将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:むつめ祭

曲名  狂わせたいの
作詞  阿久  悠
作曲  徳倉俊一
 唄   山本リンダ

一 ぼやぼやしてたら 私は誰かの
  いいこになっちゃうよ
  これほど可愛い女は二度とは
  お目にはかかれない
  あなたに抱かれて かげろうみたいに
  ゆらゆらゆれるのよ
  時には涙をやさしく流して
  すがってみせていい
  私は恋の女 いつでも恋のどれい
  好き好き好きで燃えて 狂わせたいの
  からだにつないだ鎖をはずして
  どこかへつれてって
  必ずすてきな夢みる気分に
  あなたをしてあげる
二 ぼやぼやしてたら 私は誰かの
  いいこになっちゃうよ
  欲しけりゃ欲しいとこころとからだで
  はっきり言っとくれ
  一つの国でも 私に賭けても
  決して損はない
  今日から毎日 花園みたいな
  くらしが出来るのさ
  私は恋の女 いつでも恋のどれい
  好き好き好きで燃えて 狂わせたいの
  真赤に色づく 私のくちびる
  こころを焦がすのよ
  この目を見たならあなたは二度とは
  忘れてくらせない
        (1972年)

 この歌がはやったときに、私の作ったテーマが埼玉大学のむつめ祭の統一テーマとなりました。私が大学6年の時のことです。以下その時のプログラムに書いた文章です。

  *****************************
     狂わせたいの
     …………花弁はうずく女は叫ぶ
            俺の墓はどこだ!……………

12061409 60年から70年が「西田佐知子から藤圭子へ」の時代であり、内に黛ジュン、小川知子を含むとすれば、今は「欧陽菲菲から山本リンダへ」の時節、腰の直線運動から回転運動への変遷の時といえるだろう。
 我々は欧陽菲菲の出現は、日帝の蒋介石に対する最後の義理だてて勘ぐったものだったが、その歌と共に左右に揺れ動く腰には純粋に今までの女性歌手の腰の動きを完全に総括した最高のものがある。昔、「安保粉砕!」の声を聞いた御堂筋は、今、欧陽菲菲の腰をどう感じているのだろうか。少なくとも、たとえ豊かに見えようとも、八三センチのヒップには、もはや大陸反攻の夢も影も見えないのだ。
 欧陽菲菲の腰が歌に付随した腰であるとすれば、山本リンダの場合は、腰が独立、歌が腰の前に拡散してしまっているのである。そして、前後左右の直線運動ではなく、華麗なる回転運動なのである。
 山本リンダが、あの大胆な衣装で「どうにもとまらない」と唄い出した時、我々はまず驚異し、そしてどんなにテレビの画面にしがみついたことだろう。何故あんなに腰が回転できるのか。何故あんなにまで官能的なのか。もはや山本リンダには、横浜の港の暗い空は見ることはできない。見えるとすれば、敗戦の日の真青な空と白い肌との、奇妙な矛盾だけである。
 昭和20年8月15日、日本はかつてないほどの澄みきった空をもった。「アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ暗イウチハマダ滅亡セヌ」(太宰治)。滅亡への指向をもった青空を、「戦後」は欺瞞と痴呆の末に曇らせてしまった。

   きょう咲きてあす散る花の我が身かな
     いかでその香を清くとどめん

 この益良夫の心を、「戦後」はどれだけ理解したろうか。西田佐知子や藤圭子のもっているものが、「戦後への抵抗」の暗さとすれば、そんな「戦後」の曇った空に生まれたのが、山本リンダ24才の白い肌と腰の回転運動である。 西田佐知子が「アカシアの雨にうたれて、このまま死んでしまいたい」と唄ったとき、我々の先輩たちは、たとえ死んでも、その先を見きわめたいという思いをこめたろう。そして我々は、小川知子が『処女だ』と言い張ったときは、かすかに笑い、黛ジュンの揺れるバストを思いながら、「雲にのりたい」と唄ったものだった。夜汚いバリケードの中で藤圭子の歌を聴いたときも、拘置所で独り、「……どう咲きゃいいのさこのわたし……」と聞いたときにも、我々にはまだその淋しさを突きぬけんとする思いがあった。「花弁がうずき女は叫び、男は夜霧に消えていく」、やがて夜霧の彼方から、必ず戻ってくるだろう……。そんな思いがまだあった。
「雨降ってぢ固まる」我々はやっと、ぢを固めて戻ってきた。もはや我々はどこへも行きはしない。そんな思いは棄ててしまった。今の我々が求めるのは、政治ではない、思想ではない、女の腰であり、捜すのは俺たちの墓場である。そして自らの墓を見つけ出したなら、すぐに粉々に打ち壊してしまうだろう。我々は死に場所を求めているわけではない。花弁のうずきを目の前にし、耳をふさぐことなく、女の叫びを聞きながら、自らの観念の所産を打ち壊すのだ。 今、山本リンダはノーブラ、ノーパンの真赤な衣装で「狂わせたいの」と登場してきた。またも激烈な回転運動で。彼女のあの姿、あの腰の回転運動を見て、狂わない男がいるだろうか。ただ、どんな男も求めるものは同じでも、突きぬけられるのは我々である。
 さあ、今年も又、徹底して酒を飲み、べっちょ的にべちょろう。
                    (埼大歴史研究会ダッケ派)
                 −第23回むつめ祭プログラムより−
  *****************************

