将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:フィリップ・カー

10123001 私のブログで「フィリップ・カー『ベルリン三部作』」を書きました。私より8歳も若いイギリスの作家です。彼の作品ははヨーロッパ中のテレビで見られているそうです。もちろんロシアでも人気があるようです。三部作とは『偽りの街』『砕かれた夜』『ベルリン・レクイエム』の三作品です。
 それと今島田荘司の作品を制作順に紹介しているところです。思えば、こうしてパソコンとインターネットというのは、実に楽ですね。必死に手書きしていたゲーテや漱石を思います。タイプライターを使っていたマーク・トウェインを思います。手書きも大変だけど、あの頃のタイプもとても大変でしたでしょうね。
 この写真も、EyesPicの画像です。綿花です。思えば今はレンタルフォトショップも存在の仕方が変わっているのでしょうね。(12/30)

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10122910  戦前戦中戦後のドイツのベルリンの街を描いた三部作の小説があります。読んでいるとそれぞれの小説を読む中でこの日本のこともさまざまに比較して思い浮かべてしまいます。
 作者は1956年生まれのイギリスの作家です。「偽りの街」は1989年作の彼の最初の作品であり、本邦発の翻訳です。年に一作ずつ発表しているとのことで、順次新潮文庫で翻訳刊行されるとのことです。

書 名 偽りの街
著 者 フィリップ・カー
訳 者 東江一紀
発行所 新潮文庫

 この偽りの街とは、1936年のベルリンのことです。ヒトラーの政権獲得から3年目であり、日独防共協定締結の年、ベルリンオリンピックの開かれた年でもあります。
 38歳の私立探偵ベルンハント・グンターを主人公にした、ハードボイルド推理小説です。この破滅へ向う時代のなかでの、謎ときのための活躍が暗く読むものをひきつけます。
  スターリン主義含めた全体主義というのは、絶対的に腐敗した官僚機構になるのだと思います。私は、ナチズム、旧日本軍、スターリン主義共産党、やくざ暴力団、右翼体育会、革マル派、馬鹿な新左翼、みんなその中にはいれば同じ体質雰囲気をもっていると思っています。しかしそれが街そして国家全体だとしたら、それはもう本当に悲惨です。

  ……人それぞれに腐敗の形があるというのが、国家社会主義政権下
 の生活の最もきわだった特徴だろう。政府は、ワイマール共和国時代
 のさまざまな政党の腐敗を、数回にわたって暴露してきたが、どれも
 これも、今現存している腐敗に比べれば、物の数でない。今を盛りと
 咲き誇っている感があり、誰もがそれを知っている。だから、大多数
 の人間は、自分もおこぼれににあずかれるはずだと考えるのだ。その
 種のことに関して、以前ほどの潔癖さを保つている人間には、お目に
 かかったことがない。わたし自身を含めてだ。単純な事実として、人々
 の腐敗に対する感覚は、闇の食料を手に入れるにしろ、役人に便宜を
 図ってもらうにしろ、指物師の鉛筆の芯ほどに鈍くなってきている。

 この中でも、グンターは驚くほどの活力で動きまわります。人は思想や正義で生きられるわけではないが、グンターは金やより快適な生活求めているようにも思えません。やがて、グンターはゲシュタポとの取り引きで、強制収容所に入ります。まさしく、ソルジェニーティンの描くのと同じ収容所です。まったくナチズムとスターリン主義は別な顔した全体主義の双生児だ。そして本当いえば、いまもそれは私たちの周辺に生きているのですけれどね。

