将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:イスカリオテのユダ

15062101
 この「太宰治『駈込み訴え』」も府中刑務所の中で読みました。1968年7月のことでした。

………世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。

 私が作品を細かなものまですべて読みましたのは、吉本隆明・島尾敏雄・チェーホフとこの太宰治です。太宰治はすべてを2回読みました。私には、この言葉が源実朝を殺した公暁の言ったことにも思えてしまいます。15062102
 また鎌倉の鶴が丘八幡宮であのまだ若い銀杏の樹の元で、このユダの言葉を思い出すでしょう。

13062305  私は、饗宴をどうしても、「きょうえん」と読んでしまいます。

  イエスのために饗宴を設け、

 この『饗宴』というのはプラトンの作品ですね。プラトンは中学生のときから熱読していたものでした。いくつも思い出す作品がいくつもあります。ただプラトンは自分の師ソクラテスを書いて行きまして、だんだんそのソクラテスが小さくなって自分の思想を述べるようになるのですが、生涯の終りには、そのソクラテスが回帰してくるのです。いつも私は残念でたまらないのですが。

第12章
 過越の祭の六日前に、イエス、ベタニヤに來り給ふ、ここは死人の中より甦へらせ給ひしラザロの居る處な13062306り。此處にてイエスのために饗宴(ふるまひ)を設け、マルタは事へ、ラザロはイエスと共に席に著ける者の中にあり。マリヤは價高(あたひたか)き混(まじ)りなきナルドの香油(にほひあぶら)一斤を持ち來りて、イエスの御足にぬり、己が頭髮にて御足を拭ひしに、香油のかをり家に滿ちたり。御弟子の一人にて、イエスを賣らんとするイスカリオテのユダ言ふ、『何ぞこの香油を三百デナリに賣りて、貧しき者に施さざる』かく云へるは貧しき者を思ふ故にあらず、おのれ盜人にして、財嚢(かねいれ)を預り、その中に納むる物を掠めゐたればなり。イエス言ひ給ふ『この女の爲すに任せよ、我が葬りの日のために之を貯へたるなり。貧しき者は常に汝らと偕に居れども、我は常に居らぬなり』
 ユダヤの多くの民ども、イエスの此處に居給ふことを知りて來る、これはイエスの爲のみにあらず、死人の中より甦へらせ給ひしラザロを見んとてなり。かくて祭司長ら、ラザロをも殺さんと議(はか)る。彼のために多くのユダヤ人さり往きてイエスを信ぜし故なり。
 明くる日、祭に來りし多くの民ども、イエスのエルサレムに來り13062307給ふをきき、棕梠の枝をとりて出で迎へ、『「ホサナ、讃(ほ)むべきかな、主の御名によりて來る者」イスラエルの王』と呼(よば)はる。イエスは小驢馬(ころば)を得て之に乘り給ふ。これは録して、『シオンの娘よ、懼(おそ)るな。視よ、なんぢの王は驢馬の子に乘りて來り給ふ』と有るが如し。弟子たちは最初これらの事を悟らざりしが、イエスの榮光(えいくわう)を受け給ひし後に、これらの事のイエスに就きて録されたると、人々が斯く爲ししとを思ひ出せり。ラザロを墓より呼び起し、死人の中より甦へらせ給ひし時に、イエスと偕に居りし群衆、證をなせり。群衆のイエスを迎へたるは、かかる徴を行ひ給ひしことを聞きたるに因りてなり。パリサイ人ら互に言ふ『見るべし、汝らの謀ることの益なきを。視よ、世は彼に從へり』
 禮拜せんとて祭に上りたる者の中に、ギリシヤ人數人(すにん)ありしが、ガリラヤなるベツサイダのピリポに來り、請ひて言ふ『君よ、われらイエスに謁(まみ)えんことを願ふ』ピリポ往きてアンデレに告げ、アンデレとピリポと共に往きてイエスに告ぐ。イエス答へて言ひ給ふ『人の子の榮光を受くべき時きたれり。誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。己が生命を愛する者13062308は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠(とこしえ)の生命に至るべし。人もし我に事へんとせば、我に從へ、わが居る處に我に事ふる者もまた居るべし。人もし我に事ふることをせば、我が父これを貴(たふと)び給はん。今わが心さわぐ、われ何を言ふべきか。父よ、この時より我を救ひ給へ、されど我この爲にこの時に到れり。父よ、御名(みな)の榮光をあらはし給へ』ここに天より聲いでて言ふ『われ既に榮光をあらはしたり、復さらに顯さん』傍らに立てる群衆これを聞きて『雷霆(いかづち)鳴れり』と言ひ、ある人々は『御使かれに語れるなり』と言ふ。イエス答へて言ひ給ふ『この聲の來りしは、我が爲にあらず、汝らの爲なり。今この世の審判(さばき)は來れり、今この世の君は逐ひ出さるべし。我もし地より擧げられなば、凡ての人をわが許に引きよせん』かく言ひて、己が如何なる死にて死ぬるかを示し給へり。群衆こたふ『われら律法(おきて)によりて、キリストは永遠(とおしえ)に存(ながら)へ給ふと聞きたるに、汝いかなれば人の子は擧げらるべしと言ふか、その人の子とは誰なるか』イエス言ひ給ふ『なほ暫し光は汝らの中にあり、光のある間に歩みて、暗黒(くらき)に追及(おいつ)かれぬやうにせよ、暗き中を歩む者は往方(ゆくて)を知らず。光の子とならんために、光のある間に光を信ぜよ』
13062309 イエス此等のことを語りてのち、彼らを避けて隱れ給へり。かく多くの徴を人々の前におこなひ給ひたれど、なほ彼を信ぜざりき。これ預言者イザヤの言の成就せん爲なり。曰く
 『主よ、我らに聞きたる言を誰か信ぜし。
  主の御腕は誰にあらはれし』

