将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:ラッシャー木村

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 私は本日10時から「愛整骨院」で治療でした。その治療のときに、私はベッドに横になりながら、ラッシャー木村を思い出していました。
 私のクライアントで代々木上原に8階建てのビルを借りていたことがあります。私はそこに週1くらいの頻度で訪れていました。そこであるときに道路上でこのラッシャー木村さんに会ったことがあるのです。
 私はものすごく感動し、彼が去ってから、すぐに「ラッシャー木村がいたよ」と電話しました。でもその電話に出たその会社の女の子は、まったく感動なんかしないどころか、「何なの………?」という感じでした。
 でもあんなことが現実にあったのでしたね。

 懐かしい思い出です。
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12033105 私の2012年3月27日のポメラの2目森一喜さんが以下のコメントをくれていました。

1. Posted by 目森一喜   2012年03月27日 17:52
 朝の通勤電車の中で日経新聞を読んでいる男性がいました。後頭部にペラペラあたって迷惑でした。朝のラッシュの中で新聞を広げる非常識さはさすがに紙の新聞を読む人らしいと感心しました。この人が日経読んでも何にもならないのは明々白々だとも思いました。
 いくらダメな日経でも、ちゃんと理解できれば、タブレットなり何なりで情報を取得して行くのが当然なのだとわかるはずなのに、ダメさをさらしている人を見るのは嫌なものです。

 私は電車の中で新聞を広げたのは、25年以上前に東京スポーツを毎日広げていました。でも私はあの頃は、国際プロレスの熱烈なファンで、ラッシャー木村のファンでしたから、どうにもどこの飲み屋でも話が合わなかったものです。
 今はガラパゴスを広げて、日経新聞は読むのですが(家には日経の紙の新聞が配送されます)、でもサ、日経って、馬鹿が読む新聞(あ、だから私は当然その馬鹿です)としかおもえないのだよなあ。キリンビールとサントリーが合併という一面TOPの見出しで、私は双方の株主を真剣に考えたものでした。でもあれはどうなったの?
 それと、住友金属と三菱重工の合併のニュースも、一面に載っていましたが、もうそのときには、前のキリンとサントリーのことがあったから、もはや信用しませんでした。

 大昔NIFTYの本社に私の親友の掘雅弘さんと行ったことがあります。記者会見と懇親会があったのです。私も「取材」と称していました。読売、朝日新聞等が一番前にいます。でもなんといいましても、日経新聞グループはたくさんの新聞が来ていまして、朝日新聞の記者の質問には、失笑が漏れます(だって、たしかに朝日新聞は産経新聞と同様に、阿呆なのです)。
 そのあと懇親会になって、そのときには、みなビール飲んで、ただ飲み食いしている中、堀雅裕さんがビールを飲みながら、カメラも構えて、NIFTYの社長にいっぱい質問していました。それがまたちゃんと彼の新聞には載るのです。このときでないと四流、五流紙は質問なんかできないのですよ。
 思い出せば、私もどうでもいい質問をしていたものですね。社長はパソコンをどう使っているのか、という質問ですね。それで、実はNIFTYの社長は、そのときは少し頭を書きながら、ワープロを使っていることでした(これはパソコン通信時代だから、ワープロだっていいのですが、私は実に驚いたものでした)。

 でもそんな時代も遠くに行きましたね。まあ、今でも日経新聞はくだらなく面白いですよ。

9c62c103.jpg 鎌取駅で待ってまして、今ようやくバスに乗りました。やっとじゅにに会えます。可愛い私の孫なのです。

  今日は暖かい日です。 でも今日は随分遅れちゃったな。 今は14時4分です。食堂にいます。

  実は少し前に、じゅにのお部屋にプロ野球選手が来ました。たぶん有名な選手みたいですよ。でも実は私は野球というのは、子どものときからまったく興味がないのです。

 好きなのはプロレスで、でもそこでもアントニオ猪木は、少しも好きではなく、好きなのは国際プロレスのラッシャー木村(もう亡くなりましたが)でした。10・8、11・22の試合は、蔵前国技館の特別リングサイドへ行ったものでした。 実に懐かしい思い出です。

