将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:ナポレオン

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 このサイドバーのいつくもの像で、「次は『曹操』だなあ」と思っていました。ところが曹操では書くことがいくらでも出てきて、書き始められません。でもそのうちナポレオンの今の『ダビットの「ナポレオンのアルプス超え」』のことを書こうと思いました。ナポレオンはまたほかのことも書いていいし、何も上から順番に書くこともないなあ、と思ったのです。
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 この絵は、以下のものです。

   ポール・ドラロッシュ
   ≪アルプスを越えるナポレオン≫
    1848年
   ルーブル美術館

 ナポレオンは、このアルプスを馬で颯爽と越えたのではなく、驢馬で地道に歩いたのです。ナポレオンの前には、カルタゴのハンニバルがBC218年多数の象と一緒にアルプスを越えました。
 ナポレオンは1800年4万の軍勢を引きつれ雪のアルプスを越えて、マレンゴのオーストーリー軍を急襲しました。
 ナポレオンには、カルタゴのハンニバルは意識していたものでしょうが、結果としてそれほどの成果が得られたとは思えません。それはハンニバルの場合でも私は感じるのです。この絵はその際のときの驢馬でアルプスを越えるナポレオンです。

11030504  このエレオノール・ドニュエルは、 1787年9月3日〜1868年1月30日の生涯でした。ナポレオンの死後も長く生きているのですね。
 ナポレオンの妹カロリーヌ・ボナパルトから紹介され、愛人となり、子どもを身ごもります。それまではジョゼフィーヌが自分の子どもができないのは自分のせいだと思い込んでいたナポレオンが、これでジョゼフィーヌと離婚し、マリー・ルイーズと結婚するのはこのことがあったのでした。これにはジョゼフィーヌを嫌っていたナポレオンの家族の気持もあります。
 このときの子どもは庶子として認知されました。
 この女性は、ナポレオンの没落後は別な男性と結婚します。(2011.03.06)

11030417  私の好きなナポレオンには生涯たくさんの好きな女性がいました。その中でポーランド人だったこの女性を思い出します。私は前に「金髪の美女の話」ということを書いています。
 それでここで次のように書いていることです。

 私は、今度はポーランドの歴史で、ロシア=エカテリナ2世、オーストリア=マリアテレサ、プロイセン=フリードリッヒ大王による分割占領(これは当事者はいろいろですが18世紀後半に3度分割されています)されていることをあげ、私がポーランドに親近感を抱いていることをいいました。ナポレオンによるワルシャワ大公国のこともいいました。

 私はそのときには話していた目の前の美人を「ナポレオンが愛したポーランド人マリア・ヴァレフスカって、こんな美女だっったのかな」なんて思っていたのです。
 ナポレオンがプロイセンを破り、ワルシャワに進んだときに、ポーランドは解放されたと沸き立ちます。
 そのときに会ったのが、この女性でした。彼女はまだ21歳でした。白いドレスを着た彼女にナポレオンは一目ぼれするのですが、そして毎日花束と贈り物と恋文を送ります。 ポーランド人はおおいに彼女に期待します。彼女がナポレオンと愛しあったときに、ワルシャワ大公国ができます。
 ナポレオンは彼女を「ホーランドの妻」と呼んでいて、アレクサンドル・ヴァレフスキという子どもができました。彼はナポレオン3世時代に活躍します。
 マリー・ヴェレフスカはナポレオンがエルバ島に流されたときには島を訪れており、セントヘレナにも一緒に行くことを願いました(これは駄目でした)。ナポレオンが亡くなるときに、彼女の指輪がナポレオンの指にもあったと言われます。
 ナポレオンをちゃんと愛していた女性だったと思います。(2011.03.05)

11030404 このナポレオンが愛した女性は、実に「ナポレオンの永遠の恋人」と言われています。1777年11月8日〜1860年12月17日の生涯でした。
 デジレはマルセイユの裕福な商家のクラリー家の末娘として生まれます。彼女の姉マリー・ジュリーがナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトと結婚します。ナポレオンと恋文を交換(婚約までした)していますが、そのうちナポレオンはジャゼフィーヌと結婚してしまいます。
 1798年にフランス陸軍の将軍のベルナドッドと結婚します。ただナポレオンには、ずっとこのデジレに対して、婚約を破ってしまったという思いがありました。
 だが、夫のベルナドッドがスエーデン国王となるに及んで、彼女はその王妃としてスエーデンの女王になったわけです。このベルナドッドはナポレオンを最初から嫌い抜いていました。このベルナドッドは、片腕には、「王侯くたばれ」という刺青をしていました。彼はもともとは熱烈なジャコバン党だったのです
 現在も続くベルナドッド王朝です。デジレはナポレオンと結ばれなかったことで、この地位を得たわけですが、彼女の最後の思いはどうだったのでしょうか。(2011.03.04)

