10111801 一九九六年四月一四日の松戸自主夜間中学校のお花見遠足にて話題になりました「人間到る処青山有り」という詩を解説していきたいと思います。
どういう話題というと、「人間到るところ青山あり」というところの「青山」とは何かということです。これは「いいところ」というのではなく「墓場」であるという意味なのですね。もっというと、「人間の住む世の中には、どこへ行ってもいいところ、いつ死んでもいい場所がある」というような意味でしょう。

將東遊題壁        釋  月性(しゃくげっしょう)
男兒立志出郷關  男児志を立てて郷関(註1)を出ず
學若無成不復還  学若し成ずんば復(また)還らず
埋骨何期墳墓地  骨を埋むる何ぞ期せん墳墓の地
人間到處有青山  人間(註2)到る処青山(註3)有り

(註1)郷関(きょうかん) ふるさと。
(註2)人間 「荘子」の「人間世篇」による。日本語では人という意味になるが、漢語では「世の中」という意味である。それで読み方も「にんげん」ではなく「じんかん」と読まなければという人もいる。ただ私周としては意味を間違えなければ、べつに「にんげん」と読んで構わないと考えている。
(註3)青山 青々とした美しい山。どこへ墓地を作ってもいいという意味になる。

男子が一旦志を立てて故郷を出たからには、
学問がもし成就しないのならば再び還らない。
骨を埋めるのは何も祖先墳墓の地を望まない。
この世間にはどこへいっても青い山があるのだから、どこへ埋めてもらってもいいのである。

釈月性という人は文化一四年(一八一七)山口県周防に生まれました。真宗の住職でしたが、尊皇攘夷の志士と交わり、彼も国事時事を大いに語りました。清狂と号して、故郷周防に「清狂草堂」という塾を開設しました。吉田松陰とも交際があり、萩の松陰神社には「清狂吟稿」という詩集が残されております。そのほかたくさんの志士たちとの交友があり、彼もまた京阪の地で活躍しましたが、幕府の警戒を受けるようになりました。たまたま故郷へ戻っていたときに安政五年(一九五六)五月一一日四二歳にて俄病にて没しました。
この詩は天保一四年(一八四三)二七歳のときに、東遊して大阪の篠崎小竹の門に学ぼうとしたときの作です。
承句での「不復還」は「死不還(死すとも還らず)」とも作りました。また転句の「何期」は「豈期」や「豈惟」「豈唯」にも作りました。それで詩吟の教本などでは、そちらの語句で書いてあり、また題名は単に「題壁」とだけが多いようです。
したがって詩吟でやるときには次のように吟うことが多いのです。

壁(へき)に題す     釈  月性
男児志を立てて郷関を出ず
学若し成ずんば死すとも還らず
骨を埋ずむ豈惟(あにただ)墳墓の地のみならんや
人間(にんげん)到る処に青山在り

ところで、この詩がともすれば作者が村松文三(香雲)としている詩吟の教本や漢詩の解説書もあります。この村松文三も同じく尊皇攘夷の志士であり、月性より一〇歳の年下で親交もあり、詩は月性の添削を請うたといいます。国事に奔走し、幕府の弾圧にあうや、姓名を変じて青江韓三郎といい、友人はこれを称して青狂と呼びました。この「青狂」が月性の「清狂」と間違えられる所以でもあったかと思いますが、文三自身が月性の詩を真似て作り、自作の詩として吹聴していたこともあるようで、こうした誤解が生まれてしまったようです。ただ私としては、文三は月性を尊敬するあまり、青狂と号して月性の詩を自らの詩としてしまったところもあるのではと想像しています。
この詩は詩吟の世界では「処世吟」といわれるものであり、若い人が詠ったり、若い人の出発のときに吟ってあげるものなのでしょうか。ただ、どうも私はこの詩を吟う気にはなれません。なんだか詠うのが気恥ずかしいのですね。何をいまさら、そんな青くさいこと言えるかよ、というもう一人の私の声が聞こえてきてしまうのです。(これは1996年の4月に書いていました)。

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