将門Webマガジン

2016年08月02日

私は下着は越中褌です

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 私、周は下着は赤色の越中褌です。中学生の時からです。小学生はパンツでしたが、中学生からは、褌をしています。下着ですから、白色のを履いていました。
 学生運動で安田講堂から逮捕され、大田区東調布署に拘留されたときは、長い下着は首をくくれるというので、留置場ではパンツは履きませんでした(そもそもないのだから)。女の先輩が褌を差し入れしようとしたのですが、ダメだったとあとで(8カ月以上たってから)聴きました。
府中刑務所ではよかったのです。
 でも今のように赤ふんにしたのは30歳をすぎてからです。インターネットで買って取り寄せられるのです。そしてずっとやっています。これだけです。
 この将門Webでも右側にリンクしてあります。私がいつも購入するところです。
 昔「柏市民ネット」で柏祭りが終了したあと(もちろん翌日もやります)柏駅前の飲み屋で打ち上げをやったのですが、他のグル−プでやたらに白い褌を露出する若者(30代後半だったろう)が一人いました。私は全く気にならなかったのですが、私のグループで「周さん、あいつを黙らせようよ。赤フンを見せて!」といいます。
 それで私はその店のそこの全グールプ(6組くらいいました)に一つ一つに断りまして、披露しました。もうそのあとは、そのシロ褌男はおとなしくなりました。
 このときは、私が赤褌を見せたら、店が文句を言いだしました。「私らは、いいけれど他のお客さんもいるのだから………」。そこで私は大声で、「私はここにいるみなさんにお断りしましたよね?」。そこで大きく全員の拍手がわきました。
 そこにいる全員(もちろん女性もいました)は、白褌グループ含めて、みんなただにぎやかにお喋りしたいだけなのです。下着なんか、やたらに見せるものではないのです。2016080216
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2012年03月01日

将門Webマガジン第28号発刊(2001.02.27)

12022804 昨日午前10時台に「将門Webマガジン第28号」を発刊しました。267部の配信でした。なんだか仕事もいろいろと迫っていまして、かつ自宅でやることもたくさんあって、この号の編集発刊は大変な思いでした。(02月27日 23時49分)


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2012年02月29日

将門Webマガジン第27号発刊(2001.02.20)

12022604 昨日午前10時台に将門Webマガジン第27号を発刊しました。258部の配信です。どうやら、購読数が少し増加しました。今回のマガジンは量的に多いです。(02月20日 08時14分)

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2012年02月11日

将門Webマガジン第19号発刊(2000.12.25)

12020813 本日7時台に配信しました。233部の配信です。

「編集後記」に

  第20号は2000年元旦の発刊予定です。ただし「Pubzine」
  のサービスで購読されている方は、12月25日から1月4日ま
  で、配信サービスがお休みになるために、1月5日にこの19号
  と20号を配信いたします。

と書いたのですが、何故か配信されているようです、。「サービス休止」となっているんですが、本日はまだ違うのかな。(12月25日 08時56分)



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2012年01月25日

将門Webマガジン第10号発刊(2000.10.23)

12012311 本日朝4時代に発信しました。今回は151部の購読数です。今回は、とくに21、22日に製作しましたパソコンのことを書いております。
 今回は、このパソコン自作で、22日も事務所に遅くまでいましたもので、このマガジンを作成するのを23日になってからやりだしたものですから、けっこうきつかったです。
 でもどうやら10号まで発刊できました。嬉しいです。(10月23日 23時52分)


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2011年10月30日

柏祭りが終わって(1999.07.27火)

11102902 柏祭りが終わって、会場で使ったマシンが私の自宅にきょう帰って来ました。ところが何故か立ち上がらないのです。なにしろ祭りの会場で、夕方午後7時ころからは頻繁に電源が落ちてしまい、それが原因でおかしくなってのでしょう。あの祭りの環境では、とくに夕方になり電灯をつけ出すと、電源が極端に不安定になるようです。購入した無停電装置は何にもならなかった(たぶん、もっと高価なものを買えばいいのかもしれない)。
 もうそれで、Windows98を再インストールして、どうやら今に至りました。だから昨日はホームページの更新ができませんでした。祭りの現場でもホームページの更新はできていたのに、昨日更新できなかったのはちょっと悔しい。
 それにしても柏祭りは疲れました。何しろ私は徹夜あけで、そのまま24日には2時半に寝て、4時に起きて、結局そのまま祭りに向かうということをやったから、身体にはいいわけはないのかもしれません。そしてよく飲みました。24日の打ち上げもよく飲んだし、25日の打ち上げも、結局は1時半まで飲んでいましたね。もう今月はお酒は控えましょう。もう仕事だ、仕事だ。(1999/07/27 0:52:58)


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2011年10月13日

早くじゅにとブルータスの顔が見たい

11101301  今京葉線の東京駅です。東京北社会保険病院からの帰りのバスの中で3つのメールを受けとりました。私のブルータスのメールにいい内容でもあったのですが、涙を浮かべていました。
  このあと、赤羽駅の京浜東北線のホームと東京駅のホームも涙を浮かべていた私がいました。
  千葉県こども病院でブルータスの前で、じゅにの顔を見ながら、話したい思いです。だから、こんなに遅くなっても行くのです。
  もう電車の中では涙を見せません。 今は新浦安です。早くじゅにとブルータスの顔が見たいです。


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2011年09月13日

過去の「将門Webマガジンのお便り紹介」のログ記録

11091109 将門Webマガジンでときどき掲載してきました「お便り紹介」を掲載しているページです。
 はじめの日付が、私がUPした日付で、(2005.05.07)などというものが、それのもともとのメルマガの発行した日付です。

2011.06.28  第1回「Webマガジン37号いただきました」(2001.05.07)
2011.06.29  第2回「中国の詩人を教えてください」(2001.05.14)
2011.06.30  第3回「桜木伝説について」(2001.05.21)
2011.07.01  第4回「増資のやり方で」(2001.06.18)
2011.07.02  第5回「高麗の詩人 李崇仁」(2001.06.25)
2011.07.03  第6回「Re: 将門Webマガジン第40号」(2001.07.02)
2011.07.04  第7回「ワルシャワ労働歌」(2001.07.09)
2011.07.05  第8回「今日は映画館」(2001.07.09)
2011.07.06  第9回「水に落ちた犬を撃て」(2001.07.16)
2011.07.07  第10回「三木成夫の会メール」(2001.08.06)
2011.07.08  第11回「知人が逮捕されて」(2001.08.13)
2011.07.09  第12回「よくいただくメール」(2001.09.03)
2011.07.10  第13回「ちょっと困るメール」(2001.09.10)
2011.07.11  第14回「ちょっと困るメール」の例(2001.10.22)
2011.07.12  第15回「不快なメール」(2001.10.29)
2011.07.13  第16回「嬉しいメール」(2001.11.05)
2011.07.14  第17回「大谷美和子さんからのメール」(2001.11.12)
2011.07.15  第18回「添付ファイル付きメール」(2001.11.19)
2011.07.16  第19回「匿名での依頼メール」(2001.12.03)
2011.07.17  第20回「このごろ難しい質問・依頼のメール」(2002.01.28)
2011.07.18  第21回「伝説のヤクザボンノ知ってます?」(2002.02.18)
2011.07.19  第22回「女優デボラ・ウィンガー」(2002.02.25)
2011.07.20  第23回「将門Webの画面」(2002.04.15)
2011.07.21  第24回「また身近な死」(2002.04.22)
2011.07.22  第25回「またおかしなメール」(2002.05.06)
2011.07.23  第27回「ホームページの感想」(2002.08.19)
2011.07.24  第28回「三上治の文章について」(2002.09.16)
2011.07.25  第29回「五郎丸のこと」(2002.10.14)
2011.07.26  第30回「『星落秋風五丈原』の読み方を教えてください」(2003.01.06)
2011.07.27  第31回「長女からのメール」(2003.02.03)
2011.07.28  第32回「マーケティングアドバイザーからのメール」(2003.05.05)
2011.07.29  第33回「歴史のことで」(2003.09.22)
2011.07.30  第34回「吉本隆明における疎外から言葉へ」(2003.10.06)
2011.07.31  第35回「京阪神殺しの軍団」(2003.10.13)
2011.08.01  第36回「シモーヌ・ヴェイユ」(2003.10.27)
2011.08.02  第37回「吉本隆明がいっぱいの」(2003.11.03)
2011.08.03  第38回「革命的左翼という擬制」(2003.11.10)
2011.08.04  第39回「百人隊長」(2003.11.17)
2011.08.05  第40回「桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』」(2003.11.24)
2011.08.06  第41回「橋爪大三郎『永遠の吉本隆明』」(2003.12.01)
2011.08.07  第42回「自分のメールアドレスが使われている」(2004.02.16)
2011.08.08  第43回「スパムメールのことで」(2004.02.23)
2011.08.09  第44回「MoneyLook」(2004.04.12)
2011.08.10  第45回「お花見はとっても楽しかったです」(2004.04.19)
2011.08.11  第46回「TV番組について」(2004.05.10)
2011.08.12  第47回「佐世保事件について」(2004.06.14)
2011.08.13  第48回「五丈原の詩」(2004.06.28)
2011.08.14  第49回「五丈原の詩 の2」(2004.07.05)
2011.08.15  第50回「騎馬軍団のことで」(2004.07.12)
2011.08.16  第51回「疑問いろいろ」(2004.07.19)
2011.08.17  第52回「偶然が二つありました」(2004.07.29)
2011.08.18  第53回「手紙」(2004.08.02)
2011.08.19  第54回「漢詩の中で」(2004.08.02)
2011.08.20  第55回「漢詩の中で の2」(2004.08.09)
2011.08.21  第56回「中防某と自作パソコンのこと」(2004.08.16)
2011.08.22  第57回「手紙の重さ」(2004.08.23)
2011.08.23  第58回「大丈夫でしたか」(2004.08.30)
2011.08.24  第59回「温泉新聞社って?」(2004.09.06)
2011.08.25  第60回「府中の麦シャリ」(2004.09.13)
2011.08.26  第61回「谷中の不思議な人」(2004.09.20)
2011.08.27  第62回「司馬遷の史記」(2004.10.04)
2011.08.28  第63回「司馬遷の史記 の2」(2004.10.04)
2011.08.29  第64回「卑弥呼」(2004.10.11)
2011.08.30  第65回「卑弥呼 の2」(2004.10.18)
2011.08.31  第66回「日本にもともと文字があったという?」(2004.10.25)
2011.09.01  第67回「携帯メール」(2004.11.01)
2011.09.02  第68回「台風の思い出」(2004.11.08)
2011.09.03  第69回「青玉獅子香炉」(2004.11.15)
2011.09.04  第70回「台風のことで」(2004.11.22)
2011.09.05  第71回「神様、あのね」(2004.11.30)
2011.09.06  第72回「漢文のこと」(2004.12.06)
2011.09.07  第73回「酒は飲んでも、飲まれよう」(2004.12.20)
2011.09.08  第74回「左−極左−転向−そして」(2005.01.03)
2011.09.09  第75回「クリスマスプレゼント」(2005.01.17)
2011.09.10  第76回「初夢見ましたか?」(2005.01.24)
2011.09.11  第77回「『悪人正機』『源実朝』『源氏物語論』」(2005.01.31)
2011.09.12  第78回「大学の同級生からのメール」(2005.01.31)
2011.09.13  第79回「大学の同級生からのメール その2」(2005.02.07)



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2011年09月12日

第79回「大学の同級生からのメール その2」

11091103   Saturday, January 22, 2005 6:35 PM
熱いメールに感謝
萩原周二さん   Aです。
熱いメールをありがとうございました。

 北浦和から下大久保行きのバスには、残念ながら一度も乗りませんでした。でも、どこかで、会っていたはずですね。私は、サッカーに現をぬかす4年間でした。旧大宮の自宅から自転車や車で下大久保、文理地区などを移動していました。ある意味、萩原さんと対極の学生だったかもしれません。
 でも、4年生になって本気でたくさんの講義を受けて、学ぼうともしましたが、浅はかな未熟生であり、講義の内容に失望してしまいました。「教育学部」の中だけで物事を考えていた当時の私は「若さ」だけが突出していたのでしょうね。(実は、このことこそ、重要な意味をもつのですが・・「教育」を安易に考えている教育関係者が多すぎますね。「教育」こそ、日本再生のキーワードなのに・・)萩原さんのような、直接世の中と関わっておられた行動力が、私にはありませんでした。

 宮城まり子も斉藤喜博も、自身を律する意志の強さと子どもを育てようとする熱情は比類なきものがあります。葛飾北斎が絵画表現者(芸術家)そのものだけに生きようとする情熱を想起させます。まり子さんが指導した子の絵が平板になった時、その悩みを水上勉に相談しました。

  まり子ちゃん、子どもが幸せになっていくなかで、普通の絵し
  か描かなくなっても仕方ないし、それでいいの。

と語っていたのが印象に残ります。
 あふれんばかりの愛情を・命をかけてまり子さんは子どもに注ぎました。
「優しくね。優しくね。優しいことは強いのよ。」こんな深い愛を他に誰が実践できましょうか。一人ではなく何十人の子どもたちにわけ隔てなく。絵画作品群は、みんなまり子さんへの子どもたちの「ラブレター」でもありました。
 ですから、子どもが幸せになったり大人になったりしていく過程でまり子さんの存在の比重が軽くなっていく場合には、「普通」の絵になっていくのでしょう。
 北斎も「芸術」には渇望していました。80歳すぎても、長野県の小布施まで出かけています。出世・金策に現をぬかすことはなく、「芸術」に恋してしまったとしかいいようがありません。
 萩原さんも斉藤喜博の雄大なスケールをイメージされていますね。あのスケールの大きさは空前絶後でしょう。今、流行の「景山さん」「岸本さん」「斉藤孝さん」なども斉藤喜博の実践から学んだこともあるのでしょうね。

 で、プロレス。力道山のリングが始まると、体が震えて興奮したものです。ラッシャー木村によく似た友人がいました。すごくいいやつです。人の良さが木村に重なります。

 ご教示いただいたHP作成においては、ああ時間がない!と、いつもの口癖が・・・いけませんね。まったくパソコン操作は、ご覧のように下下も下下といったところで恐縮です。

 下の娘がダウン症で、私は、「スペシャルオリンピックス500万人トーチランinさいたま地区」の運営委員を担当しています。そんなこんなで、知的障害者のサッカー指導などで結構忙しくしております。
 もちろん、教職は無限の時間がかかります。教材研究はもちろん、日々の仕事が山とあります。どこまでやればいいかは限りがありません。「子どもの可能性」というとき「教師の可能性」も対として考えられますね。可能性を追求するとき、子どもももちろん活動するのですが、その活動を萩原さんは多面的に評価・解釈されていました。島小のルポとして、若かりし大江健三郎が残しました。多の方がさまざまな立場で豊かに語り継ぐことは、次の世代への財産となるでしょうね。
 昨日(金曜)のNHK3チャンネル「わくわく授業」で斉藤喜博を特集して
いました。

 お嬢さん、絵の専門家なのですね。斉藤喜博は、「絵の先生」はいい先生が多い。感覚がよい。と言っていました。どうぞ、これからもご活躍を祈っています。
 ああ、時間がない、技術がない・・などと言ってはいけませんよね。退職まで4年。したいことできることを進んでしましょう。などど自分に言い聞かせている今日この頃です。

 お酒はあまり飲みませんが、秩父の山はちょいちょい出かけます。命がけのようなことも何回かありました。その分、美しさを満喫できます。県1位の太さを誇るブナなども友人と一緒に「発見」しました。
 写真を添付しました。ニュースとして県内版・新聞各紙でも掲載されました。自然保護と「保養・行楽・旅行」と老人介護・障害者交流などをうまく関係付けられたら本望です。そんな仕事ができたらといつも願っているところです。

すみませんね。つい長々と。失礼しました。なんだか「同級生」のような気がして。

   Sunday, January 30, 2005 2:03 PM
Re: 熱いメールに感謝

 またこうして返事が遅くなってしまいました。

 1月21日に、私のブログを開設して、ちょうど10日目です。

   周の発言(これが現在の将門Webになっています)

 これが、たいへんに、反応がよくて、アクセス数も予想をはるかに超えていまして、それで大わらわです。開設する前は、1日に1回UPして、それを毎日やっていこうとは決意していましたが、初めてみると、そのたくさんの反応に、毎日一つの投稿では間に合わない感じでして、いくつもUPを続けております。

北浦和から下大久保行きのバスには、残念ながら一度も乗りませんでした。

 あ、そうなんだ、そんな学生さんもいたんだなと驚きました。

でも、どこかで、会っていたはずですね。私は、サッカーに現をぬかす4年間でした。

 サッカーといえば、私には次のような思い出があるのですが、

  69年の8月夜釜本が埼大でボールを蹴っていた
  (これはまたあとでUPします)

 Aさんは、このことはご存知でしたか。でもとにかく、古い昔の思い出です。

「教育」こそ、日本再生のキーワードなのに・・)

 私もそう思うときがありますよ。長女と次女とでよく話しているのを聞いていますと、ちょっと私には残念に思える先生もいるのですが、また素晴らしい先生方の存在も私には、感じられるものです。ぜひ頑張っていただきたいな。 私の次女のホームページが以下です。

  I'm brutus

 この中の先生になってからの話が、そばにいるものですからよく判ります。長女もホームページをもっていたのですが、やめてしまいました。これは私にはものすごく残念です。

「まり子ちゃん、子どもが幸せになっていくなかで、普通の絵しか描かなくなっても仕方ないし、それでいいの。」と語っていたのが印象に残ります。

 ああ、この水上勉さんの言われる通りですね。次女のクラスの子どもたちのことをよく聞きます。彼らの写真をよく私も見ます。みんな、いろいろなことがあるけれど、みんないい子どもたちです。
 私のとこころは、長女が結婚し、次女は彼氏と随分長くつき合っていますから結婚を考えなくてはいけないのですが、次女は、「この(今のクラスの)子どもたちと別れないとならない、と思うと結婚したくない」と言っています。 もう次女の子どもたちの話を聞いていると、私もそれはそうだよな、なんて頷いてしまいます。

萩原さんも斉藤喜博の雄大なスケールをイメージされていますね。あのスケールの大きさは空前絶後でしょう。

 私は今、斎藤喜博先生の本を2冊読んでいます。そしてたくさんのことを思います。ただ、私は今の学校の現状を見ると聞くと、もう斎藤先生のやり方だけでは、通じない時代ではないのかな、なんて思ってしまうところがあります。また、このことは私はもっと斎藤喜博さんを学んで、娘たちや、次女の学校のある先生(次女がとても信頼尊敬している同じ学校の同僚先輩先生がいます)と話していきたいと思っています(実はこの先生は45歳のとても好きになれる男性の先生なのですが、次女が会わせてくれません。「パパはひどい酔っぱらいだから」ということでなんです。でも私はその先生とこっそり連絡をして、こっそり会います)。

で、プロレス。力道山のリングが始まると、体が震えて興奮したものです。ラッシャー木村によく似た友人がいました。すごくいいやつです。人の良さが木村に重なります。

 私はラッシャー木村がずっと好きでした。以下の私のページでラッシャー木村の声を聞くことができます。

  周のプロレスの話
ここは、http://shomon.livedoor.biz/archives/cat_50028667.html周のプロレスの話、http://shomon.livedoor.biz/archives/cat_50028884.html周の雑読(プロレス篇)備忘録で成り立っています。

 またラッシャー木村への思い出も、今後私のホームページ内で書いていこうと思っています。

ご教示いただいたHP作成においては、ああ時間がない!と、いつもの口癖が・・・いけませんね。

 ぜひやってくださいよ。とくに、今はやっていますブログというのは実に簡単ですよ。私はその開設を楽しみにまっていますよ。

下の娘がダウン症で、私は、「スペシャルオリンピックス500万人トーチランinさいたま地区」の運営委員を担当しています。そんなこんなで、知的障害者のサッカー指導などで結構忙しくしております。

 そのような内容も書いていただければ、私の娘たちも娘の友だちも読むと思いますよ。娘の友人たちには、障害児教育にたずさわっている人もいます。

お酒はあまり飲みませんが、秩父の山はちょいちょい出かけます。命がけのようなことも何回かありました。
その分、美しさを満喫できます。県1位の太さを誇るブナなども友人と一緒に「発見」しました。

 そんなこともブログで発信していただけたらと思います。ブログは簡単に
写真を貼りつけられますから、いいんですよ。

写真を添付しました。ニュースとして県内版・新聞各紙でも掲載されました。自然保護と「保養・行楽・旅行」と老人介護・障害者交流などをうまく関係付けられたら本望です。そんな仕事ができたらといつも願っているところです。

 そうですね、そういうところを目指されるのはいいなあ、と思いますよ。

すみませんね。つい長々と。失礼しました。なんだか「同級生」のような気がして。

 いえ、私とは同じ大学出身の同級生で、もう友だちです。ぜひ、ブログ同士で、さまざまに連携していけたらな、と思っていますよ。萩原周二
(第234号 2005.02.07)



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2011年09月11日

第78回「大学の同級生からのメール」

   Wednesday, January 19, 2005 10:22 PM
はじめまして

11091013 管理人様 はじめまして。   Aと申します。
 管理人さまと同じ大学同じ学部、同い年ということで、しかも、プロレス好き?も一緒。
 宮城まり子さんの絵の指導は、今の日本では評価できる人がいないでしょうね。フランスでピカソやマチスの展覧会に匹敵するエネルギーを醸し出していた傑作群が、日本では「無視」されてきたようにも思えますがいかがでしょうか。池田満寿夫や水上勉等知識人がストレートに「実践」を評価されてはいましたが・・・教育関係者は「無知」で「無視」していたようにも思えます。
 私の独断と偏見です。
 斉藤喜博は「栃木」ではなく「群馬」出身です。
 私は、教員ですが「巨樹・巨木」に関心を持ち、秩父の山を含め埼玉県内の巨樹を調べております。将来的には国認定「森林診療士」(新しい資格)のような仕事に携わり、農山村の復興・河川の修復が得られればと夢見ています。
 管理人さまの教養と行動力こそ、私もあやかりたいところです。どうぞ、お体を大切になさってご活躍されますようにお祈りいたします。1948年 鼠年生まれ。

   Saturday, January 22, 2005 8:07 AM
Re: はじめまして
 メールをありがとうございます。こんなに返事が遅くなり申し訳ありません。昼間はあちこち出かけていまして、事務所か自宅にいるときは、ついこのごろはブログのページの作成で必死でした。
 でもメールをいただき大変に驚きました。

管理人さまと同じ大学同じ学部、同い年ということで

 そうすると1967年(昭和42)入学ですね。そうすると、必ず顔を会わせているはずですね。
 1年生のときは教養部で、ほとんど文理地区で、週に2日くらいは、大久保校舎に行ったのではないかと思います。私は社会科専攻生でしたが、そういう1年生の生活でした。
 それで、1年生の年1967年の12月15日、北浦和駅と埼大大久保校舎を結んでいる西武鉄道と国際興業のバスが20円から30円に値上がりして、そのときに、「バス代値上阻止連絡会議」ができて、バス闘争が展開されたかと思います。私は、そのとき最初から最後まで、最前線で闘っていました。
 1月になって、私たち連絡会議は、観光バス(興和観光のバス)をチャーターして「乗車拒否闘争」を継続しました。このとき3台のバスをチャーターしたのですが、このバスの車掌を一番多くやったのが私です。だから、このとき、このバスに乗らなかった日共=民青以外の学生さんは、私の顔は必ず見ているはずです。なにしろこのバスに乗らないと大久保校舎にはいけなかったかと思います。
 私のことを覚えていないでしょうか?

 そのバス闘争の過程で、私は大学の自治会正常化の運動(ようするに、民青との闘い)と、そして王子・三里塚闘争に参加しました。そして大学2年になって、バス闘争が敗北していき、私はその挫折の中から、また学生運動に邁進しました。もう大学2年ではほぼ授業にはでなかったし、大久保校舎にも、あんまり行きませんでした。そして2年の最後の1969年の1月に東大闘争に参加して、19日に安田講堂で逮捕され、起訴され、やがて府中刑務所に勾留されました。
 8月21日に保釈になり、その後文理地区には行きましたが、私はバス闘争を破壊した中核派が許せなく、またその中核派から、袂を分かったとかいう反戦連合とかも大嫌いで、なにか文理地区のバリケードにはなじめませんでした。
 ただ、とにかく9月19日の芝浦工大事件には、私も中核派に拉致されたTを救出するために、芝浦工大大宮校舎に行きまして、そのとき、埼大中核派の滝沢紀昭さんの不幸な事故死がありました。
 このことでまた、その後は学生運動にも加われず(なにしろ、あの事件では警察。マスコミだけではなく、新左翼全部が私たちの敵にまわりました)、アルバイトばかりしている中で、12月10日浦和地裁での、「6・12事件」の初公判に傍聴に行くなかで、裁判終了後私は埼玉県警に逮捕されました。そういえば、この日私は前日精神病院の看守のアルバイトで、徹夜でして、逮捕されたら、すぐにパトカーの中で眠りこみました。
 それで、また70年の3月に再保釈で、娑婆に出てまいりました。
 もう私たちの年代の活動家は、私の1年下の学年含めて、あまり活動していなかったものですが、私は私の2年下、3年下の活動家に交わって、またデモに加わって行ったものでした。
 でももう私も4年です。そして裁判を東大闘争と、芝浦工大事件の二つかかえていました。もうまた逮捕されるようなことは極力避けなければなりません。
 そしてやっぱり70年安保闘争がおとなしく終焉する中、私は後輩たちの救待をするようになりました。70年後半から71年、72年にかけて、後輩たちのいくつもの闘いの救待で、親にあったり、警察薯へ行ったり、あちこちの拘置所・刑務所へ行ったりしたものです。
 そしてまた私は過去は、サークルとして簡単にしか参加していなかったむつめ祭に激しくかかわるようになりました。もう当時は日共=民青と実力で闘っていたのは、このむつめ祭だと思います。
 このむつめ祭とのかかわりが、今でも続いています。私は日共=民青だけは極力排除し、敵対することをずっとむつめ祭に貫徹させてきました。それだけではなく、ほかの新左翼もむつめ祭に介入しようとするところは、絶対に排除してきました。ただ、このことはあの時代から20年くらいはいいのですが、もう30年を過ぎたあたりからは、もう若い学生には、何のことか意味が判らないことでしょう。よるするに、私のような年よりの頑固な分からず屋が何故かいるというだけのことなのです。
 ただ、もうここ10年くらい、私はむつめ祭に行くときにも、必ずノートパソコンを持参して、インターネット(前にはパソコン通信)をやっています。それでいろいろ話しかけるのですが、若い学生さんも、まだまだだなという思いばかりでした。でも昨年あたりは、もう会った学生さんは、インターネットにはまったく違和感はない方々ばかりでした。少しはいい時代になったかななんていう思いにもなります。

しかも、プロレス好き?も一緒。

 プロレスの話も私はやりだすと、いろいろと続くのですよ。ただ、この頃飲んでプロレスの話もしなくなりましたね。話す相手がいないのですよ。昔でも、話し出すと、ほとんど多くの猪木ファンにたいして、私は「ラッシャー木村が一番だ」とやり出しますから、いつも話があいませんでした。

宮城まり子さんの絵の指導は今の日本では評価できる人がいないでしょうね。フランスでピカソやマチスの展覧会に匹敵するエネルギーを醸し出していた傑作群が、日本では「無視」されてきたようにも思えますがいかがでしょうか。

 いえ、私は宮城まり子さんは大好きですが、あまり絵のことは判らないのです。長女が小学校の図工の教員なので、絵を描くことも見ることも好きです。だから今度来たら聞いてみます。

斉藤喜博は「栃木」ではなく「群馬」出身です。

 ありがとうございます。私が

  斎藤喜博「教育学のすすめ」

の最初に書きました女性が、大学が栃木県にある大学だったもので、そう思い込んでしまったのです。こうなると、彼女も群馬県の生まれだったのですね。
今になって気がつきました。斎藤さんに関しては訂正しました。
 私は茨城県生まれですが、お隣の栃木県も群馬県もよく知らないのですね。なんだか羞しいです。思えば、私の好きな将門公も、そして水戸天狗党も、下野には苦労したのだろうななんて思いました。下野が足利尊氏で、上野が新田義貞だと覚えればいいのかな。いえ、埼大の友人後輩でも、栃木と群馬出身者は違うよななんて今確認しました。

私は、教員ですが「巨樹・巨木」に関心を持ち、秩父の山を含め埼玉県内の巨樹を調べております。将来的には国認定「森林診療士」(新しい資格)のような仕事に携わり、農山村の復興・河川の修復が得られればと夢見ています。

 ああ、いいですね。それでできたら、このことでホームページを作ってくださいよ。あのですね、実はこんなに返事が遅れたのは、私の怠慢もあるのですが、実は昨日私のブログページをオープンさせたのですが、実にこれに必死になっていました。

  周の発言

 私がこれをやりたいというのは、私自身のホームページの活性化もありますが、クライアントや友人等に、これを勧めたいということがあります。やはりホームページを作るのは、私たちの年代には、大変なのですよ。パソコンの操作もままならない人が多いのです。
 このプログページを作るのに懸命になっているときに、「あの彼女、あの先生、あの彼女なら、あの飲み屋のママになら」とたくさん顔が浮かびました。プログならホームページ作成よりは楽なはずです。プログページを最初作って、そのあとホームページを少しづつ作ればいいと思うのです。
 私はブログページを開設するのに、活字でいろいろと読みまして(本とホームページ上のサイトの活字)、それで「これならよさそうだ」というところを4つ決めて、それで4つ登録し、実際に作り出しました。でもやはり、私は、「これからは、携帯で書込みができ、閲覧できて、いろいろとできなくちゃいけない」という強烈な思いで、livedoorに決定したものです。
 ただ、おそらく今後このブログはもっと盛んになります。参入してくるサービス企業が増えて、ものすごい競合状態になるでしょう。だから、もっといいサービスが出てくるかと思いますよ。
 ぜひともAさんにもやってほしいのです。
 私のように、4つも登録して調べるなんてことをやらなければ、まず誰でも2時間でできますよ。私もlivedoorに決めてからは、実に早かったですよ。「ブログやろう」と決めて、そして今のをUPしたのは、その日で完成しました。その間、あたり前ですが、ホームページの更新もあり、仕事もあり、酒飲みもありの中です。

管理人さまの教養と行動力こそ、私もあやかりたいところです。

 教養はいい加減なものですが、もうやることだけは、考えるより先になんでもやってきました。学生運動も恋愛もそうだったな、失業しての職探しもそうだっななんて思います。ただ、よくないのは、腕力はからしきないのに、考える前に、今も人を殴ってしまうことでしょうか。これは本当によくないです。

どうぞ、お体を大切になさってご活躍されますようにお祈りいたします。

 ありがとうございます。
 昨日実は港区のクライアントで、このメールのほとんどを書いていました。パソコンを使うといろんなことがやれますね。ただし、仕事中なのに、その会社のこととは違うことをやってはいけないよな、なんて少し思います。萩原周二
(第233号 2005.01.31)



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2011年09月10日

第77回「『悪人正機』『源実朝』『源氏物語論』」

11090810   Wednesday, January 05, 2005 6:35 PM
Re: お願いがあります
萩原周二様
 あけましておめでとうございます。旧年中はSCAPAランドマークプラザ店のHPやメールマガジンを多くの方々にご紹介いただき、また、12月にはお買い上げを賜り、本当にありがとうございました。どうぞ本年度も宜しくお願い申し上げます。
 そして、お返事が大変遅くなりまして申し訳ございません。セールがようやく落ち着いてまいりまして、通常業務にも手を伸ばすことができるようになりましたので、遅れ馳せながらメールをさせていただきます。
 お便り紹介コーナーの件、了解いたしました。私も配信を楽しみにしております。ただ、私達のことをとても美人だと錯覚される読者の方がいらっしゃるのではないか?ということだけを私達は心配しております…。

 そしてこれはウーロンの個人的な話なのですが、今年の『初読み』本は、吉本隆明さんと糸井重里さんの『悪人正機』にしました。たいへんに面白く、そして“目から鱗”のお話が多く、読後感はとてもスッキリと楽になった気が致しました。『西行論』もそうでしたが、もしHPを通して周さまとお知り合いになっていなければ、読んでいなかったかもしれません。ショップのこととは別に、御礼申し上げます。(今後、『源実朝』『源氏物語論』を読みたいと思っています。でも、『悪人正機』を読んで、折口信夫さんの本も少し読みたくなってきました。どういう順番で読むか思案中です。)
 それでは、これから寒さが厳しくなってくるかと思いますが、どうぞお身体ご自愛くださいませ。
SCAPAランドマークプラザ店・ウーロン

   Thursday, January 06, 2005 9:37 PM
Re: お願いがあります
 私のほうこそ、今年もよろしくお願いします。

お返事が大変遅くなりまして申し訳ございません。

 いえ、ホームページで、お忙しい様子は少しは判っているつもりです。忙しいとこころに、面倒な用件で申し訳ありません。

お便り紹介コーナーの件、了解いたしました。私も配信を楽しみにしております。

 ありがとうございます。嬉しいです。

ただ、私達のことをとても美人だと錯覚される読者の方がいらっしゃるのではないか?ということだけを私達は心配しております…。

 SCAPAのスタツフの方が、実に綺麗な方なことは私がこの目と耳で確認しています。私は自信をもって言い切れます。

そしてこれはウーロンの個人的な話なのですが、今年の『初読み』本は、吉本隆明さんと糸井重里さんの『悪人正機』にしました。たいへんに面白く、そして“目から鱗”のお話が多く、読後感はとてもスッキリと楽になった気が致しました。

 いや、これは嬉しいです。吉本さんの言われる内容は、実に私もすべていいのですが、糸井さんもいいですね。糸井さんは、私と同じ世代で、法政大学の私たちと同じ活動家(要するに三派全学連のね)だったものですから、親しみがあるのです。

今後、『源実朝』『源氏物語論』を読みたいと思っています。

 二つともいいですよ。「源実朝」を読みますと、過去、実朝の歌を「万葉調」の歌なんてかたずけていた、日本の数々の文芸人が「判ってないよな」と思いますよ。ただ、このことは私は以下に書いています。

  源実朝「短歌」

 この本の中での、実朝の歌をどの歌集から「本歌どり」しているかという資料は実にすごいですよ。吉本さんは、この本を1971年に出版されているんですよ。この作業は、もしこのときにパソコンがあれば、実に早くより簡単にできたでしょうが、吉本さんは手でやっているのです。この本が出版されたときに、桶谷秀昭さん(私も尊敬する評論家です)が、ただただ驚いた発言をされていました。「もうこの吉本さんには、俺は勝てない」と思ったんじゃないかな。ただ、残念なことに、彼はこのあと、吉本さんのことを何も述べなくなりました。私は「これじゃ駄目だよな」としか思いません。
 このことは以下を参考にしてください。

  第40回桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』

 また「源氏物語論」ですが、これまたぜひ読んでみてください。私も普通の人と同じで「源氏」をちゃんと読むのには、原文で読むべきだと思っていました。でもでも、違うのですよ。そんなことやれば、それだけで一生かかってしまいます。そしてやっぱり、吉本さんのいうとおり、與謝野晶子訳がいいですね。早く読んで内容を知って、源氏の面白さをこそ、早く知ることなんです。 私は学生運動で、府中刑務所の独房に入っていたときに、谷崎潤一郎「新々訳源氏物語」を差入れしてもらって、全部読んだのです。これは母に入れてもらいました。私は谷崎潤一郎が中学生のときから好きで(中2のときに、ほぼ彼の小説は読みました)、それで「源氏なら谷崎さんだ」と思い込んでいたところがありました。だから、読んだのはいいのですが、実は刑務所の中で、私はさっぱり源氏は理解できなかったことにしかなりませんでした。 以下にこのことを少し書いています。

  島尾敏雄「死の棘」

 また以下も読んでみてください。

  與謝野晶子訳「源氏物語」

 以上の内容は、また折口信夫さんのことにもなります。

でも、『悪人正機』を読んで、折口信夫さんの本も少し読みたくなってきました

 小林秀雄が折口信夫さんに、

  本居(本居宣長のこと)さんはね、やはり(古事記ではなく)
  源氏ですよ

と言われた意味が、私には結局吉本さんを読むことによって判ってきました。小林秀雄さんは、偉大な人ではありましたが、結局は本居宣長が理解できなかったのだなと思います。折口信夫さんは、すごいですよ。
 私は、折口信夫さんを読みました最初は、高校一年生のときで、折口信夫全集(中央公論社)の「第二十巻神道宗教篇」でした。もうこれは大変に面白かったものです。次にこの全集で、「口訳万葉集」を読みました。ただただ驚きました。これは折口さんが3カ月で、全万葉集を現代語訳したものですが、もうただ驚くばかりとしかいえないものです。折口さんが、お弟子さんを前に、口で喋り、それを記したものですが、もう「驚く」という言葉しかいえません。思えば、この本を思うときに、私はドストエフスキーの数々の膨大な小説を思いだします。いえ、それは単に、口述筆記という類似点だけなのですが。

どういう順番で読むか思案中です。)

 できたら、吉本さんの「源氏物語論」、「源実朝」の順で読まれて、そして膨大なる「折口信夫全集」は、またどれからかゆっくり読まれる(全部読まなくていいと思いますよ、だってもう一人膨大なる柳田国男さんがいます)といいんではないかと思いますよ。萩原周二
(第232号 2005.01.24)



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2011年09月09日

第76回初夢見ましたか?

