将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Category: 周の故郷の話

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  私が一つ前にUPした「私のいくつもの故郷」ですが、まだ文章は書いていません。書く内容はいっぱい考えているのですが、まだ全体を書けないのですね。思い出すことがいっぱいありすぎるのです。2017021002
 私は生まれた茨城県佐貫村と次に住みました東京巣鴨の記憶はありません。私はこのとき巣鴨から秋田へ行く汽車列車の音を覚えているのが、最初の記憶です。
ここのサイドバーへは書いて画像を載せるつもりで書いたものです。
 この記憶、いくつもの故郷の思い出を今後書いてまいります。2017021001

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毎日見ていまして、書いていますNHKテレビの「べっぴんさん」への私の思いですが、私にはここ神戸の街も自分の故郷だと言っていいと思っています。
 私は茨城県東葛飾郡佐貫(今は取手市になっていますが)の生まれ(正確には生まれたのはここ佐貫で、本籍は茨城県笠間なのです)ですが、松本の義父と義母はここ神戸に墓があるのです。今までも何度(3回かなあ)も行っています。
 神戸の街も歩いています。私は娘二人もその彼二人も孫五人にも一緒に神戸の街を歩きたい思いです。
 私は茨城だけではなく、この神戸も私の故郷だと思っているのです。そして義弟やその奥さん、そしてその息子・娘、その子ども(孫になります)も非常に近しい思いなのです。その息子が結婚するとき、徳島へ行きまして、娘のさらに子ども(義弟やその奥さんには孫)とポニョとポポが手をつないで歩いて(ポニョはミカちゃんの長女と、ポポはミカちゃんの長男と)いたことはものすごく嬉しかったです。
 でもその前(義父のお骨をお墓に入れる時)に義弟夫婦とその息子・娘と神戸の街を歩いたことは忘れられません。
 私にも神戸は私の故郷と言えるのです。
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 私はここのサイドバーの「私の住んだ街」に書きましたように、茨城県佐貫(今は取手市)に1948年に生まれて、そのあと東京豊島区巣鴨・秋田市・札幌市・名古屋市・鹿児島市・横浜市・さいたま市(当時は浦和市でした)・沖縄県名護市久志・千葉県我孫子市・東京北区豊島と住んできました(そのほかもいっぱい住んでいます)。
 その中で「ここが自分の故郷だ」と思うのが、茨城県佐貫と沖縄県名護市久志です。今いる東京北区王子も自分の故郷のように思っています。2016092208
その中で、沖縄は実に自分の故郷のように感じてしまうところです。そしてそれが柳田国男さんと吉本(吉本隆明)さんが言われたように、自分の祖先がはるかな大昔ポリネシア・南島から小舟に乗ってこの日本という島に着き、それが北の大陸から来た人たちと一緒になったものだと思うのです。
 だから私はここのサイドバーに置いている島尾敏夫さんが好きなのです(私は彼の著作はすべて読みました)。そして私は南島・沖縄が好きなのです。
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 私は沖縄本島だけでなく、さらに南の石垣島・竹富島も行きました。そしてますますここが好きであり、自分の故郷だと確信したものです。2016092207
 ここには、いくつもの南島の「シーサー」を置きます。その一つをここのサイドバーにも置きます。私の故郷は生まれた茨城と沖縄なのです。

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 テレビで三越伊勢丹のことをやっていまして、私も思い出しました。新宿の伊勢丹も三越も思い出すのですが、鹿児島市の三越デパートを思い出したのです。私が名古屋市北区から引っ越しして鹿児島市東千石町に住んだときです。
 思い出せば、私には故郷がいくつもあるのですね。こうして思い出すと、また行きたくなるものなのです。
 画像でダーエイの看板が見えていますが、私には、これはなんだか分かりません。
 三越デパートは、秋田市でも札幌市でも名古屋市でもあったので、鹿児島市でもあったのは、ものすごく嬉しかったです。2016080706

10123105 2010年12月29日のポメラ藤田典さんより、以下のコメントがありました。

1. Posted by 藤田 典   2010年12月30日 19:35
周さん御一家の賑やかなお正月風景が目に浮かぶようです。
一年経つのは早いものです。小学校の卒業式で総代の生徒が答辞の中で「光陰矢の如し」と言っていたのを思い出します。
来年も、どうぞ宜しくお願いします。

 たしかに速いですね。でも小学校のときの答辞なんて覚えていないですね。私はそのときは鹿児島の小学校でした。鹿児島は比較的長く住んでいたところなのです。3年半いたのかなあ。ただし、鹿児島も私は少しも好きではなかったです。
 私は主に住んだ、札幌も名古屋も鹿児島も横浜もみんな嫌いです。秋田と沖縄が好きかな。あ、浦和も嫌いだなあ。あ、船橋にも住んだけれど、嫌いです。
 なんとなく、私の住んだ街はみな好きになれないな。あと、早稲田と我孫子とに住みました。今は東京の王子です。

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 目森さんのブログに、このUPがありました。

 U字工事が面白いのは、足立区だったからだろか。北関東や東北の人間が大量に流入し、住み着くのが足立区だった。
 そのため言葉が混ざり合い、独特の汚い言葉が生まれていた。

 U字工事は栃木だが、北関東は、とにかく言葉が汚い。それがあんなに剥き出しになるなんて、いい時代になったと思う。昔なら、放送されなかっただろうと思う。

 目森さんは、足立区新田(しんでん)の生まれですね。もう私は目森さんから、新田の驚くような思い出の話を聞いています。
 今荒川が氾濫したら、東京の地下鉄が水浸しになる、なんて話が真剣にテレビで語られていましたが、目森さんの話ですと、新田は30年代にも、水浸しのことが何度もあったようですね。
 でも、このU字工事にしても、赤いプルトニウムにしても、私の妻なんか見ても、笑えないのじゃないかな。笑う箇所が判らないかもしれません。

 U字工事は男の子だから頑張って、茨城に対抗しようとしている。かんぴょうの生産で第一位の栃木にとって、第二位の茨城は油断のならない存在なのだそうだ。
 そして、栃木が茨城に敗北、吸収されたら、ケーキにイチゴではなく、納豆が乗る事になるという危機感もある。

 この「ケーキにイチゴではなく、納豆が乗る事になるという危機感」というのは、私の妻では判らないかもしれません。妻はたしか、一族が神戸なのでした(だと思うよ)。
 もう私は赤いプルトニウムにも、もうものすごく笑いました。牛久沼にはかっぱがいるって、私もそう思ってしまいます。
 牛久沼というのは、「牛を喰う沼」という民話があるのですね。そして、私はあのすぐそばで生まれたのですが、どうしても牛久沼というのは、奇妙に怖い思いがあります。
 私は昔、ウィンドサーフィンの世界をよく知っていて、私ももちろんやっていましたが、あのスポーツを鎌倉や逗子でやるのはよく判るのですが、でも牛久沼でよくやるよなあ。かっぱが出てきたらどうするのだ、という思いがありましたが、そんなことを真顔で言えないよね。

