将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:ハンニバル戦記

20170807003 Monday, October 13, 2003 1:03 PM
周様
初めまして。
突然のメールの失礼をお許し下さい。ホームページを拝見致しました。
唐突で申し訳ありません。
是非教えて頂きたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?

塩野さんの『ローマ人の物語3ハンニバル戦記〔上〕』新潮文庫
を読んでの疑問で、因みにページ数はp134〜135です。
第一次ポエニ戦役後という箇所なのですが…。

『重装歩兵も3列横隊で闘うのが定法であったローマ軍では次の3種に分かれる。最前列に配置される、「ハスターリ」。年齢は17歳からはじまる、戦場経験の少ない若い市民で構成される。兵数は2400。第2列にくるのは、ローマ軍団の中核のまた中核的存在として知られた、「プリンチペス」。前線が突破された場合に彼らがもちこたえることで、総崩れを防ぐのが役割だ。年齢は30代。兵数はここでも2400。第3列には、40歳前後からはじまって現役最高年齢の45歳までの市民で構成される、「トリアーリ」がくる。体力では少し劣っても戦場経験ではベテランの彼らに、後衛を託すのがローマのやり方であった。兵数はここでは1200。3列横隊を組むローマの重装歩兵の「ハスターリ」と「プリンチペス」と「トリアーリ」が中隊とすれば、それぞれの中隊はまた、20の「小隊」に分かれる。これがローマ軍に柔軟な闘い方を許した要因だが、「ハスターリ」と「プリンチペス」の小隊は、それぞれが120人の兵士で構成され、「トリアーリ」だけが60人で構成された。これこそローマ軍団の最小戦闘単位である「百人隊(ケントウリア)」で、これを率いるのが、古代ローマを題材にした映画ならば必ず登場する、「百人隊長(ケントウリオ)」である。

<質問>
「百人隊」は、100人の兵士から構成されるのですよね? 上記を読むと、120人+120人+60人=300人になるように思うのですが、これはどのように考えたらよいのでしょうか?
突然のメールで不躾に質問などして、申し訳ありません。ご迷惑でなかったら、教えて下さい。どうぞ宜しくお願い致します。○○○○

Saturday, October 18, 2003 10:41 AM
ええと、

唐突で申し訳ありません。
突然のメールで不躾に質問などして、申し訳ありません。
ご迷惑でなかったら、教えて下さい。

と言われましても、とても迷惑ですよ。私のところには、たくさんの方が質問のメールをくれますが、まったく私の見ず知らずの方の場合は、もう少しちゃんと自己紹介されますよ。それとなぜ、この質問の答えが必要なのかも説明されるのが普通です。とにかく私はあなたをまったく知らないのですから。私のほうは、「周のプロフィール」で公開しております。

とはいえ、とにかくメールをありがとう。
ただ、私はローマ史や軍事史のプロというわけではありません。だから、

そんなこと判らないよ

というのが、私の正直な答えです。
でも、少し考えます。

「百人隊」は、100人の兵士から構成されるのですよね?

「百人隊長」とは、50〜100人単位の軍隊の長で、ローマ軍では、中級の役職です。特別100人と決っていたわけではありません。
そもそも軍隊をこうして決まった人数で軍団を作っていくというのは、非常に難しいことです。人は背の高さも体重も違うように、戦う能力も勇気も違うものです。まして、出身地も違えば、言葉も簡単に交わせないこともあったでしょう。
私が知る限り、人数を限って軍団を形成していくのは、アレクサンドロス大王の父親のフイリッポス2世が、16×16人の密集重装兵を作ったときからでしょうか。これを使って、当時ギリシア最強の軍隊だったテーバイを滅ぼします。ただ、この軍団も非常に編成するのは大変だったようです。前にも書きましたように、みな背も何も違うのです。それを個々の技量も考えて、さらには槍の構え方も列によってすべて違えて、最強の軍団にしたのです。
おそらく、ハンニバルの軍事の先生はアレクサンドロスでしたし、スキピオはハンニバルこそが先生だったことでしょう。彼らには、このマケドニアの軍団の作り方がかなり参考になっていたはずです。
また100人単位で、軍隊を作り動かしたのは、のちのジンギスカンです。これは実に合理的でした。そしてこの100単位の下の単位は10人でしたが、このやり方は、軍隊に限らなかったのですが、私はこのことはジンギスカンはローマに倣ったのではないかな、なんて想像しています。
それから、このローマが100という単位で、何かを考えるというのは、エトルリアの影響のようです。
とにかく、百人隊長というのは、軍隊での中級の役職であり、必ずしも百人の兵隊の長というわけではありません。ローマ軍では、戦闘でこの百人隊長が何人も多く討死しています(例えばカエサルの「ガリア戦記」などをよむと、百人隊長があまりに多く討死してしまうことに出会います)。死んでしまったら、そのあとは百人という単位ではなく、80人のときも123人のときも、残った百人隊長がまた率いなければならないのです。