11022726  1791年12月12日〜1847年12月17日の生涯でした。オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)の娘でした。
 最初はオーストりーの敵でしかないナポレオンのことは、実に恐ろしい敵の総大将として憎んでいたはずです。だが、ナポレオンの勝利によりパプスブルク家の娘として、皇帝ナポレオンの后となることになります。そしてナポレオン2世(ローマ王)を生みます。
 だがナポレオンの后になったのは、1810年4月1日ですが、1814年4月4日ナポレオンは退位させられ、エルバ島へ行くことになり、別れてしまいます。
 一時は、ナポレオンを愛するようにもなっていた彼女ですが、こののちは一切彼のことを忘れます。だが夫ばかりでなく、息子のナポレオン2世も忘れてしまうのです。このことが何故か悲しく思います。
 この息子はずっと母親に会いたかったようです。
  1832年7月22日に、この息子は21歳という若さで亡くなります。(2011.03.03)
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11030103 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは、1763年6月23日〜1814年5月29日の生涯でした。1769年8月15日〜1821年5月5日の生涯だったナポレオン・ボナパルトよりも実に6歳歳上であり、ナポレオンが亡くなる、7年も前に亡くなっています。
 彼女はナポレオンと結婚するときには、もう一男一女がいました。この二人のためにナポレオンは離婚を諦めたこともあるようです(二人の子どもがナポレオンのそばで泣くのです)。
 彼女は大変に浮気癖があり、私にはその癖がナポレオンにも感染ったように思えます。彼女は西インド諸島マルティニーク島の生まれで、フランス革命後のポール・バラス総裁の愛人となっているときに、ナポレオンの求愛を受け、1796年に結婚しています。
 イタリア戦線で戦闘のさなかにも、エジプト遠征のときにも、ナポレオンにはこのジョゼフィーヌの浮気が心配だったようです。ただ、ナポレオンがブリュメール(霧月)のクーデターを起こした頃からは真剣にナポレオンを愛するようになったようです。
 ただし、ジェゼフィーヌから浮気癖を感染されたナポレオンのほうが、その後はひどくなってしまうのです。
 思えば、彼女はナポレオンの死は知らないのですね。ナポレオンがセントヘレナで亡くなる瞬間に彼女の名前を叫んでいます。思えば、それだけ魅力を感じていた女性だったのでしょうね。
 そして私は、前にはこの女性が少しも好きではありませんでしたが、今では十分にその魅力を感じています。(2011.03.02)

11021501 私がよく聞かれることなのですが、「よくあれだけいろいろなことをおやりですね、時間をどうやって作られているのでしょうか?」という問いがあります。それに関しまして、以下のようなことを話したものです。

 ナポレオンのやった数々の革命的ともいえる戦略の中で、「各個撃破」の戦法を見てみましょう。
 イタリア戦線のオーストリアとの戦いにおいて、ナポレオンは優秀かつ数倍の敵を何度も破っています。このことを考えてみたいと思うのです。なにしろ、オーストリアは名門の陸軍大国でした。それに対するフランス軍は、フランス革命の混乱が続き、ヨーロッパのほとんどを敵にして苦しい戦いをあらゆる戦場で続けていました。とくにライン河方面では、このオーストリア軍に押しまくられてしました。あちこちで、困難な戦いが続くなかで、奇跡とでもいえるようにナポレオン率いるイタリア戦線だけが勝利を続け、このことがフランス革命政府を救うことになります。
 だがこのイタリア戦線でも、フランス軍は補給もままならず、逆にオーストリア軍は物資も豊富であり、しかも軍勢もいつもフランス軍を上回っていました。だがナポレオンは奇跡のように、勝利続けたのです。
 1796年8月のガルタ湖畔の戦いです。オーストリア軍はベテランのウルムゼル将軍が率いていました。ナポレオン軍3万に対して、6万の軍勢でした。このガルタ湖畔の戦いにおいて、オーストリア軍はナポレオン軍の2倍の兵力で、ナポレオン軍を集中包囲しようとしました。3方面から包囲攻撃しようとしたのです。今までの常識からすれば、こうした場合は包囲を恐れて、ナポレオン軍が退却するのが当りまえでした。だがナポレオンは、「全般態勢が悪くても、局所で勝てばいい」と後退などせず敵に向かっていきました。