 ひたすら鋭角になっているお笑いの中で、茨城や栃木といった情けない場所が妙なパワーを出しているのは、平坦化に向かって働く力をかわす手がかりになっているからだろうか。

 私がかなりひたすらにファンだった、爆笑問題が、パワーが無くなった感じで残念なのですが、でも仕方ないよね。今の若いお笑いは実に面白いです。パワーを感じます。

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 先日29日に私は、目森さんと浅草で会いました。そのときに、私は自分の生まれ故郷である茨城にコンプレックスを持っている話をしました。もう他のひとが聞いたら面白い話なのですが、当人である私には、大変な思いです。
 でも昨晩23:50分に目森さんが、次のメールをくれました。

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U字工事が栃木
赤いプルトニウムが茨城のお笑いです。是非、一度ご覧ください。

U字工事
http://jp.youtube.com/watch?v=O0tEQhmEebM

赤いプルトニウム
http://jp.youtube.com/watch?v=PvhpT2ZM_Rs
  *****************************

 私は今朝すぐに見まして、もう笑ったのなんのって、ただただ驚き感動です。
 できたら、群馬のお笑いも出てほしいな。横浜川崎の「いうじゃん」とかいう「じゃんじゃん」言葉の芸人も出てほしいな。
 でもこんなことなら、漫才が大坂のものだ、なんていえなくなるよ。

 牛久沼には、かっぱがいるんだって。そしてそれを見たという茨城人がいっぱいるそうです。

 こうなれば、私が茨城出身だということを隠さなくてよくなるのかなあ。

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 長春有情さんから、新年あけましておめでとう へ次のコメントがありました。

1. Posted by 長春有情です    2009年01月02日 15:52
謹賀新年
萩原君ありがとうございます。
今年は会う機会を必ず作ります。
仕事が自由になります

 それで、さらに彼の掲示板に、次のUPがありました。

周二君、新年おめでとうございます。
君のブログに書き込みました。
君の家族の写真を見て、やっぱり君に間違いがなかったこともわかりました。
あの頃、たぶん中学校の頃、君は鹿児島人とはちがい、
垢抜けしていました。
君のブログを見ても、君は田舎の人間ではなかったことがよくわかります。
私も今年はフリーになります。
娘達が東京に行こうとしていますので、東京に行く機会もあるでしょう。
東京に行っても、浅草演芸ホールか新宿末広亭に行くだけのこと。
今年こそ君に逢おうと思っています。
たぶん5月連休のころでしょう。
今年もお元気で活躍して下さい。

 ありがとうございます。鹿児島は、私のいくつも引越た先の一つですが、でも私が小学校6年から高校1年のときまで、丸4年も住んだところですから、懐かしいです。
 私は札幌には2年半、名古屋には3年半(ただし、3ヶ所住みました。小学校も3つです)、横浜には3年半住んだので、比較的長いほうです。ただし、鹿児島は東千石町ばかりでなく、原良町にも住みました。

 懐かしい思いばかりが甦えるものです。

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47881bd5.jpg もうすぐ六義園へ行くのですが、そこで紅葉の写真をたくさん撮るつもりですが、ここに王子で20日に撮りました紅葉の写真をUPします。
「急な外出♪」 の写真の直前に撮りました3枚の写真が、ここの写真です。

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「巻揚げの巻」オノ君(exヤギシタ)から次のコメントがありました。

1. Posted by オノクン(exヤギシタ)    2008年08月19日 10:45
すみません東横線です。
ここ数年横浜中華街の集客力はすごいことになってますよ。
エリアも広がったし、アミューズメント施設もぞくぞく出来ました。
なんといっても東横線の延長が決定打のようです。
行列の出来ているお店が激増していますが、どこも情報誌やネットを巧みに利用しているところで、もちろん美味しいお店ばかりだと思いますが、基本的に一見のお客さまで成り立っている行列だと思ってます。
行列が出来てない店で抜群のところってたくさんありますよね。
がらがらなのはいただけませんが。
まあなにより中華街に行ってきたと感じられる過ごし方が出来たらいいのではないかと思ってます。

今度ハイシャンハイ行ってみますね。

 東横線ですか。東横線は、私は白楽というところに住んでいたので、懐かしい思いです。それに常磐線・千代田線から直通で、東横線に入って元町・中華街まで行けるのですね。我孫子に居たときに、それで元町・中華街に行ったことがあります。いえ、ごく親しい人たちがいましてね。それが米国人と日本人の混血の3兄弟(いやパパが米国人、ママが我孫子人でした)で、この子たちがモデルをやっていたのです。その子たちが、中華街のどこかのビルの3階あたりで、スクールでピアノで歌っているところに私が行きまして、「あ、くにちゃん、さよちゃんのパパだ」なんて言われたものでしたね。彼らは今はニューヨークに住んでいるのかな。また会いたいな。会っていろんな話がしたいものです。

 中華街は関帝廟があったりして、私なんか関羽に少々いいたいこともあるから、そんなことを考えると、とっても面白いのですね。
 私の高校生の頃から考えると、中華街は大きく広くなった感じがものすごくしています。思えば、山下公園も港の見える丘公園も外人墓地も、ものすごく綺麗になりましたね。いえ、横浜はとっても綺麗になりました。野毛も日ノ出町も今はとっても綺麗です。

 根津の海上海もいいお店ですよ。いや、ここでもいっぱいにいいたいこと話したいことがたくさんありますね。

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07110103 5月30日私は58歳になりました の2 へコメント永田光男さん からさらに以下のコメントをもらいました。

1. Posted by 永田 光男    2007年10月31日 15:35
 貴方からの返事を見たのがこのブログでした。
わざわざ、コメントいただき感謝。これからもどうぞ宜しくお願い致します。ボクの出身は鹿児島県川辺郡知覧です。現在は大阪府箕面市在住です。
また、当方ブログへもお出で下さい。

