将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:パソコン通信

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 この2つの画像は昨日届きましたシールです。私は名前氏名は「萩原周二」ですが、このインターネットの前のパソコン通信で、ハンドル名を「周」(読みは「しゅう」です)としたときから、みんなに『「周」さん』と呼ばれてきました。
 私ももう「萩原周」(「はぎわらしゅう」と読みます)ということにしました。 それで今回これを作りました。もう随分以前に「ポコ汰」「ポニョ」「ポポ」「じゅに」は作って届けてあります。
 これで今回私はあちこちに貼っています。今後もいくつも貼っていくでしょう。なおシール画像があちこちないのは、もうすでに貼っているからです。15101232

12081003 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」に、この書き込みがありました。

都市部の学校は 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月10日(金)08時22分13秒
  どこでも子供人口の爆発対応に苦慮したのだと思います。
確かに、中学校に上がると一学年のクラスが十幾つ、三学年で五十クラス近くもあり、単純に「50人学級」だとして在校生が2,000人を超えます。
最初の中学では、合同朝礼が出来なかったように記憶しています。

  私は小学校は5つ変わりました(札幌一つ、名古屋三つ、鹿児島一つ)が、中学は鹿児島で甲東中学一つでした。これは私の兄が秋田市、札幌、名古屋の三つで、弟が鹿児島、横浜と二つだったのに比べて幸運だったのかもしれません。(私が秋田だけ「市」とつけたのは、秋田県秋田市だからです)。
 それにしてもどこもものすごい人数、生徒数でした。

 ただ、私の二人の娘も多かったですね。娘の中学でパソコンの置いてある教室があり、生徒一人に一台の日電の製品(だから36台だったかなあ。あ、機種名も覚えているよ)と、プリンターが生徒2人に一台で置いてあり、でもその教室は鍵がかかっており、私なんか激怒したものです。私がパソコンに関する情報をA4で5枚程度(一ページ35字詰45行で)娘に届けてもらったら、その相手の私よりも20歳くらい年下の先生(彼がパソコンの専門家ということらしい)が、「お父さんは、これをわざわざ打ってくれたのか?」というので、私はあきれ果てたものです。私はパソコン通信(その頃はインターネットなんてなかったと思いました)の情報を簡単にプリントしただけなのです。
 パソコンなんかは、生徒が自在にいじって壊してしまうくらいがいいことなのです。
 でも娘二人も人数が多かったです。そして長女の子ども、私の孫も保育園にはたくさんの子どもがいます。
 私は孫にも、私はかかわって行きます。ただ、じいじはどこでも詩吟を詠うし、下着は赤ふんだから、面白いよね。
12081004 でも詩吟をやる人たちも、みんなインターネットもちゃんとできないし、私はいつも不満ばかりです。杜甫に、乃木希典に申し訳ないと思わないのかなあ。
 私はこの中学のときの数多くの友人たちにも、大学時代のたくさんの学生運動仲間にも、後輩のむつめ祭(埼大の学園祭)仲間にも、不満だらけです。いや知り合ったアメリカ人にも中国人にも欧州人にも不満です。少しやればインターネットで連絡できるのに、やろうとしないのですから。もうすぐ人生は終わるのですよ。その前に、いっぱい同じ人間として連絡とりましょうよ。

20170411702 私のごくごく親しい酒飲みの友人の激辛庵さんのことを少し書きます。
彼は私より学年がひとつ下で、昭和25年の1月生まれだということです。私の埼大の3年下の後輩で村本修という活動家と彼は高校(東京の北園高校)で同級生でした。この村本という男もこれまたとんでもない男で、私は彼が浪人で代々木ゼミナールへ通っていたころ知り合いました。彼は代々木ゼミナールで何をしていたかというと、勉強などせず、「代々木ゼミを如何にバリケード封鎖するか」などというとんでもないことを仲間と話してばかりいました。彼が70年の4月に埼大に入学してきて、私は偶然大学構内で声掛けられてびくついたものです。