 1.敵は3つに分かれているが、我らは一つにまとまっている。
    全体としては敵より劣性でも、敵の一つに対しては、我々の
    ほうが優勢である。
 2.一つの戦場から他の戦場に転進するには、我らの方が近路
    をとれる。

 かくして、ナポレオンはこうして3方面の敵に対して、各個撃破の戦法により、敵の一つ一つの軍団の進路に対して、全軍で素速く突き進み、常に撃破勝利続けました。これは当時の戦争の常識ではないものだったのです。

 これが、私もつねづね念頭に置いている戦法です。たしかに、やるべきことがたくさんあります。毎月やらなければならないルーティンな仕事があり、しかも各クライアントからは、新しい要請がたくさん出てきます。しかも、私は自分のホームページも毎日更新しなければならないし、かつ私はとにかく毎日読書続けなければいけないし、かつ日々飲んでいかなければなりません。でもそれらは一見、すべてがいっぺんに私にかかってくるように見えても、こちらがよく見極めれば、少しづつの時間差があるものなのです。この時間差を利用して、こちらが「兵は拙速」(孫子の言葉)ということで、素速く動ければ、各一つ一つの場面では、こちらの軍勢のほうが有利なのですから、各個撃破できるものなのです。
 そして、かつ実際の戦争とは違って、私の場合の相手は、私のやる戦法に協力してくれる気持を持っている相手が多いわけなのです。
 こうして私は、多くのことをやりとげています。そして、このことは、私の数々のクライアントに対しても、コンサルティングできる重要なことだと考えております。(2002.05.27)

10112505 私の好きなヨーロッパの英雄にナポレオンがいます。このナポレオンのことを詩いました、七言絶句が徳富蘇峰にあります。これは明治29年蘇峰24歳の作です。

  奈翁(なおう) 徳富蘇峰
 歐南歐北拜旌旗 欧南欧北 旌旗を拝す
 孤島幽囚彼一時 孤島幽囚 彼も一時
 蓋棺百年無定論 棺を蓋(おう)て百年 定論無し
 亂山何處出奇兒 乱山何れの処にか 奇児を出だす

 全欧州に旗を翻したが
 孤島に幽囚のの身となったこともある
 死して百年たっても、今も彼ヘの論は定まっていない
 何れのところに こうした珍しい天才を出したのだろうか

 私は中学生のときから、蘇峰ではなく、徳富蘆花が好きでした。彼の小説をいくつも読みました。なかでも「思出の記」を一番愛読したものでした。私はこの小説を中学2年のときに、2度読み返したほどでした。
 この蘆花の、兄蘇峰への思いは実に複雑です。いや「複雑」というより、やはり蘆花は、兄蘇峰を嫌い抜いていたというところでしょう。その影響で、私も蘇峰が好きになれませんでした。
「自然と人生」の中の最初の小説「灰燼」の印象が強いのです。このことは以下に書いています。

  蘆花公園恒春園

 西南戦争で、西郷軍に参加する弟と、それを否定している兄という中で、私だって、もしその場にいたら、西郷軍にこそ結集して闘ったよと思っている私は、どうしても兄蘇峰のほうが嫌いでした。
 だがだが、やはりこれは蘆花の誤解です。兄蘇峰を誤解したままでした。そしてその蘆花の誤解は、亡くなっても、今も解けていないように思います。でもでも、それは蘆花の誤解であり、今は私は、蘇峰の偉大さに惹かれます。
 その蘇峰が、私の好きなナポレオンのことをこうして詩っています。おそらく、西南戦争での西郷南洲のことを、このナポレオンと比較したこともあるのだろうなと私は思っています。
 それにしても、ナポレオンを思う蘇峰の声をもっと知りたい気持がしています。 (2005.03.28)

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 Spider job  蜘蛛業 に書いております 歴史さとう が2010年5月7日〜5月25日までのUPしました7回目の10回分が以下の通りです。この「愛した女」ということでは、3回目の10回分です。