 私は鹿児島には、小学校6年の7月に行きました。サビエル公園のとなりの山下小学校に入りました。中学は甲東中学だけで、私の3兄弟で一つの中学校だけですごせたのは私だけです(兄は秋田・札幌・名古屋と3つ、弟は鹿児島・横浜と二つ)。家族は中学3年の3学期に横浜に引越して、私はもう3学期なので、高校の入試があるので、下宿して鶴丸高校に入学しました。そして横浜の高校の入学先を両親が見つけてくれて、そこに転校しました。
 思えば、私は鹿児島に丸4年くらい住んでいたのですね。私の生涯の中では長く住んだほうです。
 川辺郡知覧というところは行ったことはないですが、思えば有名なところですね。大阪は旅行と仕事でしか行ったことはありません。
 鶴丸高校の関係は、私も東京鶴丸会に行っていますので(このごろご無沙汰ですが)、まだ関係があります。もう一つの横浜東高校は、クラスの同窓会クラス会を私が仕切っていますので、私が開催する手取りをしないとみんな会えません。
 それから大学は埼玉大学ですが、ここでは激しく学生運動とそのあと学園祭のむつめ祭に関わりまして、ここのその関係は今も続いています。私の上の世代からずっと下まで前後50年くらいの活動家ばかりをずっと飲み仲間としてつき合っています。
 そのほか、中学校・小学校の友人とはつき合いがありません。中学で同じ生徒会をやって、鶴丸高校から御茶ノ水大学へ入った女性とは、ずっとつき合いが続いていて、学生運動の場でも会いましたし、互いに結婚してからも、彼女が東京へ出てくるときには会っていましたが、今は私がケータイメールで連絡とろうよと言っても無理なようですね。もちろん手紙でも私は書くのですが、彼女はそもそもそんなにパソコンを使わないのかなあ。残念です。
 思えば、私はいわゆる全共闘世代、三派全学連世代、その上の60年安保ブンド全学連世代の方ともつき合いが続いていますが、みんなパソコンもケータイも普通に使わない世代ですね。それがとても残念です。
 いや、その上の世代もそうなのですね。私は2・26の関係者ともつき合いがあったのですが、みんなパソコンもケータイメールもうまく使わないので、どうしても縁遠くなってしまいます。
 思えば大変に残念です。
 でもありがとうございます。ときどき貴ブログは拝見しています。画像が綺麗なことにいつも感心しております。ブログ名は、無法松の一生 というのですね。無法松は小説も映画も好きです。映画での相手役の高峰秀子は私の大好きな女優です。彼女の書く本も大好きですね。

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 周の雑読備忘録「アレン・セイ『おじいさんの旅』」ナミちゃん から次のコメントがありました。

1. Posted by なみんと    2007年10月29日 22:58
周さん☆今晩は。早速読んで下さってありがとうございます。嬉しいです。すぐにでもコメントを書きたかったのですが胸が一杯になってしまって・・。
いくつもの故郷を持ったというのはそれだけ豊かなんだと思います。札幌・秋田・横浜・名古屋・鹿児島<間違っていませんか?順不同で失礼!>とよく生活されてきましたね。その時は少しも好きにならないという気持ち!わかる気がします。でも確かに家族で住んでいたんですよね。<お母様・・よくやられました。きっと必死にお子さん達の為に出来たのでしょうね。>今は・・懐かしさを感じられる事は幸せだと思います。心のポケットを沢山もっている周さんは沢山の故郷をもっているのですね。「おじいさんの旅」の絵本をこんなに感慨を持って味わえるのは周さんのお陰です。ありがとうございます。

 私はこの絵本のことをナミちゃんのブログで知ったときに、詩吟の宗家の荒國誠先生のことを思いだし、また実際に手にとって読んでみて、自分のいくつもの故郷を思いだしたものです。私たち3兄弟は、転校ばかりしていました。
 兄は小学校へ入ったのは、茨城県佐貫(今現在は藤代市になっています)、そのあと東京巣鴨、そのあと秋田市で、小学校から中学へ入学し、そのあと札幌、名古屋と中学校が3つでした。名古屋の南区の中学に入ったのが中学3年の2月ですよ。ただし、兄はそののち名古屋の高校を経て東京の大学に入ったので、寮に入り、鹿児島には住んでいません。
 私は小学校を札幌で入学し、そのあと2年生の3学期に名古屋南区へ引越して、そのあと、名古屋千種区、北区の引越して、小学校は3つ在籍しまして、6年生の7月に鹿児島に引越して、中学高校と進みまして、中学3年の2月に家族は横浜に引越になりまして、私は高校は下宿していまして、すぐに横浜の高校に転校しました。
 弟は、小学校が名古屋3つと鹿児島で、中学が鹿児島と横浜で、高校は横浜だけでしたが、最後は我孫子から横浜まで通学していました。

 どの街も、私は思い出すと、私自身が本当に心の底から嫌っていたところばかりです。どの街も、私が嫌いなことがいくらでも思い浮かんできます。でもやっぱりそうなわけなのですが、でもでも今になると、どの街にも何故か懐かしさがこみ上げてくるのです。札幌も名古屋も鹿児島も私には大嫌いな街でした。でも今はみな懐かしい。
 横浜は私にはまったく汚れた街としか思えませんでした。みなが話す横浜弁が、もう私には理解できなく、「えっ、この人たちは日本語が喋られないのか」としか思えずに、そして横浜を流れる川も海も、実に汚く嫌な臭いに満ちていました(これは大昔の話。今は横浜の街の川も海も綺麗ですよ)。
 でも今は横浜に行くと、いつも涙が流れそうな懐かしい思いを抱きます。たしか今から5年くらい前に、中華街の中(元町のすぐ近くでした)のあるアメリカンスクールで、我孫子の隣の家のアメリカ人と我孫子人の混血の3兄弟と会ったのですが、彼らは、「あ、くにちゃんとさよちゃんのパパだ」と言って懐かしがってくれて、そのときに、私の中ではあんなに嫌いだった横浜の中華街や元町が、とても優しい街に変化してしまいました。

 でもそのあとも、私は我孫子から浦和に住み、東大闘争で逮捕起訴され、府中刑務所に勾留され、保釈ののちまた別件で逮捕起訴勾留され、そのあと我孫子に戻りました。でももう70年なので、ほぼ日々闘争ばかりで、我孫子にいることが少なかったです。
 浦和は全部で3つ住んでいます。沖縄でも働き住んでいましたし、一時千葉県船橋市にも住んでいました。東京の早稲田に住んでいるときに、結婚して、すぐに王子に住んで、それから我孫子に住んで(家は3カ所替わりました)、ここで二人の娘は、小学校中学校を卒業し、高校はそれぞれ別な学校でしたが、大学は同じ大学に進みました。

 私はきょうは、朝8時には、我孫子の自宅へ行きまして、資源を出しまして、そのあと10時45分に世田谷へ行きます。そしてそのあと人形町へいきます。我孫子は私たちには、今も自宅であり、二人の娘もここからお嫁に行きました。
 我孫子は二人の娘には、懐かしい思いのする故郷なのです。私にもやっと今になって、そんな思いも生まれてきました。
 私には、この我孫子も故郷であるし、そして今いる東京北区王子もまた私の故郷であると言えるかと思っています。

 絵本「おじいさんの旅」のことで思い出しました へ

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 画像をみなUPします。この日は、またここから次に急いだものでした。

 

07092527 でもこうしてデジカメでいくつも撮れたのは嬉しかったです。この後楽園の中には、絵を描いている人や、ずっと望遠レンズで長時間写真を撮られている方もいました。

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 いや実は、この後楽園の画像がたくさんあるので、なにしろ9月25日のことなので、ここの全部出しておこうと思いました。また家族で訪れた時には、別な景色の色になっているから、またたくさんの画像を撮ることでしょう。
07092522 王子からは南北線で11分で着くのです。だからまた行きます。

 

07092523 でもこの日は、次のクライアントに向かうのには、飯田橋から向かいました。日中友好協会(正統本部)を見たり(今は学園になっていました)しながら歩いていました。いくつもの思い出が甦ります。

