将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:インドネシア

2017060519 12月26日、私のクライアントの忘年会がありました。その会社で働いている女性が結婚したということで、その彼氏を連れてきていました。その彼はインドネシアのスマトラ出身の方でした。実に笑顔の素敵な若者です。
ところでこの恋人同士とスマトラ等での日本軍が起こした住民虐殺事件の話になりました。

現地に行ってもらえば分かるが、日本軍が実際に住民を虐殺し
  たんだ

11012103という言い方をされるわけですが、私は「そんなことはありえない」と答えます。私は、私の父がスマトラで終戦を迎えたことがありますから、そんな事件があるわけがないと思っているのです。またインドネシア方面軍総司令官の今村均中将は、私が尊敬する将軍であり、彼こそがオランダ軍の抑留されていたスカルノを解放し、のちのインドネシア軍を作ることに多大の功績のある人だからです。
そして実は、私は酔っている頭の中でも、この二人の言っている事件というのは、1945年12月13日のデビンティンギ事件のことだなという確信がわいていました。この事件に関しては日本軍はまったくの無罪なのですが、この忘年会の場では、私の頭の記憶にぼんやりとあるだけで、詳しく展開することができません。私はいろいろなことをこうしてパソコン通信の場で書き込んでいて、そうした飲んでいる場でも、パソコンを開いて、私のいう根拠を画面で詳しく証拠だてて説明することがありますが、この事件に関しては何も書いていませんでした。それで、今ここに書いておこうと思うわけです。
その忘年会の2次会から帰ってきたのが夜1時半でしたが、このことが気になって、朝4時に目が醒めてしまい、早速この事件のことの資料を探し出しました。スマトラ島の地図にも見入っていました。私はスマトラ島の地図ならすぐ書くことができるのですが、さらに詳しく見ていました。昨日の二人の恋人と話した話を、地図を見ながら反芻していたのです。
そしてやはり、この事件のことだなと確信できました。これはぜひ彼彼女に連絡しなくてはと思いましたが、住所も電話も分かりません。その会社の社長の自宅へ電話して聞いてみようと思いましたが、電話を手にとって、「あっ!」と気がつきました。まだ朝の5時前なのです。それで「あとで」と思ううちに、また頼まれている友人の年賀状を印刷したり、自分の年賀状を作り出したりして、それで電話する機会がなくなってしまいました。
とにかく、まずはここに書いておいて、来年にでもこれを送ることにしましょ
うと思っています。

スマトラ島南東部のパレンバン市の南西部バリサン山脈の山すそに、デビンティンギ市があります。この市には終戦の年の日本とインドネシアの衝突事件の記念塔が立っています。この記念日の特集としてインドネシアタイムス(英字新聞)が、1976年春次のような記事を載せました。

終戦の年の12月13日、テビンティンギ市で女子供を含めた
  数千人のインドネシア人が虐殺された。殺したのはイギリス軍で
  もない。オランダ人でもない。日本軍だ。理由もなく突然多数の
  戦車を先頭に立てて乱入して殺戮した。

この記事に対して、当時近衛師団渉外部のインドネシア係としてこの事件の収拾に当たった当時者である総山孝雄さんが、「一部終始を詳細に知っているが、これはまったくの虚報である」ということで、反論をしていきます。また同時のこの報道にはインドネシア側の歴史家も疑問を提示します。独立戦争の勇士で、戦後スマトラのメダン地区独立戦老兵会の会長であり、独立戦史を研究していたニップカムリ氏です。
それで、このインドネシアタイムスで、この報道をした責任者である編集者ユヌマ氏も参加して、このデビンティンギ事件の真相を究明する作業がすすめられてきました。その結果、その真相が次の書物に記されています。

