将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:フランソワ・ヴィヨン

2017052909 この詩人は、1431年〜1463年後?の生涯だったと言われますが、実は生年もはっきりわかっていませんし、亡くなった年もはっきりしていません。父母とは幼少のときに別れ、親類の一人に育ててもらい、その親類の名前ヴィヨンを名乗りました。1463年にパリを追放され、その後の消息は一切判らないのです。
ただ間違いなく、犯罪者であり、何度か投獄され、最後は絞死刑判決を受けますが、 減刑されて11021301パリを追放されるのが1463年で、その後の消息はないのです。
ヴィヨンの詩集には、『形見の歌』と『遺言詩集』がありますが、ここには彼の書いた墓碑銘をあげてみます。この詩の後には、彼の消息は一切消えてしまうのです。

わが亡き後に ながらふる 一切衆生よ、
頑(かたく)なる心を われらに 抱くなかれ、
不憫なるものよと われらを謝れまば、
神は 直ちに 聖寵を 汝らに垂れむ。
見よ ここに われら絞(くび)られて、五人、六人。
(略)
誰人も われらの非業を 嘲笑(わら)ふなかれ。
ただ神に われらの罪の恩赦(みゆるし)を祈られ給へ。(鈴木信太郎訳)

ただ彼は犯罪者であり、ものすごい酔いどれでした。この酔いどれだったことだけが、太宰治に『ヴィヨンの妻』を書かせたことだったのでしょうね。
私が東大闘争で逮捕起訴勾留された府中刑務所の独房の中で1969年3月に読んでいたものでした。(2010.02.07)

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10122904 この詩人は、1431年~1463年後?の生涯だったと言われますが、実は生年もはっきりわかっていませんし、亡くなった年もはっきりしていません。父母とは幼少のときに別れ、親類の一人に育ててもらい、その親類の名前ヴィヨンを名乗りました。
  1463年にパリを追放され、その後の消息は一切判らないのです。
 ただ間違いなく、犯罪者であり、何度か投獄され、最後は絞死刑判決を受けますが、 減刑されてパリを追放されるのが1463年で、その後の消息はないのです。
 ヴィヨンの詩集には、『形見の歌』と『遺言詩集』がありますが、ここには彼の書いた墓碑銘をあげてみます。この詩の後には、彼の消息は一切消えてしまうのです。

 わが亡き後に ながらふる 一切衆生よ、
 頑(かたく)なる心を われらに 抱くなかれ、
 不憫なるものよと われらを謝れまば、
 神は 直ちに 聖寵を 汝らに垂れむ。
 見よ ここに われら絞(くび)られて、五人、六人。
 (略)
 誰人も われらの非業を 嘲笑(わら)ふなかれ。
 ただ神に われらの罪の恩赦(みゆるし)を祈られ給へ。
                                (鈴木信太郎訳)

 ただ彼は犯罪者であり、ものすごい酔いどれでした。この酔いどれだったことだけが、太宰治に『ヴィヨンの妻』を書かせたことだったのでしょうね。
 私が東大闘争で逮捕起訴勾留された府中刑務所の独房の中で1969年3月に読んでいたものでした。(2010.02.07)

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 昨日夕方長女の家まで歩いていたときに、考えたことです。私は自転車で行ったのですが、このときはあまりに真剣に考えたので、自転車を降りて歩いていきました。
 私周は、はいわゆる書評・感想文といったものを私のホームページにもブログにもUPしています。「周の書評」(これは私のホームページ内に、実ににいっぱいありあます)も「周の雑読備忘録」(これも私のこのブログにいっぱいあります)もたくさんあるのですが、私はそういう内容ではなく、私が spider job  蜘蛛業 に書いていく「読書さとう」というページをオープンさせたいと思ったのです。それで、私は自転車を押しながら考えていました。私は以下のような本の私の感想を書いてみようと思ったのでした。

 1.これはもう2度と読むことはないだろう。
 2.こんな本を誰が読むのかなあ? 無駄じゃないかな。
 3.大昔に私は読んだことは良かったのかもしれないけれど、そのことの記録だけは書いておこう。

と思ったものを書こうと思ったのです。まずほかの人は読まないでしょう。
 たとえば、私は思うのですね。二葉亭四迷なんて、今誰が読むの? おそらく『浮雲』だけで、誰も忘れているんじゃないかな。だから、私は『小説総論』のことを書きます。これは「坪内逍遥『小説神髄』」より、実にまともだなあと私は思っています。
 それから、私には、まず第一に「ツルゲーネフ『猟人日記』」が浮かびました。もう誰も読まないよね。
 それで、次のような作品が私には浮かんだものなのです。

ツルゲーネフ『猟人日記』
ゴーゴリ『死せる魂』
プーシキン『偽のドミトリー』
フランソワ・ヴィヨンの詩
『サン・ヌーヴェル・ヌーヴェル』鈴木信太郎訳
二葉亭四迷『小説総論』
井原西鶴『男色大鏡』
『十六夜日記』