 


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 前月の9月25日に私は小石川後楽園へ行きました。この日は、私の前歯が見事入った日でしたが、そのあと午後行くクライアントへの時間がちょうど1時間くらい空いたので、私はその歯医者さんから歩いていける後楽園に行こうと思い立ちました。
 私はこの本郷(でも駅はJRの水道橋が近いのです)で働いていたときに(大学を6年で卒業したあと、1年間働いていました)、この後楽園には訪れたことがあると思っていました。1度は仕事中に、そして一度は当時の彼女と来たはずだと思い込んでいました。
07092516 でも中へ入って判りました。私は昔(ちょうど24、25歳の頃)は、この公園には一度も入ったことがないのです。仕事でこの周辺を歩いていただけなのですね。
 それと鮮明に思い出されることが、あるときに、この後楽園の入口の前で、大変に綺麗な女性を見ました。そのことを覚えていたのですが、それがたしか私が25歳の4月末で、そのあと数日後私は何故か東京駅から、西明石駅行きの普通列車に乗りました。
07092517 それでさまざまなことがあったのですが、私が鹿児島について、西鹿児島駅の前あたりで、偶然このときの女性を見かけたのです。そのときは、驚きました。でも何にしても、圧倒的昔の話です。

 でも今回、この後楽園の中を約50分くらい歩きましたが、その中で約35年前くらいを思いだし、「ここに始めて入ったんだなあ。思えば、あの頃も精神的にも何も余裕がなかったんだなあ」と思い出していたものでした。

   http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index030.html

07092518 ただ、やはりこの公園は実にいい公園です。できたら、私の家族を連れてまた来たいです。王子から南北線に乗れば、すぐそばなんですね。後楽園遊園地よりも、ここに家族でまた来たいものです。
 そして公園の中を歩いていて思いました。私は今回はじめてこの公園に入ったわけですが、もう心の中ではとっくに入っていたところでした。もう私の心の中の故郷になっていたわけです。

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「横浜に行ってきました〜◆」ナミちゃんから、次のコメントをいただきました。

1. Posted by なみんと    2007年07月27日 23:32
周さんは沢山の故郷を持っているのですね。秋田・札幌・名古屋・鹿児島・横浜・・まだありますか。
年月はそれぞれでしょうが確かにそこに住んでいた・・・という事実。そこで家族で住みご近所がいてそこの地域の学校に子ども達は行く・・その時間の塊を思う時それだけで愛おしいですね。
去年のクリスマスの時ランドママークタワーに行ってみました。夜景が見事でした。周さんのアップしている写真!きれいですね。SCAPAってブティックですか。もしそうならそこの洋服のファンです。

 うーん、そうですね。私にはいくつもの故郷があるのです。
 秋田は二つのところに住みました。ここでは、私たち兄弟を可愛がってくれていたWさんという父の会社の後輩の女性がいまして、この方がそののち、札幌に遊びに来てくれたのよ。一度は、秋田の支店の大勢の野球チームを率いて、札幌で野球の試合に来たのです。そしてもう一度は、私の家を泊まりにきて、彼女が帰るというときに、弟は泣いて、私も何故か(私はもうものわかりがよかったはずなのですが)ぐずって、無理に彼女にもう一晩泊まってもらったら、彼女がキャンセルしたのが、洞爺丸でした。その晩、函館港で、洞爺丸台風のため、この大きな客船は沈みました。私たちのわがままが彼女の命を救ったのです。
 名古屋は、3カ所住みまして、ここもたくさんの思い出があります。伊勢湾台風にあったのも、ここの北区大曽根に住んでいたときでした。最初住んでいた南区若草町も、いくつもの思い出があります。
 鹿児島もたくさんの思い出があります。高校にまでここにいたので全部で丸4年いたのかな。ずっと東千石町といういわば街の真ん中に住んでいましたが、高校に入って、原良町というところに住みました。
 そのあとが横浜で、港北区篠原町(東横線で白楽というところ)に住みました。当時は少しも好きになれない横浜でしたが、今になると、もう数え切れないくらいたくさんの思いに溢れている街です。
 あと、私の故郷というと、大学のあった浦和ですね。私は北浦和は3カ所住んだのよ。大学時代は、激しく学生運動をやったものですし、その後社会に出ても長く浦和にいました。思えば、私が労働運動をやったときも浦和に住んでいたのですね。
 それと、私は千葉県の船橋にも住んだのよ。船橋の湊町というところも、私には故郷の一つです。それと、東京では、早稲田ですね。ちょうど結婚したときは、ここに住んでいたし、もともと学生のときにも、この早稲田というところは、実にたくさんの時間居たところです。
 それと、現在の王子は、結婚後しばらく住んでいて、ここで長女が生まれました。
 そのあとが我孫子です。ここも全部で3カ所住みました。ここで次女も生まれて、二人ともここからお嫁に行きました。
 あと私が生まれた茨城県佐貫も、そのときの記憶はないのですが、何度も訪れています私の故郷です。そして昭和24年の頃住んでいた東京巣鴨も記憶はないのですが、私の初孫が生まれたのが、巣鴨のある病院で、そこに行ったときに、私にははるかな思い出が甦ってきたものでした。
 それと沖縄にも居ました。短い期間ですが、私には大切な私の故郷です。それに思えば、私は府中刑務所にも半年以上いたから、あそこも故郷ですね。
 私の故郷というと、そんなところかしらね。

 SCAPAっていうと、たしかベルギーの服飾ブランドだったかなあ。私は「将門Web」というホームページを持っているように、平将門様の大ファンです。それで、この平将門のファンという女性がウーロンさんという女性でした。私は彼女のことを、インターネット上で知りました。彼女は、フルマラソンを走られる元気な女性なのです。その女性が務められていたのが、この横浜ランドマークプラザのあったSCAPAでした。彼女は、もう実に元気で、よく将門様のことをホームページ上にたくさん書いていました(ほかのたくさんのことも書いていました)。
 それで、私が今では何故かこの王子で会うことのできるKさんという圧倒的美女に、クリスマスプレゼントを贈ろうとしたときに(毎年多くの女性たちには、クリスマスプレゼントを贈るのですが、ある年彼女には、特別に贈りたくなったのです)、この横浜ランドマークプラザのあったSCAPAへ行ったのです。
 そうしたら、始めてお会いするウーロンさんは若くて素敵な方なのですが、店長のドーラさんももう綺麗な方で私はどきどきしてしまいました。でも彼女たち二人が選んでくれたものを、Kさんにプレゼントしたときは、もう大変に喜んでくれたものです。
 現在ウーロンさんは、池袋で、ゴルフ関連の会社にいます。私はゴルフにも関係があるものですから、また何かお手伝いできるかなあ、と思っていますが、なかなか彼女に会う機会がないのですね。
 でもまた彼女と、将門様のことで、インターネット上でもお喋りがしたいものです。

