将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:コピーライター

52b06421.jpg   以下は王子駅にある看板に書かれているコピーです。ここの画像も載せます。


僕らには祭りが必要だ。バカをやる場が必要だ。仲間が必要だ。できるだけたくさんで集まろう。できるだけたくさんのことで泣くけど笑おう。忘年会はお祭りだ。さあ、日本中で、乾杯だ。


  私も「コピーライター」と言われたときもありました。
  温泉新聞の新聞記者をやったあと(別な仕事をやりまして、そのあと)、広告コピーの仕事をやりました。そのときに、新聞の取材記事を書くことと、コピーを書くことは、大きく違うのだということを知ったものでした。
  でも私は、この王子の駅の袖看板(というのかなあ?もちろん違うよ)にありましたコピーは好きです。

11011105 私が大学を出たのは1973(昭和48)年でした。大学には6年いたことになります。
 最初に就職したのが、印刷屋です。「㈱昭和印刷出版」という会社でした。ここでは、ただただ酒を飲んでいたという印象が強いのです。とにかく最初の面接のときからビールが出てきました。私は毎日下駄ばきで会社へ行って、ただただ、忙しいだけの印刷工でした。印刷製本等々の仕事全般をやりました。とにかく昼間からビールを飲み、オフセット印刷機のそばで酒を飲んでいるというところでした。
 次に、沖縄で沖縄電力の下請の「武藤工業」というところで、海洋博へいく送電線を作る仕事をしていました。なんで沖縄へ行ったかというと、たしか浦和で飲んでいたら、そのまま名古屋京都大阪と飲み続けるままに、鹿児島を経て沖縄まで行っていました。ここではまず米軍基地の内外に送電線の塔を作るということで、大きな穴を掘り、そこへ大きな鉄骨を入れ、鉄筋を組んで、仮枠を作り、生コンを流し込んで、やがて鉄骨を組んでいくという仕事です。仕事としては、土方、鉄筋工、仮枠大工、鉄骨工という作業だったでしょうか。飯場が沖縄本島の太平洋に面した久志村というところにあり、愉しい毎日でした。
 そのころの彼女が沖縄まで迎えにきてくれて、それじゃ「やっぱり俺は鉄骨や鉄筋を扱うより鉛筆をもつべきじゃないか」と考えて、「今度は新聞記者になろう」という決意のもと、次は「温泉新聞社」というところの記者になりました。
 温泉新聞社というところは、旅行業界の業界紙だったのですが、旬刊でブランケットの新聞を出しており、この新聞作りのための取材と印刷工場での新聞組みをやりました。また毎月末の各観光温泉地への集金業務も大事な仕事であり、これはまた面白いので、今後また別に書いてみたいと思っています。
 次に就いたのは、同じ旅行業界の「観光ホテルセンター」というところでした。ここは、東北甲信越伊豆の観光ホテルの総合安定所(これを説明するのは少々面倒なのです、またそのうち説明しましょう)でした。毎日、各旅行会社に対して、各ホテルのパンフレットを持って営業に歩きました。このときにはもうそれこそ東京中、どこでも歩きました(もちろん、横浜、埼玉、千葉も歩きましたが)。私は東京の各国鉄私鉄の駅(都電の駅含めて)降りて歩いていないところはないでしょう。歩き過ぎで、最初の頃は、足のアキレス健のところから血が出てしまい、私はいつもバンドエイドを貼っていたものでした。

