将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:かにた婦人の村

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 私は以下に書いています。

   alt="かにた婦人の村と「噫従軍居慰安婦」">(1998.04.27)

 私は1998年の2月14日(土)にここを訪れたことをずっと忘れていません。私が書いたことですが、また繰り返します。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 職員の方の説明の中で、彼女たちの住む部屋には、テレビはないそうです。テレビがあると、それにばかりにかかりきりになるからでしょう。その替わりに食堂にテレビがあって、それを曜日を限って見ることができます。見るのは、みんなの希望でテレビ番組を職員の方が録画するそうです。でもなんと言っても、みなに人気のあるのが「フーテンの寅」さんだそうです。

  寅さんなら、また同じのを見てもいい

というそうです。そしてみんな、実によく見ているそうです。彼女たちが一番飢えているのは、「家族」になるのでしょう。
 あの半端者の寅さんでさえ、優しい家族がいます。どんなになっても歓迎してくれる故郷を持っている寅さんです。そして女性には優しい寅さんです。いや寅さんだけではなく、寅さんの周りにいるどの男性たちも、女性には優しいのです。そんなところにきっとあこがれてしまうのでしょう。渥美清さんが亡くなって、もう寅さんの映画が作られないことには、とても残念なことのようです。
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ここにこの「噫従軍慰安婦」の碑があります。私は以下のように書いています。

  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 この施設は、敷地面積108,911平米という、実に広大な敷地であり高台にあります。館山の旧海軍砲台跡に1965年建てられたものです。ちょうど館山で東京湾を入ってくるだろう敵国軍艦を砲撃できるだろうという砲台跡地です。 この高台の一番上の山の上に「鎮魂碑」がが建てられています。その碑には

    噫従軍慰安婦

と標されてします。
 その場は、ちょうど東京湾の館山沖が見渡せて、晴れた日には富士山も見えるというところで、実に気持のいい広さを感じるところです。
 この鎮魂碑から見た景色がちょうど太平洋戦争にて激戦地になったパラオの風景とそっくりなそうです。そのパラオにて従軍慰安婦として苦労された方が、同じくあの戦争で苦労された方々を鎮魂する碑ということでした。この鎮魂とは慰安婦の方々のみでなく、同じく苦労された兵隊さんも含んでいるという説明でした。
 この碑の前で見た景色を私は忘れることはできないでしょう。どんなにパラオの地で日本へ帰りたかったことだろうなと思うのです。私たちの今の平和を築く礎になった多くの方々を決して忘れてはならないと、私はそのときにも深く思いました。
  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆15071381
 今も思うのです。忘れてはいけないことです。「従軍慰安婦」という言葉は明確にあやまりですが(私の父も義父も外地に行きました。父は中国大陸・インドシナ・シンガホール・ビルマ・スマトマまで、義父は旧満州です)、その従軍した軍隊に従軍慰安婦などというものはいませんでした。
 ただ今もこうしたことを平気で書かれる人がいるということが私はもう許すことができません。

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 12月13日に、かにた婦人の村と「噫従軍慰安婦」(1998.04.27)に、nogaさんから以下のトラックバックがありました。

1. Posted by noga   2011年12月13日 05:48
日本人の歴史の勉強のテーマは、沖縄戦と南京虐殺と従軍慰安婦にテーマが絞られている感がある。その内容は、学校で詳しく教えられているのであろうか。その勉強は、我々の日常生活に役立っているのか。日本人の哲学と関係があるのであろうか。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

 いえ、少なくとも私は中学でも高校でもこれらはまったくなかったと記憶しています。ただ、私はこの「かにた婦人の村」を訪れたことは、実に良かったなあと思っています。 私の娘二人が、阪神・淡路大震災(1995年(平成7年)1月17日(火))にそのあと行きましたものでした。実にいい経験だったと思います。
「フーテンの寅」でも、寅さんが、この震災の跡地で、ボランティアをしている姿があったものでした。
 忘れてはならないことが、この日本にもいくつもあり、それは文書なり、写真なりで、歴史の上でとどめて置くべきです。
 そして歴史なり、いわゆる社会科で繰り返し教えるべきだと思っています。