   囚人の中には、ナチスが目の敵にしているいくつかの人種や思想集
 団に属している者をはじめとして、ありとあらゆる種類の反ナチス分
 子がいた。社民にアカ、労働組合員、判事、弁護士、医者、教師、軍
 人……。スペイン内戦の共和国側の兵士、エホバの証人、フリーメー
 ソン団員、カトリックの司祭、ジプシー、ユダヤ人、呪術師、同性愛
 者、浮浪者、盗っ人に人殺し……。何人かのロシア人と旧オーストリ
 ア政府の閣僚を除けば、ダッハウに収容された全員がドイツ国民だっ
 た。中にひとり、同性愛者でもあるユダヤ人がいた。それだけでは不
 足だというのか、その男は共産党員でもあった。まさに三重苦だ。こ
 ういう囚人が生き残っていくのは、全速力で走る単車に飛び乗るよう
 なものだろう。

 なんとかすべてやりおえますが、街はますます破局へ向っていきます。ベルリンだけでなく、日本もそうだったのでしょう。

  今のわたしは、もうどんなことにも驚かない。このゆがみきった世
 界、まるで大地震に見舞われ、平らな道もまっすぐな建物もなくなっ
 てしまったようなこの街で生きることに、わたしは慣れてしまったの
 だ。

 この推理小説のテーマではないでしょうが、私はこのように「慣れてしまう」ことのないようにするにはどうすべきなのだということを深く考えてきたつもりです。
 ヒトラーはユダヤ人を抹殺しようとしました。だけどユダヤ人だけではないのです。コミュニスト、社民、自由主義者、キリスト者だけではありません。ヒトラーは、同性愛者を憎みました、身障者を憎悪しました。異端な奴をすべて抹殺すれば、理想の世界ができると夢想したのでしょう。
 いまも同じ匂いを感じとることができます。まさしく大政翼賛の腐敗した匂いがします。どんな時代になっても、同性愛の小説書いていたっていいような作家が、「私だってやるときはやるんだ」と、「文学者の反核声明」に署名する。署名しないのは、ナガサキヒロシマの体験死者を無視しているのだというようなキャンペーンをはる。選挙になると、いまこそみんな立ち上がってきれいな政治を実現しようなんてこと声高にいい、選挙の結果が自分の思う通りにならないと、やっぱり選挙民の意識が低いんだなんて言いだす進歩派。これらはまったく同じです。同じ匂いがしますよ。反核を声高にいうのと、鬼畜米英と声高にいうのは同じに聞こえますよ。どうちがうというのだ。
 いったいこの全体主義の中で、どうまたこのグンターが活躍していくのか、また暗く興味のあるところです。

書 名  砕かれた夜
発行日 1993年10月25日

「偽りの街」に続く、ベルンハルト・グンターの活躍する第二作です。  時は前作から2年経っている1938年夏のベルリンです。翌39年にはドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第2次世界大戦が始まるわけです。
  前作ではただの私立探偵だったグンターは、治安警察長官の要請で警察に復帰します(グンターは第一作の探偵の前にはもともと優秀な刑事だった)。ベルリンで多発している少女連続殺人の捜査を指揮を執るように命じられます。その殺人はどうしてか、アーリア人少女(要するに純粋なドイツ人、金髪碧眼で、ナチスと国家思いの処女たち)ばかりなのです。しかも残忍な殺し方です。殺された親たちは、犯人は反ドイツ反ナチスのユダヤ人ではないのかと思い込んでいます。
  グンターに依頼してきた治安警察長官も、これがなんらかの陰謀ではないのかと推測しています。反ユダヤの大衆的な過激な行動が起きることが、ドイツのためになるわけではないと考えているのです。
  しかしグンターの動きも前作のようには活躍できません。もはや彼はドイツナチスが牛耳る警察機構の一員でしかないのですから。グンターは心の底ではナチスを嫌いきっていますが、もはやそのような思いを外にだすことは出来ないのです。
  ナチスは突如わいてきたものではありません。第1次世界大戦に敗北したドイツには、ワイマール共和国という理想的な民主主義国家が出来たはずなのです。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。事態は少しずつ少しづつ進んできたはずなのです。そうしたことが、この小説でも表われてきているように思います。前作と違うようにしか動けないグンターも、またなんだかそれにもどかしさを感じてしまう私たちの思いも、そのよって来るものは、この次第にしのびよる時代の影のせいだと私には思われます。それが前作との2年間の時代の進行の差であり、前作との違いであると思うのです。  ネーベという帝国刑事警察総監が次のようにいいます。彼は国家社会主義者であり、ナチスの党員です。

