10091523 私はときどき『聖書』を開いています。私は佛典も読むようにしているのですが、どうにも難しすぎる思いです。とくに『禅家語録』はいくら読んでも判りません。それに道元の書かれたものはいつ読んでも親しめないものです。「自立本願」ということは、「ひたすら勉強せよ」といわれているみたいで、どうにも親しめないのですね。
『聖書』では、いつも『マタイ傅』を開いています。私の好きな吉本(吉本隆明)さんの『マチウ書試論』はいつも何度も読み返しているものですが、でも「マルコ傅』はどうしてもまだ親しくなれないものです。でも今回『聖書』のこの二つを読んでみました。二つの最後をあげてみます。

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 十一弟子たちガリラヤに往きて、イエスの命じ給ひし山にのぼり、遂に謁えて拜せり。されど疑ふ者もありき。イエス進みきたり、彼らに語りて言ひたまふ『我は天にても地にても一切の權を與へられたり。されば汝ら往きて、もろもろの國人を弟子となし、父と子と聖靈との名によりてバプテスマを施し、わが汝らに命ぜし凡ての事を守るべきを教へよ。視よ、我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり』(マタイ傅第28章)

 其ののち十一弟子の食しをる時に、イエス現れて、己が甦へりたるを見し者どもの言を信ぜざりしにより、其の信仰なきと、其の心の頑固なるとを責め給ふ。かくて彼らに言ひたまふ『全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよ。信じてバプテスマを受くる者は救はるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。信ずる者には此等の徴ともなはん。即ち我が名によりて惡鬼を逐ひいだし、新しき言をかたり、蛇を握るとも、毒を飮むとも、害を受けず、病める者に手をつけなば癒えん』語り終へてのち、主イエスは天に擧げられ、神の右に坐し給ふ。弟子たち出でて、あまねく福音を宣傳へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言を確うし給へり〕(マルコ傅第16章)
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『マルコ傅』のほうが『聖書』の中では古いものなのでしょうか。これから『マタイ傅』のようにまとめられたというように思えます。またマグダラのマリアの扱いも違うように思えてきます。
 でも『聖書』はインターネット上でもいつも参照することができ、実にいいです。もうすぐ、この日本でも「キンドル」で、この『聖書』もいつでもどこでも読めるようになるでしょう。そうなったときに、さらにこの『聖書』も私たちに身近なものになってくれると思っております。