11091103   Saturday, January 22, 2005 6:35 PM
熱いメールに感謝
萩原周二さん   Aです。
熱いメールをありがとうございました。

 北浦和から下大久保行きのバスには、残念ながら一度も乗りませんでした。でも、どこかで、会っていたはずですね。私は、サッカーに現をぬかす4年間でした。旧大宮の自宅から自転車や車で下大久保、文理地区などを移動していました。ある意味、萩原さんと対極の学生だったかもしれません。
 でも、4年生になって本気でたくさんの講義を受けて、学ぼうともしましたが、浅はかな未熟生であり、講義の内容に失望してしまいました。「教育学部」の中だけで物事を考えていた当時の私は「若さ」だけが突出していたのでしょうね。(実は、このことこそ、重要な意味をもつのですが・・「教育」を安易に考えている教育関係者が多すぎますね。「教育」こそ、日本再生のキーワードなのに・・)萩原さんのような、直接世の中と関わっておられた行動力が、私にはありませんでした。

 宮城まり子も斉藤喜博も、自身を律する意志の強さと子どもを育てようとする熱情は比類なきものがあります。葛飾北斎が絵画表現者(芸術家)そのものだけに生きようとする情熱を想起させます。まり子さんが指導した子の絵が平板になった時、その悩みを水上勉に相談しました。

  まり子ちゃん、子どもが幸せになっていくなかで、普通の絵し
  か描かなくなっても仕方ないし、それでいいの。

と語っていたのが印象に残ります。
 あふれんばかりの愛情を・命をかけてまり子さんは子どもに注ぎました。
「優しくね。優しくね。優しいことは強いのよ。」こんな深い愛を他に誰が実践できましょうか。一人ではなく何十人の子どもたちにわけ隔てなく。絵画作品群は、みんなまり子さんへの子どもたちの「ラブレター」でもありました。
 ですから、子どもが幸せになったり大人になったりしていく過程でまり子さんの存在の比重が軽くなっていく場合には、「普通」の絵になっていくのでしょう。
 北斎も「芸術」には渇望していました。80歳すぎても、長野県の小布施まで出かけています。出世・金策に現をぬかすことはなく、「芸術」に恋してしまったとしかいいようがありません。
 萩原さんも斉藤喜博の雄大なスケールをイメージされていますね。あのスケールの大きさは空前絶後でしょう。今、流行の「景山さん」「岸本さん」「斉藤孝さん」なども斉藤喜博の実践から学んだこともあるのでしょうね。

 で、プロレス。力道山のリングが始まると、体が震えて興奮したものです。ラッシャー木村によく似た友人がいました。すごくいいやつです。人の良さが木村に重なります。

 ご教示いただいたHP作成においては、ああ時間がない!と、いつもの口癖が・・・いけませんね。まったくパソコン操作は、ご覧のように下下も下下といったところで恐縮です。

 下の娘がダウン症で、私は、「スペシャルオリンピックス500万人トーチランinさいたま地区」の運営委員を担当しています。そんなこんなで、知的障害者のサッカー指導などで結構忙しくしております。
 もちろん、教職は無限の時間がかかります。教材研究はもちろん、日々の仕事が山とあります。どこまでやればいいかは限りがありません。「子どもの可能性」というとき「教師の可能性」も対として考えられますね。可能性を追求するとき、子どもももちろん活動するのですが、その活動を萩原さんは多面的に評価・解釈されていました。島小のルポとして、若かりし大江健三郎が残しました。多の方がさまざまな立場で豊かに語り継ぐことは、次の世代への財産となるでしょうね。
 昨日(金曜)のNHK3チャンネル「わくわく授業」で斉藤喜博を特集して
いました。