 このテーマは大変に物議をかもし出しました。まず当時の日本共産党民青が、大量のビラをまいて、かつ建て看板を大量動員して、このテーマをけなしました。なんでも、東大や東北大の学園祭のテーマは素晴らしいが、埼大のむつめのは最低だというような内容です。しかもそれを比較して書いてくれました。ほとんど、私のが一番いいじゃないかと思わせるのですが(私のがいいわけではない、それらの大学のはすべて日共のテーマだったからだ)、私はたいへんに嬉しかった。なんであんなにまで、気にいって宣伝してくれるのだろうと、そのうち「日共諸君ありがとう」というビラを出しました。このビラほど大量に読まれたビラもありません。その後、日共は沈黙してしまいました。
12061410 私はそのビラに、ついでに私のテーマおよびむつめ祭をけなした、女解放戦線という連中と、共産同叛旗派を徹底批判しました。ついでに、革マル派もけなしました。叛旗派には私のシンパがたくさんいたので、可哀想でした。女解放とかいう連中は、その後10年くらいたって私にあやまってきました。革マル派はなんにしろ永遠に許しません。
 しかしこの時には、実は下宿にテレビなんかなかったから、山本リンダの歌を聞くのはなかなか機会がなかったのです。テレビの見すぎだなんていわれたのですが、見すぎなほどテレビを見たいななんて思いながら、いろいろ頑張っていたのを思い出します。(1998.11.01)

11092210 私が自分の文書の中にときどき「日の丸」とか「日の丸土建」とか書いていることの解説です。
 私もこの「日の丸」の一員なのです。もともとは北浦和東口大東というところにあった土建屋さんの集団でした。
 もともとは早稲田の鈴木さんという活動家がやりはじめた土建のアルバイト集団だったようです。1971年後半頃から北浦和の大東に飯場を構え、法政早稲田の左翼活動家を中心として活発に仕事をしだしました。次第に他の大学の活動家も増え、さらに浪人、本物の土方も出てきました。またもともとは左翼活動家ばかりだったのですが、そうでない人も加わってきました。そのころ私たち埼大の活動家連と知りあったわけです。
 私の3年下の後輩から、このごろ夜にある飲み屋で、どうも「ベ平連」チックな土方連中と出会うから、そのうちどうせベ平連だと喧嘩になるにきまっているから、そのときにはきてくれといわれました。私は「ほんとにベ平連なのかよ?」というと、あんなに髪の長いのがいるからベ平連だなどといいます。私もベ平連じゃ、どうせ喧嘩だなとばかり思っていました(私は当時からベ平連のような市民主義運動は大嫌いでした)。
 ところが、その後輩が「いや、あの土方の連中は同じ仲間だったよ」というし、しかも名前が「日の丸土建」だというので、もうそれはみんなすっかり気に入ってしまいました。その過程にはこんなことがあったようです。
 北浦和の「赤と黒」という夜中やっている飲み屋で、私の後輩たちと日の丸のある連中が一緒になりました。そのとき店のテレビで愛媛大学のバリケードが大学職員と機動隊から封鎖解除されるところがニュースで放映されたらしいのです。見ていて、私の後輩たちからは、「頭(アッタマ)来るな!」という怒りの声が発せられます。みんな左翼全共闘の活動家なのですから。ところが同時に日の丸の土方の人たちからも、同じ声が発せられたのです。それでお互いに、「何だ仲間なのか!」と早速一緒に飲み出すことになったわけです。
「日の丸」の諸君も同じ左翼活動家だったわけです。
 それから私たち埼大と日の丸は急速に仲良くなっていきました。私たち埼大のグループもみんな土方の仕事をするようになりました。だが日の丸の人たちには、私たち埼大グループは仕事の上では素人ばかりで、最初は困ったのではないでしょうか。とくに私などは、力はないし、仕事を覚えられないで、こまった奴だったと思います。でもそんなことは一言もいうことなく、一緒に懸命に仕事しました。だいたいに3つの現場をもっていて、よく働きました。
 朝飯場に行くと、ちゃんと朝飯が食べられます。昼は飯場に帰ってくるか、御弁当かで食べられます。夕食も同じです。それが実に美味しい食事なのです。私たち埼大は貧しい連中ばかりでしたから、こんなに美味しい食事ができるのには、心から感動してしまいました。このとき食事の担当だったのが、Aーちゃんという(当時法政の学生で佐々木雅治さん、石川県生まれ)、今では私のクライアントの社長です。
 当時の社長(土建屋のおやじ)はチィーちゃん(法政で、千葉均さんという私より2歳下の秋田湯沢出身、現在は秋田県である流通グループをやっている、また現在熱心な異常な経営コンサルタントでもある)といい、とんでもないはりきりやでした。これほど土方に頑張っている人はいないだろうというくらいの人です。
 またなべさん(法政、渡辺正夫さん、私と同じ年、なんとプロレタリア軍団だったという、東京出身)が副社長格で、これまた土方の仕事に執念を燃やしているいい男です。先日私のところにロータスを習いにきました。
 会計をやっていたのが又さん(法政、中原優、法政大の文連の委員長だった、鳥取生まれ)で、この人は、毎月飲み屋にたまったつけを払いにいったりする係でした。現在は沖縄で働いています。ときどき東京に出てきますが、けっこう一緒に飲んでいます。
 その他たくさんいました。現在石川良一さんという東京都稲城市の市長になった人も同じ日の丸の仲間でした。みんな今のハンドル名のように、「一徳(いっとく)」「一朗」「しんご」「こうぞう」「きよしあんちゃん」「ハナちゃん」等々と呼んでいたので、当時はその当人が学生なのかかつ左翼なのかどうなのか判らなかったものです。
 ただこの「日の丸土建」の大きな特長は、おやじも食事担当も誰もかもが、同一賃金だったことです。これは驚くべき立派なことでした。私のような仕事の出来ない人も、チィーちゃんもみんな同じなのです。
 私たち埼大の連中も次第に大勢が加わるようになりました。埼大の連中の特色は、仕事はまだうまく出来ないが、とにかくみんな大酒飲みのことと、若い連中はまだ学生運動の現役の活動をやっていたことでしょうか。
 この日の丸土建との大きな思い出は、一緒に仲よく腹いっぱい飲んで元気に歌を唄い踊っていたことです。日の丸も当初飯場を建てた頃は、仕事の後には活動家らしく学習会などといって「ドイツイデオロギー」の読書会などをやっていたらしいのですが、そのうちに土方で疲れた身体には酒が合うようになってきたようです。その酒を飲むことに関して、私たち埼大と違う点といえば、私たちがヒサンな飲み屋ばかり好むのに対して、彼等は少しはいい飲み屋で飲んでいることでした。これはやはり、彼等が普通に働く労働者だったからでしょうか。
 でもよく日の丸対埼大などと歌合戦をやったものです。これほど愉しく歌を唄える集団も他にはないといえるかと思います。花見なんていうと、黒山の人だかりができたものです。よく飲んで唄って踊りました。また私たち埼大の「むつめ祭」で野球大会をやったりしたものです。

