2017062606 先月のことでしたが、奥野健男さんが亡くなりました。

  2   11/26 21:16 毎: <死去>奥野健男氏=文芸評論家
毎日新聞ニュース速報
化学者として研究を続けながら画期的な「太宰治論」を執筆したことで知られる文芸評論家の奥野健男(おくの・たけお)さんが26日午前8時45分、肝不全のため東京都港区の病院で亡くなった。71歳だった。葬儀・告別式は29日午前11時30分、渋谷区恵比寿南2の18の1の松泉寺で。自宅は同区恵比寿南3の1の14。喪主は妻道子(みちこ)さん。
東京工大化学科在学中に「太宰治論」を校内誌に発表、これが1956年に刊行された同名の長編評論の基礎となった。自身の青春を太宰に重ね合わせた「太宰治論」では、左翼運動からの転向にまつわる自責に悩む内面を描き、注目を集めた。卒業後、東芝に入社、研究生活をしながら評論生活を続けた。この時代に吉本隆明氏らと「現代批評」を創刊。「日本文学の病状」では文学の衰弱の原因を探り、退社後に発表した「『政治と文学』理論の破産」では「政治と文学」論争の火付け役となった。
その後も「文学における原風景」などを執筆、「坂口安吾」「無頼と異端」「高見順」などでは無頼派への思い入れを書いた。産経新聞の文芸時評を76年から15年余にわたって担当。78年には「島尾敏雄」、84年には「“間”の構造」で平林たい子文学賞を受賞。93年の「三島由紀夫伝説」ではタブーに挑戦して話題をまき、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞。化学者としての受賞も多い。多摩美術大学教授を歴任、4月から同大付属美術館長になったばかりだった。10122107

東工大在学中に吉本さんと出会うわけです。このことが彼の大きな転機になったのではないのかなと想像します。
彼は吉本さんの数少ない理解者であったと思います。また島尾敏雄のごく親しい友人でもありました。島尾敏雄が東京を離れ、奄美に移住するときに(あの「病妻記」のミホ夫人の故郷へ行くときです)、吉本さんと奥野さんが東京桟橋で送っています。別れのテープが船に届かないときに、突如吉本さんが船に飛び乗ってテープを島尾敏雄に手渡しします。島尾敏雄も驚いたことでしょうが、奥野さんこそ、「俺にはけっして出来ないことだ」という思いに駆られたのではないでしょうか。いつも奥野さんには吉本さんの姿があったことだろうと思います。それが三島由紀夫の研究にもつながったのではと私は思ってしまいます。
しかし、奥野さんは晩年は吉本さんとまったくつき合いがありませんでした。まことに残念なことに、奥野さんほどの人が、かの「反核派」になってしまったからです。多くの文学者たちが、同じ業界のつき合いのためか、「反核」の署名をしてしまいました。奥野さんも、たまたま署名してしまったのだろうと、私は彼のために想像しますが、吉本さんはもはやそうした手合いとは袂別してしまうわけです。
奥野さんには

なんで、「トントントンカラリンと隣組」とばかり署名するの? あな
たはあの戦争を総括できていないんじゃないの?

という吉本さんの鋭い視線がいつまでも突き刺さっていたのではないでしょうか。
吉本さんに関する雑誌の特集があると、奥野さんはいつも「化学者としての吉本隆明」(あるいは科学者としての)というような内容の執筆をいつも求められていました。だがいつも「私のこの内容じゃ、まだまだ迫り足りないんです」という言い訳しか聞いてきませんでした。できたら、すべてを書いてほしかったなと思います。
私がずっと書いてきた「吉本隆明鈔集」というのは、本当はこの奥野さんがやろうとして(いや、誰かがやるべきだ、と言っていたのかな)いたものです。吉本さんには独特の語彙があります。「表出」という言葉はあったかもしれません。でも「自己表出」というのは、吉本さん独特です。「共同幻想」とはマルクスの言葉です。でも「対幻想」というのは、吉本さんの出してきた概念です。文学の表出史を「文学体」と「話体」という概念で切り尽くすのは、吉本さんの独自の手法です。もっともっとあるわけですが。
書いていくと、いくつもいくつものことが出てくる感じです。
奥野さんは、いくつもいくつものことを私に残していった気がしています。おそらく吉本さんは、奥野さんの死にかなり辛い悲しみがあっただろうなと思ってしまいます。「あなたはいつもそうなのよ」という言葉を奥さんから聞いている吉本さんの姿を想像します。
奥野さん、さようなら。(1997.12.20)

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