将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:お通夜

11090414 どうやらやっと昨日ときょうは少しゆっくりできました。そして「周の発言」へは1週間ぶりの書き込みです。毎日いろいろなページの更新だけはしているのですが、なかなかここへ書いている時間がありません。日々いろいろと思うことがたくさんあり、ここへ書きたいなあとだけは思っているのですが、そのままになってしまいます。
 1月後半は出かけることが多かったのです。そこでけっこう電車の中で本を読むことができました。1月31日に「発言」で書いているところでも、私はお通夜に行くときも、降りる駅であわてて降りたくらいに本に熱中していました。そのあとの松戸自主夜間中学校へ行くときにも、急いでいたのに、読んでいる小説があと僅かで終わるので、松戸駅でベンチに座って読み終わりました。読み終わらないではいられなかったのです。ただ、私はそのあとまた本来の目的のところへついたら、当然そちらの方に熱中してしまいます。いつでも頭をサッと切り替えているつもりです。
 2月に入った先週もいろいろ歩きましたが、けっこう本を読み耽けっていると、降りるべき駅でいつもあせっていました。ちょうど池上線で、3つの駅に降りなくてはいけないことがあったのですが、どの駅でも私はあわてていました。そして思い出すのです。「なんだ、俺は毎年毎年いつも同じことをやっているなあ、昨年もこの駅であわてて降りていた、あのときは何を読んでいたっけ」。
 この間読んだ本はどれも印象深いものがありました。はやく「本の備忘録」にUPして、できたらそのいくつかは「周の書評」として残しておきたなあと考えています。「書評」に書いたら、古書店に売ります。(99/02/07 11:33:50)

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 4日のお通夜、5日の告別式に行きまして、最後彼の骨をひろいました。
 彼と始めて会ったのは、1973年の11月上旬の埼玉大学のむつめ祭でしたね。そのときからの付き合い会いです。
 浦和市大東の飯場から、よくいくつかの現場へ行きました。そして、彼らが1975年に沖縄へ行きましたときに、私もあとから行きました。
 彼がユンボに乗って、よくやっていたことを思い出します。たくさんのことがありましたね。また彼がたくさんの綺麗な蝋燭を作って、それをチィーちゃんが中野ブロードウェイセンターで売っていました。私はいくつも買いに行ったことがあります。あれは、1979年くらいのことかなあ。
 写真は、葬儀場で、葬儀場の上を撮りました。なべちゃの顔がひょっとしたら見られるかなと思ったのです。
09070508 そしてもう一つの写真は、彼の遺骨とその遺影です。そして映っている右手は、私の隣に座っていましたチィーちゃんの手です。

 もうこれで会うこともないのですね。

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 私の母が亡くなりまして、21日の告別式が終わりまして2日目です。
 ここで、お通夜に来ていただいた私の埼大の学生運動での先輩Nさん、ありがとうございました。翌日22日にはIさんに、告別式に出席いただきました。私の母とは接したことがなかったかと思いますが、兄の挨拶で、母のことは少しはお判りいただけたかと思っています。それにメールやケータイメールでお悔やみをいただいた方、ありがとうございます。またさきほども、御香典を私のこの王子の家に届けていただきました方や会社の方、わざわざありがとうございます。私ども兄弟の申し合わせで、もう母のことは、知らせないで内輪で済まそうと話していたもので、私はインターネット上のブログでの広報のみでした。でもそれでも知っていただいて、わざわざありがとうございました。
 それと告別式のときに我孫子の斎場に時間的に間に合わなくて、それでも来ていただき、私の兄の家にお花を届けていただきましたFさん、ありがとうございました。私の義姉も実に嬉しがっていました。義姉はよくFさんのことを知っているのですね。それで、今度私の次女も集まれるときに、王子に来てください。王子のほうが、あなたの家にずっと近いものね。

