将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:ウォトカ

201804090412092504 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPもありました。

居酒屋が出来る前 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月25日(火)06時31分21秒
  洋酒喫茶などという名前の付いた飲み屋がありました。勿論、日本のお酒も置いていたのでしょうが、何とは無くハイカラな感じで、若い客層に人気があったようです。とにかく、若い時分は、何にでも興味がありますから、アルコールと名の付くものは、色々と「試して」みたものです。知人の一人は、仲間で飲み会をやる時は、必ず、ウォッカかジンの瓶を抱えてきました。知ったばかりの文章に出てくる「アプサン」とは一体どんな酒なのか、外国人の歌う「テキーラ」とは何ぞや。そんな事を飲みながら、話し合った記憶があります。

忘れていたウィスキーの名前を思い出しました、リザーブでした。

私は異常に日本酒が好きなので(大昔35年くらい前に「越の寒梅」を30本注文したことがあります)、洋酒というのは買ったことがないですね。ゴールデン街でボトルを入れるのに、困ってウォトカの「ストロヴァイアン」にしたものです。何しろ、50度ですから、これをストレートで飲むと、とにかく感動しました。いつも記憶がなくなっていました。
アブサンもテキーラも飲みましたが、私にはウォトカが良かったものです。ジンの「ドライマティニ」はいつもバーでは、「もっとドライに」に言い続けて、「ジンストでいいんだよ」とは決して、口には出さないで、飲んでいたものです。
リザーブは私には決して私には「新しい中級品」とは思えませんでした。思い出してもオールドですら買ったり、ボトルで入れたことはありません。ただ貰い物をどうしてか、いっぱい手に入れて飲んだものでしたね。
12092505 ただやっぱり日本酒を手に入れて飲んだものでした。四斗樽というのは40升あるのですね。いくつくらい手に入れたことでしょうか。注文もとにかく早くやっていたものです。いくつかの東京の酒屋さんを思い出します。
いや浦和の酒屋さんも、我孫子の春日やさんも思い出します。いや日暮里の前田和洋酒店も思い出すな。

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12092405 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

ウィスキーは 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月24日(月)06時56分23秒
  十代の後半になって、サントリーが「レッド」、ニッカが「黒ラベル」を発売して、そのコマーシャルがテレビで流れて、知ったものでした。若者たちは、皆、お金がありませんから、集まると、レッドの大瓶を一本買って、それをコーラで割って飲んでいたように思います。社会人になってからは、水割りで飲む事が多かったかなぁ。その頃は、サントリーの新しい中級品?(名前を忘れました)が発売され、人気もあったような記憶があります。瓶の形に特徴があったと思うのですが…。

 私は一貫として日本酒が好きでした。だからアパートではいつも一升瓶がありました。私はそもそも部屋で洋酒を飲むことはないものでした。ゴールデン街で飲むようになってから、ウィスキーも知るようになりました。あれは1970年台後半かなあ。
 私はゴールデン街の『吐夢』と『ひしょう』で飲むようになりました(他にも親しい飲み屋はありましたが、今は存在しません)。ただし、私は『吐夢』にボトルで入れていたのは、50度の『ストロヴァイアン』(ウォトカ)です。実によく飲みましたね。
 この『吐夢』では、みな角瓶のボトルを入れていました。他の店は白(シロと言っていた)が多かったかな。私はここの街へ来る流しの人とも親しくなったものです。私が軍歌を詳しく歌えるので、最初は不思儀だったようですが、それが当たり前になりました。
 それに私が必ず詩吟をやるので、それにアコーディオンで演奏をつけてくれた方(この方は先年亡くなりました。息子さんが私にメールをくれたものです)がいます。横浜の野毛でも演奏している方で、私も横浜でも会いたかったものです。
12092409 いえ流しの方では他にも親しい方がいまして、必ず私の軍歌には伴奏をつけてくれ、そして必ず詩吟もやったものです(私は詩吟はいつも同じ一吟だけにしていました。いやもっとできるのですが、みんなあきちゃうでしょう)。
 懐かしく、いくつものことを思い出します。