 この日の丸土建が突如として沖縄に行くことになりました。海洋博の行われる本部半島への送電線を作る仕事です。私たちは、あとから行った埼大グループを晴見埠頭で馬鹿馬鹿しく盛大に大宴会して(晴海で)おくりました。いま思えばなんで埼大のグループは船でいったのだろうか。貧しかったのね。私の村本という解放派の後輩は、晴海で飲んで、私と「昭和維新の歌」を船と岸壁で歌いあってから、沖縄に着くまで3日間何の記憶も無かったといいます。つまり、埼大かつ日の丸らしくずっと飲んでいたのね。
 私も沖縄に行きました。たしか浦和で飲んでいたはずなのですが、もうあまりの飲みすぎの世界に嫌になって逃げ出したら、名古屋京都大阪と飲んで、ついでに鹿児島で執拗に飲んでいたはずなのですが、気がついたら沖縄でした。なんでか気がついたら、非常に焼酎くさい息で、現場の鉄塔にとりついてハッカ(鉄筋を結束する道具)使っていました。なんで俺はこんなところでまたヘルメットかぶって、なんでまた働いているのかなというところで記憶がもどりました。また日の丸の世界でした。
 この沖縄での日の丸の世界はまた怖ろしいくらい愉しい世界でした。飯場での私のベットの上にいた加藤くんは、沖縄にも大学入試の参考書をもってきていた高校生だったのですが、当然挫折します。私が悪いのじゃないよ(本日どうせ会います)。
 日の丸はよく飲みました。よく働きました。社長のチィーちゃんはいまでも、飲むとすぐ裸になります。鍛えた身体を誇っているのです。川や海があれば、すぐ脱いで飛び込みます。いつでもどんなところでも(つまり寒い海でも、きたない川でも日和らず)、飛び込みます。私たちも仕方ないから続いて飛び込んだりします(もうやめてほしいな、もう死人が出るよ)。あるとき、彼がやにはに裸になるのに感動して、また裸になった飲み屋のママがいて、私たちは「いったい何というでたらめな世界だ」と感動したものです。
 この日の丸がその後、東京で香具師をやっていました。私はなべさんが作った綺麗なろうそくをチィーちゃんのやっている露店で大量に買って、クリスマスのプレゼントにたくさんの女性たちに配りました。みんな非常に喜んでくれました。その後またいろんなことがあって、いまの時代になりました。
 でもいまでも日の丸は不滅です。沖縄でハーリー祭りがあって、そのボート漕ぎ競争に出場したのを思い出します。飯場のある村あげての大祭りでした。私たちは必死に船を漕ぎました(ただし、私周は漕がないで船首で大声をあげていただけ)。そのときのみんなの一致した息を懐かしく思い出します。埼大も何もかもみんな日の丸でした。嬉しい愉しい、笑いと涙の瞬間でした。私はいまもこの瞬間を大事に思っているのです。
 本日この日の丸の久し振りの宴会があります。25、6人が全国から集まるといいます。一体いつまで飲んでいることでしょうか。またみんなで、どこかで泳いだりするのかな。少なくとも歌合戦、踊り合戦はしますよ。私だって元気です。私だって日の丸なのです。あまりの感動の思いに、私は昨夜、前夜祭をやってしまいました。きょうは昼はみんなわくわくしながら仕事して、そうして会ってどんなに飲むのかな。いつまで飲むのかな。きょうは午後7時から中野北口の「すてら」という飲み屋(この店は「こうぞう」くんという人の店、何故「こうぞう」というかと言うと、彼は姓を岡本といって、昔テルアビブでの赤軍派岡本公三からとったもの)で開始します。
 いついつまでも、私は日の丸です。

   Wednesday, October 27, 2004 11:10 PM
やれやれ
 日本列島踏んだり蹴ったりですね。その上台風24号が東に向きを変えたので23号と同じコースをたどったらどうなることかと思っていましたが、途中で消滅したそうで、天も憐れみ給うたのでしょうか。私は大きな地震の経験はありませんが、もしや先生は地震までドラマチックな経験がおありでは?

