将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:ゴールデン街

12112425 ハウステンボスさんから、次のコメントがありました。

1. Posted by ハウステンボス   2012年11月24日 22:15
一昨日はすみませんでした。あなた様は文学に秀でてられますね いっぱい知識を持ってられ関心します

 ええと、私は毎日飲んでいるだけです。ゴールデン街ではいつもストロヴァイアンという50度のウォトカを飲み続けました。
 そうですね、パソコンは13台自作しました(今は自作するよりパソコンが安価になりました)。本は長年年間300冊読み続けました。でも昨年は100冊に落ちました。でも手紙は今では年間100通くらい出しています。ただ前には600通を越えたものでしたが、今は駄目ですね。
 思えば、前に仕事で出かけた頃のほうが何でもよく出来ていたように思います。今はもう年寄りになってしまったのかな。
 ここの画像は、昨日の夕方私の長女の家のそばで撮りました。このときストロボをつけるかどうかで少し悩みました。これはストロボをつけました。

12092405 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」で、このUPがありました。

ウィスキーは 投稿者:管理人  投稿日:2012年 9月24日(月)06時56分23秒
  十代の後半になって、サントリーが「レッド」、ニッカが「黒ラベル」を発売して、そのコマーシャルがテレビで流れて、知ったものでした。若者たちは、皆、お金がありませんから、集まると、レッドの大瓶を一本買って、それをコーラで割って飲んでいたように思います。社会人になってからは、水割りで飲む事が多かったかなぁ。その頃は、サントリーの新しい中級品?(名前を忘れました)が発売され、人気もあったような記憶があります。瓶の形に特徴があったと思うのですが…。

 私は一貫として日本酒が好きでした。だからアパートではいつも一升瓶がありました。私はそもそも部屋で洋酒を飲むことはないものでした。ゴールデン街で飲むようになってから、ウィスキーも知るようになりました。あれは1970年台後半かなあ。
 私はゴールデン街の『吐夢』と『ひしょう』で飲むようになりました(他にも親しい飲み屋はありましたが、今は存在しません)。ただし、私は『吐夢』にボトルで入れていたのは、50度の『ストロヴァイアン』(ウォトカ)です。実によく飲みましたね。
 この『吐夢』では、みな角瓶のボトルを入れていました。他の店は白(シロと言っていた)が多かったかな。私はここの街へ来る流しの人とも親しくなったものです。私が軍歌を詳しく歌えるので、最初は不思儀だったようですが、それが当たり前になりました。
 それに私が必ず詩吟をやるので、それにアコーディオンで演奏をつけてくれた方(この方は先年亡くなりました。息子さんが私にメールをくれたものです)がいます。横浜の野毛でも演奏している方で、私も横浜でも会いたかったものです。
12092409 いえ流しの方では他にも親しい方がいまして、必ず私の軍歌には伴奏をつけてくれ、そして必ず詩吟もやったものです(私は詩吟はいつも同じ一吟だけにしていました。いやもっとできるのですが、みんなあきちゃうでしょう)。
 懐かしく、いくつものことを思い出します。

12012303 先週(10月16日〜21日)は、どうしてか4日も飲んでしまいました。いえ、もちろん私は毎日飲むわけですが、それは自宅での晩酌も含みます。それが先週は、月、火、木、金と4日も外で飲んでいました。とくに、月火と木は深酒しすぎましたかな。火曜日は島成郎さんが亡くなられたことを聞きまして、どうしても飲み続けたかったものでした。最後はゴールデン街で、いつまでも飲んでおりました。
 昨日は、事務所用のパソコンを自作しようということで、ひさしぶりに秋葉原でパーツ探しをしていました。ただ、自作用パーツだけでなく、他のものも探していまして、かつ他の用もあったもので、時間が足りず、自作は完成していません。本日も出社して、完成させます。
 思えば、私はこれで自作マシンとしては、8台目の制作です。自宅は4台、事務所が1台、その他で2台作ってきました。事務所のマシンとしては2台目になります。でも、これが完成したら、すぐに事務所の前のマシンも作り直します。あと事務所には、さらに2台作るつもりです。みなで4台になります。ついでにノートパソコンも新しいのがほしいのと、実はMacも欲しいのです。仕事先の関係で、Macも知っていたほうがいいな、とよく思っているのです。
 でも今回は、今までのように「ただただ安いマシンを作ろう」ということではやってていません。かなりな性能のものができるはずです。
 昨日、ひさしぶりに秋葉原を時間かけて歩きました。でもどこのお店も、道も混んでいますね。何を買うにも、けっこう混んでいまして大変でした。みなパソコンを作る人たちばかりです。
 さて、でもきょうは気合いを入れて、パソコンを作りましょう。そうすれば、酒の気も抜けて、そしてまたうまい酒が飲めるでしょう。(10月22日 00時35分)

11100601 年をとったせいか、酒を飲む機会が少なくなった私なのですが、そんな私のこの暮の飲み日記を書いてみましょう。
 以下は、ゴールデン街の「吐夢」のママに出したメールです。