それから、こうしてメールの返事が遅くなり申し訳ありません。萩原周二
(第170号 2003.11.17)

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書  名 ハンニバル戦記 ローマ人の物語
著  者 塩野七生
発行所 新潮社
発行日 1993年8月7日

e949ce2c.jpg  この全部で15巻にあるという「ローマ人の物語」が、著者の誕生日の7月7日に毎年1巻ずつ出版されるということだったので、1巻からちょうど1年後の7月1日から、毎日のように、書店をのぞいていました。ところがどうしてか店頭にならばない。どうしたんだろう、どうしたんだろう、新潮社に電話してみようかななどと思っていましたら、1カ月遅れの8月7日発売ということで店頭に置かれていました。
 それに私がかなり発売がまちどおしかったのは、1巻「ローマは1日にして成らず」から考えると、第2巻がポエニ戦争の時代になるのは明らかだったからです。ポエニ戦争といったら、もうこれはハンニバルの物語になると思っていました。私は小学生のころからハンニバルが好きだったのです。

 ヨーロッパの3大英雄というと、アレクサンドロス大王、ユリウス・カエサル、ナポレオン・ボナパルトだといいます。我がハンニバルが4代英雄のひとりとはいわれないのは、ハンニバルがローマの敵であったカルタゴの英雄であり、アフリカ人だからです。
 私がプルタルコスの「対比列伝」、いわゆる「プルターク英雄伝」を最初に読んだのは小学校5年生のころでしょうか。もちろん子どもむきのでしたから、ギリシア、ローマの英雄たちを対比させて書いてあるのではなく、上巻ギリシア編、下巻ローマ編といった感じで、年代順だったと思います。その中で、ハンニバルだけはローマの英雄ではないのだが、そして原作では扱われてはいないのだが、ここでは1章をもうけるというように書いてあったかと思います。私はそのころからナポレオンが好きでしたから、そのナポレオンがあこがれた英雄のことがとくに知りたかったのです。イタリア半島で長く連戦連勝で闘いながら、やがてイタリア半島を離れざるを得ないときのハンニバルと、長く彼のもとで闘ってきた老兵士たちの哀しい貌が思い浮ぶような気がしていたものです。
 実にプルタルコスはハンニバルと闘った将軍たちの列伝の中で、ローマの敵でありながらも、傑出した英雄であるこのハンニバルのことを生き生きと書いているように思います。だれしもが、このローマ最大の敵であった英雄のことは、何故か好きになるようです。