11101305 13日に私は、文教大学父母教の役員会に行くために北柏に行きました。ホームの柏駅のほうに行きましたら、驚くほど大きな女性の声が聞えます。そしてそれは外国語であり、よく聴いていきますと、どうもロシア語です。そしてそれを喋っているのが、金髪の細身の美人でした。彼女は、信じられないくらい大きな声で、携帯電話に向かって怒り狂っています。誰もが驚いて彼女を見ています。彼女はそのまま電車に乗り(電車の中では携帯は止めました)、次の柏駅で降りて、また歩きながら大声で携帯に向かって怒っていました。色の白いスタイルのよい美人なのですが、もう地獄の底から聞えるような声で怒っていました、みな驚いて彼女を振り返っていました。
 私は、「やっぱり、ロシアってのは貧しいから、携帯の使い方も知らないんだろうな」なんて思いで彼女を見ていました。
 でも彼女を見ていまして、「あ、彼女のような金髪の美人に会ったことがあったな」と思いだしたことがあります。

 たしか、昨年11月の最後の頃です。ゴールデン街のある店で飲んでいましたら、金髪の圧倒的美女とその連れ(この人は日本人)がきました。ロシア語と日本語混ぜて二人で話していました。なんだか彼女は、最初からロシアの悪口ばかり滔々と述べています。それで、私が話しかけましたら、彼女は自分はウクライナ人だといいます。私はウクライナといえば、コサックの故郷で、大きな河として、ドン河、ドニエプル河があること、それくらいしか知らないなといいました。そうすると、彼女は隣にいるウォトカをただ飲んでいる酔っぱらいがそれだけのことを知っていることに驚いていました。
 それで、私は「何のかんの言っても、ウクライナはロシアを羨ましく思っているんだろうな」なんて思いで、意地悪な気持になりました。(ようするに、ウクライナ人も結局は豊かなロシアの都会で生活したいと思っているのサ)

  あの、ウクライナを代表する文学者って、誰なんですか?

なんて言いますと、彼女は「日本にまで知られた作家はいない」といいます。

  それなら、あなたが好きな作家は誰なの?

と聞きます。彼女が考え込んでいるので、私は

  あなたの嫌いなロシアの作家だけれど、私はチェーホフが好き
  だな

といいました。彼女もチェーホフが好きだといいます。ウクライナでもよく読まれている作家だといいます。それで、私は

  あなたの嫌いなロシアの作家だけれど、私が好きなのは

と言って、さらに、ソルジェニーツィン、ドストエフスキー、プーシキン、それにツルゲーネフをあげました。彼女もみな好きな作家だといいます。
 さらに私は、

  私が嫌いだというと、オストロフスキーかな

なんてつけくわえます。彼女も納得のようです。
 それで私はいいます。

  でもサ、みんなあなたの嫌いなロシアの作家じゃないの(ほん
  とうに、周は嫌な奴だね)

 私には、なにか私の知らないウクライナの作家名を教えてくれるかと思っていたのですが、それがないので、つい皮肉を言いたくなったのです。
 それから彼女は、

  ロシアは、ウクライナ固有の領土である○○を奪おうとしている

というように言い、この「○○」には「ヤルタのあるところ?」というと、そうだといいます。クリミア半島のことですね。私は、

  でも、ロシアにしてもあそこには血を流しているからね。セバ
  ストポリの攻防(露土戦争のときに、ロシア対トルコ・イギリス・
  フランスが戦った)で、ロシア人は実に大変に血を流したでしょ
  う。

 これで、また彼女は「なんでそんなことまで知っているのだ」と驚いて、その隣の男性は、「ゴールデン街はインテリが多いから」なんていう馬鹿な解説をしています。私は、「旅順攻防戦の前の大規模な攻城戦と言ったら、セバストポリじゃないか」なんていう思いでいました。
 ただ、その頃になって、私はその色白の金髪の美女を見ているうちに、また別な金髪の美女を思いだしていました。

 昨年の11月2日のことです。私は埼玉大学のむつめ祭の、「暴力酒場ひだり」で飲んでいました。前日から飲み続けで、翌日の昼2時過ぎです。さすがにこの時間になると、また飲んべいが集まってきます。それで、突如後輩が、金髪の美女を連れて入ってきました。埼大の留学生だということで、ポーランドの金髪の美人でした。「埼大で何をやっているの?」という問いに、「芥川龍之介の研究をやっている」といいます。
 私は「外人なら、芥川なんんかやるなよ。『源氏物語』にでもしろよ」なんて思いながら、次の話をしました。

