将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:ブンド

201801220211032009 随分前になりますが、唐牛健太郎さんのお墓の除幕式に出席するために北海道函館へ行きました。津軽海峡が美しく見える高台にそのお墓はあり、奥さんの真喜子さんが、「放浪を続けてきた人の安息の場所がやっと出来ました」とおっしゃっていました。
その次の日、私は函館の友人の車でまたこのお墓に来て、ひとりで詩吟詠いました。西郷南州作「弔亡友月照」。唐牛さんの優しい笑顔思い出しました。60年安保全学連委員長の唐牛健太郎のことは、私は小学生でしたから知りません。私の知っているのは優しい笑顔の健太郎さんです。
前々日から飲み続けでしたが、その日も飲んで、真喜子さんたちと一緒の飛行機で帰ってきました。その晩は疲れていたので早く寝ました。夜中私は恐ろしい夢でうなされました。女房におこされて、でも恐ろしい夢の内容は黙っていました。
私が見たのは、二人の男が血だらけになり目から涙とも血ともいえるようなものを出しながら、相手の脳を食い合っている夢だったのです。……そうです、あれが日本の革命とやらの姿、ブンド(共産主義者同盟)と革共同(革命的共産主義者同盟)の姿なのです。
この日本の革命のことは、戦前のことも、そして戦後のことも検討総括しなければならないと思っています。とくに私自身もその中にいた戦後の60、70年代はいつかまともに総括しなければならないでしょう。
まずは私自身は小学6年生でしたから、テレビでくらいしか知らなかった60年安保とその中の何人かの当事者を、またその当事者が描いた本を紹介しましょう。

書 名 60年安保 センチメンタル・ジャーニー
著 者 西部邁
発行所 文藝春秋

私はこの著者と直接話したことあります。埼玉大学の先輩である小野田襄二のイベントで小野田さんの対談者として招かれ、そのあと一緒に飲みました。私は西部が、なにか自分のことを保守派のブレーンのことのようにいうが、それは西部の自民党への片思いであり、西部自身はやはり60年の左翼の最良の部分をひきづっているひとだと思っていました。この本がそうですからね。
ところが、まず私の前で他の評論家が「吉本なんて、あれはもう駄目だよ」なんていったのにうなずいているのです。私は当然「どうしてなんだ」とつめよります。私はしつこいんですね。いくらきいてもうまく答えてくれません。まあそのうちその場は収まったのですが、今度は私の方から挑発的に彼が東大を辞職した件で、中沢なんかの悪口を言い始めました。なんで西部が中沢なんかいいというのだ、と。西部怒って店飛び出して、二度と帰ってこなかった。 実はイベントのときも小野田との対話で急におこって会場でていってしまったのだけど、また戻ってきてくれました。だけど今度は駄目でしたね。なんだかそれだけの人なのかなという思いが残りました。

ともあれ、この本は彼の著作の中で一番いい作品だと思います。少なくとも私は、読んでて著者の視線に好意をもつことができます。
この本の中で大きな章で扱われているのは、唐牛健太郎、篠田邦雄、東原吉伸、島成郎、森田実、長崎浩の6人です。私は唐牛さんと島さんにはお会いしました。多分今後篠田さんと、長崎さんにもお会いする機会があるでしょう。森田さんはもう政治評論家だから、テレビの画像でしか見れないのかもしれない。でもみんな魅力にあふれた方たちですね。
若き彼らが、全学連主流派ならびにブント(共産主義者同盟)を率いてあれだけの闘いを展開できたことはまったく驚くべきことです。いうまでもなく、60年安保闘争は、民主主義擁護の闘いでも、反米の闘いでもありません。勿論社共や知識人はそうとらえていたようですが。

また、当時も現在もかわらないわたしの基本的なかんがえでは、
改定安保条約は、日本国家=憲法の対米従属の表現ではなくて、
戦後日本資本主義の安定膨張と強化に伴い、米国と対等の位置を
占めようとする日本国家
資本主義の米国との相対的な連衡の意志を象徴する法的な表現で
あった。…………。それゆえ、昭和三十五年六月十五日に最大の
表現を見出した一連の行動は、岸政権によって保持されている憲
法=法国家を本質的に対象とする思想の表現であり、これを媒介
とせずしてはどのようなたたかいも維持されないという理念にも
とづいていた。
(吉本隆明「思想的弁護論−六・一五事件公判について」)