 返事が遅くなり申し訳ありません。
 実はけっこうゴールデン街には行っていたのよ。

お久しぶりです。2週間ほど店休んでしまいました、
12月なので今日退院したのですが店に出ます。
お顔お出しくださいお待ちしています。

 11月30日(土)に「吐夢」へ行ったでしょう。あの日も結局深酒してしまいましたが次の日は、長女のパソコン設定がありまして、それで朝自宅へ帰ってまた娘のアパートまで行きました。
 30日に次の月曜日にTさんと飲むと言っていたでしょう。
 12月2日に、私の両国のクライアントの社長とTさんと神田の「いせ源」で飲みました。けっこう飲んだあと、Tさんに「吐夢のママが会いたがっているよ。これから行こうよ」と言ったのですが、「俺は行かないよ」ということで、それでも私はゴールデン街に向かいました。でもどうしてか「吐夢」が閉まっています。
 それで「ひしょう」に入りましたら、何故かKがカウンターにいました。「そうだよ、吐夢がやっていないんだよ」と言うので、私も「そうだね、どうしたんだろう」なんて言っているところに、同じく埼大のTA君がきました。この3人は前週の28日に「長谷ゆり子の出版を祝う会」で会っていました。
 それで飲んでいたのですが、実は私はこのTA君にことを、半年くらい前に「ひしょう」で殴っていました。それは理由があるのですが、とにかく私がよくない。なんだか私は上の「祝う会」でも謝ったのですが、ここでも謝っていました。それで、Kが帰るというので、3人で外へ出ましたがTA君が「萩原さん、もう一軒飲もうよ」といいます。そこで彼の案内で「花の木」へ行きました。私も昔入ったことのあるお店です。
 ここでけっこう飲んで(あとの日にここのママから聞きました。なんでも私のことを「左翼と紹介されたけれど、話も雰囲気も右翼の人みたい」と言っていました)、それで二人で店を出ました。
 でも私はさらに、「がぼちゃ」へ入りました。ここでも、顔見知りと会ったようですが、あまり記憶がありません。
 そのあと事務所へ帰りました。だがPHSがないこととコートがないことに気がつきました。「どこへ忘れたんだろうか」
 3日(火)は午後から川口のクライアントへいきます。そこで仕事をして、事務所へ帰ってきました。帰る電車の中で、携帯に電話が入ります。電車の中なので、降りてから留守録を聞きますと、「花の木」で働いている若い男性が私のPHSが店に落ちていたということでした。店が始まっただろう時間に、私のほうから電話をいれまして、お礼をいい翌日4日にとりにいくことを伝えました。当日は自宅に帰らないとならなかったのです。
 翌4日(水)に中村屋のケーキを買って夜8時40分に「花の木」に入りました。どうしてかこの日も「吐夢」は閉まっていました。「どうしたのかな?」「花の木」で改めてお礼をいいました。PHSは戻りました。ついでにコートを聞くと、ここには置いてありません。じゃ、別な店だなということで、しばらく飲んで店を出ます。でもそのあと「かぼちゃ」でも「ひしょう」でも、私のコートはありません。「タクシーに忘れたのかな」。でもでも、この日もよく飲みました。
 12月6日(金)は、高輪の飲み屋で飲んでいました。ここのお店のおばちゃんがいつも私の顔見ると、何故か喜んでくれるところです。けっこう飲みまして、何故かまた深酒して、事務所に泊まるはめになります。
 翌朝7日(土)自宅へ帰りまして、また夕方「プロジェクト猪」の忘年会で、飯田橋に出てきます。そしてそして、また「ひしょう」で2次会です。タクシーでゴールデン街に向かいましたが、真っ先に「吐夢」を確認しましたが、まだ「閉まっています」。
 この2次会の「ひしょう」でたしか、仲さんに流しをやってもらったと思いますね。
 それで、お竜さんが来て、私のコートを出してくれました。たぶん2日にここに忘れていたのでしょうが、お竜さんが気が着かず、店の若い女性が気がついたようです。私のコートを紙袋に入れて手渡してくれました。
 だんだん、2次会の皆も帰りましたもので、私も出て、「花の木」へ入りました。コートが見つかったことを報告したかったのです。
 だが、コートを紙袋に入れていたせいか、記憶が戻ると(事務所にいました)またコートがありません。
 翌週9日(月)に午後9時少し前にゴールデン街に入りました。「吐夢」に灯がついていました。「あ、良かった、あとでこよう」ということなんですが、まずはコートが必要です。「花の木」に入ると、ママは、7日には、「コートが見つかった」と言って、紙袋を見せて、最後はそれを手にして帰ったといいます。「ああ、どうしたんだろう」

 かくして、こんなことばかりやっていました。
 このあとも、この週は11、12、13、14日と連続で圧倒的に飲んでいました。13日には午後10時くらいから「三上治の世界」のオフ会の2次会で「ひしょう」で飲んでいました。さすがに15日の朝6時頃、やっと前日からの浦和会が北浦和で終わりました。
 そしてそしてそのあとも続いています。ただし、あまりに11月から12月前半にゴールデン街で飲んでいましたもので、その後は他の街で飲んでいます。
 またいきますね。

 なんで、以上のことを書いたかというと、さすがこの年になったのに、「少し飲みすぎかな」という思いがあり、その記録をこうしてとって置こうかなと思いました。こうして書いておかないと、すべて忘れ果ててしまいます。

11100303 新宿で飲み始めてからもう20年をはるかに越えてしまいました。ほとんどがゴールデン街です。今はもうない3番街、柳街でもよく飲みました。西口のしょんべん横町(ごきぶり横町ともいう)でも飲みましたし、新宿2丁目のオカマバーやゲイバーのあたりでも飲んできました。3番街はなくなってしまったけれど、まだ風林会館の前の路地には入り込んでよく飲んでいます。今でも不思儀な不思儀な路地ですね。
 ただここ3年くらい前から、新宿のとくに歌舞伎町が非常に怖い町になってきました。ちょうど台湾マフィアが抗争を起こしたり、新宿のヤクザが外国人ギャングに撃たれたりしたころからです。
 歌舞伎町はやたらにキャッチが多いのです。ゴールデン街から12時すぎに区役所通りを渡って、歌舞伎町の馴染みのお店に行くのに、それこそたくさんのキャッチを振り払わねばなりません。もうそれこそのべつまくなしに、さまざまなキャツチが声をかけてきます。もう私はいつものことなので、けっこう私が顔を知られてしまったたキャッチさんもいます。先日は「なんだひさしぶりだね、1回くらいつき合ってよ」なんていう男性のキャッチに声をかけられました。
 ただ、昔は私を敵視していたキャッチのおばちゃん(といっても私より若いのだけど)が、どうしてか私の関係でミッチャン(前に店を紹介しました)の店にキャツチのお客を連れてくるようになり、彼女とは仲良くなりました。ミッチャンの店で見ていると、全然お客が捕まらないときもあれば、次々にお客を捕まえているときもあります。ミッチャンの店に来る人に、私が