   Saturday, October 30, 2004 8:55 AM
Re: やれやれ

日本列島踏んだり蹴ったりですね。その上台風24号が東に向きを変えたので23号と同じコースをたどったらどうなることかと思っていましたが、途中で消滅したそうで、天も憐れみ給うたのでしょうか。

11090402 本当に良かったですね。
 大昔、まだ二人の娘が保育園に行っている頃の冬に、もう随分何日も雪が降ったことがありました。私は雪は好きなのですが(私は雪国の育ちだと思い込んでいます)、この関東で降る雪は、もう道をただただ汚して、大変なだけです。二人の娘は、もう雪ばかりで、お祖母ちゃんもお祖父ちゃんも二人を保育園に迎えに来るのが大変なので、

  きょうおばあちゃんと3人で、神様に、「もう雪を降らせない
  でよ」って頼んだよ

と言っていたことがあります。二人は真剣に神様に頼んだのでしょう。そのあと雪が降らなくなりました。あのころ、二人によく絵本を読んであげていたのですが、「神様、あのね」という本がありました。内容は覚えていないのですが、「神様、あのね、お願いがあるの」なんていう内容があったのじゃないかな。もう上の子は26歳になりました(誕生日があったばかり)。次女はもうすぐ25歳になります。

私は大きな地震の経験はありませんが、もしや先生は地震までドラマチックな経験がおありでは?

 いえ、地震の遭った経験はないですね。父母から、関東大震災の恐ろしさについては何度も聞いたことがあります。
 たった今、私の後輩から携帯メールが届きました。私もすぐに返信しました。けっこうな量を送ったから驚いたでしょうね。
 いえ、本日は埼玉大学のむつめ祭という学園祭に行くのですが、その彼が比較的若いので(私より26歳くらい下です)、現役の学生(ただの一般学生ではなく、この学園祭を仕切っている連中)を知っているので、彼に昨日電話したのです。そうすると、しばらくして、彼から返事があり、「今修学旅行で、沖縄に来ているんです」というのです。彼はある高校の先生なのです。
 それでまた携帯メールの交換になりました。
 いや、なにしろ、私はもう56歳でしょう。むつめ祭へ行きましたら、ただ飲んでいるだけなのですが、飲むところが問題なのです。「暴力酒場ひだり」というところが、私たちの飲む場なのですが、学生諸君は忙しくて、この飲み屋を建設するのが大変なのです。なにしろ、畳をひいて、毛布やこたつを用意して、蒲団もいります。そして、酒と、なにかおでんかなべ物か、なにかを豪華に作らないとならないのです。私も過去ずっとやってきましたがね、もう56歳でしょう。もう飲むだけ(それとこの「ひだり」で延々話をすることと、ときどき詩吟をやりますし、パソコンでインターネットは常時やっています)にしてほしいのですよね。
 彼がいると、そのすべてをやってくれるのです。私だと、ただ飲むだけはすぐできますが、畳や蒲団やこたつをどこからもってきていいのか判らないのです。なんか、毎年リヤカーでどっかから運んでくるんですよ。埼大は学生数は少ないが、実に大きな大学なので、どっかにとりに行きまして、運んでくる手段が私では判らないです。
 でもとにかく、彼は本日沖縄から帰って、夜むつめ祭に来るということです。ただ、埼玉大学はずっと24時間オープンの学園祭だったのですが、昨年から夜は学園祭ができなくなりました。文部官僚のしめつけなのですが、でも、当然私たちはそんなの知ったことじゃありません。
 それで、夕方から夜にかけて、「暴力酒場ひだり」を大学の職員が見にきます。「ひだりは、とびらをあけっぱなしなので、ときどき彼らと私の目が会います。それで、彼らは「やっぱり、周が来ている」と確認して、やっぱり今年も何も言い出せません。まあ、彼らもそれで嬉しいのでしょうがね。
 私は毎年ここで2泊してただただ飲み続けているのですが、今年は明日朝までしか飲んでいられません。明日は、文教大学父母教千葉支部の研修会がありまして、12時に千葉にいなくてはいけないのです。そこで、私は司会なのです。そして懇親会も司会だといいます。だから、私は酒を抜いて、素面の顔になり、司会になります。そして懇親会で、詩吟をやって、そしてなんとかそれを終えて、午後6時から、根津で、後輩のシャンソン歌手のコンサートに行きます、もうここで、たくさんの知り合いに会うでしょう。
 そして昔なら、またむつめ祭に帰るのですが、今の私は月曜日にメルマガ発刊があります。
 まあ、こんなことですね。萩原周二
(第224号 2004.11.30)

   Friday, July 23, 2004 11:15 PM
了解です。了解です。

 前にも書きましたが、メールはたくさんいただくのですが、メルマガに載せられるというものは実にあまりないのですよ。

11082207 はい、確かに私は教えていただきましたが、他のかたがたはご存知ないでしょうからね。それに半分は冗談ですよ。承服しかねるメールっていったいどんなのか楽しみです。

 それから、先生、少し誤解していらっしゃいますね。。私が期待しているのは日本版「アベラールとエロイーズ」ではなく、タイトルをつけるなら「我が青春 闘争と梁山泊の仲間達 その一」「その二 後日談」というようなものです。もちろん恋模様も織り込んでいただきます。

