将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:チェーホフの愛した女

11031801「チェーホフの愛した女」ということで、次の10人を紹介してきました。私はこの10人しか知りません。以下は私の紹介した女です。

 オリガ・クリッペル
 リーカ
 マリア・キセリョーフ夫人
 リジア・アヴィーロワ
 クレオパトラ
 オリガ・クンダーソワ
 エレーナ・シャヴローワ
 リジア・ヤヴォールスカヤ
 ナターリア
 妹のマーシャ

 私が作品すべてを読んだのは、太宰治と、このチェーホフだけです。いつも二人の作家の書いたことが、私には蘇ってきています。(2011.03.18)

11031608 このマーシャは1863〜1957年の生涯でした。アントン・チェーホフの5人の兄弟の中でただ一人の女の子でした。彼女が兄チェーホフのために、彼女の生涯をかけています。
 このマーシャがいなかったのなら、私たちはチェーホフのことを知ることはなかったのではと思われます。
 この妹マーシャの友だちで、チェーホフ家によく出入りしていた親しい友人の一人のタチアーナ・リヴォーヴナ・シェープキナ=クペールニク(ターニャ)(1874〜1952)が、このマーシャに次の詩を、チェーホフの死後30年してから、マーシャへ贈りました。

彼の妹、助手、友人であるあなた、
厳しい仕事も辛酸も彼とともにわかちあい、
周囲にさざめく青春も目にしたあなた───
彼にかわって新たな命の喜びを手にしなさい。
いまあなたは、彼の憩いだった小さな家で、
青い水面を 咲きこぼれる花壇がおおい
いたるところ彼の面影をとどめる庭に、
訪れるひと ひきもきらず
あなたに耳を傾ける 藤棚のもとで……
今またあなたは 昔のまま 彼と日々をともにして
みずからの勤めを誇りとする!
チェーホフの名と思い出とをとどめ
予見者チェーホフを 若者たちに語り継ぎたまえ。
       タチアーナ・リヴォーヴナ・シェープキナ=クペールニク
  1934年5月10日  モスクワ

 いつもチェーホフのことを考えている私にも、このマーシャは大事な存在です。(2011.03.17)

11031602  チェーホフ一家が1888年夏から、バカンスを過ごすのがウクライナ領のハリコフ県スムィでした。その町の郊外にこのアレクサンドラ・リントワリョーワの広大な領地がありました。
 このアレクサンドラ・ワシーリエヴナ・リントワリョーワ(1833〜1909)がいて、ここにチェーホフとほぼ同年代の三姉妹と二人の兄弟がいました。長女ジナイーダ(1857〜91)、次女エレーナ(1859〜1922)、三女ナターリア(1863〜1943)です。
 チェーホフは、三女・末娘のナターリアに一番手紙を書いています。彼女は小ロシア語とウクライナ語をこよなく愛する人でした。私はこの彼女を知って初めて、「ウクライナ語」という言語があることを正式に知りました。
 いやおそらく同じロシア語の中の方言みたいなものかと思っていたものです。数年前にゴールデン街でロシアを悪くばかりいう金髪の美女がいまして、よく聞いてみたら、「私はウクライナ人だ」と言っていたものでした。
 手紙を書くのはいいな。私もまた手紙を書きます。(2011.03.16)

11031502  もうチェーホフの全集を読んでから、たくさんの歳月が流れました。今こうしてチェーホフの何人もの好きだった女性のことを書いていると、またいくつもの彼の文章が思い出されます。
 このリジア・ボリーソヴナ・ヤヴォールスカヤは、1871〜1921年の生涯でした。彼女は、パリのコメディ・フランセーズで学び、ロシアに帰国後、1893年にモスクワで俳優としてデビューします。
 この同じ年にチェーホフと知り合います。彼女はチェーホフ一家も親しく訪れています。「かもめ」の中で大女優を自認するアルカージナや、中間小説「アリアードナ」の美貌のヒロインには、このリジアのキャラクターが投影されているといいます。
 ただ私にはいつも毎日手紙を書いていたその手紙の内容を思い出してしまうばかりです。私もまた今日も手紙を書きましょう。(2011.03.15)