 ここのお店は決して安くないよ。適当に切り上げたほうがいいよ。

なんて、ミッチャンのいないところで言ったりしています。
 でも特別ひどいボリ方をするわけではなく、まあ朝電車が出るまで飲んでいるにはいいんじゃないかなと思うところも私にはあります。そしてキャツチが手数料を取るのも当然だとも思っています。ミッチャンの店に客を入れてくれるオカマのキャッチがいますが、彼もどうみても美形ではないので、どこかのお店に勤めるわけにもいかないだろうしな、と同情してしまいます。
 さてそれで、こうしたキャッチさんは私は別にいいのではというか、仕方ない存在ではないのかなと思っているのですが、今の新宿歌舞伎町は、こんな悠長なキャッチではなく、怖いキャッチがそれこそ大勢いるのです。昔なら、もう明け方はキャッチなんてもう活動をやめていたものです。それが、朝5時でも6時でもそれこそ暴力的な連中が何組みもいます。
 私もこんなことがありました。朝5時半頃ミッチャンの店を出て、駅に向かって行きました。ちょうど靖国通りに出るあたりで3人のおばちゃんのキャッチが声をかけてさらに私の手を引きます。「飲んでいかない」というのですね。そして強引なのです。いくらなんでも女性といっても3人の力は強いのです。そして、私には悪い癖があって、「そんならわざとひっかかってやるか。どうなったってしらねえぞ」という気持がわきあがってしまいました。それで、すぐ近くの飲み屋(クラブというところだね)に連れ込まれました。おばちゃんたちは退散します。さて、私は騒ぎ始めます。ビールを注がれても、騒ぎ続けます。そして立って大声で喋ります。ホステスやボーイが来ても,手を振り払い、こずきます。そして、もうここらへんで退散しないと、怖いお兄さんでも出てくるなというところを見計らって、ドアを蹴破るようにして出ていきます。だが、追いかけてくるホステスがいたので駅には向かわず、またミッチャンの店へ向かいました。あのミッチャンの店のある路地には誰だって簡単には入れないでしょう。でも執拗に追っかけてきましたが、私がミッチャンの店に入るとあきらめてしまいました。ミッチャンに訳を話すと、

  そうよ、周さん、今は新宿は怖いのよ

といいます。確かに実力で店に連れ込もうなんて、いつものキャッチなら絶対にしません。でもしばらく飲んでまた私は同じ道を歩きました。今度はもう彼女たちは姿を消していました。

 さてさて、それで私がここに書きたいのは、どうみても一番たちが悪いのではというキャッチのお話です。
 私のゴールデン街での友人たちも数々の失敗を繰り返しています。ちょうどゴールデン街を出て区役所通りに差しかかるころに引っかかるのが多いようです。一般的には女性がらみの手口が多いようです。でもどうしてそんなのに引っかかるのかなと思う人も多いかもしれません。でも次のようなキャッチをあなたは避けることができますか。
 私の友人の話です。彼はもう何度もキャッチに引っかかった経験があり、もう十分反省もしています。ゴールデン街でけっこう飲んで、もうタクシーで帰ろうかなというところでした。でも区役所通りで、少し酔った初老の紳士に声をかけられました。

  あ、社長、いや社長じゃないかな。喜んでよ。私に孫が生まれ
  たんですよ。はじめての孫で、明日お土産を持っていくんだけど、
  一緒に祝って飲んでくれない。

 その老人の手には孫に渡すであろうお土産がぶら下げてあります。いかにも嬉しそうなその老人の顔を見ると、友人は「それは良かったね」ということで、「でももう家に帰らなくちゃ」というのですが、

  それなら軽く一杯だけつき合ってよ

という嬉しそうな顔に、じゃ一杯だけならというので、付いていくことにしました。その老人は、じゃ簡単にというので、近くのビルの駐車場まで歩いて、
ウォッカを差し出しました。ウォッカを一杯くらいなら、一気に飲んでもたいしたことはない(彼は酒は飲み慣れているし、ウォッカなんかどうということはないと思っている。小さなグラスだし)ので、二人で「はじめてのお孫さんに乾杯!」と飲みました。
 さて、それでどうなったでしょうか。そのあと友人には記憶がありません。気がついたときは、もう朝なっていて、東海道線の小田原にいたそうです。サイフ他がすべてなくなっていました。彼はその日大阪出張だったので大変な事態になってしまいました。彼がいうのには、飲んだウォッカに何か薬が入っていたのだろうというのです。そうでないかぎり、1杯であれほどになるわけがないのです。
 私はこの話を聞いたときに、非常に腹が立ちました。人の優しい気持を逆手に取るなんて許せない行為です。私は悔しくて悔しくて泣きました。そして、私の友人のこんなことをしたこの悪辣な老人を捕まえてやると決意しました。
 それから、私は何度か新宿へ行くたびに、私の知っているキャッチに頼んでみました。こんな変わった遣り口は必ず彼らの間で、知れ渡るのではないのかと思ったのです。ミッチャンにも頼みました。私もわざといろいろ歩き回ってみました。
 でも、私の知っているキャツチのおばちゃんがいうのには、どうにも分からないというのですね。

 今の歌舞伎町は私たちでも怖いのよ、昔と違うのよ

ということなのです。彼女たちの知らない連中が何人もいるらしいのです。そしてもうたぶん別の町へ行ってしまったのでしょう。
 こんなキャッチがいます。新宿歌舞伎町ではとにかく構えて歩いていきましょうね。

 最後に、私があるゴールデン街の店で聞いていた話です。
 ある店で午後7時台に入って飲んでいると、同じ街の店のママが入ってきました。私が飲んでいる店のママに署名をして欲しいというのですね。「お客さんがいるから、また明日にでも来ようか」というのを、ママも私も了解したので、話始めます。同じゴールデン街に暴力キャッチバーができたので、その店に出ていってほしいという署名なのですね。その店ではキャッチした客に睡眠薬を入れた酒を飲ませて、法外な料金をふんだくったりしているらしいのです。しょっちゅう客とのトラブルで警察が来るが、警察では「民事不介入」でどうにもなりません。でもその署名を求めに来たママのお店もキャッチバーなのですね。

  私たちのように真面目にキャッチをしている店と、あんな暴力
  キッチバーが同じに見られては堪らないのよ

ということなのですね。確かに優しい顔をしたママさんでした。あとで聞くとゴールデン街では、固定客をまったく持っていない店というのもあるそうで、そうした店はお客をキャッチするしかないのだそうです。だから誰かに頼んでお客を無理に呼び込んだりする必要があるわけですが、そうであっても、私たちは真面目なキャッチバーであり、不良キャッチバーとは違うのだというのですね。私は妙に感心して納得してしまいました。
 そうなんです。とにかく、ミッチャンの店で、他には引っかからないように頑張って飲んで行きましょうね。