2016110917
2016110916 1998年の2月14日(土)に私は、千葉県館山市にある「かにた婦人の村」に行ってきました。

  千葉県館山市大賀594
    婦人保護長期収容施設
   かにた婦人の村
     電話 0470-22-22801112120411121205

 この施設は、この施設は、全国の売春婦の方々で、もはや更正できないとみなされた方の長期収容施設です。こうした売春婦の方々の施設は全国で都道府県に1つづつあるのですが、そうした施設は、みな更正して、また社会へ出ていくためにあるわけです。だが、もう社会復帰できないだろうと見なされた方々が、ここに長期収容されています。もうほとんどの方が50代を超えた方々です。ただ、2月16日(月)には岐阜県から36歳の方が入園してくるとのことでした。彼女が最年少になります。
 この施設は、もうすべてを収容者自身で作っています。牛を飼い、牛乳もチーズもバターもパンも野菜も果物も、みんなで作っています。それに実に綺麗な織物も見ました。
 収容されている方とも少しだけお会いしました。土曜日でしたから、昼からは、もう作業がないのです。みな元気に挨拶してくれます。なんだか、本当なら、もっとゆっくりして、彼女たちとたくさんお話したいななんて思いました。
 彼女たちは亡くなると、その遺骨の引取を拒否される家族もいるそうで、それらの方々の遺骨が施設の中にある教会に納骨されていました。
 職員の方の説明の中で、彼女たちの住む部屋には、テレビはないそうです。テレビがあると、それにばかりにかかりきりになるからでしょう。その替わりに食堂にテレビがあって、それを曜日を限って見ることができます。見るのは、みんなの希望でテレビ番組を職員の方が録画するそうです。でもなんと言っても、みなに人気のあるのが「フーテンの寅」さんだそうです。

  寅さんなら、また同じのを見てもいい

というそうです。そしてみんな、実によく見ているそうです。彼女たちが一番飢えているのは、「家族」になるのでしょう。
 あの半端者の寅さんでさえ、優しい家族がいます。どんなになっても歓迎してくれる故郷を持っている寅さんです。そして女性には優しい寅さんです。いや寅さんだけではなく、寅さんの周りにいるどの男性たちも、女性には優しいのです。そんなところにきっとあこがれてしまうのでしょう。渥美清さんが亡くなって、もう寅さんの映画が作られないことには、とても残念なことのようです。
 なんだか、また誰かと一緒に訪れたいところでした。できたら、私は娘二人を連れていきたいと考えています。でも今も実現できていません。

 この施設は、敷地面積108,911平米という、実に広大な敷地であり高台にあります。館山の旧海軍砲台跡に1965年建てられたものです。ちょうど館山で東京湾を入ってくるだろう敵国軍艦を砲撃できるだろうという砲台跡地です。 この高台の一番上の山の上に「鎮魂碑」がが建てられています。その碑には

    噫従軍慰安婦

と標されてします。
 その場は、ちょうど東京湾の館山沖が見渡せて、晴れた日には富士山も見えるというところで、実に気持のいい広さを感じるところです。
 この鎮魂碑から見た景色がちょうど太平洋戦争にて激戦地になったパラオの風景とそっくりなそうです。そのパラオにて従軍慰安婦として苦労された方が、同じくあの戦争で苦労された方々を鎮魂する碑ということでした。この鎮魂とは慰安婦の方々のみでなく、同じく苦労された兵隊さんも含んでいるという説明でした。
 この碑の前で見た景色を私は忘れることはできないでしょう。どんなにパラオの地で日本へ帰りたかったことだろうなと思うのです。私たちの今の平和を築く礎になった多くの方々を決して忘れてはならないと、私はそのときにも深く思いました。
 実はこの「ああ従軍慰安婦」という碑の「ああ」は、「あゝ」、「噫」、「嗚呼」のどの字で書いてあるのか判りません。目の前で見たわけですが、ちょうど逆光であり、明確に判りませんでした。そばにこの鎮魂碑のことを解説してあるパンフ等があるわけではなく、またちょっとこの園の方に聞く雰囲気でもありませんでした。
 この碑でも「噫従軍慰安婦」というのが、この「従軍慰安婦」という言葉が使われた最初のことのようです。そのような説明がありました。だから今でもよく新聞社がこの碑を撮りに来るということでした。