2010/05/25(火)
ナポレオンの愛した女、ジョゼフィーヌ
2010/05/23(日)
カエサルの愛した女、クレオパトラ
2010/05/21(金)
坂本龍馬の愛した女、お龍
2010/05/19(水)
西郷隆盛の愛した女、愛加那
2010/05/17(月)
ダンテの愛した女、ベアトリーチェ
2010/05/15(土)
李白の愛した女、「思君不見下渝州」
2010/05/13(木)
桂小五郎の愛した女、幾松
2010/05/11(火)
秀吉の愛した女、おねね北政所
2010/05/09(日)
チェーホフの愛した女、クレオパトラ
2010/05/07(木)
ゲーテの愛した女、ウルリーケ

 まだ30回しか書いていないのですね。でもあと20回分は、題名だけは決めてあります。すなわち、人物とその愛しただろう女性の名前だけは決めています。ただ実際に書く時には、その内容が自分でも思ってもいないことになることもあります。

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 私は 蜘蛛業の「歴史さとう」に、このところ幾人もの人物の「愛した女」ということいで書き綴っています。最初予定では、あまりその人物の本妻や恋人のことは書かないでいこうと思っていました。
 でもでも、やっぱりナポレオンならジョゼフィーヌのことが書きたいし、豊臣秀吉ならおねね北政所のことも書かないと気がすまなくなりました。
 それで、きょうはジョゼフィーヌのことを書こうと思っているのですが、どうしても書き出せないのですね。私のナポレオンの数々の愛人の中で、このジョゼフィーヌがどうしても忘れられないのです。ナポレオンがセントヘレナで死ぬ瞬間に、「フランス、軍隊、先頭、ジョゼフィーヌ」と叫んだ女性です。

 しばらくしまして、何かを書いて行きます。

9fb72193.jpg このお便りを書く中で、ポメラの中で他のことも書いています。「歴史さとう」で「ナポレオンの好きな女、マリー・ヴェレフスカ」を書いている途中です。彼女はナポレオンの流されたエルバ島を訪れ、実はセントヘレナにも訪れようとしているのです。
 お花見に行くのならいいなあ、と思いました。13日なら八重桜が咲いているのかなあ。
 写真は4月2日午後5時54分の長女の家のすぐそばのお花です。(04/07)

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 私の書いた レビストロースがなくなりました目森一喜 さんが以下のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜   2009年11月04日 18:29
 先日「ヨーロッパの100年」を読んでいて、フランス人が風呂に入らないので臭いというところがあり、「悲しき熱帯」を思い出していました。冒頭でアメリカに向かう船の中で、みんなが風呂に入りたくてしかたがないのです。あれは、フランス人が風呂に入りたがるほどだったという事なんだなと納得したのです。レヴィ・ストロースはその船でアンドレ・ブルトンと一緒だったんですね。

 あ、私は「ヨーロッパの100年」も手にしたのですが、上下2巻なので、止めてしまいましたものでした。
 でもフランス人だって風呂に入りたいよね。私はもう毎日入っています。いや、銭湯にも行きたいのですが、もうこの近所は銭湯なんてないのですね。王子温泉というところがあるから、ポコ汰と行きたいのですがね。
 ポコ汰にはいつも、一緒に「お風呂入ろう」と言っているのですが、なんだかまだ2つなのに、じいじとは嫌みたいなのですね。
 あ、ポニョと入ろう。まだ一つだから、きっと入ってくれるな。
 フランス人というのは、風呂入らないというのは、もうどうしようもないことですね。思えば、ナポレオンは実に風呂が好きでした。思えば、私がナポレオンが好きなのは、お風呂好きなこともあるのですね。

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 私の 久々に学校。。。に、ナミちゃんご当人から以下のコメントをもらいました。

1. Posted by なみんと    2008年10月08日 10:57
周さん〜おはようございます。
今日も朝から雨ですね。静かな午前中です。。。。
早速コメありがとうございます。
子ども達とその周りのみんなみ〜んなが幸せになれることを祈っています♡
・・私のブログにトラックバックを今まで有り難うございます。ブログ開設当初から色々支えて戴き、今日の周さんのトラックバックが丁度100回目にあたります。コングラチュエ^ション〜です〜。