20170411702 私のごくごく親しい酒飲みの友人の激辛庵さんのことを少し書きます。
彼は私より学年がひとつ下で、昭和25年の1月生まれだということです。私の埼大の3年下の後輩で村本修という活動家と彼は高校(東京の北園高校)で同級生でした。この村本という男もこれまたとんでもない男で、私は彼が浪人で代々木ゼミナールへ通っていたころ知り合いました。彼は代々木ゼミナールで何をしていたかというと、勉強などせず、「代々木ゼミを如何にバリケード封鎖するか」などというとんでもないことを仲間と話してばかりいました。彼が70年の4月に埼大に入学してきて、私は偶然大学構内で声掛けられてびくついたものです。

え、今度は埼大を壊しにきたのか?11092605

なんて思ったものです。そうしたら、ちゃんと入学したということで、これまたえらい男と一緒になっちゃったなと思ったものです。彼のことでもいくらでも話せるエピソードにことかきません。私が詳しく軍歌を唄えるのは、すべて彼のおかげです。彼は熱心に執拗に軍歌を唄える、どうしてか社青同解放派の活動家でした。どう間違ったか、彼は自分のことをマルキストだと思っていたらしい。
この70年の10・21国際反戦デーの日、当然埼大はストライキになるわけですが、前日から我々は大学でバリケードを作って次の日にそなえます。私たちが教養学部棟を占拠しているのに対し、日本共産党民青が大量動員で夜中にやってきました。我々は槍ぶすまで、彼らと対峙します。そのときは結局はゲバルトにはなりませんでした。次の日の昼に今度は私たちが彼等のところへ押しかけ、これは激しいゲバルトになりました。当然私らの完勝でした。
この夜中、民青と槍ぶすまで対峙しているときに、どうしてか一人の男が現れました。私たちの指揮者は、この男を警戒して、声を荒げます。そうしたら、村本が急に隊列を離れ、「これは俺の友達なんだ」といいます。この夜中、風呂敷でヘルメットを包んで埼大に来たのが、若き日の激辛庵さんだったのです。彼はそのときには浪人生でした。
このときからの付き合いになります。彼はなぜか埼大が気に入り、そのときからいりびたってしまいました。当時道路掃除の仕事をしている仲間がいたのですが、彼もそのバイトに加わり、なんだかもう埼大の活動家仲間になってしまいました。なぜか飲むときは、彼もいつもいるようになりました。
たしか72年のときに、彼は御茶ノ水の病院にしばらく入院することになり、私が見舞に行ったことがあります。たしか私と私の彼女の二人で行ったのではないかな。彼は入院していてもいい患者ではなく、抜け出してはいつもビールなどを飲んでいました。あるとき、ビールを飲んで帰ったら、急に手術となり、酒が入っていると麻酔が効かないので、ただ痛いだけだったらしいのですが、酒飲みがばれると、その後そうしたことができなくなるので、歯を食いしばって無理したようです。
そしてその後、私が大学を去ったころから、しばらくは互いに連絡が途絶えました。そののち彼と再開したのは実に約10年余の歳月がたってからです。正確には判らないのですが、多分82年の秋のころだと思います。私が34歳くらいのときです。
ゴールデン街の「吐夢」か「ひしょう」で、彼の伝言のついている名刺を貰いました。それには、「ひさしぶりです。村本の友人だった私です。私はいつも『オハラ』で飲んでいます云々」というようなことが書いてありました。 それで私はある日、この「オハラ」へ行きました。私には初めて行く店でした。このときのことを、彼が「ひしょう」の15周年記念の文集(89年3月発行)に次のように書いていてくれています。

彼がぼくのことを覚えているかどうか、はなはだ疑問であった
  が、名刺のうらにそう走り書をして、ぼくはお竜さんに渡した。
一般的に、呑み屋の伝言、止まり木の約束ごとほどあてになら
  ないものはない。何週間かたって、ぼくもそのことはすっかり忘
  れてしまっていた。だが、ある夜、H氏はおはらにやってきた。
  夜中の3時ごろだったと思う。
カウンターで酔いつぶれかかっていたぼくが詩吟にびっくり仰
  天して、白河夜舟から飛下りて以来、また、ぼくの乱れた生活が
  復活した。

こうして私たちはまた出会いました。しかもそれがゴールデン街でした。またひたすら飲んで騒ぐ二人になってしまいました。彼は70年代にはしばらくライブハウスをめぐる歌手をやっていたのですが、80年ころにその道を諦め、地域新聞の記者から、さらに業界紙の新聞記者になっていました。だが昔の血がそうさせるのか、そこで労働運動をやって、いつも経営者と闘争していました。しかも彼は自分の会社だけではなく、常に同じ組合員(東京ユニオン)の会社にまで支援に行っていました。
それにしても私と彼はよく飲みました。当時は、四谷見附のピアノの弾き語りのある店で会って飲んで、それからゴールデン街、そして彼のアパートということが多かったように思います。
彼のアパートがまた傑作で、この80年代に60年代後半のアパートという雰囲気の部屋でした。レコードや音楽関係の資料がたくさんあり、そして60年代活動家が必ず持っているような本が大量においてあります。
アパートの前の庭には、なぜか判らない針金でつくったオブジェ(たしか鳥の姿だった)がおいてあり(なんだか非常に変わったおじさんだが、おばさんがいたようだ)、酔って帰ってくるときは判らないのに、二日酔いで見るとそれは不思議な光景でした。
当時の彼の彼女と訣れることになり(私がその原因をつくったのかもしれない)、どうせ訣れるのならと、私がその場に立ち会ったこともあります。「どうせ訣れるのなら、さっぱり訣れるのではなく、言い合いして嫌い合い、喧嘩して訣れるべきだ」なんていうのを二人に言って、訣れてもらったものでした。
それで、その直後あたりに池袋の「たつみ」という飲み屋に彼はよく行っていたのですが、そこの今の燕尼が「ゆきちゃん」という名で働いていました。彼女は他の中国の女の子と違って、化粧気もなく、眼鏡をかけた北京の真面目な女学生とい感じでした。この彼女に彼は日本語を教えることになり、やがて彼女が彼のアパートに来るようになりました。このころよく3人で飲んだものです。私と彼がまた部屋で飲んでいると、彼女が仕事が終って夜2時頃部屋にやってきたものです。土曜とか日曜の朝には、また池袋まで歩くなか、朝の定食屋でビールを飲んでいたものでした。それで彼と彼女は結婚することになったのですが、私は彼の父親を説得に行ったこともあります。
でも結婚しようが、私と彼がときどき会っては飲み続ける関係は変わりようがなく、あるときに燕尼が中国語のできる私の後輩に、「あんまり二人が仲がいいから、妻である私が嫉妬してしまう」と言ったようです。でも仕方ないんだな。もうこれが酔っぱらいの宿命なのです。
彼のお蔭で、私はパソコンとパソコン通信を知りました。とくにパソコン通信は彼にいろいろと教わったものでした。
そうですね。彼の唄う歌をひさしぶりに聞いてみたいものです。彼の唄う歌はいいですよ。