 第1巻でほぼイタリア半島の北部をのぞく地域を支配できたローマが、シチリア(シシリー島)をめぐって、当時地中海を我が海としていた、フェニキア人のカルタゴと覇を争うことになります。海軍力をほとんどもっていなかったローマは最初は苦戦しますが、どうやら勝利します。これが第1次ポエニ戦役です。実に23年間の戦争でした。もうすべてのローマ人はもう両国の間に戦争はおきないと考えていました。ほとんどのカルタゴ人も。
 しかしカルタゴの中で、唯一ローマに対して敢闘したハミルカルとその1族のみはローマに勝利しなければカルタゴの未来はないと考えたようです。このハミルカルの息子がハンニバルでした。
 ハンニバルはイベリア半島でカルタゴの力を蓄えます。そしてやがて行動を起こします。用意周到に準備しています。ローマの宣戦をうけるや、彼はピレーネー山脈を越え、ガリアの野を横断し、アルプスを越え、イタリア半島に進入します。ローマはどんなに驚愕したことでしょうか。約2,000年後にナポレオンもこれに習って、アルプスを越えるわけです。しかし、この時代、アフリカの兵を率いて、しかも37頭の象をつれ、しかも初雪のつらつきはじめる時期にです。
 イタリア半島に入ってからは、ハンニバルは連戦連勝します。彼は会戦に負けたことはありません。だが実にハンニバルはこの半島で16年戦い勝利続けなければなりませんでした。ローマは会戦で敗北しても敗北しても、降伏もしないのです。
 どうしてなのでしょうか。その答えがこの著者のこの物語なのだと思います。

  ローマ人の面白いところは、何でも自分たちでやろうとしなかっ
  たところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなけ
  ればならないとは考えなかったところであった。もはや完全にロー
  マに同化していたエトルリア人は、あいもかわらず土木事業で腕
  をふるっていたし、南伊のギリシア人は通商をまかされていた。
  シチリアが傘下に加わって本格的にギリシア文化が導入されるよ
  うになって以降は、芸術も哲学も数学もギリシア人にまかせます、
  という感じになってくる。このローマ人の開放性は時代を経るに
  従ってますます拡大していく
             (「第二章 第一次ポエニ戦役後」)

  ローマ人は、今の言葉でいう「インフラ整備」の重要さに注目
  した、最初の民族ではなかったかと思う。インストラクチャーの
  整備が生産性の向上につながることは、現代人ならば知っている。
  そして、生産性の向上が、生活水準の向上につながっていくこと
  も。
  後世に有名になる「ローマ化」とは、「インフラ整備」のこと
  ではなかったか。そして、ローマ人がもっていた信頼できる協力
  者は、この「ローマ化」によって、ローマの傘下にあることの利
  点を理解した、被支配民族ではなかったかと思う。
                    (「第二章 第一次ポエニ戦役後」)

 もはやこうしたローマからは、ハンニバルが予定していたローマ傘下の民族がローマを離反するということはなかったわけです。もちろん連勝のハンニバル側につくイタリア半島の都市もそのうちにはでてくるわけですが、それにしてもこうしたローマはハンニバルに予想をこえた強さだったのだと思います。そしてローマはどうにも強すぎるハンニバルそのものとは会戦しないようにしていきます。ハンニバルが勝利つづけるため戦線を拡大すると、ハンニバル自身のいないところでカルタゴ軍を攻めつづけます。そしてシチリア、イベリア半島ではカルタゴ軍に勝利し続けます。このイベリア半島で勝利するのが、スキピオ、のちに大アフリカヌスといわれた若きローマの将軍です。

  第二次ポエニ戦役の舞台に、もう一人の天才的な武将が登場す
  る。私には、アレクサンダー大王の最も優秀な弟子がハンニバル
  であるとすれば、そのハンニバルの最も優れた弟子は、このスキ
  ピオではないかと思われる。そして、アレクサンダーは弟子の才
  能を試験する機会をもたずに世を去ったが、それが彼の幸運でも
  あったのだが、ハンニバルの場合は、そうはならなかったのであっ
  た。              (「第四章 第二次ポエニ戦役中期」)