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 23日に私は日暮里から、谷中の街を歩いていました。もう履いている下駄が大変に薄くなってしまい、このブログのサイドバーでリンクしています ひらいや さんで新しく下駄を買い替えるためにです。
 日暮里駅から、朝倉彫像館の前を通って歩いていきます。時間は午後2時30分くらいでした。いつもは暗くなってから歩いているだけで、こういう明るいときにこの街を歩くと、いくつもの発見があります。
 でも上野桜木から、言問通りを下るあたりで、私は何かの思い出が甦ってきました。私は、ここらのお寺のよくある路の中をけっこう歩いているときがあったのです。「あれは69年11月、いや70年7月かな」なんて思い出していました。たしか寒かったような記憶です。でも69年11月というと、私は東大闘争で保釈になって、また12月10日に逮捕される前ですから、やはり70年かなあ。
 とにかく、この街のたくさんあるお寺の間の曲がりくねっている路を私は歩いていました。三遊亭円朝の作品を思い浮かべたり、山岡鉄舟のことを思い浮かべて歩いていたものでした(これらの人の墓があるお寺があるんです)。

 でもなんで、こんな街を歩いていたんだっけと思い出していました。「ああ、そうかいろんなことがあったんだなあ」と思い出が甦ってきたものです。
 もう谷中(そして千駄木)は、今では私には、またたくさんのことがいつも心に浮かんでくる、私の故郷の一つになりました。だから私は谷中で飲んでいるのが好きなのです。

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 きのう夕方妻に言われて、王子駅前の東武ストアへ買い物に行きました。自転車で王子の駅前を走りながら、私は自分の住んでみたいくつもの故郷を思い出していました。そのときになにかがつかめたような思いになりました。

 私はこのところ、何度も我孫子の自宅に帰り、そこから自転車に乗って母の入院しているつくしの病院へ行きます。いつも、病院までいく途中のいくつかの森では、春なのでしょうね、いつも鶯の啼く声が聞こえます。いや、病院に行くときばかりではなく、私が北柏から自宅へ帰る際にも、このところはいつも鶯の声が聞こえます。
 この鶯の声は、私の我孫子の家でいつも聞いていたものでした。私は父は、春になると庭に来る鶯を何羽も捕まえて、雌はすべて逃がし、雄だけを檻に入れて、テープで鶯の啼く声を聞かせて(ただし、いい声で啼く鶯の声)、それを覚えさせて、その声を楽しんで、また5月中旬になる頃、「また来年おいで!」と庭から空に放つのでした。
 私の娘二人が小学生の頃、「おじいちゃん、きょうも鶯を捕まえたよ」というので、「そんな馬鹿なことはない、野性の鳥が簡単に捕まるものか」と言っていたのですが、娘たちと、本当のことかと確かめに、日曜日の朝から行きましたら、父の家の庭の池の石垣の上で、簡単にとらえられる鶯をこの目で見たものでした。
 父は名古屋に住んでいたときから、野鳥を飼い始め、とくにめじろとうぐいすはよく家で飼っていました(あ、今は飼ってはいけません)。その他の鳥の何種類も何羽もいました。
 ところが、この我孫子では、もう鳥屋に行って買うのではなく、自分でこうして捕らえるようになりました。しかも実に簡単にです。そしてまたそのうちに自然に空に還します。
 いや、実をいえば、我孫子という街は野鳥の宝庫です。だから私の父の家の庭には、もうたくさんの鳥が来ていました。ただし、私は鳥なんかにまったく関心がありませんから、全然気がつきもしませんでしたが、父はいろいろな思いを抱いていたものでしょう。

 今は父はもういませんから、私たちは誰も何も判りません。ただ、こうして母の入院している病院に行くときに、鶯の啼く声をきき、さらにその病院までのあらゆるところで、いくつもの野鳥におめにかかります。やはり、この我孫子というのは野鳥の宝庫です。今も驚くほど多くの野鳥をあちこちで私の走るすぐそばにいるのを感じています。

 ただし、こうして野鳥を目の前にしても、その声を聴いたとしても、しょせんは私です。少しもたいした感動はありません。いつも、「さすが親父が選んだ街なんだねえ」と、思っているだけです。

 だが、私は昨日も王子の街を自転車で走っていて、いくつものコンビニを目の前に入れながら、どうしても、こうした王子のような街のほうが好きになるのです。それで昨日自転車の上で、私が過去住んだ街をいくつも思い出しながら比較していました。
 私は記憶ある子どものときから、いわゆる田園のある田舎というようなところには住んだことがありません。みな大都市の住宅地か、大都市の都心部です。もの心ついてから住んだところを比較してみます。

1.大都市の住宅地 秋田市で2つ住んだところ、札幌市南区(あの頃は区ではなかったけれど)、名古屋市南区若草町、鹿児島市原良町、横浜市港北区篠原町、浦和市2カ所 船橋市湊町 我孫子市台田の4カ所

2.大都市の都心部 名古屋市千種区今池 名古屋市北区大曽根 鹿児島市東千石町、東京都電早稲田駅近く 東京北区王子

3.どうみても上二つと違うところ 府中刑務所 沖縄県久志村

 ええと、3はいわば私の中で例外のところでしたが、1と2が私が住んだ一番の故郷です。そして私は、昨日自転車の上で感じていたのは、「俺はもう、2の都会の都心でないと嫌だなあ」ということなのです。鶯の声が聞こえるのはいいけれど、そんなことよりも、もう私は都会の都心がいいです。
 このことを、もういつも如実に感じています。

 いや、このことをまたいくつも書いていくべきだなあ、と思っています。私は都会の都心で、コンビニがそばにあれば、そこが一番住みやすいです。そのことを今大きく感じています。

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06122301 毎日UPされている 王子生活札幌でも走ってます があります。なんだか私にはとても懐かしい札幌の市電なのです。

札幌の街には市電が走ってます。
緑色の車体が懐かしい感じの市電です。
(2006.12.22)

 私の家族は昭和28年の9月に、秋田市から札幌へ引越しました。秋田も市電が走っていましたが、社宅は市電よりかなり離れていたので、今度は比較的社宅より近いので、私たち3人兄弟は、そろって市電通りに見に行きました。
 兄は中学1年生、私は幼稚園生で、弟はまだ4歳です。市電通りは広くて、緩やかに市電が走っています。
 でも実に悪戯っ子の私の弟が、市電のレールの上に石を置きました。兄は怒り、私はあわててその石を取り去りました。実にまあるい石でした。白い少し茶色い平たい石でした。私は今のあの石の感触も形も色もよく覚えています。私の弟は、小さくてイタズラばかりする子どもでした。
 私は家に帰って、そのことを母に言いつけたと思います(嫌な奴だなあ)。でも間違いなく、母は怒ったけれど、笑っていたかと思います。でも弟は、「もう絶対にしないこと」と約束させられていました。