 そうか。私のこれで100回目のトラックバックなんですね。コメントというのは、それ以前の掲示板でも同じと考えていいのですが、このトラックバックというのは、このブログになって初めてできたものだと思うのですね。だから、私はできるだけ、どこでもトラックバックしようと考えているのです。
 でもナミちゃんのブログはコメントがたくさんあって羨ましいですよ。
 あ、それで昨日ナミちゃんに書いた手紙にどうでもいい愚痴を書いてしまいました。ごめんね。また今度書く手紙には、ナポレオンのことを書いていきますよ。

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f7edc64e.jpg 少し前に、郵便局に用があって、そのときに今年の1月31日から出していました手紙の301通目をポストに入れました。娘二人には各30通をを超えています。そのほか、10通を超える方は何人もいます。
 ただし、私が困っているのは、プリントする和紙の種類があまりないことです。でもこれは仕方ないのかな。もっと手紙等々をプリントする人が増えてくれば、多くなるのでしょうがね。
 私もビジネス上の印刷物は、普通のコピー用紙にプリントしていますが、私的な手紙だけは、こうして和紙に印刷しています。相手もこれのほうが楽しいだろうと思うからです。
 思えば、欧米人は随分前からタイプライターで印字してきていました。私たちがパソコンで印刷したのとは、どのくらいの日時の差があるのでしょうか。
 もう欧米人はかなり前からタイプライターで印字しています。欧米の作家なんかみんなそうですね。でもナポレオンは自筆で書いていますし、ゲーテのあの長い小説の『ウィルヘルム・マイステル』もペンで書いていたはずです。
 でも、マーク・トウェインはタイプライターで書いていました。そうすると、日本人とは7、80年の差なのかなあ。
 とにかく、もっと印刷できる和紙が増えてほしいものです。
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  財団法人東京ゲーテ記念館
  〒114 東京都北区西ケ原2丁目30番1号
       電話 03(3918)0828
       FAX03(3576)0045

 ゲーテの嫌いなところをまず考えてみます。

  1.「色彩論」
  2.ヘーゲルに会ったときの姿勢

 まず1は、なぜこの偉大な人が、あんなつまらないことを執拗に書いたのかと思います。いったい何がいいたいのでしょうか。考えられることは、ニュートンにも負けない科学者であるということを示したかったのかなとも思います。しかし、このゲーテ記念館にきて驚きました。ゲーテの色彩に関する見解が近年再評価されているといいます。まったくなんでそんな嘘をつくのでしょうか。駄目なものは駄目といったって、ゲーテの価値は少しも損なわないのです。
 2は、あれほどのゲーテがヘーゲルの人気に対しては嫉妬していたのかなとも思えるのです。ナポレオンに対してなら、あれほど評価してつき合えるのに、ヘーゲルだと、自分の何か到達できない思想の種類を感じたのでしょうか。しかし、またこのこともこのゲーテ記念館ではまともに書いていません。

 私は以上の2点以外はゲーテの全てが好きなのです。
 このゲーテ記念館が渋谷にあったころから、なんども訪れたいと思っていました。本場ドイツにもない資料も集めているといいます。やっと北区の西ケ原へいけたのは昨年のことです。地下鉄南北線の西ケ原からこの館までの道は「ゲーテの道」と名づけられています。
 私がゲーテ自身のことでなく、ゲーテ記念館のことだけでいうと、館長が嫌いでした。粉川哲夫。なんでこんな奴が館長なんだろうと思っていました。あちこちに書く文、その内容、みんな嫌いです。しかし、理由が分かりました。このゲーテ記念館を作った方(たった今はこの人の名前を思い出せません)の息子なのですね。「まあ、仕方ねえな」
 でも私はもともとここらへんを歩くのが好きでしたから、ちょっと散歩のついでによるところとしてはいいですね。ほかにも寄るところがいくらでもあります。
 館の中に入って詳細に見てみました。ゲーテに興味のない人は行ってもつまらないでしょうね。しかし、先に書いた1、2のこと以外にもいい加減なことが書いてありました。
 私はゲーテの数々の恋人たちの中で、一番好きになるのがフリーデリケ・ブリオンです。多分ゲーテも「詩と真実」の中で、そのように書いていたように思います。いやこれは私の想いだけかもしれません。そして私が次に好きになれる女性が、リリー・シェーネマンです。「首にかけていたハート形の金のメダルに」という詩をよく思い出します。ゲーテがリリーから去っていく時の詩です。
 ところがこの記念館では、このリリーの解説に、