この基本的認識の中でブントとはいったい何だったのか。

ブントが独得なのはトロツキー教条主義とはまったく一線を画
していたという点である。ブントはトロツキーを好いたが、信じ
はしなかった。旧左翼のスターリニズムを払拭するためにトロツ
キズムを利用したのだといっても過言ではない。ではレーニンを
信じたのであるか。レーニンによる組織化の戦略・戦術は、ブン
ドが行動を決意するときにはおおいに参照されたが、その行手に
組織の官僚化がまちかまえていることも明確に気づかれていた。
初期マルクスにみられたヒューマニズムについてはどうか。スター
リニズムのもたらす抑圧を批判するときには、それが美しい人間
性の物語を奏でてくれると知っていたが、同時に、反権力の闘争
が抑圧なしにすむと考えるほどブントは愚かでなかった。
いったいブントはなにを信じていたのか。ほとんどなにも信じ
ていないという点で、ブントほど愚かしくも傲慢な組織は他に例
がない。彼らにも理論や思想のかけらはあったし、それを体系化
しようという努力もなくはなかったのだが、要するに信じるに価
するものを獲得していなかったので ある。
たとえば、新安保条約についていうと、それが日本の力が向上
したことの印なのだとわかっており、それならば、新条約を阻止
することによって強化されようとしている日本帝国主義に、痛打
を与えよというのがブントの構えであった。明晰な理解であり、
明瞭な姿勢ではある。しかし、帝国主義とやらの現段階、それに
代わるべき体制、そこで生きる人間の生活など、要するにあらゆ
る根本問題にブントは蒙昧であった。マルクス主義の文献から自
分の情念に都合のよいところを抜き出してきて継ぎ合せるのがブ
ント流なのであった。

このブントが、革共同、関西革共同、構改派を抑え、全学連の主流派に踊り出る。その優れたブント主義、即ち「革命のための組織」「暴力主義」によって、60年安保を闘いぬく。「ブンドがつぶれるか、安保がつぶれるか」とまでの闘争。当然ブントがつぶれる。

ブントが進歩的文化人にとって代わる認識をつくりだしていた
というのではない。民主主義に代って自由主義の認識が考察され
たというのではない。ありていにいって、ブンドにまともな認識
などなかったのである。人材もいなかったし余裕もなかった。要
するに、馬鹿な若者の集まりにすぎなかったのだ。しかし、その
馬鹿さ加減のうちに、開かれた認識へといたる可能性がいくばく
か看取できたのである。マルクス主義も共産主義も糞くらえ、と
いってのける人間を少なからず含んでいたのが共産主義者同盟、
つまりブントである。そんな自由な組織は、そもそも組織といえ
るほどのものでないのであって、空中分解して当然である。

思えば、これでブントがつぶれてこれきりになればまだよかった。だが、しつこい活動家はまた、革共同へ、そして社青同へなだれ込む。そして、彼らが革共同の革共同主義「組織のための運動」に堪えられなくなったとき、革共同の第3次分裂で中核派と革マル派が生まれる。中核派はブントと革共同の混血児というよりは、やはりブントの暴力主義の子のひとりが、どうしてか革共同の名を名のってしまったという悲劇(いや喜劇かな)とだろう。社青同でもまた結局社会党に介入することなんかできず、解放派(現在の革労協)がうまれることとなる。そしていよいよ私たちの登場。
私は今のいわゆる「内ゲバ」、革共同中核派+革労協(社青同解放派)と革共同革マル派との戦争は、結局この60年ブントのブント主義と闘わぬ革共同主義の争いの流れだと思えるのです。まだまだ永遠に食い合っていくのだろう。私は唐牛さんのあの笑顔の中にこのことの苦しみが含まれているような気がします。

しかしこのながれの最初ブントの結成から60年安保闘争までの活動家の姿、その後の姿をこの著作はいい視線で描いていると思います。西部は最後にこう語ります。

人生の折返し点をすぎ、各人各様に死の影を背負うようになっ
たればこそ可能になるような、活力ある生というものもあるでは
ないか。もっとも困難なことについてもっとも関心をもつことが
過激性だとするならば、私の最後に発したいメッセージは、「お
のおの方、今度こそ本当に過激に生きようではないか」というこ
とに尽きる。

いいことばですね。結局これで西部は何とか保守派のブレーンになることが彼の過激性なのでしょうね。この著書が過去の自分への別れのつもりなのでしょうか。まあ頑張ってくださいとでもいうしかありません。