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2017081420 4月18日松戸自主夜間中学のあと、和尚さんと「平井食堂」で飲みました。ちょうど9時半頃店に入っていくと、カウンターに私の友人である下鳥光昭さんがいました。実は彼がこの「平井食堂」を紹介してくれたのです。
彼は私より2歳年上で、昔早稲田大の社青同解放派の活動家でした。私は最初ゴールデン街の「吐夢」で知合いになりました。その最初の出会いが面白かったのです。
たしか私が29歳のときだと思います。「吐夢」で飲んでいましたら、少し離れた席で白米はやっぱり旨いなんていうどうでもいい話をしているオッサンがいました。そこにいた女性とママがダイエットの話をしだしました。するとそのオッサンがいいました。

  ダイエットに一番いいのは、無期限ストライキだよ。この間無
  期限ストライキやったら3キロやせちゃった。それが終ったら、
  メシ食いすぎて、また太っちゃった。またダイエットの為に無期
  限ストライキやろうかな。

私はなんとでたらめな人だろ11092403うと思い、なんだか感激し、いっぺんに好きになりました。それで話かけました。すると彼は私のことを知っていました。名刺をもらうと「下鳥光昭」ということで、ある業界紙の記者で、そこの組合をやっているとのことです。彼が私のことを知っていたのは、彼の弟が埼大生で、私の3年下の活動家だったからです。私も彼の弟を思いだして、なるほどそれで弟も同じ党派だったのかと思い当りました。
そのときからの付き合いになります。そのころは彼は高島平に住んでいたと思います。今は沼南のマンションに住んでいます。彼の奥さん(裕子さん)も昔の活動家で、今は自分で東京中央区でアパレルの企画デザインの会社の社長をやっています。このまた裕子さんが元気で愉しい女性です。私は何度か経営の相談にのっています。
昨年のたしか8月に奥さんの会社に行ったときに、奥さんからこの平井食堂を教えてもらいました。

私  「下鳥さんは元気ですか?
裕子さん「あ、あのおっさんは元気もなにも、ただの酔っぱらい
      でしょうがないですよ。いつも平井食堂というところでそこ
      の主みたいな顔で飲んでいますよ

ということで、平井食堂の名を私は始めて知ったのです。そのあと9月3日の「全共闘白書」出版記念会では下鳥さん本人に会い、さらにこの平井食堂への地図を描いてもらいました。
この奥さんの裕子さんが自分の亭主の下鳥さんのこと話す内容が非常に面白いのです。こんな面白い夫婦の話があるかななんて思います。下鳥さんはあまり奥さんのことを話しませんが、昨年のオフ会忘年会で、高島平の団地で奥さんに包丁でベランダの隅に追い詰められたときには、もうこれで終りかなと思ったなんて話をしていましたね。その他実に面白い話がたくさんあるのです。
またそんな話は、飲んだときにでもしましょうか。またきっと平井食堂で下鳥さんと会うことがあるだろうと思います。

続きを読む

2018080604 いやもう先週は飲みました。こんなのでいいのかな。昼はなんだか走り回ってました。なんか記録しておこう。
11月30日に午後6時から、谷中であるイベント会社の社長の仕事の依頼があり、打ち合わせがあり、当然終ったら飲みました。どうしてか、私を気にいってくれている私より10歳上の方です。1軒しこたま飲んで、歌を唄いたいというので、谷中のあるカラオケパブへいったら、物凄い混み方で、もうこれはというので、「双葉」へいきました。この社長とは、この飲み屋で知り合ったのです。当然最初の出会いは喧嘩でした。
  この店はもうみんな知り合いなので、なんだか大騒ぎです。また怖い佐藤さんという墓石屋さんと顔を合わせ、いろいろ話しました。
  この店を出て、その社長さんとは別れたのですが、突如ゴールデン街の「吐夢」のママの顔が見たくなり、向いました。ゴールデン街の入口で流しの平川真作さんと顔を合わせそのまま一緒に「吐夢」へ向いました。そこでしこたま唄って、さらに私のことをよく知っている人たちと色々話して、もう1時ころお店を出ました。みんななんだか私が丸く優しくなったといいます。
  そのあとミッチャンの店へ向いましたら、途中で顔だけ知っているキャッチのおばさんがいます。前にはえらい勢いで大勢のキャッチを指揮していたのですか、この日は一人です。私とミッチャンが仲いいのを憎んでいて、昔から私に悪さします。女の子たち5、6人に囲まれ、もっていたお通夜のお清めをみんなとられてしまったことがあります。でもその日はなんだか可哀想です。「しばらくね」という話から、「コーヒーくらい飲ませてよ」というので、喫茶店にいっていろいろ話しました。もう商売は大変で、大きな子どもを抱えているんで、どうしょうかと悩んでいるとのことです。私はもうなんだか心が動いてしまい、少しはキャッチにひっかかってやるか、という気になって彼女の指定のパブへいきました。客は私ひとり。
  そこで、また詩吟詠ったりしているうちに、勘定が2万円だといいます。「馬鹿いうんじゃない、払うわけないだろう2万円も」と、私は声高にいい放ちます。もうお店のほうがそのうちに、いやになって、もう帰ってくれといいます。当然帰るよということで、でも最後に彼女が「でも1銭も払わないでかえるの」というので、そういえば、これじゃ彼女なんの商売にもならないなと思い、5千円おいてきました。なんだか彼女嬉しかったような顔していました。
  さてミッチャンの店の路地入ると、どうしてか、表参道で宝石屋やっている友人の社長グループと出会いました。渋谷のある飲み屋でバーテンやっていた、役者の青年もいます。その社長は、「おや、なんでまたここで周さんと会うんだ」というのと、詩吟やってくれとの要請があり、また声を上げましたら、ミッチャンが出てきて、私の鞄をとって、「もうまた外で大声だされたら、みんな迷惑よ」といって抱えられてお店にはいりました。その宝石屋の社長とは、また今度の忘年会で会いましょうと別れました。
  それからまたミッチャンと騒いで、別の店いったりして、さすが5時ごろタクシーに乗せられてしまいました。