11090801   Thursday, January 06, 2005 11:30 AM
あけましておめでとうございます(^^)
 三が日はいかがお過ごしですか? 満足にお酒飲む事ができましたか?
 私は年末チョウ労働力だったので、疲れ果てて、元旦は、もっぱらお布団の中でした。2日はDVDを3本も観てしまいました。翌朝、左目にものもらいが出来てしまって、まだ目が腫れています。3日は栃木の実家に三男と二人で新年の挨拶に行ったり、いつものお正月と変わらずでした。
 萩原さんは初夢見ましたか? なんと私の初夢は、萩原さんに怒られている夢でした。

  人間は寝てばかりいちゃ駄目なんだよ。だから寝てばかりじゃ
  駄目!!

 夢の中でしきりにこの言葉を繰り返す萩原さんでした。

 今年も歳に反比例して頑張りますので、よろしくお願いします。
                 Y社  O.K.

   Thursday, January 06, 2005 10:06 PM
Re: あけましておめでとうございます(^^)

三が日はいかがお過ごしですか?

 ええと、私の「周の発言」を読んでいただければ書いてありますよ。以下のLOGだと判りやすいかな。

  周の発言過去LOG2005年1月

満足にお酒飲む事ができましたか?

 なんとなく元旦は、朝からずっと飲み続けて、いつもの通り、途中から記憶がありません。

萩原さんは初夢見ましたか?

 夢はたくさん見ていますよ。「どういう内容だったかな」と思いだすと、だんだん鮮明になってくるのですが、たしかくだらない夢ばかりだったので、思いだしたくありません。

なんと私の初夢は、萩原さんに怒られている夢でした。「人間は寝てばかりいちゃ駄目なんだよ。だから寝てばかりじゃ駄目!!」
 夢の中でしきりにこの言葉を繰り返す萩原さんでした。

 申し訳ありません。ごめんね。たしかに、私は毎日朝は早く起き出しまして、パソコン開いています。ただ、いつも石岩先生に、「睡眠不足だ」と言われていますので、もう少しちゃんと眠らないといけないかな、なんていうことも思います。でもね、もう私はこれを20年以上続けているのですね。
 ただし、少し真面目に言いますと、あなたに、この

  「人間は寝てばかりいちゃ駄目なんだよ」としきりにこの言葉
  を繰り返え

しているのは、実は私ではなく、私の姿をかりた、ご本人のO.K.さんですよ。夢というのは、そういうものなのです。

 でもとにかく、今年もまた愉しく飲みましょうね。萩原周二
(第231号 2005.01.17)



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2011年09月08日

第74回「左−極左−転向−そして」

11090705  Saturday, December 25, 2004 12:41 AM
わっかりませーん。

 申し訳ないのですが、私はこの雑誌は手にしたこともありません。大嫌いです。休刊したのなら、「よかったな」という思いですよ。昔左翼であったことは、それはそれでいいですが、今もその思いをそのままにして続けていたのが、あの雑誌じゃないかな。私は絶対に認めないです。

 これってそのまま先生のことじゃないんですかー?!それでなくてどうして母校で三十年もひだりなんていう酒場を出していらっしゃるんですかー!?

こんなのは、まったく認めません。まあ、その人の勝手ですが。そもそも私は「酒を飲むために生きている」

 これも理解できません。今たまたまそうなってしまっただけで若いときにはそんなことは思っていらっしゃらなかたのでは?

 私も人にプレゼントをするのは好きです。でも先立つものがないんです。それで五百円くらいで喜ばれそうなものに知恵を絞るのはとても難しいです。あるいは手作りのただのものとか。とにかく最小の投資で最大の効果を狙います。先生には最近見つけたmidiファイルを送ります。internet explorerのファイルメニューで読み込めます。あーでもクイックタイムのプラグインが入ってないとだめか。うちのメディアプレーヤーでは開かなかったんですけど、バージョンが上なら改善してるかも。とにかく何かmidiファイルが開けるフリーソフトなどで開いてください。クイックタイムプレーヤーはアップルのサイトからダウンロードできます。これで趣味があわなかったらお互い不幸に鳴るんですけど、笑って許してください。
 大事なこと忘れてました。メールは使ってください。

   Saturday, December 25, 2004 7:23 AM
Re: わっかりませーん。

これってそのまま先生のことじゃないんですかー?!それでなくてどうして母校で三十年もひだりなんていう酒場を出していらっしゃるんですかー!?

 ああ、そう思われても仕方ないよな、なんて思う気持もあります。私の同世代(というのは、私の同学年と1年下及び1、2年上の学年の活動家)には、

  あいついつまでやっているんだ

という視線を受けていたことが随分あります。とくに2年、3年下の活動家の救待をやっていて、警察と渡りあったり、その逮捕起訴された活動家の親なんかと連絡を取り合ったりしているときに、そうした視線をよく感じました。でもその後輩の活動家の、そのまた下のそのずっと下の活動家ともつき合っていると、これまた、「もう仕方ないな、あいつは」という視線にもなってきたものです。
 でもね、「ひだり」という飲み屋に関していいますと、私は最初から以下のように言っていたのですよ。

  ひだりは、もちろん「左翼」の意味だが、今年はそれでいいが、
  来年は「極左」という名前にして、その次は「転向」、その翌年
  は「極右」とい店名にしよう。そして、その次くらいは、「一般
  市民」にするか。

 これが私の店名に関する主張だったのですが、でも何しろ後輩たちは、面倒くさがりやですから、かつ「毎年店の名前を換えるのは、店としてよくない」ということらしくて、ずっと「暴力酒場ひだり」なんです。さらに、ここ10年くらいは、「暴力酒場」もはぶいてありますね。はぶかないのは、私くらいです。
 私はもう、ずっと左翼なんて気持は最初からないですよ。いやむしろ私は、転向できない奴ほど駄目だと思っています。マルクスだって、初期マルクスから、後期マルクス資本論に至ったときに、転向したのですよ。ただし、今でも左翼でありたいという気持は持っていますよ。
 まあ、なんというかな、私はけっこう保守的でね、昔からの習慣を変えられないことくらいのことなんですよ。私は1967年の12月15日に、北浦和駅前から、埼大の今の校舎までの、西武鉄道と国際興業のバスが20円から30円に値上がりしたときから、バス代値上げ阻止運動で、乗車拒否をやりはじめまして、その闘争が敗北して終ったのちも、ずっと乗車拒否だけは続けています。今は、この「むつめ祭」のときしか埼大には行きませんし、私がむつめ祭から帰るときに、ただ歩きだしてそのまま歩いていると、私のずっと下の下の後輩から、「あれ、なんで歩いているのですか?」なんて聞かれます。私はもう説明もしません。私はただただ、保守的で、昔からのことを変えられないだけなのです。

これも理解できません。今たまたまそうなってしまっただけで若いときにはそんなことは思っていらっしゃらなかたのでは?

 いえ、私は椎名誠さんのグループのように、ずっと酒ばかり飲んでいました。ただ、運動で逮捕起訴されると、まったく酒とは無縁になりますから、少しは健全だったかな。
 それとね、私の酒の飲み方が異常すぎるというので、私が30歳のときに、熱心に忠告してくれた方がいます。彼がいうのには、

  もう身体が壊れているから、ちょっと酒止めてみな。そうする
  と身体のおかしなところが表面に出てくるから。

 彼は、「こうは言っても、どうせ酒はやめないだろう」と思っていたようです。でも私は、その頃、本当に肝臓が痛い感じがあったものですから、「ちょっと酒やめて、身体の具合を見てみるか」という思いで、断酒しました。
 これを丸2カ月続けました。外でも、自宅でも一滴の酒も飲みませんでした。言われた通りに、身体に何かが出てくるかなと思っていたのですが、全然何もありません。「なんだ、俺は健全なんだ」と思いまして、その後再び酒びたりの生活に戻りました。

私も人にプレゼントをするのは好きです。でも先立つものがないんです。それで五百円くらいで喜ばれそうなものに知恵を絞るのはとても難しいです。

 たしかにそうですね。私は1984年のクリスマスから、ちょうど500円くらいのものを、私のクライアントの女性社員・役員、私のよく行く飲み屋の女性店員・女性店主に配り出しました。それが2001年まで続きました。最後の5年くらいは、全部で70個くらい配りました。
 それが、以下に書きましたように、

  今年のクリスマスプレゼントを配らなかったこと(2002.12.30)

2002年も2003年も、何も配らなくなりました。でも今年は、いろいろとまた思うところがありまして、

  2004/12/25(土) 昨日のプレゼント

また再開しました。ただし、もう24日のイブの日だけですから、数も大変に少ないです。
 でもとにかく、みなさん誰も喜んでいただいて、私こそが嬉しいです。

先生には最近見つけたmidiファイルを送ります。

 ありがとう。今もお聞きしましたよ。メディアプレーヤーで聞きました。ええとどういう曲なのかはよく判らないですが、私も好きですよ。

これで趣味があわなかったら

 私も詩吟と軍歌ばかりではないのですよ。今また聞いていますが、こういうのはどこで捜すのかしら。今メディア・プレイヤーの履歴みましたら、以前に聞いたのに「歩兵の本領」がありました。

  歩兵の本領

 これまた私のよく唄う歌です。
 メールをありがとう。萩原周二
(第229号 2005.01.03)



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2011年09月07日

第74回「酒は飲んでも、飲まれよう」

11090509   Sunday, December 05, 2004 9:27 PM
ついに師走に突入しましたね。
 日本人の読む中国の漢文は詩、歴史書、などが多いわけですが、いずれもエリートが書いたものでいわば人類共通の人間のもっとも純粋で上質な部分しかあらわしていないという面があるのではないでしょうか。日本人はそれを読んで中国の精神性の高さに感じ入り、あこがれたわけです。文学でも紅楼夢の様な下世話なものはごく近代になるまで出現しなかったと思います。
 ところが大多数の民衆のもつ古代の人身供儀にまでつながるような土俗性や暗い負の部分はまったく目に触れなかったわけです。これが実際の中国と日本人が漠然と抱く中国との差の原因ではないでしょうか。門外漢が的外れなことをいっているかもしれませんが。文革のころの体験談や、日本人の戦中、戦後の体験談などを読むと、実際の中国というものが少しわかるような気がします。 陳舜臣は戦前の日本の教育で育った人のようですからかなり日本人と同じ感覚になっているとも考えられます。日本人が書いたと思えば問題はないのではありませんか。
 宮城谷三国志の第一巻を手に取って帯を読みましたがものすごくくわしくかいてあるようですねー。全部刊行が終わるまで文庫にはならないだろうと思うとどうしたものか悩ましいところです。
 蒼穹の昴は読み終わりましたがちょっと期待はずれでした。乾隆帝の霊や都合のよすぎる西大后の孫娘などの道具立てでややファンタジーの趣に流れ、期待した骨太な歴史物語という感じではなかったように思います。この人の作品は以前に数作読んでいますが、それらもややファンタジーめいたところが多かれ少なかれあったのですが、壬生義士伝だけはその傾向がほとんどなく、あるいはあっても死際の幻ということなどでリアリティを損なわず、すごくいいできだったので期待したのですが、ちょっと残念です。
 西大后も本文に何度も形容しているほど魅力的な女性とはどうしても感じられません。もっと正攻法で滅びゆく大清帝国を支えようとする女帝をかいて欲しかった。
 ところでほぼ毎夜のように飲んでいらっしゃっていったいいつ本を読まれるのですか。不思議でたまりません。林望さんが人生の貴重な時間を無駄にするからお酒は飲まないとかいていましたよ。まあちょっとこれは極端でしょうけど。
 先週毎日新聞の読書欄で噂の真相の休刊を知りました。買ったことは二、三度しかないんですけど。それで、もしかしたら岡留さんともお友達だったりしてと思い浮かびました。だいぶ前に本の雑誌で編集長対談という企画があって、椎名さんと対談していましたが、その時には部数は順調ということだったんですが、どうしたんでしょうね。

   Wednesday, December 22, 2004 4:21 PM
返事がこんなに遅くなりごめんなさい

 日本人の読む中国の漢文は詩、歴史書、などが多いわけですが、いずれもエリートが書いたものでいわば人類共通の人間のもっとも純粋で上質な部分しかあらわしていないという面があるのではないでしょうか。日本人はそれを読んで中国の精神性の高さに感じ入り、あこがれたわけです。

 これを読みまして、私はその通りだよなと思いました。

 文学でも紅楼夢の様な下世話なものはごく近代になるまで出現しなかったと思います。

 前に、私の「周の掲示板」の中でも書いたのですが、この曹雪芹「紅楼夢」に関しましては、私たちの思うところと、現在の中国人の思いはかなり乖離があるように思います。ものすごく親しくなりました中国のペキンの女性がいるのですが、彼女と最初に会ったとき(たしか1988年頃です)、私より15歳ほど若い彼女が、この「紅楼夢」が愛読書だったことに、私は驚愕を受けたものでした。どうみても、私には「紅楼夢」は少しも面白い小説とは思えなかったたのです。ただ思い当たったのは、中国というのは、日本が江戸文学から、明治期の坪内逍遥や二葉亭四迷たちが必死になって乗り越えていった(たとえば言文一致)ような、いわば近代化をしていないわけなんです。だから、いわばあんな男女の愛を描く世界を魅力あるものとして感じてしますのでしょう。
 さらに私はこの女性を通じて、中国の文学の学界には、この「紅楼夢」派と「金瓶梅」派があって、それが激しい論争をしているなどというのを、聞きまして(これはその彼女の彼氏から聞きました。その彼は日本にいる中国人の大学の先生方に、そうした話を詳しく聞かされたようです)、なんだか、また呆れました。「金瓶梅」なんて、いわばルネサンスの「デカメロン」や「サン・ヌヴェール・ヴェール」よりも、もうずっと遅れた昔の物語がなんで、それがなんで今の問題なんだと、今の中国に呆れたものなのです。

陳舜臣は戦前の日本の教育で育った人のようですからかなり日本人と同じ感覚になっているとも考えられます。日本人が書いたと思えば問題はないのではありませんか。

 まあ、私は日本人が書いたと思ってはいますが、そうだ思ってもまだ読めない感じですね。でも今後彼の小説を読んでいきます。
 それで、実は以下に書きましたように、

 陳舜臣「青玉獅子香炉」

これからこの著者の作品を読んでまいります。

宮城谷三国志の第一巻を手に取って帯を読みましたがものすごくくわしくかいてあるようですねー。

 今第3巻を読み始めたところです。第2巻の中ごろで曹操も、孫堅も、劉備も、まだ「生まれた」といわれるだけなのですね。でも宮城谷さんの三国志の切り口、とらえ方には、私はただただ感心しています。

蒼穹の昴は読み終わりましたがちょっと期待はずれでした。

 私も同じ思いですね。読み終わったときに、私は浅田さんが、「一体何を書きたかったのかな?」という思いを強く感じました。
 読み終わりましたのが、電車の中だったのですが、しばらく西太后のことを考えました。
 私は女性の政治家で歴史の上の人物というと、マリアテレサとエカテリナ2世を思い浮かべ、「思えば、みな可愛い女性でもあったのだろうけれど」というところで、また日本の北条政子と日野富子を思い受かベました。これまた本当は可愛い女性だったこともあったのでしょうね。「でも、いや中国の女性を考え比較しないといけないな」というところで、則天武后を思いだし、さらにすぐ、漢の高祖の呂太后を思い浮かべました。だが、これは到底「可愛い」なんてところが少しも私の気持に湧いてきません。それどころか、考えることにすら怖くなってきました。西太后も、どうしてもそのようなイメージなのですね。ただ、呂太号の恐ろしさとは違うかな、なんていう思いもしました。

ところでほぼ毎夜のように飲んでいらっしゃっていったいいつ本を読まれるのですか。不思議でたまりません。

 ホントに自分でも呆れるほど飲んでいますね。とくにやはり、暮はどうしても、その場が多くなります。外で飲まないときは、ちゃんと帰宅しますが、家でも晩酌します。ただ晩酌の場合は、さほど飲まないのですが、何故か早く眠くなって、午後11時台にベッドに入ってしまいます。そして午前3時台か、4時台には目が覚めるのですが、このところは、なんだか疲れすぎているのか5時台にならないと目が覚めません。ただ、本日は4時半に目が覚めました。昨日午前は毎週の、石岩先生の日ですから、

  日中康復治療院

身体が少し回復したのでしょう。でもいつも石先生には、「身体が疲れすぎ、眠りが少ない、飲み過ぎ」と言われています。
 それで読書は、いつも電車の中です。夜ベツドに入るときに、本を持って行きますが、2分くらいで眠ってしまいますから、3ページくらいしか読めません。とにかく、通勤と、クライアント等々に行くときに、電車の中で読むのが一番の読書の場ですね。それと、私は割と、本を読む速度は早いのだと思います。

林望さんが人生の貴重な時間を無駄にするからお酒は飲まないとかいていましたよ。

 私はこんなのは、まったく認めません。まあ、その人の勝手ですが。そもそも私は「酒を飲むために生きている」というようなところがあります。そもそも私の「周の酒飲み話」のバナーsake

に書いている言葉は、

  酒は飲んでも、飲まれよう

なんです。(ここで書いているバナーは前の将門Webのときのものです。今は違うバナーです。
 本日もまた飲むでしょう。いや、本日は「クリスマスプレゼント」というものについて、少し考えようと思っているのですね。それには、日本酒がないとね。

先週毎日新聞の読書欄で噂の真相の休刊を知りました。買ったことは二、三度しかないんですけど。それで、もしかしたら岡留さんともお友達だったりしてと思い浮かびました。

 申し訳ないのですが、私はこの雑誌は手にしたこともありません。大嫌いです。休刊したのなら、「よかったな」という思いですよ。昔左翼であったことは、それはそれでいいですが、今もその思いをそのままにして続けていたのが、あの雑誌じゃないかな。私は絶対に認めないです。

 たいへんに、こうして遅い返事で、「俺は駄目だな」なんて思っています。なんとなく、この12月は忙しいのです。また明日も出勤になってしまいました。でも午前の打ち合せで、来てくれる女性が素敵な方なので、そのあとどこで昼食しようか、あそこでならビールだけでなく、紹興酒も飲んでいいかな、なんていうよこしまなことを考えています。萩原周二
(第227号 2004.12.20)



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2011年09月06日

第72回「漢文のこと」

11090501   Wednesday, November 03, 2004 9:43 PM
こちらこそ遅くなって申し訳ありません。
 十月は学園祭、運動会、修学旅行、遠足など学校と関係のある人は忙しい季節ですが、普通だともうなんの関係もないはずなのに先生はすべてに関係していらっしゃるんですねー。中でもいまだに母校の学園祭に出店していらっしゃるとはとは驚きました。こんな話は聞いたことがないです。ほかの学校では例がないのではないでしょうか。学校の職員の方も三十年前からずっと顔見知りの方がまだいらっしゃる訳ですか。昔の敵は今日の友とまでではいかなくても、なにやら懐かしいというところでしょうか。また一種の同窓会ともなっているのかもしれません。こういうのは絶対やるぞと強固に主張する人とそれに賛同してくれる人が数人はいないと続かないものですが、椎名誠とその仲間達の関係に似ていますね。その他、娘さんの勤めていらっしゃる学校の運動会やら、卒業なさった学校の父母会やら、なんて忙しそうなんだろうと驚いたりあきれたりしています。

 陳舜臣は検索してみるとものすごく著作が多いのに二作しか読んでいらっしゃらないとはちょっと不思議です。やはりその三国志に何か違和感を覚えられてあのではないでしょうか。その三国志はどうだったのか感想を少し教えてだけますか。三国志といえば宮城谷さんのが出ましたね。もうお読みになりましたか。私は蒼穹の昴が文庫になったので、ずっと以前から狙っていたものですから早速買って読んでいます。
 先生のエロイーズにも話したことのない美術品の売買とは何やらなぞめいていますね。きっとまた驚くようなエピソードがあるのでしょうね。
 私も人間の声というものには興味を持っています。なぜか教養や人格が現れるし、同じような性格の人は同じような声の場合がありますよね。声優や朗読というテーマはすごく興味があります。

   Sunday, November 21, 2004 1:47 PM
Re: こちらこそ遅くなって申し訳ありません。
 埼玉大学の学園祭とはずっと関係を続けてきたわけですが、もう私も56歳ですからね、もういつまでもやるべきじゃないかな、なんていう思いも抱きます。もう何もかも、みんな私の下のずっと年代になってしまいました。

その他、娘さんの勤めていらっしゃる学校の運動会やら、卒業なさった学校の父母会やら、なんて忙しそうなんだろうと驚いたりあきれたりしています。

 昨日は、私の次女が大学を出た最初の年に勤めた東京都文京区の小学校の「表現の日」(文化際のようなものです。2年前に私が行きました記録は以下です)がありました。

  ブルータスの学校での「表現の日」

 次女が帰宅してきて、私は知りました。前日私が帰宅できていたら、必ず行っていたのに残念です。前日は、私はもう飲みすぎで、泉岳寺、浅草といろいろ行きまして、もう帰宅できませんでした。
 私は娘二人がみている小学生に会えるのがとても嬉しいのです。もちろん、私は、先生である娘の父親だとばれないようにしますが、とにかく今の子どもたちはいいのですよ。「俺たちの子どものときより、いい子たちだな」なんていつも思えるのです。ただ、また今のほうが嫌なことも多くて、これまた考え込んでしまいます。ニュースでみる悲惨な事件ですが、実はもうどこでも起きる可能性があることのようです。さきほど、次女からは、次女の小学校のそばで子どもたちが、車に引きずり込まされそうになったり(つい2日前のことのようです)、男の生徒が不審者においかけ回されたりということがあったそうです。もう柏市の街の真ん中の学校なんですよ。そして警察は、犯人のただの一人も、捕まえていません。もう、悔しくて、悲しくて、恐ろしくてたまりません。

陳 舜臣は検索してみるとものすごく著作が多いのに二作しか読んでいらっしゃらないとはちょっと不思議です。やはりその三国志に何か違和感を覚えられたのではないでしょうか。

 いえ、陳さんには、特別「違和感」というような思いはないのです。ただ、なんとなく、それほどのめり込めないのですね。なんでかな。
 少し考えますと、以下のように思いました。
 私は、中国の漢詩を読むのが好きで、それも漢文という日本の古代からやって来た読み方で読んでいます。また漢詩だけではなく、たくさんの文章も漢文で読むのが好きです。ただ、これは間違えていけないのは、私自身にも間違えるなよと言い聞かせることは、このことは中国のことをよく理解できるためにやっていることではありません。日本人である私が、日本人の漢文という方法で中国の古典を読んでいるのは、あくまで、日本人の古典ともなってしまった中国の古典を理解するためにやっていることなのです。あくまで、日本の文化を知るためにやっていることなのです。いくら漢文を学んでも、中国のことを理解できるようにはなりません。日本のことを知りたいからだけのことなのです。
 それで中国人が書きました、文学なり、評論なりを、訳文で読んでみますと、かなり、我が日本とは違う国、違う風土、違う歴史の中国を感じます。私たち日本人が思い込んでいる中国とは、本当の中国とは、まったく違うもののようです。私が好きな漢文というのは、あくまで、日本人の抱く「中国」を見せてくれるだけなのです。
 ところが、この陳さんが書かれている小説の中での中国は、私が漢文で知ってしまっている「中国」と同じなのです。「中国の人なのに、なんで、こうなのかな?」というところが、私が彼の小説にのめり込めないところなのかななんて思ってしまいました。

三国志といえば宮城谷さんのが出ましたね。もうお読みになりましたか。

 現在第1巻を読み始めました。たくさん、思うことがあります。やはり、私はおそらく、この宮城谷さんの「三国志」が世界最大、最高の「三国志」になるかと思いました。

私は蒼穹の昴が文庫になったので、ずっと以前から狙っていたものですから早速買って読んでいます。

 現在、第4巻を読んでいます。
 上に書いたことに関係するのですが、この「蒼穹の昴」は私たちが過去読んで来た数々の中国ものの小説とはあきらかに違いますね。私が知ってきた日本の古典である中国の数々の漢文から生まれた小説ではなく、中国の実際の近代の歴史から書かれている小説のような感じを受けます。
 思えば、こうした思いをまたまとめて書いていかなくてはならないな、なんていう思いを今抱きました。

先生のエロイーズにも話したことのない美術品の売買とは何やらなぞめいていますね。きっとまた驚くようなエピソードがあるのでしょうね。

 ええとね、私のエロイーズといえば、ちょうど学生のときからつき合った女性なのですが、この女性には、この府中刑務所での、加藤道子さんのことを話さなかったということです。それで、この美術品の売買のことは、もう私が結婚して子どももいる時期のことなのです。はっきり書かなくて申し訳ありません。ただ、たしかに、この美術品に関しては、驚くべきエピソードはありますよ。とても大変に面白い話なので、また別に書きますね。

私も人間の声というものには興味を持っています。なぜか教養や人格が現れるし、同じような性格の人は同じような声の場合がありますよね。声優や朗読というテーマはすごく興味があります。

 私も同じです。そういえば、この加藤道子さんの思い出を、私のサイトの中にある「三上治の世界」でも、以下に書いてくれています。

   ある女優のこと

 今では懐かしく思いだす加藤道子さんの声です。萩原周二
(第225号 2004.12.06)



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2011年09月05日

第71回「神様、あのね」

   Wednesday, October 27, 2004 11:10 PM
やれやれ
 日本列島踏んだり蹴ったりですね。その上台風24号が東に向きを変えたので23号と同じコースをたどったらどうなることかと思っていましたが、途中で消滅したそうで、天も憐れみ給うたのでしょうか。私は大きな地震の経験はありませんが、もしや先生は地震までドラマチックな経験がおありでは?

   Saturday, October 30, 2004 8:55 AM
Re: やれやれ

日本列島踏んだり蹴ったりですね。その上台風24号が東に向きを変えたので23号と同じコースをたどったらどうなることかと思っていましたが、途中で消滅したそうで、天も憐れみ給うたのでしょうか。

11090402 本当に良かったですね。
 大昔、まだ二人の娘が保育園に行っている頃の冬に、もう随分何日も雪が降ったことがありました。私は雪は好きなのですが(私は雪国の育ちだと思い込んでいます)、この関東で降る雪は、もう道をただただ汚して、大変なだけです。二人の娘は、もう雪ばかりで、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも二人を保育園に迎えに来るのが大変なので、

  きょうおばあちゃんと3人で、神様に、「もう雪を降らせない
  でよ」って頼んだよ

と言っていたことがあります。二人は真剣に神様に頼んだのでしょう。そのあと雪が降らなくなりました。あのころ、二人によく絵本を読んであげていたのですが、「神様、あのね」という本がありました。内容は覚えていないのですが、「神様、あのね、お願いがあるの」なんていう内容があったのじゃないかな。もう上の子は26歳になりました(誕生日があったばかり)。次女はもうすぐ25歳になります。

私は大きな地震の経験はありませんが、もしや先生は地震までドラマチックな経験がおありでは?