 この市電に乗って家族でよく札幌の繁華街に連れて行ってもらいました。丸井(今は札幌丸井というのかな)デパートへや三越デパートへです。そこで父母は買い物をして、私たち子どもは食堂で食べるのがいつも愉しみでした。
 思い出せば、その前にいた秋田市も、次の名古屋も、鹿児島も、横浜も、どこもこの市電が走っていしたね。ただし、名古屋の最初の南区若草町では、名鉄に乗ることも多く、横浜では港北区篠原町だったので、東急東横線に乗ることも多かったです。

 でもその後住みました千葉県我孫子も浦和市も市電(路面電車)がないのが不思儀でした。それから沖縄の那覇市にも市電がないので、少し驚きました。でももう声には出さなかったなあ。その頃一緒に働いている人たちに笑われちゃうかもしれないからです。

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 この一つ前に、昨日タクシーに乗ったことを書きました。そうしたら、また思い出しました。
 同じく昨日、今度は渋谷から靖国神社前までタクシーに乗りました。
 私はまた運転手さんに、東京の路が綺麗なことの感想を喋りました。そして、私の自宅の我孫子も今の王子も路が綺麗に掃除されていることを言いました。
 そして余計なことですが、東京の汚れた街の話もしました。「あそこらへんは、煙草の吸い殻だらけなんですよね」なんて街の名前をあげて話しました。
 それでそのあと、東京だけではなく、あちこちの都市の話をしました。まず大阪の印象から、名古屋の話をしました。
 私は名古屋は好きではないが、実に街が綺麗だと思うということをいいました。そして同じ愛知県でも、いわゆる名古屋−尾張と、岡崎−三河は全然違うなんて話をしているうちに、その運転手さんも、「私も名古屋は住んでいたことがありますよ」という話で、いろいろと話しました。私は名古屋は3カ所住んで小学校も3つだったことをいい、もともとは札幌で入学したことをいいまして、でも卒業したのは鹿児島なことをいいますと、彼も「自分は鹿児島です」ということで、だんだん話が進みます。
 彼の中学の話で、私は甲東中学で、彼もよく知っています。「私は甲南(高校)なんですよ」という話から、「私は鶴丸(高校)ですよ」ということで、だんだん詳しい話になります。
 彼が法事で、鹿児島に帰省した話の中で、鹿児島天文館の美味しいラーメンを奥さんと食べに行ったという話で、それが黒岩ラーメンだというので、私は「あ、彼は中2・中3と同じクラスだったよ」ということでますます話がはずみます。私は天文館のあちこちには、同級生が何人もいますから、もう懐かしい思い出ばかりです。
 彼は昭和22年生まれで、私より一つ上です。だからあの頃鹿児島の路ですれちがっていたのかもしれないですね。

 でも彼は三島に住んでいたこともあると言っていました。私もすぐに三島駅を思い出していました。温泉新聞社で集金に歩いた思い出です。あそこから、伊豆の中伊豆西伊豆の集金旅行が始まったのでした。
 いや、その他もいっぱいお話しましたよ。同じ団塊の世代だから、たくさんの思い出が重なります。

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 リンクス「街の映画館」へ、目森一喜 さんから、次のコメントがありました。

1. Posted by 目森一喜    2006年11月16日 02:52
 足立区民だったのですが、私の住んでいた新田は王子駅が一番近い鉄道の駅でした。
 子供の頃は、王子から北本通りを赤羽方面に行って、田端から米軍野戦病院に通じていた単線を通り過ぎ(消防署は今でもあるのかな?)、少し行ったあたりの庚申通り(子供の頃、新田から庚申通りに出る隅田川の渡し船に乗った事があります)の映画館で映画を観ました(東映時代劇や怪獣映画、日活アクションでした)が、そこがスーパーマーケットになってしまったので、王子や東十条(オリンピック道路=環状七号線が通ってからは歩いて行けたのです)で映画を観ました。中学時代は毎週、二本立てか三本立てを観ていました。
2. Posted by 目森一喜    2006年11月16日 02:53
 マカロニ・ウエスタンとブニュエルとパゾリーニとフレンチ・ノワール、アラン・ドロンにゴダールに007を雑然と組んでいたので、雑然と観ました。
 あの頃の洋画はフランスとイタリアの映画が盛んでした。
 日本映画だと加山雄三やクレージー・キャッツを観ました。
 それから映画を観なくなって、今はアメリカ映画が主流なので、テレビが丁度いいと思ってます。
 トロリーバスが走っていた頃から、なくなったちょっと後あたりだと思います。

 10月29日に載せた 運動会のシーンで の画像について、以下のように書きましたが、

 写真は29日に、義母の妹さんと、その息子ご夫婦が王子の家に来てくれたので、お土産に、東十条の草月の黒松を持って帰ってもらったのですが、そのときに一緒に買ってきた和菓子です。

 この黒松が、ちょうど自転車でゆっくり走って私のところから12分くらいです。それでそのときに、単線の踏みきりを渡るのですが、「あっ、この線路は何だろう?」と思っていました(今でも地図にも載っています)。「ここは都電でもないしなあ」という思いだけを抱きましたが、これで判りました。
 それで消防署は今もありますよ。
 思えば、王子は一つの大きな街なんですね。

 そうですね。アメリカ映画はテレビでちょうどいいなあ。面白い映画もあるけれど、「これはなんてつまらいんだ」というのもいっぱいありますね。だから、テレビなら番組を替えてしまえばいいわけです。
 トロリーバスというのは見たことがないのです。ちょうど、名古屋でも鹿児島でも、「ちょっと前まではトロリーバスが走っていたんだけれど」という話は盛んに聞きましたが、私は全然見たことがありません。

 王子はたくさんのことを教えてくれています。もう「あっ!」と驚くことばかりですよ。なんだか、この歳になって、初めて知ったことがときどきありまして、私は涙がでるばかりに感激したり、驚いています。このことはまた少しづつ書いていきます。
 ただ街が今大変貌していますね。その変貌する前の街をよく見ておきたいと思います。私の自宅の我孫子も古い街で、変貌を遂げているのですが、我孫子を含む東葛地区は広すぎます。そして、街がちゃんと整備されていません。
 それにくらべて、東京はいいなあ、と思っています。

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 団塊世代Uターンの経済効果試算 で私は、団塊の世代が「故郷へ帰る」というので、いわゆる田舎に帰ることには否定的なことを書きました。ただし、もちろんそれは個々人が自分の人生でどのような生き方をしようがそれぞれが自由なわけですから、それはまったく構わないことだと思っています。

 私は「故郷へ帰る」というときの「故郷」というのは、それぞれによって違うだと思っているのです。東京という都会が故郷の人もいれば、例えば、鹿児島県内の郡部が田舎の人もいるでしょうが、鹿児島県の県庁所在地の鹿児島市が故郷の人もいるでしょう。
 でも私は「故郷回帰運動」というものに賛同できないのは、「東京23区が故郷であり、そこへ帰りたい」という人の考え方には認めないようなことを感じるからです。
 ようするに、地方といいましても、東京や名古屋のような地方ではない、過疎化が進んでいる地方がなんとしても、その自分の地域を活性化したいというのが本音でしょう。そして、それは切実な思いがあるのでしょう。
 だから、個々人のとって故郷はいろいろあるわけで、さも「故郷は自然と田園のあるところ」と決めつけていることが私は嫌なのです。そこはついでに「車がなければ生活できないところ」と付け加えてくれよという思いです。