え、今度は埼大を壊しにきたのか?11092605

なんて思ったものです。そうしたら、ちゃんと入学したということで、これまたえらい男と一緒になっちゃったなと思ったものです。彼のことでもいくらでも話せるエピソードにことかきません。私が詳しく軍歌を唄えるのは、すべて彼のおかげです。彼は熱心に執拗に軍歌を唄える、どうしてか社青同解放派の活動家でした。どう間違ったか、彼は自分のことをマルキストだと思っていたらしい。
この70年の10・21国際反戦デーの日、当然埼大はストライキになるわけですが、前日から我々は大学でバリケードを作って次の日にそなえます。私たちが教養学部棟を占拠しているのに対し、日本共産党民青が大量動員で夜中にやってきました。我々は槍ぶすまで、彼らと対峙します。そのときは結局はゲバルトにはなりませんでした。次の日の昼に今度は私たちが彼等のところへ押しかけ、これは激しいゲバルトになりました。当然私らの完勝でした。
この夜中、民青と槍ぶすまで対峙しているときに、どうしてか一人の男が現れました。私たちの指揮者は、この男を警戒して、声を荒げます。そうしたら、村本が急に隊列を離れ、「これは俺の友達なんだ」といいます。この夜中、風呂敷でヘルメットを包んで埼大に来たのが、若き日の激辛庵さんだったのです。彼はそのときには浪人生でした。
このときからの付き合いになります。彼はなぜか埼大が気に入り、そのときからいりびたってしまいました。当時道路掃除の仕事をしている仲間がいたのですが、彼もそのバイトに加わり、なんだかもう埼大の活動家仲間になってしまいました。なぜか飲むときは、彼もいつもいるようになりました。
たしか72年のときに、彼は御茶ノ水の病院にしばらく入院することになり、私が見舞に行ったことがあります。たしか私と私の彼女の二人で行ったのではないかな。彼は入院していてもいい患者ではなく、抜け出してはいつもビールなどを飲んでいました。あるとき、ビールを飲んで帰ったら、急に手術となり、酒が入っていると麻酔が効かないので、ただ痛いだけだったらしいのですが、酒飲みがばれると、その後そうしたことができなくなるので、歯を食いしばって無理したようです。
そしてその後、私が大学を去ったころから、しばらくは互いに連絡が途絶えました。そののち彼と再開したのは実に約10年余の歳月がたってからです。正確には判らないのですが、多分82年の秋のころだと思います。私が34歳くらいのときです。
ゴールデン街の「吐夢」か「ひしょう」で、彼の伝言のついている名刺を貰いました。それには、「ひさしぶりです。村本の友人だった私です。私はいつも『オハラ』で飲んでいます云々」というようなことが書いてありました。 それで私はある日、この「オハラ」へ行きました。私には初めて行く店でした。このときのことを、彼が「ひしょう」の15周年記念の文集(89年3月発行)に次のように書いていてくれています。

彼がぼくのことを覚えているかどうか、はなはだ疑問であった
  が、名刺のうらにそう走り書をして、ぼくはお竜さんに渡した。
一般的に、呑み屋の伝言、止まり木の約束ごとほどあてになら
  ないものはない。何週間かたって、ぼくもそのことはすっかり忘
  れてしまっていた。だが、ある夜、H氏はおはらにやってきた。
  夜中の3時ごろだったと思う。
カウンターで酔いつぶれかかっていたぼくが詩吟にびっくり仰
  天して、白河夜舟から飛下りて以来、また、ぼくの乱れた生活が
  復活した。