    警察はわたしの命なんだよ、グンター。何よりもたいせつなものだ。
 ヴァイマール共和国時代、公安制度が自由主義にむしばまれるのを見
 て、わたしは、国家社会主義なら、法と秩序を重んじる社会を復活さ
 せてくれるんじゃないかと考えた。ところが、事態はかえって悪化し
 た。……。

  誰もが、本当の自分達の幸せは何かと考えたのでしょう。あの自分だけ富んでいる資本家は許せない、とくに豊かなユダヤ人はゆるせない、ドイツを遠くから支配しようとするローマカトリック教会は許せない、自由主義者は許せない、共産主義者は許せない……となっていくとき、何か違う道に踏み入れてしまったのです。腐敗した文化はダメだ、ドイツ純潔の少女たちは美しい…としたところが、実際にはナチスこそ腐敗した形を作っていることを、この作品はつぶさにあきらかにしていきます。
  ちょうど日本の戦前にもありました。「エログロナンセンス」といって文化を弾圧していった勢力、若者に純粋なまま神風特攻攻撃を命じて、その実腐り切っていた多くのの将軍たち、多くの大政翼賛の連中たち。ナチスは国民大衆のさまざまな思いを政治的関心だけに集中させようとします。我々が苦しいのは何故だ、悪い奴がいるからだ、わるい奴って誰だ、資本家だ、ユダヤ人だ、カトリックだ、共産主義者だ、身体障害者だ、同性愛者だ、そしてフランスだ、イギリスだ……。
  この作品はこの流れのなかで、ベルリンでおきたユダヤ人迫害の水晶事件をあつかっています。グンターの活躍で、連続殺人の真相は明らかにされ、水晶事件は未然に防止されるはずなのです。しかし歴史のとおりユダヤ人は襲撃されます。ナチスには、多くのドイツ人には、それが必然のことだったのでしょう。グンターは失望し、時代におし流される自分の無力を大いに感じていることでしょう。
  しかしこれは、今もこの日本にも感じることなのです。政治を綺麗にしよう、もうあんな連中にまかしておけない、みんないまこそ政治に関心をもとう、と言い続ける一連の人たちに、私はナチズムと同じ匂いを、大政翼賛の腐った匂いを感じてしまいます。大政翼賛会が、圧倒的なキャンペーンのもと、衆議院選挙で90%近い投票率を誇ったことがあります。そんなことはもう絶対に繰返させないぞと私は深く決意しています。
  さて次作ではグンターはどう生きていくのでしょうか。

書名    ベルリン・レクイエム
発行日 1995年11月1日

 第二作のときから、9年がすぎたベルリンの秋です。

  一九四七年後半のベルリンは、崩れ落ちた石垣や倒れそこねた廃墟
 だらけの巨大なアクロポリスであり、戦争による荒廃と高性能爆薬七
 万五千トンの猛威の痕がいまだに生々しく残っている。ヒトラーの野
 望の都に降り注いだ破壊の雨は、史上類を見ないほど激しく、容赦の
 ないものだった。ワグナー的な規模の死闘の末に、ニーベルングの指
 輪は持ち主の手に還り、神々は黄昏の最後の光を浴びたのだ。