  12月2日には、西川口のクライアントへいきました。ここはもうどうしてこの不況下にもかかわらず、たいへんな好成績の会社で、しかも税務調査があったばかりでしたが、ほめられただけでした。それでもうまた飲み始めるわけですが、もうここは日本酒のみ、莫大に飲みます。それが午後5じ半ころ終って、西川口駅でまた駅前の立ち飲みに入りました。1本飲むうちに、顔見知りの地回りさんがいないので、もうここから帰りました。  突如、西日暮里の「きゃらめる」いこうと思い、夏のママの誕生日に花贈るのを忘れていたのを思い出し、花のかわりにケーキにしようと、思い浮んだ「しろたえ」というケーキ屋のある赤坂へ向いました。私は西永福町にある「プチフレーズ」というケーキ屋が好きなのですが、あまりに遠いので、赤坂になりました。
  それをもって「きゃらめる」はいったら当然歓迎してくれます。お客さんはあまりいないし、ママと本の話と、映画の話と、私のこと知っているお客とプロレスの話しました。当然歌もたくさん唄いました。ママが映画のビデオと本をかしてくれました。この日はこの店の看板までいて終りです。

  12月3日は午後3時に西荻窪のクライアントいきました。もうしばらくいろいろお話して、当然ビールが出てきます。いろんな提案しながら、5時に帰りました。もう事務所に戻る気もなく、ましてゴールデン街が開くのはまだ早いので、突如中野で天麩羅屋やっている友人の店へいきました。ここでパソコンの話などしながら、けっこう飲んで、また突如谷中へいきたくなり、谷中の「双葉」へいきました。
  またまた顔見知りのみなさんとしこたま飲んで、腹いっぱい唄いました。ここでまた看板までで終りです。
  12月6日は、我が事務所に激辛庵さんがきました。結局飲もうということになり、でも一軒でやめようということで、最初から「きゃらめる」いけば、もうそれ一軒ですむ、そのあとまた新宿とか東中野とか、遠征するのはやめようと固い決意のもと、西日暮里に向いました。昔歌手である激辛庵さんには、「きゃらめる」のママがひさしぶりに会いたがっていたのです。ここでもう激しくのみはじめました。延々といました。1時の看板までいました。途中で、9時半頃、ママの妹さんのひとみさん宛てに、綺麗な花篭が届きました。彼女の誕生日だったのです。当然贈り主はこの私。
  もってきてくれたのは、「プレジール」の三浦さんでした。久し振りに彼女と会ったのでしばし立ち話。彼女は男の子どもさん連れていました。
  さて1時になったのに、固い決意はどこやら、またゴールデン街「オハラ」へ入っていました。そこでまたまた私は「浜ちゃん」という新宿歌舞伎町の飲み屋のおばさんと5年ぶりくらいの再会。彼女と手をとりあって喜びました。
  そこのお店でさまざまなトラブルがあり、けっこう愉しく飲んで、朝5時にさすがでて他の店へいこうかとなりましたが、ゴールデン街は元気なく、私たちの知っているところでやっている店がありません。
  それでまた二人で帰りました。激辛庵さんは、朝9時ころ、遅刻はいけないとばかり会社へ向いました。
  なんでこんなに飲んでいるのだろうと思います。もうきょうは、家に帰ってきても、ずっと仕事やっています。ちょっと急ぎのたいへんな仕事なので、きょうは徹夜になりそうです。
  今週10日(金)11日(土)と凄まじい忘年会が控えています。実は9日も多分浅草で飲むことになりそうです。まったくどうなるでしょうか。

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11091510  18日松戸自主夜間中学を早めに早退しましたのは、唐牛真喜子さんを囲む忘年会があり、私はその幹事でした。でも仕方ないから、2次会から参加しようと考えていたのですが、おもいもかけず全国から大勢の人が集まり、しかも私が司会だなどというので、どうしても早退することになりました。
 それでいろいろ面白かったのですが、とにかく4次会まで終って、結局ゴールデン街を経て、ミッチャンの店に入ったのが19日の午前4時。そこでまた結構な大激論をするという、楽しいことがありました。
 先客に、元気で美形で男っぽい喋り方をするオカマがいまして、どうしてか乃木希典の旅順攻略戦の話になりました。実に2時間半から3時間くらい話していたかな。私は乃木が好きなのです。相手は、どうせ乃木のことを、司馬遼太郎の影響で、そして旧陸軍参謀本部の判断と同じで、評価しないのだろうと思っていました。まあ大体はそうだったのですが、またこのオカマのさまざま詳しいこと詳しいこと、いささか感動の思いがありました。人は当然見かけによらないものですね。でも嬉しくなりました。今度かなり学習してから、彼のお店にいこうかな。司馬遼太郎では話にならないから、どうしようかな。児島壌「日露戦争」は、かなり詳しいとはいっても、あれだけではつまらないですからね。陸軍参謀本部編纂の「日本戦史」だけでも、何故か不満ですね。 なんていいながら、もう本屋でさまざま探してしまいました。もういくつか読んでいます。日露戦争の戦前戦後の、どこらへんで、日本は勘違いしたのかというのが知りたいのです。それにまたあの美形のオカマとも、論争したいし。
 それで、その論争のあと、勿論また彼とは再会を約して別れましたが、どうせ私が土曜で休みというので、また8時ころから、ミッチャンと喫茶店兼飲み屋に行きました。そこは、もう朝のさまざまな新宿人のたまり場なんですね。キャッチのおねえさん方がグループで総括していたり、ヒモが女待っていたり、そしてさらにそれらの女性やオカマに金貸している男がうろうろしていたりして、まさに新宿の縮図です。でもそこの雰囲気は、前に行ったときは妙に暗いのですが、あの日は変に明るいんですね。なんだかそれが、今年のさまざまな情況を象徴しているように思えました。あの明るさはなにか危険です。「アカルサハホロビノ姿デアロウカ」(源実朝の言葉)という感じです。少なくとも、新宿のあの飲み屋街あたりは、かなり変わるでしょうね。それが新宿の飲み屋だけではないのかもしれません。
 今年のおわりに、こんなこと思ったのでした。