 いえ、地震の遭った経験はないですね。父母から、関東大震災の恐ろしさについては何度も聞いたことがあります。
 たった今、私の後輩から携帯メールが届きました。私もすぐに返信しました。けっこうな量を送ったから驚いたでしょうね。
 いえ、本日は埼玉大学のむつめ祭という学園祭に行くのですが、その彼が比較的若いので(私より26歳くらい下です)、現役の学生(ただの一般学生ではなく、この学園祭を仕切っている連中)を知っているので、彼に昨日電話したのです。そうすると、しばらくして、彼から返事があり、「今修学旅行で、沖縄に来ているんです」というのです。彼はある高校の先生なのです。
 それでまた携帯メールの交換になりました。
 いや、なにしろ、私はもう56歳でしょう。むつめ祭へ行きましたら、ただ飲んでいるだけなのですが、飲むところが問題なのです。「暴力酒場ひだり」というところが、私たちの飲む場なのですが、学生諸君は忙しくて、この飲み屋を建設するのが大変なのです。なにしろ、畳をひいて、毛布やこたつを用意して、蒲団もいります。そして、酒と、なにかおでんかなべ物か、なにかを豪華に作らないとならないのです。私も過去ずっとやってきましたがね、もう56歳でしょう。もう飲むだけ(それとこの「ひだり」で延々話をすることと、ときどき詩吟をやりますし、パソコンでインターネットは常時やっています)にしてほしいのですよね。
 彼がいると、そのすべてをやってくれるのです。私だと、ただ飲むだけはすぐできますが、畳や蒲団やこたつをどこからもってきていいのか判らないのです。なんか、毎年リヤカーでどっかから運んでくるんですよ。埼大は学生数は少ないが、実に大きな大学なので、どっかにとりに行きまして、運んでくる手段が私では判らないです。
 でもとにかく、彼は本日沖縄から帰って、夜むつめ祭に来るということです。ただ、埼玉大学はずっと24時間オープンの学園祭だったのですが、昨年から夜は学園祭ができなくなりました。文部官僚のしめつけなのですが、でも、当然私たちはそんなの知ったことじゃありません。
 それで、夕方から夜にかけて、「暴力酒場ひだり」を大学の職員が見にきます。「ひだりは、とびらをあけっぱなしなので、ときどき彼らと私の目が会います。それで、彼らは「やっぱり、周が来ている」と確認して、やっぱり今年も何も言い出せません。まあ、彼らもそれで嬉しいのでしょうがね。
 私は毎年ここで2泊してただただ飲み続けているのですが、今年は明日朝までしか飲んでいられません。明日は、文教大学父母教千葉支部の研修会がありまして、12時に千葉にいなくてはいけないのです。そこで、私は司会なのです。そして懇親会も司会だといいます。だから、私は酒を抜いて、素面の顔になり、司会になります。そして懇親会で、詩吟をやって、そしてなんとかそれを終えて、午後6時から、根津で、後輩のシャンソン歌手のコンサートに行きます、もうここで、たくさんの知り合いに会うでしょう。
 そして昔なら、またむつめ祭に帰るのですが、今の私は月曜日にメルマガ発刊があります。
 まあ、こんなことですね。萩原周二
(第224号 2004.11.30)



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2011年09月04日

第70回「台風のことで」

11090204   Saturday, October 23, 2004 12:55 AM
了解了解、
 充分人を唸らせるにたるすごいエピソードばかりですねー。ぽっかり晴れた夜の空を畳や家まで飛んでいくシーンは幻想的ですらあります。もう、へぇーの連続ですよ。でも何の準備もしてなかったのはまずかったですね。ご両親は台風の少ない土地のご出身だったのですか。
 今回の台風は今年最悪のようですね。これは経験しなくてニュースで見ただけでも語りぐさになりますね。

   Saturday, October 30, 2004 7:58 AM
Re: 了解了解、

ぽっかり晴れた夜の空を畳や家まで飛んでいくシーンは幻想的ですらあります。

「幻想的」、たしかにそうだったかもしれないなと今思います。そのときは、たぶん、台風の目に入っていて、実に周りは静かなんです。私たちが外に出ても、何も飛んできたり、雨をかぶってしまうということもありません。ただ、上空を見上げると、たくさんのものがものすごいスピードで飛んでいくのです。
 私はそのときに、

  俺は、この光景を一生忘れないだろうな

なんてことを思っていました。

もう、へぇーの連続ですよ。でも何の準備もしてなかったのはまずかったですね。ご両親は台風の少ない土地のご出身だったのですか。

 あのときは、我が家に限らずどこの家も何も準備していませんでしたよ。それは名古屋でしたから、台風に遇った経験がなかったのかもしれませんが、テレビもラジオも新聞も、何も警戒するようなことも言わなかったと思いました。
 そうですね。ごく近所で、私の家族と仲の良かった長島理髪店というところのご主人が、

  夕方、この台風には大変なことになるんじゃないかと思って、
  急いで入口のドアや窓を防ぐために、板を打ちつけた

と言っていました。あの人は台風の経験があったのかもしれません。
 私の両親は、父が茨城県笠間で、母が茨城県藤代町(母の時代も私が生まれたときも、ただの茨城県佐貫でした。のちに藤代町に入れられました)です。二人とも茨城の田舎の百姓出身で、台風なんてまったく経験がなかったのだと思いますよ。二人の経験といえば、関東大震災に遭ったことと、そして大東亜戦争の経験でしょうか。

今回の台風は今年最悪のようですね。これは経験しなくてニュースで見ただけでも語りぐさになりますね。

 ちょうど、夏に家族で行きました旅行で、歩いてお土産を買いました、修善寺のお土産屋さんが、テレビの画面で、店の中に泥がうずたかく入り込んでいるのを見ました。家族4人で、「これは大変だね」とものすごく驚いていたものです。萩原周二
(第223号 2004.11.22)



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2011年09月03日

第69回「青玉獅子香炉」

11090108   Saturday, October 16, 2004 12:39 AM
了解しました
 私が思うに情熱は体力に比例するのではないでしょうか。でも先生は少し減ったぐらいでは普通人になった程度に違いありませんよ。
 陳舜臣の草原の覇者の1を読みました。何だか漠然とした書き方です。登場人物の会話でも普通は会話から状況などがわかるように計算して書いてあるもですが、会話も普通の人が話すような、ある質問に対してぴんとはずれな脱線した答えをして、聞いたほうもそれで気にしないというような会話です。説話世界の話のような茫洋とした印象を受けます。この作家はいつでもこうなのでしょうか。以前毎日新聞の連載で天球は翔るという作品を連載していたときはもう少し具体的だったと思うのですが。この作品はわざとこういう味わいにしているのでしょうか。ちょっと2を読むのをためらっています。司馬さんと反対ですね。

   Saturday,October 30, 2004 7:37 AM
Re: 了解しました

私が思うに情熱は体力に比例するのではないでしょうか。でも先生は少し減ったぐらいでは普通人になった程度に違いありませんよ。

 いえ、私はそれほどの人間ではないのですよ。とにかく自分の存在にたいした確信を持てないので、いつも空元気ばかり露出している気がしています。

陳 舜臣の草原の覇者の1を読みました。

 陳舜臣さんは、「琉球の嵐」と彼の書いた三国志しか読んだことはないかと思いました。
 私は彼の作品では、「青玉獅子香炉」に一番思いがあります。以下に書いていますが、
 加藤道子さんのこと

  http://shomon.livedoor.biz/archives/51891760.html

 私が昔府中刑務所にいたときに、このNHKの「日曜名作座」の森繁久弥さんと加藤道子さんの、ラジオドラマはとても懐かしいのですが、府中刑務所に入ったばかりの最初のドラマが

  福永武彦「風のかたみ」

であり(たしか4、5週で次のドラマになります)、次が、この

  陳舜臣「青玉獅子香炉」
http://shomon.livedoor.biz/archives/51915099.html

でした。
 私は最初夜、このドラマで、「福永武彦」という名前を聞いたときに、実に驚愕と言っていいほど、いや身体全体が震えるほど、驚き感激したものでした。福永武彦には、彼の小説には、私はものすごい思い入れがあったのです。それで、このドラマを聞きながら、「朗読劇というのも、すごい迫力のものなんだな」と思ったものでした。
 この「風のかたみ」が終ったときに、次のドラマもまた興味をもって待っていたものです。そしてまた「青玉獅子香炉」は、実にいいドラマでした。森繁久弥さんと加藤道子さんの、朗読される内容もその声も今もありありと思いだされます。青玉獅子香炉というのは、主人公が作る贋作なのですが、これは本物と比較しても、むしろそれを上回るのじゃないかというほどのできばえでした。本物を奪うために、贋作が作らされたのです。だがまた、この贋作も盗まれます。その贋作の贋作が作られるのです。
 最後自分の作って、そして盗まれた贋作をニューヨークの美術館で、主人公が眺めています。もう彼はその贋作を作るために、精力を使い果たした老人でしかありません。そして、その隣には、加藤道子さんの朗読で演ずる、年老いた妻がいます。
 この物語を聞いていて、のちに私は40代になって、ある美術関係の大きな会社の社長が(そこに私はまたごく親しい女性と彼の美術顧問みたいな人と、美術品を売りにいきました)、

 「贋作だから蒐集しない」なんていうのは、全然美術が判ってい
  ない人のことだよ

と言われた意味が、私には充分すぎるほど判っていました。
 思えば、この思い出を詳しく話したこともありませんでしたね。私の彼女になった子にも、喋りませんでした。あの「日曜名作座」での加藤道子さんの声が今も私に聞えてくるだけです。

この作家はいつでもこうなのでしょうか。

 ちょっと私には、判りません。私には、上に書いた思い出がずっと私の心に残っている作家なのです。萩原周二
(第222号 2004.11.15)



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2011年09月02日

第68回「台風の思い出」

11083110   Monday, October 11, 2004 10:31 PM
Subject: 台風の思い出
 伊勢湾台風を名古屋で、洞爺丸台風を札幌でとはどこまでもドラマがついてまわる方でいらっしゃる。!!
 今でも念入りに台風の準備をなさるのもむべなるかな。うちでは子供のころは今存在すれば築八十年にはなる古い農家に住んでいましたから、祖父が台風のたびに玄関などに板を打ち付けていました。近所からも打ち付ける音が響いてきたものです。今はアルミサッシの建具で強風でも風もはらみませんから何もしなくなりました。先生のお宅でも家屋に準備はいらないと思うのですが、いったいどのようなことをなさるのですか?参考までに教えていただけますか?
 私には幸いにして台風の被害の経験はないのですが、友人の一人に面白いエピソードがあります。彼女は堺にすんでいて三歳の時まともに台風が上陸してきたそうです。昔の家ですから玄関は薄いガラスと木材です。窓は雨戸を閉めて何とかなったそうですが、玄関は面積も大きいし吹き飛ばされそうになって内側から家族総出で押さえ続けたそうです。お兄さんは怖がって泣いていたそうですが、彼女は冷静に「毎年こんな怖いことが起こるなら、生まれてきたのは間違いだったかもしれない。」と考察していたそうです。
 近所の知人は、家は借家なのでほおっておいて、実家に応援に駆けつけて玄関などをおさえていたところ、自分の家に帰ってみると玄関の戸は吹き飛ばされて中はめちゃくちゃだったそうです。
 実の所私は人に話せるような少し怖い台風のエピソードを自分の物にしたいなとひそかに望んでいます。

   Wednesday, October 20, 2004 6:26 PM
Re: 台風の思い出

伊勢湾台風を名古屋で、洞爺丸台風を札幌でとはどこまでもドラマがついてまわる方でいらっしゃる。!!

 いえ、特別ドラマというような思いはないのですが、この二つの台風は思い出深いです。

 札幌の前には、秋田市に住んでいました。たしか私は6歳になった年(昭和29年)の6月に父が転勤で札幌市に引っ越ししました。
 秋田では、父の会社の女性社員の渡辺さんという方が、私たち兄弟3人をとても可愛がってくれていました。兄はもう中学1年生でしたが、私と弟は、まだ保育園から幼稚園生で、渡辺さんは、もういつも私たちの家にまで来て、私たちと遊んできてくれていました。
 ところがこの転勤で、もう会えなくなってしまったのです。私たちも渡辺さんもとても悲しかったはずです。でもその渡辺さんが、そのとしの9月に札幌に来てくれたのです。たしか、9月25日に私たちの家に泊まっていってくれました。そして翌日26日には、秋田に帰るといいます。もう列車も予約していました。青函連絡船も予約していました。洞爺丸という大きな客船だといいます。この船で宿泊するようでした。
 ところが、彼女が帰るというのを、私も弟も嫌がります。もう弟はちっちゃい分からず屋の子どもですから、渡辺さんが帰るというのを認めません。少しはもの分かりのいい子だったろう私も、きょうだけでも泊まっていけとダダをこねます。それで、とうとう渡辺さんは、根負けして、我が家にもう一晩泊まることになりました。たぶん、あの頃珍しかった電話で、電車の洞爺丸もキャンセルしたのでしょう。
 でも、その晩、洞爺丸は転覆して沈んでしまいました。とにかく私の父母も渡辺さんも驚いたはずです。

 伊勢湾台風は昭和34年、我が家族は名古屋市北区大曽根に住んでいました。父の会社の営業所の2階が社宅になっていました。私は小学校5年生です。我が一家は私の小2の3学期に札幌から名古屋市南区若草町に転勤してきました。
 そのあと3年生の3月に千種区今池に転勤で、そこで4年生をすごし、5年生になるときに、北区に転勤になったのです。
 その社宅は、2階の南側がすべて大きな窓になっている社宅で、私たちは台風というのに、何の用意もせずにいました。あの頃は、今のようにテレビ等々の情報もあまりもたされていませんでした。我が家はその当時は秋田犬が2頭、英国コッカスパニュールが2頭、鶯が2羽、メジロが4羽、大瑠璃が1羽、もう一つ(種類を今思い出せない)が1羽、十姉妹が数知れずいました。
 それらの動物たちは、自分たちの犬小屋や、裏の庭の安全な場所に居てもらいました。だが、秋田犬の剣光号だけは、社宅の中に入ってきていました。彼はいつも「俺だけはここに入れてもらえる資格があるんだ」という気持のようでした。ただし、彼が入るのは、1階のみなの食事する小さな部屋の土間だけでした。
 でもこの日だけは、強い風のせいか、このケン(剣光号をケンとよんでいました)は、いつもなら絶対に遠慮する2階の部屋まで勝手に登ってきたのです。
 私たちはただテレビを見ていました。
 ある時間に突如大きな窓ガラスが1枚割れました。たぶん、夜の8時頃でしょう。父と母がなんとかその割れた窓を、なにかで防ごうとしていました。そのときに偶然私の叔父が電話してきたのを覚えています。父が「今台風で大変なんだ」と電話に叫んでいたのを覚えています。
 でもそのうち、次々に窓ガラスが割れ出しました。すぐ停電になります。もう2階にはいられません。家族5人、1階の3帖(ここでいつも食事していた)に降りました。ケンは最初のガラスが割れたときに、1階に逃げていました。 そして一家5人がこの3帖で、毛布なんかかぶって寝るしかないのです。ケンは絶対に家の畳の部屋には上がらない犬でしたが、このときは、家族5人の中に入ってきました。私はケンと抱き合って寝たのを覚えています。時間は午後9時くらいだったでしょうか。
 ただ、私は「これは一生わすれないだろうな」と思ったことがあります。夜2時頃、外へ出たのですが、そのとき雨も風も止んでいました。「これが台風の目なのかな」なんて父が言っていました。
 私は暗い空を見上げました。そうすると、私の目のはるかに上を、はるかな上空を、ものすごい勢いで、たくさんのものが飛んで、畳とか、戸とか、窓とか家とかが、なにもかもが、はるかな上空を飛んでいました。ものすごい勢いで北東のほうに飛んでいました。
 そして朝です。もう早々とみな起きて外を歩いています。ただただ驚きました。私の家は市電の通りに面していたのですが、大きな街路樹が根こそぎ倒れています。私の家は会社の営業所ですから、大きなネオンサインが1、2階についていたのですが、それがざっくりとれています。2階の窓ガラスはすべて割れています。だが、これは私の家だけではないのです。そして、私たちの住んでいた北区はいいのです。南区や港区はその後何ヶ月も大変なことになりました。
 いや、もう思い出すことがたくさん出てきます。また詳しく書いてみるべきだななんて思いました。

先生のお宅でも家屋に準備はいらないと思うのですが、いったいどのようなことをなさるのですか?参考までに教えていただけますか?

 たしかに私のところはマンションでして、まず何かを打ちつけたりということは必要ありません。私がやるのは、いわば精神的なことですね。まず台風をけっして馬鹿にしないということです。これは家族に言い続けます。そして、これは台風に限らないのですが、家族・親族含めて連絡網を密にするということです。これは、オウムのやった地下鉄サリン事件のときもそうでした。私も地下鉄で通っているのですが、私もあの事件に巻き込まれる可能性はありました。だから、私は事務所について、すぐ私の母の家に電話しました。私は安全で大丈夫だということを伝えたのです。この自分が安全だったということを伝えないと、母や妻が、私目がけて電話することによって、電話は混乱し、かけにくくなり、より母や妻は心配になります。私の母への電話で、母は妻の会社へ電話してくれて、それであとは他の家族・親族同士の連絡ですむのです。電話の混雑で連絡とれないで、あせるということがありません。何かに遭ってしまった側が連絡するのではなく、安全だった側が、「私は安全で、今はここにいる」という連絡が大事なのです。
 それからもう一つですが、「災害だから、もうすぐに帰宅しよう」というようなことをやらないこと、ということがあります。もうこれでまた帰宅の電車はおおいに混乱混雑して止まってしまうことがるのです。だからそんときは、どこかの飲み屋で時間を過ごしたほうがいいのです。私は本日もこれから、飲み屋に行こうかなと思っているところです。

 台風に関して、もっと書かないといけないなという思いがおおいにしています。まあ、とにかく台風を馬鹿にしないで、私の思い出を大事にしていこうとは思っています。萩原周二
(第221号 2004.11.08)



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2011年09月01日

第67回「携帯メール」

11083002    Saturday, October 09, 2004 2:16 AM
いえ、こちらこそ。どうぞご利用ください
 では先生も親指打ちをなさっているのですか。しかし携帯では言いたいことを全部書くのは苦しいのではありませんか。それに読むほうもあまり長いと読みにくいだろうし、先生としては欲求不満になってしまうのではと危惧します。
 木蘭はちっともかわいそうではない証拠がさらにあります。お二人の娘さんがいらっしゃいますが、十五ぐらいでよく知らない人間に嫁がせるなんてできますか。それぐらいなら三年ぐらい会えなくても外国に留学でもさせて、一人前の判断ができるようになるまで待ってからのほうがましだし、自分で職業や相手を選ぶようになればなおいいとおもわれませんか。

   Sunday, October 10, 2004 4:45 PM
台風お見舞い

 まるでゴジラの来襲のようでしたね。ご無事でしたか?

   Sunday, October 10, 2004 6:57 PM
Re: 台風お見舞い

では先生も親指打ちをなさっているのですか。

 私は、左手の親指で打っていますよ。最初からそうやっていたのですが、右利きの人は大部分右指で打っているようなことを知り、私のほうが驚いたものでした。でもなんとなく、右利きの私が左指で打つのはいいですよ。

しかし携帯では言いたいことを全部書くのは苦しいのではありませんか。それに読むほうもあまり長いと読みにくいだろうし、先生としては欲求不満になってしまうのではと危惧します。

 たしかにそうなんですね。だから携帯メールの場合は、何通かのメール交換になります。例えば、私の文教大学父母教の仲間との場合なんか、互いに電車の中やバスの中で、3通くらいやりとりして、何かを決めたりしています。相手も私より1歳上なんですが、こうしてあることがこれで出来ちゃうと、けっこういいものですよ。
 また、先週清里へ行ったときですが、電車の中や、宿泊の合間に、携帯でメール交換したのが、私の友人の女性たちです。二人は、私のよく行く飲み屋のママさんとその妹で、妹さんが長い病気なので、ときどきこうしてメールします。短い文面を何度か交換するのです。この妹さんは、この携帯メールしかできませんから、これだけでときどきメール交換しています。このお母さんから、この妹さんのことで、私がいつも連絡くれてありがたいといつもお礼を言われています。
 それとまた私の友人の女性ですが、現在脚を痛めているのですが、彼女にもこの清里から何度かメールしました。「今度温泉へ行こうよ」なんていう話もしましたよ。

木蘭はちっともかわいそうではない証拠がさらにあります。お二人の娘さんがいらっしゃいますが、十五ぐらいでよく知らない人間に嫁がせるなんてできますか。それぐらいなら三年ぐらい会えなくても外国に留学でもさせて、一人前の判断ができるようになるまで待ってからのほうがましだし、自分で職業や相手を選ぶようになればなおいいとおもわれませんか。

 充分納得しますよ。私の二人の娘は、自分で彼氏を確実に選んできました。そして両親である私たち夫婦も、その相手を知ってきました。いや、長女の結婚した相手、次女の今の彼氏だけではなくて、以前につき合った彼氏たちのことも私たちは知っていました。みんないい子ばかりだったのですが、恋するということは難しいことだよな、なんて思っています。
 私も二人の娘に、私の大変な恋の話をしてきました。「そんなにそこまで、深くつき合ってきても、結ばれないこともあるんだね」なんて、長女に言われたものでした。

まるでゴジラの来襲のようでしたね。ご無事でしたか?

 たしかに大変な台風でしたね。ただ、私は洞爺丸台風を札幌で、伊勢湾台風を名古屋で体験していますので、台風の恐ろしさを真剣に感じているつもりですから、もう真剣に対処します。
 9日は文教大学父母と教職員の会千葉支部が船橋市運動公園で開催される、「第7回千葉YMCAチャリティーラン」というスポーツイベントに参加する予定だったのですが、当日朝7時に本部から中止決定がきました。まあ、仕方ないのですが、このあと、このイベントをどうするのか、大変なところです。スポーツイベントというのは、天候とのからみが大変なんですよ。多少の雨くらいでは止められないものなのですが、今回は仕方ありませんでした。
 私と次女は家にこもっていましたが、妻が治療のために、お茶の水へいきまして、帰りが大変でした。でもとにかくみな無事で嬉しいです。
 台風は本当に恐いです。夏に行きました伊豆で、タクシーの運転手さんと、狩野川を見ながら、昭和33年の狩野川台風の話をしました。「こんな小さな静かな川に見えるのにね」なんて会話でした。この台風も私は経験しています。
 そういえば、上に書いた洞爺丸台風も、この狩野川台風も、伊勢湾台風も、みな9月26日に来ていて、大きな被害を私たちに与えているのですね。
 メールをありがとう。萩原周二
(第220号 2004.11.01)



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2011年08月31日

第66回「日本にもともと文字があったという?」

11082908   Monday, September 27, 2004 1:36 AM
はーい了解です。
 うーん日本にばかり注目しないで、中国のこの時代の歴史を広い視野で眺めて西や南にも目を向けると違った見方もでてくるものなのですねー? それにしてももうちょっとこの時代に日本人が文字を書くようになっていたらはっきりしたことがわかるのにと思わずにいられません。

   Monday, September 27, 2004 4:01 AM
Re: はーい了解です。
 了解いただきまして、ありがとう。
 今必死にメルマガ作成中です。本日から月末までやりきらないとならない仕事がたくさんあるので、今はこのメルマガを終えるのに必死です。

「日本人が文字を持っていたら」というのは、たしかにその通りですね。江戸時代の平田篤胤は、その国粋性のせいか、「日本にはもともと文字があったのだ」ということで、この文字を作ってしまいました。
 でも、そんな文字をあとから作っても、仕方ないじゃないか、と思うところではありますが、でもでも、私はいろんな人から、「日本にも、本当はもともと文字があったのね」というようなことを言われて、その文字をいく種類が見たことがありますよ。
 そういえば、その中では、三角寛が典型的な感じがします。この方に

  サンカ社会の研究

という本がありまして(ほかにもサンカのことはいくつも書いていますが)、その中に、この日本独特の文字があったことがひっそり書かれています。この本は実に面白い本ですよ。ただし、今この本を手に入れるのは大変です。古書店で実に大変な値段がついています。

 もう次女の学校の運動会があったり、その他もたくさんあって大変です。金曜日午後必死にあるクライアントで仕事して、そのあと担当の女性と飲んで、それがけっこう莫大に飲んじゃって、それから事務所へ帰って、仕事とホームページ作りと、それからいろいろなものをスキャニングしたりするうちに、朝6時になって、自宅へ帰って、それからすぐ葉書を少し印刷して(インクが足りるかを調べた)、それから風呂入って、必死に次女の学校へ行きまして、運動会見学をしました。
 それで午後2時半頃自宅帰って、2時間仮眠して、それから、またある飲み屋に行きました。これは飲むことが目的ではなく、重要な用がありました。でも結局飲むよね。
 それで夜11時頃帰宅して、また仮眠して、2時頃起きて、いよいよ葉書を本格的に印刷(全部で640数枚なんです)しました。それが5時に終って、また2時間仮眠して、今度は長女の運動会だというときに、「雨で中止」というメールがありまして、それで、大事なことを書く必要があるのを思いだしまして、必死に書きます。これは、この日、文教大学父母会千葉支部の会合で提示しなければならない文章なのです。
 それを書いて、午後1時に、「千葉みなと駅」の「ポートプラザ」へ行きまして、会合とこの支部の研修会への会員向けの告知の文書の封入作業をします。
 それで午後3時半頃終りまして、帰宅しましたが、思えば母のところへ行かないとなりません。母の面倒をある時間みないとならないのです。
 そして自宅で、ビール飲みながら「新撰組」を見ました。
 それからまた、今に至っています。
 ごめんなさいね、どうでもいいことを書きましたが、私の備忘録にもなるかなと思いました。
 それから、Mさんに、大変に感謝いたします。こうしてメールいただいて、返事できることがとても嬉しいのです。
 子どもたちが、運動会で懸命にやっている姿を見て、なんだか泣き出したくなるような感激を感じました。今の子どもたちはいいですね。そして、次女もいい職場を選べたな、という思いでいっぱいです。萩原周二
(第219号 2004.10.25)



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2011年08月30日

第65回「卑弥呼 の2」

11082801   September 12, 2004 10:19 PM
大胆発言に、ドキッ。

 本日は、どうも何ごとにもやる気がなかったのですが、あなたへのメールをこうして書いていまして気力が回復しました。またいろいろなことをやらなくちゃね。

 先生にもそんな時があるのですね。いつも元気いっぱいのように思っていましたが。でももし飲み過ぎの後遺症なら仕方がありませんけど。私も体を動かす気力がないときはハードディスクの整理やメール書きなどをしています。雑誌に紹介しているフリーソフトを試すのも楽しいです。あと何か勇壮な曲を聞くのも効きます。私の場合は宇宙戦艦ヤマトが効きます。試してみてはいかがですか。ところで先生のOSは普通にWindowsですか。手作りマシンにこだわるようにLinaxとかかわったものをつかっていらっしゃるんですか?

ですよ。江戸時代には、厠は別にありましたが、ロンドンやパリでは、それが存在せず、窓から投げ捨てていたといいます。汚いことが平気な民族なんですね。

 しかし世界に先駆けて地下下水道をはりめぐらせていますよ。一事をもって万事を推測するというのは感心できぬように思います。まあ、遊びで議論するときはそれくらいの思い込みの激しさでしたほうがおもしろくなりますが、そうでない場合はもう少し公平に見てあげたほうがよくありませんか。日本人がもし高層建築に密集してすんでいたら上の方の連中は同じことをしたかもしれません。日本はほとんど平屋で、土地もゆとりがあったようですからね。

 ええとですね、私はこう思っています、大胆に言い切っちゃいますが、卑弥呼という存在はいなかったのだと思いますよ。あれは中国がでっちあげた存在ですよ、。

 うん、これはほんとに大胆な発言ですね。初めて聞く意見です。確かに姫彦制と言う言葉があるくらいですからそういうシステムの小さな国が始めのころはたくさんあったのでしょう。武王が使いを送ったのが確かなら、その中の一人が使いを送っていてもおかしくはないのではありませんか。倭人伝という言い方は日本人が言いだしたそうで、元の魏志には伝というほど大きな章を一つ立てているわけではなく、はっきり覚えていませんが、何かの章のなかのほんの一部分に倭人のことをちょっと書いたという程度だと読んだ覚えがあるのですが。麗々しく書いたのならともかく、自分で軽べつしているような野蛮人の国が朝貢に来たよとついでのように書いたところで何か権威付けになるとはおもえないんです。
 木蘭はちっともかわいそうじゃありませんよ。戦争に行かなかったら後は結婚するしかない時代です。知らない人と結婚して姑と舅にいじめられて自殺した話は中国にもたくさんあるあるでしょう。幸不幸が運できまるわけです。戦争で立派にやっていける実力があるなら広い世間を見て自分で生きていくほうが楽しいじゃありませんか。川島芳子のことはまとまったものは読んでいませんが、ラストエンペラー関係の本で少し読んだとおもいます。彼女が男装したのは何か目的を達するためではなく、ファッションとしてのようですが。数奇な運命ではありますが、何かの目的のために働いたのではないのであまりドラマチックではありませんね。ジャンヌ・ダルクのような話が好きなんです。

   Thursday, September 23, 2004 6:57 PM
Re: 大胆発言に、ドキッ。

 こうして返事を書くのが遅くなってしまいました。ごめんなさい。

先生にもそんな時があるのですね。いつも元気いっぱいのように思っていましたが。でももし飲み過ぎの後遺症なら仕方がありませんけど。

 私はほぼ毎日二日酔いですから、飲み過ぎというのは実に毎日なんです。まあこうしてメールを書いていますと、だんだんと気力も回復していきます。今はさきほどからずっと何人もの方にメールを書き続けています。

ところで先生のOSは普通にWindowsですか。

 Windows XPです。Linaxというのは使う気はないのですよ。とにかく、パソコンは楽に使えればいんです、また新しくやり直すのは大変です。

しかし世界に先駆けて地下下水道をはりめぐらせていますよ。

 そうですね。ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を思いだします。

一事をもって万事を推測するというのは感心できぬように思います。まあ、遊びで議論するときはそれくらいの思い込みの激しさでしたほうがおもしろくなりますが、そうでない場合はもう少し公平に見てあげたほうがよくありませんか。

 言われる通りです。どうも私は偏見に満ちたところがあるんですね。とくに欧米に関してはそうなのですね。

うん、これはほんとに大胆な発言ですね。初めて聞く意見です。

 そうだと思います。私は随分昔から、こう考えていたのです。
 陳寿の書いた「三国志」の「魏書」の中に、「烏丸・鮮卑・東夷伝」がありまして、そのさらに倭のところを書いている一部を「倭人伝」と私たちが言っているだけです。
 女王卑弥呼が魏に使いを出して「親魏倭王」といわれるようになるのは、西暦239年です。その10年前に、西域の大月氏の王が同じように魏に使いを出して、「親魏大月氏王」とされます。この大月氏の仲立ちをしたのが、曹真であり、卑弥呼のときは、司馬懿でした、この同じ239年には魏の明帝が亡くなり、曹真の息子の曹爽と司馬懿が権力を持って、8歳の曹芳が帝位に着きます。
 この権力を握り、やがては三国時代を統一する晋を作った司馬懿をこそ讃えるために、10年前の曹真と同じ迫力にするために、卑弥呼の国もまた大月氏と同じくらい大きな国とされたのです。
 そしてさらに、過去研究者が解けなかった、方位の問題があります。あれをそのまま読んでいきますと、邪馬台国は、実に呉の南に存在する大国になります。このことは、方位を間違えたのではなく、未だ敵国であった呉国に脅威を与えるためだと考えられるのです。
 私はこの邪馬台国のことをある程度詳しく知りましたのは、中央公論社「日本の歴史全26巻」の第1巻目の井上光貞さんの書かれたものからです。たしか高校2年のときでした。私はこの井上光貞さんの書かれているものを読んで「ああ、やっぱり邪馬台国は大和にあったのだろうな」なんていう思いになったものでした。
 それが、その後さまざまな本を読み、とくに陳寿「三国志」に関して、いくつかの本を読んでいきまして、「どうも陳寿はかなりいい加減なことを書いていたんだな」と感じてきていたのです。それがこの邪馬台国女王卑弥呼への思いになってきたものです。
 その後、あまり日本の歴史について、それほどの関心もなくなってきていたのですが。近ごろ、この私の「邪馬台国なんて、陳寿のでっちあげサ」ということと、同様のことを言われる歴史家他の存在を何人か知りまして、「ああ、やっぱりなあ」という思いになりました。
 まあ、今後の研究でさらにはっきりしてくることがあるかと思っています。

木蘭はちっともかわいそうじゃありませんよ。

 木蘭に関しては、あんまり知りません。大雑把なことくらいだけの知識です。Mさんと話すのには、ちゃんと知らないとまずいなという思いです。
 また。萩原周二
(第218号 2004.10.18)



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2011年08月29日

第64回「卑弥呼」

11082718   Thursday, September 09, 2004 1:09 AM
はい、了解しました。

すごく綺麗で優秀な姉でしたから、「いつか白い馬に乗った王子さまが、お姉ちゃんを迎えにきて連れていく」ものだと真剣に思っていたよ

 フェミニスト運動をやっている人がこのような王子様幻想が女性のさまざまな不幸の大きな原因の一つだと書いていました。この妹はこのような幻想を持たずに育ったのなら幸福になったのではないでしょうか。

 中国では昔にさかのぼるほど記録が多いという話はなるほどなー、と思いました。それにしても日本の記録の少なさは悲しいですね。せめて卑弥呼のいた場所ぐらいはっきりわかればいいに。

 じつは香乱記は読んでます。あれは毎日新聞の連載だったんです。前半は始皇帝の時代の話で男装の美少女などの小説的仕掛けもあって楽しく読めました。後半は楚漢戦争の時代ですが、新聞連載ではだんだん何が何だかわからなくなってしまいました。私は男装の美少女が大好きです。だからジハードという小説も好きです。木蘭の話も好きです。当然ベルバラも大好きです。

   Thursday, September 09, 2004 5:42 PM
Re: はい、了解しました。

フェミニスト運動をやっている人がこのような王子様幻想が女性のさまざまな不幸の大きな原因の一つだと書いていました。この妹はこのような幻想を持たずに育ったのなら幸福になったのではないでしょうか。

 うーん、なんと言ったらいいのかな。まあ、私がとんでもない存在でしたからね。

中国では昔にさかのぼるほど記録が多いという話はなるほどなー、と思いました。それにしても日本の記録の少なさは悲しいですね。

 これはまず、中国が文字を持っていた国だということがありますね。日本には残念ながら文字がなかったのです。ただ、その替わりに、日本のたくさんの民俗の中にたくさんのものが残されているのだと思うのですね。柳田国男という人は、日本各地の、民俗の中に私たちの祖先のたくさんのものを見ることができたのだろうと思うのですね。また折口信夫は、万葉集の中にも、古事記のなかにも、さらに昔のたくさんのものを見つけられていた人だろうと思うのです。私は少しはこの二人の見ていたものを、少しは私も見られるようになれないかなと思っております。

せめて卑弥呼のいた場所ぐらいはっきりわかればいいのに。

 ええとですね、私はこう思っています、大胆に言い切っちゃいますが、卑弥呼という存在はいなかったのだと思いますよ。あれは中国がでっちあげた存在ですよ、。
 三国志の歴史の中で、魏は漢から政権を簒奪します。そして晋が魏から政権を簒奪して、呉を滅ぼして中国を統一します。この晋の司馬氏は、どうしても自分を中国の正統な後継者と言いたかったのだと思います。このときに、東国の島国の摩訶不思議な、女王卑弥呼が誕生したのですよ。遠方の東国の国からも、卑弥呼という女王が、晋に貢ぎ物を差し出し、晋に服従したがっているというようなことが大事だったのです。そのために、卑弥呼と邪馬台国が作られたのです。
 もっと言えば、この日本には、あのような巫女としての女性とその弟が王をつとめる小さな国はたくさんあったことだろうと思います。天照大神と須佐之男命も、姉と弟で、この日本を治めようとしていました。いや、日本では、姉妹と兄弟との関係(これもまた対幻想なのですが)が、やがて日本という国家の成立に至ったものだと思います。
 だから、実は卑弥呼は、日本中にいたのです。九州にも大和にも、私の故郷の茨城にも東北にもいたのです。ただ、「卑彌呼」という漢字を当てられた女王は、あくまで、陳寿の書いた「三国志」の「魏史倭人伝」の中で作られた人物なのです。と私は言い切ります。
 そもそも、「卑弥呼」の「卑」、「邪馬台国」の「邪」などという字をなぜあてるのでしょうか。いえ、その前の「奴国」も同様です。また漢の光武帝から貰ったという金印は