 1889年7月17日に、エレーナ・ミハーイロヴナ・シャヴローワ(1874〜1937)は15歳でしたが、チェーホフが、

     チェーホフの愛した女、クレオパトラ

と知り合ったあと、ヤルタに戻ったその翌日出会いました。エレーナは、このときに作家志望で、そのまた翌日自分の作品を持って、約束のカフェで作家に会います。この彼女には、よくチェーホフは先輩の作家として面倒を見ています。交わされた往復書簡だけで、チェーホフよりは69通、シャヴローワからは130通が残されています。
11031307 私はチェーホフの手紙はすべて読んでいるつもりでしたが、でもこの彼女の関係の手紙は読んでいないのですね。
 一四歳も年が離れたチェーホフとシャヴローフは、とにくチェーホフからは、親密ではあるけれど、やや距離をおいて師弟の関係のようでした。
 後年のチェーホフの作品「犬を連れた奥さん」や「いいなずけ」には、エレーナ・シャヴローワのキャラクターが投影されているようだということです。
 思えば、チェーホフという人は毎日ウォトカを飲んでいたばかりではないのですね。(2011.03.14)

11031122  チェーホフの妹のマーシャを通じた女ともだちの一人に、このオリガ・クンダーソワ(1865〜1943)がいます。彼女は数学者でした。そしてチェーホフの中間小説「三年」のラッスージナは彼女がモデルだと言われています。
11031121 チェーホフが、シベリア・サハリンに出かけるとき、ヴォルガ河を下る船の船上には、数日の間彼女の姿があったと言われます。妹マーシャは、「彼女は兄にとても心をよせていました」と証言を残しています。
 こうして私の好きな作家チェーホフを知ると、同時に彼が好きだった何人もの女性を知ります。このことで、また私はもう一人のチェーホフを知ることができる感じを受けています。(2011.03.13)

  私がチェーホフをすべて全集で読んでいた頃、彼の言葉に気に入っていたのが次でした。

  罪悪は酒を飲むことにあるのではなく、酔いどれを助け起こさ
 ないことにあるのだ

11031109 私はこれを知ってからいつも酔っぱらいを助け起こすようになりました。助け起こしているのは別な瞬間の自分かもしれないのです。そして私は50度のストロヴァイヤンというウォトカをただひたすらに飲むようになっていました。
 1889年7月にチェーホフは黒海沿岸のオデッサの「北ホテル」に宿をとったときに出会ったのが、女優のクレオパトラ・カラトゥイギナ(1848〜1934)でした。このホテルの48号室が他の俳優達も集まる「アントニオとクレオパトラのお茶の会」の部屋となっていたのです。
 この女優は、この出会い以前に、はるか最果てのシベリアからサハリンまで、数回にわたって巡業・放浪の旅を経験していました。
 彼女への手紙に、チェーホフは必ず、「ロシア大地の大女優」と尊称で呼んでいました。1860年1月29日から1904年7月15日まで生きたチェーホフよりも、随分年上であり、そしてチェーホフの死後を長く生きています。
 そして彼女は、1926年、チェーホフの死後22年後78歳の時に、『A・チェーホフの思い出ーわたしがアントン・パーヴロヴィチと知り合ったいきさつ』を書き残しています。
 最初に初めて知り合った日のことは、次のように書いてあります。

 あたりが暗くなって、みな帰り支度をはじめると、彼は手を差しの、また憎らしい紙袋を差し出し、同じ馬車にのりこむ。気性が荒くて、口下手で社交性の乏しい(と自分でも自覚している)彼女は、突然今をときめく文壇の新星と同乗する事態になって、最初のうちは、レーンスキー(彼女と同じ劇団の俳優)も、自分も、この <幸せな機会> もうらめしく思った。しかしチェーホフはすぐに彼女の途惑いを察して、彼独特の、気の利いた冗談や豊富な話題で彼女を会話に引き込んだ。二人はホテルに着くまでの途中ずっとおしゃべりに夢中になり、声をたてて笑い通した。ホテルで一行が夕食に向かうときも、彼のやさしさ、率直さ、ユーモアの彼女はすっかり魅せられてしまう。

この日から、私たち二人は親しいお友達になりました」、とクレオパトラは記している。そう、チェーホフと彼女は実にいいお友達でした。
 クレオパトラの情報はシベリア・サハリンの荒々しい大自然と煉獄を生きる桁外れな人物たちだったが、作家・医師としてのチェーホフの視線は、その先のサハリンに、流刑地のどん底に追放された人々に注がれていた。
 このクレオパトラとの出会いがチェーホフには実に大きなことだったなとばかり思います。(2011.03.12)

11031012 このリジアは、チェーホフよりも4歳年下の女流作家のアヴィーロフです。彼女には、回想録「わが生涯のチェーホフ」を記しています。これは二つの出版社から翻訳されています。

 「私のなかのチェーホフ」(尾家順子訳 群像社)
 「チェーホフとの恋」(小野俊一訳 未知谷)