2016120509
11082510 たった今、ゴールデン街の「吐夢」のママから、12日(土曜日)午前10時頃不審火でゴールデン街の入り口付近11軒が火事になった連絡を受けました。新聞でもテレビでも報道されたようですが、昨日書きましたように、私は文教大学の清里寮に行っていましたので、まったく知りませんでした。私とか、掲示板によく書いてくれる岡さんや激辛庵さんがよく行きます「オハラ」が全焼のようです。もう再開は無理のようですね。困ったな。「オハラ」のマスターの白坂則夫さんの連絡先が判らないから、火事見舞いというわけにもいきません(昔の住所なら知っているんだけれど、もう引っ越したろうし)。
 この暮に来て、たいへんなことですね。
 それで、私のホームページをごらんの方で、「オハラ」を知っているかた、そのうちに「オハラのマスターを励ます会」をやりますから、このホームページでの告知に注意しててください。
 なんだかたくさんのことがいっぺんにおきますね。(98/12/15 15:42:34)

11081702 なんだか会社に3日目の泊まりになってしまいました。もっとも1日目は悪友がきまして、結果としてゴールデン街で飲んでしまいましたが。なんだかたくさん、述べたいことがあるんですが、やはり仕事を優先しなければなりません。
 毎年のことですが、11月が忙しくて、12月に入ったら落ち着けるかなと思っていると、12月はまためちゃくちゃ忙しくなるのですね。それに忘年会もそれこそたくさん出てきますし。
 でも24日ゴールデン街はけっこうにぎやかな感じでした。やっぱり飲屋街は静かなのより、ざわざわしていたほうがいいなあ。(11/26/98 20:59:31)

11072111 この「将門Web」があるところのアクセス数のランキングに出ました。「政治」「経済」「社会」「文学」の各部門でアクセス数の多い順に出るサイトがあるのですが、そこ載っていました。といっても、みな14位前後なのですが。ただし、どこに載っているのかというのは、耻かしいから言いません。

 本日は体育の日です。今どこかの学校の運動会に知らせの花火がなっています。もう私の娘は大学1年と2年生。弟の娘たちは下が大学1年生。上は社会人。兄の娘は社会人で、奥さんでもう子どもがいます。
 私はこの5人のために、けっこう運動会の場所取りをしてきました。いい場所をとらないとよく我が子が見えないから、という理由よりも、誰もがやっているから、朝早くから並ばないと親としてのメンツが立たないからという感じでした。
 何故か兄の家は、兄本人は絶対にそうしたことをやらず、義姉も私がやってくれるのがごく自然なようでした。だがだが、実は私には、これはたいへんな努力のいることだったのです。土曜日というと、私はほとんどどこかで飲んでいます。そしてそのまま日曜日の朝、私は急いで帰ります。そのままスーツ姿の二日酔いの顔で、列を探すと、義姉がいます。義姉は、「やっぱりやっときてくれたか」と私と交替します。義姉は朝4時頃から並んでいるのです。私は6時頃到着です。義姉はここで一旦自宅へ帰らないと、いろいろなことができないのです。
 そこで私は延々待ちます。たいがい文庫本をまるまる1冊読み終わる頃、開門されます。私も必死になって場所を確保してそこで坐っていると、義姉と母が来て、私の妻が来て、父が来て、弟の家族が来ます。父は必ず、その前に私が並んでいるのを確認には来るのですが、替わってくれようなどという考えは全くありません。
 さてそれで、みんなでにぎやかに喋りだします。そのころ私は、「なんでビールないのかな(二日酔いだとビールが欲しい)、でも小学校でビール飲んじゃいけないんだろうな」なんてぶつぶついいながら寝てしまいます。でも年がたつと、私のそうした心情を知ってくれた近所の方が、「はい周さん、ビール!」と差し入れてくれるようになりました。私は「わざわざもらったものは飲まなきゃ悪いよな」なんてほざきながら飲み始めます。
 昼の食事の頃になると、さすがに兄がやってきます。でもすぐにいなくなります。私は最後のかたずけまでやって、やっと夕方兄の家に帰ります。ここで勝手にやっと、当然のような顔してビールをあけます。
 ただ、これが前の日に天気予報で、「明日は雨」なんていうと、それこそもう安心して飲んでしまいます。ゴールデン街の飲み屋は暗いから、外の天気が判りません。外へ出た人が、「大変だよ、外雨降っていないよ」などと教えてくれて、「あ、大変だ、俺運動会に行かなくちゃ」とあわてて、店から走り出したことが何回かあります。
 こんなことを、体育の日の朝思い出しました。

11033021 カシオのデジカメ「エクシムEX-2」を買いました。娘たちに富士フィルムのデジカメをあげたこともありますが、ノートパソコンとPHSとICボイスレコーダーが、みな記録媒体がSDカードなので、デジカメも統一したのです。
 でも、このデジカメは大変に小さいのですが、いいですよ。私は埼大のむつめ祭でもいろいろ撮りましたし、次の日ゴールデン街へ行って、「ひしょう」のお店の若い女性たちを撮りまして、ひしょうの掲示板に載せましたよ。
 今気がついたのですが、肝心のママの長谷ゆり子さんを撮ってUPするの忘れていました。なにしろ彼女は、吉本(吉本隆明)さんが「綺麗な方ですね」と言われたということなんですよ。吉本さん、どうしちゃったのかな。ひしょうでお酒が入っていたからだろうな。これは彼女の最新刊本に書いてあります。
 このデジカメが、実は30秒動画も撮れるのです。9日に次女に、「あ、これ動画も撮れるじゃない。パパ、知っていた?」と言われて、知っているふりしましたが、実は驚いたのです。1週間前に次女や母を撮っていて、動画にもなっていたのに、私は知らなかったのです。馬鹿じゃなかろか。