 母の葬儀は、お通夜も告別式もすべていい式だったと思っています。母の真面目で、でもいつでも元気で快活だったところも顕れていたかなあ、なんて思っています。

 今後私の娘や孫の前で、母のこと、父の思い出も話すことがあるかと思います。

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07082002 私の母が8月14日に亡くなりまして、その通夜を20日、告別式を21日に行いました。そのときのことを書いておきます。私の母、萩原たか子の通夜・告別式 に書きましたように、我孫子駅北口のアビコセレモアホールにて行いました。
 私は20日は、午後4時にここに到着しました。
 それで、すぐにお線香をあげまして、当日私は泊まるものですから、その部屋に入って、喪服に着替えます。そして、この部屋にてパソコンでインターネットが繋がるのか、見てみましたら、何故か繋がるのです。どこかのインターネット接続に入れたのかもしれません。ワンセグもすぐ繋がります。
 それで以下のUPをしようと書いていました。

この葬儀場はつながりますよ
 今、母のお通夜で、親族控室にいます。ここでパソコンを開いたら、つながるのですね。感激します。母は今も眠った顔をしています。思えば、私が来て、予想通りもうビール飲んじゃったから、「あいつは、やっぱり同じだなあ」と嘆いているでしょう。
 でも、私はいつも変わらないというか、進歩がないのですね。

 ところが、しばらくたったらつながらなくなりました。なんでなのかなあ。

 それで、でも4時40分頃になったら、何故か繋がらなくなりました。なんでなのかなあ。だから上は、書きましたが、今始めてUPする文です。

 でもまだ誰もきません。それでまた部屋に入っていて、パソコンをいじって、ワンセグで映したりしていて、5時すぎる頃、会場のほうで声がするので、出てみると、私の親族が何人も来ています。あとで聞くと、私の妻は、私のことを「もうとっくに来ているはずなんだっけど、ここにいないというのは、どっかへ行ってしまったのか」と言っていたようです。それで、私はそのほか来てくれていた親族とお話をします。兄夫婦も弟夫婦も来ます。
07082003 さて午後6時10分前に親族の席に座って、通夜が開始されます。我が家の菩提寺の曹洞宗正泉寺の住職がお経をとなえてくれています。私は法事の関係で、何度もこの正泉寺は訪れて、何度かこの和尚の話は聞いています。実に面白い住職さんです。

 通夜は2時間、その間お清めの席がありますが、そこへ言って話をしている時間がありません。でも、午後7時半頃から、親族もお清めの席になります。私も遠くから来てきれた親族とお話します。
 私の従兄(私の伯母の長男)のIさんが、娘が二人なのですが、長女が北イタリアにお嫁に行きました。ところが今度は、「次女がオーストリアにお嫁に行った」といいます。それで、「でも、もう電話代がかかってしょうがない」というので、私はスカイプの端末をとりだして、「スカイプだと、イタリアでもオーストリアにしても三河島でも、無料で電話できるよ」と説明しましたが、判ったかなあ。たぶん、判らないだろうから、今度手紙を出して、さらに私が行って解説説明実行します。無料で映像も見られるから、これはいいよ。ちょうど日本と連帯して米英仏ソと戦った仲間なのだから、仲良くしようよ、なんてお話しますよ。

 かくして時間もすぎ、この日は終わりで、私は自分の泊まる部屋に戻りましたが、そこで飲んでいるうちに、着替えして外出して飲もうという気持になりました。ああ、母も、「しょうがない息子だなあ」で許してくれるでしょう。
 そこで、外出しようとして、ガードマンさんに頼んで、ビルを出してもらいました。歩いて行く先は、我孫子北口の「盛」です。
 そこでまた飲み始めました。ここのご主人は、実は絵描きで、何の関係か、私の妻の会社に、その絵を持ってきています。「あ、2枚持って行った」というので、それで私の妻の会社のことも判ったようです。でも、そのあとそこにいた他のお客さんと、お話していたような記憶があるのですが、もう私には、全く記憶がなくなっています。
 そして、私は「アビコセレモアホール」に戻っています。でももう記憶がまったくありません。

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 きのう午後2時少しすぐに、私のケータイに友人から電話がありました。でも私はそのときに出ても話せませんでした。あるところで、ある手続きのまっさい中だったのです。
 それで、そこでは話せないことをいいまして、しばらくして外へ出てこちらからケータイをしました。ただそこで、聞いたのが、友人の李讚輝さんが27日に亡くなったことだけです。