 お嬢さん、絵の専門家なのですね。斉藤喜博は、「絵の先生」はいい先生が多い。感覚がよい。と言っていました。どうぞ、これからもご活躍を祈っています。
 ああ、時間がない、技術がない・・などと言ってはいけませんよね。退職まで4年。したいことできることを進んでしましょう。などど自分に言い聞かせている今日この頃です。

 お酒はあまり飲みませんが、秩父の山はちょいちょい出かけます。命がけのようなことも何回かありました。その分、美しさを満喫できます。県1位の太さを誇るブナなども友人と一緒に「発見」しました。
 写真を添付しました。ニュースとして県内版・新聞各紙でも掲載されました。自然保護と「保養・行楽・旅行」と老人介護・障害者交流などをうまく関係付けられたら本望です。そんな仕事ができたらといつも願っているところです。

すみませんね。つい長々と。失礼しました。なんだか「同級生」のような気がして。

   Sunday, January 30, 2005 2:03 PM
Re: 熱いメールに感謝

 またこうして返事が遅くなってしまいました。

 1月21日に、私のブログを開設して、ちょうど10日目です。

   周の発言(これが現在の将門Webになっています)

 これが、たいへんに、反応がよくて、アクセス数も予想をはるかに超えていまして、それで大わらわです。開設する前は、1日に1回UPして、それを毎日やっていこうとは決意していましたが、初めてみると、そのたくさんの反応に、毎日一つの投稿では間に合わない感じでして、いくつもUPを続けております。

北浦和から下大久保行きのバスには、残念ながら一度も乗りませんでした。

 あ、そうなんだ、そんな学生さんもいたんだなと驚きました。

でも、どこかで、会っていたはずですね。私は、サッカーに現をぬかす4年間でした。

 サッカーといえば、私には次のような思い出があるのですが、

  69年の8月夜釜本が埼大でボールを蹴っていた
  (これはまたあとでUPします)

 Aさんは、このことはご存知でしたか。でもとにかく、古い昔の思い出です。

「教育」こそ、日本再生のキーワードなのに・・)

 私もそう思うときがありますよ。長女と次女とでよく話しているのを聞いていますと、ちょっと私には残念に思える先生もいるのですが、また素晴らしい先生方の存在も私には、感じられるものです。ぜひ頑張っていただきたいな。 私の次女のホームページが以下です。

  I'm brutus

 この中の先生になってからの話が、そばにいるものですからよく判ります。長女もホームページをもっていたのですが、やめてしまいました。これは私にはものすごく残念です。

「まり子ちゃん、子どもが幸せになっていくなかで、普通の絵しか描かなくなっても仕方ないし、それでいいの。」と語っていたのが印象に残ります。

 ああ、この水上勉さんの言われる通りですね。次女のクラスの子どもたちのことをよく聞きます。彼らの写真をよく私も見ます。みんな、いろいろなことがあるけれど、みんないい子どもたちです。
 私のとこころは、長女が結婚し、次女は彼氏と随分長くつき合っていますから結婚を考えなくてはいけないのですが、次女は、「この(今のクラスの)子どもたちと別れないとならない、と思うと結婚したくない」と言っています。 もう次女の子どもたちの話を聞いていると、私もそれはそうだよな、なんて頷いてしまいます。

萩原さんも斉藤喜博の雄大なスケールをイメージされていますね。あのスケールの大きさは空前絶後でしょう。

 私は今、斎藤喜博先生の本を2冊読んでいます。そしてたくさんのことを思います。ただ、私は今の学校の現状を見ると聞くと、もう斎藤先生のやり方だけでは、通じない時代ではないのかな、なんて思ってしまうところがあります。また、このことは私はもっと斎藤喜博さんを学んで、娘たちや、次女の学校のある先生(次女がとても信頼尊敬している同じ学校の同僚先輩先生がいます)と話していきたいと思っています(実はこの先生は45歳のとても好きになれる男性の先生なのですが、次女が会わせてくれません。「パパはひどい酔っぱらいだから」ということでなんです。でも私はその先生とこっそり連絡をして、こっそり会います)。