 次に魯迅の「狂人日記」の「子どもを救え」という最後の言葉に真剣に感じることがあって、「保育総合学園」というところで広告コピーを作る仕事に就きました。保母を育てる通信教育(通学部もあったが)をしている会社で、私は毎日毎日広告コピーを書いていました。会社としては「ニチイ学館」という会社だったのですが、身分上は「㈱東京丸の内出版」という会社の社員になっていました。この会社はエレベータのある会社で、女子社員パートアルバイトも多く、私は初めて普通の会社に入ったなという感じでした(初めて社会保険に加入できた)。なにしろ、この会社に入るときには、実に120社くらいの面接を受けたかと思います。
 毎日毎日広告コピーを書き、かつさまざまなもの(パンフレットとかさまざまな案内書とか)を制作していましたが、あるときの人事異動でその会社グループの「広報部」に配属になりました。今度は広告そのものの仕事です。ちょうど、そのときに私を中心として、この会社で労働運動が起きたわけです。またたくうちに、社員パートのほとんどを集めて、労働組合(ニチイ学館労働組合)を結成して、48時間時限スト、無期限ストを連続実施して、組合の要求を全面的(全面というよりに、それ以上認めていたな)認めさせました。この闘いの中で、私はさらに人事異動で、「進学部」に移りました。通信教育の会社であったニチイ学館にとって、なんとか別な大きな事業と考えたのが進学教室だったのです。ですから、若い社員がこの部門に集められました。そして事業としては半ば成功しそうでした。
 私たちは、組合を作って、それがまたかなりな力を持ち、かつ組合員からの私などへの信頼は抜群のものがありました。だが、私は少数派でいるのには得意なのですが、こうして多数派になってしまうと、どうも居心地が悪いのです。かつ私は組合運動なんて長くやる気はまったくありません。私たちは、会社に対して進学部門を私たちによこせと言い出しました。そしてそれは達成されました。私たちは、トラックで、ニチイ学館の2フロアをカラにして、そのまま千葉県船橋に走りました。千葉県が一番進学教室の生徒集めが成功したところで、船橋教室がちょうど中心だったのです。
 私たちは、船橋、千葉、市川、松戸に教室を構え、生徒数1,500人の進学教室になりました。会社を設立しました。「㈱修学館」という社名です。しかし、年月が立つうちに、あれほどの結束を誇った組合で闘った仲間たちでしたが、次第に会社から去っていきました。私たちには会社を経営できる能力も根性もなかったのです。それでも私は会社設立後1年半後に、代表取締役に就任しました。ちょうど私が30歳になるころです。
 でも私が社長になっても(この頃私は結婚しました)、後退戦の継続という感じで、その後2年頑張りましたが、そこで進学教室をたたむこととしました。もう一緒に闘った組合の仲間は私一人しかいません。会社を整理するというのは、非常に骨の折れることですが、ユーザー(この場合には生徒たち)、下請業者さん等々には決して迷惑をかけないように奮闘しました。物理的にいろいろなものをかたずけることに関しては、私の埼大の後輩たちが何人もトラックできてくれて、やってくれました。これは非常に嬉しかったものです。
 この会社の整理に数カ月かかりましたが、また職探しです。

 しばらく船橋などというところで働きましたから、今度は、銀座か青山、赤坂あたりにある会社に就職しようと考えました。もう履歴書書く面倒さは、前にニチイ学館へ就職するときに嫌というほど経験していましたから、私は履歴書を印刷しました。軽オフセットで履歴書を印刷し、さらに手書きで書いた履歴等々をその上にまた印刷しました(これを印刷したものだとは判る人は少ないと思いますよ)。そして顔写真は、最初就職した㈱昭和印刷で印刷してもらいました(だからその私の写真はルーペで見ると網点が入っている)。これで102社受けまして、101社目に「㈱ジャパン・クリエイティブ・アソシエーション(JCAと略す)」という赤坂の会社に就職できました。
 この会社は、㈱ライダース・パブリシティという広告代理店の子会社ハウスエージェンシーであり、広告の制作をやっていました。入社して分かったのですが、社長は4つの会社の社長であり、私の入った会社では、私こそが会社の全部を仕切らせられる存在でした。私はここで莫大な量の広告制作をしました。私が入社したときは、社内にはデザイナーが2人とコピーライターが1人いるだけで、そのほかに外部のプロダクションや数々のクリエーター及び印刷屋等々を使って、かなりな数の制作物を完成しなければなりません。チラシ、リーフレット、カタログ、新聞・雑誌広告、車内吊り、屋外看板広告、ポスター等々、それこそ大量に作成しました。ジングルまで作成したことあります。ここでも今までと同じで、私は毎日二日酔いの頭で、数々のものを制作していました。
 しかし、この会社グループもN学館同様、社長ワンマン体制の会社で、低賃金であり、待遇面でもさまざま問題がありました(ホントに私は面接のときに「これはニチイ学館とそっくりじゃないか」と気がついたことがたくさんあるのです。話すと面白い内容ですよ)。私はいざとなったら、「また組合でも作って暴れてやろうかな」という気持があったのですが、何年かたつとどうも社長の私に対する警戒感がすごいのです。なんでも私の前歴を調査したと、誰かが教えてくれましたが、実に陰湿な感じです。