 彼らが信じ得ざりしは此の故なり。即ちイザヤまた云へらく、
 『彼らの眼を暗くし、心を頑固にし給へり。
  これ目にて見、心にて悟り、
  ひるがへりて、
  我に醫さるる事なからん爲なり』

 イザヤの斯く云へるは、その榮光を見し故にて、イエスに就きて語りしなり。されど司たちの中にもイエスを信じたるもの多かりしが、パリサイ人の故によりて言ひ顯すことをせざりき、除名せられん事を恐れたるなり。彼らは神の譽よりも人の譽を愛でしなり。
 イエス呼(よば)はりて言ひ給ふ『われを信ずる者は我を信ずるにあらず、我を遣し給ひし者を信じ、我を見る者は我を遣し給ひし者を見るなり。我は光として世に來れり、すべて我を信ずる者の暗黒に居らざらん爲なり。人たとひ我が言(ことば)をききて守らずとも、我は之を審かず。夫わが來りしは世を審かん爲にあらず、世を救はん爲なり。我を棄て我が言を受けぬ者を審く者あり、わが語れる言こそ終の日に之を審くなれ。我13062410はおのれに由りて語れるにあらず、我を遣し給ひし父みづから、我が言ふべきこと語るべきことを命じ給ひし故なり。我その命令の永遠の生命たるを知る。されば我は語るに我が父の我に言ひ給ふままを語るなり』