 この施設の中には今でも大きな防空壕等が存在しています。そして園には当初戦地で「慰安婦」として苦労された方が収容されていました。そして今もその経験のある方がいるようです。なにしろ、50代、60代、70代の売春婦の方々ばかりなのですから。
 この園を作られた方は、どうしても売春という行為から逃れられない女性たちを見ているうちに、これはことの本質は何なのだろうかと考えていきました。いくら売春をやめてもやめても、結局はまたそれに戻ってしまう。しかもけっこうなおばあさんになってもやめられないのです。これは「貧しさ」とか「その女性の傾向」というようなことではないのではないのか、ということに気がついたわけです。

 この施設のパンフレットには次のようにあります。

 この日本が、世界にも珍しい「買春天国」と言われた頃、これではいけない……と立ちあがつたのは、クリスチャンの女性でした。その80年におよぶ運動のすえ、やつと「売春防止法」が成立した時、深津文雄牧師は一人の奉仕女を連れて厚生大臣をたずね、コロニーの必要を説いたのです。
 それは、ひとりの人間が、苦しみの海に身を沈めるからには、ただ貧しさだけではあるまい、それに先立つ障害があるのではないか……と思つたからです。 果たせるかな、彼女たちの大部分は、何らかの意味で精神に欠陥をもつ、不運な人々でした。そうした、簡単に社会復帰のできそうもない人々のために、法律には書かれていない「長期収容」と特記された婦人保護施設が、日本で初めて、館山の海軍砲台跡に生まれたのです。
 内外の数知れぬ有識者に協力によつて……。1965年の春のことです。

 要するに私が簡単に言いきってしまえば、実に悪い男たちが、知恵遅れの女性たちを食い物にしているという事実なのです。だから彼女たちは、やめてもやめても、またこの男たちのために売春行為をさせられてきたのです。私たちがこの園でお会いした女性たちは、元気で挨拶はしてくれますが、たしかに知恵遅れの方たちかな、と思えるおばあさんたちでした。
 私はこのことは絶対に許すことができないことだと思っています。いつの世でも卑劣なことで生きている連中はいるわけです。

 私は現在問題になっている「従軍慰安婦」ということも、こうした悪い連中、悪辣な女衒がやってきたことだと思っています。このことだけは許せないことであるわけです。
 そしてそうした被害にあわれた方が勇気を持って訴えだされたことについては、日本という国家がやったことではないが、日本が国家としての継続性を主張する以上、補償していくべきであると思っています。これは国籍を問わず、誰に対しても同じです。国家の継続性を認めなかったのは、レーニン一人でけっこうです。
 レーニンは革命前のロシア帝国の約束した数々の条約や約束をすべて守りませんでした。ただし、中国に対して結んだアイグン条約や北京条約(ロシアはアイグン条約で黒龍江以北を、北京条約にて沿海州を清国から奪い去ります)という自分に有利なものだけはそのままにしました。でも、現在のロシアは実にあの革命前の80年前に遡って、フランスに対して借款を返済し始めました。国家の継続性ということが、近代国家にとって当然のことだからです。
 ただ、問題は国家がやったことでもないのに、国家が補償していくのは、どういうことかということでしょうね。だから、旧満洲におけるのソ連軍の不法行為でも、南太平洋の数々の戦場でのアメリカ軍の不法行為でも、双方ともに、それぞれの国家は認めないでしょうが、でも我が日本はあくまで、先の戦争にて、苦労されて、そして今の時代を作ってきた礎になった方々には、やっていくべきではないのか、と私は思っているのです。国家がやったことでもないのに、各金融機関のバブルの処理を国民の税金で処理していることよりも、もっと当然にやりきれることのように私は思っております。