  北スマトラ州戦史編集検討会「北スマトラにおけるインドネシ
  ア独立戦史」

この本の中のB3項に、この事件の経過が詳しく述べられています。これが大変に長い文なわけで、全文掲げるわけにはいかず、私が勝手に以下要約します。

インドネシアでは戦後独立を宣言し、スマトラ島でもメダンにおいて独立が宣言がされていた。だが独立を認めないオランダ軍とそれを支援するイギリス軍が迫っており、インドネシア共和国軍やインドネシア青年党は、それらと戦うために武器を必要としており、降伏した日本軍の持っている武器をぜひ手に入れたいと考えていた。こうした情勢下で、1945年12月13日にテビンティンギ事件が発生したわけである。
1945年の12月初め英軍司令官の命により、中島司政長官、メダン市長、北スマトラ宗務部長、鉄道部長と薄金文化部長等が家族同伴で列車に乗ってキサラン近くの農園に向かった。テビンティンギのプシンド(都市地域武装社会主義青年党の略称)の指導者は、テビンティンギ駅でその汽車を止めて武器を奪う計画を立てた。12月11日、汽車が到着すると、武装した青年たちが、その列車を阻止した。
武器を渡すように要求したが、日本の指揮官はこれを拒否した。だが長時間の対峙のあと、15時に日本軍は降伏し、15時30分すべての武器が引き渡された。日本の将校4人を人質としたが、青年たちはその一人深尾大尉を殺してしまった。
この日の夕方、宮川中尉により警備されていたグヌンパメラの食料倉庫が青年たちに取り囲まれた。彼らは見知らぬ他所者に指導されていた。青年たちが迫ってくるので、宮川中尉はバヒランの連隊長に電話して、暴徒に対する射撃の許可を要請した。電話で沢村少将は「話せば判る。われわれの兄弟であるインドネシア人を殺してはならん。話し合いで解決せよ」と答えた。この二人の会話がまだ終わらない前に、青年たちは電話線を切断してしまった。宮川中尉は部下に、武器を下に置くように命令した。青年たちは武器を取り上げて、蛮刀と槍で、一斉に宮川隊に襲いかかり、宮川中尉以外の日本人をすべて殺した、宮川中尉は頭をたたきわられたが、瀕死の状態で倒れていたところを翌朝、農民に助けられた。
12月12日午前9時、前日の列車阻止での指導していたアミルタアトナスティオン(テビンティンギのプシンドの長)は、ほかの指導者とともに、バラヒンの沢村少将に会いに来た。
アミルタアトティオンは

所有する武器全部を渡して貰いたい。さもないと2千人のイン
  ドネシアの青年たちは、このバラックを攻撃し、皆殺しにします。

これを沢村少将の部下中村副官は、拒否して、昨日のテビンティンギ駅での彼らの略奪に抗議し、その列車の深尾大尉ら40人の兵士がどうなったかを尋ねた。アミルタアトは、もう殺してしまっているのだから答えない。
ここで日本軍もテビンティンギの様子を探ると、昨夜グヌンパメラの農園で日本人16人が殺害されたことを知るにいたり、さらに町の日本人全てが殺されたという噂も得てしまった。
無線は通じず、電話線は切られており、第三大隊の妹尾孝泰少佐は、連帯本部になにか異変がおきたのではと心配し、全兵士を非常呼集して、連帯本部まで20キロを駆け抜けた。12月13日朝、彼らは連帯本部に息を切らして到着した。
沢村少将は、自らの命令に従ったために抵抗することもできずに殺されて行った部下のことを思い、今この報復を行わないと、また無限に日本人が殺戮されていくことを深く怖れ、妹尾少佐に、テビンティンギのプシンドに対する報復攻撃の準備を命令した。師団長の許可を仰ぐため無線により電報を打った。驚いた師団では、攻撃をやめさせるために先任参謀の室本中佐を急いで派遣した。現地にきて詳しく調べてみると、警告のために報復攻撃が必要であるとの結論に達し、攻撃が許可された。午後2時、数個の小部隊を町から出る4つの出口に伏せた後、歩兵1個大隊が前面に2台、背後に1台の戦車を伴って、南の方向から町の中に進撃した。大砲もあったが一般市民が犠牲になるのを防ぐために使用しなかった。
攻撃はこのように用心深く行われたが、やはり錯誤による犠牲は避けられなかった。日本軍は果敢に攻撃し、至るところで女子供までが犠牲になった。(これは、あくまでインドネシア側の記録であるわけです。「至るところで女子供まで」ということは、「事実ではない」と総山氏は言っています。だが、日本軍が何の理由もなく、攻撃したのではないことは、こうして現代のインドネシアが認めているわけです)。
プシンドは簡単に敗北した。過激な指導をした者が、ジャワから来た煽動者だったことを市民から伝えられたプシンドは一斉に町から逃げ出してしまった。
やがて、テビンティンギを奪回するために青年たちが、戻ってきて日本軍と戦った。戦いは17日まで続き、多くのインドネシア青年が亡くなった。
12月14日、日本軍渉外部の総山孝雄はインドネシアの総督代理マハラジャソアンクポンと会い、事態の収拾を協議した。この不幸な事件で利益を得るのは、オランダのみだということで意見の一致を見た。そして、事件をすぐ終わらせるために、全党派の会合の必要であるということになり、まずは、インドネシア政府の代表と、諸党派の代表と、日本軍の代表としての総山が、事態収拾のためにテビンティンギへ行くこととなった。
だが、日本軍の沢村少将は、彼の無抵抗命令を忠実に守って殺されていった部下に対してプシンドがやった残忍な処置を許せなかったので、この代表たちは沢村に何も言うことができなかった。そこで総山が夜半単独で、沢村と会い説得した。