こうして私たちはまた出会いました。しかもそれがゴールデン街でした。またひたすら飲んで騒ぐ二人になってしまいました。彼は70年代にはしばらくライブハウスをめぐる歌手をやっていたのですが、80年ころにその道を諦め、地域新聞の記者から、さらに業界紙の新聞記者になっていました。だが昔の血がそうさせるのか、そこで労働運動をやって、いつも経営者と闘争していました。しかも彼は自分の会社だけではなく、常に同じ組合員(東京ユニオン)の会社にまで支援に行っていました。
それにしても私と彼はよく飲みました。当時は、四谷見附のピアノの弾き語りのある店で会って飲んで、それからゴールデン街、そして彼のアパートということが多かったように思います。
彼のアパートがまた傑作で、この80年代に60年代後半のアパートという雰囲気の部屋でした。レコードや音楽関係の資料がたくさんあり、そして60年代活動家が必ず持っているような本が大量においてあります。
アパートの前の庭には、なぜか判らない針金でつくったオブジェ(たしか鳥の姿だった)がおいてあり(なんだか非常に変わったおじさんだが、おばさんがいたようだ)、酔って帰ってくるときは判らないのに、二日酔いで見るとそれは不思議な光景でした。
当時の彼の彼女と訣れることになり(私がその原因をつくったのかもしれない)、どうせ訣れるのならと、私がその場に立ち会ったこともあります。「どうせ訣れるのなら、さっぱり訣れるのではなく、言い合いして嫌い合い、喧嘩して訣れるべきだ」なんていうのを二人に言って、訣れてもらったものでした。
それで、その直後あたりに池袋の「たつみ」という飲み屋に彼はよく行っていたのですが、そこの今の燕尼が「ゆきちゃん」という名で働いていました。彼女は他の中国の女の子と違って、化粧気もなく、眼鏡をかけた北京の真面目な女学生とい感じでした。この彼女に彼は日本語を教えることになり、やがて彼女が彼のアパートに来るようになりました。このころよく3人で飲んだものです。私と彼がまた部屋で飲んでいると、彼女が仕事が終って夜2時頃部屋にやってきたものです。土曜とか日曜の朝には、また池袋まで歩くなか、朝の定食屋でビールを飲んでいたものでした。それで彼と彼女は結婚することになったのですが、私は彼の父親を説得に行ったこともあります。
でも結婚しようが、私と彼がときどき会っては飲み続ける関係は変わりようがなく、あるときに燕尼が中国語のできる私の後輩に、「あんまり二人が仲がいいから、妻である私が嫉妬してしまう」と言ったようです。でも仕方ないんだな。もうこれが酔っぱらいの宿命なのです。
彼のお蔭で、私はパソコンとパソコン通信を知りました。とくにパソコン通信は彼にいろいろと教わったものでした。
そうですね。彼の唄う歌をひさしぶりに聞いてみたいものです。彼の唄う歌はいいですよ。

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11091113 どうもあちこち行きつけの飲み屋が多いのですが、多いとときどきは行かないといけないですね。けっこう飲むというのは体力を使うから大変です。
 9日新橋で12月26日のイベントの打ち合わせのあと、ゴトさんと飲み屋入りました。ゴトさんは全く飲みませんから、可哀想な話でもあります。
 でもそのあと私はもう少し入ってしまうと、もっと飲みたくなるので、結局日暮里で降りて、谷中の「双葉」へいきました。ここはもう1カ月以上いっていないから、なんかもういかなくちゃという感じでもありました。ただあまり酒入ってからいくと、ママがおこるし、「もうそのぐらいにしておきなさい」と言われちゃうんで、また怒られるななんて思っていましたが、そのママおやすみで、妹さんがいました。この人は私にいいかげんにやさしいから、まあいいや。
 でも店は大勢いました。みんな私の知っている顔ばかり、「随分こなかったね」とみんなにいわれます。私があまりに右翼的雰囲気というので、「四国の皇民党のところいってたの」とからかうおじさんもいます。でもその人も「この人は右翼みたいだけど、でも左翼なんだよなあ」なんて言っています。すぐさまみなさんの要請で、詩吟を2曲。ついでに「歩兵の本領」と渡哲也「東京流れ者」。みんなもう私の歌をよく知っているんですね。
 でもいつもいい雰囲気です。ここに巨人軍の長島監督そっくりの人がいつもいるんです。彼がいつもカラオケの管理やってくれます。いつも会う女性群もいます。みんないいひとたちで楽しいですね。
 ときどき軍歌唄う合間にパソコン通信の話もするのですが、なんせみんな40代後半、50代、60代ですからね。もうあの「飲みコミュケーション」がその代わりになるのでしょうか。
 でもなんだかパソコン通信と似ているところもあるなと思っています。みんな職業違うし、年代も違うし、よくその人のこと知らないわけだけど、けっこう親しくて。
 飲み屋での友人はどんどん増えるわけですが、ただ体力つかうのは考えものですね。結局またこのあとまたもう一軒行ってしまったから、その店は半分くらいしか記憶がない。まあどうせ悪いことはしていないだろうけれど。
 なんだか、どうしても飲んだときのことも話したくなってしまいました。飲み屋だけでの友人との関係も大事だなと思うのです。