  芥川龍之介のことで

でも、こうした芥川、久米正雄、菊地寛の思いの細かいことなんか、彼女には判りようがないようです。
 それで、私は言いました。

  芥川には、いわばお母さんが4人いるんだよね。

 彼女は、ハッとして、

  いえ、母親は3人だと言えると思うんですが

といいます。そこで私はまた一人一人をあげて、「これで4名じゃないの」といいます。
 そして私は、今度はポーランドの歴史で、ロシア=エカテリナ2世、オーストリア=マリアテレサ、プロイセン=フリードリッヒ大王による分割占領(これは当事者はいろいろですが18世紀後半に3度分割されています)されていることをあげ、私がポーランドに親近感を抱いていることをいいました。ナポレオンによるワルシャワ大公国のこともいいました。私は目の前の美人を、

  ナポレオンが愛したポーランド人マリア・ヴァレフスカって、
  こんな美女だっったのかな

なんて思いでいました。
 さらに私は、「連帯」のワレサが好きだったこと、ワレサの言われた内容、この「連帯」にまさしく連帯してストをしたアメリカ・デトロイトのポーランド系労働組合のことをいいました。
 彼女は、私がワレサのことを言い出したら、

  ワレサなんて、私の子どもの頃の人だ、なんで、あなたはそん
  な昔の話を知っているんだ

と驚いていました。

 しかし、こうして美女と会っても、私は次第に酒で訳が判らなくなってしまうのですね。今度機会があったら、もっとちゃんとお話しよう。

  私がチェーホフをすべて全集で読んでいた頃、彼の言葉に気に入っていたのが次でした。

  罪悪は酒を飲むことにあるのではなく、酔いどれを助け起こさ
 ないことにあるのだ

11031109 私はこれを知ってからいつも酔っぱらいを助け起こすようになりました。助け起こしているのは別な瞬間の自分かもしれないのです。そして私は50度のストロヴァイヤンというウォトカをただひたすらに飲むようになっていました。
 1889年7月にチェーホフは黒海沿岸のオデッサの「北ホテル」に宿をとったときに出会ったのが、女優のクレオパトラ・カラトゥイギナ(1848〜1934)でした。このホテルの48号室が他の俳優達も集まる「アントニオとクレオパトラのお茶の会」の部屋となっていたのです。
 この女優は、この出会い以前に、はるか最果てのシベリアからサハリンまで、数回にわたって巡業・放浪の旅を経験していました。
 彼女への手紙に、チェーホフは必ず、「ロシア大地の大女優」と尊称で呼んでいました。1860年1月29日から1904年7月15日まで生きたチェーホフよりも、随分年上であり、そしてチェーホフの死後を長く生きています。
 そして彼女は、1926年、チェーホフの死後22年後78歳の時に、『A・チェーホフの思い出ーわたしがアントン・パーヴロヴィチと知り合ったいきさつ』を書き残しています。
 最初に初めて知り合った日のことは、次のように書いてあります。

 あたりが暗くなって、みな帰り支度をはじめると、彼は手を差しの、また憎らしい紙袋を差し出し、同じ馬車にのりこむ。気性が荒くて、口下手で社交性の乏しい(と自分でも自覚している)彼女は、突然今をときめく文壇の新星と同乗する事態になって、最初のうちは、レーンスキー(彼女と同じ劇団の俳優)も、自分も、この <幸せな機会> もうらめしく思った。しかしチェーホフはすぐに彼女の途惑いを察して、彼独特の、気の利いた冗談や豊富な話題で彼女を会話に引き込んだ。二人はホテルに着くまでの途中ずっとおしゃべりに夢中になり、声をたてて笑い通した。ホテルで一行が夕食に向かうときも、彼のやさしさ、率直さ、ユーモアの彼女はすっかり魅せられてしまう。

この日から、私たち二人は親しいお友達になりました」、とクレオパトラは記している。そう、チェーホフと彼女は実にいいお友達でした。
 クレオパトラの情報はシベリア・サハリンの荒々しい大自然と煉獄を生きる桁外れな人物たちだったが、作家・医師としてのチェーホフの視線は、その先のサハリンに、流刑地のどん底に追放された人々に注がれていた。
 このクレオパトラとの出会いがチェーホフには実に大きなことだったなとばかり思います。(2011.03.12)