 どうしてもプラトンを読んできた私には、この聖書を読むのはきつい思いがしてしまいます。でもこうして今読んできたことはいいことだと確信しています。

13042016 この章を読んで私は「太宰治『駈込み訴え』」の最後のユダの言葉を思い出しました。

はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。

 そしてまた私は源実朝を殺害した公暁を思い出すのです。
 今に至るも、公暁が持ち去った実朝の首は見つかっていないのです。

第22章
 さて過越(すぎこし)といふ除酵祭近づけり。祭司長・學者らイエスを殺さんとし、その手段いかにと求む、民を懼れたればなり。
 時にサタン、十二の一人なるイスカリオテと稱(とな)ふるユダに入る。ユダ乃ち祭司長・宮守頭(みやもりがしら)どもに往きて、イエスを如何にして付さんと議(はか)りたれば、彼ら喜びて銀(かね)を與へんと約す。ユダ諾(うべな)ひて、群衆の居らぬ時にイエスを付さんと好き機をうかがふ。
13042106 過越の羔羊(こひつじ)を屠るべき除酵祭の日來りたれば、イエス、ペテロとヨハネとを遣さんとして言ひたまふ『往きて我らの食せん爲に過越の備(そなへ)をなせ』彼ら言ふ『何處(いづこ)に備ふることを望み給ふか』イエス言ひたまふ『視よ、都に入らば、水をいれたる瓶を持つ人なんぢらに遇ふべし、之に從ひゆき、その入る所の家にいりて、家の主人に「師なんぢに言ふ、われ弟子らと共に過越の食をなすべき座敷は何處(いずこ)なるか」と言へ。さらば調(ととの)へたる大(おほい)なる二階座敷を見すべし。其處に備へよ』かれら出で往きて、イエスの言ひ給ひし如くなるを見て、過越の設備(そなへ)をなせり。時いたりてイエス席に著きたまひ、使徒たちも共に著く。かくて彼らに言ひ給ふ『われ苦難の前に、なんぢらと共にこの過越の食をなすことを望みに望みたり。われ汝らに告ぐ、神の國にて過越の成就(じょうじゅ)するまでは、我復これを食せざるべし』かくて酒杯(さかづき)を受け、かつ謝して言ひ給ふ『これを取りて互(たがひに分ち飮め。われ汝らに告ぐ、神の國の來るまでは、われ今よりのち葡萄の果より成るものを飮まじ』またパンを取り謝してさき、弟子たちに與へて言ひ給ふ『これは汝らの爲に與ふる我が體なり。我が記念として之を行へ』夕餐ののち酒杯をも然して言ひ給ふ『この酒杯(さかづき)は、汝らの爲に流す我が血によりて立つる新しき契約なり。されど視よ、我を賣る者の手、われと共に食卓の上にあり、實に人の子は定められたる如く逝くなり。されど之を賣る者は禍害なるかな』弟子たち己らの中にて此の事をなす者は、誰ならんと互に問ひ始む。
 また彼らの間に、己らの中たれか大ならんとの爭論(あらそひ)おこりたれば、イエス言ひたまふ『異邦人の王はその民を宰どり、また民を支配する者は恩人と稱へらる。されど汝らは然あ13042107らざれ、汝等のうち大なる者は若き者のごとく、頭たる者は事ふる者の如くなれ。食事の席に著く者と事ふる者とは、何れか大なる。食事の席に著く者ならずや、されど我は汝らの中にて事ふる者のごとし。汝らは我が嘗試(こころみ)のうちに絶えず我とともに居りし者なれば、わが父の我に任じ給へるごとく、我も亦なんぢらに國を任(にん)ず。これ汝らの我が國にて我が食卓に飮食(のみくひ)し、かつ座位(くらゐ)に坐してイスラエルの十二の族を審かん爲なり。シモン、シモン、視よ、サタン汝らを麥のごとく篩(ふる)はんとて請ひ得たり。