 後年、トーマス・マンは、この二人の再会を題材にして小説「ワイマルのロッテ」を書いた。

などとありました。「ワイマルのロッテ」は「若きウェルテルの悩み」のロッテ、つまり、現実の世界ではシャルロッテ・ブフのことではないか。いったいこのゲーテ記念館って、どういう校閲をしているのでしょうか。
 実は私は、ゲーテの恋人をひとりひとり、肖像画まで見て覚えているためにうるさいのです。こんど備忘録として、ひとりひとりのことこのネットで記録しておこうかな。

 ただ私はこのゲーテ記念館へ来て、まったく誤解していたことを初めて知りました。これは良かった。中学2年のころから間違って思い込んでいたわけです。
 ゲーテの「ファウスト」において、第1部で出てくるファウストの恋人はグレートヒェンです。彼女は第2部の最後に神との約束に勝ったとするメフィストフェレスと悪魔たちに薔薇の花を投げて、ファウストを天上に連れていきます。私はこの女性が何故グレートヒェンなのかが不思議でした。グレートヒェンという女性はゲーテ14歳のときの初恋の女性です。ゲーテより2歳年上でした。私がどうにも好きになれない嫌な女です。なんで、こんな嫌な女が「ファウスト」の最後に出て来てファウストを救うのだろうと思っていたのです。しかし、ゲーテ記念館の解説読んで分かりました。あの「ファウスト」のグレートヒェンとは、実際のゲーテ初恋のグレートヒェンではなく、私が一番好きなフリーデリケだったのです。ゲーテはやはりこの少女が一番好きだったし、贖罪の意識ももっていたのでしょうか。ただ作中の名前だけをグレートヒェンにしただけなのです。これで、第1部での彼女の叫びなどが、分かりました。あれはフリーデリケの叫びなのですね。

 私はこのことだけを知っただけで、なんだかとても嬉しくなり安心しました。いままでなんだか悲しい顔したフリーデリケだけだったのが、なんだかこれで救われた気がします。フリーデリケの頬が少し薔薇色になった思いがしました。
 またいつか訪れたいと思います。(1993.04.14)

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 夕刊フジBLOGこの記事 がありました。

【ビジネス特報】
■完全にこだわらず、拙速でゆけ
 中国の孫子は「兵は拙速(せっそく)を尊ぶ」と言った。「完全にこだわらず素早く行動せよ」ということである。アメリカ陸軍の指揮官マニュアルも、戦場での指揮官の5つの心がまえのうち3つまでが拙速関係で占められている。「不完全な情報しかなくても素早く決定せよ」「完全な解決にこだわって決定を遅らせるな」「できるだけ早く、受容可能なリスクを覚悟し納得のゆく行動をとれ」と。
(2006.06.19)

 私は「孫子」を初めて読みましたのは、中学生のときでした。その後高校生になっても何度も読みまして(何度も読むので、岩波文庫は2冊用意しました)、全文を暗記しました。学生運動で府中刑務所に勾留されていたときも、岩波文庫本を入れてもらい、全文書き抜いたものでした。
 ただし、私は「孫子」よりは「呉子」のほうが好きでした。人間としても、呉起のほうが孫武・孫濱よりは、ずっと親しみを持ってきたものでした。
 とはいえ、私の好きな曹操もナポレオンも常に座右にしていた「孫子」ですから、私もぜひとも全文を暗記していなくてはと思っていたものでした。

 この「兵は拙速を聞く。未だ巧久を睹(み)ず」という言葉は、常に私も口にしてきたものです。それは、学生運動のときもそうですし、労働運動のときも、会社の経営指導のときにも、そして私自身の恋愛に関してのときもそうでした。とにかく、未だ少ししかできていないかもしれないが、「とにかくやってしまえ」とばかりに行動してきたつもりです。
 おそらく、ナポレオンも米軍も同じにやってきたのでしょうね。

■10時間以内の加速型意思決定を追求するアメリカ軍
 適切な意思決定のための情報の収集にこだわっていては何も決定できず、動きが止まる。戦闘の場合は、動かないところを敵に襲われる。そこで分析的意思決定よりも直感的意思決定が重要となる。ただし、これは200人前後の中隊レベルまでである。
 大規模な作戦行動の決定は、各部隊の活動状況について、ある程度の情報収集と分析をしなければ大混乱を招く。そこで、アメリカ陸軍は、決定までのタイムリミットを定め、その範囲内でできる限りの情報を収集、分析し、作戦を決定し、各部隊に命令を発する「軍事的意思決定過程(MDMP=ミリタリー・ディシジョン・メーキング・プロセス)」を標準化している。数千人規模の旅団レベルでは、「熟慮型で16〜20時間、短縮型で10〜15時間」と定められ、目下、10時間を切る加速型が研究されている。

