、彼もいつもいるようになりました。
たしか72年のときに、彼は御茶ノ水の病院にしばらく入院することになり、私が見舞に行ったことがあります。たしか私と私の彼女の二人で行ったのではないかな。彼は入院していてもいい患者ではなく、抜け出してはいつもビールなどを飲んでいました。あるとき、ビールを飲んで帰ったら、急に手術となり、酒が入っていると麻酔が効かないので、ただ痛いだけだったらしいのですが、酒飲みがばれると、その後そうしたことができなくなるので、歯を食いしばって無理したようです。
そしてその後、私が大学を去ったころから、しばらくは互いに連絡が途絶えました。そののち彼と再開したのは実に約10年余の歳月がたってからです。正確には判らないのですが、多分82年の秋のころだと思います。私が34歳くらいのときです。
ゴールデン街の「吐夢」か「ひしょう」で、彼の伝言のついている名刺を貰いました。それには、「ひさしぶりです。村本の友人だった私です。私はいつも『オハラ』で飲んでいます云々」というようなことが書いてありました。 それで私はある日、この「オハラ」へ行きました。私には初めて行く店でした。このときのことを、彼が「ひしょう」の15周年記念の文集(89年3月発行)に次のように書いていてくれています。

彼がぼくのことを覚えているかどうか、はなはだ疑問であった
  が、名刺のうらにそう走り書をして、ぼくはお竜さんに渡した。
一般的に、呑み屋の伝言、止まり木の約束ごとほどあてになら
  ないものはない。何週間かたって、ぼくもそのことはすっかり忘
  れてしまっていた。だが、ある夜、H氏はおはらにやってきた。
  夜中の3時ごろだったと思う。
カウンターで酔いつぶれかかっていたぼくが詩吟にびっくり仰
  天して、白河夜舟から飛下りて以来、また、ぼくの乱れた生活が
  復活した。

こうして私たちはまた出会いました。しかもそれがゴールデン街でした。またひたすら飲んで騒ぐ二人になってしまいました。彼は70年代にはしばらくライブハウスをめぐる歌手をやっていたのですが、80年ころにその道を諦め、地域新聞の記者から、さらに業界紙の新聞記者になっていました。だが昔の血がそうさせるのか、そこで労働運動をやって、いつも経営者と闘争していました。しかも彼は自分の会社だけではなく、常に同じ組合員(東京ユニオン)の会社にまで支援に行っていました。
それにしても私と彼はよく飲みました。当時は、四谷見附のピアノの弾き語りのある店で会って飲んで、それからゴールデン街、そして彼のアパートということが多かったように思います。
彼のアパートがまた傑作で、この80年代に60年代後半のアパートという雰囲気の部屋でした。レコードや音楽関係の資料がたくさんあり、そして60年代活動家が必ず持っているような本が大量においてあります。
アパートの前の庭には、なぜか判らない針金でつくったオブジェ(たしか鳥の姿だった)がおいてあり(なんだか非常に変わったおじさんだが、おばさんがいたようだ)、酔って帰ってくるときは判らないのに、二日酔いで見るとそれは不思議な光景でした。
当時の彼の彼女と訣れることになり(私がその原因をつくったのかもしれない)、どうせ訣れるのならと、私がその場に立ち会ったこともあります。「どうせ訣れるのなら、さっぱり訣れるのではなく、言い合いして嫌い合い、喧嘩して訣れるべきだ」なんていうのを二人に言って、訣れてもらったものでした。
それで、その直後あたりに池袋の「たつみ」という飲み屋に彼はよく行っていたのですが、そこの今の燕尼が「ゆきちゃん」という名で働いていました。彼女は他の中国の女の子と違って、化粧気もなく、眼鏡をかけた北京の真面目な女学生とい感じでした。この彼女に彼は日本語を教えることになり、やがて彼女が彼のアパートに来るようになりました。このころよく3人で飲んだものです。私と彼がまた部屋で飲んでいると、彼女が仕事が終って夜2時頃部屋にやってきたものです。土曜とか日曜の朝には、また池袋まで歩くなか、朝の定食屋でビールを飲んでいたものでした。それで彼と彼女は結婚することになったのですが、私は彼の父親を説得に行ったこともあります。
でも結婚しようが、私と彼がときどき会っては飲み続ける関係は変わりようがなく、あるときに燕尼が中国語のできる私の後輩に、「あんまり二人が仲がいいから、妻である私が嫉妬してしまう」と言ったようです。でも仕方ないんだな。もうこれが酔っぱらいの宿命なのです。
彼のお蔭で、私はパソコンとパソコン通信を知りました。とくにパソコン通信は彼にいろいろと教わったものでした。
そうですね。彼の唄う歌をひさしぶりに聞いてみたいものです。彼の唄う歌はいいですよ。

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11092610 私の兄の娘はもう結婚しました。ついこの間まで、私の娘たちと懸命に遊んでいたはずなのにと思います。この姪は高校短大のころも、よく私の娘たちと、隣の3人のアメリカ人のハーフの兄弟などと汗びっしょりになるまで遊んでいました。そこの姪の中学時代の男の子の友達も一緒になっていました。私もよく声を掛けたものです。
 この遊びに来る男の子の中にO君がいました。彼は高校を卒業して、柏にある繊維工場に就職しました。職に就いてもよく、遊びに来ていました。そのO君について、私はいつも姪と話していました。

 私「おい、あの職工はどうしてる?
 姪「え、ショッコウって……?
 私「あの、紡績工場の職工になっちゃったヤツだよ
 姪「あ、O君のことか、元気だよ
 私「そうか、家に来たら、ばあちゃんに頼んであったかいもの喰
  わしてやるんだよ

 姪「え?
 私「なんせ、職工ってのはあったかいものに飢えているんだから
  ね

 姪「……
 私「3交代制かなんかで、明け方仕事が終ることもあるんだろう。
  周ちゃん(私は姪の前では自分のことを周ちゃんという)はね、
  判るんだよ、その時の彼の寂しい気持が」(ここで周は遠くを
  見るような目つきになって話始める

 私「みいねえ(姪は美織といって、私の娘たちは美織おねえちゃ
  ん、みいねえという)の前では明るく振舞ってもな、ちょっと
  考えてみな。夜勤で明けで仕事が4時に終る、夜勤だから残業
  はない、そのあとすぐ大きな風呂に入る、これだけは気持はい
  い、だけど、きょうは同じ年の仲間は一人もいない、年上の人
  と話すのはあいつは苦手だ。そこで風呂からあがって、工場を
  出る。その工場の前の横町に、朝4時からやっている飲み屋が
  あるんだ

 姪「ないよ、あの工場の周りにはそんなのないの!
 私「ばかだな、飲み屋でなくとも、屋台があるんだよ、その屋台
  はもうそこで20年もやっている屋台なんだ、年とったおばさ
  んがやっている、あいつはだけどまだ18歳未成年だ、でもな
  んだかその赤ちょうちんに誘われて、思わずきょうはそこへ入っ
  てしまう、そこにいるおばさんも余計なこと何も言わないで、
  『おつかれさま』と冷や酒を出してくれる、あいつだって酒な
  んて15の時から飲んでいる、でも酒なんて旨いと思ったこと
  はなかった、だけど、今ここで飲む酒はどうしてか旨いんだな、
  そしてあったかいおでんだ、あいつも酒ってこんな美味しいも
  のなんだと初めて気がつく、そしてなんだか涙が出てくるんだ、
  おばさんは何も言わない。そして酒2杯飲んだところで、勘定
  をしてくれる、あいつも『なんだこんな値段なんだ』と安心す
  るんだよ

 姪「おいおい、周ちゃんはしょうがないね、寅さんになっちゃっ
  たよ

 私「それから、自転車でアパートまで帰る、アパートは汚いし、
  トイレも共同だ、でも、まだみんな寝ているから静かに帰る、
  そして3畳の部屋に入って、裸電球をひねると、そこにはいつ
  もひいてあるせんべい蒲団が目にはいる

 姪「O君は自宅だよ!
 私「でも、そのせんべい蒲団に入る気にはなれない、月賦で買っ
  たばかりの冷蔵庫を明けると、何もないのだけれどワンカップ
  の酒がある。あいつは思わずそれをひとのみにするんだ、それ
  で思い出すんだ、故郷に残したおっかさんのことを

 姪「彼は我孫子だよ、両親と一緒に住んでいるの
 私「それでもまた辛い仕事のことを考えると、寝なくちゃいけな
  い、思わず蒲団に入ると、そこに昨日読んでいたおっかさんの
  手紙があるんだ

 姪「馬鹿だね、彼は我孫子で自宅に住んでいるんだよ
 私「そこで泣くんだよ……、判るかい?
 姪「もう周ちゃんがまた、酔っぱらって、寅さんになっちゃった
  よ!

 私「なあ、だからうちに来たときくらいおばあちゃんに頼んで、
  あったかいものを食べさしてやんなよ

 姪「まっちゃん(姪は自分の母親をこう呼ぶ)、周ちゃんがまた
  寅さんになっちゃったよ

というので、姪は自分の母親やおばあちゃんや、私の娘たちと、いかに周ちゃんが偏見に満ちた阿呆かというのを話すことになります。でもまた私は姪に会うと、

   おい、あの職工はどうした?

と言っていました。
 しかし、実を言えばこの職工青年も、その職場をやめて、我孫子の有名ショップのガードマンをやっていましたが、そこで車の誘導中に怪我をして、また別な仕事になったようです。私は、ガードマンのときは、「あの警備青年どうした?」と言っていました。今度は何と言えばいいのかな。
 しかし、「職工はどうした?などと言ったときに、「ショッコウとは何だ!」と怒ってくる、裏のタコ社長みたいのがいると、もっとあったかいのですがね。
 周は偏見の塊なのですね。

11092503 ビジネスシヨウがあると、結局いつものとおり(晴海へいくといつものことだ、いや晴海でなくとも同じだけど)、飲んでしまうことになりました。
 その2軒目で行った「きゃらめる」でのことです。

 ママ「周さん、何か唄う?
 私「唄う、三橋美智也!
 ママ「三橋美智也の何唄うの?
 私「『母恋吹雪』!
 ママ「だから、それはないっていつも言っているでしょ
 私「では、『一本刀土俵入』!
 ママ「それもないの!
 私「『男涙の子守唄』
 ママ「!?
 私「『怪傑ハリマオの歌』!
 ママ「………ここにある歌唄って!
 私「べつにカラオケになくたって、私しゃ唄っちゃうよ
 ママ「いいわよ、どうぞ

といって、ママはマイクで私を紹介してくれました。私はマイクを握って、突如どうせ唄うなら、やっぱり詩吟やろうと思って、詠い出しました。何の詩吟やったか覚えていないけれど、お店にいたみんな感動したのじゃないかな。
 いつものことです。
 当然そのあと、いろいろ唄ったと思うけれど。たぶん平野愛子とか、渡辺はま子とか。そして、また唄ったな。いつものことです。
 激辛庵さんが一緒で、久し振りに彼のプレスリーの歌を聞きました。感動しました。 

2017081420 4月18日松戸自主夜間中学のあと、和尚さんと「平井食堂」で飲みました。ちょうど9時半頃店に入っていくと、カウンターに私の友人である下鳥光昭さんがいました。実は彼がこの「平井食堂」を紹介してくれたのです。
彼は私より2歳年上で、昔早稲田大の社青同解放派の活動家でした。私は最初ゴールデン街の「吐夢」で知合いになりました。その最初の出会いが面白かったのです。
たしか私が29歳のときだと思います。「吐夢」で飲んでいましたら、少し離れた席で白米はやっぱり旨いなんていうどうでもいい話をしているオッサンがいました。そこにいた女性とママがダイエットの話をしだしました。するとそのオッサンがいいました。