閣下には報復せねばならぬ理由がある事を私は判っています。
  日本の兵士に対する殺戮を憎むことは私も閣下と同じです。しか
  しながら、もし閣下がこの報復を続けて独立運動を妨げるなら、
  インドネシア国民はこの事件が起こった本当の理由を自国民には
  報道しないで、閣下が一方的に残酷な殺戮を行ったという報道を
  流すでありましょう。そうなったら、彼らはいつまでもわれわれ
  日本人を、恨むことになります。わが民族の悠久の大義に基づい
  て今後の永い友好関係のために、閣下の怒りを静めて下さい。イ
  ンドネシア青年たちがこれ以上日本人を殺さなければ、日本軍は
  報復を止めるという事を布告してください。われわれは心の中で
  はインドネシアを愛し続けているけれども、敗戦により禁じられ
  ているわれわれは、公然と独立を助ける事はできない。われわれ
  はインドネシアの独立を助けたいのだが、必死に我慢しているの
  だという事を告げて下さい。われわれは、インドネシア人がこれ
  以上日本人を殺さない限り、インドネシア人を攻撃したり、イン
  ドネシアの独立を妨げる事は決してない事を、布告してください。

こうした総山の必死の言葉に、沢村少将は、これを納得した。12月17日、東スマトラ代表の命令として、トンクハファスはテビンティンギの青年党に戦闘の停止を命令した。
このまことに残念な事件は、実際は度を越えた革命精神により起こったのであって、その結果却って共和国の大切な国民保安隊や青年党が大打撃を受け、革命精神の性急さのために却って革命が打撃を受けてしまったのである。 大戦に敗れ降伏した後にも、日本軍はインドネシアの独立戦争に同情していた。にも拘わらず、インドネシアの青年の一部により残酷な方法で仲間が殺されると、彼らは我慢できなかったのである。
メダンの共和国の指導者たちは、当初この事件をそれほど重大視していなかったが、12月18日になって、その全容が判ると、大きなショックを受けてしまった。
共和国政府は、政府の同意を求める事なく、勝手に行動した共和国の青年たちを非難した。また東スマトラインドネシア国営通信社は、テビンティンギの青年たちは、強盗の刑事犯であるとの声明をだした。
日本軍はインドネシア人の敵ではないから、事件が起ってもインドネシア人との争いの激化を望まないという事を、われわれは確信せねばならない。この日本によって与えられた好意を勝手な行動で裏切らないように、東スマトラの全インドネシア人は肝に銘しなければならない。

また言いますが、以上にこれはインドネシアの歴史の本に書かれていることです。今また、この現実の1997年12月26日の忘年会の場やその他のところで、この事件を真実ではないことで、伝えるというのは、私には、それこそこうして事件を解決し、かつ今この事件の真相を明らかにしていった、日本とインドネシアの心ある人たちの好意および友好精神を失わせるものではないかとしかいいようがありません。
もしももしも、それでもこのときに日本軍の行動がいけないことだというのならば、一体インドネシアはオランダに対して戦うことも戦う理由すらないということになりませんか。虐殺攻撃をしてきたのは、プシンドであり、さらに「皆殺しにする」などと脅されれば、それに対して武器をとって戦うのは当りまえです。もしもプシンドの指導者がまともだったらば、こんな攻撃をしなかったでしょうし、間違ってやり始めてしまったとしても、途中でやめればよかったわけです。そうではさらに青年たちは攻撃を続けたわけですから、戦いは終わらないわけです。
オランダは一体何年インドネシアを支配続けたのですか。そして、その飽くなき搾取に対して、インドネシアの青年たちは雄々しく戦っていったわけではありませんか。突如だまして、攻撃虐殺するなんていうやり方は、彼らオランダのやり方であって、どうしてインドネシアの青年たちが、我が日本軍に対して、オランダのようなそうした不当なことをやったのでしょうか(まあ、プシンドの指導者がいけないのだろうけれど)。そうしたら、当然に戦うのが当りまえです。
まだまだ、話したいことがあります。今村均将軍のやったこと、スカルノのこと、等々、述べたいことはたくさんあります。今村均が戦後、戦犯としてオランダ軍に囚われたときに、スカルノはじめインドネシアの人たちは、「もし有罪などということだったら、あなたを必ず牢から奪還する」と言ったことなどを思い出します。
たくさんのことをまだまだ述べたいのですが、それはまたの機会にしましょう。
最後に、このインドネシア方面軍の司令官であった今村均の収容所でのあるエピソードを書いて、この文を終わります。