 この「従軍慰安婦」の問題でテレビ等々での論争を見ると、私は実に嫌になってきます。国による強制連行があったと糾弾するならば、それを言う側はそれを明確に論証すべきです。女衒といわれる業者の中には、悪辣な方法で女性を連れて行った連中もいたことでしょう。だが今この問題で日本という国がやったとしている側は、さも日本国こそが計画的にやったかのような言い掛かりを言い続けています。言い掛かりでないというならば、このことの明確なる証拠を提出すべきです。証拠がない犯罪など、法の前では犯罪ではありません。
 ただ、韓国やフィリピンの「従軍慰安婦」として名乗りだされた方の中には、それこそ日本国による連行なのか、悪辣な女衒による狩り出しなのか、明確に区別できていない方もいるかと思います。そしてそれは彼女たちの責任ではありません。過去の自らの苦しみを恥を忍んで名乗り出た方々に関しては、私はなんらかの補償をしていくべきだと思っています。これは、韓国や台湾の方で日本の軍人や軍属として戦った方にも、軍人恩給等々を支給すべきだ(あるいは希望する方には靖国神社に祭るべきだ)ということと同じです。
 カエサル率いるローマ軍団でも、フランス革命後のナポレオン軍でも、豊臣秀吉軍でも、昔から軍隊と言われるもののそばには、「慰安婦」とでもいう女性たちが大勢ついて歩いていました。これは、日本軍でもイギリス軍でもアメリカ軍でもオランダ軍でも国民党軍でも中共軍でも同じです。私が知る限りの例外は、インパール作戦に従事したインド国民軍です。彼らはインドの独立までは、女性は必要ないと日本軍に言いきったようです。
 それをさも我が日本だけがなぜか卑劣なことを計画的にやったのようなことを言っている人たちが、残念ながら、まだまだいるということだろうと思います。この人たちは、ソ連が敗戦間近の日本に不当な戦争をしかけ、その中で日本の多くの女性たちが、ソ連軍によって強姦強殺されたわけですが、今生きている方々が、もしこのことの補償をソ連(ソ連を継いだロシア)に求めたとしたら、また懸命に運動するのでしょうか。敗戦後日本に進駐してきたアメリカ軍が日本各地で、日本の女性たちを多く強姦したわけですが、この女性たちがれまたアメリカの補償を求めたとしたら、これに対しても同じように支援するのでしょうか。
 また私は、「従軍慰安婦問題」ということでのテレビ等々の論争を見ると、実に嫌になるのは、いわゆる朝日新聞側というか左翼側というか、そちらに対して、腹が立つだけではなく、その反対側にも、簡単にうなずくことができないのです。
 韓国から来られた「元慰安婦」の方の講演会に、老年の方が抗議に来たことがあると毎日新聞に書いてありました。彼ら二人は「元慰安婦」に方に、口々に、「どうせお前らが好きでやったことだろう!」とか叫び続けたそうです。
 残念ながら、こうしたことを私はよく見聞きします。とても腹が立ちます。「左翼進歩派とかいうのが駄目なのは判っていたけれど、右派も全く質が悪いのが多いんだな」と思うことしきりです。とくに、「売春婦のいうことじゃないか」とかでかたずけてしまおうという言動の方がいますが、これこそがあのようなくだらぬ「左翼進歩派」を活かしてしまうものです。
 昔から、民族派とでもいう方には、真面目な方もおいでになるのでしょうが、単に民族差別としか思えない言動をはく方をたくさん見てきました。「反共産主義」を称えるのなら判るのですが、北朝鮮だろうが韓国だろうが、とにかく朝鮮人差別を平気でいい続ける人を多く見てきました。こうした傾向をこの「従軍慰安婦」問題でも感じることが多々あります。
 なんだか、私はこうしたことで「いらいら」してしまうことが、実に嫌なことなのです。
 ある方から以下のような書き込みがありました。

大連においても、見境もなく女たちを襲うソ連兵の防波堤となって、市の有力者の懇請を受け、犠牲となって働いた女性たちがいました。彼女等の勇気有る献身が大和撫子を守ったのです。

 彼女たちの行動に限りなく敬意を感じます。そしてソ連およびスターリンをどうしても憎いと思います。私が学生のときに、三派全学連とともに行動していたわけですが、その中で彼らはマルクス主義共産主義を信奉しながらも、どうして日本共産党民青ではなく、三派系になったのかというと、このスターリン主義が許せないのだ、ということがおおきかったと思います。とくに日ソ不可侵条約を一方的に破り、我が日本の婦女子たちを強姦強殺したソ連そのものを絶対に許せないのだ、という言葉会話はよく聞いたものでした。私はマルクス主義は嫌いでしたが、こんな心情こそはまったく同じだと感じていたものです。