  ダイエットに一番いいのは、無期限ストライキだよ。この間無
  期限ストライキやったら3キロやせちゃった。それが終ったら、
  メシ食いすぎて、また太っちゃった。またダイエットの為に無期
  限ストライキやろうかな。

私はなんとでたらめな人だろ11092403うと思い、なんだか感激し、いっぺんに好きになりました。それで話かけました。すると彼は私のことを知っていました。名刺をもらうと「下鳥光昭」ということで、ある業界紙の記者で、そこの組合をやっているとのことです。彼が私のことを知っていたのは、彼の弟が埼大生で、私の3年下の活動家だったからです。私も彼の弟を思いだして、なるほどそれで弟も同じ党派だったのかと思い当りました。
そのときからの付き合いになります。そのころは彼は高島平に住んでいたと思います。今は沼南のマンションに住んでいます。彼の奥さん(裕子さん)も昔の活動家で、今は自分で東京中央区でアパレルの企画デザインの会社の社長をやっています。このまた裕子さんが元気で愉しい女性です。私は何度か経営の相談にのっています。
昨年のたしか8月に奥さんの会社に行ったときに、奥さんからこの平井食堂を教えてもらいました。

私  「下鳥さんは元気ですか?
裕子さん「あ、あのおっさんは元気もなにも、ただの酔っぱらい
      でしょうがないですよ。いつも平井食堂というところでそこ
      の主みたいな顔で飲んでいますよ

ということで、平井食堂の名を私は始めて知ったのです。そのあと9月3日の「全共闘白書」出版記念会では下鳥さん本人に会い、さらにこの平井食堂への地図を描いてもらいました。
この奥さんの裕子さんが自分の亭主の下鳥さんのこと話す内容が非常に面白いのです。こんな面白い夫婦の話があるかななんて思います。下鳥さんはあまり奥さんのことを話しませんが、昨年のオフ会忘年会で、高島平の団地で奥さんに包丁でベランダの隅に追い詰められたときには、もうこれで終りかなと思ったなんて話をしていましたね。その他実に面白い話がたくさんあるのです。
またそんな話は、飲んだときにでもしましょうか。またきっと平井食堂で下鳥さんと会うことがあるだろうと思います。

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2017081401 湯沢ということで思い出したことがあります。今度湯沢の町へいったら、心してこの店には入らないようにという店の紹介です。あまりにヒサンすぎる飲み屋なのです。
随分前になりますが11092306、夏休みのことです。さてきょうから夏休みだというとき(たしか8月10日頃)に、私のところへ電話がかかってきました。

ああ、周ちゃん、中原だけど、今ナベちゃんのところにいるん
  だ。飲みにおいでよ

中原さん(通称又さんといっている)もナベちゃんも日の丸の仲間です。又さんは沖縄から出てきたところです。なべさんは当時新婚で奥さんはお腹が大きい。茨城県荒川沖に住んでいました。私は早速出かけました。もうとことん飲みます。
私は少し悪い予感もしていたのですが、次の日も飲むうちに、日の丸のチィーちゃんのいる湯沢へ行こうということになりました。夜になって車で出かけました。お腹の大きい奥さんと4人です。
それからいったい何日飲み続けることになったでしょうか。朝はチィーちゃんの中央市場という流通の仕事を手伝ったりしながら、なんだか夜は飲んでいました。結局こちらに帰ってきても、また横浜の日の丸と埼大の仲間のところへいったりして、そのまま飲み続けていました。さまざま面白いことがあったのですが、ここでは湯沢のヒサンな飲み屋の話です。
車の中から湯沢の町に、私は「農民食堂」という店を見つけました。私はぜひあそこへいこうと誘います。最初の日、まだチィーちゃんは仕事中だから私たち4人でその店へいきました。おそらく雪が降ると、しっとりとした風情の店かまえだろうという店です。私はすっかり気に入ったのです。だって「農民」って正しいじゃないですか。うん、毛沢東だって正しいのだ(ここらへんは大冗談ですぞ)。
店には年老いたおばあさんしかいません。古い古い店です。おじいさんの遺影がおいてあります。おばあさんは独りなのです。畳も家具も非常に古い。信じられないくらい古いものです。
私たちはまずビールを頼みました。それに昼食がまだだったのでラーメンを頼みました。なにかおつまみというと、漬物くらいしかないと言います。おばあさんと和やかに話しながらも、まずその出てきた漬物の悲惨さに驚きました。どうみても甘すぎるのです。何故か砂糖を使っているようです。私は東北の貧しい農民には砂糖が貴重品だから、こういう味になってしまうのかなと思いました。懸命に思い込みました。しかしどうにも食べられません。
次にラーメンです。真っ黒な醤油色です。私は少し安心しました。だが口に入れてこれまたびっくりしました。これまた怖ろしいくらい甘いのです。砂糖を入れているようです。私たちにはとても食べられたものではありません。4人ともある程度までは努力しました。でも食べられません。辛うじてキリンラガービールは同じビール味です。
私は一生懸命思い込みました。東北の農民にとって、貧しい疲れた農民にとっては砂糖なんて貴重な甘さだったんだ、甘いことがご馳走だったんだ、だからこんなものができてしまったんだ、悪いのは貧しさなんだ、等々と。
でももう無理です。しかし、段々私たちはその店が少し奇妙なのにきずきました。おいてあるカレンダーが今年のものではないのです。なんと昭和38、9年のものです。置いてある数々の月刊誌が、「平凡」だとか「明星」だとかが、みんな昭和30年代のものなのです。置いてある「高島易」の本も昔のものです。
私たちは、もう酒を飲む気もなくなり(ビールだけは開けた)、その店を出ました。いったいあの「農民食堂」は何なのでしょうか。 その日チィーちゃんに「農民食堂」に入ったといったら、彼もその妹も同じように、

ナニ!  「農民食堂」なんか入ったのか!

という不思儀な曲がった表情をしました。私たちはあとでいろいろ推測したものです。チィーちゃんは学生時代は左翼だといっても、こういう封建的(これは「ふうけんてき」と読みます)な地方では、地方へ帰ると、ただの町の意地悪っ子になり、ときどき町へ出てくる農民の子をいじめているんだ。だからあのおばあさんはそんな農民の子をかばって、ひたすら甘い砂糖を与えて、また「我慢しろ、きっとそのうちおらたちの時代がくるべ」といって励ましているんじゃないかな、と。
今も真相は判りません。でもきっと雪のなか、あの「農民食堂」で甘いラーメンを美味しそう食べている農民と、それを優しく見守っている、あのおばあさんが今もいるように思えてしまうのです。
湯沢へ行ったら、この店を外から見るだけにして、決して中には入らないように。

今、エンジェルラインで調べてみました。今も湯沢の町に、この「農民食堂」は実在しています。

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11092210 私が自分の文書の中にときどき「日の丸」とか「日の丸土建」とか書いていることの解説です。
 私もこの「日の丸」の一員なのです。もともとは北浦和東口大東というところにあった土建屋さんの集団でした。
 もともとは早稲田の鈴木さんという活動家がやりはじめた土建のアルバイト集団だったようです。1971年後半頃から北浦和の大東に飯場を構え、法政早稲田の左翼活動家を中心として活発に仕事をしだしました。次第に他の大学の活動家も増え、さらに浪人、本物の土方も出てきました。またもともとは左翼活動家ばかりだったのですが、そうでない人も加わってきました。そのころ私たち埼大の活動家連と知りあったわけです。
 私の3年下の後輩から、このごろ夜にある飲み屋で、どうも「ベ平連」チックな土方連中と出会うから、そのうちどうせベ平連だと喧嘩になるにきまっているから、そのときにはきてくれといわれました。私は「ほんとにベ平連なのかよ?」というと、あんなに髪の長いのがいるからベ平連だなどといいます。私もベ平連じゃ、どうせ喧嘩だなとばかり思っていました(私は当時からベ平連のような市民主義運動は大嫌いでした)。
 ところが、その後輩が「いや、あの土方の連中は同じ仲間だったよ」というし、しかも名前が「日の丸土建」だというので、もうそれはみんなすっかり気に入ってしまいました。その過程にはこんなことがあったようです。
 北浦和の「赤と黒」という夜中やっている飲み屋で、私の後輩たちと日の丸のある連中が一緒になりました。そのとき店のテレビで愛媛大学のバリケードが大学職員と機動隊から封鎖解除されるところがニュースで放映されたらしいのです。見ていて、私の後輩たちからは、「頭(アッタマ)来るな!」という怒りの声が発せられます。みんな左翼全共闘の活動家なのですから。ところが同時に日の丸の土方の人たちからも、同じ声が発せられたのです。それでお互いに、「何だ仲間なのか!」と早速一緒に飲み出すことになったわけです。
「日の丸」の諸君も同じ左翼活動家だったわけです。
 それから私たち埼大と日の丸は急速に仲良くなっていきました。私たち埼大のグループもみんな土方の仕事をするようになりました。だが日の丸の人たちには、私たち埼大グループは仕事の上では素人ばかりで、最初は困ったのではないでしょうか。とくに私などは、力はないし、仕事を覚えられないで、こまった奴だったと思います。でもそんなことは一言もいうことなく、一緒に懸命に仕事しました。だいたいに3つの現場をもっていて、よく働きました。
 朝飯場に行くと、ちゃんと朝飯が食べられます。昼は飯場に帰ってくるか、御弁当かで食べられます。夕食も同じです。それが実に美味しい食事なのです。私たち埼大は貧しい連中ばかりでしたから、こんなに美味しい食事ができるのには、心から感動してしまいました。このとき食事の担当だったのが、Aーちゃんという(当時法政の学生で佐々木雅治さん、石川県生まれ)、今では私のクライアントの社長です。
 当時の社長(土建屋のおやじ)はチィーちゃん(法政で、千葉均さんという私より2歳下の秋田湯沢出身、現在は秋田県である流通グループをやっている、また現在熱心な異常な経営コンサルタントでもある)といい、とんでもないはりきりやでした。これほど土方に頑張っている人はいないだろうというくらいの人です。
 またなべさん(法政、渡辺正夫さん、私と同じ年、なんとプロレタリア軍団だったという、東京出身)が副社長格で、これまた土方の仕事に執念を燃やしているいい男です。先日私のところにロータスを習いにきました。
 会計をやっていたのが又さん(法政、中原優、法政大の文連の委員長だった、鳥取生まれ)で、この人は、毎月飲み屋にたまったつけを払いにいったりする係でした。現在は沖縄で働いています。ときどき東京に出てきますが、けっこう一緒に飲んでいます。
 その他たくさんいました。現在石川良一さんという東京都稲城市の市長になった人も同じ日の丸の仲間でした。みんな今のハンドル名のように、「一徳(いっとく)」「一朗」「しんご」「こうぞう」「きよしあんちゃん」「ハナちゃん」等々と呼んでいたので、当時はその当人が学生なのかかつ左翼なのかどうなのか判らなかったものです。
 ただこの「日の丸土建」の大きな特長は、おやじも食事担当も誰もかもが、同一賃金だったことです。これは驚くべき立派なことでした。私のような仕事の出来ない人も、チィーちゃんもみんな同じなのです。
 私たち埼大の連中も次第に大勢が加わるようになりました。埼大の連中の特色は、仕事はまだうまく出来ないが、とにかくみんな大酒飲みのことと、若い連中はまだ学生運動の現役の活動をやっていたことでしょうか。
 この日の丸土建との大きな思い出は、一緒に仲よく腹いっぱい飲んで元気に歌を唄い踊っていたことです。日の丸も当初飯場を建てた頃は、仕事の後には活動家らしく学習会などといって「ドイツイデオロギー」の読書会などをやっていたらしいのですが、そのうちに土方で疲れた身体には酒が合うようになってきたようです。その酒を飲むことに関して、私たち埼大と違う点といえば、私たちがヒサンな飲み屋ばかり好むのに対して、彼等は少しはいい飲み屋で飲んでいることでした。これはやはり、彼等が普通に働く労働者だったからでしょうか。
 でもよく日の丸対埼大などと歌合戦をやったものです。これほど愉しく歌を唄える集団も他にはないといえるかと思います。花見なんていうと、黒山の人だかりができたものです。よく飲んで唄って踊りました。また私たち埼大の「むつめ祭」で野球大会をやったりしたものです。

