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『収容所群島』が必読書になる で次のように書いていました。

 この『収容所群島』にはたくさんの註があり、その註を読む中で、サヴィンコフ=ロープシンの死の真相(彼は自殺した、収容所の壁の上から飛び降り自殺されたと言われていた)を知り、もう大変に悔しかった思いでした。

 もう思えば、このことを書くこともないと思うからです。思い出すことはこれからもよくあるでしょうが、でも少し書いておこうと思ったものです。サヴィンコフ=ロープシンは私にはいつも忘れることができない人です。

09091424 ボリス・サヴィンコフは、1879年1月19日ウクライナのハリコフで生まれました。
 最初はマルクス主義に傾倒しますが、そのうちに人民の意思派のテロリズムに傾倒するようになります。流刑先から逃亡して、社会革命党(エスエル)に所属するようになり、戦闘団でテロリズムを指揮します。
 1905年にガポン神父と知り合います。このガポンが血の日曜日事件のときの指導者であった。だがこのガポンは帝国政府から金をもらっていた人間だった。エスエル戦闘団として数々のテロを実行する。内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェ、モスクワ総督セルゲイ大公の暗殺を指揮したのは、このサヴィンコフです。でも何故か彼は逮捕され死刑判決を受けます。だが、彼は判決直前に逃亡します。
 でも何故彼が逮捕されたのか。それは彼の上司だった社会革命党戦闘団のアゼーフがスパイであったことなのです。ロシア政府は、これを議会で明らかにする。「アゼーフは政府側の人間である」。もうアゼーフを信じきって数々のテロを実行していたサヴィンコフは酒浸りの日々になってしまいます。こうしたことは、サヴィンコフのペンネームであるロープシンによって書かれている、「蒼ざめた馬」(「蒼馬をみたり」という訳本もあります)、「黒馬を見たり」(「漆黒の馬」という訳本もあります)、「テロリスト群像」に書かれています。高橋和巳も翻訳しています(高橋和巳は「蒼馬をみたり」「漆黒の馬」だけかな)。
 ロシア革命が起きて、臨時政府ができると、ロシアに帰国して政府に参加しますが、10月革命が起きると、ソヴェエトとは袂を分かち、やがて白軍の指揮官として赤軍と戦いを続けます。
 だが、赤軍の勝利ののちはパリに戻りますが、突如ポーランド・ソ連国境(ポーランドからソ連側に)を越えるときに、彼は逮捕されます。裁判で死刑とされますが、減刑され、でもそののちモスクワの刑務所の捜査官執務室の窓から投身自殺したと発表されました。
 ただ間違いなく、彼はロシア共産党=スターリンによって転落させられたのです。

 このサヴィンコフの生涯を思うと、カミユの「正義の人々」(これもサヴィンコフたちの数々のテロ事件を扱っています)なんか、一体何も判っていない、一体何を書いているんだろうと思いますね。

 彼が自分の裁判での冒頭陳述で述べたことですが、そして私が覚えているだけですが(だから私の記憶ですから、いい加減です)、次のようです。

 私がソヴェエト=ロシアを認めることができないのは、私の妹の亭主は、1905年の血の日曜日のときにツアーの近衛兵として勤務していたが、上官の「デモ隊を撃て」という命令を拒絶した唯一の指揮官だった。だが、ソヴェエトは1917年の10月革命のときに、この義弟を死刑にした。この一事をもっても私はソヴェト=ロシアを絶対に認めない。

 このサヴィンコフ=ロープシンの言うことは当然のことです。
 私も、ソヴェエトとか、共産主義とかマルクス主義とかは絶対に認めません。

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