将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:アジア的

 今秋に「吉本隆明全講演ライブCD」という、膨大なCD資料が刊行開始されます。以下その内容です。

吉本隆明全講演ライブ集(仮題) 2001.9〜
          編集:弓立社 発行:吉本隆明全講演CD化計画

11101010吉本隆明の1968年頃から約30年間の全講演を、CD(デジタル)化していく計画です。現在、約200の講演のテープがあり、吉本隆明の全領域をカバーしています。肉声で聞く吉本思想はまた別の迫力があります。質疑応答も、初めて収録します。
細かいテーマ別にして、順次、発行します。だいたい、1講演CD2〜3枚、CD1枚の予価1500円〜2000円見当。原則として、直販。一部の書店にはおきます。書店のリストは、公表します。
大変な分量ですので、どこまでゆけるか、見当もつきません。各300枚ほど売れれば、最後までいけます。読者一人一人の予約とか図書館に頼むとかのアクションが支えです。お力添えをお願いします。

第1回『〈アジア的〉ということ』 2001年9月刊行予定
 内容:CD6枚とブックレット(箱入り) 予価:9000円+税
 講演:1「〈アジア的〉ということ」 1979.7.15
    主催・北九州小倉・金榮堂/ 場所:毎日会館九段大ホール
    2「〈「アジア的〉ということ ――そして日本」1981.7.4
    主催・北九州小倉・金榮堂 / 場所:NRCCホール
    3「アジア的と西欧的」 1985.7.10
    主催・リブロ西武百貨店 / 場所:西武百貨店池袋店・スタジオ200

第2回以降の主なテーマ
   吉本隆明と時代思想を読む 親鸞論良寛論
   夏目漱石論太宰治論
   作家論資本主義論農業論
   政治論都市論70年代情況論
   80年代情況論90年代情況論
   建築のための数学概論(集合論入門)その他

 以降、詳しいことは、決定次第、お知らせします。お問い合わせください。
 ホームページでも、お知らせします。3分ほど、試聴できます。

    http://www.yudachi.net/
 101-0051 東京都千代田区神保町1-17弓立社内 吉本隆明全講演CD化計画
      TEL03-3291-3244 FAX03-3294-3209
      e-mail:info@yudachi.net 

110821081980年(昭和55年)

 きわめて貧困で非政治的な大多数の民衆と、権力を握ったごく少数の文化的な支配層・政治層の二つから成り立つています。そして、富や権力あるいは文化は少数の専制的な政治層に集中しています。しかし、こと分配に関しては、わりあいに公平なところがあって、これがまたアジア的専制というものの大きな特徴だと思います。
「世界認識の方法−世界史の中のアジア」1980.6.20中央公論社

 時間の概念では原始時代と古代の間に想定されるアジア的社会であるが、この形の上に乗っかったのが、現在の「社会主義国」であるという。こんなことを言い切った思想家は吉本さんしかいないと思う。

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 ぼくが『アフリカ的段階について』(春秋社)という本のなかでかんがえたのはこういうことだったのです。要するに宗教は宗教としてというふうに <段階> を歴史的にかんがえると、イスラム教がもっているものとキリスト教がもっているものとが、地域としてひきずっているものとして残っている。だけどこの地域特殊性が宗教にもたらしている違いを明らかにしてしまえば、宗教自体としては見かけほど違うものではないということがいえるとおもいます。これをちゃんとかんがえないとだめだというのが、ぼくが『アフリカ的段階について』を書いたときのモチーフのひとつでした。(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「環相の視座から」)

 アメリカのネイティブアメリカンの持つ文化なんかが「アフリカ的」といえるのだろうか。おそらく農耕を始めたときに、アジア的と言われる段階になったのだということだろう。ただし、それをマルクスは明確に規定できていなかったと思います。

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 単に<アジア的段階>のようなものを原始と古代の間にかんがえるというのは、コーロッパから見ればいかにもごもっともだとおもいますけれど、そのごもっとも性はここ一、二年になってだめだということがはっきりしてきました。やはり一種の進歩史観ですからね。
 ブッシュの見方もそうです。キリスト教とイスラム教が違うのだったら、ほんとうは地域が宗教にどういう影響を与えるかについてかんがえなければいけないんです。「地域的特殊性がまるで違うんだ」ということ。でもマルクスは本気でかんがえずに、とりあえずアジア的と入れておけというくらいで考えを止めています。これは少し違うのではないかという感じをぼくは持っています。
(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「環相の視座から」)

 やはり、だからここで吉本さんのいう「アフリカ的」ということが出てくるのだと思うのです。もちろんアフリカ的というのはヘーゲル−マルクスもいうわけですが、それは実際にはアフリカ的を展開することはなかったと思います。この「アフリカ的」といえば、この日本では縄文時代にあったものだと言えるのかな、なんて私は今思いました。

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