 この日の丸土建が突如として沖縄に行くことになりました。海洋博の行われる本部半島への送電線を作る仕事です。私たちは、あとから行った埼大グループを晴見埠頭で馬鹿馬鹿しく盛大に大宴会して(晴海で)おくりました。いま思えばなんで埼大のグループは船でいったのだろうか。貧しかったのね。私の村本という解放派の後輩は、晴海で飲んで、私と「昭和維新の歌」を船と岸壁で歌いあってから、沖縄に着くまで3日間何の記憶も無かったといいます。つまり、埼大かつ日の丸らしくずっと飲んでいたのね。
 私も沖縄に行きました。たしか浦和で飲んでいたはずなのですが、もうあまりの飲みすぎの世界に嫌になって逃げ出したら、名古屋京都大阪と飲んで、ついでに鹿児島で執拗に飲んでいたはずなのですが、気がついたら沖縄でした。なんでか気がついたら、非常に焼酎くさい息で、現場の鉄塔にとりついてハッカ(鉄筋を結束する道具)使っていました。なんで俺はこんなところでまたヘルメットかぶって、なんでまた働いているのかなというところで記憶がもどりました。また日の丸の世界でした。
 この沖縄での日の丸の世界はまた怖ろしいくらい愉しい世界でした。飯場での私のベットの上にいた加藤くんは、沖縄にも大学入試の参考書をもってきていた高校生だったのですが、当然挫折します。私が悪いのじゃないよ(本日どうせ会います)。
 日の丸はよく飲みました。よく働きました。社長のチィーちゃんはいまでも、飲むとすぐ裸になります。鍛えた身体を誇っているのです。川や海があれば、すぐ脱いで飛び込みます。いつでもどんなところでも(つまり寒い海でも、きたない川でも日和らず)、飛び込みます。私たちも仕方ないから続いて飛び込んだりします(もうやめてほしいな、もう死人が出るよ)。あるとき、彼がやにはに裸になるのに感動して、また裸になった飲み屋のママがいて、私たちは「いったい何というでたらめな世界だ」と感動したものです。
 この日の丸がその後、東京で香具師をやっていました。私はなべさんが作った綺麗なろうそくをチィーちゃんのやっている露店で大量に買って、クリスマスのプレゼントにたくさんの女性たちに配りました。みんな非常に喜んでくれました。その後またいろんなことがあって、いまの時代になりました。
 でもいまでも日の丸は不滅です。沖縄でハーリー祭りがあって、そのボート漕ぎ競争に出場したのを思い出します。飯場のある村あげての大祭りでした。私たちは必死に船を漕ぎました(ただし、私周は漕がないで船首で大声をあげていただけ)。そのときのみんなの一致した息を懐かしく思い出します。埼大も何もかもみんな日の丸でした。嬉しい愉しい、笑いと涙の瞬間でした。私はいまもこの瞬間を大事に思っているのです。
 本日この日の丸の久し振りの宴会があります。25、6人が全国から集まるといいます。一体いつまで飲んでいることでしょうか。またみんなで、どこかで泳いだりするのかな。少なくとも歌合戦、踊り合戦はしますよ。私だって元気です。私だって日の丸なのです。あまりの感動の思いに、私は昨夜、前夜祭をやってしまいました。きょうは昼はみんなわくわくしながら仕事して、そうして会ってどんなに飲むのかな。いつまで飲むのかな。きょうは午後7時から中野北口の「すてら」という飲み屋(この店は「こうぞう」くんという人の店、何故「こうぞう」というかと言うと、彼は姓を岡本といって、昔テルアビブでの赤軍派岡本公三からとったもの)で開始します。
 いついつまでも、私は日の丸です。

11092201 さきほど、テレビで映画の「墨東綺譚(本当は墨にはさんずいがついている)」をやっていました。全部は見られなかったのですが、一部見ることができました。永井荷風の「墨東綺譚」と「断腸亭日乗」から作られた映画のようです。
 映画はさておき(なんせほんの一部しかみてない)、「墨東綺譚」は永井荷風のなかでは好きな作品です。この舞台の玉の井を歩いたこともあります。荷風はいったい、何から逃げていたのかななんて思いながら歩いたものでした。私は作中の主人公がお雪に初めて出会うシーンが好きです。おそらくは、間違いなくありえない出会いなのですが、荷風は墨東を歩きながら、このような出会いとお雪のような女性を創造してしまったのでしょう。
 永井荷風で思い出したことがあります。またどうでもいい、酒飲み話になってしまうのですが、昨年あるバーで友人と飲んでいました。隣にかなりな年齢の紳士がいました。やがて話しかけてきました。彼は、永井荷風に関した研究機関みたいのをやっていました。私は、ついいいました。

 私  「永井荷風はいいですね。私は好きですよ
 相手「え、これはまためずらしい、何が好きなのかな

ここで、私が「墨東綺譚」とか「すみだ川」でもあげれば、彼としては、「まあ『墨東綺譚』もいいけどね、荷風にはもっとたくさんのいい作品があるんだよ」ということで、彼の話を聞くことになり、彼はそれできっと愉しかったのでしょうが、なんせ私はもう酒は2軒目です、まともに喋るわけがありません。

 私 「そうですね……(と考えるふりをする)、『あめりか物語』
  とか『ふらんす物語』は、あまり好きではないのですが、……
  そうですね、やっぱり、『つゆのあとさき』とか、『問はずが
  たり』とか、……それから、『腕くらべ』『浮沈』『新橋夜話』
  『貸間の女』『おかめ笹』なんかが、いいですね(これをわざ
  と時間をかけていっているから、だんだんと相手は驚いてきま
  す)。でももっと好きなのは、そうだな『罹災目録』ですかね。
  あれなんか、淡々と記録してあるだけだけど、読んでいるとい
  いですね。

 相手「しかし、そんなのまで読んでいる人ってめずらしいな
 私  「ああそうだ、『葛飾土産』も好きですね……、私はちょっ
  と素人だからいい加減に考えて『罹災目録』を正岡子規の『病
  状六尺』と比較してしまうのですよ。子規のは好きになれない
  のですが、荷風はいいですね」(なんて段々適当なことをいう)

それからさらに内容をくどくどいううちに、その紳士はだまってしまいました。その店を出て、もう1軒の飲み屋に向うとき、連れの友人に怒られてしまいました。

  いつものことだけど、あれじゃ人が悪すぎるよ、ああいう人の
 話は聞きてあげればいいじゃない。

まったくそのとおりなのですが、酒が入るともう駄目なんですね。
 周と飲むときには、文学の話、歴史の話をされる場合は気を付けてください。なんだかすぐにむちゃくちゃなこと言い出します。ついでに、プロレスの話、ヤクザ映画の話、学生運動の話、水戸天狗党の話、将門公の話、等々、まったく突如どうでもよく口をはさんできますから、気をつけましょう。

11092001 先日3月27日に後輩の結婚式がありました。私の大学の6年下で、今は養護学校の教員をやっている長谷川健二という後輩です。もう39歳になるのですが、どうしてか結婚することになりました。彼は「ケンジ、ケンジ」といわれていて、とても大変な人物です。
 私が最初彼と会ったのは、彼が大学2年の時の埼大のむつめ祭でした。彼はその時は、もうむつめ祭の常任委員をやっていて、どうしてかとんでもない酒飲みで非常に酒癖の悪い男でした。私は初対面なのに、思わず下駄で彼を殴ってしまいました。
 ケンジは群馬県新田郡新田村の生まれで、小さいときから神童といわれていたらしいのですが、埼大の理工学部生化学科に入学しましたが、あまりの大学生活のつまらなさに、もう大学に出てこないで、毎日利根川の河原で1升瓶をもって酒を飲んでいたらしいのです。それで、同じ学科の宮田君という今はたしか九大の大学の先生になってしまった男が、心配して彼を訪ねてきたそうです。河原で飲んでいる彼を見つけて、

  そんなに酒が好きなら、むつめ祭常任委員にならないか。いく
 らでも飲んでいられるぞ。

といわれたので、ケンジは「本当かよ」というので、常任委員になってしまいました。これがケンジと私たちが関係をもつことになってしまったわけです。当時のむつめ祭はまだまだ私たちのころの雰囲気が濃厚で、やはり学生運動の活動家的な連中が多かったのですが、そうしたことと全く縁のない男が加わってきたのです。おそらくは、彼は、「経哲草稿」も「ドイツ・イデオロギー」どころか「共産党宣言」すら読んだことは無かったでしょう。しかし彼は、ここで強烈なむつめ祭の活動家になっていきます。その当時も毎回毎日のように日本共産党との激突があったわけですが、彼は同じ学科の瀬名波という男と並んで一番過激な活動家になっていきます。
 私は最初会ったときに、なんという目茶苦茶な男がいるのだろうと思いました。言葉使いを知らない、礼儀をわきまえない、マルクス主義のイロハも知らない、酒ばかり飲んでいる、ただただしつこい、ただただきたない、なんの取柄もなさそうだ、なにもほめるところがありません。しかし彼等の代の活躍で、むつめ祭はかなりな隆盛を迎えました。私も何だかわからないまま、彼等と親しくなっていきました。とりわけケンジとは、いつも私が一方的に殴ったりしながらも親しくなっていきました。彼等を大勢私の関係でアルバイトに使ったり、私の昔の会社の社員旅行に連れていったりしました。
 あるときに私がケンジたちと飲んで、次の日代休だった私は大学へ行きました。もうケンジたちが、大学6年の時だったかと思います。私は大学の職員の大勢と親しく、しかもその職員の人たちは、段々役職が上になり、大学のあちこちに散らばっているので、ケンジの案内であちこちへ挨拶にいきました。みんないくと大歓迎してくれます。当然お酒だしてくれる先生もいます。しかし事務室では、ちょっと酒はまずいから、応接室で話し込んでいると、たいへんにふんぞりかえっているケンジを若い職員がみて、驚いています。いつも若い職員たちはケンジに散々の迷惑を受けているのです。
 ケンジは生化学科ですから、ちゃんと実験をやらなければいけないはずです。大学では何十人もの女子学生まで何日も泊り込んで、実験に取り組んでいます。ケンジたちは泊まっても酒飲んでいるだけです。しかし、その実験室へ行っても、ケンジ君のひどいことったらありません。全員がどういう実験をやっているのか、細かく知っています。あちこちからかっているばかりです。女の子の白衣の下から手を入れたりしています。でもまた全員がケンジ君のことを知っていて、なんだかみんな愉しい雰囲気です。
 傑作なのは学部棟の前で、ある大学教授がケンジを見つけると、すぐ走ってきて、

  おい、ケンジ、今年こそ卒業して、ここへ就職しな。

とある会社のカタログを渡します。その先生は、昔私たちのバリケード闘争の時は、右翼的な対応しかしなかった、いわばいい先生です。しかし、その場でのケンジの態度の悪いこと、悪いこと、私は「いくら何でも、先生に対する礼儀だけはちゃんとしろ」と怒りました。
 そのあと聞いたのですが、当時の埼大学長の須甲鉄也先生が、その息子に、ケンジと瀬名波の就職のこと心配して、どこか決まっていないなら、世話しようといいだしたそうです。息子はなんでまたあいつらのこと知っていて、しかもそんな心配までするんだと聞いたら、

