将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:マタイ傳

13041903 昨日の21時25分に周の『独楽吟のススメ』の破茶さんから、以下のメールをもらいました。このメールはもっと長いのですが、次はその一部です。

キリスト教は旧約聖書だけを信じるイスラム教と違いキリストの出現、死、死からの復活を信じる教えです。私は 過去、いろいろな苦しみを経験し教会に行って何だか苦しみから解放されたような気がして今に至っています。

 そして

 http://www20.tok2.com/home/takapan/kdm/csm0706.html
        タラントンのたとえ

が書いてありました。
 これで分かったわけですが、ルカ傳第19章マタイ傳第25章と同じことが書いているわけです。私は早速マルコ傳と書いていた誤りをマタイ傳と訂正しました。
 ありがとうございました。

 私はキリスト教の信仰はないわけですが、こうして教えていただき実にありがたいです。

2017073103 私が今ずっとUPしています「聖書」のマルコ傳ですが(この前には「マタイ傳」をUPしました)、それで私が「新新宗教」について考えて、私のこのサイドバーにある「グーグル検索」で、「このブログ内を検索」をしますと、以下のようなものが出てきました。その一部を以下にあげてみます。

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2012年05月17日吉本隆明鈔集463「宗教」
宗教というのは人間(人類)の精神的活動の始源になったものだ。これは様々な形をとって現在(二〇〇六年)にまで至っているが、大別すればその変遷は二つにわかれるといえよう。ひとつは外形を著しく変化させて倫理道徳になったり、さらに法律になったり、民族国家やその下の日常的な生活社会になったりして現在に至っている。もうひとつの精神活動は外形は宗教の形をとりながら、キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教、儒教や神道など、地域種族のちがいによって、さまざまな宗教を生み出している。
(『還りのことば』2006.5.1雲母書房「まえがき」)

これほど明確によく言いきってくれているものです。概念としては判っているつもりでしたが、こうして言葉で書かれるとはっきりしてきた思いが私にはしています。宗教の中で、いろいろな形があることよりも、宗教が、倫理道徳になったり、法律になった元なのだということが今の私にははっきりしてきている思いがします。

2011年04月10日吉本隆明鈔集「宗教」
ちょっとかんがえると、宗教は阿片であるとか迷妄であるとか簡単に片づけられそうにみえますけれど、しかし、なぜ人間が宗教的あるいは観念的には、馬鹿馬鹿しいくらいの迷妄になりうるかということの根柢は、そうたやすいものではありません。なぜたやすいものでないかといえば、そのほんとうの基盤は、最初に申しあげましたように、社会そのものの現実的な要素の中にあって、迷妄はその一つの象徴たるにすぎない面があるからです。それからもう一つは、観念の問題としての伝承、つまりこれは、言葉を通して、言葉として残されたものを通してというのが多いわけですけれど、伝承されたものから影響を受けやすいという、そういう両方の面から、迷妄性の根柢は、かなり深いように思われます。だから、人間の観念的な可塑性とは、ほんとうは、いかようにも迷妄になりうるし、また、いかようにも科学的にもなりうることを指しています。
(「国家と宗教のあいだ」原題・緊急の思想的課題1970.4.29西荻南教会主催講演於杉並公会堂  「海」中央公論社1970.7月号に掲載  「知の岸辺へ」1976.9.30弓立社に収録された。「信の構造Part3全天皇制・宗教論集成」1989.1.30春秋社に再録。「語りの海吉本隆明1幻想としての国家」1995.3.18中公文庫に再録)

このことをよく踏まえておかないと、宗教のみならず人間の観念性を見誤ってしまうのだ。人間は観念的にはどのような異常性も狂気性をも持ちうるのだ。その自分の特殊な観念を世界に普遍なものと思い込んでしまう。だから一見馬鹿馬鹿しい迷妄さも、全くの科学性も同じところに存在してしまうことがあるのだ。

2011年11月08日吉本隆明鈔集272「新新宗教と超人的」
中世の浄土教とか日蓮宗とか曹洞宗とかの当時の新興宗教は、超人的というのはやめようじゃないか、つまりこれは倫理の言葉とか倫理の行いとかに直さなかったらだめなんだというかたちで、それぞれの宗旨、宗派はちがうんですがやったようにおもいます。なんといったらいいか、倫理的な教義の純粋化といいますか、純粋化と倫理化がいっしょになってというかたちであったとおもうんです。現在の「新新宗教」はその逆であって、旧来の倫理がだめじゃないかとおもわれはじめたときに、いままであった倫理を解体してもう一度新しく通用する倫理をつくろうとするところはどこにもなくて、従来の倫理は基本的に終っちゃったというかたちになっている。やっぱり超人的なことにもう一回入っちゃっているような気がします。

(1992.9、10田原克拓によるインタビュー 「時代の病理」1993.5春秋社に収録)

  昔の新興宗教といわれていたものと、今日の新宗教はかなり違う。それで新新宗教と名付けているわけだ。おおきな特徴がこの超人的ということである。教祖なりがかなり超人である。昔の新興宗教の教祖がただの主婦であったり、ただのおっさんであったりしたのとはおおきく違っている。それは現在の若者なりの抱く悩みなりの要素がかなり違ってきているからだと思う。
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私は明治から昭和戦前の新宗教と、ついこのごろの新新宗教とは大きく違うことを考えています。これは今日の午前10時頃、ここの自宅のポストに今の新13020205新宗教の本が投げ込まれたからです。それでしばし考えたものなのです。
私が歩く路でも昔の新宗教の看板を掲げているところがあり、でも今の若い人(と言ってももう新新宗教の人もそんなに若くないだろうが)はもう「超人」でないと魅力はないのだろうな。
でもまた今は違ってきていると思います。