 私はこの二つの本はもう読み終えました。上の群像社の本は、2008年6月15日に読み終えています。私はいくつかのページでいつも涙が出てくる思いで、少し困っていました。
 このリジヤが、私が以下で

 http://shomon.livedoor.biz/archives/51250486.html
    周の雑読備忘録「チェーホフ『たわむれ』」

次のように書いた少女なのでしょうか。

おそらくチェーホフは、こんな乙女ナージェンカをからかう気持ちもありながら、それでも彼女のことがたまらなく好きになってしまったのが、私たちのチェーホフなのです。

 でもいくつかのページで私は本を閉じないと、私の涙が人の目の前で羞しいな、というところはいくつかあったものでした。(2011.03.11)

11030917 この女性は、チェーホフよりも10歳年上でした。
 チェーホフは、シベリアを経て、極東へ旅をします。サハリン島へも、中国へも訪れています。
 このときには、チェーホフはこの旅行でのことで、自分の健康のことも手紙で弱音や泣き言を吐くことはありませんでした。ただ、この10歳年上のマリア・ウラジーミロヴナ・キセリョーワ(1850〜1921)に宛てての手紙のみで、こうしたことでの弱気の部分をのぞかせています。
  私は昔チェーホフの全集を読み、書簡もすべて読んだと思っていたわけですが、まだまだチェーホフの書簡はいくつもあるようです。そのことを知って私は嬉しいです。そして自分でもまた多くの人に手紙を書くようになっています。みなチェーホフを真似しているのです。
 こうしてチェーホフの書簡を思い出すと、私も自分の手紙をさらに書く事を続けていきたいと強く思いました。(2011.03.10)

11030901 このチェーホフという作家は1860年1月29日〜1904年7月15日の生涯でした。私は何人もの作家の作品をほとんど読んだという人は何人もいますが、書簡等々まですべて読んだのは、このチェーホフと太宰治だけです。
 この作家にもたくさん愛した女性がいたようですが、今はこのリーカが思い浮かびました。
 このリーカは、『かもめ』のヒロインのニーカのモデルです。彼女は、チェーホフの妹マーシャと同じモスクワのルジェフスカヤ女学院の音楽教師でした。チェーホフ家のみんなからは「リーカ」の愛称で親しまれていました。このリーカであるリジア・スターヒエヴナ・ミジーノワは、1870〜1937の生涯でした。
 このリーカと何故チェーホフが結婚しなかったのか私は不思儀です。大変に美貌でかつ多彩な顔を持つこの女性には、チェーホフはひるんでしまう思いもあったのでしょうか。
 私は『チェーホフ全集』を読んだのは、大学5年、6年の頃です。でも『かもめ』を始めて読んだのは、中学2年のときだったなあ、と今思い出しています。(2011.03.09)

11030717 このオリガ・クリッペルがチェーホフの妻です。新潮社の「チェーホフ全集」には、一巻がすべて彼女への手紙になっています。女優である彼女にチェーホフは毎日手紙を書いています。私も一年間に200通を超える手紙をある女性に書いたことがありますが、このチェーホフにはかないません。
 でも実は、私がこういうふうに毎日好きな女性に手紙を書くことを知って、それを真似した後輩がいます。その相手の女性が言っていました。「もう何も書くことがありませんとずっと……だけで手紙を書いてくるのよ」。実はその彼は私の真似をして、私はチェーホフを真似しただけなのです(この彼も私のように長く千葉刑務所の拘置所に勾留されていたのです)。
 でも想い出せば、もうただただ懐かしい思いが蘇ります。
 1868年9月21日〜1959年3月22日の生涯でした。アントン・チェーホフの妻として、夫の死後も半世紀以上も生きています。この日本にも来たことがあります。彼女は、今モスクワのノヴォジェーヴィチー修道院墓地に夫と並んで眠っています。(2011.03.08)

10091815 今もしつこく雨の音です。
 夜中に目が覚めたら、私の大学時代の過激派の友人がメールをくれていたところでした。私はブログとツイッターをやるように勧めたメールを出しました。
「ニュースさとう」では、今はノートパソコンは使わなくなったということを書きました。今はもう別のもので、普通にやれますね。
「歴史さとう」で、「チェーホフの愛した女、リジア・アヴィーロワ」を書きました。これでチェーホフでは9人目の女性です。彼女は作家なのですね。私は今彼女の作品を2つめを読んでいます。私はチェーホフが好きだから、ウォトカが好きになったのです。
 写真は、9月18日の午後1時51分の谷中ぎんざを歩いているときに撮りました。(09/27)

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