 この「かにた婦人の村」の見聞は、私にはかなりな衝撃でした。村の中に教会(これはすべて手造りの建物です)があり、そこで彼女たちが普段唱うのだろう、賛美歌の歌集を手に取ってみて、さらにその会堂の下にある納骨堂で並んだ遺骨を見ると(彼女たちが死んでも、「親族の恥だから」と遺骨の受け取りを拒絶される家族がいるそうです)、言葉を失ってしまいました。もう涙すら出てこないのです。
 そのあと山道を登って歩いて、あの鎮魂碑に出会いました。そして「噫従軍慰安婦」と標されているのを知ったのです。突如、生々しい現実が私の前に提示されたわけですが、そのときにはもう何の言葉も出てこない感じだけだったのです。そして今も、この「かにた婦人の村」とあの「鎮魂碑」を思うと、まだ同じ状態です。
 私はこの「かにた婦人の村」の「噫従軍慰安婦」の碑の前では、「ここにも、この問題が出てくるのか、どう言ったらいいのだろうか」と思いましたが、ただ、そのときには、その碑とその碑の向いている風景を眺めていただけでした。 私自身はもっともっと、真実を知る努力を続けて行きたいと思っています。そこには、あらゆる偏見(私自身がどうしても持ってしまう偏見を含め)を排除して行きたく思っております。その過程でたくさんの方と話合って行きたく思っています。

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 私の友人の よっしーは にこのUPがありました。

知り合いに誘われて、房総半島の先・館山まで行ってきました。

 私の同級生のKが館山に住んでいますよ。私と同級生(私と同じ専攻生です。ただし彼女は4年で大学を卒業し、私は6年かかりました)の奥さんも、一緒かもしれません(彼女は横浜に住んでいて、ときどき館山にいくそうです)。
 それに私の3年下のTさん(教員になった女性です)も館山の学校の寮に住んでいます。
 それで、館山には、かにた婦人の村があります。ここのことは、私は以下に書いています。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/50937903.html
                 「かにた婦人の村」を今思い出した

 もうここを訪れたことは私には、大変な思い出です。その思い出を私は大事にすると同時に、私の二人の娘もここへ連れて行こうと思っていて、今も果たせないでいます。

 今度の連休に次女ブルータスが、「みんなで来て」と言ってくれているそうなので(あの、私にはそう直接いわないのです。私は少々不満です)、行けるかな、と期待しています。

 あ、トラックバックしたかったけれど、できません。

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「大人の皆さんへ:(3)フィルタリングは理由の説明を」SHIROのポメラ日記の斎藤さんから、以下のコメントがありました。

1. Posted by 斎藤史郎    2009年02月16日 00:44
「SHIROのポメラ日記」の斎藤です。
いつもトラックバックありがとうございます。
どうか「存在価値がない」などと自分を卑下なさらないで下さい。
日本ではなかなかちゃんとした性教育がなされてこなかった歴史があって、大人が子どもにうまく説明できないのも仕方ない面があると思います。
私は学生時代に恋愛について非常に悩んだ時期があって、本屋を巡って恋愛に関する本を探し回りました。しかし恋愛の心の問題についてちゃんと書いているのは女性向けの本ばかりで、男性向けは「落とす、引っかける、モノにする」ような本しか無く、「僕の知りたいのはそんなことじゃない!」と憤った思い出があります。
出会い系サイトの問題なども、本当に防止するためには「男の子へのちゃんとした性教育」がまず必要なんじゃないでしょうか。
お孫さんとも、仲良く楽しく過ごして、大事なことを伝えていけるといいですね。