「将軍がここにはいられたので、日本人みな力にしているとのこ
とですね」
「九十九人匹の羊は祖国へ帰し得ましたが、ここに残されている
迷える一匹は、どうしても私がみまもる責任があるのです」
「あなたは羊を飼っていたのですか。どこで?」

けげんな顔でたずねるマッピン(少佐牧師)に、片山が「マタ
イ伝第十八章の言葉をひかれたのです」と説明した。
「ああ、そうでしたか」マッピンが明るく笑った。「将軍は聖書
を読んでいるのですか」
「十八歳まではよく教会にいってました。聖書は今も手にしてい
ます」
「そうですか。それで今も、キリスト教を信仰しているのですか」
「仏教と申しておきましょう。一般の仏教とは少し違いますが……」
「それは何という信仰ですか」
「法然、親鸞という仏教の聖者が説いた教えで、イエスの説かれ
たものと同じ愛と救いの信仰です」 
(角田房子「責任ラバウルの将軍今村均」)

今村均は、オランダ軍に戦犯とされた部下たちが無罪であるということ証明するために、自ら収容所に入ります。そのときのラバウル収容所での豪州軍少佐マッピンとの会話です。この今村均の思いが、先に書いた総山孝雄氏の心と同じであると思います。昔の戦友たちが、なんらいわれのないことで罪におとされ貶されることには、敢然と正しいことを主張しているのだと思います。迷える1匹の羊であろうとも、それを探し、それを救い出すことは、絶対にやらねばならないのです。私もまったく同じ気持なのです。(1997.12.28)

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59c772d9.jpg 同じく9月17日のアラスアラサンで、手に入れました絵葉書です。これはインドネシアのジャワ島で手に入れたものなのかなあ。

 

 

 

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アラスアラサンで手に入れました絵はがき の3 へ

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 もう前のようには飲んでいない私です。でも週に1度くらいの頻度で、千駄木の「浅野」には飲みに行っています。

   http://shomon.net/sake/suisen1.htm#031120  千駄木『浅野』

 この店のすぐ近くに、この「インドネシアの雑貨・布・服・アクセサリー」というお店があり、私はときどき寄っています。よみせ通りを浅野から歩いて行って、ときどきお邪魔しています。

店 名 alas-alasan アラスアラサン
住 所 113-0032
    東京都文京区千駄木3丁目39番7号
    電話・FAX 03(3821)2675
営業時間 12:00〜20:00
定休日 火曜日
URL http://www17.ocn.ne.jp/~alasan

 ここで今までいくつかのものを買って、孫にあげたりしています。
 私はインドネシアというと、インドネシア独立のときの今村均中将のことがずっと尊敬する人物でしたから、そのことからのみ考えてきたものでした。実際の文化や生活は何一つ知らないわけでした。
 でもこうして、ここで「インドネシアの雑貨・布・服・アクセサリー」をいくつも知りまして、とても嬉しくなっています。
 このお店の店長の女性は、きっとインドネシアが好きで、たくさんの思いがあるんだろうなあ、と思っています。ただ私はいつも飲んでいるだけですからね。こうして、インターネット上でも、このサイトを知って、もっと新しいインドネシアのことも知らないといけないなあ、と感じています。
 写真は9月20日に、このお店で、孫のポコちゃんい買いましたお土産です。可愛い象さんです。
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