将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:クリエーター

11020803 娘二人が東京都文京区の教員になりましたもので、東京に住むということになりまして、それでいくつかの不動産屋さんにいきました。その一つ池袋のある店に6日土曜日に行きました。駅近くのビルの8階にありまして、若い社員が何人も働いています。私が学生の頃に部屋探しをしたときの不動産屋の雰囲気とはまったく違います。
 一番、「これは違うな」と感じましたのは、会社全体に音楽が流れていることです。私の妻も不動産屋で賃貸部門もありますが、こういう雰囲気には驚いていました。
 そこで、私はさまざまに思い出しました。会社で、こうした音楽をかけているところとかけていないところのことです。音楽ではなく、ラジオの音楽番組のみかけているところもあります。「あのデザイン会社は、いつも音楽がかかっているな。あの法律事務所は一切音楽なんかかかっていない……」と考え出していきますと、最初は職種によって違うように思い込んでいましたものが、いやそうではなく、ほぼそこの社長なり代表の年齢によることに気がつきました。代表の年齢が45歳を境にして、それ未満の場合は、ほとんど職場に音楽をかけているし、それ以上のところは音楽は一切なしです。ただし、これは私の知っている職場ばかりです。それから、接客として音楽を流しているところは、この例には入りません。デスクワークをしている職場で、音楽を流しているかどうかです。
 おそらく神聖な職場に音楽を流すなんて、まったく考えられない年代と、若い年代から音楽を流すことを当然に要求されて、すんなり了解する年代の違いなのかなと思いました。
 私はといいますと、私は30代前半に広告制作会社にいましたもので、そこではずっと音楽がかかっていました。クリエーターにとって、そうした環境が大事なようでした。そこの経験から、私はずっと職場では音楽を流します。ただし、流している音楽はかなり違います。CDでいいますと、私は高倉健や渡哲也の歌や、詩吟を流しています。ラジオのFMもよく流しています。
 私は音楽というのは、人間の右脳で聴きますから、べつにとくに仕事に差し支えるわけはなく、むしろ右脳への刺激で、いいことじゃないかと思っています。45歳以上の年代だと、音楽を聴くという行為がまだ「娯楽」だという観念があるのだと思います。娯楽は、満足に仕事を終えてからのものだという思いがあるのではないでしょうか。
 ただ、そうした音楽が流れていない職場には、私はいつもなんだか不満足です。今回それは音楽のせいなんだなと気がつきました。(2002.04.08)

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 昨日から読んでいる「指南役『キミがこの本を買ったワケ』」ですが、実に面白いです。たった今(これは実は朝7時頃書いていました。その後また時間が経ちました)読んだところの見出しが、ここの「タイトル」に書いたものです。

 「なんでも自由に書いてください」より「○○と××を劇中に入れてください」のほうが、彼らは何としても克服しようと奮闘する。

「なるほどなあ、そうだよなあ」と私も実に頷いていました。私はクリエーターと言われたことはありませんが、これは、その当時も実際に感じていたことでした。「なんでも自由にやって」なんて言うよりも、ある程度やることを指定したほうが、クリエーターたちは、ものすごくやりきるのです。「やることを指定したほうがいい」ということでしょうか。そのほうがずっといいものができるのです。

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06080807 わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるこのUPがありました。

 お題は次の文に続く──「父親はきちんと家に帰ってきて、こどもと一緒に遊んだり、笑ったり、じゃれあったり、ものを教えたりする必要がある」

 私は娘が生まれて、でも仕事が実に忙しすぎるような会社でした。ほぼ毎日娘の起きている時間には帰れないし、まだ週休2日の会社ではありませんでした。でもよく夜事務所から電話で長女とよく話したのを覚えています。
 妻がよく「ほらパパだよ」と言って電話を替わってくれていました。すぐに次女も私と電話で話すようになりました。
 思えば、そういうことが当たり前にできる会社の雰囲気に私はしていたものでした。でも思えば、あのとき私の周囲にいたクリエーターたちは、みな結婚もしないし、しても子どものいない人ばかりだったな。あ、一人男の子のいたデザイナーがいましたが、私はあの奥さんとも、息子さんとも電話で会話したことを、よく覚えていますよ。

けれども会議が、出張が、締め切りが、なんて抗議の声は上げられる。生活を成り立たせるための仕事を放り出したりすれば本末転倒ではないかと。同意、わたしもそうだから。それでもココロのどこかで知っている、ものごとには、取り返しがつくものと、つかないものがある。そして、代替の利くものと、利かないものがある。取り返しがつかないものは、子どもとの時間であり、代替が利かないものは、父親だ、ということに。

 私は二人の女の子が娘でしたが、とにかく休みのときは、懸命に遊びました。ただ女の子だったから、少々判らないところがありました。姪もみな女の子でしたから、のちに、娘の友だちの男の子が遊びにくると、その遊びの違いに驚いたものでした。
「代替が利かないものは、父親だ」というのは、よく判ります。保育園なんかではみな女の保母さんばかりで(今は保父さんもいるようですが、娘の時代は保母さんばかりでした)、男の子は遠慮があったのだと思います。私が園の行事で、行きますと、男の子たちはまさしく空中を私に飛びかかってきたものでした。こういうkことができるはずの男のお父さんは面白くて仕方なかったのです。でも、私は実にヘとへとになったものでした。

 たとえば近所の公園。「公園いってキャッチボールしよう」「紙ヒコーキ折ったら公園で飛ばそうか」と誘って子どもが喜んで一緒にいく、なんてあと何年できることやら。すぐに「友達と一緒にどこかへ」になるに違いない。つまり、公園で遊べる期間は、ある年齢を過ぎてしまえば取り返しがつかない時間となり、その相手は、父親以外の誰も代わりができない。

「父親以外の誰も代わりができない」というのは、その通りです。だから父親は大切なのです。そして同時に母親も大事なのです。誰も代わりは簡単にできないはずです。
 でも、いい本を知ることができました。

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