 ありがとうございます。たしかに、男の子には、「愛というのはどういうことか」ということを学ばせることが大事だなあと思っています。

 SHIROさんは、2月13日のキーパーソンを訪ねる旅研修(告知)を読みますと、千葉県の館山市に行かれるのですね。この館山市には、私は前に書きました(もう私がここへ行きましたのはちょうど11年前のことですね)98-04-29かにた婦人の村と「噫従軍慰安婦」 の「かにた村」があります。
 この1998年の2月14日、私はここのある「戦争で苦労された方々を鎮魂する碑」の前で、何も語れない私になっていました。ただ私は、あの碑の前で、海を眺めていただけでした。私はあのとき、また娘二人とここへ来ようと思っていましたが、まだ実現できていません。
 つい先日も、館山が故郷の方お二人と語らう場があったのですが、お一人の方は、まったくこの施設のことを知らず、もう一人の方は自分の高校時代の後輩がここで働いているということを語ってくれました。
 私は、この村のことを、私の孫にも話して行きます。ただし、それはあと15年も経ってからのことでしょうか。

 この日本という国は、実にとんでもないことをしてしまった過去があるのです。でもそのことを忘れてはならないと私は思っているのです。

 きょうはかなり忙しくなってしまう日ですので、あとは、また別にUPするつもりです。

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 私の「かにた婦人の村」を今思い出した川本久美惠 さんより次のコメントをいただきました。

3. Posted by 川本久美惠    2007年03月28日 22:20
11年10ヶ月お世話になった事務所の引越しでバタバタしていています。
引越しのあいさつ代わりに、じゃじゃ馬日記最終号を配布しようか(旧体制が虎視眈々としているそうですので)、となり、自宅パソコンにデーターがなく、久々に将門webを訪問し、ブログも拝見しました。
お嬢さんおめでとうございます。

「かにた婦人の村」読みました。
テレビで紹介され知っていたつもりでいましたが、分かっていなかった。

従軍慰安婦のこと、分かりやすく説明いただきありがとうございました。
この問題は、左右どちらの側の言い方も嫌悪を覚え、慰安婦にされた方々にただただ胸が詰まる思いのまま思考が停止してしまっていました。

 ありがとうございます。「旧体制」というのは、あの悪質な弁護士や会計士等々が多い連中とその尖兵でやっていた事務所ですね。私は、とにかく私があそこに存在することはそれらのの抑止力にはなっていたのかなあ、という思いでしたが、いつまでもそれにつき合っていられません思いでした。
 とにかく、私は自分の義母の介護が一番大事です。
 私の母は、私の義姉が実によく介護してくれています。もう私は頭が下がる思いです。そして、私のことを弟としてちゃんと遇してくれています。
 私のこの義姉のことで、私の長女おはぎが、「なんでまっちゃん(義姉は町子という名前なので、こう言われています)は、うちのパパと仲がいいの?」なんて聞いたことがあります。義姉は、「ああ、何でかしらね、でも弟だからよ」なんて言っていたような気がします。

 私の次女が結婚できて、もうとにかく感激感動です。あとは、夏に家族旅行で、全部で7人家族の旅行になります。
 でも過去の旅行のときは、ホテルで「じゃ、お風呂いこうぜ」と4人でわいわい行きましても、いざお風呂に入るとなると、妻・おはぎ・ブルータスは3人で入りますが、私は一人です。前に中伊豆に行ったときも、結局温泉には一人で入ります。それで、でも中に入っている人とお喋りでもしようかと思っていると、素敵な大きなお風呂なのですが、中に一人しかいなくて、しかもその人はすぐに出て、私はすぐに独りです。だから、身体を洗って、すぐに部屋に帰り、冷蔵庫からビール出して、独りでテレビ見て飲んでいました。そうすると、3人がにぎやかに帰ってきます。
 でも昨年夏の湯西川温泉のときは、おはぎの彼ミツ君もいてくれたので、温泉は男組が二人でした。
 でもでも、今年から、男組が4人になるのです。女組は、妻・おはぎ・ブルータスと3人のままですが、男組は、私・ミツ君・ナオ君、そして0歳のポコちゃんがいます。ポコちゃんも、立派なちんちんを持っています。これはものすごく嬉しいことです。お風呂のあとの酒が美味しいだろうなあ。

 私が 98-04-29かにた婦人の村と「噫従軍慰安婦」 で次のように書いた内容があります。

 ある方から以下のような書き込みがありました。

>大連においても、見境もなく女たちを襲うソ連兵の防波堤となって、
>市の有力者の懇請を受け、犠牲となって働いた女性たちがいました。
>彼女等の勇気有る献身が大和撫子を守ったのです。