  漢委奴国王

と書いてありますが、本来は委ではなく、「倭」であるはずです。東方の島国の人間は、しっぽでもはえている野蛮人だろうということで、「人」をはずしてあるのですよ。
 私たちだけではなく、日本の過去の知識人たちも、この中国のいう「卑弥呼」とは誰だろうと考えてきました。間違いなく聖徳太子は、この中国の書物に書かれている「卑弥呼」を、中国が勝手に作った人物だと看破していたでしょう。 その当時の若き日の蘇我蝦夷と中臣御食子(この息子が藤原鎌足)が二人で話していた姿が見えるような思いになります。

  この卑弥呼って一体誰のことかな?
  神功皇后のことかな?
  いや、太子は何も言われないけれど、みんなもう判っているんだろうね。

 聖徳太子には、卑弥呼の話のくだらなさが判っていたのですよ。おそらく、このことは、江戸時代の新井白石も、水戸光国も判っていたと思いますよ。

じつは香乱記は読んでます。あれは毎日新聞の連載だったんです。

 私も毎日新聞なんです。もう子どものときからそうなんです。朝日も読売も読んでも面白くないのです。「香乱記」はまた文庫本になったらちゃんと読み返します。

「男装の麗人」というと、私は真っ先に川島芳子を思い浮かべます。なんだか彼女のことは可哀想でなりません。木蘭の話は、これまた可哀想な思いになります。ベルバラは読んだことがないので、よく判らないのですが、あの時代のパリでは、男装は大変だったでしょうね。この日本の江戸時代なら、トイレは完備されていましたが、あの時代のパリでは、トイレがないのですよ。ベルサイユ宮殿にもトイレはありません。だから女性は長いスカートをはいていたのです。まあ、こんな話はいつもどうでもいいときにやっています。娘たちに話すと面白がっていますがね。ヨーロッパの都市って、実に不潔窮まりなかったのですよ。江戸時代には、厠は別にありましたが、ロンドンやパリでは、それが存在せず、窓から投げ捨てていたといいます。汚いことが平気な民族なんですね。

 本日は、どうも何ごとにもやる気がなかったのですが、あなたへのメールをこうして書いていまして気力が回復しました。またいろいろなことをやらなくちゃね。萩原周二
(第217号 2004.10.11)



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2011年08月27日

第63回「司馬遷の史記 の2」

   Monday, August 30, 2004 4:07 PM
また了解です。

申し訳ない、「血わき肉躍るというタイプが好み」というあなたに、このくらいことしか書けませんでした。

11082509 知能が高校生程度で止まっている相手に合わせるのはご苦労が多いでしょう。申し訳ないです。うーん史記か。これははたして私の手におえるものかどうか、それが問題です。司馬遷はいったいどうやって史記をかいたのだろうとおもっていましたが、彼以前にものすごくたくさんの記録が残っていたのですね。中国の歴史の長さときたら気が遠くなるほどですね。骨に書いた王様の名前が出てくるんですからねー。

 今、宮城谷さんの太公望を読んでいます。こういったふうに面白い小説として司馬遼太郎も項羽と劉邦を書いてくれればよかったのに。しかし三国志を執筆中とは驚きました。これは中国関係の第一人者として密かに北方健三さんに闘志を燃やしていたのかも。そして全力投球できる環境を整えていざ勝負とでたのかもしれませんね。太公望を読んでいても、いったいこの人は何者だ、どうやってこれだけ詳しくなったんだろうと、思わずにはいられませんでした。手で史記をかきうつしたとは。これをやると記憶力のいい人は全部頭にはいるらしいですからね。いちいち原書をひもといてつきあわせなくても頭の中でできてしまうんですねー。南方熊楠も万巻の書を書き写して勉強し、それが全部頭の中にはいっていたそうですね。同じ人類とはおもえないなー。宮城谷さんなどは仙人か、メトセラの子らに出てくる不死人で古代中国から生き続けてすべてを見てきた人みたいです。

 せっかく旅先からしみじみと旅情に満ちたメールをいただいたのに、はかばかしい返事もできませんでした。何しろ侘とか寂とかにも縁がないもので豚に真珠です。伊豆と言ったら、下田海中公園へ行ってシュノーケルの講習会が無料であるらしいのでうけてみたいな、とか、箱根に大きなリゾート温泉パークがあるというのに行ってみたいな、というようなことしかうかびません。実行はしないんですけどね。バーチャルに楽しむだけなんです。
 実朝には確かに同情します。幕府がしっかりしてから生まれてきたら気楽に将軍をできたのにとは思っています。

 奥様とは入りたくない?えー、そうだったのか。しかしここは昔の深慮遠謀を思い出し、外堀から埋める手ですよ。我慢が大切です。

 今友人のパソコンの二つにパーティションを切った片方がクラッシュしたという連絡が入りました。おおごとです。明日ちょっとてだすけすることになりました。私までおちつかなくなりました。

   Sent: Saturday, September 04, 2004 4:48 PM
 Re: また了解です。

司馬遷はいったいどうやって史記をかいたのだろうとおもっていましたが、彼以前にものすごくたくさんの記録が残っていたのですね。中国の歴史の長さときたら気が遠くなるほどですね。骨に書いた王様の名前が出てくるんですからねー。

 司馬遷は中国全土を歩いて、たくさんの伝承・民話・神話も聞いたはずです。そしてそれを取捨選択していったのだと思います。中国の歴史を見ていくと、殷の前が夏で、その前が五帝の時代、その前が三皇の時代となっているわけですが、昔に遡れば遡るほど、なんだか歴史上の話が少なくなっていくように思いがちなのですが、実はそうではなく、古代へいくほど、より話が豊になっていくのです。それは「太公望」を読んで感じられるのではないでしょうか。
 呂望が歴史を学んでいくところがあるでしょう。あれで「古代の帝王の中に庶民出身の舜という人がいた」ということを知るところがあります。そしてそのことをよく学んでいくわけなんですが、おそらく舜に関してはたくさんのことがあったのだと思います。
 私は実は中国の神話をかなり詳しく学んだことがありまして、舜という人は人間というよりも神であったのではないかと思っています。そして舜は、また俊、あるいは峻とも言われている、けっこう恐ろしいところもある神でした。そうしたたくさんの舜を、虞舜という人間くさい帝王、庶民の中から出た帝王としたのは、すべて司馬遷のおかげです。司馬遷は、孔子に倣いまして、神や鬼神を嫌いました。彼はそういたたぐいの話を極力避けまして、人間の歴史を書いたのです。だから五帝の最初の黄帝なんかは、本来はどうみても神話上の神としての性格のほうが強かったはずなのに、「史記本紀」の最初に出てくる人間としての帝王として書かれています。
 夏の最初の王だった禹にしても、彼は中国全土を洪水から救おうと頑張ります。これは彼の父親だった鯀が洪水を防げずに帝王堯から罰せられたことの耻を雪ぐために必死だったのでしょう。禹は結婚しても家に返らず、懸命に水と闘います。そしてそれを治めたときに、帝舜から認められ帝王の位を禅譲されるのです。
 だが、この禹は水と格闘しているときは、実は熊の姿になって奮闘したと言われています。またその父親の鯀とは、実に大きな魚であったと言われています。
 だが、そうした中国の豊かな神話伝説を、司馬遷は一切些少して、鯀は失敗した行政官、禹はその父の耻を雪ごうと懸命に洪水と闘う懸命な息子というふうに人間の物語、人間の歴史の話として展開しました。これが司馬遷なのです。 五帝の前の三皇の時代になると、司馬遷の時代でも、もうあまりに神話としての話しかなかったと思われます。だからもう彼はその時代を描くことはなかったのだろうと思うのです。
 このことは、日本の記紀と比較しても、あるいはホメーロスの「イーリアス」と比較しても実に不思儀なことです。日本でもギリシアでも、古代を遡れば、人間と神が一緒に出てくる時代があるわけなのですが、司馬遷にはそれがないのですね。
 中国古代の「楚辞」という詩集にたくさんの神話伝説が載っています。ああ、こんなに古代中国にも豊かな神話や伝説が存在していたのだと思うのですが、この「楚辞」の作者である屈原もまた、神話や伝説を「ほんとにそんなことあったのかしら」と盛んにこの中で言い続けているのです。「天問(てんもん)」という章は、こうした豊かな神話伝承を描いてくれているのですが、それはいわば、「てんもん」というよりは、「天に問う」というような厳しい屈原の姿が出ています。「神なんて言ったって、そんなこと本当に出来たのかよ」という屈原の気持を感じることができるのです。
 屈原の「楚辞」は大きな石に書かれました。司馬遷はそうしたものを、実際に目にして、それをまた竹簡に書き写していったわけです。なにしろ、あのころは紙がまだないのですからね。
 だからおそらく、数十倍あったたくさんの資料の中で、一つ一つ選び書いていきましたのが、あの司馬遷の「史記」なのです。
 このことを、宮城谷さんは、「史記」を全文書き抜くことにより、全身でそれを理解されたものではないかと私は思っております。

 ただ、司馬遷「史記」を読んでいても少々不満も沸いてきます。私は「呉子」そのものの呉起の描き方が残念でたまりません。「司馬遷も呉起のことは誤解しただけなのかな」と思ってしまうのですね。

  呉子

 私は人間呉起が大好きであり、「孫子」よりも「呉子」のほうが好きなのです。

しかし三国志を執筆中とは驚きました。これは中国関係の第一人者として密かに北方健三さんに闘志を燃やしていたのかも。

 いやおそらく宮城谷さんが相手にしているのは、「三国志演義」を書いた羅貫中や吉川英治「三国志」だと思いますよ。私は吉川英治が書いた数々のところを、宮城谷さんがどう解釈してくれるのかと実に興味深いものがあります。

 実は私も昔府中刑務所にいたときに、「孫子」はすべてを書き写したのですが、もう忘れちゃったね。それから「古文真宝」(元の末のころ作られたものと言われ、詩は漢から南宋にいたる209首を蒐集し、また文は戦国から北宋までの韻文・散文を64篇蒐集してある本)も入れてもらい(実は和本を入れてもらいましたが歯がたたず、さらに参考書も入れてもらいました)、これを日々書き写し音読していましたが、今はもう忘れてしまいました。やっぱり私では駄目なんですね。そして今は日々飲む酒で、脳がさらに壊れているようです。

せっかく旅先からしみじみと旅情に満ちたメールをいただいたのに、はかばかしい返事もできませんでした。

 いえ、私にはこうしてメールいただいて、またこうしてメールを書けるのは実に嬉しいことなんです。ただ家族で行きました今回の旅行も実に楽しいいい思い出です。

実朝には確かに同情します。幕府がしっかりしてから生まれてきたら気楽に将軍をできたのにとは思っています。

 どうなのでしょうかね。「将軍」というのは、鎌倉武士団にとって、「源氏」という貴種としての貴族が必要だったのでしょうが、頼家では情けない武人でしかなかったのかもしれません。だから実朝は、ああいう存在としてしか生きられませんでした。「俺は武士の棟梁だ」と出てきたら、すぐに殺されてしまうのです。実朝のあとは、藤原氏の貴公子が将軍になり、やがて皇族の貴公子がまた将軍になります。だが、この藤原の将軍も皇族の将軍も、ずっと執権とは最初から最後まで争いを続けていくのですよ。鎌倉幕府の歴史は、ずっと将軍と執権が裏で争いあう流れです。
 思えば幕府という存在は、どうしても京都政権と関東武士が争わざるを得なかったものなのでしょうね。江戸幕府だって、豊臣氏が滅んだあとは、幕府と皇室とのものすごい戦いがあります。2代将軍秀忠は実に残虐な男でしたから、皇室を徹底していじめ抜きます。後水尾天皇(修学院離宮を作られた方です)は実にこの秀忠と雄々しく闘われた方ですよ。
 鎌倉幕府の頼朝にしても実朝にしても、私が嬉しいのは、平将門公をこそ尊敬していたことです。将門公が戦われた、東国関東の自立をこそいつも思い浮かべていたのだろうと私は思うのですね。
 また。萩原周二
(第216号 2004.10.04)



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2011年08月26日

第62回「司馬遷の史記」

11082502   Sunday, August 08, 2004 11:40 PM
はい、はい、了解です。

 私以外にも載せられるメールがあってよかったですね。
 椎名誠さんは私もファンで文庫が出ているのを見るたび買っていたんですが、十年ほど前でしょうか、続けて三冊ほど週刊誌の連載のつまらないエッセイをまとめただけのものとか、どこかの雑誌の企画で無理に旅行してまとめた様なものを続いて買ってしまい、それ以来対投資効果が薄いと判断して買わなくなってしまいました。
 海音寺潮五郎さんの平将門はyahoo booksで検索したところ、文庫は絶版で3800円の豪華本しかないことがわかりました。残念です。読みたい本がいくらかまとまると、送料も無料になるのでネットで年に二三回まとめて注文しています。昔は注文を出した後で楽しみに待ったあげく絶版とわかったりして苦労したものですが。
 それでというわけではないんですが、項羽と劉邦については誰の小説がおもしろいでしょう。オーソドックスなところで司馬遼太郎の項羽と劉邦は読んだんですが、膨大な文献を読みこなしてできるだけ本当にこうだっただろうと正確に書こうとしているように思えました。そのためキャラクターの魅力に乏しく歴史の講義を聞いているようで感情移入するところまでいきませんでした。血わき肉躍るというタイプが好みなんです。よろしくおねがいします。

   Friday, August 27, 2004 12:30 PM
Re: はい、はい、了解です。

 ごめんなさい。こんなに返事が遅れてしまいました。いえ、仕事も忙しいのですが、ようするに毎日大酒を飲んでいましてね。昨日は圧倒的美女と飲んでいまして愉しかったな。

項羽と劉邦については誰の小説がおもしろいでしょう。オーソドックスなところで司馬遼太郎の項羽と劉邦は読んだんですが、膨大な文献を読みこなしてできるだけ本当にこうだっただろうと正確に書こうとしているように思えました。そのためキャラクターの魅力に乏しく歴史の講義を聞いているようで感情移入するところまでいきませんでした。

 司馬遼さんはね、もう仕方ないのよ。彼は小説を展開するよりも、とにかく歴史を語りたくて仕方ないのですね。そしてしかも語るのは、彼の思う歴史なんです。私は彼の小説では、

  功名が辻
  北斗の人
  竜馬が行く

が好きですが、あとはみなすべて嫌いです。
 ところで、漢楚の攻防の歴史ですが、間違いなく一番面白いのは、司馬遷の「史記」だと思いますよ。「史記」は、「本紀」や「世家」、「列伝」の中にこの時代はあちこちに書かれていますが、一番生き生きとしていると私は思います。おそらく作者司馬遷にとって、「ついこのあいだのことだ」と思えるのがこの漢楚の時代だったのではないでしょうか。
「本紀」というのは、中国を支配した帝王たちの歴史です。最初から

  五帝本紀
  夏本紀
  殷本紀
  周本紀
  秦本紀

と続きます。ところがこのあとが、何故か「秦始皇帝本紀」となり、そして漢の「高祖本紀」となる前に、中国すべてを支配したとはいえない、かつ漢の敵であった楚の「項羽本紀」が書かれているのです。おそらく司馬遷は、この「項羽本紀」が実に好きだったのでじゃないでしょうか。
 司馬遷の「史記」を思いながら、私は司馬遼と比較して、私の好きな作家は宮城谷昌光です。ただ私は最初の頃、彼の小説を読みまして、

  この人は、司馬遷「史記」はあまり評価しないのかな

と思ったものでした。あまりに彼の小説の中に「史記」の描く内容が少ないように思ったのです。「むしろ、『春秋左氏伝』なんかのほうが好きなのかな」なんていう思いでした。でもでも違うのです。
 実は宮城谷さんは、この「史記」を全文手で書いたことがあるそうです。そしてそうしてはじめて「史記」のすごさが判ったようです。「史記」を全文書き抜くと司馬遷の心、気持が判ったそうです。(しかも司馬遷は紙に書いたのじゃないものね。青竹の後ろに書いたわけだ)。
 司馬遷はあの当時中国全土を歩き、あらゆる書物を読み、かつあらゆる故老の話を聞き、またたくさんの伝承を収集しました。それはあの長大なる「史記」の数十倍あったものと想像されます。その数十倍あった資料を取捨選択していったのが司馬遷なのです。
 司馬遼の「項羽と劉邦」の項羽の最後のシーンは、私たちが知っている項羽の最後とは違います。司馬遼は、「これのほうが本当の歴史なんだ」という思いで書いたのでしょうが、実は司馬遷は、司馬遼の書くあのような最後も知っていたことでしょう。でもでも、司馬遷は、やはり自分の好きな項羽の最後を、「史記」で書いたような内容にしました。このことこそが、司馬遷の偉大さです。司馬遼の判っていないことです。
 項羽を好きだった杜牧も、この項羽の最後を何度も思い浮かべたことだと思います。(私のよくやります詩吟の一つです。ああ、昨夜は乃木希典「爾霊山」を詠いました)。

  杜牧「烏江廟」

 そして杜牧もまた司馬遷の描く項羽にこそ涙を流したのではないでしょうか。
 こうしたことに気がつかせてくれた宮城谷昌光さんが、この漢楚の時代を描いたのは「香乱記」があります(ただしまだ文庫本になっていません)。ただし、これは項羽も劉邦も主人公ではありません。私ももしこの時代に生きていたとしても項羽には絶対に就きたくないし、劉邦も嫌です。そんな思いからすると、この小説はいいですよ。
 ただそれより前に「長城のかげ」を読まれるといいです。エッセイですが、宮城谷さんの漢楚の時代への思いが理解できるかと思います。
 それから、実は宮城谷さんは、「文藝春秋」にて「三国志」を執筆中です。ものすごい内容ですよ。おそらく、世界で一番長大なる「三国志」になると思います。
 正史「三国志」は実に長い歴史書です。ただし、内容がものすごく簡潔です、いや簡潔すぎます。それで、裴松之という人がものすごい註を書きます。以下にそのことを少し書いています。

  横山光輝「三国志」

 それで、大昔(つまり1,000年以上昔から。中国だけではなく、この日本でも)から、「三国志」よりも、この裴松之の「註」のほうが長いと思われてきました。3倍くらいあるのじゃないかと思われてきました。
 そして20世紀になっても、清の三国志の研究家が、

  私は実際に字数を数えてみたが、やはり裴松之の「註」のほう
 が字数が多い(3倍あると)

と言ってきました。だが、近ごろ本当に数えた人がいましてね、「三国志」のほうが裴松之の「註」よりもわずかに字数が多いそうです。これはすごいことですね。私は実にたまげました。これは前にも紹介した高島俊男さんが書いています。

 http://myshop.esbooks.co.jp/myshop/shomon?shelf_id=08

 ここの「三国志 きらめく群像」を読んでみてください。面白いですよ。私はこの高島さんの本を電車の中で読めないんですよ。とにかく、げらげら笑ったり、急に涙がこみ上げたりしてしまうのです。
 申し訳ない、「血わき肉躍るというタイプが好み」というあなたに、このくらいことしか書けませんでした。萩原周二
(第215号 2004.09.27)



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2011年08月25日

第60回「府中の麦シャリ」

11082407   Wednesday, July 28, 2004 11:23 PM
了解です。了解です。
 えー!まだ続くんですか。それじゃ漢字にもうちょっと気を使って書かないといけませんね。

 椎名誠さんの「哀愁の町に霧が降るのだ」やその前後の時代を描いたものはおもしろいエピソードが次から次へと続いて楽しいです。無論著者のテクニックもあってへたな人が書けばつまらない日常の一コマなのでしょうが、椎名さんの場合は自分も一緒にその場でばかなことをやっているように楽しいです。しかし先生も椎名さんに勝るとも劣らないエピソードの持ち主でいらっしゃることは間違いありませんね。波乱万丈さでは勝っています。やっぱりこれはいつか先日の題で本にまとめていただきたいです。

 府中のご飯がとってもおいしかったというのは異論のある人も多いのではないでしょうか。作る人によっても違うのかもしれませんが、安部譲二さんはけなしていたと思います。大根の季節には大根づくしのおかずが続いてついに脱走を決意したものまででたとか。入る前はインスタントラーメンばかり食べていたとかなにか特殊な事情があるのではありませんか。

 承服しかねるメールって、始めに小泉内閣に好意的なコメントがあったのでカチンと来て、あとの一両日中にというところに過剰反応なさっただけではありませんか。きっと昔私も学生運動をやっていた、と始めに書いてあったら喜んで無理して調べてあげたのではないでしょうか。先生の心を推し量るとこうなります。

 彼女の妹さんを脅したのはまずかったと思います。ご両親に告げ口されたら立場が悪くなります。チョコレートでもいつもおみやげにして、二三度彼女と一緒に遊園地へでも連れていってあげて、優しいお兄さんを演出すればなついてくれたとおもうんですが。

   Tuesday, August 03, 2004 7:03 AM
いつもありがとう

えー!まだ続くんですか。それじゃ漢字にもうちょっと気を使って書かないといけませんね。

 うん、またメールくださいよ。私はMさんとのメールの交換が実に愉しいです。
 507号で、あなたとFさん(31歳で牧師の方)のを紹介しまして、その次の508号もFさんとのメールを紹介します。

椎名誠さんの 哀愁の町に霧が降るのだ、やその前後の時代を描いたものはおもしろいエピソードが次から次へと続いて楽しいです。

 私も椎名さんのファンと言ってよく、彼の本はほとんど読んでいます。ただ、随分前になりますが、ある飲み屋の女の子が、「私もファンです」というので、その子に大きなダンボール1箱分の椎名誠の本を全部あげました。椎名誠に関して、私が気にいらないのは、彼が「週刊金曜日」の主要スタッフであることです。
 ただ彼は今、なんだかうまく書けていない感じがしますね。私はその理由は判るつもりです。そのうち、このことも書いてみます。
 ただ彼は実に格好いい男ですよ。宮崎学さんの出版記念会においでになったときに、もうほれぼれするようないい男でした。ちょうどプロレスラーの前田明さんも来ていたのですが、椎名さんのほうがずっと喧嘩の強そうな男っぷりでした。でも私はその場で、椎名さんに話しかけたかったのですが、なんだかできなかったのです。
 私は前にも、菅原文太さんが同じ飲む場においでになっていましたが、話しかけられないことがありました。同じ場に、由美かおるさんもおいでになりまして、彼女には親しく話しかけられるのですが、文太さんだとだめなんですね。それで、ついこのあいだも、文太さんがおいでになる会合がありまして、私は「ここで勇気を振るわないと、もう機会がないかもしれない」という思いで、文太さんに話しかけました。話は

  「懲役太郎まむしの兄弟」

についての細かいお話です。文太さんはちゃんと答えてくれて、実にいい男でした。

府中のご飯がとってもおいしかったというのは異論のある人も多いのではないでしょうか。作る人によっても違うのかもしれませんが、阿部譲二さんはけなしていたと思います。

 私は安部譲二さんは好きな作家です。ただ「塀の中の懲りない面々」の中で、不満なところは、この府中刑務所の飯のことです。なんで、あれを「美味い」と誉められないのか、私には理解できません。私は麦シャリが大好きでした。ただ、私の記憶の中では府中の麦シャリは、なんだか麦が8割でシャリが2割という、いわば真っ黒な感じだったのですが、麦5割米5割が最低の米の割合だそうです。「ほんとうにそうなのかな?」と疑問だったのですが、真相が判りました。懲役の配当(ハイトウ)係の方(食事を作る方々)が、米を食べちゃって、私たちにはどうしても麦の割合が多くなるそうです。でもとにかく、府中刑務所の食事は美味しいです。
 私は刑務所に行きまして、最初が夕食だったのですが、大きなコッペパンが入ってきたときには、「なんで、こんなにいい目に会えるのかのかな」と感激したものでした。
「塀の中の懲りない面々」では、接見でお母さんと会うシーンがあるでしょう。「あなたは、エドモント・ダンテスの話みたいのを書きなさいよ」というところが。私はあのところで、ものすごくほほえんで喜んで、そして泣きました。実にいいお母さんです。私の母も面白い人でしたし、父も目茶苦茶に面白い人でした。府中刑務所の職員は、私の父が来ると、もう実に大変な思いをしたのではないでしょうか。いや、実は私の父は府中だけではなく、東大闘争の被告の入っている、すべての拘置所、刑務所に行っているのです。それで、相手の職員とさまざま話しているのです。いやそれだけではなく、東京地裁の判事にも面会しています。私の担当の判事は、私の父と母の要求に、最後は走って逃げたといいます。新左翼の党派の救待の人間とも私の父はおおいに論争したようです。父はそもそも共産主義は大嫌いだったからね。私も反共主義者でしたが。さらに父は、当時テレビ番組にたくさん出て、いっぱい活躍したようですよ。

承服しかねるメールって、始めに小泉内閣に好意的なコメントがあったのでカチンと来て、

 それはまったくありません。私は小泉内閣についてはまったく関心がありません。

あとの一両日中にというところに過剰反応なさっただけではありませんか。

 そうですね。よくあるんですよ。たぶん高校生でしょうが、「魯迅の○○について原稿用紙2枚教えてください」なんていうようなメールがいくつもきます。たぶん、学校の課題なのでしょうが、私はもう絶対に返事は書きません。だが、本当はこのような当人もいけないけれど、その担当の先生もよくないよな、と思っていますよ。そういえば、今思いだしたけれど、昨夜ある飲み屋で、魯迅の話、芥川龍之介「杜子春」の話、「聊斎志異」の話、いろいろしていたなあ。「杜子春」の原典は「聊斎志異」なのですが、よく判ってないと、耻をかいちゃうよ、今の若い子のほうがよく知っているよ、なんて話です。

彼女の妹さんを脅したのはまずかったと思います。ご両親に告げ口されたら立場が悪くなります。

 当然、この妹は両親に告げ口していますよ。そんなことで、私を嫌うご両親ではありませんでした。妹は二人いたのですが、実は二人とも姉には憧れていたのです。ものすごく綺麗で優秀な姉でしたから、「いつか白い馬に乗った王子さまが、お姉ちゃんと迎えにきて連れていく」ものだと真剣に思っていたようです。だがそこに現れた私は、下着はふんどしだし、詩吟をやたらに詠うし、なんだか、何故かいつも家に泊まっているし、家の食事を作っているし、お祖母ちゃんと歌舞伎の話をしているし、というので、「なんか変だな、おかしいな」とばかり思ったようです。

チョコレートでもいつもおみやげにして、二三度彼女と一緒に遊園地へでも連れていってあげて、

 遊園地はいかなかったけれど、海に何度か一緒にいったし、彼女は私の下宿にも遊びに来たし、なんだか「構えなくていい」人が私だったと思いますよ。私はその姉と別れてしまったわけで、彼女そのものとは今でも連絡できませんが、私が今でも話せるのは、彼女のお母さんとこの下の妹だと思います。もうお祖母ちゃんもお父さんも亡くなっていますので、私もものすごく悲しいですが、いろんなことで、お母さんともこの妹とも伝わる思いを持っています。
 また。萩原周二
(第213号 2004.09.13)



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2011年08月24日

第59回「温泉新聞社って?」

   Friday, July 23, 2004 11:15 PM
了解です。了解です。

 前にも書きましたが、メールはたくさんいただくのですが、メルマガに載せられるというものは実にあまりないのですよ。

11082207 はい、確かに私は教えていただきましたが、他のかたがたはご存知ないでしょうからね。それに半分は冗談ですよ。承服しかねるメールっていったいどんなのか楽しみです。

 それから、先生、少し誤解していらっしゃいますね。。私が期待しているのは日本版「アベラールとエロイーズ」ではなく、タイトルをつけるなら「我が青春 闘争と梁山泊の仲間達 その一」「その二 後日談」というようなものです。もちろん恋模様も織り込んでいただきます。

 温泉新聞社ってもしかっすると椎名誠さんが著書のどれかで面接に行って温泉の名簿を熱海に売りにいかされたと書いている会社ではないですか。

 でも、読みなおすと、あまりに誤字が多くてこれまた羞しいです。

 確かに先生にしては少し多かったです。これからの飲み会への期待で気もそぞろかなと思って少し羨ましかったです。

 漢字の読み方ありがとうございます。こういうことを尋ねて気軽に返事をいただけるなんてほんとありがたいです。

   Saturday, July 24, 2004 9:50 AM
Re: 了解です。了解です。


それから、先生、少し誤解していらしゃいますね。。私が期待しているのは日本版「アベラールとエロイーズ」ではなく、タイトルをつけるなら「我が青春 闘争と梁山泊の仲間達 その一」「その二 後日談」というようなものです。もちろん恋模様も織り込んでいただきます。

 あ、なるほど納得です。アベラールという人は、このエロイーズとの愛の書簡も有名なのですが、私は彼の神学の考え方、「唯名論」も好きですね。以下にほんの少しだけ、そのことを書きました。

  ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」

 でも「梁山泊」なんていいますと、なんだか懐かしく思いだすことがあります。私たちは、自分の埼玉大学で、今も私たちの後輩が「むつめ祭」という学園祭を運営実行しています。この今も、日本共産党だけとは非和解的な関係をそのまま続けている学園祭です。
 このむつめ祭で、私たちが行くと、必ずたむろして飲んでいるところが、「暴力酒場ひだり」といいます。このむつめ祭の期間だけ開かれる飲み屋です。ここに、私たち大昔の活動家、その後の活動家、大学の職員、先生方なんかが集まっていつも飲んでいます。もう30年以上続いています。この「ひだり」は、とにかく酒があって、料金はとりません。ただ、私たちのカンパで成り立っています。私が学生の頃には、その前に飯場に入って働いていて、その金で酒を購入していたものでした。私が6年のときには、4斗樽を二つ買ったものでした。
 ところで、この私が6年のときは、この「暴力酒場ひだり」だけじゃまずいのではないかという事態がありました。この年は、私たちは、埼玉県関係の国会議員や、県会議員、市会議員等々に寄付を仰ぎ(ただし、もちろん日共は敵ですから、関係ありません)、集めました。でも、それら寄付に応じてくれた方には、このむつめ祭に招待しました。でも、その人たちを「暴力酒場ひだり」に来てもらうのは、まずいのです。ここは、やっぱり私のような馬鹿な元左翼が、ときどき暴力をふるうようなところなんで、自民党の国会議員なんかおいでなるとまずいじゃないですか。それで、こことは別に、同じ学部校舎内なのですが、3階には「ひだり」なんですが、1階に「ブキャランゼルーム『梁山泊』」という店を作りました。実に綺麗なお店で、綺麗な女の子を置いてあります。ここへ行くと、私も紳士のような態度になります。
 今この『梁山泊』が懐かしいのです。活動家の女の子というのは、けっこう美人が多かったので、実に愉しかったのです。
 ただねえ、この『梁山泊』では、みな紳士でも、上の『ひだり』へ行くと、途端に軍歌を唱いだしたりして、ひどい集団になったものでした。

温泉新聞社ってもしかすると椎名誠さんが著書のどれかで面接に行って温泉の名簿を熱海に売りにいかされたと書いている会社ではないですか。

 その通りです。彼の「哀愁の街に霧が降るのだ」に書いてある業界紙です。ただ小説の中では、神田の野菜店の2階になっていますが、事実は魚屋の2階でして、実際の新聞社は、小説で描かれているよりも悲惨でした。
 椎名さんが書かれている「売る本」は「温泉の名簿」ではなく、「東京旅行業者営業所便覧(地図入り)」というものでした。当時東京だけで、やく3千社の旅行業者の営業所があり、観光旅館ホテルは、そこへ、自社のパンフレットを持って営業に行く必要があるわけなんです(これは今も同じでしょうけれど)。それに、便利に使えるので、あの資料は評判は良かったのですよ。だから、椎名さんのやったのは、けっこうそれほど大変ではなかったはずなんです。
 私なんかは、各温泉旅館ホテルの、新聞への広告費を集金に行ったのです。でも、旅館・ホテルの側は、自分のほうから広告を出したという意識をまったく持っていません(そりゃそうですよ、実際に自分からは出していないのが事実なんですから)。
 でもね、集金できなければ、こちらは、飢え死にしちゃうんですよ。なにしろ、月末に5千円だけ渡されて(もう誰も、この5千円しか持っていないのです。何しろ月末で、給料は毎月5日払いだったから、もう金がないのです。すなわち私たちが、集金してこないと、給料は出ないのです。
 もう夜暗くなるころ、温泉街に着きます。交通費と昼飯くらいで、もう5千円はなくなっています。もう集金しないと、飢えるしかないのです。それに野宿するわけにはいきません。
 最初、私は鬼怒川温泉に行ったのですが、行く前に、会社の林君(実は社長が、小林といい、長男が森君といい、次男が林君と言って、みなそこの社員で幹部だった)に、「そうすると、今夜はどこへ泊まったら、いいんですか?」と聞きました。以下その会話です。