されど我なんぢの爲に、その信仰の失せぬやうに祈りたり、なんぢ立ち歸りてのち兄弟たちを堅うせよ』シモン言ふ『主よ、我は汝とともに獄にまでも、死にまでも往かんと覺悟せり』イエス言ひ給ふ『ペテロよ、我なんぢに告ぐ、今日なんぢ三度われを知らずと否むまでは、鷄鳴かざるべし』かくて弟子たちに言ひ給ふ『財布・嚢(ふくろ)・鞋(くつ)をも持たせずして汝らを遣ししとき、缺けたる所ありしや』彼ら言ふ『無かりき』イエス言ひ給ふ『されど今は財布ある者は之を取れ、嚢ある者も然すべし。また劍なき者は衣を賣りて劍を買へ。われ汝らに告ぐ「かれは愆人(とがにん)と共に數へられたり」と録されたるは、我が身に成し遂げらるべし。凡そ我に係る事は成し遂げらるればなり』弟子たち言ふ『主、見たまへ、茲に劍二振あり』イエス言ひたまふ『足れり』
 遂に出でて、常のごとくオリブ山に往き給へば、弟子たちも從ふ。其處に至りて彼らに13042108言ひたまふ『誘惑(まどはし)に入らぬやうに祈れ』かくて自らは石の投げらるる程かれらより隔り、跪(ひざま)づきて祈り言ひたまふ、『父よ、御旨(もむね)ならば、此の酒杯(さかづき)を我より取り去りたまへ、されど我が意にあらずして御意の成らんことを願ふ』時に天より御使あらはれて、イエスに力を添ふ。イエス悲しみ迫り、いよいよ切に祈り給へば、汗は地上に落つる血の雫の如し。祈を了へ、起ちて弟子たちの許にきたり、その憂によりて眠れるを見て言ひたまふ、『なんぞ眠るか、起て、誘惑(まどはし)に入らぬやうに祈れ』なほ語りゐ給ふとき、視よ、群衆あらはれ、十二の一人なるユダ先だち來り、イエスに接吻せんとて近寄りたれば、イエス言ひ給ふ『ユダ、なんぢは接吻をもて人の子を賣るか』御側に居る者ども事の及ばんとするを見て言ふ『主よ、われら劍(つるぎ)をもて撃つべきか』その中の一人、大祭司の僕を撃ちて、右の耳を切り落せり。イエス答へて言ひたまふ『之にてゆるせ』而して僕の耳に手をつけて醫し給ふ。かくて己に向ひて來れる祭司長・宮守頭・長老らに言ひ給ふ『なんぢら強盜に向ふごとく、劍と棒とを持ちて出できたるか。我は日々なんぢらと共に宮に居りしに、我が上に手を伸べざりき。されど今は汝らの時、また暗黒(くらき)の權威なり』13042203
 遂に人々イエスを捕へて、大祭司の家に曳きゆく。ペテロ遠く離れて從ふ。人々、中庭のうちに火を焚きて、諸共に坐したれば、ペテロもその中に坐す。或婢女ペテロの火の光を受けて坐し居るを見、これに目を注ぎて言ふ『この人も彼と偕にゐたり』ペテロ肯(うけが)はずして言ふ『をんなよ、我は彼を知らず』暫くして他の者ペテロを見て言ふ『なんぢも彼の黨與なり』ペテロ言ふ『人よ、然らず』一時ばかりして又ほかの男、言張りて言ふ『まさしく此の人も彼とともに在りき、是ガリラヤ人なり』ペテロ言ふ『人よ、我なんぢの言ふことを知らず』なほ言ひ終へぬに、やがて鷄鳴きぬ。主、振反りてペテロに目をとめ給ふ。ここにペテロ、主の『今日にはとり鳴く前に、なんぢ三度われを否まん』と言ひ給ひし御言を憶ひいだし、外に出でて甚く泣けり。
 守る者どもイエスを嘲弄し、之を打ち、その目を蔽(おほ)ひ問ひて言ふ『預言せよ、汝を撃ちし者は誰なるか』この他なほ多くのことを言ひて譏(そし)れり。
 夜明になりて、民の長老・祭司長・學者ら相集り、イエスをその議會に曳き出して言ふ、『なんぢ若しキリストならば、我らに言へ』イエス言ひ給ふ『われ言ふとも汝ら信ぜじ、又われ問ふとも汝ら答へじ。されど人の子は今よりのち神の能力(ちから)の右に坐せん』皆いふ『されば汝は神の子なるか』答へ給ふ『なんぢらの言ふごとく我はそれなり』彼ら言ふ『何ぞなほ他に證據を求めんや。我ら自らその口より聞けり』