 第二作との間で、グンターは軍隊に入り、東部戦線にてソ連軍の捕虜になっています。そしてウラルの収容所にて死んでしまうところを、脱走してベルリンに帰ってきました。
 ナチス敗北後、ソ連、米国、イギリス、フランスの各軍隊が支配する瓦礫の街の中でグンターは私立探偵の看板を掲げます。こんな街で探偵なんてやっていけるのでしょうか。第一作や第二作で、困難な中でも見事仕事を成し遂げていくグンターと違って、むしろ時代情況に翻弄されてしまうグンターの姿があります。第一作と第二作がグンターが活躍する推理小説と言えるとすれば、この第三作は、ドイツの中で米ソのそして旧ナチスが暗闘するスパイ小説なのです。
 グンターの活躍によって、だんだん事の真相が判ってくるわけですが、それでもグンターそのものも、スパイのひとこまとして動かされているだけなのです。
 ナチスが滅んだあとのドイツは各国のスパイによる情報戦争のまっただ中でした。米ソもイギリス・フランスもたくさんのスパイを使っていたことでしょう。そしてそのスパイになるのは、その各国の人間たちだけではなく、敗戦国のドイツ人も大勢いたわけです。そして、この第三作はベルリンよりも、同じドイツ人であるオーストリアのウィーンが舞台となっています。オーストリアもまた米ソをはじめとする謀略情報戦争のまっただ中に置かれていました。
 そしてそのスパイというのが、二重スパイ、三重スパイとでもいっていい存在もかかえています。敵を欺くのに、まずは味方から欺く必要があります。そしてナチスに勝利した米ソは、その旧残党を自らに有利なように利用しなければなりません。
 こうしたドイツの姿は、実は戦後の日本でも同じようにあったわけなのでしょう。ただ日本はドイツと違って進駐してきた軍隊は米軍だけでしたから、その点だけは、少しはいやおおいにましだったことでしょう。それにしても、この日本の戦後の混乱期にも、こうした謀略情報戦争は繰り広げられたに違いありません。
 そしてこのような「謀略」といったものは、残念ながら私たちの周りにもみられることのように思います。ことは米ソの間のというような規模ではなくともよく見聞してしまうことのように思います。
 また同じくこうした「二重スパイ」というような存在を思うと、これはまたある種の人間の性(さが)なのかななんて思ってしまうのです。ちょうどロシア社会革命党戦闘団のアゼーフがどうして二重スパイを演じてしまったかといえば、それは自分が両方の世界を知り尽くし、そして自分こそがその世界を動かしている存在にように思い込んでしまうという快感なのだろうと思うのです。

 私が20代後半のときに、ある会社にて労働組合を作り上げ闘ったことがあります。まったくそうした意識のない社員ばかりの中で、たちどころに社員パートのほとんどを結集した組合を作りあげ、48時間ストそして無期限ストを実施して組合の要求を120%認めさせました。そしてまた元気に仕事の現場に戻って、また別な要求項目にて無期限ストに入りました。だがけっこう強力な結束を誇っていたわけですが、どうしても組合での機密事項に関して、会社側に筒抜けになっているようなのです。そしてそして、これが大事なところなのですが、私はそんなことは平気でした。いや逆になんとかうまくこちらの情報があちらに伝わらないものかと気にしてばかりいました。
 つまり、どうしても、強力な組合の中で活動していたとしても、どうしてか会社側にも、大事な情報を流してしまう人間がいるわけなのです。それはその人間が自分の立場に不安だからなのではなく、実はその人間の誇大妄想にこそその理由があります。そんな人間は「俺こそが双方の大事な情報を握っている」という快感が堪らないのです。
 そのときの会社側と組合三役によるある団交の席でのことです。

  (私は会社側に私たち組合の要求をのまないと、今後組合が一丸と
  なってさらに戦術をエスカレートしていくと迫っていきます。そう
  したときに………………)

 社長「でも、組合の中でも、萩原さんの意見とは違う人のほうが多い
   のではないですか。なんだか萩原さんは少数派だと聞いています
   よ」

  (社長は私が組合の委員長選で何票差で破れたことや、いつも私が
  少数派でしかないことを知っているようだった。ここで、私は演技
  上焦った表情をするべきだったのですが、なんだか自分の思う通り
  になっていくのに、思わずニヤリとしてしまった。でも気を取り直
  して、少し焦ったフリをして居直る顔で少し怒って………)