 かつそして、個々人にとって、故郷とは、実際に自分が行き住んだところでなくとも、自分で選んでいいところだと思っています。

 私は生まれは昭和23年茨城県佐貫です。今は藤代市になっています。でも、1歳のときに、東京巣鴨に引越て、3歳で秋田市に引越、そのあと、札幌、名古屋、鹿児島、横浜、そして千葉県我孫子と引越しました。秋田では2か所、名古屋では3カ所に住んでいます。だから名古屋では小学校も3つでした。
 それでそのあとは、浦和に住み、また府中刑務所から保釈ののち我孫子に住み、また浦和に住み、一時沖縄に住み、その後船橋に住み、早稲田に住みました。そこで結婚して王子に住んで、そのあと我孫子に住みました。そして我孫子で3カ所住むところを替えました。
 そして今は、我孫子の自宅と王子の妻の実家と2カ所に住んでいます。

 そんな私には「故郷」というところがないのです。いや、全部が故郷とも言えるでしょうか。私は秋田と沖縄は、私の故郷とよびたいところでしたが、あとはすべて嫌いでした。
 札幌は、なんだか実にハイカラで嫌でした。ストーブの石炭の煙で汚れた雪が嫌でした。名古屋が実に暑くて、そして方言がひどくて嫌でした。鹿児島は、もうまったく嫌でした。毎日桜島のばい煙が降るのが嫌でした。横浜も方言がひどくて「これは同じ日本なのか」と思ったものでした。町を流れる川が汚くて嫌でした。

 そんな、どこも大嫌いでしたが、今はとても懐かしく思い出されます。札幌も名古屋も鹿児島も懐かしいです。でも遠い。横浜は行くことができますから、歩くと、あんなに嫌だった街が、今では懐かしくてなりません。浦和も嫌いな街でしたが、今行きますと、もう涙がこぼれます。浦和から北浦和まで歩くと、もうそれこそ私はあちこちで涙目になっています。

 このWeb東奥の記事では、次のようにありました。

 今夏、県が行った団塊世代への意識調査では、首都圏在住の本県出身者のうち9.4%が定年後の本県移住を、23.4%が首都圏と本県の二地域居住を希望した。

「首都圏と本県の二地域居住」なんていいことだな、と思いました。
 私が、もう1カ所住みたいところはどこかといいましたら、それは沖縄かな。そして沖縄のどこかと聞かれたら、それは実に困っていまうけれども、やはり都会である那覇でしょうか。でも沖縄ももう車がないとどこにもいけない地方ですね。
 それがなんだか少し哀しいな。

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 さきほどの 携帯メールでのパソコンの相談 の相手から、すぐに続きの携帯メールが来ました。私もすぐに返信しました。

 それで内容は、彼もまた土日には、自分のお母さんの世話で、王子に来ているというのですね。驚きました。彼のメールもけっこう長文ですが、個人的な内容ですので、やはりここには書きませんが、私の返信を以下に載せます。

  *********************
 えっ!っと驚きました。すぐにインターネットで飛鳥山温泉を調べました。もう妻と二人で、画面を見ながら驚いていました。私も4月1日には飛鳥山にも音無公園の桜も見ましたよ。ただ、もう今は前のようにはお酒を飲みませんので、そのことは少しさみしいです。
 王子の義母は義父が1ヶ月前になくなりまして、今は一人ですが、私と妻が今はこうしてそばにいます。また私の長女夫妻が同じマンションに住んでくれますので、これはとてもありがたいです。次女は我孫子で一人なので可哀想なんですが、これはしばらくは仕方ないでしょう。次女がお嫁にいく日のことを今から考えてばかりいます。
  *************************

 それで、飛鳥山温泉のホームページは以下の通りです。

   http://www.kitanet.ne.jp/~asuka26/  飛鳥山温泉

 こんな近くの「温泉」と言われるところがあるんだ。やっぱりこうして、古い街に住んでいるというのはいいですね。
 ここを通る都電は私には実に懐かしい存在ですし(結婚してしばらくは、都電の面影橋のすぐそばに住んでいました)、この都電の各駅はすべて歩いたものでした。
 また今度、この都電の各駅を歩いてみる気持になりました。

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 このブログのサイドバーに「livedoor デパート」があります。きょうから、それを「名古屋」というキーワードで、デパートを形成しています。
 
 最初は、ここは「沖縄」で作りました。私の住んだところでいわば一番好きなところだからです。その次は「秋田」でした。これもまた私が住んだところで好きなところです。沖縄は沖縄本島も八重山諸島もすべて好きですが、「秋田」は、住んだのは秋田市(市内の2カ所に住みました)ですが、「秋田」自体がみな好きです。秋田県全体が好きだというか、秋田犬も好きですし、秋田のお酒も好きですし、秋田美人も好きです。
 ただ、その次は「北海道」ではなく、「札幌」というキーワードでデパートを形成しました。北海道と札幌というのは、私には違うものなのですね。そして私の本心は、北海道は好きなのですが、札幌は、どうしても「好きなところだ」とはいいにくいところです。幼稚園が札幌めばえ幼稚園だし、小学校に入学したのが、札幌市立幌西小学校ですが、どうしても私とは似てもにつかないところでした。いわば、あの札幌のハイカラさが私には合わない気がします。
 
 そして、きょうからは、「名古屋」です。愛知県でもなく、中部地方でもなく、「名古屋」です。そしてここは、私の家族は、南区、千種区、北区と3カ所住みました。小学校は、私は3校でした。でも、どうしても私とは合わない地方という気がずっとしています。まあ、とにかく異常に暑い街でしたね。
 でも、そんな街である、名古屋のことを今はよく知りたい、好きになりたいという思いがします。これは私が気弱になったのかもしれないことです。訳の判らないこだわりばかりで世界を見ている私よりも、名古屋の存在のほうが迫力があるようにおおいに感じています。
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 いわば、この前の「脈絡ねえもんな」の続きですが、この「脈絡ねえもんな」は、 でもおどろいた のコメントに書きましたが、ギバちゃんではなく、劇団一人だそうです。ブルータスが教えてくれました。
 