 情報収集、そして事前の完全なまでの準備周到な方を何人も見てきましたが、いつまでも何もやりだしえない姿を何度も見てきました。このインターネット上のホームページを作るのに、私よりもはるかにパソコンに堪能な彼がとうとうできなかったことを、よくよく私は見ています。私は自分の持っているものを5%でいいから、インターネット上に露出してしますのに、彼は「今は95%はでき上がっているんですけれど」といいまして、それが1%づつ上がっていきましたが、98まで聞きましたが、とうとう最後までそして今もインターネット上にはできあがりませんでした。1999年のころの話です。
 まさしく、こうした状態のとき敵に襲われたのと同じで、もはやその企業は致命的に壊滅状態にまで陥りました。まあ、まだ生きているわけで、今度はそういう結果に学べばいいのですが。どうなるんでしょうね。私とは顧問関係にあるわけじゃないから、私はどうすることもできないのです。ただ、遠くから眺めるだけです。

■決定のタイムリミットを5日以内に定めよ
 会社の場合、戦場の軍隊のような超短時間対応は、大災害や大事故などのめったにない緊急事態以外では不要であろう。しかし、決定のタイムリミットを定め、さらにその時間を短縮する努力が大事である。それが変化への対応速度を早め、重大危機の突発にも迅速果敢な対応ができる。さもなければ対策が後手に回って状況をさらに悪化させる。
 数万人規模の会社でも、大規模な投資や事業の組み替えなどのような社運を左右するような決定は別として、決定のタイムリミットは、全社レベルで5日以内、部門レベルで3日以内に定めるべきだ。サラリーマンも同様の心がけを実行することで、多くの危機を回避でき、危機を切り抜ける可能性を高めることができる。

「決定のタイムリミットを定め、さらにその時間を短縮する努力が大事」。このことは実に大事なことだと切実に思います。とくに、今はさらにこれは切実な課題になってきているかと私は思っています。
 思えば、大東亜戦争の日本軍が陥ったいくつものミスがあるのですが、この「兵は拙速を聞く」がまったくできなかったことかと思います。いや、これは当時の日本軍ばかりでなく、中国軍でも、米軍でも、敗北したときには、この「決定のタイムリミット」をずるずると引き伸ばしてしまった指揮官の無能さを見ることができます。

■遅疑と逡巡はタブー
 軍事では拙速が奨励される一方で、情報不足により、「あーでもない、こーでもない」と考えて決定を遅らせる遅疑(ちぎ)や、これで大丈夫だろうかと決定の実行をためらう逡巡(しゅんじゅん)はタブーとされている。遅疑や逡巡をする指揮官は、悲惨な敗北を招く無能な指揮官である。
なお、攻撃だけでなく、撤退も大事な決定。孫子も逃げる大事さを力説しているが、戦史には撤退のタイミングを失したゆえの悲劇が数多く存在している。これは会社でもサラリーマンでも同じであろう。

「逃げる大事さ」って、これもまた大切なことですね。信長も秀吉も家康も、「逃げる」ときは、徹底して逃げています。思えば、これもまた大事なことですね。「逃げる」ことへ、少しでも躊躇するときに、それ以上に、人生での大失敗への路しかない場合がいくらでもあります。
 思い出せば、曹操も、驚くほど逃げてしますね。壊滅的ではないかな、と思えるほどの敗北をしながら、彼はたぶん大泣きしながら逃げていたことが何度もあったはずです。でもきちんと逃げきったからこそ、そののち勝利を導くことができたのです。

 今思い出しました。ローマ初代の皇帝アウグツス=オクタヴィアヌスも、決して戦上手な人ではありませんでした。逃げるときがいくつもありました。そして彼は、戦闘は下手だったといえるのではないでしょうか。
 でも彼があのカエサル暗殺後の内乱を見事終了し、ローマ初代の皇帝に就任します。

 こんなことを思いますと、さらに現実に世界でいくつものこと、たくさんのことを思い出してきます。またあちこちで現実の経営者の方々と話していきましょう。

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