 そうしたときに、私の学生運動での先輩が、新しい仕事をやるから来てくれないかということで、それならと辞表を提出しました。これがお茶の水の今のビルに来ることになったわけです(今現在はそこも辞去しました)。
 この仕事とは、コンピュータオフコンを使った会計処理の仕事でした。だが、私が入ってからは、さらにさまざまな仕事をやりだしました。私が温泉新聞社のときの編集長だった清水さんが、㈱マリン企画という会社におり、その関係やその他の関係でも、マリンの業界に関係することになったのです。それで、またたくうちに、まず「学生サーフィン連盟」の事務局を引き受けることになり、かつ「日本ボードセーリング協会」の事務局をやることになり、私はその事務局長に就任しました。かつさまざまなところの経営コンサルをやることにより、さまざまな広告制作の仕事も出てきたために、広告会社「ジェイ・エー・シー」という会社も設立しました。
 私はある時間はオフコンに会計入力をし、顧問先に試算表の説明をし、ある時間は学生サーファーの問いに答え、ある時間はボードセーリング大会へのマスコミの問いに答え、ある時間は広告媒体の新聞社の連中を仕切るということをやっていました。よくまあ、あんなことを一ぺんにやれたものだなと今でも思います。スポーツイベントをやるときには、それこそ砂だらけで顔を真っ黒に焼いていろいろなことをやっていました。
 ところが、私を最初の会計事務所の仕事に誘った先輩が、どうにもひどい食わせものでした。私はなんとかやり抜こうと努力しましたが、せっかく知り合ったさまざまな業界の方を彼が詐欺行為をしていこうとするのに、もう我慢ができなくなりました。もうこれでは、これらの数々の私の顧問友人たちを私自身が守らなくてはと考えはじめ、私自身でやりぬこうと思いまして、私の事務所を始めたわけです。当初は「駿河台事務所」として、そしてすぐに「㈱駿河台経営研究所」として活動しはじめました。
 もうそれからもう随分長い年月が過ぎてしまいました。

 思えば、少々簡単に書きすぎなところがあります。今後この部屋にて、個々の仕事でのさまざまな思い出や、就職しようと活動しているときの思い出も書いてみたいと考えています。(1994.11.01)

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 11・7日の日経の新聞広告で目森一喜さんが、以下のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜    2008年11月09日 12:34
 この宣伝会議をやっている人の頭の中がブロードバンドではなく、ナローバンドなんでしょうね。そういう風に現実感のない人ってけっこういますね。左翼の情勢認識なんて、やはり、現実を把握してませんでしたね。
 世界的に、新聞はネット化する流れにあります。紙はフリーペーパーだけが残る感じですね。電車で、新聞を職人技で綺麗に折り畳んで読んでいる人がいなくなりました。

 うん、たしかに「左翼」なんていう存在は、その通りなんでしょうし、私たちはそんなものはどうでもいいのだと思いますが、「宣伝会議」もこうだと残念なんですね。宣伝会議の出す本はけっこう書店で手にしていますし(結局購入していないですが)、少々残念なのですね。
 フリーペーパーは、あちこちで手にして電車の中で読んでいることがあります。
 ただ本当に電車の中で新聞を読んでいる人はもはや皆無と言っていいくらいになりました。ときどきスポーツ新聞を読んでいる人を見ると、「おおっ」っと驚いています。