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13012913  けっこう寒いですね。
  ずっとマタイ傳を書いていたのですが、今日さきほどで終わりました。このあとはマルコ傳も書くつもりでいます。
 最初マタイ傳を始めたときには唯円『歎異抄』も書いたものでした。 今後もまたやり続けます。

X12120913わが悦ぶところの斷食はあくの繩をほどき軛(くびき)のつなをとき虐げらるるものを放ちさらしめ すべての軛ををるなどの事にあらずや
また飢たる者に汝のパンを分ちあたへ さすらへる貧民(まずしきもの)をなんぢの家にいれ裸かなるものを見てこれに衣(き)せ おのが骨肉に身をかくさヾるなどの事にあらずや
しかる時は汝のひかり暁の如くにあらはれいで 汝すみやかに愈(いや)さるることを得(え) 汝の義は汝の前にゆき ヱホバの榮光はなんぢの軍後(しんがり)となるべし
また汝よぶときはヱホバ答へたまはん  汝叫ぶときは我ここに在りといひ給はん
もし汝のなかより軛(くびき)をのぞき指點(ゆびさし)をのぞき惡(あし)きことをかたるを除き
汝の靈魂の欲するものをも飢たる者にほどこし 苦しむものの心を滿足(みちた)らしめば 汝の光くらきにてりいで なんぢの闇は晝(ひる)のごとくならん

 ときどき『舊新約聖書』を開いています。ただいつも『新約聖書』の『マタイ傳』を繰り返し読み、またこのごろは『マルコ傳』も読むようになりました。みな吉本(吉本隆明)さんのおかげです。
 でも今日は舊約聖書の『イザヤ書』を開きました。
 いやなに、私にはキリスト教で言っていることなど分かるわけがなく、ただ王子教会から郵送されたものを開いただけなのです。
 私には、それでしか聖書に近づくことは、他には分かりようがないのです。ただ、吉本隆明さんの『マチウ書試論』を読んで『マタイ傳』を読むことを知り、『喩としてのマルコ伝』を読んで『マルコ傳』を読むことも知ったものです。
 以下のインターネット上の聖書はいつも開いているものです。私のサイドバーでリンクもしています。X12120914

  文語訳旧約聖書
  文語訳新約聖書

 こうして私のような否宗教的なものにもいつも何度でも読めることには感激感謝しています。

12110903 聖書はいつも読んでいます。そばにあるから、開くのは楽なのです。

2012/11/09 06:14自分の部屋から『舊新約聖書』を持ってテレビの前へ来ました。またマタイ傳、マルコ傳を読みます。いつもこの文語訳『聖書』は読んでいます。今度はルカ傳も読んでみようかなあ。
 私はこの『聖書』を読んで七言絶句を書こうと思っているのですが、なかなか語句も考えるのも大変です。
 思えば、このポメラでやっていこうかなあ。
2012/11/09 09:40吉本(吉本隆明)さんの「『第二の敗戦来』春秋社」を持って来ました。

 吉本隆明さんをいつでも本が読めるようにしています。

12110816 いつも読んでいます「舊新約聖書」を開きました。そのマタイ傳の一節です。

三節幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。
四節幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。
五節幸福なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。
六節幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。
七節幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。
八節幸福なるかな、心の清き者。その人は神を見ん。
九節幸福なるかな、平和ならしむる者。その人は神の子と稱へられん。
十節幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。

 私なんかは聖書はよく分からないのです。いや聖書に限らず、こうした宗教に関したものは私にはどうしても縁の遠いものです。
 でも吉本(吉本隆明)さんの『マチウ書試論』を読んで、いつもマタイ傳は開くようになったものでず。

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 手紙を書きました に「新約聖書」のヨハネ傳の一節を抜き出したことで、私のすぐそばにこの聖書が置いてありまして、少し前にまた読んでいました。
 でもやはり私には「聖書」はよく読み込めないですね。結局はまた「マタイ傳」を読んでいました。マタイ傳のみは、私には実によく読んできたものですから、何度でも読んでいても、またその言葉、情景が浮かんできます。
 マルコ傳も読んでいても、まだまだ私には、慣れ親しみません。マルコ傳の最後を抜き出してみます。

 其ののち十一弟子の食(しょく)しをる時に、イエス現れて己(おの)が甦へりたるを見し者どもの言(ことば)を信ぜざりしにより、其の信仰なきと、其の心の頑固(かたくな)なるとを責め給ふ。かくて彼らに言ひたまふ『全世界を造られしものに福音を宣傳(のべつた)へよ。信じてバプテスマを受くる者は救はるべし、然(さ)れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。信ずる者には之等(これら)の徴(しるし)ともなわん。即(すなわ)ち我が名により惡鬼を遂(お)ひだし、新しき言(ことば)をかたり、蛇を握るとも、毒を飲むとも、害を受けず、病める者に手をつけなば癒えん』
 語り終えてのち、主イエスは天に挙げられ、神の右に坐し給ふ。弟子たち出(い)でて、あまねく福音を宣傳(のべつた)へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴(しるし)をもて、御言(みことば)を確(かた)うし給へり(マルコ傳福音書16章14節から20節)

 こうして、11人の弟子たちは、これから全世界にキリストの言葉を伝えにいくわけなのですね。
 私もマタイ伝だけは何度も読んできましたが、次には、このマルコ伝をちゃんと読んでみるべきかなあ、なんて今思っています。

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