「周の掲示板」で岡さんに聞かれました。

かわいい名前 投稿者:酒精・岡  投稿日:10月29日(木)00時11分06秒
娘さん、おはぎちゃんとブルータスちゃんですか。最初、おはぎちゃんのところではかわいい名前と思いましたが、次にブルータスちゃんとなると、あーニックネームって分かりましたが、やや、ひょっとしたら本名(笑)。

ということで、娘のハンドル名のことを書きます。
11080405 長女が中2、次女が中1のときに、二人とも柏市民ネットというパソコン通信の会員になりました。そのときに、ハンドル名をこう名乗りました。
 長女は子どものときから、友だちにこう呼ばれていました。苗字が「萩原」だからでしょう。そして今も彼女はE-MAILアドレスでも「ohagi」と入れているくらいです。
 次女のブルータスというのは、次女が小学生1年生のときから4年くらいまでずっと書いていました漫画の主人公の名前です。「いつも元気だ、ごきげんブルータス君!」という漫画を書いていました。ブルータスとは、「いつもぼーっとしているまぬけな鳥です」。そのほかに登場するのは、おなじ鳥の友人である「キリキ君」「チィーちゃん」がいました。ひとことも言葉を発さない「海ぼうず」というのもいました。あと何人かのキャラクターがいたと思います。この連中が、どうでもいいような会話をして、どうでもいいようなことをやっていく漫画でした。この漫画のブルータス君を次女はずっと育てたかったらしくて、そこでこれをハンドル名にしたものです。
 たぶん、そのうちに、このブルータス君(漫画の主役のほう)が復活して、私のホームページのあちこちに登場するようになるかもしれません。
 こんなのが、娘たちのハンドル名です。(10/29/98 01:38:25)

11071203 私がここで書いていた環境問題のログ記録です。
 はじめの日付が、私がUPした日付で、(1993.09.05)というものが、それのもともとの書いた日付です。
 思えば、最初は私がパソコン通信に書いていたものですね。今後も私のこのブログで書いていく気になっています。

2011.07.13  過去の「周の環境問題」のログ記録
2011.07.12  「森本二太郎『自然と語る』」を見る(2002.10.07)
2011.07.11  色眼鏡とどしゃぶり7(1993.09.05)
2011.07.10  色眼鏡とどしゃぶり6(1993.08.21)
2011.07.09  色眼鏡とどしゃぶり5(1993.08.15)
2011.07.08  色眼鏡とどしゃぶり4(1993.08.14)
2011.07.07  色眼鏡とどしゃぶり3(1993.08.13)
2011.07.06  色眼鏡とどしゃぶり2(1993.08.13)
2011.07.05  色眼鏡とどしゃぶり1(1993.08.11)
2011.07.04  続々環境保全ということ(1993.08.08)
2011.07.03  続環境保全ということ(1993.08.07)
2011.07.02  環境保全ということ(1993.08.07)
2011.07.01  私が手を抜いたところ(1993.08.07)
2011.06.30  緑の色(1993.08.05)
2011.06.29  「環境にやさしい」言葉の続き補(1993.08.05)
2011.06.28  「環境にやさしい」言葉の続き(1993.08.04)
2011.06.27  「環境にやさしい」という言葉 (1993.08.01)
2011.06.26  「最悪!ディーゼルの黒煙」という記事 (1993.06.19)
2011.06.25  周が考えたい環境問題の序(1993.01.22)
2011.06.24  周の考える環境問題(2006.09.05)

11021107 本日UPしました「当世駿台生気質(かたぎ)」は、これから私が毎日UPしていくます「あげあしとり」というシリーズの最初のUPです。
 これは私が1992年6月から2004年10月まで書きました教育に関する100を越える書込です。最初は、パソコン通信で、のちにはインターネットでUPして行ったものです。
 昔に私の書いたものですが、今でも参考になるのではないかと考えているのです。