 彼女たちの行動に限りなく敬意を感じます。そしてソ連およびスターリンをどうしても憎いと思います。私が学生のときに、三派全学連とともに行動していたわけですが、その中で彼らはマルクス主義共産主義を信奉しながらも、どうして日本共産党民青ではなく、三派系になったのかというと、このスターリン主義が許せないのだ、ということがおおきかったと思います。とくに日ソ不可侵条約を一方的に破り、我が日本の婦女子たちを強姦強殺したソ連そのものを絶対に許せないのだ、という言葉会話はよく聞いたものでした。私はマルクス主義は嫌いでしたが、こんな心情こそはまったく同じだと感じていたものです。

 このことを私に教えてくれたのは、昭和一けたの女性です。彼女とは靖国神社へ一緒に行ったことがあります。彼女と同じ昭和一けたの男性たちも大勢いたのですが、彼らは、靖国神社の遊就館で、ただただ涙を流している私のことが不思儀だったようです。なぜなら、その涙を大量に流している私が、彼らがいつも嫌っている戦後生まれの団塊の世代で、三派全学連、全共闘で実際に闘っていた私だったからです。そして彼らの多くは、靖国神社も私のようには好きになれないようでした。
 このときに関係の友人たちとは、他でも会いましたことがありますが(私が真っ先にオフ会をやりました)、大正生まれ、明治生まれの方とは、私は話が合うのですが、昭和一けたの方(の多く)とはどうにも、感覚が合わなかったものでした。

 でも川本さんの会社が御徒町に自社ビルを作られたのですね。おめでとうございます。地図で見ると、あのあたりもいいところですね。私は学生のときのアルバイトやその他のことでも、御徒町は親しみを覚えるところなのです。

 あ、それとスカイプはいかがですか。もうバージョンが3.0を超えて、もう実にいい内容になりましたよ。100人までの会議ができますから、たくさんの女性、多くのメンバーと打ち合せをするのには最適だと思いますよ。カメラで互いの顔姿を見ながら会議できます。たとえ、米国でも豪州でも英国でも中国でも御徒町でも、みな何時間でも会議が無料でできます(あ、でも会議は何時間もやっていては、そういう会社は駄目ですが)。
 このごろ、よくスカイプのことを聞かれています。いいことですね。嬉しいです。50代、60代の方とスカイプでお話するのは愉しいです。

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 私の「かにた婦人の村」を今思い出した目森一喜 さんより次のコメントをいただきました。

1. Posted by 目森一喜    2007年03月24日 13:04
 今でも上野や浅草の裏手には街娼が立っています。老婆です。声をかけられてもドギマギしてしまって、断りの言葉も喉につかえてしまいます。
 真冬に、夜目にも安手なコートを着て立っています。それでも、これが彼女たちが自由であるという事ならば、私ごときがそれを侵犯すべきではないのです。
 男も女も、彼女たちの事をまともに考えた人はいないような気がします。彼女たちが身につけているものよりも薄っぺらな倫理をおしつけるのだけは願い下げにしたいものです。
2. Posted by 目森一喜    2007年03月24日 13:08
 私などは子供が結婚すると考えただけで泣きそうになります。で、不覚をとってはならじと、考えない事にしています。
 結婚式には出席しないぞと秘かに決意しております。ああ、いやだ。

 たしかにつらいよね。もうどうしたらいいのだろうと、言葉も胸も苦しい思いになります。

   もう随分昔になりますが、浅草寺の裏手奧のソープランド街の中にあるいくつかのものを見ることで、歩いたことがあります。私の友人で、日本舞謡をやっている人が主催で、大勢の若い女性たちが多かったグループです。ただ、あの街は男が歩くのには、実に大変な思いをするところなので、私たち男性は3人だけだったので、それを15名くらいの若い女性たちが囲んで歩いてくれました。いや、あそこに関東大震災の記念のものやいくつものものがあるのです。
 鴬谷駅を降りると、ときどき派手な女性がタクシーに乗るところに遭遇することがあります。すぐに「ああ、あのソープランド街に向かう娘たちか」とわかるのですが、そして彼女たちは一見すごく明るいのですが、私にはどうにもどう言っていいのか判らなくなります。