 そして私はまた「太宰治『右大臣実朝』」のこの言葉を思い出し13042109ました。

 平家ハ、アカルイ、とおつしやつて、アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ

 間違いなく、太宰治は、イエスと実朝を同じ存在に思えたのでしょうね。

13032809「安息日」をインターネットで検索しました。「はてなキーワード」で次のようにありました。

安息日
安息日 「あんそくにち」または「あんそくび」と読む。
旧約聖書において、6日間の天地創造の後に神が休んだことにならい、神を思って労働から解放される日。十戒にもその記述がある。
ユダヤ教では土曜日、イスラム教では金曜日である。
キリスト教において、日曜日と解釈するべきなのか、土曜日のままであると解釈するべきなのかは議論の余地がある。(日曜日は「主日」「聖日」であって「安息日」と日常呼び慣わされるほどではない)

 いえ、ウィキペディアでも見たわけですが、長く書いてありまして、私が要約するのに自信がなかったのです。

第6章
 イエス安息日に麥畠を過ぎ給ふとき、弟子たち穗を摘み、手にて揉みつつ食ひたれば、パリサイ人のうち或者ども言ふ『なんぢらは何ゆゑ安息日に爲(す)まじき事をするか』イエス答へて言ひ給ふ『ダビデその伴へる人々とともに飢ゑしとき、爲(な)しし事をすら讀まぬか。即ち神の家に入りて、祭司の他は食ふまじき供のパンを取りて食ひ、己と偕なる者にも與へたり』また言ひたまふ『人の子は安息日の主たるなり』
 又ほかの安息日に、イエス會堂に入りて教をなし給ひしに、此處に人あり、其の右の手なえたり。學者・パリサイ人ら、イエスを訴ふる廉(かど)を見出さんと思ひて、安息日に人を13032810醫すや否やを窺ふ。イエス彼らの念(おもひ)を知りて、手なえたる人に『起きて中に立て』と言ひ給へば、起きて立てり。イエス彼らに言ひ給ふ『われ汝らに問はん、安息日に善をなすと惡をなすと、生命を救ふと亡すと、孰(いずれ)かよき』かくて一同を見まはして、手なえたる人に『なんぢの手を伸べよ』と言ひ給ふ。かれ然(しか)なしたれば、その手癒ゆ。然るに彼ら狂氣の如くなりて、イエスに何をなさんと語り合へり。
 その頃イエス祈らんとて山にゆき、神に祈りつつ夜を明したまふ。夜明になりて弟子たちを呼び寄せ、その中より十二人を選びて、之を使徒と名づけたまふ。即ちペテロと名づけ給ひしシモンと其の兄弟アンデレと、ヤコブとヨハネと、ピリポとバルトロマイと、マタイとトマスと、アルパヨの子ヤコブと熱心黨と呼ばるるシモンと、ヤコブの子ユダとイスカリオテのユダとなり。このユダはイエスを賣る者となりたり。イエス此等とともに下りて、平(たいら)かなる處に立ち給ひしに、弟子の大なる群衆、およびユダヤ全國、エルサレム又ツロ、シドンの海邊より來りて、或は教を聽かんとし、或は病を醫されんとする民の大なる群も、そこにあり。穢れし靈に惱されたる者も醫される。能力(ちから)イエスより出でて、凡ての人を醫せば、群衆みなイエスに觸(さわ)らん事を求む。イエス目をあげ弟子たちを見て言ひたまふ『幸福(さいわひ)なるかな、貧しき者よ、神の國は汝らの有(もの)なり。幸福なる哉、いま飢うる者よ、汝ら飽くことを得ん。幸福なる哉、いま泣く者よ、汝ら笑ふことを得ん。人なんぢらを憎み、人の子のために遠ざけ、謗り、汝らの名を惡しとして棄てなば、汝ら幸福なり。その日には喜び躍れ。視よ、天にて汝らの報(むくひ)は大なり、彼らの先祖が預言者たちに爲ししも斯くありき。されど禍害(わざわひ)なるかな、富む者よ、汝らは既にその慰安(なぐさめ)を受けたり。禍害なる哉、いま飽く者よ、汝らは飢ゑん。禍害なる哉、いま笑ふ者よ、汝らは、悲しみ泣かん。凡ての人、なんぢらを譽めなば、汝ら禍害なり。彼らの先祖が虚僞(いつわり)の預言者たちに爲ししも斯くありき。
 われ更に汝ら聽くものに告ぐ、なんじらの仇を愛し、汝らを憎む者を善くし、汝らを詛ふ者を祝し、汝らを辱しむる者のために祈れ。なんぢの頬を打つ者には、他の頬をも向けよ。なんぢの上衣を取る者には下衣をも拒むな。すべて求むる者に與へ、なんぢの13032811物を奪ふ者に復索(またもと)むな。なんぢら人に爲(せ)られんと思ふごとく、人にも然せよ。なんぢら己を愛する者を愛せばとて、何の嘉(よみ)すべき事あらん、罪人にても己を愛する者を愛するなり。汝等おのれに善をなす者に善を爲すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても然するなり。なんぢら得る事あらんと思ひて人に貸すとも、何の嘉すべき事あらん、罪人にても均しきものを受けんとて罪人に貸すなり。汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、その報は大(おほひ)ならん。かつ至高者(いとたかきもの)の子たるべし。至高者は、恩を知らぬもの惡しき者にも、仁慈(なさけ)あるなり。汝らの父の慈悲なるごとく、汝らも慈悲なれ。人を審くな、さらば汝らも審かるる事あらじ。人を罪に定むな、さらば、汝らも罪に定めらるる事あらじ。人を赦せ、さらば汝らも赦されん。人に與へよ、さらば汝らも與へられん。人は量(はかり)をよくし、押し入れ、搖り入れ、溢るるまでにして、汝らの懷中(ふところ)に入れん。汝等おのが量る量(はかり)にて量らるべし』
 また譬にて言ひたまふ『盲人は盲人を手引するを得んや。二人とも穴に落ちざらんや。弟子はその師に勝らず、凡そ全うせられたる者は、その師の如くならん。何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、己が目にある梁木(うつばり)を認めぬか。おのが目にある梁木を見ずして、爭(いか)で兄弟に向ひて「兄弟よ、汝の目にある塵を取り除かせよ」といふを得んや。僞善者よ、先づ己が目より梁木を取り除け。さらば明かに見えて、兄弟の目にある塵を取りのぞき得ん。惡しき果(み)を結ぶ善き樹はなく、また善き果を結ぶ惡しき樹はなし。樹はおのおの其の果によりて知らる。茨より無花果(いちぢく)を取らず、野荊(のばら)より葡萄を收めざるなり。善き人は心の善き倉より善きものを出し、惡しき人は惡しき倉より惡しき物を出す。それ心に滿つるより、口は物言ふなり。
 なんぢら我を「主よ主よ」と呼びつつ、何ぞ我が言ふことを行はぬか。凡(おほよ)そ我にきたり我が言を聽きて行ふ者は、如何なる人に似たるかを示さん。即ち家を建つるに、地を深く掘り岩の上に基を据ゑたる人のごとし。洪水いでて流その家を衝けども動かすこと能はず、これ固く建てられたる故なり。されど聽きて行はぬ者は、基なくして家を土の上に建てたる人のごとし。流その家を衝けば、直ちに崩れて、その破壞(やぶれ)はなはだし』

 この章を読んで、「イエスって厳しいな」と思うばかりです。おそらく私なんかはすぐに駄目だろうな。駄目というのは、破門では13032812なく、私から惨めに去ってしまうということです。「イスカリオテのユダ」を書いた太宰治(「『駆け込み訴え』でユダを描いています。ちょうど『源実朝』で公暁を書いたように)の思いに魅かれてしまうのです。

13012707 この章は実にすさまじい思いになります。イエスは、『鷄鳴く前に、なんぢ三たび我を否む』といいます。ペテロをはじめ弟子たちはみな『我なんぢと共に死ぬべき事ありとも汝を否まず』というのです。でも事の事実はだれもがイエスを『我その人を知らず』と言い、そして最後に、「ペテロ『にはとり鳴く前に、なんぢ三度われを否まん』と、イエスの言ひ給ひし御言を思ひだし、外に出でて甚く泣けり」となるのです。これはどうしても私は涙を流してしまいます。これは十二弟子たちのことではなく、私たちの誰もを言っているのです。