11010318 期待して読んで、実にがっかりした本です。

書  名 Eメール・ラブ
著  者  ステファニー・フレッチャー
訳  者 布施由紀子
発行所 徳間書店

 パソコン通信上でのメールによる愛の交歓を描いた小説というところなのですが、読んでみて、「なんだ、これじゃパソコン通信のことをあんまり分かってないんじゃないの」としか思えないのです。電子メールは多くの人と素早く簡単に連絡がとれるわけですが、この小説の描き方だと、もっとその特徴を明確にとらえてくれないと、あんまり面白くは感じられないのです。
 こうしたメールによる愛の交歓になっていけるということは、まずは最初不特定多数が読む掲示板なり、会議室に性別等々が分かるように書き込むこと、そしてこれがインターネットではなく、割りと管理のしっかりしたBBSだからということにあります。そのことを書かないと、私には少しも身近にも感じないし、真実性も湧いてこないのです。インターネット上では、こうした内容のメールを書くことはありえないでしょう。
 ついでにいうと、この訳者も少しも理解できていません。そうしたところをいくつか抜き書きして示そうと思いましたが、思えば、私はこんな本をまったく推薦する気なんてまったくありませんので、それすらやりたくないよな、と思い直しました。とにかく私よりも8歳の年下の訳者が、パソコンの世界が明確に把握できていないのをみると、まったく嫌になります。

  ほんとうに、うかうかしていておれない時代になりました。
                        (訳者あとがき)

 うかうかしていられないのは、太古の大昔から男女の愛の話は、うかうかなんかしておれない非常に面倒で面白いことだったということであって、それがパソコン通信上のメール交換によることなら、そのことを正確に書かなきゃ、あんた自身がうかうかした能力の人というだけだよ。(1997.07.05)

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 台所の電灯を変えて綺麗にすっきりしました。

2010/02/11 12:12少し前に電機屋さんが来てくれて、台所の電灯を変えました。一昨日電灯が点かなくなって、それで開けてみると、外側のリングが点かなくなっていました。それで昨日の夕方買ってきまして、取り替えましたが、どうしても新しくつけた外側のリングのみつきません。それで、たぶん故障だろうといつもの電機屋に電話しました。それでもう昨日の午後6時を過ぎているのですが、すぐ来てくれるというのですが、でもきょう来てくれることになりました。それで私は長女の家に行きました。
 長女の家では、二人の孫がまた違うことに興味をもって面白かったのですが、とにかくそれはまた別に書きます。
 でもとにかく台所の電灯は新しくなりました。でもこうしてすぐに来てくれる電機屋さんがそばに居てくれるのは実にありがたいです。
 その台所の電灯が1993年に入れたもののようです。すぐに判断できなかったのですが、もう17年目なのですね。1993年なんですが、私がまだパソコン通信をやっている時代ですね。思えば私はまだ30代だったんだ。

 一昨日はポニョの遊ぶ綺麗なお家のおもちゃを長女がもらってきていました。ポコ汰も懸命にそれでポニョに遊んで見せていました。昨日も私に見せてくれました。

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 SHIROのポメラ日記 の [子どもと携帯電話]に、1月24日、このUPがありました。

 私は基本的に「安易に『携帯禁止』をしてはいけない」と考えています。本業の情報センターのセミナーやイベントで子ども達に接している経験や、個人的に勉強している心理学・カウンセリング関係の知識からそう考えるのですが、そうした観点から物を言う人がなかなかいないので、この機会に書いてみたいと思います。

 まったく私も同じに考えています。ただ、それでも私はちゃんと言い切ることができません。いえ、妙に言い切ってしまうから、いつも怒られているのです。
 いや、私は「授業中にケータイメールをしていていいのか?」といわれて、「別に構わないのじゃない。俺だって、昔は、ずっと授業中、本を読んでいた」と言って、「だから、パパはどうしようもない人なんだ」と言われてしまうのですね。いや、本を読むことよりも、魅力ある授業内容を私は期待していたのです。