 21日に横浜へ行きました。前日に、ある方からホームページのSOSがあったからです。それで場所が、横浜線の小机でした。思えば私が場所はよく知っていましたが、初めていきましたところです。行きは、私の住む千葉県我孫子からJRで、東神奈川駅乗り換えで行きました。帰りは東横線で渋谷経由で帰ろうと思っていました。かかる時間はほとんど同じくらいです。
 午後1時に小机駅で待ち合わせました。この小机とは、新幹線が出来た頃は、ただ畑ばかりのところじゃなかったかな。あのころは、たしかに横浜市ではありましたが、いわゆるここらへんを横浜だとは誰も思わなかったはずです。
 私は高校1年のときに、鹿児島から、横浜へ転校してきていましたから(この間のことは、 惨苦身会のはじめに に書いています)、この港北区のこの新横浜のあたりは、まるでただの田園地帯で、なんら「横浜」という感慨のおきないところでした。 でもおどろいた に載せた写真が、その小机の写真です。
 そして帰るときに、お相手の社長に、東横線菊名駅まで送っていただきました。この菊名駅も私には懐かしい思い出のところです。ただ昔と変らず、駅前がごちゃごちゃと狭いところです。駅の近くで飲み屋を求めましたが、いわばどこにもありません。「あ、なんだ、どうしようかな」というところで、当日は実に暖かい日でして、「あ、これは桜が咲きそうだな」なんて思いました。
 そこで、菊名駅の隣の妙蓮寺駅の周りの桜を思い出しました。でもまさかまだ咲いていないでしょう。そこで急に思いつきました。
 
  ここで飲むよりも、隣の隣駅の白楽に行ってみよう
 
 白楽は私が鹿児島から引っ越してきて、大学2年の2月まで住んだところです。その私の住んでいた家も見てみたかった。思えば、あれは今から36年前のことです。そして、この白楽の街自体も、たしか私が観光ホテルの営業をやっているときに、仕事できた1974年から、いわば31年ぶりのことです。
 駅を降りて、昔は白鳥座という洋画の映画館があったのですが、そこはコンビニになっていました。そこから私の住んでいた家に歩きました。歩いて5分くらいなのですが、路は前のままでも、家がすべて建て替えられています。そして私の家があったあたりは変化しすぎて訳が判らないのです。私の隣に住んでいた方は、今も住んでいるはずですから(年賀状が母のところにきます)、お会いしたらお話したかったのですが、もう簡単にその家が判るはずなのに、判らないのです。
 それで仕方ないので、また別な路を通りまして、白楽から六角橋までの「六角橋ふれあい通り」に戻りました。
 ここの細い市場(と私の家族は呼んでいた)が、私は好きな通りでした。ただ店がけっこう扉を閉めていました、廃業したところも多いようです。
 そういえば、私が通った古書店も跡形もありませんでした。
 でもとにかく、この市場を、ずっと歩きました。そしてやがて六角橋の交差点に出ます。ここは私が1965(昭和40年)に鹿児島から引っ越して来た頃は、市電が走っていました。白楽から、横浜駅まで行くときには、東横線を使いますが、その他の横浜の街には、この市電を使いました。
 
 思い出すのは、高校の転校で、教科書を手に入れに行ったときのことです。藤棚というところまで、市電を乗り換えていきました。あの頃は、教科書というものは無償で渡されるものではなく、有料でした。そして教科書とは、教科によって、1冊づつ出版会社が違います。だから、これをその販売会社に1冊づつ(もちろん、数冊同じところで扱っていることもありますが)、買わないとならないのです。兄は小学校が3つ、中学校が3つ、高校が1つ。私は小学校が5つ、中学が1つ、高校が2つ。弟は小学校が4つ、中学が2つ、高校が1つでした。だから、私の母は、転校するたびに、この教科書を手に入れに歩くのが大変だったはずです。なにしろ、学校のほうは、各教科書の出版社名を書いたメモをくれるだけなのですから。それを1冊づつ探して歩くのです。
 私は、この藤棚へ市電で歩いて行った思い出が、ものすごい記憶です。横浜の古い街でしたね。
 後年、遠藤周作の小説で「藤棚」という小説のあることを知りました。内容は、戦時中日本にいたユダヤ系ドイツ人が、ドイツに帰って収容所に入り、そこで飢餓の刑を他の人に替わり進んで受けるという話です。その弱虫だったはずの彼がどうして、そうなったのかというと、彼はこの日本で、藤棚で、昔の切支丹の迫害を受けても転向しない様を知ったということでした。
 私は、この小説の内容を知ったのは、そのとき府中刑務所の中でした。私は遠藤周作というのは、好きになれない作家なのですが(好きでは、ないのですが、次の書評も書いています。 遠藤周作「沈黙」)、この「藤棚」の話は感銘深かったです。
 ただし、この小説の中の藤棚という地名は、横浜ではありません。たしか、東京の港区のはずです。
 
 六角橋の交差点で、私は気がつきました。この交差点は、ときどき私の夢の中に出てくる交差点だったのです。なぜか判らないのですが、私はいつも夢の中で、この街のこの交差点を忙しく歩き回っているのです。
 でもでも、とにかく、懐かしく寂しくなって、私は白楽駅のほうに帰りまして、さて、「六角橋ふれあい通り」の市場の入口のあたりに、「あ、よさそうだな」という飲み屋を見つけました。
 だがだが、私はそこで急に思い出したのです。私は月曜日は、私の 将門Webマガジン の発行の日です。私は午前中このメルマガを打っていまして、まだ完成していません。私のメルマガが量が多いだけに、かなり時間がかかるのです。たぶんあとメルマガ完了まで3時間はかかります。そのあと、発信になるのです。今私がここで飲み始めたら、「いや、ここでは少しだけだ」と決意しても、間違いなく3時間は経過するでしょう。そうすると、間違いなくきょう月曜日中のメルマガ発行はできなくなります。私はそれだけは絶対に嫌です。自分にそれを許してしまうと、またやってしまうから、私は、そんな自分が許せなくなります。酒が悪いのなら、私は酒を絶ちます。だから、私はいつまでも酒が飲みたいから、やはり必死に帰って、メルマガを必死に打つことにしました。
 それにしても、またここから延々と電車に乗ったわけですが、どうやら午後10時台に、メルマガを発刊することができました。
  とにかく、横浜も私の故郷の一つです。
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 私のこのブログは、毎回画像を入れています。多くは私がデジカメ(携帯の場合もあります)でとりました写真です。でも長女に
 
 パパって、どうしてあんなに関係ないどうでもいい写真を入れるの!
 
と言われますように、「その通りです!」。でももちろん私は「だからヨ、どうでもいい写真だからいいんだよ、それはなあ………………」と解説を始めるわけなのですが、でもでも、 日替わりスナップ の折金さんの写真を眺めるたびに、いつもため息が出ます。「俺も、この何分の一かの写真を撮ってみたいな」。
 せめて、このブログに書いていることと関連したことを画像として出せればいいのですが、それもまた私は「全然脈絡ねんもんな」という感じで、いつもUPしています。本文とはいわば、無関係な写真を延々と載せています。なんだか、仕方ないなあという感じですね。
 でも折金さんのは、「あれは、プロだしなあ」と、「あれは別各だ」と決めつけますが、たとえば ウェスタ社長のじゃじゃ馬日記 なんか、じゃじゃ馬さんが書かれる内容と画像が見事マッチしています。いつも感心しています。「俺のは、全然脈絡ねえ写真ばっかだものな」。
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