 温泉新聞社ってもしかっすると椎名誠さんが著書のどれかで面接に行って温泉の名簿を熱海に売りにいかされたと書いている会社ではないですか。

 でも、読みなおすと、あまりに誤字が多くてこれまた羞しいです。

 確かに先生にしては少し多かったです。これからの飲み会への期待で気もそぞろかなと思って少し羨ましかったです。

 漢字の読み方ありがとうございます。こういうことを尋ねて気軽に返事をいただけるなんてほんとありがたいです。

   Saturday, July 24, 2004 9:50 AM
Re: 了解です。了解です。


それから、先生、少し誤解していらしゃいますね。。私が期待しているのは日本版「アベラールとエロイーズ」ではなく、タイトルをつけるなら「我が青春 闘争と梁山泊の仲間達 その一」「その二 後日談」というようなものです。もちろん恋模様も織り込んでいただきます。

 あ、なるほど納得です。アベラールという人は、このエロイーズとの愛の書簡も有名なのですが、私は彼の神学の考え方、「唯名論」も好きですね。以下にほんの少しだけ、そのことを書きました。

  ウンベルト・エーコ「薔薇の名前」

 でも「梁山泊」なんていいますと、なんだか懐かしく思いだすことがあります。私たちは、自分の埼玉大学で、今も私たちの後輩が「むつめ祭」という学園祭を運営実行しています。この今も、日本共産党だけとは非和解的な関係をそのまま続けている学園祭です。
 このむつめ祭で、私たちが行くと、必ずたむろして飲んでいるところが、「暴力酒場ひだり」といいます。このむつめ祭の期間だけ開かれる飲み屋です。ここに、私たち大昔の活動家、その後の活動家、大学の職員、先生方なんかが集まっていつも飲んでいます。もう30年以上続いています。この「ひだり」は、とにかく酒があって、料金はとりません。ただ、私たちのカンパで成り立っています。私が学生の頃には、その前に飯場に入って働いていて、その金で酒を購入していたものでした。私が6年のときには、4斗樽を二つ買ったものでした。
 ところで、この私が6年のときは、この「暴力酒場ひだり」だけじゃまずいのではないかという事態がありました。この年は、私たちは、埼玉県関係の国会議員や、県会議員、市会議員等々に寄付を仰ぎ(ただし、もちろん日共は敵ですから、関係ありません)、集めました。でも、それら寄付に応じてくれた方には、このむつめ祭に招待しました。でも、その人たちを「暴力酒場ひだり」に来てもらうのは、まずいのです。ここは、やっぱり私のような馬鹿な元左翼が、ときどき暴力をふるうようなところなんで、自民党の国会議員なんかおいでなるとまずいじゃないですか。それで、こことは別に、同じ学部校舎内なのですが、3階には「ひだり」なんですが、1階に「ブキャランゼルーム『梁山泊』」という店を作りました。実に綺麗なお店で、綺麗な女の子を置いてあります。ここへ行くと、私も紳士のような態度になります。
 今この『梁山泊』が懐かしいのです。活動家の女の子というのは、けっこう美人が多かったので、実に愉しかったのです。
 ただねえ、この『梁山泊』では、みな紳士でも、上の『ひだり』へ行くと、途端に軍歌を唱いだしたりして、ひどい集団になったものでした。

温泉新聞社ってもしかすると椎名誠さんが著書のどれかで面接に行って温泉の名簿を熱海に売りにいかされたと書いている会社ではないですか。

 その通りです。彼の「哀愁の街に霧が降るのだ」に書いてある業界紙です。ただ小説の中では、神田の野菜店の2階になっていますが、事実は魚屋の2階でして、実際の新聞社は、小説で描かれているよりも悲惨でした。
 椎名さんが書かれている「売る本」は「温泉の名簿」ではなく、「東京旅行業者営業所便覧(地図入り)」というものでした。当時東京だけで、やく3千社の旅行業者の営業所があり、観光旅館ホテルは、そこへ、自社のパンフレットを持って営業に行く必要があるわけなんです(これは今も同じでしょうけれど)。それに、便利に使えるので、あの資料は評判は良かったのですよ。だから、椎名さんのやったのは、けっこうそれほど大変ではなかったはずなんです。
 私なんかは、各温泉旅館ホテルの、新聞への広告費を集金に行ったのです。でも、旅館・ホテルの側は、自分のほうから広告を出したという意識をまったく持っていません(そりゃそうですよ、実際に自分からは出していないのが事実なんですから)。
 でもね、集金できなければ、こちらは、飢え死にしちゃうんですよ。なにしろ、月末に5千円だけ渡されて(もう誰も、この5千円しか持っていないのです。何しろ月末で、給料は毎月5日払いだったから、もう金がないのです。すなわち私たちが、集金してこないと、給料は出ないのです。
 もう夜暗くなるころ、温泉街に着きます。交通費と昼飯くらいで、もう5千円はなくなっています。もう集金しないと、飢えるしかないのです。それに野宿するわけにはいきません。
 最初、私は鬼怒川温泉に行ったのですが、行く前に、会社の林君(実は社長が、小林といい、長男が森君といい、次男が林君と言って、みなそこの社員で幹部だった)に、「そうすると、今夜はどこへ泊まったら、いいんですか?」と聞きました。以下その会話です。