11030402 本日、これから家族4人で笠間日動美術館に行きます。結局、

  東京谷中あたりの探索→横浜行き→笠間日動

になりました。横浜は、長女の情報で、ものすごくどこも混んでいるようです。30日夜、二人の部屋に電話が入るので、電話機をもっていきまして、それでそのあと二人と少し飲んだのですが、そのときに

 長女「あんなに混んで並んでいると、パパのことだから『なんで
   こんなところに並ばなくちゃいけないんだ』と怒りそう」
 次女「そうそう、パパだとそうなるよ」
 私 「何行っているの、パパは寛容でおとなしい人間だよ。黙っ
   て並んでいるよ」
 二人「どうだかね!」

 実は長女は29日に友人と横浜へ行っていたらしいのですが、「煉瓦館なんかずっと人が並んでいた。中華街も人がいっぱい並んでいた」というのですね。
 それで、突如北のほうへ向かうことになりました。でも今現在まだ次女が自宅にはいません。
 それから、30日には娘二人と飲んだのですが、思えば、始めてのことです。娘二人は、飲むといっても、ほとんど飲めませんが、私は嬉しくて飲みました。それで、二人と別れて「ちゃんと真っ直ぐ帰るんだよ」と言われましたが、娘と飲めたことが嬉しくて、またそのことをいいたくて、また馴染みの店へ行って飲んでいました。12時近くに、次女から「パパ、どこにいるの? ママが独りで心配しているよ」という電話が入りました。 考えてみれば、それで1日はまたゴールデン街で飲んでいたな。それでまたお店にPHSのコードとマウスとPHSの○○(名前が判らない)を忘れてしまった。本日笠間からはインターネットができません。携帯のコードも実はある飲み屋に忘れているから、携帯でもできません。
 思えば、2日も仕事で行った先で、最後は飲んでいました。2日はもう朝から必死に動いていました。
 だから、本日こそ、家族でみんな愉しくお喋りします。

11030101 娘二人が東京に住むようになってしまって、寂しい思いばかりでした。いつも帰宅するときに、駅を降りてから、自宅へ電話して連絡するのですが、「今、○○を歩いている。二人は帰っている?」と妻に聞いていたものです。でもいつも遅い私ですが、二人は私よりも遅かったものです。それが今では「二人から電話あった?」と聞くようになりました。
 先週は、金曜日に次女が、土曜日に長女が帰ってくるといいます。私は嬉しくなって、金曜日には、その嬉しさで谷中の飲み屋で「きょうは次女が帰ってくるんですよ」と話していました。それで遅くなって、土曜日の朝少し話ができただけでした。そして土曜日も嬉しさの中で、結局最後はゴールデン街で飲んでおりまして、翌日帰宅すると長女はもういません。
 何をやっているのかな。

 ビジネスパーソンの迷惑メール対処この記事がありました。

 夜の飲食店では、接待で訪れたらしいビジネスパーソンが、ノートパソコンをネットにつなぎ、ちょっとした営業プレゼンをしている… 居酒屋やカラオケボックスでは、グループで来たお客さんの1人が、やり残した仕事をパソコンとネットで片付けている… 最近では当たり前の風景である。こうしたお客を呼び込むために、「無線LANを始めました」という飲食店が増えている。(2006.09.25)

 ああ、これはいいいなあ、と思います。私のよく行く飲み屋でも、こうしてほしいなと思いました。もう私は飲み屋では、ずっとPHSでインターネットに接続してきていましたが、PHSでは、接続できないところがあるのです(長野県の山の中とか、東京都でも三多摩の山の中とか、新宿のゴールデン街のいくつかの店とかですね)。
 それで私はもうPHSを止めました。接続できないのでは意味ないのです。ケータイで接続するのは料金の面で大変なのですが、それでもつい近ごろは無線ランは増えました。
 ただし、私がよく飲んでいます谷中の店では、奧の和室では無線ランが届きません。やっぱり店で用意してほしいよなあ。

 でもこうしたあたらしい悩みが出てくるのですね。
 以下のようなことは私の気をつけていこうと思いました。

メールソフトは使わない。SSL暗号化対応のWebメールを使う
ネットバンキングでは使わない。必要なら、携帯バンキングを使う

 私もしっかりやっていこう。

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 にしし ふぁくとりーこの記事 がありました。
 私も子どものときから漫画を読んできました。でも私のいう漫画とコミケというのは違うのかな。
 どこかを引用したいのですが、どこをしたらいいのか私に判断できません。あ、以下引用します。

東京ビッグサイトは23万m2で広大だけど、そうは言ってもこの限られた空間にこれだけの現金が集結することなんて、他にあるんだろうか。(笑)

NRI(野村総合研究所)が今年10月に発表した推計では、オタク市場規模は4,410億円ですからね!(笑) コミック・アニメ・ゲーム分野だけで考えても1,200億円ですよ。そりゃ、世界最大の同人イベント コミケでも数十億円は消費されるよね。(笑)(2005.12.15)

 え、でも今、(2005.12.15)と書いて驚きました。「あ、こんな前のUPだったんだ」。
 東京ビックサイトは何度か行ったことがあります。その前の(もう随分昔だけど)、晴美ではいくつものイベントに行ってきました。ビジネス関係のイベントだと、必ず親友の堀さんと会って飲んでいたな。会場で飲んで、そのあと外で飲んで、それからいよいよゴールデン街で飲んだりしていたな。東中野で飲み続けたこともあったなあ。

 私の将門Webで、「周の漫画館」がありますが、もっと漫画に関して書いていかないといけないなということを強く感じました。

 娘二人と生きてきましたから、けっこう女の子が読む漫画も読んできました。そして面白いなと感じてきていました。

 あ、今「コミケ」って、何の略だっけと、判らなくなりました。私って駄目だなあ。

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