 そのあと、すぐに電話すると、本日30日午後6時からお通夜があり(このときには、その連絡だけで、あとでFAXをくれるということでした)、明日11時からお葬式です。

 なんだか、彼李さんのことを思い出していました。いくつも思い出が浮かんできます。思えば、最後に実際に会ったのはゴールデン街の「ひしょう」でかあな。
 彼は実際の年齢は私よりも2つ上だったと思いますから、60歳だったのかなあ。もう髪が真っ白だったですね。
 とにかく、今もまず合掌します。

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 先月3月26日に、私は午後5時少しすぎに池袋駅から西武線に乗り、所沢で乗り換えて所沢航空公園駅にちょうど6時頃着きました。お通夜は午後6時30分からと聞いてありました。
 葬儀場は「所沢市斎場」です。私はこの駅ももちろん、降りたことがありますから、すぐにタクシー乗り場に並びます。でもここで驚きました。タクシー乗り場は長蛇の列が出来ています。みな喪服を着ています。「あ、そんなに葬儀が多いのかな?」と最初は思いましたが、並んでいる人たちの会話で、みなすべてCさんのお通夜に出席する方のようです。
 そして、実に若い方が多いのです。みな中学の教員であったCさんに先生として教わった生徒さんたちなのでしょう。
 そして葬儀場に着きましても、もう受付も長蛇の列です。そしてご焼香するのにも、長く並ばないとなりません。そして、そもそも私は、何故Cさんがまだ若くして亡くなってしまったのか皆目判りません。
 それであちこちに耳をそばだてていました。これだけ来てくれる方が多いと、A本人とも、お母さんにもBさんとも挨拶するのは無理かもしれません。

 それでみなさんの話と、そしてお清めの席で、少し伺った話では、Cさんは中学の教師として、卒業生を送ったあと、自分の教室で生徒たちとお話ししていたそうです。
 だがそのときに、C先生は、「少し気持が悪い」と言ったあと、急に倒れたそうです。そしてそのあと、もう戻らぬ人になってしまいました。急性心筋梗塞とか聞きました(ええと違うかもしれません)。
 これは実に驚くべき事態です。その場にいた生徒さんたちの驚きはいかばかりだったろうと思います。
 彼女は、まだ53歳でした。
 彼女は体育の先生ですから、私はお会いした73年の頃は、「体格がいいから、いい体育の先生になれるなあ」なんて思っていたものでした。
 姉のBさんと二人と最初に、埼大むつめ祭でも「暴力酒場ひだり」でお会いしたときには、その二人の姉妹の仲のよさに感心しました。二人で見せてくれたクイズの面白さには、私はただただ感心していたものでした。
 そして、こんな可愛い二人の妹のいることに、私はただただ羨ましい思いになったものでした。

 私もAも、東大闘争で逮捕起訴され、その後同じ年の芝浦工大殺人事件でまた逮捕起訴されました。だから、私たちの親は、双方ともに会ってお話をしています。私の父親も、実に稀有な存在だったらしく(だって、靖国神社を大切に思っていて、新左翼の救待なんか、相手にしないもの)、それは面白かったのではないでしょうか。私の父はテレビもよく出ましたからね。
 だからそのときから、私の父も母も、あちらの親のことを心配し、あちらも、私の親を「お元気かなあ?」ときずかっていてくれたはずです。

 今、Cさんを突如亡くされたお母さんの悲しみを思います。今の私には、どうすることもできません。ただただ、Cさんの笑顔を思いだし、そして友人であるAと、その奥さま、妹さん、お母さんとお会いしたときには、できるだけの笑顔で接したいと考えています。
 私には、それしかできることはないのです。

 なお、Cさんの死については、あまりに私は情報不足です。どこでも詳しく知ることができませんでした。教えてくださいれば、そして私の書いた内容で間違いがあれば訂正いたします。

 Cさんの霊に合掌します。

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85e587c2.jpg 明日2007年3月6日発行予定の「マガジン将門第341号」をさきほど午後4時代に予約配信しました。明日午前0時代に配信されます。
 これから、私のクライアントの会社の社長のお通夜に出かけます。
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