 我々大人もかつては子どもだったはずです。そして、周りの大人達に対して「どうしてわかってくれないんだろう?」と思ったこともあったでしょう。
 大人になると、どうしてその思いを忘れてしまうのでしょうか。
 日々の生活に忙殺されて、目に見えない人の心を思いやる余裕が無くなってしまうのでしょうか。苦しい子ども時代や青春時代をくぐり抜けて大人になって、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのでしょうか。私もその理由をいろいろ考えているのですが、結論は出ていません。
 それはともかくとして、子ども達の表の行動だけでなく、内面の心の問題にいかに向き合っていくか。理解していくか。難しい事ですが、ネット時代の今こそ必要なことではないかと思っています。

 私は今、私自身がどうであったことを思いだし(でも読書とケータイは違うというのかもしれませんが)、考えていきたいと思っています。

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 SHIROのポメラ日記 に [子どもと携帯電話]というカテゴリーがあり、このUPがありました。
 このshiroさんは、「地元のガールスカウトの子ども達にパソコンの使い方などを教えるサポートをしている」ということです。

 毎回、パソコンや携帯でのネット利用の注意点などを話しているのですが、今回は「日頃の不満を掲示板に書いてみよう」というテーマでやってみました。
 こちらで「日頃の不満ぶちまけ掲示板」というページを用意して、子ども達やリーダーの大人達にパソコンで開いてもらい、「日頃の学校や家での生活で不満に思っている事などを書いてください」といろいろ書き込んでもらいました。
 15分ほど書いてもらったのですが、たくさんの不満が出てきました。「担任変えて欲しい」「特定の子ばかりえこひいきする」「政府の人たちは国民のことを考えて欲しい」などなど…。みんないろいろな不満やストレスを感じながら生活していることがよくわかりました。

 私は約7年間、「松戸自主夜間中学」というところで、毎月1度パソコンの授業をしていました。まだインターネットの時代ではなく、パソコン通信の時代でした。
 思えば、今のスカイプではなく、netmeetingで、米国やロシア、南米、中国とも無料で会話できること、映像でも見られることをやったものでした。
 みなほぼ不登校の生徒さんたちが多く(他にも中国残留孤児の方とはいろいろいました)、でも残念なことに、その頃は、どうしてもパソコンでは、「勉強」という思いを抱いてしまうのでしょうか。あまり活発にはやってくれなかったものでした。
 だから、今の携帯電話による掲示板の書込み(プロフというのかな。私もあるところの会員になりましたが、あんまり私には面白くないので、もうやっていません)なんていうことは、私の過去のパソコン通信の時代にはなかったものです。
 でもこうしてshiroさんが子どもたちとお話しているのはいいことだと思います。

「そうだね。別な事で発散するっていうのも一つの手かもしれない。でも本当は、その問題そのものにちゃんと向き合って考えないと解決しない。例えば『担任変えて欲しい』っていう書き込みがあったけれども、それは担任の先生と何か誤解があったのかもしれないし、うまく伝わらないことがあったのかもしれない。お互いに確かめたり、直さなきゃいけない所は直したり、その問題そのものをどうにかしないと、結局は解決しないよね」。そんな話をしました。

 まったくこの通りだと思います。

 最近、学校裏サイトの掲示板などで人をいじめたり傷つけたりする書き込みをすることが、大きな問題になっています。「学校裏サイト禁止」「携帯禁止」といった「禁止」や「取り締まる」ことばかりが話題になるのですが、果たしてそれでいいのでしょうか。
 ネットや携帯電話の問題は、子ども達の心の問題が表に現れた「結果」に過ぎません。目に見える表の現象ばかりを見て、それを取り締まろうとするのではなく、元にある原因―子ども達の心の問題にちゃんと向き合わないと、本当には解決しないのです。
 「『大人ってどうして表の目に見えることしか見ようとしないんだろう』って思わない?」と聞くと、スカウトの子ども達はうんうんと頷いていました。
 子ども達の本音が伺えるこうした機会に、我々大人は大いに反省しないといけません。
 そして、これから5年後、あるいは10年後、今の子ども達が成長した時には、目に見える表のことばかりでなく、裏にある心の問題にちゃんと向き合える大人になって欲しい、そう願っています。