 林「行くのは、鬼怒川か、………ああ、どこでも泊まれるよ」
 周「そうすると、幾ら(の料金)で泊まればいいんですか?」
 林「どこでも二四(にいよん)のコミコミだよ」
 周「え、にいよんのコミコミってなんですか?」
 林「バカだな、そんなことも知らないのか。2,400円で、税
  サービス料込みだということだよ」
 周「え、今どき2,400円なんかで泊まれるんですか?」
 林「ばか、どこでも泊まれるよ」
 周「………………………………」
 林「ただし、二四のコミコミと言っても、現金を払うんじゃない
  よ、支払いは、広告費と相殺だ」
 周「えッ! ………………………………」

 当時は安い観光ホテルで、5千円で、税サービス料別という時代でした。それでももう私は出かけます。
 もう暗くなった鬼怒川に着いて、路上番頭の声をはねのけ、まずあるホテルで「温泉新聞ですが、集金に来ました」とはじめます。
 そこではじめて判ります。相手が怒り出す雰囲気が判ります。でも、私はもう逃げるわけには行かないのです。
 かくして、その日はあるホテルで泊まって、ビールを飲んで、しばし考え、翌朝から、また激しい戦いになりました。そして、ほぼ鬼怒川のホテルを軒並みあたり、次は湯西川温泉へ行き、そして次は日光湯元温泉です。ここでまた夜になり、私は「広告費と相殺」で泊まります(ただし、相殺をいうのは、朝支払いの時)。もうこの日まで、結構な金額を集金できていました。
 翌日は、那須温泉。もう山の中を大声で唄いながら歩いていました。また暗くなり泊まります。7月30日に出発したので、もう8月1日です。
 翌日8月2日、今度は塩原温泉です。長い温泉街をひたすら歩きます。もう夜になります。いくつか集金はできましたが、この日はどのホテルも満室で、泊まれるところがありません。中には、「ウチは振り込んでいるよ」という真面目なところもあります。あ、それは塩原ガーデンでした。銀行の振込書を見せてくれました。私は「きょうの、ザイールでの、フォアマン対アリ戦はどうなりました?」なんて聞いたら、そのホテルマンは、「あれはすごい戦いだったよ、アリが勝ったんだよ」なんて興奮して教えてくれたものです。
 でも暗くなった温泉街で不安になった私は、会社に電話しました。どこへ泊まったらいいのか聞くためです。編集長の清水さんが電話に出ました。

 清水「お前今どこだ?」
 周「塩原です。今夜どこへ泊まったらいいのか、困っているんで
  す」
 清水「どこでも泊まれるよ。でもきょうは何日だ、2日じゃない
  か。集金は月末だけでいいよ。もう帰ってこい。適当でいいん
  だよ。それで、どこへ行ったんだ」
 周「鬼怒川から、日光、昨日那須温泉で、今塩原です」
 清水「え、それは一番きついところだよ。それで一体いくら集金
  した」
 周「○○です」
 清水「え、よく、あんなきついところで、それだけ集金できたな。
  もういいよ。帰ってこい」

 かくして、私はもう泊まれそうなところもないので、帰りました。当時住んでいた北浦和へ帰って、すぐ友人と飲み出しました。飲む前に彼女の自宅へ電話して、いろいろと報告しました。
 でも、思えば、どうでもいい思い出話でごめんなさい。昨年温泉新聞の社長が亡くなりまして、温泉新聞もなくなりましたから、「もう書いてもいいかな」なんてところなものですから、今後書いていこうと思っているんです。
 この温泉新聞での同僚のことを以下に書いてあります。

 川尻久夫さんのこと

漢字の読み方ありがとうございます。こういうことを尋ねて気軽に返事をいただけるなんてほんとありがたいです。

 漢字の読みに関しては、西郷南洲のことは、タモリのトリビアでそのまま出されていました。帰宅したら、次女が「西郷隆盛って…………………なんだって。知っていた」というから、「知っているよ、…………って話だろう」と私も次々と話したものでした。娘二人にはいつも、「その話、トリビアに出してよ、面白いよ」といわれる話を、私はいつも娘たちにしていますよ。萩原周二
(第212号 2004.09.06)



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2011年08月23日

第58回「大丈夫でしたか」

11082201   Friday, August 27, 2004 9:06 AM
大丈夫でしたか TK
 無事帰宅できたの?帰った後心配で心配でなかなか寝付かれませんでした。あんまり飲んではいけないわよ。体に良くないし、しんどいでしょう。大変お金を使わしてしまってごめんなさい。またパソコン教えて下さいね早めにパソコン購入を考えなくては、早く足を治して萩原さん達の仲間に入れて下さいね。

   Friday, August 27, 2004 9:32 AM
元気ですよ
 実はあのあとタクシーの運ちゃんと喧嘩したようですが、とにかく元気で大丈夫です。身体はきわめて健康で全く「しんどく」はないです。今、ある会社のメルマガに原稿を提出したところです。書いたのは私の飲み屋の紹介の書き物です。書いたのは「池袋西口『ふくろ』」です。ヒサンないいお店ですよ。今は朝7時からやっています。昔は朝5時からやっていたのよ。
 そうねえ、パソコンはやればできますよ。私はね、JCAにいたときも、あの仕事は全くの素人だったのよ、でもあの時あの場で必死に覚えました。経理税務の仕事も、突如やることになって、その時学び覚えました。パソコンも同じですよ。萩原周二

   Friday, August 27, 2004 10:11 AM
 メール頂いて安心しました。無事でなによりです。大きなバックもなくならなくてなによりです。ホッとしました。

   Friday, August 27, 2004 10:48 AM
Re:
 あのね、バックはなくさないの。つい先日長女と私の母親の家に行きました。
長女がいうのです。

  パパはどうして、そんなに前につんのめるように歩くの

 私は答えます。

  今背中に鞄を背負っていないから、どうしても前のめりになっ
  てしまうんだ

 そのとき私はあの鞄を背負っていませんでした。でも母の家に行きまして、ビール飲む以外やることがないので、また家に引き帰して、また鞄を持って母の家にいきました。あれがあるとビールを飲みながらインターネットができるんです。
 きのう行ったお店二つともいいお店でしょう。長年つきあっているお店です。「きゃらめる」のママのゆかりさんは実は女優をやっているのです。それで実は彼女の妹さんがひとみさんといいまして、お姉さんより、かなり若くて、すごく綺麗で私も惚れています。ところが彼女は今病気でして、店に出られません。私とは携帯でメール交換するだけです。だがだが、そのひとみさんの娘がまた圧倒的に綺麗で、実は木曜日と土曜日にあの店に出ています。その娘さんに会えるかなというよこしまな気持ちも私にはあったのですが、そこは残念でした。また行こうね。
(第211号 2004.08.30)



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2011年08月22日

第57回「手紙の重さ」

11082104   Wednesday, July 21, 2004 10:44 PM
「手紙」の重さを知りました。

「手紙」と言う言葉にまさかそれほどの深くて重い思い出があるとは夢にも思わず、自分の軽いメールの様なものと思っていてはずかしいです。高松城の水攻めの様な深謀遠慮、また今から考えれば自分の支えにもなっていたのではありませんか。そして青春の全てと結びついた思い出なんですね。ですから丁寧に書けば本一冊が軽くできあがりますよ。メールに書ききれるものではありません。もっとも先生は今でも青春真っ最中の様な方と想像しておりますが。

 府中刑務所の手紙の検閲その他については殺人狂時代という本で読みました。日本の刑務所は明治時代の決まりをひきずり、先進国の中では最悪の部類に入るということは知っています。

 将門Webマガジン、いつもありがとうございます。これはまさかどと読むのですか。それともしょうもんですか。詩のメールの中で読み方は自分の考えでいいといわれましたが、世間一般で通っている読みを違うように発音すると笑われることがありますからね。お釈迦様のお母さんはまやふじんではなく、まやぷにんと読むのだと初めて知ったときは驚きました。信長公記はしんちょうこうきだといわれても、どうやってこの場合はのぶながではないと判断すればいいんですか。詩の場合は口調が優先すると思うんですが。垣の外はかきのそとと私も読んでました。将門記はしょうもんきですからしょうもんうえっぶでしょうか。

 実は一年ほど前に平らの将門の話も一度通しで読もうと思って童門冬二さんの平将門を読んだんですが、登場人物それぞれの考えや当時の関東の自然や情勢などはよくわかるんですが、分かりやすく書きすぎて何だか少し幼稚な印象を受けました。小説としてはあまりおもしろくなかったです。そこで聞くのが怖いんですが、将門が主人公の小説では何がよいでしょうか。きっとものすごい思い入れをお持ちでしょう。

 結局、あのガリア人の若い王をあれほど残虐に描くのは、実はカエサルをこそ貶していることになるのだと私は思います。いや誰もがそのように判ってほしいのだろうなと推測しました。

 この文章は意味がよくわかりません。著者はなるべくカエサルを貶めたかったということですか。新しく斬新なカエサル像を作り出すためにですか?MM

  Thursday, July 22, 2004 1:12 PM
 Re: 「手紙」の重さを知りました。

 まずいつもメールをありがとう。昨日飲み過ぎた私が、このメールを開きましたのは、今朝なのですが、ものすごく嬉しかったです。そして今も嬉しいです。

「手紙」と言う言葉にまさかそれほどの深くて重い思い出があるとは夢にも思わず、

 いえ、なんとなく勝手に書きまして、ごめんなさい。そうねえ、私はあのときも、ただただ書き続けましたね。思えば、その長い長い手紙の続きが、私の今のホームページになっているのかもしれません。私のメルマガもただただ、長いだけなんですが、これもまたあのときの手紙の続きかななんて思います。
 あのときの私の彼女は、全部で私から数百通の手紙を受け取ったでしょうが、もう燃してしまったでしょうね。でも今私は燃せないようなデジタルのものを日々書いているつもりなのです。
 ただどれも、とても本になるようなものではありません。アベラールとエロイーズの愛の書簡集は、今読んでもその愛の深さに驚きますが、私の書いた手紙は、誰もが呆れるような内容のないだけのものです。

もっとも先生は今でも青春真っ最中の様な方と想像しておりますが。

 ありがとう。ただね、どうなんでしょうね。私の長女が以下のようにいいました。

  おはぎに言われちゃった

 そうねえ、「その通りなんです」よ。

府中刑務所の手紙の検閲その他については殺人狂時代という本で読みました。

 見沢さんの書いたものですね。私はあの方と飲んだことがありますよ。千葉刑務所というところは、赤軍の吉野さんもいるし、狭山事件の石川さんもいたところですね。私は千葉刑務所の係の人と偶然飲んだときに、「吉野さんを大事にしてくださいよ」と頼んだものです。石川さんとお会いしたときにも、見沢さんのことや吉野さんのことをききまして、石川さんに驚かれたものでした。

日本の刑務所は明治時代の決まりをひきずり、先進国の中では最悪の部類に入るということは知っています。

 そうなのかもしれないけれど、私は府中刑務所は好きでしたよ。飯は最高にうまかったし、看守も懲役の方も真面目でした。若き日に、あんなところにいて愉しい経験が出来たのは、実にいいことだったな、と今もつくづく思っています。
 私なんか、東大闘争の統一公判要求というので、裁判には出廷拒否という戦術で向かいました。ただ、裁判の前の日には、刑務所側が、私たち裁判に出る予定の者を、拘置所から、刑務所内の懲役刑の中の駅舎へ連れていきます。とにかく孤立させようというのですね。そして朝、「出廷だ」と看守が呼びにきまして、私が拒否しますと、すぐさま頑強な看守(刑務所内の機動隊ともいうべき連中で、彼らだけは緑の制服を着ている)が3人でやってきまして、私を引きづりだそうとします。私なんか、身体が小さいですし、腕力もないので、このときの戦いは必死でした。でも、あのときの経験は良かったなと思っております。
 私は温泉新聞社というところの新聞記者をやっていたのですが、そのとき毎月月末に、各温泉街の旅館・ホテルに集金にいきます。これがけっこうつらい非情な仕事でした。旅館・ホテル側はこんなひどい新聞(と彼らは思っている)に金を払うなんて気持ちは1%も持っていません。でも私のほうも、集金しないと帰れません(かっこう悪いからではなく、実際に集金しないかぎり、金がないから動けないのです)。
 温泉街は歩いていきますと、各ホテルはものすごくそれぞれが遠いところにあります。那須温泉を、あるホテルでの戦いのあと、また歩いていきます。もう近道しようというので、山の中を歩いていきます。私独りで、もうずっと歌を唄って歩いています。「ワルシャワ労働歌」と「青年日本の歌」なんかを大声で唄っていきますと、やっと目的のホテルが見えます。「ああ、良かった」と思いますが、またそのホテルでも、また戦争が始まるのです。
 でも、私には「これよりは、あの府中のでかい看守に挟まれたときのほうが辛かったな」なんていう思いで、また元気に貫徹できたものでした。

将門Webいつもありがとうございます。これはまさかどと読むのですか。それともしょうもんですか。

「しょうもんうぇぶ」です。私の以下で紹介しております

  将門Webオンライン書店「哲学・思想・漢詩・漫画」

この本がいいですよ。

書 名 お言葉ですが…7
    漢字語源の筋ちがい
著 者 高島俊男

 この漢字熟語の読み方や、氏名の読み方をよく判るように書いてあります。15代将軍の「慶喜」を本当に「よしのぶ」と読んだのかどうかは、実は判らないのですよ。西郷南洲も本当に「隆盛」と書いたかどうかも判らないのです。ただ「りゅうせい」と呼んだのは間違いないようで、明治期になって、戸籍を作るときに、「たしかリュウセイだったぞ」というので、「隆盛」という字を
当てたようです。そして本人は何も言わないのですね。弟の「従道」なんか、もっと驚きます。本人が口をもごもごさせて「ジュッド」と言ったのを、誰か「従道(ジュウドウと読むらしい)」と字を当てただけなのです。
 ぜひこの本を読んでみてください。

信長公記はしんちょうこうきだといわれても、どうやってこの場合はのぶながではないと判断すればいいんですか。

 信長を「のぶなが」と本当に読んだのか否かというのは、実は彼の父親と本人しか判らないです。それで、本人が本当の「読み」を言わないかぎり、他の人が彼を読むときには、「音(おん)」で読めばいいんです。それだと失礼にはならないのです。だから15代将軍慶喜は、「よしのぶ」ではなく、徳川ケイキ、一橋ケイキと読めば、間違いではないのです。現代の我々が「慶喜(よしのぶ)」だと教わっただけで、実はあの時代には、そうは誰も読んでいなかったのです。

実は一年ほど前に平らの将門の話も一度通しで読もうと思って童門冬二さんの平将門を読んだんですが、

 童門さんの将門も私は好きですよ。

分かりやすく書きすぎて何だか少し幼稚な印象を受けました。

 その通りでしょう。私はやはり、海音寺潮五郎「平将門」が好きです。また吉川英治「平の将門」もいいですよ。海音寺さんは、この「平将門」を書くときに、吉川英治さんに相談にいきまして、「それはいいことだ」と誉められたそうです。
 でも私が好きなのは、幸田露半の「平将門」かな。私は幸田露半が大好きなのですよ。

将門が主人公の小説では何がよいでしょうか。きっとものすごい思い入れをお持ちでしょう。

 将門に関する本は知る限り、すべて読んでいますよ。
 また。萩原周二

   Thursday, July 22, 2004 5:29 PM
あ、レスを忘れていました

この文章は意味がよくわかりません。著者はなるべくカエサルを貶めたかったということですか。新しく斬新なカエサル像を作り出すためにですか?

 私には、新しいカエサル像ということではなく、ただただ貶したかったのだと思いますよ。私は最初から、あの著者は気にいりませんでした。
 ただ、こうして生きていると、また新しい本を読むことができるし、あなたのような方とメール交換できますから、人生はいいものかな、なていう気になります。
 きょうは、早く帰宅します。帰宅すれば、次女と会えます。それが嬉しい。
(第210号 2004.08.23)



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2011年08月21日

第56回「中防某と自作パソコンのこと」

11082005   Friday, July 09, 2004 11:15 PM
畏れ多いです。
 メール交換する相手??そんな言い方は畏れおおいです。私は教えを乞うているだけです。でも聞くのが怖い。できてよかった???山ほどいらっしゃると思っていましたが?
 なんだかわかりませんが、いざ出陣ですね。中坊こうへいさんみたいですね。しかし意気もくじけるような暑さです。怠惰な人間は暑さに弱いと相場がきまっています。でも先生はアルコール駆動だし、暑さに弱いとは思っていませんでした。

 12台目のパソコンか。パソコンに対する愛情がひしひしとつたわってきます。しかし先生も正直なかたですね。そんな苦労をするより。資金に余裕があるなら15万ぐらいのキットを買って組立て、いかに苦労して五万のうちにおさめたか恩着せがましく話しておけばよかったのに。それにそのような自分にしかメンテナンスできないパソコンでは確かに寄付できませんから、もうすこしオーソドックスな部品で誰にでもメンテナンスできるパソコンを組み立てれば苦労も少なく、リサイクルもきくのではないでしょうか?しかしそうすると自作する楽しみがなくなるというのでは何もいえませんが。でもこれ以上造れないという今の状況でも自作する楽しみがないのは同じことですね。 MM

   Tuesday, July 20, 2004 11:10 PM
Re: 畏れ多いです。

なんだかわかりませんが、いざ出陣ですね。中坊こうへいさんみたいですね。

 ええと、私のホームページには以下のページがあります。

  安田弁護士の不当起訴に抗議する!

 この安田弁護士は、私の会社の監査役の大口昭彦さんと同じ事務所です。この彼が不当逮捕されたときに、私はすぐさまインターネット上で闘いだしました。このとき逮捕したのは、もちろん警視庁ですが、この動きを煽っていたのが、中防公平です。ですから、私はこの人間は過去・現在・未来に渡って決して許しません。まあ、話せば長いことになりますが、暇なときに、ここを読んでみてください。
 東京地裁段階では、安田弁護士は当然無罪になりました。

でも先生はアルコール駆動だし、暑さに弱いとは思っていませんでした。

 いえ、もう暑いのだけは駄目ですね。ちょうどこの前のメールで書きました1968年での府中刑務所の勾留は、この暑さがきつかったですね。なにしろ、部厚いコンクリートの壁で、涼しい装置は団扇だけでしたからね。

12台目のぱそこんか。パソコンに対する愛情がひしひしとつたわってきます。

 パソコンはちゃんと使うことが大事なんですよ。学生活動家時代の、ガリバン・鉄筆・謄写版等に比べて、パソコンというのは、どんなに楽なことでしょうか。その活動家が、今になって、それを使えないというのはとても哀しいことです。

しかし先生も正直なかたですね。そんな苦労をするより。資金に余裕があるなら15万ぐらいのキットを買って組立て、いかに苦労して五万のうちにおさめたか恩着せがましく話しておけばよかったのに。

 いや、それは絶対にできないですね。相手がどんな方であっても、やはりいい機械をぜひ普通に便利に使ってほしいのです。私は現在、自民党系の人でも民主党系の人でも、パソコンを見てみてあげているところがあります。そういう人たちにも、本当にきちんと使ってほしいからちゃんと教えていますよ。パソコンも可愛いけれど、それをちゃんと使おうと努力する人も大事じゃないですか。
 ただね、ちゃんと使えない人がいるとなんだかやっぱり哀しいのですよ。
 実はね、私のホームページは吉本隆明さんに関するサイトと紹介されるところが多いのですが、一番アクセスが多いのは「自作パソコン」のページなのです。これはまた面白いことなんですよ。

  周の自作パソコン講座

それにそのような自分にしかメンテナンスできないパソコンでは確かに寄付できませんから、もうすこしオーソドックスな部品で誰にでもメンテナンスできるパソコンを組み立てれば苦労も少なく、リサイクルもきくのではないでしょうか?

 いや、パソコンというのはそういうものではないのだと私は思っていますよ。パソコンというのは、いわゆる「コンピュータ」というものだけではないですよ。私はね、子どものときから、機械を使うのが不得意でした。工作も苦手だし、中学の「職業家庭科」も苦手でした。でも、このパソコンは違うのですね。私の次女が、私について、次のように書いていてくれます。

  父について

 私は嬉しいですよ。
 今ちょっと前に、この次女は帰宅しまして(実は私も昨日は、事務所に泊まりまして、ひさしぶりの出会いです)、次女は本日同僚の先生方と一緒に飲みまして、やっぱり私のことを話したようです。私はやっぱり全共闘ですから。私は前々から「だから、その先生方とパパと一緒に飲ませろよ」といっているのですが、なかなか実現できません。私のことを、単なる「全共闘(彼らが思い込んでいる全共闘の概念)と思っていると、私のように、ただただひたすら飲んで、ひたすら詩吟と軍歌と三橋美智也の歌を唄い続けると、彼らは驚愕することでしょう。これが私たち全共闘なんですよ。
 でもとにかく、パソコンの自作はまたやらないとなりませんね。秋葉原の悲惨な地帯で、またいろいろと交渉する愉しみも、続けないといけないですよね。
 ただね、たとえば新宿の歌舞伎町の悲惨なキャッチのおばちゃん、おじちゃんと交渉言い合いを続けるのも大事だしなあ、なんて思っております。やはり身体と強烈な精神が大事ですね。昨日、錦糸町の「河内音頭」の大盆踊りで、さすが疲れました。ずっと事務所で写真のスキャナ撮りをしていて、そして錦糸町へ行って、そして腹一杯飲んで、上々颱風の、ボーカルの映美ちゃんと飲んで話して、そしてまた事務所へ帰りまして、また仕事をして、そして……………なんてこととばかりが続きまして、………………そして疲れましたよ。
 あ、それから、「将門Webマガジン」の最新号を送るの忘れていました。このあと送ります。
 また。萩原周二
(第209号 2004.08.16)



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2011年08月20日

第55回「漢詩の中で の2」

11081714   Sunday, July 25, 2004 10:55 AM
Re: はじめまして
萩原周二様

このたびは見ず知らずのサイトアクセス者からの不躾かつ身勝手な要望にもかかわりませず、誠意を持ってご返信いただきましたことを、心より御礼申し上げます。そして、なにより不愉快な思いをさせてしまいましたこと、まことに申し訳ございませんでした。
確かに無理なリクエストでしたし、おつとめからご家庭のことまで実にご多忙の中での唐突なお願いをいたしましたことを重ねてお詫び申し上げます。この無礼をなにとぞお許し下さい。

しかし、そのような中でも最善の対処をしていただき、豊富な知識の中から最適なものをご提示くださいましたことを、この上ない幸いと感謝する次第です。

貴サイトのように充実した解説をされるには、相当の時間と労力を費やしておられることに違いありません。
また、それだけに、そこにかける思いも私のような素人には想像もできないほどでいらっしゃることでしょう。
今、振り返ってみますときに、先にお出しいたしました内容は、まことに失礼極まりないものでありました。
そのときは萩原様の思い入れや労力などを考えもせず、一方的な希望のみでメールをしてしまいました。
もし逆の立場なら、こんなメールに応える気にもならなかったであろうと考えますとき、お詫びの言葉も見当たらないばかりでなく、にもかかわらず真心をお示しくださいましたことに対する感謝の言葉もございません。

なんと返信すべきか困惑しておりますが、このたびの無礼をお許しいただきたく、また御礼も心より重ねて申し上げます。
とりいそぎ、返信まで。
今後とも意義あるサイトをご提供いただきますように願いつつ・・・
失礼いたしました。          F.D.

   Sunday, July 25, 2004 1:04 PM
言いすぎでした。ごめんなさい。
 こうしてすぐ返事をいただきまして、ありがとうございました。
 私もかなり言いすぎでした。ごめんなさい。
 現在以下にて、

  お便り紹介

いくつものメールのやり取りを紹介しております。
 この中で、

  第48回「五丈原の詩」

から、ある奥さんとのメールのやりとりをずっと紹介しております。今後もいくつもの彼女とのやりとりを紹介していきます。この彼女が、「こんなに私とのメール交換だけ紹介でいいのかな?」と気にしています。私は「いや、メールはたくさんもらうのだけど、紹介できるのは少ないのですよ」と言い訳しておりまして、Fさんのメールについても思いだしたものなのです。

 それで、前に書いた内容ですが、少し付け足します。
 韓愈もいわば、思想家や詩人というよりも、政治家の面も強いかと思います。この人の生涯を見ると、かなりなことが判るのではないかなと思います。そして韓愈に関して書かれた書物はいくつもあるかと思います。
 ただもう一人の細川頼之ですが、この方に関しては、私は今ただの一つの本も小説も思い浮かびません。私が知ったのは、いくつもの日本の歴史の本の中の短い一節からだけです(高校時代によく、授業中に歴史のシリーズ本を読んでいました)。いわゆる太平記(これの小説版といいますと、吉川英治「私本太平記」)を読んでも、この人物はちゃんと描かれてはいません。北方謙三さんなんかは、南北朝のいわゆる、後醍醐天皇や足利尊氏、新田義貞等々の時代ではない、かなりあとの時代や、地方の話も書いていますが、たとえば「武王の門」では九州での壊良親王と菊地一族の戦いを描いていますが、敵の足利側の今川了俊や少弐頼尚に関しても、実に見事に描いています。でもでも、細川頼之に関しては、1行も出てこないのですね(これは九州の戦いを描いたからで、著者がいけないのではありませんが)。
 ただ私は、私の少ない知識だけからではなく、あの「海南行」という七言絶句を詩吟で詠うなかで、このときの頼之の本当の気持が判ってきたものなのです。

  隠居するという詩なのに、なんで、こんなに元気に気持よく詠っ
 ていいのかなあ?

なんていう中で、すこしづつ何かをつかめてきた気がします。ちょうど私が、21歳の頃、國誠会という詩吟の会の宗家が、私にこの詩を薦めてくれました。宗家が私に、詠うことを一番薦めてくれたのは

  黒澤忠三郎「絶命詩」

なのですが、この頼之の詩も、「君にあっているな」と言ってくれたものでした。
 私は当時革命運動に邁進しているときであり、明治生まれの宗家荒國誠先生には、私の存在は、頑固で非和解的な水戸浪士と同じに思えたのでしょうが、この「海南行」の頼之の本当の気持をもまた私に伝えたかったのかな、と今の私には思えます。
 思えば、細川頼之は、足利幕府側の人間です。宗家荒國誠先生は、まったく南朝の悲しさに涙を流す人でした。でも、この南北朝の争乱を終らせた頼之の気持が、荒先生には、一番落ち着けたものだったのでしょうか。荒先生には、どうしても理解できない許し難い、全学連とか全共闘に私はいた人間です。でもその私の本当の姿を知ってから、私のことを「あれは弟子ではない」などとは言わず、私のことを実に心配して動いてくれたものでした。この荒先生の思いが細川頼之の時代を思う考えにつながっているのかな、なんて私は今思います。

 少々つまらないことを書きました。
 できたら、Fさんにも、ホームページを開設していろんな思いを披露していただきたいなと思います。
 それから私は弘前は好きな街です。ただ、随分大昔に行きましたときに、どこで飲んでいいのか判らなかった街です。
 それから私は太宰治も好きですよ。昔、学生運動で刑務所に居たときに、太宰治全集を読みきりました。独房で、太宰の面白さに声をあげて笑っていると、看守が「一体どうしたんだ?」と心配して見にきたものでした。萩原周二
(第208号 2004.08.09)



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2011年08月19日

第54回「漢詩の中で」

   Sunday, July 18, 2004 8:45 PM
はじめまして

11081412前略 ごめん下さい。
興味深く、漢詩入門サイトを眺めさせていただいています。
実はわけあって、ことわざや名言を探しています。
漢詩の中にはたとえば川柳のように短い言葉でそれなりの意味を網羅するような言葉はありますか。

周知のように、小泉内閣が改革路線を崩さずに徹底して改革を断行しています。自民党内にもそれに反対する勢力があるわけですが、それについて首相は「抵抗勢力」と呼んで、ある意味で皮肉とも取れるような発言・答弁をしていたことがありますね。
新しいことを始めるときには必ずそれに抵抗する勢力があるわけですが、それらを痛烈に皮肉ったような言葉が漢詩の中にはあるだろうかと思い立ち、それらを探しております。
漢詩はいくつもの漢語ではじめて成り立つのかもしれませんが、何か端的にそのような意味を持った漢詩が(詩全体でなくとも、一文だけでも)あるものでしょうか。

そのことをお尋ねしたく、もしあるのでしたら、参考までに手ほどきをしていただきたいと存じ、あつかましいとは思いつつも、お尋ねのメールを差し上げました。
また、ずいぶん勝手ではありますが、1,2日中にご回答いただけましたら、まことに幸いです。
以上、お願いまで失礼します。

草々
2004年7月18日
F.D(31歳)牧師

   Saturday, July 24, 2004 11:54 AM
Re: はじめまして

 まずこれだけ遅い返事で申し訳ありません。私も仕事もやっているので、なかなか返事をたくさん書けないのです。
 それで、F様の聞かれる内容に、

  うーん、漢詩にもいくつもあると思うけれど、簡単に応えるの
  はできないなあ。少し調べてみるかな。

なんて思いでした。
 ただメールを受け取りました18日は母の面倒を見る用事があり、夜中にこのメールを開いたのです。そして翌日は休日でしたが、事務所へ出て仕事をして、夕方はあるクライアントのやっているイベントへ行き、また事務所へ戻って徹夜の仕事でした。
 だが、Fさんの文面に

また、ずいぶん勝手ではありますが、1,2日中にご回答いただけましたら、まことに幸いです。

という文があり、「冗談じゃないよ、そんなの無理に決っているだろう」とさすが不快になりました。私が役員を勤める会社や、顧問先の仕事は、徹夜でもしますが、ちょっとこうしたことは簡単にはできません。
 とはいえ、何も応えないもの、私も愉快ではありませんから、もう簡単に応えます。

漢詩の中にはたとえば川柳のように短い言葉でそれなりの意味を網羅するような言葉はありますか。

 私は、漢詩は好きですが、短歌や俳句は苦手です。このことは書いているかと思います。まして川柳は、私には難しすぎます。だから「川柳のように」といわれても私には到底理解できません。
 それで、理解できないのだから、もっと詳しく調べるべきなのでしょうが、もう簡単に応えます。
 私の「漢詩入門」の中でいいますと、

  韓愈「左遷至藍関示姪孫湘」

なんか、かなり当時の駄目な政治勢力へのむきだしとも思える韓愈の気持が伝わってきます。

  一封朝(あした)に奏(そう)す 九重の天
  夕べに潮州に 貶(へん)せられる路八千

 この文言は、私もいろいろなときに口から出る皮肉です。
 また、

  細川頼之「海南行」

もまた、Fさんの言われることに合致する詩だと思います。
 足利幕府内のいわば、どうしようもない反対勢力に対して、

  満室の蒼蝿(そうよう) 掃(はら)えども去り難し

という句に、頼之の左右に蠅を払うしぐさを見ます。だが、頼之は

  起(た)って禅搨(ぜんとう)を尋ねて 清風に臥せん

と言って、これから隠居する、すなわち逃げるのです。でも、私も書きましたが、この詩は枯れて静かに吟うのではなく、私のように声高く、元気に詠うべきです。このことが、この詩の真意、頼之の心をあらわしています。頼之は、逃げ出したのではなく、再度戦うために、ここで一旦隠居しただけなのです。
 そして再び政治の世界に出てきたときに、反対勢力を抑え、ついには長い南北朝時代を終らせることができたのです。実に偉大な政治家だったかと思います。
 私には、「やっと君にも、俺の真意が判ったのか」と私に笑顔を向けてくれる細川頼之の顔が見えるような思いになります。

 以上簡単ではありますが、他の詩を調べる気持には今なれません。萩原周二
(第207号 2004.08.02)



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2011年08月18日

第53回「手紙」

11081701   Thursday, July 08, 2004 11:46 AM
Re: またメール掲載のお願いです。

 せっかくネタがあるのに使わないのはもったいないですからね。どうぞつかってください。しかし同じ読者からがあまり続くとまずいんじゃないですか。
 私にはホームページにするようなネタがないんです。友人が沖縄旅行の写真をくれたのでいたずら書きのようなレタッチをして沖縄うそ日記というホームページを3P程つくってやったら怒られました。

 あのカエサルはやっぱりショックでしたか。私でもそうだからカエサルびいきの様な人が読んだらそうでしょうね。どのあたりでもうイヤダになったのか興味ぶかいところです。しかし読み終わってからなんか心に引っ掛かるカエサル像ですね。歴史物にこんな超近代的な心理描写をいれてほしくないけど。古代ローマでもはげはマイナスイメージだったのでしょうか。文化によって違うからそうでもないということもありえますよね。この作者のフランスの将軍の話はとてもおもしろかったんですけどね。下品な言動だけれど魅力的な人物像でした。

 ワープロもない時代に年間二百通とはやっぱりただ者ではないというところですね。封を切っていないのを発見するくだりは失礼ながら笑ってしみました。お二人の心情が両方さっせられます。こんなに長いメールをいただいてお疲れにならないかと心配するほどでしたが、年間二百通の強者にはタッチタイピングと電子メールがあれば朝飯前ですね。怒濤の様なご教示で、一年先まで宿題を出された小学生か、今週中に読まねばならない参考文献が机の上に一メートルを超えてしまった大学生の気分です。
 なにしろ並より怠惰な人間ですから。まあ大目に見て進歩が遅くても見捨てないでください。うちは回線のつごうでadslにつなごうとすると、自分でパソコンを持って一階へ降りそこでモデムの電源を入れてつなぐという世にも珍しい非常時接続です。ゆっくりネットサーフィンできるのも週一回ぐらいです。無線を取り入れれば解決できるんですけどそれもいつになることやら。MM