しかし私は、彼の最近の言動をみると首を傾げたくなることあります。私の住む我孫子市民会館へ、「俺は暴走族が嫌いだ」といって、暴走族ではない人に鉄パイプで殴りかかり、逆に反撃され亡くなった毎日新聞記者のことで講演にきました。暴走族は許せないということだったと思います。じつにあの事件は彼がかなりなキャンペーンはっていたようです。しかし、はたしてあの事件はそうなのですか。あの傷害致死に問われた被告は、元暴走族というだけで、あの事件のときも無関係なのにからまれちゃったのですよ。暴走族は私も嫌いですが、元というだけで罪にとらわれ、キャンペーン張られるなんて、そんなことありますか。いったいナチスやスターリンのやったことと同じじゃないですか。これが西部のいう「本当に過激にいきよう」ということなのですか。
西部がこの著書で60年安保およびブントにこれでおさらばするように、私も西部邁にこの本でさようならをいいたいと思います。(1990.11.01)

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11031711書 名 破天荒伝
著 者 荒岱介
発行所 太田出版
2001年2月21日第1版第1刷発行
読了日 2001年3月19日

 この本の前半に書かれていることは、私も同じ時間同じ場所にいたことがいくつもあり、かつ私がいない時間場所でも、実によく知っていることばかりなもので、それこそ懐かしく思い出すことばかりでした。私はブンドには好感をもっておりましたが、「戦旗派」はどうにも好きになれない存在でした。でも、この本を読んでいろいろなことが判った気がします。

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新聞名 図書新聞第2937号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年10月17日
読了日 2009年10月9日

 昨日この新聞を手にとりまして、「あ、二木さんだ」と声をあげました。たしか彼とは数年前に日比谷公園から東京駅まで一緒にデモをしたことがありました。
 昨日は、酒も飲まず(いや実は熱を出して、『きょうは止めよう』と思ったのでした)、この二木さんの記事を読みました。

評者◆二木啓孝(聞き手・小嵐九八郎) ジャーナリストの原点は学生運動に――二木啓孝氏に聞く 60年代・70年代を検証する

 この方は1949年生まれなのですね。私は私と同じお歳(周は1948年昭和23年5月30日生まれ)だとばかり思い込んでいました。それにこの方は鹿児島にも住んでいるのですね。そうすると同じ時期に鹿児島市にいたわけだ(周は小学校6年6月昭和35年から、高校1年7月昭和39年まで)。
 でもこの方はブンドの情況派でずっとやっていられたのですね。この情況派なんて実際には接したことがありませんので、私は活字で読むだけですね。でも読んでいまして、よく判る気持がしました。そもそも、やっぱり三派全学連であり、そしてブンドが中心だったのでしょうね。
 でも雑誌『情況』をずっとやられていたのですね。情況出版か、なんて思いました。そして情況派と雑誌『情況』は関係があったと考えてもいいのかな、と思ったものです。
 そうですね。最後の二木さんの言葉を以下書きます。

 最近思っていることは、苦労は報いられないと思ったほうがいいということです。苦労は報いられるから頑張るのではなくて、報いられると思って苦労すると裏切られる、そんなことは嘘だとわかるということがあるわけです。どんどんあがけば、報いられるということの意味がちがったものになってくるんじゃないかと思います。自分をみても、志というほどの志はないけれど、一個一個、そこであがいてきましたね。これからもあがくでしょうね。

 私も当然ずっとあがいていくと思っています。

評者◆秋竜山 地方の空気?、の巻

で、「堀井憲一郎『落語論』(講談社現代新書、本体七二〇円)で、〈落語は都市にしか存在しない〉が面白かった」というところで、この本を読んでみます。

 私はこうしてこのブログに記録して、それで本を探すのです。自分でメモしても無くします。まだ自分にケータイメールしたほうがいいです。このブログに記録があれば、いつでも参照できます。

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新聞名 図書新聞第2934号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年9月19日
読了日 2009年9月12日

 いつも思うのですが、この新聞を読んでも、日経新聞を読んでも、もう私には、新聞そのものよりも、パソコンの画面で読んでいたほうが読みやすいのですね。なんだか、もう新聞紙というものが、私には読むのに向いていない思いがします。この号も新聞紙よりは、やはりインターネット画面で読んで、「あ、こんなことが書いてあるんだ」と感心したりしています。
 一面の「日本赤軍私史――パレスチナと共に重信房子 河出書房新社」についての三上さんの文章もまた、私は新聞よりも、改めてインターネット上で読んで行って、興味が持てたものでした。

評者◆三上治 意識的な生の現在的困難さ重信房子のアラブ行きは、宿命という他ない

 僕が重信房子にはじめて会ったのは1965年か1966年だった。確か彼女は詩を書いているということだったが、髪の長い少女という記憶が残っている。〜彼女は笑顔が素敵な活動家になっていた。