  あの二人ほど、キャンバスをふんぞりかえって歩いている学生
 はほかにいない、あの二人がどうなるのか面倒みてやりたいんだ。

といったそうです。なんだか、この須甲先生の気持はよく判る気がしました。
 結局ケンジは何故か証券会社に努めました。1日100枚の名刺を配って歩いたといいます。そしてやがてどうしても教員になりたいというので、「よせよ、お前は向いていないよ」といったのですが、どうしてか教員試験を受け、埼玉の教員になってしまいました。
 ケンジを私はいろいろなところを連れていって、いろいろな人に紹介しました。彼が偉いのは、言葉使いは知らなくても、そうした私の紹介した人と必ず連絡を忘れずとっていることです。だから何処でも彼の消息を聞かれるものでした。
 だが、ケンジはやはりケンジ君でとんでもない人です。彼は一時南浦和に住んでいたのですが、とうとうそのあたりの飲み屋すべて出入禁止になってしまったそうです。このことは彼の隣の部屋の人に詳しくききました。その隣の人も、これほどの人間にあったのは初めてのことらしく、私との会話ではケンジの数々のエピソードでいつまでも話がとぎれませんでした。
 しかし彼はやはり酒を飲みすぎなようで、一番皆が困ったのが、彼の電話魔なことです。ほんんど私たちの知り合いの自宅に夜電話してきます。彼は酔っていて、しかもダミ声で群馬弁で喋っていて、内容がよく判りません。しかも電話してもいるのは、私たちの奥さん方だけですから、非常に迷惑なことです。そして何の話をするのかというと、彼の「教育」についての話です。とうとうほとんどの奥さんが、彼の電話だと判ると、ただ無言で電話を切ってしまうようになりました。いつも電話を切らなかったのは、私の妻とゴールデン街の吐夢のママと、あと二人くらいだったようです。私の妻はこういっていました。

  最初はなんと女々しいしつこい男だろうと思っていたけど、だ
 んだん判ってきたけど、真面目に障害児教育のこと考えているの
 ね。

本当に彼はいつもこどもたちのことばかり考えていたのです。
 しかしケンジはだんだんと酒のお蔭で、どうにも成らない身体になっていました。そうした時に、彼は自ら半年間アルコール中毒を直すために、病院にはいったのです。そしてそこを出てからは、もう一滴の酒も飲んでいません。しかも彼が偉いのは、私たちの間の集まりがあっても必ず参加していることです。彼はただただウーロン茶を飲んでいます。酒のみ仲間と旅行にいくこともあります。また吐夢のママがほめていたのは、彼は何とゴールデン街にも出現するのです。吐夢でもただウーロン茶を飲んでいるだけです。

  ママ、酒飲まない客でごめんね。今度は酒飲める友達を一緒に
 連れてくるから。

といっているそうです。そして実際に結婚前に、今の彼女(彼女は当然酒が飲める)を連れてきたそうです。吐夢のママはケンジ君には感心しています。
 私たち埼大の仲間は冠婚葬祭に熱心にとりくみます。ただこのごろあまり結婚式というのがなくなってきました。葬式も懸命にとりくみます。それで、ここ何年かは誰かの葬式がないかななんて話していました。昨年の忘年会では

  しかし、このごろは葬式もしばらくないね。誰か死ぬといいん
 だけどな。

という私の言葉に、みんなケンジ君を見つめました。そうです、どうせ何の取柄もないのだから、葬式というイベントくらいの価値だけなのです。そしてここ何年か私が言い続けたことでもあります。
 そうしたら今年の2月末にケンジから電話がありました。

  あの、やっぱり俺の葬式もいいけど、葬式の前に結婚式のほう
 がいいでしょう。俺今度結婚します。

 私は仰天しました。

  え、本当かよ、そりゃ、葬式よりもちろん結婚のほうがいいよ

といって、思わず涙が出てしまいました。
 そして27日の結婚当日です。私は前の日に勝手に前夜祭と称して独りで飲んでしまいました。次の日どうにも涙が出そうだから、前の日に独りで泣いておこうと思ったからです。でもどうにも当日本番も数々のところで涙が浮んできてしまいました。私は結婚披露宴のキャンドルサービスというのを見るのが、どうにも気耻しくて嫌でした。だけどこれほど感動してあのロウソクの火を見つめたのは初めてでした。驚くほどの美人の彼女なのです。ケンジより背の高い、まるでファッションモデルのような美人です。そしてロウソクにつけるたびに、ケンジはくどくどどどうでもいいことをむにゃむにゃいっています。それがなんだか、どうしょうもなく嬉しかった、感動しました。涙が出てきました。
 媒酌人は埼大元学長の竹内先生でした。あの先生もどれくらい安心したことでしょうか。ケンジの養護学校の校長も何故か二次会にまで出席してくれました。女性の校長なのですが、その二次会での挨拶がとてもよかった。

  長谷川先生というと、これはまた…………

と絶句して、

  大変な先生で……

とまた絶句。「ああ、この先生も大変な目にあったんだな」と私は思いました。でもこの校長先生も心から喜んでいるのが伝わってきます。
 ケンジ君は今は酒を飲まないどころが、もう各地のマラソン大会に参加してフルに走るほどなのです。そんなマラソンを一緒にやっている同僚の話もいいものでした。私は3曲も詩吟をやってしまいました。
 しかし、どうして普通の美女の彼女がこんなケンジと一緒になるのか不思議でした。平安時代の「堤中納言物語」に「虫愛づる姫」という話があり、なにかきたないものをいじるのが好きな姫の物語があるのですが、そんな趣味でもあるのかと想像していましたが、彼女自身の挨拶ではっきりしました。彼等二人は、とんねるずのやっているネルトンパーティのようなイベントで知り合ったのです。彼女のほうから一目惚れだったようです。ふたりとも気に入って、何回かデートして、2か月で結婚しようと決意したとのことでした。
 私はすべてが嬉しかったのです。誰もが嬉しさでいっぱいです。あんなとんでもない息子をもった親御さんたちも、どうしたらいいかわからないほど喜んでいました。
 もう私とケンジの関係はこれでなにもかも対等です。やはり彼が一人身の時には、彼にはどうしても判っていないなというところがあったのですが、もうこれでいろいろなことを心から話していける関係になるでしょう。私は乱暴で、とんでもない先輩でした。これからはもうそんなことのないように、彼と、かれの奥さんと付き合っていきます。またそのうちに皆で会いたいと思います。そこでも彼は、ただウーロン茶を飲み、私たちはひたすら飲んで、彼彼女と愉しい会話をしていくでしょう。

11091906 私が大昔谷中で何度か通っていた「よっとくれ」という飲み屋がありました。11年前に店をたたんで、故郷の愛知県で古本屋をやっています。その彼とは年賀状だけは交わしていました。その彼が毎年この時期になると、谷中の墓地で花見をやっています。ただいつも彼の連絡が遅くて、どうしても参加できませんでしたが、今度は前もって葉書をもらいましたので、2日の午後6時谷中墓地へ向いました。ちょうど団子坂を上っていくときに彼に声をかけられ、それから結局ビールを買いにいったりして、花見になりました。彼との再会は11年ぶりでしょうか。
 参加者は昔の店のお客で20数名です。私も谷中に住んでいる私の飲み友達で、またこの「よっとくれ」の客だった友人を呼びました。それで彼ともまた久し振りだったので、いろいろ懐かしく話だしました。
 7時を過ぎた頃、少し私の座っているところから離れているところの女性が私に呼びかけてきました。なんと私の大学時代の3年下の後輩でした。彼女の夫が「よっとくれ」に来ていた客のようでした。彼女とは17年ぶりくらいの再会です。

 彼女「……あの周さんじゃないですか?…………
 私  「え!……、Kかい

 どうやら隣に彼らしき人、そして後ろに子どもらしき子がいます。しかし、どうもその彼の顔は初対面です。

 私  「……、あの、その、カレはどうした
 彼女「ええ、オトコ変えたから……

 彼女も当然活動家で、これまた私の後輩の活動家と一緒になっていたはずなのです。ちょっとあまりのことで、いろいろききたかったのですが、事情がわからないので、彼女のそばへ行って話すのはすこし躊躇してしまいます。それに私もいろいろと話す相手がいます。そのうち彼女のほうは小さい子どももいるので、帰らなくてはならないようです。私のそばへ来ました。

 彼女「周さん、……ワタシ今、シャンソン歌手なの
 私「え!……、それはまたデタラメな!  随分デタラメな女だな
  あ、でも昔シャンソンなんてやってたっけ

 彼女「いや、やっていないですよ、でも今度14日ソニービルで
  唄うんです

 そこで少し話しました。前の彼とは別れて、今の彼は詩人だそうで、その彼を紹介してくれました。

 彼女「それで、この娘があの前のMの子で、もう高1なの
 娘  「高2です
 私  「へえ、たしかにMに似ているな

 いろいろ娘の話なんかになりました。銀座のソニービルの歌のチケットを送ってくれると言っていました。
 しかし驚きましたね。彼女も驚き、かつ大変に嬉しそうでしたが、私の詩吟を聞いて、「全く昔と同じだ」と思っていたようです。彼女は大学入って来たときから、もうただ元気で、かつ酒飲むとまたやたら歌いだして、途中ですぐひっくりかえるような愉しい娘でした。今もあのように子どもを2人も抱えて、どうみても売れない詩人の夫抱えて、またどうしてかシャンソン歌手やっているだなんて、これはどうみても「これはもうデタラメだな」と思ったものです。私のいう「デタラメ」とは、けなし言葉ではありません。感嘆詞なのです。
 私はただいろいろ懐かしく、二日酔いの頭の中で、ただまたひたすら酒を飲んでしまいました。

11091809 昨年のいつのことか、激辛庵氏と築地で飲もうということになりました。彼の奥さんもあとから来るとのことで、ある焼鳥屋で待ちました。その焼鳥屋は大変に繁盛しているお店です。
 いまのどこのお店とも同じで、働いている店員さんに外国人が多いのです。その中で、色の白い美人の女の子が目にとまりました。どうにもアジア系の顔だちではありません。私と彼とはよく色々な飲み屋でそこの店員に話しかけたりして知り合いになるのですが、どうもこの店員には話かけにくいのです。美人であるのと、なんだか寂しげな感じがします。

 周「おい、あの彼女国籍どこだと思う?」
 激辛庵「うーん、どうも中国系じゃないね」
 周「俺が思うにね、国籍はさておき、あの娘は白系ロシア人だよ、
    きっと…………、あのくらいの歳だと、たぶんひいじいさんが
  1917年の革命で結局は国外へ逃亡することになったんだな」

 そして、さまざま白系ロシア人が赤軍には勝てなかったこと、ロシア社会革命党戦闘団のサビンコフが最後は白軍の指揮をとっていたこともあることなどを話しました。満州には大勢白系ロシア人がいたし、その人たちがまた日本にもたくさんやってきたんだなんて話をしました。そういえば、昔の横綱大鵬にも、山本リンダにもこの血がながれているんだ、なんてあることないこと話しました。そしてそのロシアを失った哀しみがあの娘にも自然に表われるんだなんて話しました。
 ちょうど私たちの前では、色の黒い笑顔の若者が、いろいろと注文をとったりしてくれます。その彼といろいろ話だしました。

 激辛庵「あなたはどこから来ているの?」
 彼「ワタシ、ミャンマーです、日本で勉強しています」
 激辛庵「あの彼女はどこから来ているの、知っているかな?」
 彼「あ、あの娘もミャンマーです、ワタシの友達です」