第26章
  イエスこれらの言をみな語りをへて、弟子たちに言ひ給ふ『なんぢらの知るごとく、二日の後は過越(すぎこし)の祭なり、人の子は十字架につけられん爲に賣らるべし』そのとき祭司長・民の長老ら、カヤパといふ大祭司の中庭に集り、詭計(たばかり)をもてイエスを捕へ、かつ殺さんと相議(あいはか)りたれど、又いふ『まつりの間は爲すべからず、恐らくは民の中に亂起らん』
  イエス、ベタニヤにて癩病(らいびやうにん)人シモンの家に居給ふ時、ある13012710女、石膏の壺に入りたる貴(たふと)き香油(にほひあぶら)を持ちて、近づき來り、食事の席に就き居給ふイエスの首(かうべ)に注げり。弟子たち之を見て憤ほり言ふ『何故(なにゆゑ)かく濫(みだり)なる費(ついえ)をなすか。之を多くの金に賣りて、貧しき者に施すことを得たりしものを』イエス之を知りて言ひたまふ『何ぞこの女を惱すか、我に善き事をなせるなり。貧しき者は常に汝らと偕にをれど、我は常に偕に居らず。この女の我が體に香油を注ぎしは、わが葬りの備(そなへ)をなせるなり。まことに汝らに告ぐ、全世界いずこにても、この福音の宣傅(のべつた)へらるる處には、この女のなしし事も記念として語らるべし』
  ここに十二弟子の一人イスカリオテのユダといふ者、祭司長らの許にゆきて言ふ『なんぢらに彼を付さば、何ほど我に與へんとするか』彼ら銀三十を量り出せり。ユダこの時よりイエスを付(わた)さんと好(よ)き機(をり)を窺ふ。
  除酵祭(じょこうさい)の初(はじめ)の日、弟子たちイエスに來りて言ふ『過越(すぎこし)の食をなし給ふために、何處に我らが備ふる事を望み給ふか』イエス言ひたまふ『都にゆき、某のもとに到りて「師いふ、わが時近づけり。われ弟子たちと共に過越を汝の家にて守らん」と言へ』弟子たちイエスの命じ給ひし如くして、過越の備(そなへ)をなせり。日暮れて十二弟子とともに席に就きて、食するとき言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、汝らの中の一人われを賣らん』弟子たち甚く憂ひて、おのおの『主よ、我なるか』と言ひいでしに、答へて言ひたまふ『我とともに手を鉢に入るる者われを賣らん。人の子は己に就きて録されたる如く逝くなり。されど人の子を賣る者は禍害なるかな、その人は生れざりし方よかりしものを』イエスを賣るユダ答へて言ふ『ラビ、我なるか』イエス言ひ給ふ『なんぢの言へる如し』彼ら食しをる時、イエス、パンをとり、祝してさき、弟子たちに與へて言ひ給ふ『取りて食へ、これは我が體なり』また酒杯をとりて謝し、彼らに與へて言ひ給ふ『なんぢら皆この酒杯(さかづき)より飮め。これは契約のわが血なり、多くの人のために、罪の赦を得させんとて流す所のものなり。われ汝らに告ぐ、わが父の國にて新しきものを汝らと共に飮む日までは、われ今より後この葡萄の果より成るものを飮まじ』彼ら讃美を歌ひて後オリブ山に出でゆく。
13012711  ここにイエス弟子たちに言ひ給ふ『今宵なんぢら皆われに就きて躓(つまづ)かん「われ牧羊者(ひつじかひ)を打たん、さらば群の羊散るべし」と録(しる)されたるなり。されど我よみがへりて後、なんぢらに先だちてガリラヤに往かん』ペテロ答へて言ふ『假令(たとひ)みな汝に就きて躓(つまづ)くとも我はいつまでも躓かじ』イエス言ひ給ふ『まことに汝に告ぐ、こよひ鷄鳴く前に、なんぢ三たび我を否むべし』ペテロ言ふ『我なんぢと共に死ぬべき事ありとも汝を否まず』弟子たち皆かく言へり。
