10121710  私はダニエル・キースに関しては、翻訳されている作品はすべて読んできました。ただ、ダニエル・キイスは日本でこそ大変に人気があり「24人のビリー・ミリガン」の続編の「ビリー・ミリガンと23の棺」は、この日本のほうがアメリカよりも先に出版されたようです。
 ここではまずキースの最初の代表作であるこの本を紹介します。

書 名  アルジャーノンに花束を
著 者  ダニエル・キイス
訳 者  小尾芙佐
発行所  早川書房
定 価  1,500円

 この本は長女のために買いました。「必ず涙なくては読めない本だよ」と言っておきました。たしかに長女はかなり感動したようです。めずらしくいろいろと内容に関して話してくるので、いろいろ答えておりました。

 主人公チャーリイ・ゴードンは知能指数68という精薄児です。私は同じ障害児とといっても、この知能障害とその他の障害児とは、かなりいろいろと違うなと感じているところです。私の友人後輩に、この障害児教育にたずさわっている人が何人かいますから、けっこう話し合ってきました。そのときにこの小説の話も必ず出てくることになります。
  手足の不自由、視覚、聴覚の障害などの障害者と、いわゆる知恵遅れといわれる障害者とはその障害はかなり違うものではないのかなということなのです。知能障害の場合は自らが障害者だと判らない人がいるわけです(もちろん判る人もいる、判からない人はいわゆる重度といわれるわけでしょう)。ここがその他の障害と根本的に違うところです。実は私がこのことに明確に気がつかされたのは、養護中学校の教頭をしている後輩と大江健三郎の息子光さんのことを話しているときなのです。そしてやはり大江健三郎のいうことに疑問かつ異議を感じてしまったのですが、そのことはまた別なところで述べていくべきかなと思います。

 この小説の主人公は、昼間はパン屋で働いています。夜は精薄児センターで嫌になる勉強をさせられています。でも毎日元気に愉しく生きています。その彼に、ある大学の先生が、彼の頭を良くしてくれるという話がきます。それから毎日きつい検査が続きます。その検査で課せられる日課に、日記作りがあります。「経過報告」といって、毎日ノートに書いていかなければならないのです。

  ストラウスはかせわぼくが考えたことや思いだしたことやこれからぼ
 くのまわりでおこたことわぜんぶかいておきなさいといつた。なぜだか
 わからないけれどもそれわ大せつなことでそれでぼくが使えるかどうか
 わかるのだそうです。ぼくを使てくれればいいとおもうなぜかというと
 キニアン先生があのひとたちわぼくのあたまをよくしてくれるかもしれ
 ないといったからです。ぼくわかしこくなりたい。

  これが最初の経過報告といういわばチャーリイの日記です。この日記の内容がこの小説になっています。最初はいわばたどたどしくしか彼は書けません。翻訳された方が苦労して構成していったように、最初は句読点も、漢字(もちろん本当は英文のスペルを普通に書けないということでしょう)も、うまく書けないのです。これが大学の検査の経過、そして手術と同時に少しずつ変化していきます。次第に誤字がなくなり、漢字熟語が増え、内容が高度になっていきます。
 彼の検査の競争相手は、アルジャーノンと呼ばれる白ネズミです。このネズミも検査を受け、やがて脳外科手術を受けます。アルジャーノンもたいへんに知能が発達していきます。それを見ているチャーリイも負けずに頑張ろうとします。
 やがてチャーリイの知能は驚くほど高まっていきます。彼は語学だけでも、ヒンズー語、日本語、古代東洋語までも理解できるようになります。あらゆる学術論文も読みこなしてしまいます。物理学でも、地質学でも、経済理論でも、彼はなんでも理解できてしまいます。もう彼を手術してくれた先生たちのことも、どうしてこんなことすらも知らないのかという目で見るようになります。彼にはもう超知能を持つ大天才なのです。