 ここで、激辛庵さんからどうにも私の話の根拠のなさを指摘されました。彼女は日本語がまだうまく話せないので、すこし緊張してしまいそれが寂しく見えたものなのでしょう。私はさらに、いや白軍が日本軍ほかのシベリア出兵でも敗北して、そこで彼女のひいおじいさんは満州から大連と流れて、日本からさらにはビルマへいったんじゃないかとか言い張りましたが、もう相手にされません。そのうち彼女も来て挨拶してくれましたが、またまた笑顔の素敵な女の子です。どうも私のはこじつけのようでした。
 毎回私と激辛庵さんはこうして、なにかしらいろいろなことを話して、そこのお店の人と知り合いになったりしています。

11091803 いや私は昔から、とくに独身時代下宿していたときから、酒はちゃんと燗つけていました。このごろ自宅では冷やで飲むことが多いのです。昔は酒はかならず燗するもので、しかもちゃんとお銚子をお湯で暖めるものだと思っていました。ときどき後輩と大量に飲むときに、やかんに直接酒をいれるような奴には怒っていました。そして私は燗は「人肌」が好きです。「熱燗」というのは大嫌いです。
 飲み屋でよく、「お酒」と頼むと、「ハイ、熱燗ですね」なんていう返事が返ってきます。私は必ず、「熱燗じゃないよ、ぬる燗にしてくれ」と大声でいいます。本当は「人肌」と「ぬる燗」は明らかに違うのですが、もう「酒」を「冷や」と「熱燗」でしか表現できない店なんか、どうにかいっておかないと何飲まされるかしれません。
 それで直に燗するのはそれで美味しく飲めるようになっている容器が大切です。私は鹿児島の黒じょかで燗して飲むのが好きでした。今もですけど。あれは本来は焼酎を燗するものなのでしょうが、日本酒もいいものなのです。それに燗すればするほど、黒じょかの肌の色がよくなってきます。欠点はあまりたくさんお酒がはいらないことです。
 昔学生の頃はよくこうした冬には、下宿でかすりの着物着て、酒をゆっくり燗して飲んでいました。どうにも社会に出ると、そしてさらに年をとると、家で着物も着ていられないし、酒も冷や酒飲むようになりますね。なんか心が寂しくなります。

2018080604 いやもう先週は飲みました。こんなのでいいのかな。昼はなんだか走り回ってました。なんか記録しておこう。
11月30日に午後6時から、谷中であるイベント会社の社長の仕事の依頼があり、打ち合わせがあり、当然終ったら飲みました。どうしてか、私を気にいってくれている私より10歳上の方です。1軒しこたま飲んで、歌を唄いたいというので、谷中のあるカラオケパブへいったら、物凄い混み方で、もうこれはというので、「双葉」へいきました。この社長とは、この飲み屋で知り合ったのです。当然最初の出会いは喧嘩でした。
  この店はもうみんな知り合いなので、なんだか大騒ぎです。また怖い佐藤さんという墓石屋さんと顔を合わせ、いろいろ話しました。
  この店を出て、その社長さんとは別れたのですが、突如ゴールデン街の「吐夢」のママの顔が見たくなり、向いました。ゴールデン街の入口で流しの平川真作さんと顔を合わせそのまま一緒に「吐夢」へ向いました。そこでしこたま唄って、さらに私のことをよく知っている人たちと色々話して、もう1時ころお店を出ました。みんななんだか私が丸く優しくなったといいます。
  そのあとミッチャンの店へ向いましたら、途中で顔だけ知っているキャッチのおばさんがいます。前にはえらい勢いで大勢のキャッチを指揮していたのですか、この日は一人です。私とミッチャンが仲いいのを憎んでいて、昔から私に悪さします。女の子たち5、6人に囲まれ、もっていたお通夜のお清めをみんなとられてしまったことがあります。でもその日はなんだか可哀想です。「しばらくね」という話から、「コーヒーくらい飲ませてよ」というので、喫茶店にいっていろいろ話しました。もう商売は大変で、大きな子どもを抱えているんで、どうしょうかと悩んでいるとのことです。私はもうなんだか心が動いてしまい、少しはキャッチにひっかかってやるか、という気になって彼女の指定のパブへいきました。客は私ひとり。
  そこで、また詩吟詠ったりしているうちに、勘定が2万円だといいます。「馬鹿いうんじゃない、払うわけないだろう2万円も」と、私は声高にいい放ちます。もうお店のほうがそのうちに、いやになって、もう帰ってくれといいます。当然帰るよということで、でも最後に彼女が「でも1銭も払わないでかえるの」というので、そういえば、これじゃ彼女なんの商売にもならないなと思い、5千円おいてきました。なんだか彼女嬉しかったような顔していました。
  さてミッチャンの店の路地入ると、どうしてか、表参道で宝石屋やっている友人の社長グループと出会いました。渋谷のある飲み屋でバーテンやっていた、役者の青年もいます。その社長は、「おや、なんでまたここで周さんと会うんだ」というのと、詩吟やってくれとの要請があり、また声を上げましたら、ミッチャンが出てきて、私の鞄をとって、「もうまた外で大声だされたら、みんな迷惑よ」といって抱えられてお店にはいりました。その宝石屋の社長とは、また今度の忘年会で会いましょうと別れました。
  それからまたミッチャンと騒いで、別の店いったりして、さすが5時ごろタクシーに乗せられてしまいました。

  12月2日には、西川口のクライアントへいきました。ここはもうどうしてこの不況下にもかかわらず、たいへんな好成績の会社で、しかも税務調査があったばかりでしたが、ほめられただけでした。それでもうまた飲み始めるわけですが、もうここは日本酒のみ、莫大に飲みます。それが午後5じ半ころ終って、西川口駅でまた駅前の立ち飲みに入りました。1本飲むうちに、顔見知りの地回りさんがいないので、もうここから帰りました。  突如、西日暮里の「きゃらめる」いこうと思い、夏のママの誕生日に花贈るのを忘れていたのを思い出し、花のかわりにケーキにしようと、思い浮んだ「しろたえ」というケーキ屋のある赤坂へ向いました。私は西永福町にある「プチフレーズ」というケーキ屋が好きなのですが、あまりに遠いので、赤坂になりました。
  それをもって「きゃらめる」はいったら当然歓迎してくれます。お客さんはあまりいないし、ママと本の話と、映画の話と、私のこと知っているお客とプロレスの話しました。当然歌もたくさん唄いました。ママが映画のビデオと本をかしてくれました。この日はこの店の看板までいて終りです。

  12月3日は午後3時に西荻窪のクライアントいきました。もうしばらくいろいろお話して、当然ビールが出てきます。いろんな提案しながら、5時に帰りました。もう事務所に戻る気もなく、ましてゴールデン街が開くのはまだ早いので、突如中野で天麩羅屋やっている友人の店へいきました。ここでパソコンの話などしながら、けっこう飲んで、また突如谷中へいきたくなり、谷中の「双葉」へいきました。
  またまた顔見知りのみなさんとしこたま飲んで、腹いっぱい唄いました。ここでまた看板までで終りです。
  12月6日は、我が事務所に激辛庵さんがきました。結局飲もうということになり、でも一軒でやめようということで、最初から「きゃらめる」いけば、もうそれ一軒ですむ、そのあとまた新宿とか東中野とか、遠征するのはやめようと固い決意のもと、西日暮里に向いました。昔歌手である激辛庵さんには、「きゃらめる」のママがひさしぶりに会いたがっていたのです。ここでもう激しくのみはじめました。延々といました。1時の看板までいました。途中で、9時半頃、ママの妹さんのひとみさん宛てに、綺麗な花篭が届きました。彼女の誕生日だったのです。当然贈り主はこの私。
  もってきてくれたのは、「プレジール」の三浦さんでした。久し振りに彼女と会ったのでしばし立ち話。彼女は男の子どもさん連れていました。
  さて1時になったのに、固い決意はどこやら、またゴールデン街「オハラ」へ入っていました。そこでまたまた私は「浜ちゃん」という新宿歌舞伎町の飲み屋のおばさんと5年ぶりくらいの再会。彼女と手をとりあって喜びました。
  そこのお店でさまざまなトラブルがあり、けっこう愉しく飲んで、朝5時にさすがでて他の店へいこうかとなりましたが、ゴールデン街は元気なく、私たちの知っているところでやっている店がありません。
  それでまた二人で帰りました。激辛庵さんは、朝9時ころ、遅刻はいけないとばかり会社へ向いました。
  なんでこんなに飲んでいるのだろうと思います。もうきょうは、家に帰ってきても、ずっと仕事やっています。ちょっと急ぎのたいへんな仕事なので、きょうは徹夜になりそうです。
  今週10日(金)11日(土)と凄まじい忘年会が控えています。実は9日も多分浅草で飲むことになりそうです。まったくどうなるでしょうか。

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11091510  18日松戸自主夜間中学を早めに早退しましたのは、唐牛真喜子さんを囲む忘年会があり、私はその幹事でした。でも仕方ないから、2次会から参加しようと考えていたのですが、おもいもかけず全国から大勢の人が集まり、しかも私が司会だなどというので、どうしても早退することになりました。
 それでいろいろ面白かったのですが、とにかく4次会まで終って、結局ゴールデン街を経て、ミッチャンの店に入ったのが19日の午前4時。そこでまた結構な大激論をするという、楽しいことがありました。
 先客に、元気で美形で男っぽい喋り方をするオカマがいまして、どうしてか乃木希典の旅順攻略戦の話になりました。実に2時間半から3時間くらい話していたかな。私は乃木が好きなのです。相手は、どうせ乃木のことを、司馬遼太郎の影響で、そして旧陸軍参謀本部の判断と同じで、評価しないのだろうと思っていました。まあ大体はそうだったのですが、またこのオカマのさまざま詳しいこと詳しいこと、いささか感動の思いがありました。人は当然見かけによらないものですね。でも嬉しくなりました。今度かなり学習してから、彼のお店にいこうかな。司馬遼太郎では話にならないから、どうしようかな。児島壌「日露戦争」は、かなり詳しいとはいっても、あれだけではつまらないですからね。陸軍参謀本部編纂の「日本戦史」だけでも、何故か不満ですね。 なんていいながら、もう本屋でさまざま探してしまいました。もういくつか読んでいます。日露戦争の戦前戦後の、どこらへんで、日本は勘違いしたのかというのが知りたいのです。それにまたあの美形のオカマとも、論争したいし。
 それで、その論争のあと、勿論また彼とは再会を約して別れましたが、どうせ私が土曜で休みというので、また8時ころから、ミッチャンと喫茶店兼飲み屋に行きました。そこは、もう朝のさまざまな新宿人のたまり場なんですね。キャッチのおねえさん方がグループで総括していたり、ヒモが女待っていたり、そしてさらにそれらの女性やオカマに金貸している男がうろうろしていたりして、まさに新宿の縮図です。でもそこの雰囲気は、前に行ったときは妙に暗いのですが、あの日は変に明るいんですね。なんだかそれが、今年のさまざまな情況を象徴しているように思えました。あの明るさはなにか危険です。「アカルサハホロビノ姿デアロウカ」(源実朝の言葉)という感じです。少なくとも、新宿のあの飲み屋街あたりは、かなり変わるでしょうね。それが新宿の飲み屋だけではないのかもしれません。
 今年のおわりに、こんなこと思ったのでした。

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b6a7cff4.jpg 12月6日に、私がいつも行きます、御茶ノ水の理容室プラドで髪を切りました。そのときに、頂きましたお酒が、ここに画像をあげた電光石火というお酒です。初めて知ったお酒でした。たしかに美味しいお酒です。
 でもどこで手に入れればいいのだろう。