 でも思うのですが、昔の左翼の新聞や雑誌を見ますと(ときどき見かけることはあります。手にはとりません)、くだらないなとしか思いませんが、こうした宣伝会議なんかまで、そういう目で見るようになってしまうとなると、悲しいですね。
 こういう宣伝会議などの本を読むと、昔私が居ました広告業界を思い出してきます。
 私がずっとお付き合いしていたコピーライターが、もう随分前にご病気になられて、彼のホームページもなくなってしまい、実に寂しいです。
 彼が、御茶ノ水を息子さんと歩いて、私の前の事務所の前で、息子さんに私の思い出で語られたということを聞いたものでしたが、なんだかとっても悲しく寂しい思いでした。おそらく、ひたすら酒飲みだけど何故か朝から、変に動き回って、夜になると毎日腹いっぱい飲んでいて、何故かホームページを毎日更新している私のことを、「でもそれが自分の友人なんだ」と息子さんに説明していたのでしょうね。
 なんだか、結局涙ばかりが浮かんでしまうのです。

 あ、今きゅうに思い出した。何かのときに、私が二日酔いを醒ますために、上野図書館で、本を読んでいたら、偶然彼が居たことがあったのですね。なつかしいな、これももう30年近い昔の話ですね。そんなことを彼と話したいものです。

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 一つ前に書きましたが、この日経新聞の広告コピーが全面に載っている中で、一つ前の書いたコピーの隣に以下のコピーがありました。

 新聞は、アダルトだ。

西尾ヒロユキ
東急エージェンシー

 ええと、これで私は私はこのアダルトという言葉が何だろうと思いました。「新聞は大人だ」というような意味かな。できたら、個々のコピーライターさんが教えてくれないかなあ。いえ、別にコピーライターでなくとも、各エージェンシーが教えてくれてもいいのです。私みたいな阿呆に教えてください。

 adultとは、辞書を引いてみますと、

 成人(の)、成人向けの(新リトル英和辞典)

とあります。「新聞は、成人だ」という意味かな。でもやっぱり、私は阿呆なのかな。よく判らないのですね。

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 本日私は午前3時55分に目が覚めました。その私が目が覚める直前まで、私は昔つき合っていたコピーライターの田口賛吉さんの顔を見ながら打ち合せている夢を見ていました。

 思えば、私はこの「夢の中の日常」ということで、自分が見た夢の内容を書いてきていました。でもこのごろは書いていませんでした。別に夢を見なくなったのではありません。でもなんだか、書かないままきてしまっていました。また私の見た夢のことは書いていくようにしたいと考えてします。

 この田口さんとは、1979年の秋に、私が赤坂の広告制作会社で、プロジューサーをやっていたときに、初めて会いました。彼は、「田口アドバンス代表田口賛吉」という名刺で、もう一人のグラフックデザイナーを連れて面談したと思います。
 その後はずっと彼とはつき合いました。彼が一緒にやっていたデザイナーが少し頼りなくて(真面目な方でしたが)、その後は彼だけでコピーライターとしてのみやっていて、そのときもずっと私の会社の広告コピーを依頼していました。
 私がこの会社を去ったあとも、私は彼とつき合っていました。
 私がこの赤坂の広告制作会社にいたときは、この親会社は少し大きな広告代理店で、ここの若い社員はみな大学卒に新人たちですが、彼らはもともと自分で広告制作をやりたいという思いばかりの気持を持っています。でも実際は、大学卒業しただけの人間に広告なんかまともに作れるわけがないのです。
 ただ、彼らもすぐにグラフックデザイナーは、到底自分たちにはできない仕事なのだということはすぐに理解するのですが、ことコピーライターというと、原稿用紙に字を埋めていくのですから、自分の容易にできるのではないかと錯覚してしまいます。これが実に面倒なことでした。
 クライアントと、私たちの連れていくクリエーターたちの間で、AE(アカウントエグゼクティブ)として振る舞えればいいのですが、ほぼ大学卒の子たちは、デザインは無理だけど、コピーならできると思い込んでしまいがちなのです。
 だから、もうそういう阿呆な若い奴は面倒でなりませんでした。だから、そこらへんは私がプロジューサーとして仕切らないとならないのです。
 そこらへんは、いつもこの田口さんには迷惑でご面倒をお掛けしたものです。
 でも私がこの赤坂の会社を辞めたあともお付き合いが続きました。神田会に属していただき、何度か会合にも来てもらったものでした。