 私「まあ、そうなんですよ。ただそうすると、私は組合の間でも少数
  なものだから、これはもうとにかくやることはやるんです。いざと
  なったら組合も敵ですよ。ただ、ここまでくると、もう私はとこと
  んやりますよ。もう組合が何言おうと、貫徹しますからね」

  (会社側3役は、もうこれで嫌な顔になっている。この質の悪い男
  は、どうにも話にならない存在だと思ってしまう。だがこの意識を
  植えつけることこそ、私は狙っていたものだった。これで、今後は
  私は組合の決議なんぞにはとらわれず、勝手にやり続けることを宣
  言したわけなのです。私は組合内の二重スパイの彼と彼に心の中で
  感謝していました。今後も私が組合でさも秘密裏に提案する過激な
  戦術はうまく筒抜けになってくれるのです。だが私はその戦術の実
  行の細かいところなんかまでは絶対に口に出しません。そして彼ら
  は会社側の情報もこちらに流してくれるのです)

 私にとっては、こうしたことが学生時代からの左翼運動の中で身についてしまった「政治」でした。おそらくこれがロシア革命(いやもっと前からであろうさまざまな反体制運動も同じでしょうが)からの伝統的な左翼の謀略情報戦なのでしょう。

 グンターは瓦礫の街であるベルリンに帰って、自らの無力さを感じることでしょう。もはや以前のグンターの手法が通じない面倒な時代になってしまったのです。そしてそれでも米ソの謀略戦、そして冷戦の中でただただそのまま生きていくしかないのです。

 しかし、このフィリップ・カーというイギリスの若い作家がよくこれだけの時代を描けるものだと感心してしまいます。この日本の戦前戦中戦後の時代をも誰か描いてくれる作家が現れてくれないものかと思ってしまいます。またカーの作品はこの他にも、現代ロシアのマフィアをはじめとするひどい現状を描いた「屍肉」という作品もまたかなりな読み応えを感じたものでした。(1995.11.01)

 「………失業率がこのままうんと高くなれば、大喜びするのはマフィ
 アだ。今のペテルブルグの状況は、二〇年代のシカゴと実によく似て
 いる」にやっと笑って、「だとすると、エリオット・ネスがいなきゃ、
 話にならんだろうが」

10122418 エリオット・ネスたちFBIは「アンタッチャブル」と呼ばれたといいます。マフィアたちが、いくら買収しようとしても絶対に彼等はマフィアの協力者にはならなかったからです。現在のロシアも大恐慌時代のアメリカとまったく同じ事態に陥っています。同時にあの時代にエリオット・ネスたちがマフィア撲滅のために闘ったように、今のロシアにもマフィアと闘っている警察官たちがいます。
 その現代ロシアのサンクトペテルスブルグ(旧レニングラード)での刑事たちの活動を描いたのがこの小説です。これはイギリスBBS放送のテレビドラマの原作として作成されたとのことです。ロシアに長期取材し、かつ絶大な協力を得て、完成されました。現在はロシア語にも翻訳され、好評を得ているといいます。