  この画像は、「エルネオス2009年9月号」にあった「サントリーの角瓶」の広告ページをスキャンしました。
 こういうふうに勝手にスキャンして、ここに載せてはい09090401けないのでしょうが、なかなかいい広告ページだと思ったものです。他の雑誌でも見たことがあります。
 私はゴールデン街でも2つの店で、ウォトカの「ストロヴァイアン」をボトルで入れていました。でもウォトカのない店では、ウィスキーを入れるのですが、それがほぼ角瓶でした。
 それで私はウィスキーでもウォトカでも必ずストレートで飲みます。決して水では割りませんでした。チョイサーとして、ときどき水を飲みます。この水には氷を入れるのは嫌いでした。
 でも思い出せば、ゴールデン街以外だとまずウォトカなんか置いていないから、けっこうウィスキーも飲みましたね。他ですと、サントリーではなく、ニッカもよく飲みました。京都なんかでは、オーシャンウィスキーを飲みましたね。
 でも思い出せば、ハイボールにして飲んだことは数えるくらいしかないなあ。

 この画像は、背景の夜景もいいです。ママの小雪さんの雰囲気もいいですね。

 私はどうしても日本酒を飲んでしまいますが、ときにはウィスキーも飲んでみようかなあ。

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 あ、書くのを忘れていました。ナミちゃんのブログの同じ土曜日7日の 眠くて眠くて〜〜〜 に次のようにあります。

昨年飛騨・高山に長女のさっさと行った時に手に入れた
紅春慶のぐい飲みを自分と夫に買って」以来それで飲む
日本酒の味?に目覚めてしまった。

実に三十年ぶりかな。

今は面白そうな地酒を探したりするがなかなかおもろいんだな。

 私もあちこち行ったときに、ぐい呑みを手に入れます。でも気に入ったのは、いつか壊れてしまうのです。たぶん使いすぎるからでしょうね。昨年秋、鎌倉小町通りで買ってきたぐい呑みも、もうお酒がもるようになって、もう棄ててしまいました。
 やっぱり、お酒を入れる器よりも私は、お酒そのものがいいなあ。

 それでナミちゃん、なんといっても、我孫子には「春日や」さんがあるではないですか。私があの店に始めて行ったのは、まだ娘も小さいときです。自転車に乗せて、私があの店に入ると、腕を組んで、ずっとお酒をみています。ときどき、「感動!」と声を出すのですが、次女が、いつも「パパ、これも『カンドウ?』」と聞いてくるようになったものです。
 まず、とにかくお酒がいいです。もう実に感動なのです。でも実は、それだけではありません。芋焼酎もいいのですが、そして例えばウォトカもいいです。ストロヴァイアンも普通に置いてあり、アメリカのウォトカも置いてあります。
 だが、なんと言っても地下1Fのワイン蔵がいいのです。でも実は、あのワイン蔵には、哀しいこともありまして…………(あのお店は昔から有名ではなく、決して昔は日本酒もワインも売れていたわけじゃないのね)。
 私が始めて、あの春日やのご主人に声をかけてもらったのは、1992年の5月3日のことでした。私はそのあとお酒をかかえて、利根川のある土手へ飲みに行ったものでした。

 あのお店で、使っているパソコンを見ると、キーボードがまっくろになるほど使われています。それがあのご主人の、仕事に対する気持なんですよ。お酒を愛しているご主人でした。でももう亡くなられましたね。
 ただ、あのご主人は実にいい、面白い方でしたが、実際にあのお酒を好きで飲まれにくる方は、私はいつも疑問を抱いていたものです。いや、私は若い方で、日本酒を好きだという方々に、どうしても疑問を抱いてしまう方が多いのです。
 でもそんな内容は、ここではやめておきましょう。私は春日やさんが開催される銘酒会の会合には2度参加しました。でももう参加する気がなくなりましたね。
 そういえば、東京各地で開催される銘酒会にも、何度も参加したものですが、それもなくなりました。
 ああ、お酒については、いろいろなことがあります。なかなか書けない内容がどうしても多いですね。

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