  ここにイエス彼らと共にゲツセマネといふ處にいたりて、弟子たちに言ひ給ふ『わが彼處(かしこ)にゆきて祈る間、なんぢら此處に坐せよ』かくてペテロとゼベダイの子二人とを伴ひゆき、憂ひ悲しみ出でて言ひ給ふ、『わが心いたく憂ひて死ぬばかりなり。汝ら此處に止りて我と共に目を覺(さま)しをれ』少し進みゆきて、平伏し祈りて言ひ給ふ『わが父よ、もし得べくば此の酒杯(さかづき)を我より過(す)ぎ去らせ給へ。されど我が意(こころ)の儘(まま)にとにはあらず、御意のままに爲し給へ』弟子たちの許にきたり、その眠れるを見てペテロに言ひ給ふ『なんぢら斯く一時も我と共に目を覺し居ること能はぬか。誘惑(まどわし)に陷らぬやう、目を覺しかつ祈れ。實(げ)に心は熱すれども肉體よわきなり』また二度ゆき祈りて言ひ給ふ『わが父よ、この酒杯(さかづき)もし我飮までは過ぎ去りがたくば、御意(みこころ)のままに成し給へ』復(また)きたりて彼らの眠れるを見たまふ、是その目疲れたるなり。また離れゆきて、三たび同じ言にて祈り給ふ。而して弟子たちの許に來りて言ひ給ふ『今は眠りて休め。視よ、時近づけり、人の子は罪人らの手に付さるるなり。起きよ、我ら往くべし。視よ、我を賣るもの近づけり』
  なほ語り給ふほどに、視よ、十二弟子の一人なるユダ來る、祭司長・民の長老らより遣されたる大なる群衆、劍と棒とをもちて之に伴ふ。イエスを賣る者あらかじめ合圖を示して言ふ『わが接吻する者はそれなり、之を捕へよ』かくて直ちにイエスに近づき『ラビ、安かれ』といひて接吻したれば、イエス言ひたまふ『友よ、何とて來る』このとき人々すすみてイエスに手をかけて捕ふ。視よ、イエスと偕にありし者のひとり、手をのべ劍を拔きて、大祭司の僕をうちて、その耳を切り落せり。ここにイエス彼に言ひ給ふ『なんぢの劍をもとに收めよ、すべて劍をとる者は劍にて亡ぶるなり。我わが父に請ひて、十二軍(じゅうにぐん)に餘る御使(みつかひ)を今あたへらるること能はずと思ふか。もし然せば、斯くあるべく録(しる)したる聖書はいかで成就すべき』この時イエス群衆に言ひ給ふ『なんぢら強盜に向ふごとく劍と棒とをもち、我を捕へんとて出で來るか。我は日々宮に坐して教へたりしに、汝ら我を捕へざりき。されどかくの如くなるは、みな預言者たちの書の成就せん爲なり』ここに弟子たち皆イエスを棄てて逃げさりぬ。
  イエスを捕へたる者ども、學者・長老らの集り居る大祭司(だいさいし)カヤパの許に曳きゆく。ペテロ遠く離れ、イエスに從ひて大祭司の中庭まで到り、その成行を見んとて、そこに入り下役どもと共に坐せり。祭司長らと全議會と、イエスを死に定めんとて、いつはりの證據を求めたるに、多くの僞證者いでたれども得ず。後に二人の者いでて言ふ『この人は「われ神の宮を毀ち三日にて建て13012712得べし」と云へり』大祭司たちてイエスに言ふ『この人々が汝に對して立つる證據に何をも答へぬか』されどイエス默(もだ)し居(入給ひたれば、大祭司いふ『われ汝に命ず、活ける神に誓ひて我らに告げよ、汝はキリスト、神の子なるか』イエス言ひ給ふ『なんぢの言へる如し。かつ我なんぢらに告ぐ、今より後、なんぢら人の子の全能者の右に坐し、天の雲に乘りて來るを見ん』ここに大祭司おのが衣を裂きて言ふ『かれけがし言(ごと)をいへり、何ぞ他に證人を求めん。視よ、なんぢら今このけがし言をきけり。いかに思ふか』答へて言ふ『かれは死に當れり』ここに彼等その御顏に唾し、拳(こぶし)にて搏ち、或者どもは手掌(てのひら)にて批(たたき)て言ふ『キリストよ、我らに預言せよ、汝をうちし者は誰なるか』
  ペテロ外にて中庭に坐しゐたるに、一人の婢女(はしため)きたりて言ふ『なんぢもガリラヤ人イエスと偕にゐたり』かれ凡ての人の前に肯(うけが)はずして言ふ『われは汝の言ふことを知らず』かくて門まで出で往きたるとき、他の婢女かれを見て、其處にをる者どもに向ひて『この人はナザレ人イエスと偕にゐたり』と言へるに、重ねて肯はず、契ひて『我はその人を知らず』といふ。暫くして其處に立つ者ども近づきてペテロに言ふ『なんぢも慥(たしか)にかの黨與なり、汝の國訛なんぢを表せり』ここにペテロ盟(ちか)ひかつ契(ちか)ひて『我その人を知らず』と言ひ出づるをりしも、鷄鳴きぬ。ペテロ『にはとり鳴く前に、なんぢ三度われを否まん』と、イエスの言ひ給ひし御言を思ひだし、外に出でて甚く泣けり。