書 名  屍肉
著 者  フィリップ・カー
訳 者  東江一紀
発行所  新潮文庫
平成6年11月1日発行

 社会主義ソビエトというどうしようもなく非人間的な国家が崩壊したと思ったら、現在のロシアは、経済がマヒし、20年代のアメリカとまったくそっくりなマフィアが横行するとんでもない無法社会になってしまいました。現在に限りなく近いほど、犯罪数は増え、国民にはまたスターリンのような強権をあこがれてしまう傾向も表われてきているようです。実際にロシア自由民主党ジリノフスキーの言っていることなど、スターリンを髣髴させます。テレビで見ているとこの政党の背景に元ソ連の国旗の赤旗がいくつも旗めいているのが映し出されています。
 たしかにこのままロシア社会が病んだままでいってしまうと、また異常な政治勢力が力を持ってしまうかもしれません。そうした傾向を防ぐためにも、現政権はマフィアとの闘いに勝利するために必死なのだと思います。
 主人公はモスクワ中央内務局調査部の中佐です。彼はサンクトペテルスブルグへ派遣されます。彼の任務はマフィア操作の最前線にいる刑事たちが、マフィアと癒着していないかを調査するためです。だが彼が実際に赴任してみると、この都市は20年代のアメリカシカゴと全く同じような犯罪都市になっており、またそれに対して闘っているイヴァゲーニー・グルーシコはじめとする刑事たちは、アンタチャブルを髣髴させるように倫理的に献身的に働いています。主人公も思わずみずからの任務よりも、グルーシコたちと一緒に犯罪組織と闘っていくほうに懸命になってしまいます。
 おりしも、ロシアの各さざまな問題点を雄々しく告発していた大物ジャーナリストが殺されます。一体誰が殺したのか。どのマフィア組織なのか。
 それにしても、もはや破綻してしまったのかのようなロシア経済下の生活が描かれています。エリオット・ネスであるグルーシコの家庭も描かれていきますが、もうネスの恰好良さなど保っていることはできません。ここまで描いてしまうことをよくまあ、ロシアの警察も許してくれたなと思いました。
 主人公の義理の兄がいいます。

 義兄「たとえ犯人を捕まえたとしても、マフィアを打ち負かすことは
   絶対できない。それは、わかってるんだろうね?」
 グルーシコ「なぜ、そんなことがいえるんです?」
 義兄「この国でちゃんと動いているのは、マフィアぐらいのものだか
   らさ」

 この小説を読んでいると、この兄の言葉に明確に反論できるのだろうかと思ってしまいます。実際のところはどうなのでしょうか。この小説に限っていえば、マフィアを打ち負かすことができるのは、グルーシコを始めとする刑事たちの人間としての倫理性のみなように思います。しかし実際には倫理で腹がふくれるのかどうか不安になってしまいます。 この小説を読んでまた思うのですが、いったいロシア革命というのは何だったのでしょうか。現在のロシアの姿はやはり1917年の革命から帰結されているように思えます。プーシキンの詩を読み、チェーホフの小説を読むと、次第に近代資本主義社会に向いつつあるロシアを思い浮かべます。ロシアも西欧と同じ普通の国だったはずなのです。ところが突然あの革命で時代は時間はあともどりしたように思えてきます。どうしてこんなことがおきてしまったのでしょうか。私にはソ連というのは人類史上最悪の国家だったように思っています。その国家が倒れたのはいいことなのです。だがおそらくは、もとの共産党員たちは数々の利権をそのまま握ったまま現在を過ごしていると思われます。やはり社会主義ソ連は、封建制の国だったのです。権力の側にいる悪代官たちが、すべての利権を握り、反抗する人民を強権で押えつけていたのです。いま時代がかわっても、その悪代官たちは裏の安全なところにひっこみ、マフィアたちが前面に出てきました。
 グルーシコはペレストロイカの最初から、共産党に対して異議を申し出たいわば勇気ある正義の人です。ロシアを愛しているし、不正を許しません。そしてパステルナークの詩句をこよなく愛している文芸人でもあります。そうした彼の姿を見ていると、なんとかロシアもどうにかまともになるだろうかと希望的に期待してしまいます。
 そうした彼等「正義の人々」がきっと報われるだろうことを信じていきたいと思います。ちょうど約100年前には、「正義の人々」は封建制帝制ロシアに対して爆裂弾を投げていました。いまはグルーシコのようにマフィアを始めとする不正と闘っているのです。(1998.11.01)

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