 私はこの第四章の終りのこの文で、もうかのザマの戦いで、ハンニバル軍の先頭の象軍がスキピオ軍の間を走り抜けさせられ、やがてカルタゴ軍が敗北することなどをを頭に描いてしまい、涙が浮んできて、本を閉じて、電灯を消してしまいました。ただ眠る気にもならず、再度明りをつけ、まったく関係ない本を1冊読んだあと、また読みはじめました。どうしたって、ハンニバルが敗北してしまったのが歴史だったのですから。
 だが、読んでいくうちに、それほどの悲しい気持にはなりませんでした。それはハンニバルを破ったスピキオの人なつこく開放的な性格と、彼があくまで敵であるハンニバルを敬愛していたことが強く感じられることでしょうか。
 スキピオの活躍でハンニバルはイタリアを離れ、カルタゴ本国でスキピオと対決することになります。これがザマの戦いです。ハンニバルの弟子であったスキピオはハンニバルの戦いを充分に学んでおり、ハンニバルに勝利します。第二次ポエニ戦役もカルタゴの敗北で終ります。
  しかしこの戦いで興味深いのは、ザマの会戦の前夜、ハンニバルとスキピオが二人きり(もちろん通訳はいたことだろうが)で会見していることです。まずこのようなことは古今東西の会戦の中でまず他には皆無なことだと思います。またのちに紀元前193年にローマとシリアの戦争のときにも、この二人の英雄はロードス島で会見しています。ザマの戦いから9年後のことです。このときの会見はかなり興味深い話をしています。是非とも読んで、ハンニバルなりのひととなりを知っていただきたい気がします。
 この第二次ポエニ戦争後、さらにマケドニア、シリア等々との戦争を経て、再度カルタゴとの戦争でスキピオの息子がまた活躍し、ローマは地中海全体を我が内海とします。

 私はこれを読みながら、私が子どものとき胸躍らせて読んだ「プルターク英雄伝」の中のハンニバルの活躍とその敗北の姿に涙したことと、また同じようにまた著者も筆を躍らせているように思いました。しかし読み終ってみると、著者はただハンニバルの物語を書いているのではなく、これによってローマという国家のことを克明に読者に伝えようとしています。そしてあらゆるところで、我が日本という国家にいつも眼を向けているのだということも、私は感じてしまうのです。
 ローマが偉大であり、ローマが永遠といわれるのも、こうした数々の戦争をみてもそれがあくまでローマと敵国の戦争であり、その中に正義と不正議の戦争であるというような概念を入れていないことです。従って、戦争後に戦敗国の指導者への戦犯裁判などありえないわけです。いったいいつから人類は、戦争に正義と不正議の戦争というような観点をもちこみはじめたのでしょうか。

 この著書が「ハンニバル戦記」と題名がついているように、ほとんどがハンニバルとの戦争に著述が割かれています。もっと出てくるのかなと思っていた、スキピオの反対派の大カトーなど、あまり筆が及んでいません。それも私が何故か深く納得してしまうところです。

  同年輩であるのにスキピオは、カルタゴ人に父を殺され叔父を
  失い、舅を殺されていながらも、過去よりも未来を見る性向が強
  かったが、反対にカトーは、過去を常に振り返っては今のわが身
  を正すタイプであったのだろう。
  この両人の対立は、あらゆる面から、宿命的ではなかったかと
  思われる。        (「第七章 ポエニ戦役その後」)

 このスピキオとカトーの対決が、やがてはカエサルとブルータスとの対決の姿にもなるのだなと私には思えてなりません。
  それにしても、やはりこのハンニバルとの戦いに勝利したことこそが、ローマを大きく次の時代へ進めることになるわけです。ただその中でもやはり、このローマとの戦争にのみ生涯をおくったハンニバルという英雄に誰もがひかれていくのだと思います。

  …………寒さも暑さも、彼は無言で耐えた。兵士のものと変ら
  ない内容の食事も、時間が来たからというのではなく、空腹を覚
  えればとった。眠りも同様だった。彼が一人で処理しなければな
  らない問題は絶えることはなかったので、休息をとるよりもそれ
  を片づけることが、常に優先した。その彼には、夜や昼の区別さ
  えもなかった。眠りも休息も、やわらかい寝床と静寂を意味はし
  なかった。
  兵士たちにとっては、樹木が影をつくる地面にじかに、兵士用
  のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバルは、見慣れた光景
  になっていた。兵士たちは、そのそばを通るときには、武器の音
  だけはさせないように注意した……………
                (「第六章 第二次ポエニ戦役終期」)

 読者の誰もが、このカルタゴの兵士たちと同じように、このハンニバルをゆっくりと眠らせるために音を立てないでいたいと思うに違いありません。(1993.08.07)

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