 林「行くのは、鬼怒川か、………ああ、どこでも泊まれるよ」
 周「そうすると、幾ら(の料金)で泊まればいいんですか?」
 林「どこでも二四(にいよん)のコミコミだよ」
 周「え、にいよんのコミコミってなんですか?」
 林「バカだな、そんなことも知らないのか。2,400円で、税
  サービス料込みだということだよ」
 周「え、今どき2,400円なんかで泊まれるんですか?」
 林「ばか、どこでも泊まれるよ」
 周「………………………………」
 林「ただし、二四のコミコミと言っても、現金を払うんじゃない
  よ、支払いは、広告費と相殺だ」
 周「えッ! ………………………………」

 当時は安い観光ホテルで、5千円で、税サービス料別という時代でした。それでももう私は出かけます。
 もう暗くなった鬼怒川に着いて、路上番頭の声をはねのけ、まずあるホテルで「温泉新聞ですが、集金に来ました」とはじめます。
 そこではじめて判ります。相手が怒り出す雰囲気が判ります。でも、私はもう逃げるわけには行かないのです。
 かくして、その日はあるホテルで泊まって、ビールを飲んで、しばし考え、翌朝から、また激しい戦いになりました。そして、ほぼ鬼怒川のホテルを軒並みあたり、次は湯西川温泉へ行き、そして次は日光湯元温泉です。ここでまた夜になり、私は「広告費と相殺」で泊まります(ただし、相殺をいうのは、朝支払いの時)。もうこの日まで、結構な金額を集金できていました。
 翌日は、那須温泉。もう山の中を大声で唄いながら歩いていました。また暗くなり泊まります。7月30日に出発したので、もう8月1日です。
 翌日8月2日、今度は塩原温泉です。長い温泉街をひたすら歩きます。もう夜になります。いくつか集金はできましたが、この日はどのホテルも満室で、泊まれるところがありません。中には、「ウチは振り込んでいるよ」という真面目なところもあります。あ、それは塩原ガーデンでした。銀行の振込書を見せてくれました。私は「きょうの、ザイールでの、フォアマン対アリ戦はどうなりました?」なんて聞いたら、そのホテルマンは、「あれはすごい戦いだったよ、アリが勝ったんだよ」なんて興奮して教えてくれたものです。
 でも暗くなった温泉街で不安になった私は、会社に電話しました。どこへ泊まったらいいのか聞くためです。編集長の清水さんが電話に出ました。

 清水「お前今どこだ?」
 周「塩原です。今夜どこへ泊まったらいいのか、困っているんで
  す」
 清水「どこでも泊まれるよ。でもきょうは何日だ、2日じゃない
  か。集金は月末だけでいいよ。もう帰ってこい。適当でいいん
  だよ。それで、どこへ行ったんだ」
 周「鬼怒川から、日光、昨日那須温泉で、今塩原です」
 清水「え、それは一番きついところだよ。それで一体いくら集金
  した」
 周「○○です」
 清水「え、よく、あんなきついところで、それだけ集金できたな。
  もういいよ。帰ってこい」

 かくして、私はもう泊まれそうなところもないので、帰りました。当時住んでいた北浦和へ帰って、すぐ友人と飲み出しました。飲む前に彼女の自宅へ電話して、いろいろと報告しました。
 でも、思えば、どうでもいい思い出話でごめんなさい。昨年温泉新聞の社長が亡くなりまして、温泉新聞もなくなりましたから、「もう書いてもいいかな」なんてところなものですから、今後書いていこうと思っているんです。
 この温泉新聞での同僚のことを以下に書いてあります。

 川尻久夫さんのこと

漢字の読み方ありがとうございます。こういうことを尋ねて気軽に返事をいただけるなんてほんとありがたいです。

 漢字の読みに関しては、西郷南洲のことは、タモリのトリビアでそのまま出されていました。帰宅したら、次女が「西郷隆盛って…………………なんだって。知っていた」というから、「知っているよ、…………って話だろう」と私も次々と話したものでした。娘二人にはいつも、「その話、トリビアに出してよ、面白いよ」といわれる話を、私はいつも娘たちにしていますよ。萩原周二
(第212号 2004.09.06)

11080607 やっと私のマンションの理事会が終わりました。長い会合でした。さて、これからむつめ祭へ出かけます。ただ埼大まで着くのにこれがまた時間がかかるんですな。仕方ないでしょうね。私は67、68年のバス闘争の気持で出かけますから。(10/31/98 15:39:55)

10121408 あ、そうですね、この会は毎年やっています。でももうみんな歳をとりまして、ただのんびり飲むだけです。
 埼玉大学の関係の忘年会といいましても、昔の三派全学連時代の過激派、全共闘、埼玉大学むつめ祭の関係者です。あ、思想的には、私のような国粋主義者もいます。ですから、みんな多くの方は来なくてもいいです。来ても話が合わないよ。あ、インターネットとパソコンの話はおおいにしましょう。
 ただ、とにかく私をはじめとして、歳をとりました。ただひたすらに延々と飲んでいます。

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 周の漢詩入門「曹丕『善哉行』」へのコメント へのコメントナミちゃんが次のコメントをくれました。もう曹丕の詩の話とはかけ離れているから、題名を替えました。

1. Posted by なみんと    2007年10月17日 10:05
周さん!おはようございま〜す。
周さんの記憶力の確かさ・・スゴイ!!
そうでした〜大学二年の時でした。一瞬迷ったのですが・・三年生の時はまた違ったむつめ祭でした。
ありがとうございま〜す。