 それで、私は「では最初はフランソワ・ヴィヨンを書こう」と思ったのです。でもこれは、私がたしか高校生のときに購入した筑摩書房の「世界文学大系」の「中世文学集」を探さないとならないと思いました。私は昔はもっていましたが、今はもう古書店に売ってしまったものです。
 ところがところが、昨日私の部屋の外側の廊下にくくってある筑摩書房の「世界古典文学全集」の括っている中に、この本があったのです。もう驚きました。私が我孫子から引越しするときも、吉本(吉本隆明)さんの本とこの世界古典文学全集のみは、捨てないことにして、あとはすべて下北沢の古書店に売り払いました。でもでもなぜか、世界古典文学全集の中にこの本が入っていたのです。
 それで、私はフランソワ・ヴィヨンの詩を読み始めました。昔府中刑務所の中で読みましたから、本の外側には、「5004番萩原周二」と鉛筆書きしてあります。
 それで読んでいくうちに、やっぱりフランソワ・ヴィヨンはとんでもない、いわば無頼漢といえるでしょう。当初私が思い込んでいたように、それほどひどい酔いどれではありません。
 でも、フランソワ・ヴィヨンを読むうちに、私はさらに太宰治の『ヴィヨンの妻』も読み出しました。それでこのブログのサイドバーにある青空文庫でです。私はこれをすべて読みました。もう一度読みました。
 そして、私は涙を流していたのです。
 この小説の中の夫の大谷もなんというひどい男でしょう。フランソワ・ヴィヨンもひどいけれど、『ヴィヨンの妻』の夫もひどい男です。
 でもでも、こうして書いていける太宰治は実にすばらしいです。この作品は、私が上にあげた3点には、どこもあてはまっていません。
 だから、さらに私は「読書さとう」には書けないことになってしまいました。
 それで、でも書いていきます。「太宰治『ヴィヨンの妻』」は、私のこのブログで、「周の雑読備忘録」として、「フランソワ・ヴィヨンの詩」は、「読書さとう」で書いてまいります。(佐藤隆家)

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「今 2:22」に、その鈴さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by ひとみ   2009年09月18日 04:53
周ちゃん おはようございます
今日は 4時に 目が覚めてしまいました
(眠るって やっぱり 大変?なのかな)
私も 太宰治は好きです
昔 彼のものを 読破しました
今度「ヴィヨンの妻」がドラマ化されますね
(映画でしたっけ?)
見たいと思っています
どうぞ お元気で(^−^)
                ひとみ

 私も太宰治は好きです。そして今はますます好きになっています。最初に読んだのは中学生そして高校生のときですが、大学での学生運動で東大闘争で逮捕起訴されたときに、彼の全集をすべて読みました。井伏鱒二への借金の申込なんかの葉書もいっぱい読みましたよ。
 昔、たしか法が改正されて登記所が混んで混んで仕方のないときに、渋谷登記所で、こんなことがありました。係の人が「津島さん、津島○○(女性の名前でした)さん、青森からおいでの津島さん……」と呼んでいるのです。でも何故か、相手は現れませんでした。私は、「あれっ、津軽から、ヴィヨンの妻が来ているのかな?」なんて思ったものでした。
「ヴィヨンの妻」の、私はこのもともとのフランソワ・ヴィヨンの詩集は読みました。私が府中刑務所の中にいるときに読んだものです。もう目茶苦茶な酔いどれは、こうしてフランスの中世にもいるのですね。彼は今になるも、その最後はどうなったのか判っていません。
 フランソワ・ヴィヨンもどうしようもないくらの酔いどれでしたが、太宰治ももうどうしようもないくらいの酔いどれですね。
 でもこのごろは、私は思っているのです。ヴィヨンの妻というのは(これは太宰治の妻のほう)、ひょっとすると、そんなにいい人ではなく、太宰治こそが素晴らしい存在だったのではないかと。
 太宰治の作品は、青空文庫ですべて読めます。私もときどき読んでいますよ。いつか私の孫のポコ汰に、彼のいくつかの童話を読んであげようと思っています。

 私もこの映画は見てみます。

 その帰り、二人の男が相合傘(あいあいがさ)で歩いている。いずれも、その逝去(せいきょ)した老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就(つ)いての、極(きわ)めて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡(めがね)、縞(しま)ズボンの好男子は、編集者。
「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢(ねんぐ)のおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」
「全部、やめるつもりでいるんです。」
 その編集者は、顔を赤くして答える。
 この文士、ひどく露骨で、下品な口をきくので、その好男子の編集者はかねがね敬遠していたのだが、きょうは自身に傘の用意が無かったので、仕方なく、文士の蛇(じゃ)の目傘(めがさ)にいれてもらい、かくは油をしぼられる結果となった。
 全部、やめるつもりでいるんです。しかし、それは、まんざら嘘(うそ)で無かった。
 何かしら、変って来ていたのである。終戦以来、三年経(た)って、どこやら、変った。

 以上は、太宰治の「グッド・バイ」です。太宰治は、こうして、私たちにグッド・バイしたのでした。

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