 思えば、私なんかは大昔から、どんなになっても自分勝手でした。上に書いたパソコン通信の場でも、私のやってきたこと、やっていることから、少しも変わらないことばかりをやっていたと思います。
 私はパソコン通信の場でもインターネットでも、自分の好きな漢詩の話、ヤクザ映画の話、自分の三派全学連、全共闘の話ばっかりしていました。
 今後は、もっとみなに合わせたことを、一緒にたくさんやっていきたい、いくべきだと思っています。

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 私の友人なのですが、年は31歳の方がいます。私がパソコン通信をやっていた頃知り合いました。私はmixiをやっているのですが、そこで「マイミクシィ一覧」にいるのは、3人だけなのですが、長女の日記を見るので、ときどき私のmixiから、長女おはぎとこの31歳の友人のhmrさんの日記を見ています。私の「マイミクシィ一覧」には、もう一人和尚さんがいるのですが、彼はまったく更新していません。
 hmrさんは、私と同じで、mixiではなく、外部のブログを使われてきます。その昨日の日記にこの「環境保護は義務である」という日記がありました。
 読んでいまして、まったく同意しましたので、以下コピーしてみました。

 ドイツ語というのはなんでも長くなる傾向がある。その昔、ドイツという国は国家社会主義ドイツ労働者党という名前の党が幅をきかせていた。で、ヒトラーという人物が国を独裁していた。
 国家社会主義ドイツ労働者党は禁煙運動に力を入れていた。食餌療法にも積極的だった。なんせボスのヒトラーからして大のタバコ嫌いで酒は飲まず、挙げ句の果てにベジタリアンであった(らしい)。独裁国家の幹部連中というのは独裁者のちょうちん持ちばかりになるわけで、国家社会主義ドイツ労働者党の幹部も(少なくとも表面上は)健康志向であった。
 で、ドイツにはヒトラー青年団という、今思えば死んでも入会したくない組織があった。この当時のドイツの「組織」というのはスケールだけはやたらと大きく、ヒトラー青年団もご多分に漏れず多種多様な事業を行っていた。青少年啓蒙もその一つで、大量に発行されたパンフレットの中には「健康は義務だ」と題されたものもあった。
 なんというか、現代の環境保護に通じるものがあるような気がするのは小生だけだろうか。

 え、こんな全部コピーしちゃっていいのかなあ。でもやってしまいました。
 私も、この「環境保護」だの、「禁煙」だの、「平和」だのをさも大事な真理のようにいう人や団体が大嫌いです。私は一貫として煙草は吸ったことがありませんが、煙草を吸う自由勝手は大事なことだと思っています。
 私が彼と知り合った草の根のパソコン通信でも、その通信を始めた主催者はエコロジストを自称していました。だが、利根川の河原でオフ会をやったのですが、そういうときに、平気で河原の上を四輪駆動で走っていました。どんなに草たちが苦しかったことでしょうか。土手にある草たちがどんな役割をしているのか、まったく判っていないで、エコロジストを自称し、環境保護を声高に主張していました。当然私とはそのうちぶつかります。私も当然徹底して闘いました。
 まあ、そのエコロジストを自称する人は死んでしまいましたが(自殺のようです)、まさしく、hmrさんが書かれているナチスを思い出してしまうものです。ナチスも「社会主義」を唱えていたわけです。
 よくいわゆる共産主義を目指す連中と、社会主義を唱えるナチスがまったく違うようにいう人がいますが、私にはまったく同じに思えます。ヒトラーとスターリンとは同じく、人類を恐怖に陥れていたひどい存在でしかありません。ついでに、日本にしかいない「反スターリン主義」を唱える人たちにも、私はスターリン主義に対して思うような感じしか持ちません。

 でもこの彼とは29歳も離れているんだなあ。もう私もじいじですからね。

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 毎日必ず読んでいます ナミちゃんのブログこのUPがありました。