 だが、こうなってから見る世界はチャーリイにとって素晴らしいところといえるのでしょうか。精薄のときに、彼をかばってくれたパン屋の同僚も、もはや彼を気味悪い目でしか見てくれません。いったい何が変わったのでしょうか。精薄のときも、今も同じチャーリイであるはずなのに、誰も同じ人間とは見なしてくれないのです。
  そしてチャーリイは知ります。同じ検査手術を受けたアルジャーノンがはたしてどうなってしまうのかを知るのです。アルジャーノンはやがてその知能が衰えていき、また元に戻ってしまうのです。自分の未来を予見できてしまったチャーリイは、今のうちに、自分を子どものときに捨てた母親、妹、別れてしまった父親と再会しておこうとします。

 彼は結局アルジャーノンと同じように、また元へ戻っていきます。だんだん経過報告の文章も稚拙になっていきます。
  最後にチャーリイの次の文で終ります。

  どーかついでがあったらうらにわのアルジャーノンのおはかに花束を
 そなえてやてください。

 かなり誰も感動する小説だと思います。いったい知的障害児であったチャーリイにとって、つかの間に見た並の人たちの世界はどうだったのでしょうか。彼は自らがある時間違うチャーリイになっていたのは覚えているようです。また彼はりこうになれたらいいなと思っている障害児に戻ったようです。

 私も感動して読んだものですが、いささか異議があるといったら、このチャーリイが「いますぐまたりこーになりたいな」などと最後の経過報告に書いていることです。
 彼がまだ超知能をもっているころ、ある食堂でさら洗いをしている少年を見かけます。彼も昔パン屋で働いていたことを思い出します。

  そのうすぼんやりした笑顔をみているうちに私の胸は痛くなった………
 幼児のように見開かれた澄んだ眼、おぼつかないけれども喜ばせようと
 ひたむきな眼、それを見て私は彼に見覚えがあると思ったものが何であ
 るか気づいたのである。彼らが笑っていたのは、その子が精薄児だった
 からなのだ。
  そしてはじめはこの私がみんなといっしょになっておもしろがってい
 たのだ。
  とつぜん自分に、そして彼を嘲っている連中に烈しい憤りを感じた。
 皿をつかんで彼らに投げつけてやりたい。彼らの笑っている顔を叩きつ
 ぶしてやりたい。私は飛びあがって叫んだ。「だまれ!  この子をほっ
 ておけ! この子はわかりゃしない。こんなふうなのはこの子のせいじゃ
 ないんだ…… たのむから、この子の人格を尊重してやってくれ!  彼
 はにんげんなんだ!」

 彼は自分が知的障害児だった過去を思い出します。彼は自分が他の人より劣っているのを知っていました。だからなんとかもっと能力が高められたら、知能がもっと得られたらと考えたのです。そうしたら並の人のようになれるのではないのか。そしてこのいわば実験に応じてきたのです。

 私にはここでこの作品に対する疑義が浮んできます。チャーリイのような軽度の精薄ではなく、まったく自分が他の人より知能で劣っているのを知らない多くの精薄の人はどうなるのでしょうか。手足が不自由でも、なんとか機器の進歩で不自由を補い、かつ本人も努力していけるのかと思います。だが、そもそも自分の障害を全く認識できない人はどうなるのでしょうか。ただチャーリイはまだりこうになりたいという知能をもっているから、こうしたことが体験できたのです。視覚や聴覚の障害でも、なんとか努力していこうという本人の気持、そしていつかコンピュータを始めとする科学の発達により解決していけることがたくさんあるように思います。だがどんなに科学が進歩しようと、重度の知的障害者はどうなるのでしょうか。自らの障害をも認識できない障害者はどうなるのでしょうか。このことへの明確な答えはこの作品には出てこないように思います。いやこのことは全く考えられていない作品といっていいのではないでしょうか。

  少なくとも、科学の発達によりその知的障害を直すことが、その本人にとっていいことだとは必ずしも言えないということだけは、このチャーリイの経験でいえることかなと思いました。(2002.11.01)