 こうして、私の知らない美味しいお酒がたくさん08120606あるのですね。私はもうただただ、自分の知らないことに驚いています。


 

08050102 オノ君から「トラックバック」へ、そのオノ君から、以下のコメントがありました。

1. Posted by オノ君    2008年04月30日 22:05
すみません、詩吟でしたね。
こういうところが僕の適当で、いちばん失礼なところです。

世の中や制度などという範疇で、僕は闘おうという思いはないのですが、それでもこういう立場の事を思っているということは発言していたいなと思っています

死刑ひとつとっても
僕は死刑廃止を唱える気持ちはさらさらないのですが
死刑って「何様」が決めたり、執行できるの?
ということは思っていて
命を大事にしようという事をつぶやいていれば
命を簡単に消してしまう人間も減っていくのではないのかなと
大変甘いことを思っています
僕なりの問題意識です

酒に関しては、割り算してもよく割り切れない
のですか?(公案ですね)

好きなものはしょうがないですよ

 ありがとうございます。
 それで、死刑を決めるのは裁判で、決定されます。裁判官が決めるわけです。それでその執行は、法務大臣が命じます。そして実際の刑の執行は刑務官が行います。ただし、死刑というのは、なかなか法務大臣でもその執行を命じるのは大変な決意のようです。だから、自分の在任中は、その執行をしない大臣もたくさんいます。

 酒に関しては、私は昨日の午後、「あ、一升瓶を3日で飲まないで、4日間で飲めばいいんだ」と、ものすごい真理を見つけたような気でいたのですが、実際には、そう簡単なことではありませんでした。つまりまっさらな一升瓶からの開始ならいいのですが、もう残りが何合かの一升瓶があったわけで、結局昨日も飲み干してしまいまして、その飲んだ量を4倍すれば一升になるのかどうかは皆目判らないわけです。
 いえ、私はこの飲んでいるお酒の感想を書いていきたいのですが、それがなかなかできないでいるのです。なんとしても、自分なりの思いを書いていきたいと考えているのですが、このことが実に大変なことです。銘柄名は同じでも、実に味が違うのですね。
 いや、今後なんとしても書いていきたい実現していきたいところです。

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 3月28日の桜の写真がうまくここに貼れません。それでこうして、また続きで貼ってみます。
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31ee6204.jpg 3月28日午後5時頃、私は日暮里駅を降りて、谷中の墓地に入りました。桜を見るためです。私はここで長年お花見をやってきていたのです。でももう昨年からやらなくなってしまいました。私が極端に酒に弱くなったこともあります。
 それででも、私はこうして3月28日にここを歩きました。どうやら、やる仕事をこの日書留郵便を出すことで、終えたあとのことです。
08032807 日暮里駅を降りて、谷中の墓地に入ると、すぐに桜の樹がいくつも見ることができます。そしてやがて、元五重の塔の跡になります。もうここは何枚ものブルーシートが貼ってあります。でももう5時を過ぎているのに、誰もまだ飲んでいません。
 この五重の塔の跡の前は実に狭いのですが、実際のお花見のときになると、もういっぱいの人になります。08032808もう私は何年やり続けてきたのかなあ。たぶん、20年くらい続けたのじゃないかなあ。
 でもとにかく、今年もこうしてここの桜を見ました。 08032809

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 周の雑読備忘録「枝川公一『バーのある人生』」をきのうほぼ読んでいました。それできのうは八重洲ブックセンターに行ったのですが、その他にも歩いている街で、私の思い出の中のバーを思い浮かべていました。

 でも俺は、東京ステーションホテルの「カメリア」しか知らないものなあ、そもそもカクテルなんて知らないしなあ…………、

なんて思いながら、カメリアでのバーテンダーさんとの会話を思い出していました。
 あの店は昔は日曜日もやっていたので、よく新幹線等で東京駅に着いた日曜日の夜、飲みに入っていたものでした。

 たしか、岡崎へ行った帰りに、あそこで記憶が無くなったんだよなあ、疲れていたからなあ……………………、

なんていううちに、その岡崎からの帰りに、私が入ったのは東京駅丸の内口の、どこかのホテルの「サムライバー」だったことを思い出しました。「ああ、あそこだ。兜や鎧が置いてあったんだっけ…」。それで、私は歩くなか、いろいろな街のバーを思い出していました。
 いつも必ず飲む、「ドライマティニ」を思い出すうちに、「ああ、宇都宮のホテルのドライマティニが美味かったな」、ということで、「あれはなんであそこで飲んでいたんだ」……………「ああ、あそこ(栃木県小山市)で撮影をしていて、最初だから真面目に宇都宮のホテルに泊まったんだ、俺はホテルの部屋に入るなり、吐き出して(前日の酔いで)、そのあとホテルのバーへ行ったんだ」…………………そこで、ドライマティニで感激しました(宇都宮はけっこういいバーがあるようです)。思えば、そこで仕事に来ていたカメラマンは、私の飲み方に感激し、かつ呆れていました。
 でもでも、それは実は1日目のこと。2日目は、もう撮影の仕事の途中で、私は散髪に行き、綺麗になって、その晩は、「今度は私たちの知っている店にいきましょう」というカメラマンの案内で、小山駅そばの「達磨」という店に行きました。これがもう実に感激な店で、今でも私はあの店に行きたいものです。
 そして3日目は、仕事を依頼されていたメーカーの招待で、また別なお店に行きました。そこで、最初の店で、私はクライアントの方から、「課長(私はその頃課長職)、あんまり酒を殺して飲んでは身体に毒ですよ」なんて言われたものでしたが、さすが3軒目で、私が歌い騒いでいるうちに、私がずっと黙って真剣に仕事に取り組んでいるように見えたのは、すべて2日酔い、3日酔い、4日酔いのせいだと判って、彼らは、「もう東京の制作会社のクリエーターというのは、こういうものなんだ(あ、これも誤解、でも行ったみんな全員がのんべしたから。第一私はクリエーターではなく、ただの酔いどれです)」と気がついたようです。
 実はその翌日も撮影で、実に面白かったものでした。

 あ、でもバーということで、私は思い出しました。私がこの「枝川公一『バーのある人生』」に著者が記しているバーで思い出せるのは、湯島の「エスト」です。私はここで、ロンリコという75.5度のラムを飲みます。でもバーテンダーさんは、3杯しか飲ませてくれません(要するに強いから)。でも私は、そこで必ず5杯飲んできました。それはもうごますったり、ごまかしたりいろいろです。
 ある私が使っていた人を、ここでこのロンリコを飲ませましたが、最初はその強烈さに驚いていましたが、そのあとからは、彼はこのロンリコの虜になってしまったようでした。

 JR千葉駅の裏というか、確か京成線の裏あたりに、ケーキ屋があって、その2階に、いいバーがありました。千葉で仕事のあと、いつも日曜日でしたが、ここで飲んでいました。バーテンダーさんが綺麗な女性で、でもでもそのうち私は記憶がなくなり………、でもいいバーだったなあ。

 たしか、市川から松戸まで走っているバスの中頃の駅で、私はあるバーに入っていたことを思い出します。あれはなんであんなところを私は歩いていたのでしょうか。なぜだか、判らないが、私はそこでウィスキーをダブルでストレートで飲むうちに、バーテンダーさんは、私が前にも来たことを思い出しました。でも私はよく覚えていません。

 京都へ行くと、たぶん3軒くらい腹いっぱい飲んだあと、四条河原町の小さなバー「リラ亭」に入ります。私はいつも同じことをぶつぶついい、そしてバーテンダーさんが思い出してくれます。でももう京都のあのお店はないかもしれないなあ。

 思い出せば、いくらでも甦ります。神田のあのバーも私は好きです。行ってもマスターは私を思い出しません。でもちゃんと覚えているんです。あのバーのグラスが好きで、あるところで見つけた私はすぐに半ダース買いました。でも、もう全部割ってしまいました。私はワンカップのグラスで飲んでいるくらいでいいのです。盃でもグラスでもいくつも割ってしまいます。
 でもあのバーは、もう友人が亡くなったあと行きまして、もう悲しくていけません。

 あ、悲しいと言えば、私の親友だった堀雅裕さんも、あちこちバーが好きでした。みんな堀ちゃんのことを詳しく知っています。思い出をいくらでも話してくれます。でも私のほうが悲しくってね。あ、でも(と言いまして、もう何時間も経ちました)………………………………、まずはここまででUPします。

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ace2d480.jpg 昨日は、義母をデイサービスに送り出してから、もうそれこそ実に忙しく動き回りました。
 まず郵便局で簡易書留を出して、図書館で本を3冊借りて、銀行を回って、それから人形町のクライアントへ行きました。この行くときの電車の中で、チェーホフの『可愛い女』を読んでいたのです。
 それで会社で、ある営業の方とお話をしていて、もう3時を過ぎたときに、「私はいかなくちゃいけないところがある」と、あわててその会社を出ました。でも半蔵門線が止っています。私はあわてて日比谷線で急ぎました。あ、まずは 重盛の人形焼 を買いました。これからいく二つの会社へ持っていくためです(私は女性のいる会社には、なるべくお菓子を持っていくのです)。
 それで九段の会社へ行きましたら、その会社のビルに入るときに、そこの社長とすれ違いました。社長は宇都宮へ行くということでした。
 それで会社に入ると、社長の奥さまのほか、私のよく知っているインテリアデザイナーの女性がいました。あ、彼女もいるのなら、これからまた別なお菓子を持っていくようにします。
 それで少しお喋りしました。私が、「どうも男はブログをやらない」というと、そのデザイナーの彼女は、「ブログは女性がやるのに向いているのよ」というので、私もやっているというと、彼女は「だから、萩原先生も女なのよ」というのです。なんだか、私はとても感心しました。「なるほどなあ」。
 それからもう4時を回っているのですが、市ヶ谷のクライアントへ急ぎます。靖国神社の裏を急ぎます。市ヶ谷のクライアントの女性からは、人形町のクランアントにいるときに、午後4時頃には帰られるからという電話をもらっていました。
 その会社の女性2人と、5時2分前に、ある飲み屋に入ります。綺麗にお堀が見下ろせるお店でした。私が飲んだのは、「一の蔵」「上善如水」「梅錦」。私はこのごろは、お酒は3合までにしているのです。
 それから、7時前に、店を出て 古澤良次郎・三上寛「この二人、凶暴につき」の「初台The DOORS」へ急ぎます。でもこのイベントは実にいい会でした。私は詩吟は好きですが、ジャズなんてまったく判りません。でも三上寛さんの歌も古澤さんの演奏も実に素敵でした。実に迫力がありました。このイベントが10時少し前に終わります。
 それから帰るはずなのですが、私はひさしぶりにゴールデン街へ向かいます。ひしょう に入ります。でももう私の飲むはずのストロヴァイアンはありません。しかたないから、アメリカのスミノフを飲みます。しかも度数は40度。でもウォトカも、度数が50度でないと、実に薄く感じられるものですね。あ、今思い出した。ひしょうのカウンターにいた女の子の一人が鹿児島の谷山の出身だって行っていたなあ。
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 きのうの晩、夕食の時、妻に言われました。「あっ、きょうは飲まないの?」。私は答えます。「2週間に一回は断酒するよ」。
 でもでも、妻に私は長女の家にいるポコちゃんのことを聞きました。その前に、妻は長女おはぎの部屋に行っていたのです。
 もうママのまわりにまとわりついて大変なようです。もうつかまり立ちできるから、台所でガス台のところなんかだと実に心配です。
 私は長女の部屋には入れてもらえません。長女とポコちゃんが、ここへ来るときに会えるだけです。だから、ものすごく寂しいのです。
 もう私は少しでも飲んでからは、長女の部屋へはいきません。それに、そんなことをしていると、ポコちゃんにいつか嫌われてしまいます。