13012713 ここでイエスのいう通りになって泣いているのはペテロですが、実は私たちすべてなのです。「いや俺は違う」といいたい私もいるのですが、それは程度の差でしかありません。『にはとり鳴く前に、なんぢ三度われを否まん』というのは私なのです。

13010813 私はいつも「太宰治『右大臣実朝』」を思い出します。いつも実朝を殺す公暁はイエスを訴えでたユダに思えるのです。実は今も実朝の首はどこにあるのか分からないそうです。北条義時が真面目に探したのかなあ。

第10章
 かくてイエスその十二弟子を召し、穢れし靈を制する權威をあたへて、之を逐ひ出し、もろもろの病、もろもろの疾患(いやす)を醫すことを得しめ給ふ。
 十二使徒の名は左のごとし。先づペテロといふシモン及びその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ及びその兄弟ヨハネ、ピリポ及びバルトロマイ、トマス及び取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブ及びタダイ、熱心黨のシモン及びイスカリオテのユダ、このユダはイエスを賣りし者なり。イエスこの十二人を遣さんとて、命じて言ひたまふ。
『異邦人の途にゆくな、又サマリヤ人の町に入るな。むしろイスラエルの家の失せたる羊にゆけ。往きて宣べつたへ「天國は近づけり」と言へ。病める者をいやし、死にたる者を甦へらせ、癩病人をきよめ、惡鬼を逐ひいだせ。價(あたひ)なしに受けたれば價なしに與へよ。帶のなかに金・銀または錢をもつな。旅の嚢(ふくろ)も、二枚の下衣(したぎ)も、鞋(くつ)も、杖(つゑ)ももつな。勞動人(はたらきびと)の、その食物を得るは相應しきなり。いづれの町いづれの村に入るとも、その中にて相應しき者を尋ねいだして、立ち去るまでは其處に留れ。人の家に入らば平安を祈れ。その家もし之に相應しくば、汝らの祈る平安はその上に臨まん。もし相應しからずば、その平安はなんぢらに歸らん。人もし汝らを受けず、汝らの言を聽かずば、その家その町を立ち去るとき、足の塵をはらへ。まことに汝らに告ぐ、審判の日には、その町よりもソドム、ゴモラの地のかた耐へ易からん。
13010903 視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼(おほかみ)のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧(さと)く、鴿(はと)のごとく素直なれ。人々に心せよ、それは汝らを衆議所に付し、會堂にて鞭うたん。また汝等わが故によりて、司たち王たちの前に曳かれん。これは彼らと異邦人とに證をなさん爲なり。かれら汝らを付(わた)さば、如何に何を言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべし。これ言ふものは汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ汝らの父の靈なり。兄弟は兄弟を、父は子を死に付し、子どもは親に逆ひて之を死なしめん。又なんぢら我が名のために凡ての人に憎まれん。されど終まで耐へ忍ぶものは救はるべし。この町にて責めらるる時は、かの町に逃れよ。誠に汝らに告ぐ、なんぢらイスラエルの町々を巡り盡さぬうちに人の子は來るべし。
 弟子はその師にまさらず、僕(しもべ)はその主にまさらず、弟子はその師のごとく、僕はその主の如くならば足れり。もし家主をベルゼブルと呼びたらんには、ましてその家の者をや。この故に、彼らを懼(おそ)るな。蔽(おほ)はれたるものに露(あらは)れぬはなく、隱れたるものに知られぬは無ければなり。暗黒(くらき)にて我が告ぐることを光明(あかるき)にて言へ。耳をあてて聽くことを屋(や)の上にて宣べよ。身を殺して靈魂(たましひ)をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。二羽の雀は一錢にて賣るにあらずや、然るに、汝らの父の許なくば、その一羽も地に落つること無からん。汝らの頭の髮までも皆かぞへらる。この故におそるな、汝らは多くの雀よりも優(すぐ)るるなり。されど凡そ人の前にて我を言ひあらはす者を、我もまた天にいます我が父の前にて言ひ顯さん。されど人の前にて我を否む者を、我もまた天にいます我が父の前にて否まん。
 われ地に平和を投ぜんために來れりと思ふな。平和にあらず、反つて劍(つるぎ)を投ぜん爲に來れり。それ我が來れるは、人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑(しう)とめより分たん爲なり。人の仇はその家の者なるべし。我よりも父または母を愛する者は、我に相應(ふさわ)しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相應しからず。又おのが十字架をとりて我に從はぬ者は、我に相應しからず。生命を得る者はこれを失ひ、我がために生命を失ふ者はこれを得べし。
 汝らを受くる者は、我を受くるなり。我をうくる者は、我を遣し給ひし者を受くるなり。預言者たる名の故に預言者をうくる者は、預言者の報(むくひ)をうけ、義人たる名のゆゑに義人をうくる者は、義人の報を受くべし。凡(おほよ)そわが弟子たる名の故に、この小き者の一人に冷かなる水一杯にても與ふる者は、まことに汝らに告ぐ、必ずその報を失はざるべし』13010904

「太宰治『駈込み訴え』」の最後がこれです。

金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。

 いつも私はこれが公暁に思えてしまうのです。イエスも実朝も巣晴らしすぎるんだよね。

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