   Saturday, July 17, 2004 3:58 PM
遅い返事とくだらない内容ですが

あのカエサルはやっぱりショックでしたか。

 結局、あのガリア人の若い王をあれほど残虐に描くのは、実はカエサルをこそ貶していることになるのだと私は思います。いや誰もがそのように判ってほしいのだろうなと推測しました。
 カエサルの「ガリア戦記」はラテン語の教科書ともいえるほど格調の高いもののようです。その「ガリア戦記」をのものを、わざわざあのように読めるのだというのでしょうね。
 私は以下の中で

  松本健一「近代アジア精神史の試み」

 西南戦争のときの熊本城に籠城した官軍の中に、英語か仏語訳での「ガリア戦記」を読んでいる軍人がいたのではないかという推測をしています。私は谷干城自身か彼の部下の中に、この「ガリア戦記」の記述から、あの城を燃やしたのではないかと、高校2年のときの修学旅行で思っていたものでした。西欧の将軍たちが必ず読んでいる教科書のような「ガリア戦記」を、あの維新の志士たちも読んだのではないかと思っているのです。

どのあたりでもうイヤダになったのか興味ぶかいところです。

 はっきりいいまして、すべてが嫌になりますよ。だから、もう「読みたくない」と何度も本を閉じたものでした。

ワープロもない時代に年間二百通とはやっぱりただ者ではないというところですね。封を切っていないのを発見するくだりは失礼ながら笑ってしみました。

 彼女を私は大学2年の、1968年の4月に埼玉大学のキャンバスで見かけました。この大学のキャンバスには、八重桜がたくさん咲いているのです。ちょうど4月といいますと、その前月が王子野戦病院闘争があり、そして三里塚闘争がありました。
 ちょうど私は、当時バス代値上阻止闘争をやっており、同時に政治闘争もやっていました。バス闘争で長期間闘うために、観光バスをチャーターして、通学の学生を運びました。まったくの敵は、日本共産党でした。この観光バスでエンプラ闘争でも、みんなを乗せて日比谷公園に行ったものでした。仲良くなったバス会社の運転手は、バスから降りて、集会に向かい、機動隊と激突するだろう私を心配して、「気をつけてね」と声を掛けてくれたものです。
 またこの観光バスを使って、三里塚闘争にもいきました。思えば、こうして観光バスで闘争の現場に行くというのは、私たちが真っ先のことではなかったかな。
 このバス闘争をやった部隊が、埼玉大学の理工学部の自治会を日共から奪還していました。だから、王子闘争のときには、その「埼大理工学部」という大きな真っ赤な旗を私もよく持って走り回ったものでした。
 その彼女は、実家が王子にありまして、高校3年生だった彼女も、近所の人を誘って、野戦病院闘争に出かけたりしていたようです。それで彼女は、この「埼大理工学部」の旗を見て、「あの大学にこそ行きたい」と思ったようです。彼女は、横浜市立大学理学部と、早大理工学部に受かっていたのですが、この旗のために、埼大理工学部の化学科に入学してきたのです。
 彼女を初めてみたときに、私はもう恋をしました。彼女は、紺のタイトのミニスカートに水玉模様のシャツを来て、本を抱えていました。色の白い実に脚の綺麗な少女でした。 でも、この子が、私の所属する「歴史研究会」というサークルに入会してきたのです。そのときに私は彼女の名前と学部学科を知ったものでした。彼女はこのサークルの「日本史ゼミ」に属しました。私は「東洋史ゼミ」でした。私は彼女が読んでいる本を横目で見て、初めて、「大江健三郎」とか「小松左京」とかを知ったものでした。私は作家といいますと、幸田露伴とか徳富蘆花とか尾崎紅葉しか知りませんでした。
 この年は1968年で、もう激しい政治の季節でした。思えば、私が彼女と初めて二人きりになったのは、この年の10・21の防衛庁闘争のときでした。彼女も私も機動隊に捕まってリンチされたものです。彼女が頭を殴られ胸を触られ背中を殴られたのを、私は目にしています。私はそのとき大きく投げ飛ばされ、宙を飛んでいました。さらに、顔を蹴られまして、血だらけになったものでした。
 そしてそのあと、東大闘争や日大闘争への参加の中で、翌年69年1月の東大血戦で、私は安田講堂に籠もることになりました。
 1969年1月17日の夜10時半頃、安田講堂を抜けて、構内の電話ボックスに走りました。構内は日本共産党がレポ隊を徘徊させていまして、下手をすると彼らに捕まりリンチされます。東大の外は、もう機動隊の世界です。その中、なんとか必死に彼女の自宅に電話しました。
 明日機動隊が導入され、間違いなく逮捕される、そうすると最低6カ月は勾留されるから、もう当分出てこれないことをいい、そしてでも元気に闘うことをいいました。そして彼女のことが好きなことを伝えました。彼女は、声が出ませんでした。
 そして翌日からの長い闘いになりました。そして19日逮捕されて、私は東調布署に勾留されました。そしてたしか4日目に、彼女だと判る差入れをもらいました。彼女はもう一人の同じサークルの娘の名前と苗字を変えた偽名にしていましたが、その偽名と、そして年齢に(18)と書いてあったその字で、彼女とすぐ判断できたものです。彼女はあと2カ月後の19歳になる直前でした。このときの(18)の8の字が今でもありありと目の前に浮かびます。
 そして私は起訴され、移管ということで、府中刑務所に行きました。そこで3月の最初のころ、ちょうど19歳直前の彼女と面会できたものです。
 そしてそしてとにかく、勾留が続きます。そして私はここから彼女に手紙を出すことができました。3月のときからです。彼女からも返事がきました。でもとにかく私は、ひたすら手紙を書きました。1週間に3回、1回につき2通手紙が出せます。もちろん、家族他にも出しますから、6通は出せませんが、とにかく1週間に5通は彼女あてに出しました。でも便せんの枚数は3枚と制限がありました。しかもあまり小さい字で書いてはいけません。そして必ず、看守の検閲があります。ただし、私の手紙はばかばかしいから、ちゃんと検閲しなかったろうなと推測します。
 かくして、勾留が続き、かつその間に裁判もありまして、さらに私たちは出廷拒否を続け、ハンガーストライキをやったりしていましたが、その年の8月21日保釈になりました。
 私はすぐに埼玉大学のバリケードへいきましたが、埼玉県警の弾圧の中(大勢の仲間が逮捕起訴され、そして指名手配中でした)、バリケードがガランとしていました。彼女ともひさしぶりに再会しましたが、とにかくもう冬の時代でした。でも私はまた、9・5の全国全共闘の結成式等々(赤軍派が初めて登場して、ブンド関東派(の戦旗派)を散々に蹴散らしたときです。これを北方謙三がよくよく勘違いして覚えているのです)には参加していました。
 そして9月18日、私の御茶ノ水大の友人に会おうと、東京教育大学(この大学はお茶大の隣でした)の闘争に出かけましたが、会えないまま、その夜北浦和での、東大闘争の被告団会議のときに、埼大のバリケードに早稲田の山本派が襲ってきた(山本派とは革マル派のこと、でも事実は革マル派を装った中核派による襲撃事件でした)というので、革マル嫌いな私は、すぐさま駆けつけまして、そして翌朝、拉致された埼大の仲間を救いに行くと、いうことで、芝浦工大へ出かけまして、そこで起きたのが、埼大中核派の滝沢紀昭さんの、事故でした。この事件が、学生運動での初めての内ゲバによる、殺人事件ということでした。もう、埼玉県警、佐藤栄作、警視庁、そしてマスコミ、そして新左翼セクトすべてが、私たちを糾弾するキャンペーンを張り出しました。
 もう大変な事態でした。彼女にこのことを伝えたのは、王子の飛鳥山公園だったのでしたが、彼女はすぐに泣き出しました。襲ったと言われる私たちも亡くなった滝沢さんも、みな同じ埼大の活動家群だったのです。
 そしてそれから、またいくつものことがあって、私はこの事件で12月10日に逮捕されました。
 この間も私は彼女に手紙を出し続けました。もう府中刑務所のような便せん3枚なんていう制限のない娑婆の世界です。私は便せん30枚を超えたのが2通、20枚を超えたのは数知れずというくらい、手紙を出し続けました。
 こんだけだせば、それはもう全部読んでいられないよね。だって、内容も、実にどうでもいい話が延々書いてあるんです。たとえば、ある手紙では、井原西鶴「日本永代蔵」の話が延々続いています。それがまた「続き」になっているんですよ。そして、この間、私は彼女の家族とも知り合いになりました。弟さんとは真っ先に会いましたし、お母さんとも会いました。お母さんは、埼玉県警が来まして、非常に失礼な態度だったらしく(私はあとで、この埼玉県警の担当は誰だったと、県警に怒ったのですが、それを教えてくれなかった)、そういう話をしました。お祖母ちゃんは、歌舞伎が大好きで、私は高校時代河竹黙阿弥をすべて読んでいましたから、そういう話で、話が合いました。下の妹もすぐ懐いてくれた。問題はお父さんと、一番下の小学校6年の妹です。
 でもそのうち、お父さんとはインパール作戦の話ができまして、なんだか、私のことを気にしてくれます。もう下の妹は脅しました。

  もうKちゃんなんか、火炎瓶で燃しちゃうよ

 そんな流れの中で、また70年の4月に私はまた保釈で出てきまして、今度は彼女の家で、私はよく夕食を作っていました。彼女の家は古い老舗の店で、働いている人も何人もいまして、食事の用意が大変なのですが、私はよく大量の天麩羅やとんかつを揚ていました。
 そうした中でも、私はいつもどんどん手紙を書いていました。
 こんな中で、彼女一人が私を拒絶しているわけにもいかないじゃないですか。とうとう最後に彼女は、私の彼女になりました。そししてだんだん、手紙の数は減ってきました。
 でもその後、私が彼女から離れて沖縄で働いていたときなんか、また私は毎日手紙を書きました。そのときはもう彼女も毎日手紙をくれたものです。

 ごめんなさい。なんだかはしょってしまい、かつなんだかおおざっぱですが、とにかく「手紙」ということで、急いで書いてみました。

うちは回線のつごうでadsl につなごうとすると、自分でパソコンを持って一階へ降りそこでモデムの電源を入れてつなぐという世にも珍しい非常時接続です。

 早く無線LANにされるといいですね。期待していますよ。
(第207号 2004.08.02)



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2011年08月17日

第52回「偶然が二つありました」

11081610       Tuesday, July 06, 2004 12:04 AM
偶然が二つありました。

 宅ファイル便は本当に便利ですね。mp3のファイルを友人に送ろうとしたらADSLでもメール添付は2.5メガまでとかいてあるのに気づきこまったのですが、これでたすかりました。たいがいの無料サービスは使う前にいろいろ書き込まされて会員登録しないといけないんですが、これはいけばすぐ使えるというのがいいです。

 ここ四、五年はキットなども売り出されて素人同然でもパソコンの組立ができるようになりましたが、12台というとそれ以前からですかね。新しいのを組み立てたらいらないものは児童養護施設などに寄付したらいいんじゃないですか。子供が使うパソコンまで購入する資金的余裕がないと新聞かなんかで読みました。情報格差の問題だったかな。ワープロや表計算などには十分つかえますよ。また周りにも買ってまではやる気がないけどくれるならやってみようという人もきっといると思います。

 偶然今読んでいる佐藤賢一の、カエサルを撃て、というのがなんとゲルゴヴィアを中心としたカエサルとヴェルティンゲトリクスの戦いの話でした。しかしこの作品の重要な主題が何と中年男と若者の心理的相克の話で、しかもカエサルの中にもこの二者の対立があるのです。読んでいてあんまりさわやかではないんです。男の人が読むと身につまされるかもしれません。カエサルは髪の薄いのを気にする卑近な人物になっています。ガリア戦記を書くのもローマで自分を宣伝する一手段で、負けてもなるべく自分に良いようにかきます。

 汲めども尽きぬ、どころか振り回したシャンパンのように噴き出す先生の知識の奔流におぼれそうです。宮崎さんともお友達!プロジェクト推進中!まさに水滸伝のせかいですね。MM

   Tuesday, July 06, 2004 3:11 PM
Re: 偶然が二つありました。

宅ファイル便は本当に便利ですね。

 本当に便利です。思えば、昔の人も、つい昔の私たちもとても大変な思いをしていましたね。この種の話はもうたくさんありますよ。

新しいのを組み立てたらいらないものは児童養護施設などに寄付したらいいんじゃないですか。

 ええとですね、いろいろと問題があるんですよ。パソコン自作に関しては、私は以下のページがあります。ちょっとこのところUPしていないのですが、また今後書いていくべきだなと思っています。

  周のパソコン自作講座
 (これは前のホームページ内にありましたページでした)

 それで、パソコンの自作というのは、いろいろな思いの中でやっています。たとえば、秋葉原の実に街の裏の裏や、ガード下のわけの判らない店でパーツを買ったりしています。そして、何故か「0円」なんていうパーツもいくつも買って作成しています(いや私のクライアントで使うパソコンの場合は、一応ちゃんとした店で買いますが)。それで、そうしますと私でなければ、何かがあったときに直せないということがあるんです。何かあったら、私がまた「あ、たぶん、この問題だろう」なんていうことで、なにかのパーツを持って行ったり、いじることがあるんです。それで、私の関係者でないと、あげるのには躊躇してしまいますよ。いわば、誰かには、ただゴミでも、私はそれを使えるものにすることができるのですが、普通の人では、またゴミでしかないと思いますよ。「ゴミをくれるのか?」と思われるのは嫌です。それで、それらにまで責任をもって管理するのは、不可能です。
 私のはちゃんと使えるパソコンですが、「本当に使いものにならないパソコンを寄付している」という事実は、実に私がよく見聞するところです。

子供が使うパソコンまで購入する資金的余裕がないと新聞かなんかで読みました。情報格差の問題だったかな。ワープロや表計算などには十分つかえますよ。

 その通りなのですが、まず子どもに最初にパソコンを使わせるのなら、普通のデスクトップパソコンを与えるべきだと思いますよ。最初が肝心なんです。もっとも私の二人の娘は、私の自作した実に安価で悲惨なデスクトップから使いはじめたものです。

また周りにも買ってまではやる気がないけどくれるならやってみようという人もきっといると思います。

 私はこういう人は信用しません。「購入する気がない」という「やる気のない人」は、永遠に無理ですよ。
 私も頼まれて、随分前に5万円で自作をしたことがあります。ある人に頼まれたからです。5万円の中に、プリンターもディスプレイも入れてですよ。私はもう暑い夏、秋葉原を必死に歩き回りまして、彼の自宅で、どうやら作りました。

 12台目の自作(2001.08.26)
(これも前のホームページに書いていました)

 でもね、このときの彼は、今もパソコンができません。全然何もやりません。このパソコンにも全然触れようとしません。私はこのとき必死に作ったパソコンが可哀想でたまりません。たぶん、もう腐っていますよ。パソコンの心も身体も腐っていきます。思えば、彼には50万円くらいでパソコンを買ってあげれば良かったのかもしれません。
 いや、この手の話はたくさんあります。こういう個人だけでなく、会社でも大学でもたくさん見聞しています。もう今思い出しても、腹がたってしかたありません。

偶然今読んでいる佐藤賢一の、カエサルを撃て、

 ええと、私も文庫本になったときにすぐ読みました。以下にメモを書いています。

  将門Webオンライン書店 文学・小説・評論(日本篇) 
  (これは今どうなっているのかまったく分からないのです)

 私はカエサルが好きです。あの顔も好きですね。「ガリア戦記」によれば、ローマのガリア軍団は、「うちの大将は、頭が禿げていて鬘をかぶっている」という歌を大合唱しながら、進軍したようですよ。カエサルは嫌でたまらなかったでしょうね。
 思えば、ローマ最初の皇帝であるアウグストゥス(私はオクタヴィアヌスというほうが好きですし、彼にあっている気がする)は、実に美男子です。彼が老人になってときの像でも実に美しい男です。でも私はカエサルのほうがずっと好きですし、ずっと評価もしています。オクタヴィアヌスという人は、実に戦が下手でしてね(勝利した戦ってないんじゃないかな)、そこへいくと、実にカエサルは戦上手です。以下の

  周の書評(塩野七生篇) 
  (これはいくつか今のブログで書いています)

「はじめに」に書いたのが、私のカエサルとローマ像です。
 そんな私にとっては、この佐藤賢一「カエサルを撃て」はショックでした。もう途中で何度も本を閉じました。ちょうど東海道線の辻堂で、「もう嫌だ」と閉じたのをよく覚えています。この日は、私の娘たちの出身した大学の父母会の行事のあった日でした。

 文教大学父母と教職員の会(周版)
(これも前のホームページ内のページです)

 でもでも、そのあとも読み続け、実に短時間で全編読みました。その日の夜3次会まで宴会があり、私は当然詩吟と軍歌を唄い続けましたが、カエサルのこともずっと考えていましたよ。

 あと、そうねえ、「水滸伝」のことも書きたいのですが、まずはここまでとします。萩原周二
(第206号 2004.07.29)



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2011年08月16日

第51回「疑問いろいろ」

11081505    Friday, July 02, 2004 7:48 PM
くだらない疑問いろいろ MM

 原発ではなくアルコール駆動なさってたんですね。
 それにしても古今東西の戦いをすべてインプットされてるんですね。ロンメル将軍の戦車軍団とか、ベトナム戦争の戦闘ヘリ部隊なんてのも守備範囲なんでしょうか。近代戦まで守備範囲にはいっていたらもはや戦争マニアといわれますよ。
 こんなに騎馬戦の記録があるとはちっとも知りませんでした。しかしこれらは一次資料でおいそれとは手がでません。私が読むのはこれらを読んだ作家がそれを料理してくれた小説ばかりですから。しかも文庫にかぎる。ローマ軍の記録はローマ帝国衰亡史ですか。それくらいならそのうち手に取る機会があるかもしれない。
 たいへんな物知りでいらっしゃるから、この際疑問に思っていたことを聞いてしまおう。ただしくだらないことばかりです。私の知性は高校程度でとまっています。
 張飛や関羽や現代のシュワルツネッガーみたいなひとが五十人ぐらいの敵に囲まれたとして、そのうち十人から二十人ぐらいを切り倒して包囲を突破することは本当に可能なのかどうか。
 ブルースリーのカンフー映画の掛け声はあの人だけのものなのか。

 日本人の作る漢詩は四声がわからずにつくっているので中国人が読むとへたくそに感じるというには本当ですか。

 ローマ軍団が何とかの谷で剽悍な山岳少数民族に大敗したというエピソードがあったと思うんですがなんの谷でしたっけ。

 最近本屋で銀河英雄伝説の田中芳樹が中国文学にも造詣が深く中国の時代小説をたくさん書いてることを発見しました。ちょっと以外で驚きました。花木蘭の話をベースにした 風よ万里を駆けよ というのを買ってみたらけっこう佳品でした。一人で圧倒的多数に討ち入って討ち死にするというシーンが三つばかりあるんですが、迫力があります。麦鉄杖という人の話がおもしろかったんです。隋書に記録があるそうですが、やはりこういうふうに料理してもらわないとちょっと普通人の口にはあいません。この中では戦闘時の掛け声を 殺
 としてるんです。シャアというふりがなつきです。これがかっこいいんです。ところで中国語で書かれたこういった時代物ではこういうふうにかいてあるんでしょうか。それを踏襲したのか、それとも著者のオリジナルでしょうか。MM

   Saturday, July 03, 2004 9:40 AM
Re: くだらない疑問いろいろ

原発ではなくアルコール駆動なさってたんですね。

 そうですね。毎日悲惨に腹いっぱい飲んでいます。

それにしても古今東西の戦いをすべてインプットされてるんですね。ロンメル将軍の戦車軍団とか、ベトナム戦争の戦闘ヘリ部隊なんてのも守備範囲なんでしょうか。

 そんなことはありませんが、そういえば昨夜は、ある会社の女性相手に、飲み屋で「トロイア戦争」の話を詳しくしていました。たとえばね、

  ヘレネは、実はもっと少女にときに誘拐されたことがあるんだ
  よ。相手はアテナイの英雄テーセウスなんだけれど、結局救われ
  て、彼女はスパルタのメネラーオスと結婚するんだが、そのとき
  テーセウスの母親のアイトレーをそのまま拉致していく。そして、
  なんとパリスがヘレネを誘惑してトロイアに連れていくときに、
  このテーセウスの母親もまた連れて行き、また監禁する。そして
  トロイアが滅びるときに、その混乱の中で、この年老いたアイト
  レーと、テーセウスの息子が再会するんだ。これは感動だよ。

てなことです。その他いっぱい話したよ。ヘレネは二人姉妹で、姉のクリュタイメストラは、メネラーオスの兄のアガメヌノーン(これがトロイア攻めの総大将になる)に嫁ぐが、このトロイア攻めにあたって、イピゲネイアという娘を生け贄に捧げることになり、それをクリュタイメストラは怨んで、戦争のあと帰国した夫を殺してします。それで、その子どものオレステスとエレクトラが、この母親を殺す。だがそうすると、今度は「母親殺し」ということになって……………。それに、このクリュタイメストラは浮気しているのだが、その相手が夫の従兄のアイギストスというのだが、このアイギストスにも訳があって、………………………あ、以下にも書いています。

  アイスキュロス「オレステイア」

 なんだか、それから飲んでいた2軒目の店が気にいらなかったな。

 そうねえ、ロンメルの「エルアラメインの戦い」なんかよく知るべきだとは思っていますが、私は「戦争マニア」とはいえないですよ。恋愛小説もいろいろと好きですよ。

しかも文庫にかぎる。

 文庫本にたくさんなっていますよ。

ローマ軍の記録はローマ帝国衰亡史ですか。

 ええと、誤解を恐れず言えば、あのギボンのは、「ローマ史」というよりも、東ローマの歴史です。ギリシア・ローマに関しては、たくさんの書物があり、そしてこの日本で翻訳されていますよ。

 実は、このいまの間しばらく家のかたずけをやっていました。もうすぐ防火装置の検査に来るのです。もう我が家は、私の周囲は本雑誌だらけ、そしてベッドの周りは、本だらけと、パソコン関連機器だらけです。私はずっとパソコンを自作していたのですが、自作というのは、5台作ると、あと2台分くらい部品が増えるのです。それでまた作ることになるのです。私は12台作りましたからね。今ずっとしばらく自作しないのは、この「もうかたずけられるかな」という問題なんです。

張飛や関羽や現代のシュワルツネッガーみたいなひとが五十人ぐらいの敵に囲まれたとして、そのうち十人から二十人ぐらいを切り倒して包囲を突破することは本当に可能なのかどうか。

 どうなんでしょうね。ただ、私の先輩で、埼玉大学一ゲバルトが強かったのではないかと思われるTさんが、東大闘争のときに、街頭で、ある女性を抱えて、機動隊の中を駆け抜けたといいます。このTさんは、他でもさまざまなことを聞いています。このとき彼の抱えていた女性が、実は私の彼女になった娘です。私は東大の安田講堂の中にいましたから、このことはずいぶんたってから聞いたことでした。

日本人の作る漢詩は四声がわからずにつくっているので中国人が読むとへたくそに感じるというには本当ですか。

 四声は漢詩の作りとは関係ありません。四声ではなく、平仄が大事なのです。平仄が判らないと、漢詩は作れません。日本の漢詩人は、明確に平仄や韻をふんで漢詩作りをしています。夏目漱石なんか、実にしっかりしていますよ(ただし、彼は毎日のように、ただただ普通に作っているだけです)。
 中国人が日本の漢詩を読むと、「どうしてこんなに、日本人は、我が中国のことも自然を美しく表現してしまうのかな」と感心するようです。以下を読んでみてください。

  乃木希典「旅順をめぐる三つの詩」

 乃木さんには、この三つのほかにも、たくさんの詩がありますが、実に見事ですよ。郭沫若が絶賛するだけのことはあります。
 私も学生運動での刑務所の勾留の中で、漢詩作りをやったのですが、もう時間のかかること、時間のかかること。もう韻をふみ、平仄の原則を合わせるのは、大変に時間がかかるのです。だから、刑務所の中で、私は七言絶句を一つしか作れませんでした。
 ひどい日本人の漢詩(まがいのもの)の例は以下にあげておきました。

  田中角栄の漢詩

 思えば、良寛さんも平仄にはとらわれない詩を書いているのですが、

   良寛の詩

これはいいですよ。上の田中角栄のは、もう話になりません。

ローマ軍団が何とかの谷で剽悍な山岳少数民族に大敗したというエピソードがあったと思うんですがなんの谷でしたっけ。

 これだけの情報だと判らないのです。「剽悍な山岳少数民族」というところで、私は判断できません。「ローマ軍団が敗れた」「谷」というところで、これは「ゲルゴウィアの谷」じゃないかな。ガリアのアルヴェルニア族の若きウェルキンゲトリクス王がカエサル軍団を破った戦いです。アルヴェルニア族は少数ではなく、ガリアの大部族なのです。これは「ガリア戦記」に書いてあります。岩波文庫にありますよ。

最近本屋で銀河英雄伝説の田中芳樹が中国文学にも造詣が深く中国の時代小説

 ごめんなさい。私は全く知りません。若い方の小説を私は知らないんだなあと深く確認できました。
 また。萩原周二

   Saturday, July 03, 2004 9:58 AM
少し加えます

 直前のメールで

 中国人が日本の漢詩を読むと、「どうしてこんなに、日本人は、我が中国のことも自然を美しく表現してしまうのかな」と感心するようです。以下を読んでみてください。

というところなんですが、乃木さんの詩は、平仄のこと等々ではいいのですが、「日本人が中国の自然を美しいものと思い込んでいる」という内容は、以下のほうがいいと思いました。

  「日本の誇り」ということに関して

 日本人は、まったく感覚および自然観も違う中国人の言語の使う漢字を学んだことは、大変に苦労してしまうことでしたが、また良かったことでもあるなあと私は思っています。萩原周二
(第205号 2004.07.19)



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2011年08月15日

第50回「騎馬軍団のことで」

11081404Monday, June 28, 2004 8:22 AM
どうぞお使いください

  こうして返事が遅くなりごめんなさい

 いえ、あの、礼状にまで返事がいただけるとは思っていませんでした。
 メールはご自由にお使いください。誤字はなおしておいてくださいね。

 私がだれにもわからないだろうと思うのは騎馬軍団のことなんです。これが五千騎もぶつかり合っ時にどんなふうに見えるか離れたところから観察して詳しくかいた人はいないんじゃないでしょうか。

 学生運動のことは一世代違うと本で読んだだけで戦国時代の情勢よりまだわかりにくいぐらいなんですが、宮崎学の突破者にかなり暴力的なシーンがあったように書いていましたが。広い範囲で起こったので場所によって違うのかもしれません。しかし今やほとんど伝説的な時と場所にいらっしゃったとは!!驚きです。私は浅間山荘事件の時中学生で、廊下ですれ違った国語の教師に、大人になっても赤軍派みたいなのにはいったらあかんで、といわれました。

 兵站の大事なことは水滸伝にもよくでてきます。日本軍は兵站は現地調達を中心にするという方針だったと何かで読んだ記憶があります。ひどいもんですね。クワイ川捕虜収容所とその反対のアーロン収容所は読んだことがあります。

 今回一番下までよく見たら確かにメールへのリンクのアイコンがありました。あの時はなぜか目に入っていませんでした。いつも詩の終わりまでしか読まなかったからでしょうか。お気づきでしょうが粗忽者です。MM

   Saturday, July 03, 2004 7:49 AM
Re: どうぞお使いください。

 まずは、これに返事を書きます。

私がだれにもわからないだろうと思うのは騎馬軍団のことなんです。これが五千騎もぶつかり合っ時にどんなふうに見えるか離れたところから観察して詳しくかいた人はいないんじゃないでしょうか。

 前のメールでも少し書きましたが、騎馬軍団の戦いに関しましては、たくさんの方が書いています。
 そうですね、真っ先に思いだしましたのは、ナポレオンの最後のワーテルローの戦いでの、最後の近衛軍団の突入です。英国ウェリントン軍にたいして、ナポレオンは、騎馬近衛軍団の密集突入を命じます。しかし、これはブュリッヘル率いるプロイセン軍を、友軍のグルーシー将軍の軍団だと思い込んでしまったナポレオンの判断ミスでした。また、実は退却まで考えていたウェリントン軍のナポレオン軍に対する集中砲火攻撃は、密集する騎馬軍団にはかなりな効果を与えたようです。このことは、いくつもの書物に詳細に書かれています。
 また思いだしたのは、カエサルとポンペイウスとの最後の決戦であるペロポネソス半島でのフェルサルスでの戦いです。この戦いでは、ポンペイウス軍5万4千の軍団だったのにたいして、カエサル軍は2万3千の兵力でした。しかもカエサル軍1千の騎馬軍団にたいして、ポンペイウス軍は7千の騎馬軍団であり、そして決定的だったのは、このポンペイウス軍の騎兵は、当時最強の騎兵だと言われていました。この騎兵たちは、ローマ貴族の若き兵士で、しかも当時イケメンの美男子ばかりを揃えているので有名でした。
 これにたいして、カエサルの作戦が周到に準備されます。たくさんの徒歩の特殊部隊を作り、騎兵の前に踊り出る訓練を何度もします。急に馬の前に現れて、そこで槍で、いきなりイケメンの騎兵の顔を狙うというやり方です。これを執拗に執拗に訓練します。
 これが、戦争当日見事成功します。ポンペイウス軍のイケメンの騎兵たちは、いきなり馬の前に飛び出してくる男たちに、驚き、かつ大事な顔を狙ってくる槍に、大事な顔を両手で覆って、馬を躍らせたり、落馬するものが続出したといいます。この中で、カエサル軍が勝利し、ポンペイウスは逃げ、エジプトへ逃れます。このエジプトでポンペイウスを伐つのが、エジプト軍で、ここでカエサルはクレオパトラと出会うことになります。
 この騎馬戦のことは、有名でして、たくさんの本に書かれています。そしてその原典といえば、プルタルコス「対比列伝」であり、カエサル「内乱記」です。両方とも、文庫本になっていますよ。また、今は、塩野七生さんの「ローマ人の物語」にも書かれています。
 ほとんど、こうした本は今文庫本で読むことができます。文庫本でなくても、図書館等で簡単に読むことができます。
 騎馬軍団といえば、ジンギスカンを思い浮かべますが、その騎馬軍団のあり様を詳細に書いてくれているのが、マルコポーロ「東方見聞録」ですが、この本は平凡社の「東洋文庫」(これは文庫本ではありませんが)にあります。
 その他、たくさんあるのですが、小説になっているものでも、「あ、これは古典からよく書いているんだな」と思うものがたくさんあります。栗本薫「グイン・サーガ」なんか、「あ、これは『甲陽軍鑑』と『北越軍記』からそのまま書いているな」なんていう戦闘シーンが、そのままあります。
 私が最初に思いだした近代の人でいいますと、日露戦争での秋山好古がいます。彼はロシアのコザック騎兵に対する戦いを予定して、ずっと学んでいくのですが、彼がプロイセンの「騎馬戦の得意な軍人は、アキレサンダー、ハンニバル、カエサル、ナポレオンだ(もっと名人を述べたのかもしれない、なにしろ記憶だけで私は書いていますから)」と述べる教官にたいして、「いやもう一人いる。それを忘れないでほしい」といい、「それは日本の源義経だ」なんて言ったといいます。思えば、義経の騎馬に関する考え方、戦い方も、たしかにすごいななんて思うものでした。

学生運動のことは一世代違うと本で読んだだけで戦国時代の情勢よりまだわかりにくいぐらいなんですが、宮崎学の突破者にかなり暴力的なシーンがあったように書いていましたが。

 ええと「突破者」で、社青同解放派(および中核派やブンドマル戦派)が革マル派に、早稲田構内にてゲバルトで負けるシーンがありますね。あのとき、頭から流れる血をものともせず、ものすごいアジテーションを展開したのが、大口昭彦です。彼は、当時全共闘(のちの全共闘時代の全共闘とは違います。正式には早稲田大学全学中央闘争委員会といいました)議長で、雄弁会で、剣道4段でした。現在はずっと私の会社の監査役です。その他、あの「突破者」に出てきます早稲田の活動家は、みな私の顔見知りか友人です。大口さんは、今は弁護士さんですが、実に頑張っていますよ。私も彼の仕事を手伝い(「これは、俺がやるんではなく、経営コンサルタントがまだやり直せると判断できる経営状態じゃないの」と判断されるとき、私に仕事がきます)、また私も裁判等々を彼に任せることもあります。そういえば、彼は今も剣道が好きですが、何故か今は、柔道を真剣にやっています。なんでかなあ。
 また「突破者」を書いた宮崎さんとは、この作家になる前からの友人です。彼は実は学生時代は、私たちのまったくの敵であった日本共産党の軍事組織の長であったわけですが、ある浅草でやる大きなイベントのときに知り合いました。でもなんだか「あいつは、元日共だぞ」という情報で、最初の最初は警戒したのですが、知り合うと(当然、日共はとっくにやめていて、否定している)、もうとてもいい男です。ただ、彼は全然酒が飲めないので、その点は残念です。
 ただ、何かあると、「それは周ちゃんに頼みな」なんて、言ってくれて、その相手が私のところを尋ねてきますよ。
 まあ、こうした活字になる活動家も、名もない活動家も、みなたくさん友人です。