 私の次女の結婚式は、ものすごく良かったですよ。実にいい式でした。来てくれている方が、同じ職場の人、何人もの友人たち、そして親族の人たち、みんな二人の結婚を心から祝福してくれていて、それが実に感じられて、もう感激ばかりでした。
 当日のいろいろなものを画像で出したいのですが、でもブルータスの許可を得てからと思っています。それに私は一応新婦の父なんで、写真をちゃんと撮っている時間も余裕もなかったのよ。受付にあった、ウェルカムボード(これは姉おはぎが作ってくれて、そのボードの中には、いくつものことがあるのです)や、二人のキューピッド人形(これは5番目の母であるFさんが素敵な衣装を着させてくれました)も素敵なので、画像にしたいのですが、とにかく私の言い訳としては、もう私には余裕がなかったのよ。
「あ、まずい、俺泣きそうだ」と思うと、もう妻が涙を流していて、それで「あ、俺の涙はまずい」と思う瞬間が何度もありました。
 それとね、あなたも、自分の娘さんの結婚はちゃんとして、ちゃんと出席すべきだと思いますよ。それが親としての大事な義務だと思うな。
 いやそれが済んだら、今度は私なんかは、「あ、今後はじじとしての大事な義務があるんだなあ」とまた継続していくのですが。

 あ、昨日、午後1時頃、有楽町のふるさと会館(という名前だっけ)に行きました。結局酒は買わないで(だってやっぱり一升瓶でないと買えないよ、あそのは4合瓶ばかり)、別なもの買いました。ただし、いつもの王子北口「藤や酒店」で買いましたよ。

   「かにた婦人の村」を今思い出したへのコメントの2 へ

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 私の次女ブルータスが明日結婚することを考えていました。小さなときのブルータス、私に怒っているブル−タス、マリオをやっているブルータス……、いくつものことを思い出します。「明日俺は泣いちゃいけないんだよなあ」なんて思いながら、またいくつものことを思い出します。
 だが突如私に、次女がお嫁にいく千葉県の彼の家の街を思い出したときに、さらにその先の館山市の「婦人保護長期収容施設 かにた婦人の村」の光景を思い出しました。
 この収容施設の海と空が広くの見える広場を思い出しました。

 ここへ私が行きましたのは1998年の2月14日のことです。このときの思い出は以下に書いています。ぜひ読んでみてください。

  http://shomon.net/jokyo/jokyo19981.htm#980429 98-04-29かにた婦人の村と「噫従軍慰安婦」

 私は次のように書きました。

 この施設は、この施設は、全国の売春婦の方々で、もはや更正できないとみなされた方の長期収容施設です。こうした売春婦の方々の施設は全国で都道府県に1つづつあるのですが、そうした施設は、みな更正して、また社会へ出ていくためにあるわけです。だが、もう社会復帰できないだろうと見なされた方々が、ここに長期収容されています。もうほとんどの方が50代を超えた方々です。ただ、2月16日(月)には岐阜県から36歳の方が入園してくるとのことでした。彼女が最年少になります。

 まだまだいくつものことを私は書いています。ぜひ読んでみてください。
 私の次女のように、結婚して幸せに生活できるだろう(もちろん、それは次女とその彼が懸命に頑張っていくだろうからだが)と確信していますが、今もあの園に来ざるをえない女性たちがいます。
 彼女たちも、みな私の娘のように、結婚して家庭を築きたい気持も資格もあるのです。でもなぜか、その道が閉ざされてしまった方々なのです。
 私は以下のように書きました。

 この「かにた婦人の村」の見聞は、私にはかなりな衝撃でした。村の中に教会(これはすべて手造りの建物です)があり、そこで彼女たちが普段唱うのだろう、賛美歌の歌集を手に取ってみて、さらにその会堂の下にある納骨堂で並んだ遺骨を見ると(彼女たちが死んでも、「親族の恥だから」と遺骨の受け取りを拒絶される家族がいるそうです)、言葉を失ってしまいました。もう涙すら出てこないのです。

 悲しいと、悔しいと、もう涙が出てこない時があるのです。この時の私がそうでした。
 ぜひ、多くの方にここを知ってほしいです。そして、私は次女夫妻と一緒に、ここに訪れてみたいなと痛烈に思いました。

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