 きのうの夕食は、実にいい酒の肴がたくさんあったのですが(いい酒の肴というのは、またいいご飯のおかずである)、もう「とにかく、きょうは断酒」と決めたので、それは貫徹します。
 しかし、酒を飲まないと、なんだか眠くなって(考えてみれば24日は午前3時半に起きたんだなあ)、午後9時30分には蒲団に入りました(でもそのあとは、寝ながら本を読んでいましたが)。

 でも、こうして孫のポコちゃんと会えるために、そして自分の健康のために、2週間に1日の断酒はいいこと、正しいことですね。
 いや、この「2週間に1日の断酒」というのは、実に私には難しいことなのです。私は長年飲んできまして、飲み屋で飲むのも好きですが、いい日本酒も知ってきたつもりです。そのいい日本酒をいつも手に入れられるので、それを断つというのは、実に大変な思いなのです。
 でもでも、間違いなく、ポコちゃんの少しでもいいじじになるために、この「2週間に1日の断酒」は貫徹していきます。

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 長女家族と飛鳥山のふるさと北区区民まつりへ行きましたナミちゃんが以下のコメントをくれました。

1. Posted by なみんと    2007年10月07日 08:37
周さん!おはようございます。
おはぎさん家族とご一緒に王子のお祭りにいかれたのですね。ぽこちゃんもこれから・・あちこちお出かけ出来るようになり楽しみですね。ところで・・榎そば・・って何ですか。画像でみると、とても美味しそう!!ですね。

 私は、蕎麦屋で飲む酒 に書きましたが、蕎麦屋で飲んでいるのが好きです。そして神田の二つの蕎麦屋だけでなく、あちこちの蕎麦屋で飲んでいます。私の友人にも蕎麦屋でよく飲むデザイナーがいまして、彼はよく「神田まつや」で飲んでいましたね。彼とは、昼1時すぐに、よく神保町のランチョンでよく飲んでいました。彼も仕事先のクライアントがこのそばの小川町にあるのです。
 それで、そこの用事が終わる頃私の事務所に電話をかけてきて、ランチョンで会います。ランチョンも昼の12時代はいっぱいの人ですが、午後1時代になると、少しすいてきます。そこで、私と彼は生ビールを飲み始めます。そこでジョッキを3、4杯開けると、もう「どうしようか」ということになり、そばのバーの「ラドリオ」あたりへ行けば(また何故か午後まだ早いのに酔いどれているゴールデン街でときどき会う編集者にあったりしたものでした。あの人はもう死んだかなあ)、いいのですが、何故かもっと飲みたくなると、赤坂永田町にあった蕎麦屋へ行きまして、そこで本格的に飲み始めたものでした。ここも実にいい蕎麦屋でした。夕方になると、TBSの方がおいでになったりしていたものでした。そこでもいい気持になると、そのあとはゴールデン街あたりに行くことになります。
 でも、この永田町の蕎麦屋さんは、いつもいっぱいのお客さんでしたが、ご主人(雇われの方でした)は田舎に帰ったと聞いています。
 榎そばはね、写真で3つの盛があるでしょう。あれは、狐と漁師と旦那をあらわしています。三すくみの状態で、その狐拳をあらわしているのです。これは昨日、酒を独り飲んで、デジカメで撮って、「この写真を私のブログに載せていいですか?」と聞いた私に、ご主人が解説してくれたものです。
 また私は飲みに行きまして(あ、そうじゃない、蕎麦を食べにいくんだ)、そのうちに、ここでこのお店を紹介します。
 私はね、蕎麦屋は、浅草でも上野でも人形町でも三ノ輪でも、入ってお酒を飲んできましたが、どうも私が入って落ち着いて飲めるのは「神田藪蕎麦」と「神田まつや」なのです。
 また他にも歩いて訪ねてみてみます。

 私はね、実はある街の蕎麦屋さんで、悪い大家と、その手先の悪い不動産屋と、悪い弁護士の悪質な地上げと戦って、ほぼ勝利したことがあるのですが、そのお店で飲んでいると、店主とその奥さまに、「やっぱり周さんみたいな人が飲んでいると、店は嫌なんだろうなあ」といわれちゃうんですね。私はただただ飲んでいるだけですからね。

 でもこの榎そばもまた紹介できるように、何度か行ってみます。

 あ。それから私は随分前に書いていたのですが、次も読んでみてください。

   http://shomon.net/sake/yoma2.htm#950520 蕎麦屋で酒を飲む
   http://shomon.net/sake/yoma2.htm#950521 続「蕎麦屋で酒を飲む」

 やっぱり蕎麦屋で飲むのはいいねえ。

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 あ、ちょっとつけたします。
 私が以下に

     周の雑読備忘録「日本の名随筆別巻4 酒場」

 次のように書きました。

  ようするにサ、私なんかと替わらない酔っぱらいじゃないですか。

 でもこれは吉田健一を貶しているわけではありません。私はなんとなく嫌いな方だったのですが(いくつかの本を読んでね)、でも数多くの、お酒に関して書いている文を読んで、大好きな方になったのです。
 いえ、実はこの方は、私の埼玉大学でも教えていましてね、それで、そのときの発言を聞いていまして、どうしても好きになれなかったのですが、そしてそれは彼の本を読んでもそうでした。でも、彼がお酒に関するエピソードをいくつも書かれていて、それを読んだときに、私はもう心の中がとろけるように、その文章にのめり込んでいったものなのです。
 私は今でも、彼の霊がニューヨークのどこかのバーで、延々と飲んでいる風景が見えるような思いになるのです。

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 二つのUPに続けて、昨日はそのあと靖国神社のそばのクライアントから、私がいつもいく理髪店に行きました。そのときにもタクシーの運転手さんとお話しました。また最初は街路樹の銀杏のお話でした。でもそんなに長い時間じゃないので、あまり話せなかったなあ。
 そういえば、昨日は南北線の市ヶ谷駅から靖国神社そばの会社へいくのに、靖国神社をぬけました。遊就館って大きいのですね。
 それから法政大学を横目に見たのもひさしぶりでした。たしか1968年に来たものでしたね。それから今思い出せば、1972年の法政祭にも来ていたな。埼大のむつめ祭とはあまりに違う雰囲気なので、驚いたものでした。
 それから理髪店に行きまして、私の今住んでいる王子が、「どうして、あんなに床屋が多いのか?」なんて話をしました。
 あ、今思い出しました。そこで何かの券をもらって、ガラガラやったら、ストローをもらったのだ。普段なら、どこかで誰かにあげちゃうのですが、「あ、もうすぐ孫が生まれるんだ、これは喜ぶぞ」と手に持って、しばらくしてなくしてはいけないと鞄に入れました。
 でも今になって気がついているのです。いいわけすると、パソコン等々をいれるところと別なところだったからなのです(でもそれで、また鞄の他の箇所も見ましたら、また別なものが出てきました。少々驚くよなあ)。
 それで床屋さんが、年内にもう一度こないとだめだというのですが、どうしようかなあ。

 そしてそのあと、私は谷中の浅野で飲んでいたのですた。また思い出したのですが、私のとなりに着物姿の綺麗なひとがいたなあ。あ、それから外人の女性(たしかメキシコ人だったかな。でも思えばどうみても白人だったなあ)も来たなあ。とにかく、「これで終りね」(私はビール一本とお酒4本しか飲めません)と言われて帰ったのです。
 あ、また思い出した。マスターと映画の話をしていましたね。キムタクの「武士の一分」(山田洋次監督)がとてもいいそうです。私も必ず見ないとなりませんね。
 でも今こうしてブログを書いたから、とてもいくつものことを思い出しています。
 思い出せば、私は酒の席でたくさんのことをお喋りしているんだなあ

 これから外出して、いくつものことをやります。秋葉原歩いて、本屋行って、それから夕方プロジェクト猪の忘年会に出ます。
 来週は浦和会です。
 もう、とにかく量は飲まないことを誓う私です。

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「丈夫なわけ」に私は次のように書きました。

 ア、そうだ、お酒で思い出した。先日怖ろしいことがありました。私の長女のしうちです。でも私がおかしいのだという意見もあるかもしれません。

 でもこれは、私の長女おはぎは正しいのかもしれません。私がひどいという意見もあちこちではあるようです。

 私は16日に蛎殻町で飲んでいました。生ビールジョッキ1杯、そのあとお酒が2合とっくり2本です。でももうそれ以上は飲まない決意で、私は地下鉄日比谷線に乗り、秋葉原で京浜東北線に乗り換えます。御徒町あたりからケータイメールの交換を妻とします。長女おはぎが来ているといいます。あ、嬉しいな、でも酒飲んだのバレるとまずいな。
 それで私は家に入ると、すぐに自分の部屋に入って、部屋にある一升ビン(これがまたいいお酒なんです。その銘柄のことはまた書きます)をコップにつぎました。
 私としては、飲んでいたことがバレると、おはぎに怒られちゃうから、すぐに酒を口に入れちゃえば、もう私の酔いは今飲み始めた酒の為だと、妻も長女も信じてくれると思っていたのです。
 でもおはぎは怒って、「もう飲んでいるじゃないの(匂いで分るのかなあ?)。飲んじゃ駄目!」といいます。でも私は「でもじゃ、このコップの酒はもう戻せないから飲んじゃうよ」というと、おはぎはまた怒って、コップにサランラップをかけて冷蔵庫にしまいました。
 かくして、私のこの殊勝な気持は受け入れられず、お酒はそのまま冷蔵庫に眠りました(もちろん、翌日飲んだけれど)。

 しかし、お酒を飲んだことはごまかないんだね。いつもこういうことが私の苦労です。

 このさらに続き

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 私の ドコモPR用「SNS」 10日で「炎上」というニュース旅人moo00の冒険人生 さんからコメントをいただきました。

1. Posted by moo00    2006年07月24日 21:57
>そしてやっぱり直接会うことが一番大切なことでした。

 ああ、これは僕もずっと前から思っていたし、今でもそれをしたいなと思っています。

 例えば周さんだと、以前は色々な酒場でお酒を飲んでいらしたようですし、もしかしてどこかですれ違ってる可能性も全くないとは言い切れないんですよね。
 なのにずっと会わずにネットで会話というのもなんか変というか、寂しいなと思っていました。
 だからといって中々お会いする機会を作るというのも難しいんですよね。
 私も今はお酒を全く飲んでいないし。

 でもいつか周さんとお会いしたいなあと思っています。
 それが実現するかどうかというより、そういう気持ちでいつもブログを拝見しています。

 いつかお酒を飲みましょうね。

 どうもありがとうございます。うん、もう外ではあまり飲まないね。いえ、家ではもう缶ビール一つだけです。

   ただし昨夜は千駄木の 浅野 で飲みました。きのうは、イギリス人の家族が全部で6人で来ていましたね。今あのお店は、けっこう外人さんがおいでになるのですよ。
 私がマスターの自宅のパソコンのインターネット設定をしたので、その後どうなのかな、と気になっていたのです。あの店も、今はけっこうインターネットでの情報で来られるかたが増えましたね。私のホームページの紹介記事を見てこられる方もいるようです。
 まったくの始めての方のときに、「どうしてうちにこられたのですか?」と聞きますと、インターネットでの情報だということで、そうなると私のホームページ内ということになります。

 でも私はもう飲むのは1軒で終わりになります。つい1カ月前に、昔のように3軒飲みましたが、もうまったく私は駄目でしたね。
 まあ、飲むことよりも、いろいろな方と愉しくお喋りしたいものです。そのことをいつも考えています。