兵站の大事なことは水滸伝にもよくでてきます。日本軍は兵站は現地調達を中心にするという方針だったと何かで読んだ記憶があります。ひどいもんですね。

 ひどいです。ただし、これは第2次大戦時に、そういう日本軍になってしまったという感じですよ。インパール作戦での、牟田口中将の「ひよどり越え作戦」なんていう言い方からが、私には許せません。

クワイ川捕虜収容所とその反対のアーロン収容所は読んだことがあります。

 クワイ河マーチというのが、「戦場にかける橋」のテーマ音楽ですね。でも私の父は、あの音楽も、日本軍の兵士(名前と所属と出身大学まで正確に言っていました)が作曲したものだといいます。それをアメリカは盗んでしまったのですね。それに、あの映画の最後は、まったく事実と違っています。泰緬鉄道の橋は爆破されたのではなく、今もビルマ(ミャンマーといわなきゃいけないのでしょうが、昨日1軒目で飲みに行った店にも、この国の女の子がいて、私もこの泰緬鉄道のことを喋るのです)や、タイの人が日常生活で使っています。
 アーロン収容所に関しては、私は以下を書いています。

  会田雄次「アーロン収容所」

 そうですね、もうたくさん言いたいこと、いうべきことがあります。イギリスという国は大嫌いですが、米国ほどひどくないところがあるのかもしれません。米国は、イラクで、悲惨でひどいことをやっていますが、あれはあの国の建国以来のものです。日米戦争の大平洋での島々で、日本軍がほぼ玉砕しているところが多いのですが、あれは日本軍が勇敢だったからではなく、米軍が残虐だったからです。アメリカの原住民たるインディアン掃討戦における米軍の残虐性が、この日本軍に対しても、そのまま出ています。それは、米軍の従軍看護婦だったヘレン・ミアーズ「アメリカの鏡−日本」やリンドバーク日記で明らかです。(ただし、ヘレン・ミアーズの本は、米国ではずっと長い間発禁状態でした)米軍が、スー族やシャイアン族やアパッチ族にたいして行った虐殺残虐行為を、日本軍にたいしてそのままやっているんですよ。そして今は、イラクでまたやっているんです。 またメールしますね。萩原周二
(第204号 2004.07.12)



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2011年08月14日

第49回「五丈原の詩 の2」

   Friday, June 25, 2004 11:32 PM
親切なご教示ありがとうございます

11081207 誤字まであるはずかしいメールにご親切に返事をいただいてありがとうございます。
 以前偶然見つけてダウンロードしたのは確かに教えていただいたページです。しかしその時にはふりがなはなかったのです。長いこと自己流で読んでました。間の抜けた話です。はっきり知りたい気持ちが強くなり、思い切って頼んでみようと思い立ったのですが。そのページにはメールアドレスもなかったのでどこかメールアドレスのあるところはないかと探したら漢詩塾というところにあったので使わせてていただきました。
 北方謙三さんの戦いのシーンはユニットごとの動きがゲームの用にはっきりわかるように描写されているので分かりやすいとは思います。こんなに計算通りにいくものなのかなという疑問は起こることもありますが、戦いを知るという点では、歩兵と騎兵のぶつかりあう戦いというものを知っている人は戦中派といえども誰一人いないわけですから仕方がないのではないでしょうか。
 今は同じく水滸伝を回し読みしています。二番目が一番熱心です。金庸の武侠もの、小野冬美の十二国記、揚家将なども読みました。ちょっと先生の趣味とははずれますね。MM

   Sunday, June 27, 2004 8:47 AM
Re: 親切なご教示ありがとうございます

 こうして返事が遅くなりごめんなさい。
 やっぱり土井晩翠の詩ですね。私はあの詩を、高校生のころは全文暗誦できていたんですがね。
 あ、それで

そのページにはメールアドレスもなかったので

 私はこのホームページをはじめたときから、全ページにアドレスを置いていますよ。

北方謙三さんの戦いのシーンはユニットごとの動きがゲームの用にはっきりわかるように描写されているので分かりやすいとは思います。

 北方さんの歴史小説は、ほかにも私は読んでいるんですが、戦いのシーンは同じように読めています。ただね、

戦いを知るという点では、歩兵と騎兵のぶつかりあう戦いというものを知っている人は戦中派といえども誰一人いないわけですから仕方がないのではないでしょうか。

というふうには、私は思えないのですね。彼は、「俺は実際の戦い、ゲバルトを知っている、その場に実際にいたんだ」という気持なのだと思います。それが、あの「別巻」にそのまま書いてあったので、驚いたのですよ。三派全学連のブンド(共産主義者同盟)の、関西派(のちの赤軍派)と関東派のゲバルトを見て、それを「ものすごいものだった」と、自画自賛しているだけなんです。
 それをどうどうと言う彼に驚くと同時に、同じ現場にいた私としては、「こんな光景はなかったよ」としか思えないのです。何を勘違いしているのでしょうか。
 彼はブントと言っても、中央大学の「全中闘」(中央大学全学中央闘争委員会の略)にいたのです。そこで69年の1月の東大闘争で、東大にいた私たちのために、みんなで握り飯を作ってくれたのです。もう熱い飯を、手を真っ赤にして、ブンドの諸君は莫大に握り飯を作ったといいます。でもね、季節は真冬ですよ。暖かい握り飯も、すぐに氷のように硬くなります。そして機動隊の激しい放水と催涙掖です。すぐに握り飯は食べられなくなりました。それにくらべて、どうにも評価できない中核派ですが、彼らは食パンを用意していました。ビニール袋に入れておけば、冬の寒さも、放水も、催涙掖も、みなはねのけていつでも柔らかい食パンが食べられるのです。
 私はこんなことが実際の戦いの現場だと思っています。戦争の実際の現場というのは、食うものとトイレの問題が大切です。実際にずっと何十時間と戦い続ける現場では、食うことと、そしてトイレの問題が重要なんです。
 実際に、このことを、最優先していた武将がいますし、それを書いている小説もあります。小説では、ないのですが、陸軍参謀本部が書いた「日本戦史」において、たとえば、豊臣秀吉という人は、こういう糧食を運ぶ部隊と戦闘部隊とを明確に別けられた武将だったと思います。彼の「小田原攻め」の作戦なんかは実に感心します。「なるほどなあ」なんて読みながら、「でも、これを学んだはずの、日本軍って、どうしてあれほど、兵站という考えが皆無だったの」と怒りを覚えるものです。いや怒りというのは、私の父も、私の義父も、日本軍にいて、ただただ苦労をした兵隊でしたからね。私の父は、中国戦線で戦い、そして仏印進駐から、マレー半島南下、シンガポール攻略、タイへ転進、そして泰緬鉄道建設(のちにアメリカ映画の「戦場にかける橋」になった実際鉄道です)のをして、そしてまたスマトラに転進しました。
 私は、この日本人も、こうした戦いの現場はよく知っているのだと思いますよ。ただ、そうした実際の現場にいる人はただただ黙っていただけです。

今は同じく水滸伝を回し読みしています。二番目が一番熱心です。金庸の武侠もの、小野冬美の十二国記、揚家将なども読みました。ちょっと先生の趣味とははずれますね。

 そうねえ、私の一番の愛読書というと、司馬遷「史記」でしょうか。よくいつも読み直していますよ。この「史記」の中のたくさんのエピソードが、この日本の歴史の中でも、何度もいくらでも繰り返し出てくるのですよ。いやこれは「史記」には限らない話なんです。
 一つあげるとすると「太閤記」(この書物は江戸時代初期に、いくつもの太閤記が書かれています)の中で、竹中半兵衛を秀吉が、自分のところへ来てくれと、何度も通うところがありますね。あれは、「三国志」の中の「三顧の礼」の話そのままなのですよ。
 思えば、信長のことを書いた「信長公記(しんちょうこうき)」を書いた太田牛一(信長の側近の武将)なんかも、書いているそばには、中国の古典が何冊もあったのでしょうね。同じく徳川の「三河物語」にも、同じことを感じます。「あ、これは『史記』に書いている話のそのままじゃないの」なんて思うところがいくらでも出てくるのです。
 そういえば、「信長公記」は、もともとそれほど資料的に信用されていなかったのですが、伊勢湾台風のときに、尾張の古い家から「武功夜話」という書物が出てきて、それに、「信長公記」とものすごく合致するところが出てきまして、「信長公記」がまた再評価されたのですが、ついこのごろ、「武功夜話」は偽書だという説が出てきて、私はもうそれこそ、死ぬほど驚いていますよ。

 ごめんなさい、どうでもいいことを書き連ねました。萩原周二
(第203号 2004.07.05)



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2011年08月13日

第48回「五丈原の詩」

   Monday, June 21, 2004 12:40 PM
五丈原の詩を読んでのお願い

11081201 最近北方謙三の三国志を読んで三国志が好きになったものです。ネットで三国志に関して調べていると五丈原の詩に出会いました。勇壮でかつ悲壮な名調子に感動しましたが、漢字が難しく読み方に自信がありません。ネット上に読み方もアップしていただけるとうれしいです。それがポリシーにあわないとかの場合は、メールで教えてもらえませんか。はっきり声に出して読んでみたいです。
 また高二と十九と二十歳の三人の甥にも読んだあとの三国志を回したら彼らも全部読んでファンになりました。あまり読書などしないタイプなのに不思議です。彼らにもこの詩を教えてやりたいと思います。厚かましいですがよろしくお願いします。MM

   Monday, June 21, 2004 1:24 PM
Re:五丈原の詩を読んでのお願い。

 メールをありがとうございます。
 私の以下をごらんになってメールをいただいたのでしょうか。

   周の三曹の詩

 それで、この「五丈原の詩」とは何の詩のことでしょうか。土井晩翠の「天地有情」にある詩のことでしょうか。
 もしこれだとすると、私のホームページ内では

    土井晩翠「星落秋風五丈原」

に「ふりがな」も一緒に書いてあります。
 ただ、なんでもそうなのですが、漢字や漢文、漢語の読みというのは、作者が書いておいてくれないと、正式には判りません。この詩の題名も

   星落秋風五丈原

にしても、「ほしおつしゅうふうごじょうげん」と読むのか、「せいらくしゅうふうごじょうげん」と読むのかは、どちらがいいのかは判りません。おそらく土井晩翠は、「どちらでもいいよ」と思っていたのではないでしょうか。そういえば、「土井晩翠」も、「どい」か「つちい」がどちらがいいのか判りませんね。
 この詩の中で

   守る諸營の 垣の外。

「諸營」は、本当は「しょえい」と読むのでしょうが、私は「とりで」のほうがいいように勝手に思っています。また「垣の外」は、「かきねのそと」と読むよりは、私は「かきのそと」と読んでいます。
 作者は、「どっちに読んでもいいよ」とか「好きに読んでもいいよ」という漢字に関しては、とくに作者が示すことはないのだと思っています。

 それで「三国志」に関しては、私は吉川英治「三国志」が好きです。正史の「三国志」も裴松之の註含めて好きですが、やはり読むのがしんどいです。
 北方さんのは、私は少々批判があります。以下に書いておきました。

   三上治『1970年代論』(これはまだ完成していない書評です)

 私は「北方さんって、戦いの実際の場って、判ってないんじゃないかな」としか思えないです。
 でも甥の方々も、この世界が好きになられたということですね。嬉しいです。できたら、私の好きな曹操の詩も紹介ください。曹操の魅力が判ってくるかと思っています。萩原周二
(第202号 2004.06.28)



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2011年08月12日

第47回「佐世保事件について」

11081104  Monday, June 07, 2004 5:23 PM
パパへ

 メルマガ読みました。昨日電話したらあんまり元気がなかったみたいだから心配したけど、長崎の事件のことを書いた部分を読んだら「まだパパも大丈夫」と思いました。

  佐世保の事件について(2004.06.07)
  続佐世保の事件について(2004.06.14)

よくぞ言ってくれたって感じだよ。
私もあの事件のことは本当にびっくりして、どうしたら良いのかわからないけど、でもパパの言っていることはわかる。すごくよくわかる。

大人が子供から目をそらしちゃいけないよね。
子供ってめちゃくちゃパワーがあるから
ずっとやりやってたら疲れちゃうんだよ。
特に5,6年の子供たちなんて、本当にパワーが上へ横へ延びている時期だか
らつい見逃したくなる。そのほうが楽だからね。

でもそれじゃだめだって思った。いつでも真剣勝負!なんだ。
こっちが本気で伝えなければ、絶対に伝わらない。それを思うよ。日々、いろんな子と触れ合ってて。大人、とか子供とか関係ない。特に子供はひどく残酷にも天使にもなる。気を使うとか、人の気持ちをよむ、とかできない。だからこそ、伝えなければいけない。
「今、君は私を傷つけた」
「今の発言は優しくない、ひどい、言ってはいけない」
「手は上げてはいけない、絶対にやってはいけない」

自分の存在がどれだけ悪魔になってしまうのかをどれだけ人を傷つけているのかを
ちゃんとわからなければいけない。

それが大人も子供も生きている責任だよね。

そんなことを思いました。毎日体力つけて、子供と真剣勝負! がんばりまーす。

パパも、自分の大切な家族のことを考えて、家族が悲しむことはしないで自分の体のことを考えて、長生きするんだよ。
それでは。おはぎ

 Monday, June 07, 2004 6:22 PM
Re: パパへ

 メールをありがとう。ちょうど、メルマガを配信していたら、おはぎのメールが入っていました。

メルマガ読みました。昨日電話したらあんまり元気がなかったみたいだから心配したけど

 いや、なんとなくブルータスもいなくて、寂しくてね。

長崎の事件のことを書いた部分を読んだら「まだパパも大丈夫」と思いました。

 こういう事件が起きると、あちこちで私は意見を求められるので、あちこちで喋っているんだ。ただ、今回のことは早くホームページで言わなくちゃと思っていて、「まずはメルマガで」と考えたのです。
 本当を言うと、もう少しちゃんとまとめたかったんだけれど、そんな「綺麗にまとめる」よりも、早く書いてみんなに伝えようと思ったのです。だって、インターネットだの、パソコンなんぞに犯人を見付けたかのような馬鹿な言い方には頭にくるよ。
 昔からあったんだよ、「悪書がいけない、追放しよう」「テレビがいけない」「とくにドリフの全員集合がいけない」。そういえば、私の好きな「ヤクザ映画がいけない」という言い方もあったっけ。
 昔見せたことがあるけれど、「ティーンズロード」という女の子の暴走族の雑誌だけれど、あれを販売禁止にしようというマスコミの動きもあったんだよ。あれほど、多くの女の子に読まれて、しかも教育のことを真面目に書いている雑誌はほかにはなかったと思うんだけれどね。
 このパソコンについても、私がパソコン通信をやっていた頃も、常に

  パソコンなんかやらないで、もっと本を読むべきだ
  パソコンやファミコンは目を悪くする
  子どもは、もっと外へ出て遊ぶべきだ

なんていう言動ばかり聞きました。私は「私はあなた方よりも、おおいにパソコンを使うが、あなた方の数十倍本は読んでいるよ」と判るように行動してきました。そんな決めつけがくだらないのです。
 一番大切なのは、私たち人生の経験者である大人が、たくさんのことを子どもたちに伝えることなんだよ。
 きのうの夜も、きょうの朝も、ブルータスとこのことを少し話しました。親が話すべきことは、たくさんあるんだ。
 大人が、親が、担任が

  人の悪口を言ってはいけない、差別やいじめは絶対にだめだ、
  人を傷つけたり、殺しては絶対にいけないのだ

と言い続けたとしたら、子どもたちの中には、でも言ってくることもあるかもしれない。

  でも、もしバトルロワイヤルのような時代・世界になったら、
  どうしたらいいのか、自分が生きるためには相手を殺さなければ
  ならないという世界なら仕方ないのじゃないのか

 だから、こういう言い方に「違うんだ」と応えなくちゃいけないのだ。
 昔私が教育実習をやったときに、このことを話したことを思いだしました。以下のUPです。

 あげあしとり47「『悪法もまた法』とやらに」

 このときにも、中学生たちの中には

  いつかこの地球上で、自分を守るためには人を殺してもいい

という法律だって作られるかもしれないとまでいいだした生徒もいました。
 このときの内容は、今回の問題にも充分適応できることです。

よくぞ言ってくれたって感じだよ。

 いやまだまだ足りないんだよ。私の友人やクライアントの人には伝わるけれど、そこまでだよね。だから、こうしてメルマガに書いて、ホームページで展開しなくちゃいけないんだ。

大人が子供から目をそらしちゃいけないよね。
子供ってめちゃくちゃパワーがあるから
ずっとやりやってたら疲れちゃうんだよ。
特に5,6年の子供たちなんて、本当にパワーが上へ横へ延びている時期だからつい見逃したくなる。そのほうが楽だからね。

 そうなんだけれど、やっぱり見逃しちゃ駄目なんだよね。だから、おはぎの以下の言葉はどれも嬉しいよ。

 でも、以下には驚きました。

おはぎ(ここにはおはぎの結婚後の苗字で氏名が書いてあります)

 ああ、おはぎはよそんちの子になっちゃったんだな。でも苗字なんか関係ないよね。おはぎは、やっぱり私の娘であり、私はおはぎのパパです。萩原周二
(第200号 2004.06.14)



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2011年08月11日

第46回「TV番組について」

11081006   Monday, April 26, 2004 3:40 PM
TV番組について

「周」 様
仕事の合間に貴掲示板を遡って見せていただいておりました。おやっ!、と思ったのは3月25日頃からの書き込み、TV番組についてです。私も同時期に地元のローカル局の番組を見ました。その時の感想を、私は自分のHPの管理人日記に以下のように書き留めました。

■2004.3.23  morning  管理人 wrote
昨晩、妻が階段を駆け上がってきた。
「貴方、安田講堂の番組をやってますよ!」
テレビをつけると佐々淳行氏がインタビューに応えていた。
安田講堂の攻防戦が鮮明な画像で流されていた。
さすがマスコミ、映像記録は素晴らしいものがある。

途中で中年の男性のインタビューに変わっていた。
攻防を当事者として語っていた。
攻防2日目、機動隊が入ってきて彼は何故かホットしたと語った。
ああ、これで終われるんだ・・・と言うような事を言って言葉が途切れた。
頬を涙が伝っていた。
何を思い出したのだろう。
当事者でしか分からない「思い」だ。
私にはあの涙が分かる。

貴掲示板を見て、あの中年の男性は「周」さんなのでは?、と思いました。違いますか。間違っていたらごめんなさい、でもそうだとしたら・・・・、貴方の頬を伝った一滴の涙は、私たちに百万遍のメッセージよりも訴えるものを感じました。
1968年全共闘だった時代 yamamoto

   Tuesday, April 27, 2004 7:17 PM
Re: TV番組について
 メールをありがとうございました。
 それで、たしかに私はあの番組に登場しておりました。「プロジェクト猪」の新年会に、あの番組の制作プロダクションが来ておりまして、東大闘争の安田講堂で闘っていた人ということで、私が手をあげて、取材されることになりました。ただ、佐々の翼賛番組だとは知りませんでした。でもまあ、それはどうでもいいでしょう。テレビなんて、そんなものでしょう。
 ただ、

貴掲示板を見て、あの中年の男性は「周」さんなのでは?、と思いました。

 私は出演しましたが、

頬を涙が伝っていた。

の男性は、私ではありません。彼は、東大生で今は熊本大学の教授だということでした。
 私は「外人部隊の埼玉大学の萩原周二」と活字で紹介されたほうです。私も年を取りましたが、あの人はどうみても年をとりすぎです。私はその前に何度も画面に出てきて喋りました。
 ちょうど、あのあとに、ある会合で、明治大学のYさんが私の隣に座りまして、「テレビ見たよ」というのです。Yさんは、東大闘争の18・19のときのブントの守備隊長でした。
 彼も言っていました。

  なんだか、知らないけれど、あの熊本大学の先生になったとい
 う人はおかしいんじゃないか。なんで今になって涙流すことがあ
 るんだ。

 私もまったく同感でした。まったく「冗談じゃないよ」という思いですね。ただ、東大の学生であったあの人には、そういうような思いがあるのかもしれませんね。私はまったく違います。

攻防2日目、機動隊が入ってきて彼は何故かホットしたと語った。ああ、これで終われるんだ・・・と言うような事を言って言葉が途切れた。

 私は17日から5階屋上を守備していました。19日午後2時頃、「俺たちは、これから3階に降りて、機動隊と白兵戦をやる」ということで、もうバリケードをきずいていた階段を降りていきました。今思えば、私たちの守備の隊長が、「ここの部隊は少し暴れすぎだ、ここままパクられたら、誰もやばい」と判断したのだと思います。なにしろ、火炎瓶を盛んになげている姿を大量に写真に撮られていましたから。

 それで、「機動隊が入ってきて彼は何故かホットした」とか「ああ、これで終われるんだ」なんて思いは、私は少しもありませんでした。私は、最後、あるグループが部屋の隅に行きまして、座って「インター唄ってパクられよう」と言ったのですが、そこにいまして「白兵戦のはずじゃないか」という思いでした。
 もう3階は暗くて、よく判らないのですが、ちょっと先で、闘っている部隊がいます。「あ、あれは俺たちの側じゃないか! どうせなら、闘ってパクられようぜ!」といいまして、その場へ行きまして、また機動隊と激しくやりあいました。
 あの東大出のおじさんは、当日も涙が出てきたと言っていましたね。あれは嘘です。私たちは前日から激しく催涙弾、催涙液を浴びてきましたから、もう2日間涙も鼻も出っぱなしで、あの時間にはもう涙なんか、かれはてていました。もう顔中、身体中が燃えるように熱くて、そんな身体そんな時間に、「これで終われるんだ」ということで、涙が出てきたなんていうのは、全くの嘘です。

 ですから、私はあのようなことは絶対にいいません。いいませんでした。
 ただ、私はあの番組では、実に3時間に渡って、撮影されたのですが、出番はほんのわずかでした。どうみても反省も何もしていない私なんで、まずかったのかなと判断されたかという思いです。
 私は取材側にたいして、よく喋り、よくいろいろと伝えましたが、私の思いを伝えるために、メールもしました。その一つが以下です。

 3月6日の取材をありがとうございました。私のほうが何も用意
できていなくて申し訳ありませんでした。
 あのとき、私の話したことで、関連するかなという私のホームペー
ジの箇所を以下あげます。

     『私の「周の掲示板」の1998年11月21日の私の書いた一節』
 ただ、これは致命傷でしたね。私は若き日三派とか全共闘と呼ばれた時代に必死に闘っていたものでした。その中でも実際のゲバルト行為のときに(相手は日本共産党とか国家機動隊なわけですが)、人間がどのくらいの時間続けて闘えるのかよく判った気がします。戦闘をしていても、人間は糞しょんべんをしますし、メシがなかったら、動けなくなります。カエサル「ガリア戦記」においてローマ兵がストライキを起こすことがあるのですが、それは糧食である小麦の配当が遅れたからです。それで、自分達よりの体格のいいガリア人やゲルマン人と闘えと言ったって冗談じゃないということでしょう(こんなことが大東亜戦争のときの日本軍には理解できていなかったのですね。インパール作戦での牟田口中将の「ひよどり越え作戦」なんて言動からが今でも頭に来ます)。まして、水がなかったら、すぐさま降伏するしかないのです。こんなイロハが判らない馬謖を使わざるを得なかった孔明という人は不幸だなと思うのです。

       ケン・グリムウッド『リプレイ』
 リプレイ
(REPLAY)とは再生とか再演というようなところでしょうか。この小説の主人公は、ちょうどカセットテープを再生させるように、また自分の人生を繰り返します。
  (中略)
 それにしても、「もう一度人生がやり直せたら」とは誰もが考えたことがあるでしょうが、私ももう一度どの世界に帰ればいいだろうかなんて考えてみました。多分人生で一番激しく生きていたのは恋愛のときでしょうから、一九六八年の五月くらいの埼玉大学のキャンバスに戻ろうかな。あの八重桜の咲く、タテ看板が林立し、アジテーションがきこえ、芝生で討論する学生の輪があるなか、埼大のキャンバスで、私は本を抱えて歩いてくる一八歳のミニスカートの少女を見ている自分に帰りたい。あの少女に恋したことが私が一番激しく生きていたことのように思います。しかし、それからまたいろんなことがあって、また結局東大闘争でまた安田講堂で催涙液と放水の雨の中でぐしゃぐしゃになること考えると、それはもうなんだか堪らないな。少し嫌だな。だけど戻れたらまたきっと同じことをやるでしょうね。

 以上なんです。他にもいくつもメールを出して、私たちの闘いの様を少しは理解いただけるようにしたものです。
 私にとっては、涙を流して思い出すようなことではなく、きっとあの時代でも今でも、そして未来でも、私は元気に闘っているのです。萩原周二
(第195号 2004.05.10)



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2011年08月10日

第45回「お花見はとっても楽しかったです」

11080906     Monday, April 05, 2004 8:49 PM
お花見はとっても楽しかったです
 萩原さんと買い物に行った事、おでんの味付けした事、ビンゴのお手伝いした事、初対面なのに色々お話しした事、お手伝いできた事がとっても嬉しく楽しかった事。
 無知でお話しが上手くないけど、神田会にも参加したいなあって思いました。萩原さんの周りには不思議な人達が沢山いて、少し興味が沸いています。
 来年のお花見も是非是非、お声を掛けて下さい。大きなお鍋持参して行きます。おでんでも豚汁でもご希望のもの何でも作っちゃいますよ。
それでは又・・・・   会社のURL    ♪O.K.♪

   Tuesday, April 06, 2004 6:57 AM
Re: お花見はとっても楽しかったです

萩原さんと買い物に行った事、

 ものすごく私も愉しかったですよ。あの谷中・千駄木・根津という街は、私が一番好きな街なのです。とくに、あの谷中銀座に至る階段の道から、谷中を見下ろす景色が好きです。その他、あの谷中銀座から夜店通り(おでん種のお店の通り)に通じている各路地が好きです。
 私の大好きな吉本(吉本隆明)さんも、あの街を歩かれるのが好きなんですよ。「背景の記憶」という吉本さんの単行本の表紙が、この路地を歩いている吉本さんの写真です。

おでんの味付けした事、

 おでん、大変に美味しかったです。私はもっと食べたかったな。でもみんな食べられたかな、なんて心配にもなります。せっかくOさんが作ってくれたのだから、ぜひみんなに食べてほしいものでした。とくに私の関係者(神田会や埼大の関係)には食べてほしかった。いや、また会ったときに、あのおでんとOさんの話がしたいからです。

ビンゴのお手伝いした事、

 本当は私は「ビンゴ」というのは少しも好きではありません。でももう、私も社会人だし、いいかな、「いいかなと思わないといけないかな」と思っています。今回も

  萩原さんは嫌だろうけれど、ビンゴをやります

なんてMさんに言われていたんです。ようするに私はただただ「酒が好き」だけの男と思われているんです。

初対面なのに色々お話しした事、お手伝いできた事がとっても嬉しく楽しかった事なのに

 そうねえ、愉しかったよね。私はIさん(浪曲をやってくれた方)の息子さんにお会いできたのが嬉しかった。あとSさんという美人が来てくれましたが、彼女はK社のYさんの紹介だったのですが、私がクライアントのRの会社に紹介しました。そのことで、大変に彼女が私に感謝していてくれるのを知りました。嬉しいです。それと、あんなに美女だったって、全然判らなかった。女性は化けるものですね。
 それから、私たち神田会の仲間で、T君が連絡もなしに来てくれたのは嬉しかったです。彼はお母さんをずっと介護していたのですが、そのお母さんが亡くなって、その後熊本で働いていると思っていたのですが、突如来てくれたのです。ただ、あまり話せなかったのが残念です。
 その他、埼大のNさん(彼は神田会と浦和会の仲間です)とB君と、神田会のUさんと、上記のSさんと、あのあと「きゃらめる」に行ったのですが、私とN、Bの、埼大活動家は、みんな軍歌を唱っていまして、やはり埼大らしくていいです。

無知でお話しが上手くないけど、神田会にも参加したいなあって思いました。萩原さんの周りには不思議な人達が沢山いて、少し興味が沸いています。

 うん、ぜひ参加してください。神田会の仲間は、一言でいいますと、「不思儀」というよりも、「いい人」ばかりですよ。だから会うと、安心して飲んでいられます。
 そうねえ、浦和会を形成しているのは埼大の昔の活動家が多いのですが、私の印象では、やはりいい人で、いわば礼儀ただしいそしてけっこうおとなしい人ばかりなような感じがします。でもみんな、不当な権力に対して向かうときには、驚くほど戦闘的になってしまうのです。それが思えば、不思儀で面白いことですね。

来年のお花見も是非是非、お声を掛けて下さい。大きなお鍋持参して行きます。
おでんでも豚汁でもご希望のもの何でも作っちゃいますよ。

 ありがとう。みんなにも伝えておきます。また来年も愉しくやりましょう。
 そういえば、

  稲荷寿司の「磯貝商店」

のおすしも美味しかったよね。でもひとつしか食べなかったから(ひとり1個づつだから、それでいいんですが)、なんだか寂しい。また買いにいきます。
 美味しいといえば、「浅野」の作ってくれたお弁当は絶品でした。私はそのまま自宅へ持って帰って、翌日食べたのですが、店長の言うとおり(これは、持って帰って翌日食べても大丈夫ですと言われていました)、美味しかったし、妻も「美味しい」と言っていました。

それでは又・・・・

 今度また飲もうね。それとそのときには、もっと時間を確保してきてね。なにしろ、私は唄える店というと、「きゃらめる」しか知らないのよ。萩原周二
(第192号 2004.04.19)



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2011年08月09日

第44回「MoneyLook」

11080807 以下で紹介しております会社からメールをいただきました。

   MoneyLook

 おそらく私がパソコンで一番頻繁に使っておりますシステムだと思います。私だけではなく、私のクライントや友人にも強く薦めているものです。

   Monday, March 29, 2004 7:33 AM
突然のメールで失礼いたします。
はじめまして、ソフトバンク・ファイアンスグループの株式会社テックタンクで、MoneyLook事業部長をしておりますFと申します。
Googleで検索していたら、ホームページをみつけましてメールさせていただいております。
MoneyLookをホームページでご紹介いただきましてありがとうございます。おかげさまで、MoneyLookは、順調にサービスをさせていただいておりますが、今後、改善した方が良い点等、ご意見をいただけますと幸いです。今後ともよろしくお願い致します。

F.S.
 株式会社テックタンク MoneyLook事業部
 住所 電話 FAX
      ここのURLが二つ

   Tuesday, March 30, 2004 6:25 PM
 丁寧なメールをありがとうございます。
 MoneyLook は大変に重宝して使わさせていただいております。他のシステムもいろいろと検討して、実際に使ってみまして、結局他のものはやめてしまいました。
 それと、私のクライアントや友人にも薦めています。
 ただ本当は、若い方よりも私のような年代(私は55歳です)にこそ便利だと思って薦めてはいるのですが、その年代はなかなか使ってくれませんね。残念です。

今後、改善した方が良い点等、ご意見をいただけますと幸いです。

 前にもメールしたことがありました。また気がついたことがありましたら、メールさせていただきます。
 メールをありがとうございました。萩原周二

   Wednesday, March 31, 2004 6:22 PM
RE: はじめまして

萩原周二様
いつもお世話になります。(株)テックタンクのFです。MoneyLookをご利用いただきましてありがとうございます。以前、アンケートをとってみたのですが、MoneyLookの利用者は、一般のインターネット利用者よりは、年齢は高めのようで、30代が約4割、40代と20代が各2割強、50代以上の方が1割弱という状態でした。

お知り合いにご紹介いただけますと幸いです。

まだまだ、Yahoo!JAPANユーザにさえも知られていないこともあり、機能向上にあわせて、告知も行っていかなくてはと考えております。今後ともよろしくお願い致します。
(第191号 2004.04.12)



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2011年08月08日

いろいろと動き回りました(1998.11.03火)

11080611 とにかく、いろいろと動き回りました。埼大のむつめ祭も愉しかったし、本日の松戸自主夜間中学校でもわずかの時間でしたが、愉しい時間と空間に身を置けました。それから、本日午後1時からの「パソコン自作講座」は、これまた秋葉原をたくさん歩きました。いいですね。どこもかしこも、みな元気でした。


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第43回「スパムメールのことで」

11080610 今回は、前号でのメルマガの「お便り紹介」を書こうとしていたころ、偶然相談されたことで、応えた私のメールです。

Tuesday, February 10, 2004 12:13 PM
   スパムメールのことで

 以下私の「将門Webマガジン」の来週16日に配信予定の「お便り紹介」
の一部です。

 たしか、「週刊アスキー」の、このスパムメールの発信元の多い国として

   米国−中国−韓国

があげられていました。それで、でも何か別な統計だと、韓国からのが一番だともありました。
 それで、私の妻も次女も、もうメール開くのも嫌だという感じでしたが、ほぼ退治できましたよ。
 それから「請求書」がメールで来るというのは、私は最初が昨年6月頃でした。請求元が、そのとき新宿区歌舞伎町なっていましたから、かなり頭に来た私は、そこへ押しかけようか、まずは圧倒的に怒りの電話をしようかと思いました。ただ、一応インターネットで、「この問題について何か書いてないかな。それを調べてから電話しようということで調べました。
 あちこち見ましたら、「相手にしないこと」が一番よい方法だと書いてあります。メールで抗議の返事をすると、相手が存在するということが確認できるから、私のメールアドレスが確実に存在する私ということが判り、もっとスパムメールが来てしまうようになるようです。さらに、まして「電話してはいけない」、頭に来たからと行って、「相手先に行ってはよくない」ということがアドバイスされていました。
 相手の悪質業者は、どこからかメールアドレスを買い取って、やたらに出しているわけです。だが、実際にそのアドレスが誰かが使われているか否かは判らないままやっているのです。そこへ、私たちが返事をしたら、「これは実際の人が使っているアドレスだ」ということで、アドレスの価値が上がって、よりもっと売買されてしまうでしょう。そうすると、もっとスパムメールが増えてしまうのです。
 自分のホームページにも自分の名刺にも、実際に使っているアドレスは載せてはいけないと今は言われています。載せるのは、無料の「フリーアドレス」にして、それへのスパンメールが増えてきたら、また別なフリーメールアドレスにすればいいというのですね。そして実際に自分が活用しているアドレスはごく親しい人のみに教えればいいのだそうです。
 私は、「そんなこと、もっとインターネットの草創期に言っておいてくれよな」という思いです。もい今さら、自分のホームページのアドレスをフリーメールになんかできないですよ。
 だから、もう、とにかく上のあげたソフトで、必死に毎日闘っている感じです。萩原周二
(第184号 2004.02.23)



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2011年08月07日

第42回「自分のメールアドレスが使われている」

Thursday, January 29, 2004 9:22 PM
もしわかるようなら、教えて下さい。

こんばんは!体調はいかがですか?煉瓦=破茶=M○○○です。

11080606きのう、私のメールアドレスでイヤラシメールが来ました。どうしてこんなこ
とになるのかなぁ?みんなのところにも私のメールアドレスで行っているのか
なぁと悩んでしまいます。
対処方法があるのかもわからないですし?
放っておけばよいのかも知れませんね。
それでは           破茶の部屋

   Friday, January 30, 2004 12:07 AM
Re: もしわかるようなら、教えて下さい。

こんばんは!体調はいかがですか?煉瓦=破茶=M○○○です。

 まず、メールもいただき、掲示板にも書込みいただいたのに、返事をせず、申し訳ありません。言い訳をいいますと、実はあるクライアントの関係で、かなりな闘いをやっていまして(相手が大きいのです)、マスコミや役所含めて、もう頑張ってはいるのですが、とにかく、それとあと私のほかのクライアントの仕事(これは普段の仕事ですが)でいっぱいです。
 でも破茶さんのホームページも掲示板もメルマガもちゃんと読んでいますよ。

きのう、私のメールアドレスでイヤラシメールが来ました。どうしてこんなことになるのかなぁ?みんなのところにも私のメールアドレスで行っているのかなぁと悩んでしまいます。

 おそらく、破茶さんのところも、今、盛んにウイルスメールもスパムメールも大量に来るでしょう。メールアドレスを必死に集めて、それでDMを出している業者がたくさんいるのです。そしてその行為を、それほどの大変なことだとは、作業上でも感じていないでしょう。
 ちょうど、本日送られてきた「日経パソコン第450号」で「迷惑メール最前線」という特集があり、その中に以下のようにあります。

 迷惑メールの定義は広い。単なるいたずらや、ウイルスを添付ファ
イルとして送るメールなどもあるが、大半は何らかの広告・宣伝メー
ルだ。「バイアグラ」などの医療品の販売やポルノ、出会い系サイ
トへの勧誘メールなどが特に目立つ。
 送信者の立場からすれば、メール広告は紙のダイレクトメールに
比べて、コストが大幅に少なく手間もかからない。プロバイダーと
契約していれば、例え1万通送っても追加コストはほぼゼロ。その
うちわずかでも返信があれば、商売が成り立つ。だから、無差別の
広告・宣伝メールは増える一方なのだ。(95ページ)

 さらに、このあと、「アドレスが漏れるカラクリ」ということで、以下に業者がたくさんのアドレスを安易に簡単に収集しているかが書いてあります。
 破茶さんのメールアドレスは、まずこうして収集されたものでしょう。または、ウイルスメールの可能性もあります。私のメルアドでも、いくつもの迷惑メールが送られていると聞いています。私がいくら防いでも、私の関係者が、そのアドレスブックを読み取られていては、私は防ぎようがないのです。

対処方法があるのかもわからないですし?