一月に一度の「絵本の会」に参加して・・もうかれこれ・・二十年近くになるかしら。
発足してから今年で二十三年目かな。

 すごいね。私はナミちゃんは、埼玉大学の私の5年生のときに出会ったとっても綺麗な少女でした。でも、彼女の住んでいるところが私と同じ我孫子市だということに驚いたものでした(でも私はその頃は、我孫子にはほとんど居なかったものでした)。
 それでたしか1993年の頃、同じパソコン通信の仲間で毎日新聞の記者から、ナミちゃんが小学生に絵本を読んであげるということをしているという記事が新聞記者仲間の朝日新聞にあるというので、私も読んでみたものでした。この記者が、「この記事にある子は埼玉大学出身だというから、周さん知っている人じゃないの?」と言われまして、記事を見ると、それがナミちゃんでした。
 その前からナミちゃんは、ずっと絵本を何人もの子どもたちに読んであげているんですね。私はその頃から、パソコンでパソコン通信をやり、そしてインターネットが開始されると、私も自分のホームページをたちあげて、何もかもパソコンで処理するようになりました。
 ただし、酒を大量に飲むこと、しょっちゅう大声で歌い出すこと、本も大量に飲むことは、全然変わりません。でももう歳をとって、酒は少量になりましたし、歌声も(昨日ゴールデン街での私の声を思い出すと)小さくなりました。ただ本を読むのはほぼ変わりません。ただナミちゃんのおかげで、絵本を読むことを知りました。このことは、ナミちゃんに大声で感謝したいことです。
「絵本」というのは、私には、私の読書する本には入っていなかったのです。自分に孫ができて、ナミちゃんから何冊もの絵本を送ってもらって、それをポコちゃんに読んであげて(でもまだ小さいから、よく判らないようです)、私も絵本が実に魅力のあるものだということが判ってきました。

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06080802 GIGAZINEこのニュース がありました。

日本時間でつい先日、現地時間で2006年8月6日、WWW…つまり、「World Wide Web」が生まれて15年が経過しました。
さかのぼること15年前の1991年8月6日、この日がウェブがインターネット上で利用可能なサービスとしてデビューした日、ということらしいです。
(2006.08.08)

 ちょうどこの1991年といいますと、まだ我孫子の小さい一軒家の借家に住んでいたころでした。思えば、まだ「インターネット」という言葉も知りませんでした。もうパソコン通信はやっていましたが、nifty でも未だほとんど書込みもしていない私でしたね。ただ、親友の堀雅裕さんとは、よくメールは交わしていたものです。思えば、まだ娘が5年生と4年生でしたね。
 ただ私は92年から活発にパソコン通信をやり出して、95年にはインターネットに手を染めて、98年には、ホームページを開設しました。
 98年9月にパソコンが壊れる事態がありまして、それでなんだか非常に怒っていた私は、パソコンの自作をやりました。まったく機械にも工作にも不得意な私でしたが、何故か出来てしまった私は、すぐさま自宅にもパソコンを自作しまして、その過程で、「じゃ、ホームページも作っちゃおう」ということになりました。98年9月のことです。
 事務所と自宅でもう必死にホームページを作成しました。あちこち仕事他で、あやゆるところを歩いていましたが、事務所も自宅も実に日曜も休日も時間も関係なく、そしてほぼ1日2時間の睡眠時間しかとらなくて、ホームページを開設し、そして更新を続けました。
 9月末は仕事でもとても忙しい時期なのですが、よくあのときはやっていましたね。そして今と違うのは、あの頃ももう圧倒的に大量の酒を飲んでいた頃です。

 でもこうして、15年が経ったのですね。もう随分変わりましたね。インターネットでも、ブログサービスが出てきて、旧来のホームページではもう「これじゃ時代遅れだよなあ」と思ってしまっています。ブログなら、ケータイでUPできますからね。昔のホームページは、ケータイでは、ケータイ用のホームページを作るしかありませんでした。

 こういう変貌が、今後も進んでいくのでしょうね。ただ、私が過去やってきたことは少しも無駄にはなってこなかったと思っています。私には、その自分のやってきたことの延長に、いつも新しいことが積み重なっている感じがしています。

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