 これで、「なるほどなあ」と当時の重信房子の顔が甦える思いがしました。思い出せば、1966年というと私は高校3年生だったのでしたね。
 でもこの味岡さん(三上さんの名前です)の文は、いくらもいろいろな思いを抱かせてくれます。
 1969年のことであるらしいのですが、次のように書いてあります。

映画関係者に会うためにそこに行き、その場で彼女に会った。彼女はアラブに行きたいがどう思うかと聞いてきたように思う。僕はやめた方がいいよと言った。このことは後々まで気になった。塩見孝也や田宮高麿、あるいは森恒夫らとブンド内部で論争していた時期以降の赤軍派がどのように活動しているのかを、僕はもう分からなかった。赤軍派から連合赤軍にいたる一方で、アラブへ行く面々が分岐していく過程は複雑であったのだろうが、本書で書かれているように、彼女は森恒夫とは体質的に合わなかったのだろうと思う。僕らが持った彼女の明るい印象と豊かな感受性は、森とは合わなかったと推察できるからである。その意味では彼女がアラブに行ったことはよかったのだと思う。そうでなければ彼女は連合赤軍に参加し、真っ先に粛清の対象になったと思えるからだ。彼女のことを思うと、ここはいつも思い出すところであった。

 思えば、私はこの69年は大変な年でした。1月19日に東大安田講堂で逮捕され、8月20日に保釈で府中刑務所を出所し、でも9月18日の芝浦工大事件で、私はこの年の12月10日に浦和地裁の前で逮捕されました。
 でも思えば、ブンドも大変な時期だったのですね。でも味岡さんが、「彼女がアラブに行ったことはよかったのだと思う」と言われるのは、充分納得できるのですが、でもでも悲しいことですね。なんだか、もう左翼というのは嫌なことばかり抱えてきたなとしか思えません。

評者◆杉本真維子 「ふと」の彼方へ

 彼女は「ふと」という言葉のことを書いています。ふと思い出したりすることが私にもあるわけですが、このふとしたことを、どこからか、誰かからの届いた石のように思う心は私にもあるのです。

この誰かからの石を、拾った、という感触をもった私自身が、「思い」が届く、ということへの、まぎれもない証人なのだと、信じられないことに、信じられるのだ。

 またきょうも、いくつものことをして、いくつものことを思い出して行くことでしょう。

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新聞名 図書新聞第2886号
発行所 蠖渊饋景
定 価 240円
発行日 平成20年9月20日
読了日 2008年9月18日

 3面に、「重信房子氏に聞く(下) 60年代・70年代を検証する 全共闘の魂はアラブを駆け巡った」(評者重信房子 聞き手小嵐九八郎)という文章があり、なんだか「全共闘の魂はアラブを駆け巡った」という見出しに違和感しか感じませんでした。「何を言っているのかなあ?」という思いでした。
 でも、この号の(下)だけでなく、(上)も読んでみようと、この2886号から定期購読になりましたので、インターネットで手続きをして、この図書新聞のホームページで、前号を読んでみました。
 そうすると、前号では、重信房子が明治大学に入った時代のことから、明大学費闘争のこともその後のブントの分派闘争の時代も書いてあり、興味深くは読むことができました。思えば、聞き手であり、この文を書いた聞き手である小嵐九八郎さんの文章であるから、よく読んでいくことができたような思いがしました。
 この文の最後に、東京拘置所で「握手の代わりにアクリル板ごしに互いの掌を合わせて別れた。」とあります。おそらくは、今後最高裁でも彼女の刑は変わらないでしょうから、長い刑務所生活にもなるのですね。
 1970年からでも、もう40年になろうとしています。もうこの年代からの刑務所暮しというのは、実に大変なことだろうな、とそんなことばかり思っていました。

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 私のこのブログにはアクセス解析がついています。それを見ると、このごろ私が書いています「まねきTV裁判」関連でおいでいただく方が多いのですが、実は圧倒的にここにおとずれてくれる方が多いのは、「日経新聞 青木昌彦 私の履歴書 姫岡玲治」というようなキーワードのいくつかの組み合わせでなのです。もうこれには驚いてしまいます。私は、量的にもたいして書いてはいないとしか思えないのです。
 私は 青木昌彦の「私の履歴書」で、次のように書きました。

実際に毎日読んでいきますと、予想した通りではあるのですが、新聞で読むというのは大変に面倒です。できたら、インターネット上で読みたいと思いましたが、見当たりません。前には、どの新聞の記事も有料で読めるサービスがあったのですが、今はそれにどうアクセスしたらいいのか判りません。