 それで、まずウイルス対策メールは導入されているでしょうか。ただ、これで防いでも、私のように、私の関係者がウイルスに犯されると、私のアドレスで迷惑メールが出回ることになります。でもとにかく、まず私はそれを防いでいるというのが大事だと思います。
 そして大量のスパムメールですが、これもまた徹底して防がないとなりません。
 私は以下のソフトを使っています。

   Spam Mail Killer…… A
   MailDel………………  B
   Norton AntiSpam…… C

 AとBはフリーソフトです。それで、私の妻も次女も(長女はまだ、私が導入説明に行っていません。離れているから、大変なんです。でももうすぐ行きます)、こうした迷惑メールの多さで、もうメールを使うのも嫌になる感じでした。それで私がAを入れたら、もうたちどころに退治した感じです。もうこれで受け取らないアドレスは、登録してしまうと、もう入ってきません。
 だが問題は、私です。このAで退治しても退治しても、まったく新たに、迷惑メールがやってきます。それで、Cも入れました。これで、ほぼ95%が退治できます。

 私は以上のことをやったとしても、まだ迷惑メールは防げないかと思っています。でもこうして、できるだけ多くの人がみなこうして考え闘っていくことが大事だと思っています。そして、早くこの日本も、法整備もしてほしいのです。法ができれば、私なんか、この問題でいくらでも訴えたいヤツがたくさんいます。ひどい脅しのメールをくれるのがたくさんいるのですよ。日共もひどいけれど、右翼も日共そっくりなヤツが増えましたね、という思いです。いや、市民主義者もひどいし、そういえば、当然左翼もひどいものです。いいかげんに面倒だから、もう名指しで、訴えたい気になります。

放っておけばよいのかも知れませんね。

 相手にするということではなく、まず自分を護ることだと思います。自分のホームページ、掲示板、メールアドレス、自分のパソコンを防衛していくことだと思いますよ。

 あ、それから、私の体調はですね、要するに、飲みすぎなんですよ。私は仕事でも読書でも、ホームページ更新でも必死にやるのですが、また「でも俺は酒も腹いっぱい飲むんだ」と言いたいところがあり、それを文字通り実行してしまうので、いけないのでしょうね。
 つい先日も、あるバーで、「ドライマティニをくれ!」といいまして、やはり私は、2杯目のときに「もっとドライに」といいましてね。そして3杯目、

 周「もっとドライにしてくれよ」
 ボーイ「もうこれはジンが5でベルモット1の割合なんです。
  ものすごく、ドライなはずですが」
 周「だから、もう6対1にしてよ」

 4杯目を頼むとき、

 周「もっとドライにサ」
 ボーイ「けっこうドライだとバーテンが言っているんですが」
 周「だからよ、もうジンストでいいんだよ」
 ボーイ「………………………………」
 周「まあ、ジンストといいわけにはいかないだろうな、ここは、
  黄金町や日ノ出町じゃないしなあ。だからサ、ジンだけにし
  て、ベルモットのボトルをここに持ってきれくれれば、それ
  を睨んで飲むよ」

 かくして、私はたぶん、6杯飲んで、当然記憶がありませんでした。……ただし、この日は自宅に帰っていましたけれど。

 またメルマガを愉しみに読んでいきます。萩原周二

   January 30, 2004 12:48 AM
Re: もしわかるようなら、教えて下さい。

早速のお返事有り難うございました!
やはり、そういうイヤな輩がいるのですね。

早速スパムメール対策をしたいと思います。
有り難うございました、またわからないことが生じましたら、教えて下さいま
し。飲み過ぎ、だめですよ!それでは! 破茶の部屋
(第183号 2004.02.16)



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2011年08月06日

第41回橋爪大三郎『永遠の吉本隆明』

11080412   Saturday, November 08, 2003 3:40 AM
萩原様
 橋爪大三郎の「永遠の吉本隆明」を読みました。
 粗末な内容で驚きました。
 まず、3点あります。

1、P50−52 団塊の世代の鈍感さについて「吉本さんの影響力はこうした事態にも、帰結している」

 って、してないよ。愚劣な市民主義者も共産党も新左翼各派も、みんな鈍感だし、オヤジになって鈍感でどこが悪いと思います。
 全能感と無能も、吉本さんとは無関係な話で、読者にそういう人がいても、それまで吉本さんの責任なわけはありません。
 純粋云々も関係ない話です。

2、 P135 「テロリストによる無差別殺人。これは戦争のルール(軍人が軍人と戦う)をはみ出して、丸腰の不特定の民間人を標的にしているから許せないのです。(略)テロははじめから、民間人を標的にして殺そうと思っているから、格段に悪いわけです。
 こうしたテロに反撃するために、戦争に訴えることは正義である。それでこそ、テロを抑止でき、結局、多くの民間人が守られる。いまの国際社会の枠組みは、こんなふうにできているわけです。そのことは吉本さんも知っているし、認めていると思う。」

 太平洋戦争時、米軍は下町空襲において、また、広島、長崎への原爆の投下において、「はじめから民間人を標的にして殺そうと思って」攻撃をしました。「不特定の民間人」です。
 何が戦争のルールですか。寝ぼけた馬鹿話をまき散らすなと思います。吉本さんが、そんな事を認めているわけがないです。

3、 P136 「現実は権力によってでき上がっているからです。」

 って、おい、そりゃどういう「現実」でどういう「権力」なんだ?
 ここまで言うならば、現実とは何で、権力とは何なのかを言ってからじゃなけりゃ、話がはじまらないです。
 私の理解している現実は権力によってだけではなく、色々な物事によってでき上がっています。
 この本で読めるのは、言語美についての所だけです。もっとも、言語美には歯が立たない人ばかりで、みんなが通り過ぎているだけという噂もあります。
 私は、吉本さんは言語美を踏まえて「古事記」「遠野物語」を素材に、そこに言語として表れる幻想を読み解いて行ったのが共同幻想論だと考えています。幻想はそのものとしては扱えないため、表出に痕跡をとどめたものからたどるしか方法がなかったと思います。
 国家が共同の幻想だというのは、国家の根の深さを見据えた議論です。私は背筋が冷える思いを受けます。
 逆立については引っかかるのが当然で、逆立しないなら、吉本さんは愛国少年のままで大人となり、優秀な化学者として生きれば良かったはずです。

 何か、橋爪大三郎って、薄ら馬鹿でしたね。中身がないです。 目森一喜

   Saturday, November 08, 2003 5:50 AM

 粗末な内容で驚きました。

 私はまず、ただただ電車の中で夢中になって読んでいました。なんだか、一気に最後まで読んだ思いです。帰宅したら、偶然長女も帰ってきており、二人で遅い夕食になったのですが、本を読みながらビールを傾けている私を見て、「食事のときくらい、本を読むのはやめたら」と言われたものです。私はただただ最後まで読みたかったのです。
 全般的に、私は、いわば吉本さんに関する総整理みたいな感じで読んでいました。「うんうん、これはその通りだな」なんて頷いていました。とくに、あなたが言われるように、「言語にとって美とはなにか」の整理解説は良かったです。もっとも、これは誰でも書ける内容のように思いますが。
 それと私が読んでいて、頷いたのは「『心的現象論』はなぜ未完なのか」のあたりです。「なるほどなあ」なんていう思いでした。
 ただ、それにしても電話でもいいましたように、私も結局

 何か、橋爪大三郎って、薄ら馬鹿でしたね。中身がないです。

というふうに感じました。吉本さんのやってきた仕事を解説していくと、ただただ感心し、それをいわば肯定的に学んできた自分の姿に気がつくわけなのでしょうが、「あ、このままだとまずいな」というところで、「でも、俺は吉本さんとは違う立場に来たのだ、それはといえば…………」と解説しないと、自分がなくなってしまうと思っちゃうのでしょうね。そこで、どうしても無理やり何かを言い出します。そこがもし「あ、これはこの通りかもしれないな」と思わせるだけのものを言ってくれればいいのですが、もう非常にくだらなく馬鹿な内容しか言えないのです。
 でも、そうは言っても、だから今も大学の先生なんでしょうね。もしも、ちゃんと、吉本さんのように、いろんなことを学ぼうという姿勢を貫けていたら、大学なんぞの場には居なかったはずなのです。

 吉本さんを読んできたのは、団塊の世代が多いように言われますけれど、それはどういう根拠だかしらないのですが、その上の世代も、ずっと下の世代も読んでいる人は読んでいるし、読まない人は、私たちの団塊の世代でもそれこそいっぱいいますよ。橋爪が自分を含めた団塊の世代を「鈍感」というのは構わないのですが、もっと世代論でいうのなら、違うことも見ておいてほしいと思うんですね。私のいろいろつき合う企業の私と同じ世代の経営者のなかで、先日こんなことを言った人がいます。

   今の40代は使いものにならないね、30代後半も駄目だ。も
  う会社としては、そのさらに下の世代をもっといろいろと活用し
  ていこうと思っている。

というのです。いえ、これは会社のなかでのIT戦略のなかで、もうその世代は「駄目なのが多い」という思いのようです。むろん、自分たちの世代なんかごく少数を除いて論外なようです。
 思えば、このことはまた別にホームページ内で書いていきたいなあ。

 とにかく、私はこの本は面白くて一気に読みました。だが、あなたが指摘されたところは全くその通りです。
 やっぱり彼は、「俺のことを権力側も使ってくれれば、いいアドバイスができるのになあ」なんて思っているのでしょうね。判っていないですよ。たしかに「権力」ということなんか、まるで判っていないでしょうね。
 彼は、戦争にしろテロにして、その下で血を流し苦しむ民衆の中に自分の姿を入れて考えることができないのでしょう。「テロを根絶するための正義の戦争をしなくちゃいけないのだ」ということなんでしょうが、テロでも戦争でも、その下で苦しむ人間への視線が全然ないのです。ここが吉本さんとおおいに違うところです。
 単純なことですよ。「テロも戦争もよくないのだ」というべきなんです。やはり、シモーヌ・ヴェイユに吉本さんが注目してきたことがよくよく判る気がします。どうもメールをありがとう。萩原周二
(第172号 2003.12.01)



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2011年08月05日

第40回桶谷秀昭『昭和精神史 戦後篇』

2017061901 Thursday, October 16, 2003 11:29 AM
萩原様
桶谷秀昭の『昭和精神史 戦後篇』が文庫になったので読みました。
いいところも沢山あるのですが、吉本さんを避けているのが奇異な印象でした。
村上一郎にも谷川雁にもそれなりに触れています。江藤淳にも触れています。
吉本さんは60年安保に付随して、ちらりと出てくるだけなんて……
桶谷が吉本さんを読んでいないのは考えられない事です。
どういう了見かなと不思議です。
そう言えば、保守派の枠でくくられる人たちは、吉本さんを読んでないはずはないのに、言及しませんね。恐いんでしょうね。けっこうみんな小さいですからね。
『昭和精神史』は敗戦までが良かったですね。目森一喜

Thursday, October 16, 2003 12:46 PM
ちょうど昨日から読み始めました。最初に「第十三章六〇年安保闘争」を読みまして、それから最初からちょうど半分くらいまで読んできました。

いいところも沢山あるのですが、吉本さんを避けているのが奇異な印象でした。

間違いなく避けていると私は思います。

桶谷が吉本さんを読んでいないのは考えられない事です。
どういう了見かなと不思議です。

ある時期、私たちの世代に桶谷さんは、吉本さんと同じように読まれたものなんです。「桶谷って、吉本さんと似てるな」なんていう言い方を聞いたことがありますよ(ただし、私はそう思いませんでしたが)。
ただ、1972年8月に「源実朝」が出たときに、桶谷さんは、たいへんに驚いた発言をしているんですよ。おそらくあのときに、「到底吉本さんには敵わないな」と感じたんじゃないかな。たしかに、あの「源実朝」には、誰も驚いたんじゃないかな。ただ桶谷さんの驚きはもう半端じゃなかったでしょうね。
そして、その頃からもう吉本さんに関しては語れなくなったんじゃないかな。

そう言えば、保守派の枠でくくられる人たちは、吉本さんを読んでないはずはないのに、言及しませんね。恐いんでしょうね。けっこうみんな小さいですからね。

そうですね。私が知る限り、いわゆる「保守派」で吉本さんを活字上で貶したのは、谷沢栄一と渡部昇一かな。ただ二人とも「一体何を言っているのかよく判らない」というような言い方だけです。それに比べて左翼エセ評論家は、ひどいですね。「ただただ吉本さんを貶したい」ということが前提で、それで言及している感じです。思い出せば、三島由紀夫さんは、吉本さんを絶賛していましたね。あれは気持よかったな。

『昭和精神史』は敗戦までが良かったですね。

これは、私も少し読んだときに感じました。でも、もっと考えれば、やっぱり、もっとちゃんと書けば一番良かったんだと思いますよ。吉本さんを普通に評価して展開すればよかったんです。桶谷さんならできるはずだったと私は思いますよ。萩原周二

Saturday, October 18, 2003 6:56 PM
実話時代の書評です。

『昭和精神史 戦後篇』。桶谷秀昭著。文春文庫刊。八百六十七円(税別)。
桶谷秀昭の『昭和精神史 戦後篇』が文庫になった。名著『昭和精神史』の続編である。
前作は戦争に向かってひたひたと収斂してゆく昭和が、悲劇の音調を帯びるところまでを描いた。著者の筆は類を見ない緊張を持って伸び、暗く美しい調べを奏でていた。
そして、その続編たる『戦後篇』にあって、著者は反時代的な精神を追い求めて筆を進める。著者は反時代的な精神から戦後を見ようとしており、その反時代的精神を輪郭づけるために時代精神を持ち出して来るという複雑で手際のいる方法をとっている。
そして、時代精神を読む読み方も反時代的に読んでいる。
これは、著者が戦後を嫌悪しており、そもそも二冊の『昭和精神史』そのものがその嫌悪から発しているためである。
著者にしてみれば戦後を書く時に、他に方法はなかっただろう。そして、この方法は失敗も成功もしていない。
本書は散漫で調和のとれていない印象に終始する。部分部分は共感も出来るし、いい所は沢山あるのだが、なぜか全体の張りがない。筆の伸びもない。
散漫さは戦後の散漫さから来ているのかとも思ったが、どうもそうではない。反時代的な精神とは緊張を持続した精神と見ていいからだ。
もちろん、著者の力が衰えたなどという話ではない。手際を必要とする方法を失敗していないというところで、著者の力量は屈指のものであり続けている事は証明される。
本来なら、このような方法で書ききったら、それは大成功作になるはずなのだ。それが、失敗ではないが、成功とも言えないという結果にとどまっている。あまりにも奇異だ。
この奇異さを抱えながら最後まで本書をたどった所で、著者が語らなかった事を考えた。
本来ならここに書かれるべきであり、書かれねばならない事があるように思える。だが、著者は書いていない。書かれてあるべき事がない事がもどかしさとなり、調和が成り立つのを邪魔している。
表面的には、触れるべき精神には触れている。巻末にある人名表だけを見ればそこに漏れはないように思える。だが、違うのだ。人名表に漏れがあろうとなかろうと、そのような事は些末であり、問題は著者が書くべきことがらを書ききっているかどうかという事だけなのだ。
例えば、桶谷秀昭であればもっと言及があってしかるべき吉本隆明について六十年安保の段であっさりと触れられているにすぎない。しかも、著者が間違えるはずのない間違いを書いて過ごしている。
著者のような周到な読み手が、吉本についてはあまりにも表面的な読みで通り過ぎている。批判するなら批判するでいいし、嫌悪があるならあるでいい。
しかし、ここでの著者の振るまいは批判にもなっていない。何か、気にくわないとつぶやいてみたという程度の事で過ぎているのである。
こうした形で、著者が通り過ぎてしまったものに、時代も反時代も含めて、昭和戦後の重要な出来事と精神があったのではないか。著者はどうしてか、その部分への言及を躊躇し、避けたように感じられてならない。
本書が成功でも失敗でもないのは、その前で立ち止まってしまったからだ。著者は何を封じたのだろう。それでも本書は水準を超えた作品となっている。目森一喜
(第171号 2003.11.24)

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2011年08月04日

第39回「百人隊長」

20170807003 Monday, October 13, 2003 1:03 PM
周様
初めまして。
突然のメールの失礼をお許し下さい。ホームページを拝見致しました。
唐突で申し訳ありません。
是非教えて頂きたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?

塩野さんの『ローマ人の物語3ハンニバル戦記〔上〕』新潮文庫
を読んでの疑問で、因みにページ数はp134〜135です。
第一次ポエニ戦役後という箇所なのですが…。

『重装歩兵も3列横隊で闘うのが定法であったローマ軍では次の3種に分かれる。最前列に配置される、「ハスターリ」。年齢は17歳からはじまる、戦場経験の少ない若い市民で構成される。兵数は2400。第2列にくるのは、ローマ軍団の中核のまた中核的存在として知られた、「プリンチペス」。前線が突破された場合に彼らがもちこたえることで、総崩れを防ぐのが役割だ。年齢は30代。兵数はここでも2400。第3列には、40歳前後からはじまって現役最高年齢の45歳までの市民で構成される、「トリアーリ」がくる。体力では少し劣っても戦場経験ではベテランの彼らに、後衛を託すのがローマのやり方であった。兵数はここでは1200。3列横隊を組むローマの重装歩兵の「ハスターリ」と「プリンチペス」と「トリアーリ」が中隊とすれば、それぞれの中隊はまた、20の「小隊」に分かれる。これがローマ軍に柔軟な闘い方を許した要因だが、「ハスターリ」と「プリンチペス」の小隊は、それぞれが120人の兵士で構成され、「トリアーリ」だけが60人で構成された。これこそローマ軍団の最小戦闘単位である「百人隊(ケントウリア)」で、これを率いるのが、古代ローマを題材にした映画ならば必ず登場する、「百人隊長(ケントウリオ)」である。

<質問>
「百人隊」は、100人の兵士から構成されるのですよね? 上記を読むと、120人+120人+60人=300人になるように思うのですが、これはどのように考えたらよいのでしょうか?
突然のメールで不躾に質問などして、申し訳ありません。ご迷惑でなかったら、教えて下さい。どうぞ宜しくお願い致します。○○○○

Saturday, October 18, 2003 10:41 AM
ええと、

唐突で申し訳ありません。
突然のメールで不躾に質問などして、申し訳ありません。
ご迷惑でなかったら、教えて下さい。

と言われましても、とても迷惑ですよ。私のところには、たくさんの方が質問のメールをくれますが、まったく私の見ず知らずの方の場合は、もう少しちゃんと自己紹介されますよ。それとなぜ、この質問の答えが必要なのかも説明されるのが普通です。とにかく私はあなたをまったく知らないのですから。私のほうは、「周のプロフィール」で公開しております。

とはいえ、とにかくメールをありがとう。
ただ、私はローマ史や軍事史のプロというわけではありません。だから、

そんなこと判らないよ

というのが、私の正直な答えです。
でも、少し考えます。

「百人隊」は、100人の兵士から構成されるのですよね?

「百人隊長」とは、50〜100人単位の軍隊の長で、ローマ軍では、中級の役職です。特別100人と決っていたわけではありません。
そもそも軍隊をこうして決まった人数で軍団を作っていくというのは、非常に難しいことです。人は背の高さも体重も違うように、戦う能力も勇気も違うものです。まして、出身地も違えば、言葉も簡単に交わせないこともあったでしょう。
私が知る限り、人数を限って軍団を形成していくのは、アレクサンドロス大王の父親のフイリッポス2世が、16×16人の密集重装兵を作ったときからでしょうか。これを使って、当時ギリシア最強の軍隊だったテーバイを滅ぼします。ただ、この軍団も非常に編成するのは大変だったようです。前にも書きましたように、みな背も何も違うのです。それを個々の技量も考えて、さらには槍の構え方も列によってすべて違えて、最強の軍団にしたのです。
おそらく、ハンニバルの軍事の先生はアレクサンドロスでしたし、スキピオはハンニバルこそが先生だったことでしょう。彼らには、このマケドニアの軍団の作り方がかなり参考になっていたはずです。
また100人単位で、軍隊を作り動かしたのは、のちのジンギスカンです。これは実に合理的でした。そしてこの100単位の下の単位は10人でしたが、このやり方は、軍隊に限らなかったのですが、私はこのことはジンギスカンはローマに倣ったのではないかな、なんて想像しています。
それから、このローマが100という単位で、何かを考えるというのは、エトルリアの影響のようです。
とにかく、百人隊長というのは、軍隊での中級の役職であり、必ずしも百人の兵隊の長というわけではありません。ローマ軍では、戦闘でこの百人隊長が何人も多く討死しています(例えばカエサルの「ガリア戦記」などをよむと、百人隊長があまりに多く討死してしまうことに出会います)。死んでしまったら、そのあとは百人という単位ではなく、80人のときも123人のときも、残った百人隊長がまた率いなければならないのです。

それから、こうしてメールの返事が遅くなり申し訳ありません。萩原周二
(第170号 2003.11.17)

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2011年08月03日

第38回「革命的左翼という擬制」

11080207   Tuesday, October 14, 2003 10:00 AM
萩原様
 小野田襄二さんの『革命的左翼という擬制』を読みました。
 ブンドについても革共同についても、それぞれの時点での評価の所は判断がつかないのですが、位置していた場所によって見えたものが違うのだろうなと感じました。
 威勢のいいかけ声で常識的な判断が通用しなくなって行く過程への反省が深刻ですね。この部分は指南力を持っていると感じました。
 学生運動を卑下しすぎているように感じはしましたが。
 場所によって見え方が違うという事と、常識が押しのけられる事の恐ろしさは払拭されていませんね。今はソフトになっているから、「玉砕」とは反対向きの言葉が出てくるだけです。ソフトになっているから常識的に見えるのですが、排除力は強くなっているように思います。
 松崎については、これ以上の思いを持てる人はいないのではないでしょうか。小野田さんぐらいしか、こういう目で松崎を見てやれる人はいないでしょうね。
 あとがきはまったく賛同も共感もできませんでしたが、読んで良かったです。
 小野田さんがこうした事を沈黙したままでいるよりは、言葉にしてくれた方がどれほどいいか計り知れません。多くの人の沈黙が、鉄面皮の跳梁を許しています。

「2003/無言館」見ました。
 まったく根拠のない印象なんですが、全共闘運動って、親の世代の戦争体験の追体験かもしれないと感じた事があるのを思い出しました。
 何か共感のつながりがあるような感じです。
 そこを取り違えると赤軍になるのかもしれません。目森一喜

   Thursday, October 16, 2003 5:33 PM

 小野田襄二さんの『革命的左翼という擬制』を読みました。

 あの本を私は堀雅裕さんの1周忌のときに、小野田さんから手紙の形で受け取っていたのです。もう部厚い手紙でしてね、読み終わるのが大変でした。
 この手紙を読んだときにも、「これをもし本に出してしまったら、衝撃を受ける人が大勢いるだろうな」なんて思ったものです。でもそれでも、みなに披露してほしいと思いましたね。

 松崎については、これ以上の思いを持てる人はいないのではないでしょうか。小野田さんぐらいしか、こういう目で松崎を見てやれる人はいないでしょうね。

 まったく同感です。そういう意味では根仁だって、それなりの人物なのかな、なんて思ったものです。電話でいいましたように、やはり黒寛が徹底してよくないですね。私は最初のマルクス主義哲学の1、2冊は優れている(「社会観の探求」等)が、彼が政治を語ったり、政治をやろうとしたから、日本の左翼の悲劇惨劇が生まれたように思います。もちろん、革共同だけではなく、ブンドだって、この悲劇惨劇には責任があるのですが、黒寛がいなかったら、あるいはもう少しまともだったら、違っていたんじゃないかな。
 本当は松崎は優れた活動家なのでしょうが、もうどうしようもないね。「いつ殺されるか」というところで、彼は国家の側へ行ったのでしょうね。それも別にいけないとは、今の私はいえません。ただやっぱり革マルって嫌だね。

 小野田さんがこうした事を沈黙したままでいるよりは、言葉にしてくれた方がどれほどいいか計り知れません。多くの人の沈黙が、鉄面皮の跳梁を許しています。

 そうです。私は小野田さんが、難しい数学の本を出して、読むのに辟易しようと、またアル中で、もうほとんど困った酔いどれで、「もういいかげんにしてよ」(これは私の酔い方でも誰にも言われているでしょうが)という思いになっても、どうしても小野田さんのことを先輩として敬愛せざるをえません。彼が中核派を離れて、それでも運動をやり続けようとしたときに、まったく彼には関係なく起きてしまった事故が芝浦工大事件でした。彼には責任はないのです。それなのに、彼は自分の運動も、自分の仕事も、自分の御自宅の仕事も投げ捨てて、私たちを救援してくれました。私は中核派にしろ小野田派(反戦連合という運動だったようだ)も大嫌いでしたから、まったく小野田さんには、私のことなんか関係ないはずなんです。でも、よくやってくれました。私の父も母も小野田さんのことを信頼していました。先日の小野田さんの出版記念会でも、私の弟(私の詩吟の伴奏で参加していました)も、「あのときはどうもお世話になりました」と30数年来の挨拶を小野田さんに対してしていました。
 だからね、やっぱり私には大事な先輩なのです。

「2003/無言館」見ました。
 まったく根拠のない印象なんですが、全共闘運動って、親の世代の戦争体験の追体験かもしれないと感じた事があるのを思い出しました。
 何か共感のつながりがあるような感じです。

 私もいつもこのことを思いますよ。私の親父が東大闘争で、家族会をやったときには、みな家族会はそんな感じだったようですよ。戦争体験者で、実際出征した親たちが多かったようです。親父は、そのずっと前から靖国神社で戦友たちと会を作ってやっていましたが、同時に当時の国家のやり方に反抗する私たちにもシンパシーを覚えたようです。私も「なんだ、ようするに俺と同じじゃないか」なんていうところですね。

 そこを取り違えると赤軍になるのかもしれません。

 正確には、赤軍ではなく「連合赤軍」だと思うんですよ。いや、赤軍にしろ、その前の三派全学連にしろ間違っていたことは、それこそ間違いないが、やはり毛派とブンドである赤軍派が一緒になったときに、さらに違うものになったと思うんですね。思えば、毛沢東というのは、スターリンよりもヒトラーよりも悪い奴じゃないかな。まあ、結局一番悪いのはマルクスなんだと思いますがね。萩原周二
(第169号 2003.11.10)



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2011年08月02日

第37回「吉本隆明がいっぱいの」

11080106   Saturday, October 18, 2003 10:41 AM
初めまして。苫米地 聰(とまべち さとし)という者です。たまたま貴兄の吉本隆明がいっぱいのホームページを拝見しました。

 高校1年のときに、出版された「情況」(河出書房新社)を読んで以来、吉本隆明氏の著作を読み続けて来ました。また、「試行」も終刊になるまで20年くらい購読していました。もっとも隅から隅まで読んでいた訳ではなく、「情況への発言」滝村氏の国家論、宮城賢さんのエッセイなどを読んでいただけですが。しかし、ここ10年くらいは数学の専門書ばかり読んでいたので、吉本氏の本を買ってはいても未読のものが多いです。

 貴兄のホームページを見て、またぼちぼち未読のものや、引越のとき以来開いていない段ボールから引っ張りだして、以前の著作も読み返してみようかなという気になりました。
 また、数学の勉強に疲れたら盛りだくさんボリュームのある貴兄のページをウィスキーを呑みながら読ませていただきます。

ちょっと刺激されたことに感謝しつつ 苫米地 聰

   Saturday, October 18, 2003 2:07 PM
 はじめまして。メールをありがとうございます。

高校1年のときに、出版された「情況」(河出書房新社)を読んで以来、

 あの本は1970年11月出版で、私は大学4年生でした。そうすると私とは6年の差になるのかな。私は埼玉大学に6年在学しましたが、その後も関わり続け(もう学生運動では関われませんでした)、埼玉大学の学園祭をやる後輩たちとつき合い続けました。とくに私の6、7、8年下の世代とは深くつき合ったものでした。
 思えば、埼大の学園祭の後輩たちとは今でもつき合っています。今年の大学1年生なんか私より37歳も年下なんですね。

 吉本さんの本は、もう一貫して読み続けてきました。ただ、私が理解できているのかは、はなはだ自信がありません。もっと吉本さんについて詳しい方が大勢いるはずなんですが、このインターネットの世界では露出されていませんね。なんだか、この世界では、いつのまにか、私が先頭を走っている感じになってしまいました。これはどういうことなんでしょうか。
 数学をおやりなのですね。数学関係のフリーソフトでお名前を拝見しました。私の友人にも、数学に実に執拗にこだわっている人がいます。彼はもう圧倒的昔からパソコンにもこだわっていました。ただし彼はパソコンとはいわず、「計算機」といいますが。この彼と会うと、さまざまな話をして、とくにパソコンについては幾らでも話せるのですが、数学の話は、私はまったく判らないのです。
 私の学生運動の大先輩である小野田襄二さんも、つい近ごろ

  「あなたも解けるフェルマーの定理完全証明」

という数学の本を出しまして、それがまた私にはちっとも判らないのです。ただなんとなく不安でしてね、不安というのは、その内容が、はたして、あちこちの数学者を少しは納得させられるのか否かがはなはだ不安でししてね、いや私にはちっとも責任はないのですが、いちおう敬愛する先輩なもので、そして私と同じアル中なもので、なんだか不安です。

また、数学の勉強に疲れたら盛りだくさんボリュームのある貴兄のページをウィスキーを呑みながら読ませていただきます。

 少しは私も何かを人にも与えられているかな、と嬉しくなります。
 メールありがとうございました。萩原周二
(第168号 2003.11.03)



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