 あ、よかった。これで私の記憶も間違いなかったんだ。だからナミちゃんは、私が5年の4月に入学してきたんですね。そうすると、実は私は東葛高校の同窓会の人たちとも飲んだことがあるのですが、あの人たちもきっとあなたのことは知っていますね。
 千駄木の「浅野」のご主人が東葛高校出身で、その関係で知り合って、その人たちの何人かがよく行く御茶ノ水の飲み屋に行って飲んだことがあるのよ。それと、「浅野」でもたまに会うことがあります。

 あなたが三年のときは、「いついつまでもおともだち」のテーマのときでしたね。あのときに、実は私は「みんなおともだち」なんていうテーマを考えていたのよ。むつめ祭の後輩たちが相談に来たら、それを言おうと思っていたものです。私は歌のほうの「いついつまでもおともだち」は全然知らなかったのね。だから、このメインテーマになったときに、私は大変に嬉しかったものです。
 このメインテーマを考えた箱崎氏とは、何度かつき合いがありました。彼が取締役を務める会社も何度かコンサルティングでつき合ったものです。ただ箱崎氏は今群馬の田舎に住んでいるね。なんだか、彼は都会ですごす生活は嫌なようです。

 むつめ祭は、ずっと若い若い世代ともつき合いがありました。いつも「暴力酒場ひだり」で飲んでいると、後輩の後輩が、むつめ祭では大先輩という感じになって、そんな光景を何年も見てきたものです。大学の事務官も、「今年大学に就職したのです」と言っていた人が、もうベテランになってきて、また後輩の事務官や若い先生を連れてきたりしたものです。
 でもね、むつめ祭はいつもメンバーが足りなくて、「ひだり」を建設もできなくなって、でも私は50歳を過ぎてからも、あの部屋にリヤカーで蒲団を運んで、それで鍋を作ったりしていたものです。
 それに、私はもう1993年くらいから、あの部屋にノートポソコンを持ち込んで、ずっとインターネット(最初はパソコン通信だけど、あの頃はPHSで繋いでいたんだなあ)をやっていました。
 でもむつめ祭では、実に遅れている感じで、インターネットなんて皆目判らない人ばかりでしたが、近年はさすがに変わりました。それで、でもさすがに私も57歳のときからは、むつめ祭には行っていません。もうじいさんになりました。
 そもそも私は今も、1967、8年にやったバス代値上阻止闘争のときから、北浦和−埼大間の学バス30円を認めていないから、いつも乗車拒否だから、あの大学は遠いのよ。

 今は朝から、けっこう文書打ちまして、朝10時に郵便局へ届けました。これはポストに入れるだけですが、そのあと窓口がけっこうまたされました。そしてそのあと、王子駅前のりそな銀行へ行きました。王子は今もいくつもの都市銀行があるので、振込するのには便利なのです。それから、他の用でも(ある会社の関係のことでもいろいろと)便利です。
 思えば、だからこのUPは今の時間になりましたが、11時頃にほとんど書いていました。でも今にならないとすべて書けませんでした。

 私はインターネットでのメールもよく打ちますが、文書も手紙もよく書いて、よく出していますよ。このあとはいくつも手紙を書きます。あ、それにナミちゃんが書いてくれたポコちゃんのこともブログに書きます。

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 周の漢詩入門「曹丕『善哉行』」へのコメントナミちゃんから次のコメントをもらいました。

1. Posted by なみんと    2007年10月16日 21:23
周さん☆今晩は。
Aさん!懐かしいお名前です。
大学三年生の時のむつめ祭の時、資金集めを議員さんに協力してもらおうというアイデア<周さんの考えですか>で・・私も手伝わせていただきました。確か・・川口に住んでいる<帰りがけですので>議員さんのお宅に伺ったという記憶ですが<内容はよく覚えていません>・・行った・・事に対してAさんにすご〜くねぎらっていただいた事を思い出します。私は全然苦ではなくかえって面白いと思っていましたから・・気を使っていただいて申し訳なく思いました。Aさんによろしくお伝えくださいね(^^)v

 ありがとう。Aも私と同じ59歳ですから、もうかなりな年齢になるね。でもまだまだ元気なんですが、まあ、私と同じく年寄りだよねえ。また近く、彼のところへ行くから、あなたのことを伝えておきますよ。
 それで驚いたのですが、あのむつめ祭は、私が大学6年のときです。そうすると、あなたは私が大学4年のときに入学ということになるけれど、あなたが入学したのは、私が5年のときじゃないかなあ? この年のむつめ祭がメインテーマが「呼狂呼賊任評−我がなすことは我のみぞ知る−」の時です。翌年が「狂わせたいの−花弁はうずく、女は騒ぐ、俺の墓はどこか−」でした。(思えば、この二年とも私が提出したテーマが選ばれたのでした)。だから、この時は、あなたは2年生じゃないかなあ。
 この「狂わせたいの」のときに、もう私も大学6年なので、若い人たちと同じことはできないから、議員さん等々から資金集めを考えたものでした。
 けっこう懸命に頑張りまして、けっこう集めたものでしたね。党派的には、自民党・公明党・社会党は協力してくれましたね。議員の中には、私たちが過激派だと判っている人もいたけれど、かまわず協力してくれた人もいます。
 このむつめ祭が終わって、私たちは3組のアベックで奧鬼怒川温泉に行ったものでした。あのときは愉しかったなあ。でももう遠い遠い思い出になりましたが。