 それで、昨日やりましたら、私はniftyで、新聞記事情報を取得していたのでした。何故か、niftyのパスワード等も自然に指が覚えていて、入ることができました。でも今判ったことは、niftyでは、今は日経新聞は記事を見ることができないのですね。
 私が以下にUPしているものですが、

   http://shomon.net/seikei/baburu.htm  バブル再考の再考

 これは、私は1992年9月に、「マネー問題研究会」というところが日経新聞に書かれていた論文を、私がこのniftyでダウンロードして、私が少し能書きをつけて、当時の私が属していたパソコン通信ネットにUPしたものです。でも、全部UPできていないのは、実は私のパソコン内のものが欠けている部分があるからなのです。だから中途半端なままです。
 でもあの頃は、日経新聞もこうして有料で読めていたんだなあ。今もできるんだろうけれど、もうどうしたらいいのか判らないのです。

 それで、この青木昌彦さんの「私の履歴書」は読んでいて、「ああ、この部分について、私の思いも書きたいなあ」と思うところが多々あるのですが、なかなか実際に書けないのです。
 でも今朝の青木昌彦「私の履歴書」第14回で、最後の部分を引用します。もう、「いいなあ、これが左翼の仲間だよなあ」と思ったものです。

 夏の終わりにやっとビザが下りた。六四年の八月末、羽田空港には島成郎、生田浩二、唐牛健太郎、西部邁らブント時代の仲間が総勢三十人前後も見送りに来てくれた。思えば、そこは四年余り前に我々が根こそぎ現行犯逮捕された場所だ。お互いそのことは胸に秘め、飛行機が離陸にかかると、空港ビルの屋上で大きく手を降り、叫んでいるブント勢に別れを告げた。

 私は、島成郎、唐牛健太郎、西部邁さんとはお会いしたことがあります。でも唐牛健太郎さんも、島成郎さんももう亡くなられましたね。
 でもこうして、あの時代、こうした前の左翼仲間が渡米を送りに来てくれたというのは、いいことだなあ、と感激します。もう立場はみな違うのでしょうが、それでもこうして昔の仲間をみんなで送るのです。こうした感じは、私の時代に学生運動をやった仲間も同じように思います。ただし、やはりいわゆる全共闘時代というのは、少し感じが違うかなあ、と思いました。私は、日大全共闘も、東大全共闘も好きでしたが、どうしても少し違うかなあという気がしてきました。やはり全学連というのが、何故かいいのかなあ、という気がしてきました。
 全学連と言っても、社学同やマル学同中核派や社青同解放派(あと社学同ML派と社青同国際主義派も)とは、私はどうしても嫌でしたが(私は反共を強く唱えていました)、全学連というのが(その頃は三派全学連でしたが)よかったのかなあ。

 今後も、この青木昌彦さんの「私の履歴書」を読んでいきます。

 青木昌彦の「私の履歴書」へ

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201808060175fbddc4.jpg 日経新聞の最終面の「私の履歴書」が10月1日より、青木昌彦になりました。私はこれを最初に見たときから、「オッ、ひさしぶりに読めるなあ」という思いを抱きました。
もちろん、経済学者・スタンフォード大教授としての文章なら、他でも読むことができますが、この「私の履歴書」である以上、彼が姫岡玲治というペンネームで書いていた論文についてのことも、その頃の思い出も書かれると思ったものです。
その頃の思い出とは、60年安保闘争での全学連を指導したブンドのことを書いてくれると思ったからです。実際に毎日読んでいきますと、予想した通りではあるのですが、新聞で読むというのは大変に面倒です。できたら、インターネット上で読みたいと思いましたが、見当たりません。前には、どの新聞の記事も有料で読めるサービスがあったのですが、今はそれにどうアクセスしたらいいのか判りません。とりあえず、まずはこの日経新聞の「私の履歴書」を興味を持って読んでいるということを書いておきます。
思えば、社学同の「理論戦線」にあった姫岡玲治の文章を読んだのは、いつのことだったでしょうか。今は我孫子の自宅ではないので、この「理論戦線」も手にすることができません。
実は、先週のある日、ある会社の社長が、この日経の「私の履歴書」を手にして、私に語りかけてきました。彼は私より一つ上ですが、昔京都にいて、この青木昌彦さんとは接触があったようです。私もちょうど毎日この文章を読んでいるところでしたから、思えば私たちの世代にも、姫岡玲治−青木昌彦は、かなりな存在感があったものだと思いました。

青木昌彦の「私の履歴書」の2 へ

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