07022704 アトリエイグレック今日の出来事埼玉県立近代美術館 がありました。

 私の 周の家族・教育の話文教大学教育学部美術専修卒業制作展(2001.01.28) 以下、いくつかここで行われた長女おはぎの卒業制作展のことが書いてあります。
 もう私はここへ行けて嬉しかったのです。そして、おはぎの卒展の打ち上げも、ここのすぐ近くの「どさん娘」でやりました。綺麗な女の子たちばかりのおはぎの同級生たちは、実にいい子たちばかりでした。
 そして打ち上げをやりました北浦和「どさん娘」の店長も、この卒展を見にきてくれたそうです。高下駄を履いて、白い店服を着て差入れを持ってきた店長にみなびっくりしたようです。
 でも私は、この長女の卒展で、ここに始めて入ったものでした。この埼玉県立近代美術館のある地区は、私にはもうなんといいましても懐かしさで涙が溢れるばかりのところでした。

 ここは戦前には、旧制浦和高校のあったところです。チビ公とだい公が活躍する、佐藤紅緑「嗚呼玉杯に花うけて」が書かれた浦和高校です。
 ここに戦後、国立二期校の埼玉大学が置かれました。
 ただ私が入学する1967年の二年前に、同じ浦和市の大久保地区に移転する案があり、反対闘争が置きましたが、ここでもあいも変わらず日本共産党=民青の闘争破壊により、この移転闘争が敗北して(学生大会でわずかの差で、民青が勝ったことにより、移転が成立しました)、埼玉大学は大久保地区に移転することになりますが、私の入学した頃は、この北浦和駅そばの旧校舎は、教養部が置かれていました。だから、大学でのほとんどの出来事は、私のいた67、8年はすべて、ここで行われていました。

 だからたくさんの思い出が甦えるのです。
 私が69年1月19日の東大闘争安田講堂で、逮捕されやがて起訴されて、府中刑務所に8月20日まで勾留になりました。その間埼玉大学は4月に闘争が大きくなりまして、北浦和のこの校舎は、バリケード封鎖されました。
 だが、大学は、この機会に、本部もすべて大久保新校舎に移転しました。

 そのときに、69年6月12日に、羽仁五郎の講演会があり(企画したのは、私の友人だった。ちょうど1年前に彼と私で、横須賀の羽仁五郎邸に、講演の依頼に行っていました)、それを妨害しようとした日本共産党=民青とのとの激突があり、こちらの勝利により、羽仁五郎講演会は貫徹されました。ただ、府中刑務所の中で読売新聞でそのニュースを見た私は、「図書館前でぶつかった、とあるけれど、あの図書館前でって変だな」と思ったものでした。事実は、この北浦和駅前の校舎ではなく、大久保地区の図書館前のことのことでした。

 ただ、私は8月21日に保釈になり、たしか22日に埼大に行ったときに、がらんとしたバリケードに、予想していたとはいえ、驚きました。6・12事件で、日共の告訴により、多くの活動家に逮捕状が出ていて、もう多くの学友がバリケードにいられなかったのです。
 ただなぜか、このバリケードには大勢の高校生がいましたね。みないくつもの高校の活動家たちでした。彼らは、バリケードの中に自分たちのバリケードを作っており、そこへ苦労して中に入ると(私は背が低いし、脚も短いから、乗り越えるのに大変です)、すくさま背のでかい高校生が、私の襟首をつかんで、「お前なんだ!」と突っかかってきました。
 私を案内してくれていた友人が、「彼は東大闘争で逮捕されて、刑務所から保釈で出てきたばかりなんだ」と説明すると、そのでかい高校生は、「あ、おつとめ、ご苦労さまです」なんて言ってくれました。
 それで中に入って行くと、高校生が大勢いて、みな自分の高校のバリケードをどうするのか、なんていう討議をしています。女の子もいます。私は、「高校生なら、もう普通に学校で勉強しろよ」という気持でしたが、そんなことを言ったら殴られてしまうかもしれません。

 何年か前に、ある方のお通夜でのとき、このとき私の襟首をつかんだ高校生に会いました。頭のはげている男が私に向かって、頭を掻きながら、「萩原さん、Aです。もうこんな歳になりました」といいました。私は、「えっ、Aかい!」と驚いたものです。

 いや、もっともっとこの埼玉県立近代美術館のある場所はいくつものことを思い出します。話せば、話し終わらないくらいたくさんのことがあります。
 懐かしいなあ。