 もう今は私も孫の笑顔のみを愉しみにしています。昨日人形町に行ったのですが、ちょうど人形の屋台がいつくも並んでいて、私が孫に買って帰りたかったのですが、もう忙しくてゆっくり見て選んでいる時間がないのです。でも、もう一度行って、何かポコちゃんが喜んでくれるものを手に入れます。
 まだポコちゃんは、立って歩けはしないのですが、ものすごい速度ではって行きます。この私の部屋なんか、いろいろなものがあるから、面白いらしく、すぐに入って、置いてあるディスプレイやキーボードをたたいたりしています。
 今の子どもというのは、ディスプレイもテレビもみんな液晶だから、昔のテレビなんかは知らないわけだよね。いや、そんなものってほかにもたくさんありますね。例えば、電話もアナログの手で回すダイヤル式なんか知らないから、そんなもの見ると驚くっていいますね。110番とか119番って、ダイヤルを回す時間が少しかかるから、そのときに落ち着くように考えられたそうです。でも、ピッポッパと押すだけだと、その意味がなくなりますね。そんなことを考えて不思儀な思いになります。
 もう私なんか、来年は60歳だから、もうますます判らない世界になっていくところですね。とにかくやり抜いていくつもりです。

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27451e11.jpg 私は大学卒業時いわゆる普通に就職活動ということをすることはありませんでした。だが私の後輩の時代ですと、そういうことも出てきます。ちょうど私よりも6年くらい下の世代からは、就職活動をするというのが普通になったように思います。いや、もっと上からそうなのかなあ。私が知らないだけなのかもしれません。
 今朝まで長く見ていた夢は、その私の後輩らしき人の就職活動の話を聞いているという夢でした。と言っても、今の私には、その後輩がどんな顔をしていたのかもうさっぱり判りません。でも、就職がうまく行ったというような話でした。
 私の大学の中で、彼は学園祭(むつめ祭という名前です)のみを熱心にやっていたというようなことのみで、就職活動をしています。それは特別にサークル活動でもないが、学園祭字体を仕切るということを熱心にやっていたということにみを就職先の相手には言っていきます。それが相手には、実に興味深いこととして、聞こえています。
 でも私には少々不安もあります。「それだけでいいんだろうかな?」。後輩は、大学の成績のことも一切気にしないで、学園祭を仕切ってやりきることばかりをかけていた、それが相手にはよく通じていたということばかりをいいます。
 私は、半ばそれはよく判るし、実際の企業でも学校の成績よりも、そういう能力をこそ求めるところもあるのだろうということは理解できるのですが、そればかりを主張していてもいいのかなあ、という不安もあるのです。
 でもでも、今それが明確に判った気がしています。思えば、彼には、そのことしか自分を主張することがないのです。彼の大学生活はそれだけなのです。だから、大学での成績云々の話になると、困ってしまうのです。そもそも、そんなことに興味はなかったし、大学4年間で、どんなイベントを実現していくか(学園祭というのは、その学園祭の時期だけにやるものではないのです)ということにかけていたという主張が、たつた今私にも大きなこととして理解できたような思いがします。
 こんなことを夢の中で、何度も反芻するように聞いて理解していけた私だったのです。
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「ブロードバンド整備、都道府県別に計画」へのコメント へのコメントanafanさんから以下のコメントをもらいました。

1. Posted by anafan    2006年10月31日 23:06
 周さん こんにちは、anafanです。

私の投稿を記事にしていただき、恐縮しております。ありがとうございます。

12月に中国に赴任するのですが、スカイプのカメラチャットは本当に行けそうですね。

この3連休にカメラを購入して、、接続実験をしてみようと思います。
今後ともよろしくお願いします。

 スカイプでカメラ使うのはいいですよ。最初自分のパソコンに取り付けると、自分の顔が映し出されるので、それはおおいに嫌になります。「あ、俺って、こんなに老けているのか」なんてね。でもここまで見えてしまうと、中国という遠いところに行っている自分の家族や友人のことでも、実に日々愉しい思いになれると思います。
 私は長女は今この東京北区王子のマンションの違う階に住んでいます。
 次女は、私たちの千葉県我孫子のマンションに一人で住んでいますが、来年3月に結婚して、少し遠い千葉県の半島の先にほうに住みます。でもそのときには、このスカイプとカメラをパソコンにつけてもらって毎日会話します。
 いえ、私は昨日自宅へ帰りまして、そして次女のビデオ録画予定を止めてしまって(フジテレビの「ちびまるこちゃん」をぜひ に書いた内容)、次女に怒られていまして、身がすくむ思いのところなのです。
 ビデオは難しいけれど、スカイプなら、私はちゃんとできます。

「3連休」というので、「何のことだ」と思っていましたが、文化の日が迫っている季節なのですね。
 私は一昨年までは、自分のいた埼玉大学の学園祭「むつめ祭」にいつも出かけていました。このむつめ祭期間にだけ開かれる「暴力酒場ひだり」というところに、いつも座って(もちろん、畳のある店です)お酒を飲んでいるのですが、1995年くらいからは、毎回ノートパソコンを持っていっていました。そして98年くらいからは、いつもインターネットに接続していました。
 でもね、学生さんは、実になんだか元気がなくてね、インターネットもよくやらないしというところでした。前には、netmeetingもやったものでしたが、誰もよく判らないようでしたよ。
 ただし、さすが21世紀になると、インターネットという存在は誰も知っているようになりました。ただ知っているだけで、誰も活用しているという感じは少しもなかったものです。

 それでさすがに、もう行くのは昨年から止めました。思えば、学生運動で、パクられている以外はずっと行っていたものでしたが、残念です。でも仕方ないのかな。
 私は今年12月25日に生まれてくる孫と、スカイプでお喋りする日を愉しみにしています。

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