2016112807

 私がけっこうあちこちでいつも詠う雲井龍雄の詩があります。私は、この詩と「黒澤忠三郎『絶命詩』」を吟ってきたものです。

   題客舍壁  客舎(註1)の壁に題す
              雲井龍雄
 慾成斯志豈思躬 斯の志を成さんと欲して 豈に躬(み)を思わんや
 埋骨青山碧海中 骨を埋む青山 碧海の中
 醉撫寶刀還冷笑 酔うて宝刀を撫し 還(また)冷笑す
 決然躍馬向關東 決然馬を踊らせて 関東に向こう

 (註1)客舎(かくしゃ) 旅館

10111211 この私の志を成し遂げるためには、どうして自分の一身の安全を考えていられようか
 どこで死を迎えようと構わない。草深い山だろうと、碧海の底で死のうと覚悟はできている
 壮途を祝って酒を飲み、腰の刀を探れば、敵を挫いた気持になり微笑してしまう
 さあ、これから馬を躍らせて関東に行き、薩長の野望を粉砕するぞ

 雲井龍雄は1844(天保15)年〜1870(明治3)年の生涯で米沢藩士でした。江戸に出て、安井息軒の三計塾に通います。この塾の同門に、土佐藩の谷干城(のちに西南戦争のおり、熊本城を最後まで守り通した官軍の将になる)がいます。
 幕末の江戸や京都に赴き、広く各藩の志士と付合いました。とくに土佐の後藤象二郎とは親しくつき合いました。
 そして明治新政府にも参画しています。だが、この新政府が薩長のみで、当初の理想から離れて行く様を見て、龍雄は義憤を禁じ得ませんでした。鳥羽伏見の闘いが薩長の計略によって成されたのを見て、龍雄は新政府に3度意見書を出しています。
 そして薩長の意図を挫くため、「討薩の檄文」を草します。関東で兵を募りますが、この策は敗れます。
 明治新政府は米沢藩に託して、龍雄を幽閉します。そして明治3年8月東京に護送され、同年12月28日小塚原で斬首されました。
 この詩は1868(慶応4年)5月3日の作です。この詩は、京都にて土佐・佐賀の同憂の士と別れの宴をはったときに、龍雄が賦したものです。
 なんだかいつも、まっすぐな龍雄を思います。その龍雄の無念さをいつも思いだします。
 私が昔詩吟で荒國誠に習いました詩です。荒先生はいつも、この雲井龍雄の話をしてくれました。明治生まれの荒先生にとっては、この雲井龍雄は私なんかが思うよりも、ずっと近しい、尊敬できる人だったのでしょうね。(2004.12.13)

 いつも雲井龍雄の詩は吟っていきます。これからもいつも忘れることはないでしょう。私の大好きな志士です。(2010.11.14)