 彼は千葉市に住んでいて、住んでいる住所に知っていましたが、のちに身体を悪くしたということを聞いていまして、その後連絡はとっていません。彼がホームページを開設したことはよく電話で話したものですが、そのホームページも今はないのですね。

 グーグルで、「田口賛吉 コピーライター」で検索すると、私のメルマガの他、彼のことが次で出てきました。

  http://www.stad-mg.net/cf/artist/artistmain/writers/taguchi.html
                      企業組合コミュニティフォーラム

 彼に関するデータは次のように出てきます。

田口 賛吉 たぐち さんきち
history 立教大学文学部科卒業後、1970年毎日広告社にコピーライターとして入社。ラジオ・テレビ制作部に所属し、森永牛乳、横浜プリンスホテル、ピジョン、山田うどんなど、ラジオCMを主体にコマーシャルフィルム、生CMなどを制作。その後、代理店や制作会社数社に勤務。1983年よりフリーランサーとして独立。

その他主な仕事先
銀座松坂屋、フジサワ名店ビル、高島屋、西武不動産、ライダース・パブリシティ、三菱農機、セイコー電子工業、NTT、集英社(美術書)、福式書店など

favorite works  ●コピー制作(新聞・WEBページ・雑誌・DM・パンフレット・チラシ・ポスター・案内状・POPなどあらゆる媒体、ツールなど)
●編集取材執筆(社内報・PR誌・会社案内など)
●テキスト入力(タイピング入力・OCR入力・音声入力)
●そのほか社史、自叙伝・自分史の執筆、支援など

comments 東京だけの仕事だけでなく、永年千葉での暮らしの中で蓄積してきた情報や体験を生かし、愛着のある地域に役立つ仕事をぜひともしてみたいと思っております。受け手と送り手との密接で、インタラクティブな関係が、これから強く求められると思います。

 思えば、私のほうから電話してみようかな。あ、でも思い出せば、何回か電話したけれど、連絡がつきませんでした。彼の行く飲み屋も新橋にあったので、そこも数年前に行きましたが、彼はしばらくきていないということでしたね。

 たしか彼は私より年上だから、たぶん現在63歳くらいですね。

 そして私は、夢を見た今朝、この文を書き出して、最初は「Tさん」としていましたが、この上のデータがインターネット上にあったわけで、それなら田口賛吉さんという名前も出していいのだろうと考えたものなのです。

 今朝の夢の中では、懸命に仕事の打ち合せをしていました。また、彼とは、仕事はできなくても、一緒に話をしたいなあ、なんて強く思いました。そんな思いを実現できるために、彼は私の夢の中で、私と懸命に話してくれたような思いがしてきたものです。

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 私は今朝7時35分に起きました。その寸前まで長い夢を見ていました。

 私はある会社で、保母を養成する仕事に関するコピーライターをやっています。これは実際に私が27歳の頃やっていたことです。
 でも夢の中では、実際にその広告を書くことよりも、その私の勤める会社に社員をどうやって多く新規採用するのかということに必死でした。なにしろ、より多くの社員がほしいのです。
 もうなんだか必死でした。より多くの若い社員がほしいことと、でもなかなかいい人材はいません。そして会社の上層部からの要請は執拗です。
 私は多くの若い女性に、この仕事が何故素晴らしい職業といえるのかを必死に話しています。それらの方々は、まずは私の広告コピーで集まられた方々なのです。この方々の中からまずは多くの人材を選ばなければなりません。

 私は「教育」ということで、かなりいろんな話をしていきます。魯迅の話も長く展開します。
 その必死に私の喋る口調の中で私は目が覚めました。

 でも長い長い夢でしたが、なんだかほとんは忘れてしまいました。

 ああ、今すぐに出かけるので、詳しく書いていられないのが残念です。

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