 きのう浅野に来ていたイギリス人の方が家族で来ていましたが、私も来月夏休みに家族5人で湯西川温泉に行く話を店のお二人にしていました。
 湯西川温泉は、私は大昔に温泉新聞の集金で行った記憶しかないのですね。前日夜遅く鬼怒川温泉に泊りまして(泊まったと言っても、宿泊費は新聞の広告費と相殺で泊まります)、翌朝から鬼怒川温泉を集金して周り、それから、この湯西川温泉と川俣温泉を周り、夕方日光湯元温泉に必死に着いたものでした。もちろん、翌日も集金旅行が続きます。
 でもあのときとは違うから、今度は愉しくゆっくり行きたいです。今回は娘たち二人だけでなく、長女の彼も一緒ですから愉しみです。家族4人ですと、わいわいと愉しいのですが、温泉に入るときに寂しくなります。温泉の前までは4人で行きますが、温泉には、私以外の家族3人は一緒に入りますが、私は男独りで寂しくなります。
 でも今年からは、彼と二人で温泉に入れます。これがとても嬉しいです。とても愉しみです。
 あと、それから私は「日光江戸村」にも行こうと言っています。私はあのばかばかしいようなところが大好きなんです。私はディズニーランドは嫌いですが、日光江戸村は好きなのですね。

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断酒します に書きました決意のまま、4日からずっと一滴のお酒も飲んでいません。きょうで13日です。思えば、31歳のときに90日ばかり断酒したとき以来、はじめてのことです。
今年4月からは、酒を飲まない日もときどきありました(これもいわば、驚くべき事態だったのですが)。それが今は13日間断酒貫徹です。
とにかくまずこの断酒を100は貫徹します。

しかし、私あてに美味しいお酒を1升くれた女性がいます。今朝私の妻がいいました。妻の会社に昨日来まして、そのことが私に判りました。それがまたいいお酒なのです。私は実に酒が(すなわち日本酒が)一番好きですから、その銘柄を聞きまして、ものすごく飲まない私がものすごく残念です。とても悔しいです。彼女は、よく私が好きなお酒をわざわざ選んで買ってくれたのですね。でもでも、100日は飲めないな。100日貫徹したら、また100日続けるだろうから、もうそのお酒は私の口には入らないな(いや、できたら美味しいお酒ですから今飲まないといけないお酒なんですけれどね)。
それと、きょう帰宅しましたら、玄関にある会社の女性からのエビスビールがたくさんありました。私はビールなら何でも区別ないようなことを常々言っていますが、でもでも実はエビスビールが好きなのです。でもでも、贈ってもらいました気持は大変に感謝しますが、これは誰かにすべてあげます。
仕方ないよな、もう私は断酒したのです。100日断酒するのです。100日貫徹できたら、また100日続けるのです。

でもでも思いますが、私はやはり酒が好きなのですね。今の私の心を、本当にそう思います。でもでもでも、とにかく私は断酒100日を貫徹します。

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 私の 本日の治療 へのコメントをありがとうございます。
 
 先日もメールしましたが、お体は本当に大丈夫ですか? かなり心配です。
 
 ええとね、精密検査の数値は昨日出たのですが、要するに、肝臓が問題だけのことのようです。コレステロールと中性脂肪の数値がかなり高いのですね。たしか20代後半にもこれが高いという診断を見たものでしたが、今はそれ以上の数値なんでしょう。
 ただ、それより、こんなことになった精神的な気持の負担のほうが大きいですね。思えば、ただただ酒を飲んできた年月でした。私は「休肝日」なんて考えは一切なかったですからね。
 でも今は、特に酒を飲みたいという気持がないですから、全然飲んでいません。全く酒を飲まないで、きょうは3日目です。これは私がたしか30歳のときに100日くらい酒を飲まなかったときから、実に26,7年ぶりのことです。
 
 また一緒に飲みたいですが、その前に体調を元に戻しておいてくださいね。
 
 体調は、たぶん精神的なものが大きいだろうから、どうなのでしょうかね。でもとにかく、またどこかで飲もうよ。いろんなことを思うんですね。いろんなことを喋ってみたいのですね。
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 ええとコメント欄にコメントすると、なんだかどこにあるのか判らなく成りますので、こうして新しく書きます。
 この頃、あなたのブログの書込みがないので、寂しいです。それで
 
なんか先程、自分のところにコメント入れてしまって消せないでいます。
 
ということなのですが、 オトメ☆コイチ のどこにあるのかなあ。たぶん、うまくできたのでしょうね。
 
おからの作り方を教えてもらった料理好きの友人からお褒めの言葉を頂きました。周さんにも味見してほしかったなあ。私は作る事も好きだし、食べに行く事も大好きです。絶対にビックリすると思います。ついこの間、友人と焼肉を食べに行ったのですが家では全然お肉は食べないのに8人前のお肉を2人でペロリたいらげてしまいました。ちょう恐るべしわたくしめです。又一緒に人形町でお食事しましょうね。
(これは「近所に住んでいたらなあ」のコメントです)
 
 人形町は最初、「いい飲み屋がないなあ」なんて思いの中で(ようするによく探さなかっただけ)、同じ店ばかりで飲んでいました(要するにアサちゃんとばかり飲んでいた頃)。でもその後 まっくまっく の彼女が入社してきて、彼女とはあちこち愉しく飲んできました。人形町で実にたくさんのお店を知りましたよ。人形町って、いいところです。私の大好きな街です。昨年末の 2004/12/28(火) 人形町の人形町通り の光景なんか、私は実に人形町が好きですよ。
 焼肉はね、美味しいお店だと愉しいですね。随分前になりますが、池上線の洗足池で、よく行きます(1年間に10度くらいかな)焼き肉屋さんがありました。1年くらい前に一人で行きましたら、やっていなくて、下の店(焼き肉屋さんは2階で、1階はご両親のやっている飲み屋さん)で聞きましたら、ご旅行中ということでした。海外旅行の好きなマスターでした。あそこで飲んでいたとき、「焼肉って魅力的なものなんだな」と判った気がしています。ただ、焼き肉屋って、独りで行く店ではないのですね。
 
 現在私は妻が作ってくれた食事は美味しいと食べられるのですが、外では味が判らないのですよ。だから、下手するとまた酒ばかり飲んでしまいます、そして前ほど酒に強くないので、すぐに酔いつぶれてしまいます。もう少し経ったら大丈夫だと思いますので、人形町で飲もうね。
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 昨日は深刻な事態でした。私は29日、「新宿憲法村」で飲みすぎまして、それでもまた次にゴールデン街で飲みまして、30日は朝から仕事で必死になっていました。午後川口のクライアントへいきまして、それで事務所に戻りました。この行き帰りの電車の中では みんなのブログVol.3 を読んでいました。
 ところが事務所に帰ってきて、 酒飲んで反省する事態とはどうしたことだ のUPをしたのですが、そこで、いつもなら簡単にできるはずのことが、なかなか簡単にできません。私はいつも、この「ハイクブログ」の画像に 周のハイクブログ過去LOG をリンクするようにしています。そしてそれはHTML画面でやるのです。でも、それが何故かこのときの私には簡単にできないのです。何度もやり直しました。これは私の身体に間違いなく昨日の泡盛が残っているのです。
 私はかなり酒を飲む人間ですが、その酒のおかげで、こうした作業ができなくなるというのは、初めてのことです。時間がかかり、かなりイライラしましたが、どうやらでき上がりました。でも本来は、こんなに時間のかかることではあり得ないはずです。結局ずっと私の身体は強烈に酔っていたのです。前なら、「こんなに酔いの続くのはいいことじゃないか」なんて思うところですが、これはまずいです。羞しいです。
 ちょっとかなり反省します。酒飲んで反省するのは嫌なことであり、絶対にしたくなかったのですが、こうして、このブログやホームページがまともに更新できないのは、実に実に羞しいことです。もう泡盛「どなん」は止めます。別な泡盛にします。第一、まともにホームページもブログも更新できないのなら、酒を飲む資格は私にはありません。
 思えば、一昨日の 新宿憲法村 での 三上治さん は、酒は飲まれるけれど、ちゃんとしていますしね、 宮崎学さん は、酒飲まれないしなあ。
 今後は前と同じようには飲むのを止めます。酒は50度までのものにします。酒飲んだことで、ちゃんとホームページが更新できないのは実に羞しいことです。
 そういえば、「新宿憲法村」ではたくさんの知り合いに会いました。もっといろいろとお話したかったなあ。
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 「脈絡ねえもんな」で終るコピーは、私は「そりゃそうだよな、でも全部俺は覚えているよ」と思っていましたが、どうも我が家族は違うようです。私は苦し紛れに「でもあれはギバちゃんだろう!」というのですが、そして、これは間違いないはずないはずなのですが、違う思い、違う人もいるようです。
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 このブログのサイドバーに、 酒飲んでいます(日本酒換算) というのを、昨日開設しました。 これは、私は毎年正月に「今年は酒を控えよう」などという決意をしたことはただの一度もないのですが、さすが、近年ひどいことが続き(一昨年の暮、つまり約1年前なので、飲み屋の2階から墜ちて足を怪我した。その他いろいろ)、それで、今年神田明神に行きまして、将門さまの前で、「今年は酒飲みより、もっと夢中になることを見つけます」なんて、決意表明することで、このブログに出会いました。
 そして、この 周の酒飲んでいます で、毎日飲んだ量を記録していきます。日本酒1合を基本として、ビール本は酒一合と同じです。そうすると、ウォトカのストロヴァイアンをボトル3分の2空けたら、どうしようかな(私はゴール街ですと、1軒で、それだけボトルを空けます)。だから次には、またボトルを入れます。それが2軒あります。まあ、日本酒換算7合くらいかな。
 そんな感じで記録していきます。
 そっして、驚くことに、昨日は全然飲みませんでした。今年始めてです。いや昨年からみても、画期的です。
 
 写真は6日に、みなとみらい線の、元町・中華街の港の見える丘方面の出口を降りたばかりのときの風景です。私は昔は見なかった風景ですね。いい天気でした。私はまた行きたいな。誰か美女と行きたいな。いや、いなかったら、妻と子どもたちとでも行きたいな。いえ、妻は美女ではないのですが、あの横浜の街の風景を見せたいな。いえね、私は妻はどうみても、幸せ薄い妻と見られがちなのですが、私はけっこう感謝しているのですよ。またこのことも書こうかな。
 書くことがたくさんあります。

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 本日から、このプログを正式オープンとしました。
 それで今までのF2Cの「周の発言は、しばらくそのままに置いておきます。それから「周の発言過去LOG」も膨大にあるのですが、それもそのまま置いておきます。
 それと、こうしてプログになりますと、このページの名称も「発言」ではなく、むしろ「日記」のほうが向いているのですが、もし変更すると、私のホームページ内をすべて換えないとなりません。それは実にやっかいな作業です。「ナビゲータバー」を変更するだけで大変です。
 それと、このプログ版は、今までと同じように毎日写真をUPします。ですから、きょうも写真をUPするのですが、上のように電気ブランのボトルの写真になってしまいました。これはたしか先日神谷バーで飲んだあと、自宅で気がつくと、私の鞄の中にこれが入っていました。一緒に飲んだ友人のNさんが入れてくれたものでしょう。
 このところ、自宅のビールがなくなり(私はケース買いなので、なくなると、また休みの日に酒屋さんにもって来てもらうまでビールがなくなります)、日本酒は全然なく(すべて飲んだ)、焼酎(なぜかときどき、「周さんは焼酎が好きだろう」と思い込んだ人が焼酎をくれます)もすべて飲んでしまったので、これを飲み始めました。
  それから、背景は私の自宅の私のパソコンです。画面はこのプログが写っています。
 まずはとにかくプログの正式開始です。
 これからたくさんの友人たちに、このプログでのホームページの開設を勧めていきます。

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