で、プロレス。力道山のリングが始まると、体が震えて興奮したものです。ラッシャー木村によく似た友人がいました。すごくいいやつです。人の良さが木村に重なります。

 私はラッシャー木村がずっと好きでした。以下の私のページでラッシャー木村の声を聞くことができます。

  周のプロレスの話
ここは、http://shomon.livedoor.biz/archives/cat_50028667.html周のプロレスの話、http://shomon.livedoor.biz/archives/cat_50028884.html周の雑読(プロレス篇)備忘録で成り立っています。

 またラッシャー木村への思い出も、今後私のホームページ内で書いていこうと思っています。

ご教示いただいたHP作成においては、ああ時間がない!と、いつもの口癖が・・・いけませんね。

 ぜひやってくださいよ。とくに、今はやっていますブログというのは実に簡単ですよ。私はその開設を楽しみにまっていますよ。

下の娘がダウン症で、私は、「スペシャルオリンピックス500万人トーチランinさいたま地区」の運営委員を担当しています。そんなこんなで、知的障害者のサッカー指導などで結構忙しくしております。

 そのような内容も書いていただければ、私の娘たちも娘の友だちも読むと思いますよ。娘の友人たちには、障害児教育にたずさわっている人もいます。

お酒はあまり飲みませんが、秩父の山はちょいちょい出かけます。命がけのようなことも何回かありました。
その分、美しさを満喫できます。県1位の太さを誇るブナなども友人と一緒に「発見」しました。

 そんなこともブログで発信していただけたらと思います。ブログは簡単に
写真を貼りつけられますから、いいんですよ。

写真を添付しました。ニュースとして県内版・新聞各紙でも掲載されました。自然保護と「保養・行楽・旅行」と老人介護・障害者交流などをうまく関係付けられたら本望です。そんな仕事ができたらといつも願っているところです。

 そうですね、そういうところを目指されるのはいいなあ、と思いますよ。

すみませんね。つい長々と。失礼しました。なんだか「同級生」のような気がして。

 いえ、私とは同じ大学出身の同級生で、もう友だちです。ぜひ、ブログ同士で、さまざまに連携していけたらな、と思っていますよ。萩原周二
(第234号 2005.02.07)

11030718 私はよくプロレスに関する論争をしたものでした。まずは、いろいろな飲み屋でいわゆる野球ファンとの論争です。「プロレスは八百長だ」などという野球ファンに対して、「野球こそが八百長じゃないか」なんて、激しく言っていたものです。そんなときの私のプロレス論をここにあげています。
 まだ少ししかUPしてありませんが、実のこの時代には、もっとたくさん喋っていたものでした。
 そして問題は、よくこうして論争していたゴールデン街では、野球ファン対プロレスファンは、6対4くらいの割合だったのですが、実にゴールデン街なわけで、いつもプロレスファンの言い方が野球ファンを圧していました。
 しかし、問題はその先なのです。
 プロレスファンというのは、プロレスファン同士になると、これまた激しく論争になっていくものなのです。そして、プロレスファンの党派的割合といいますと、猪木ファン9割と馬場ファン1割が戦っていました。もう猪木ファンが圧していまして、彼らは彼らの中でも論争をしていました。だが、その中にあって、私は唯一ただ一人ラッシャー木村ファンでした。私はもう猪木ファンとどこでも、限りなく論争言い合いを続けたものでした。
spt027 ラッシャー木村が猪木と初めて戦った、10・8と11・22の蔵前国技館にも、私はラッシャー木村を応援に行ったものでした。
 それが、たった今、ラッシャー木村の引退という事態を目の前にしています。なんだかいいようのない、寂しさと、そして恐ろしいばかりの時間の経過を感じています。
 できたら、私の「ラッシャー木村論」を書いて行きたいなとばかり思っております。(2004.07.19)

10112110 私のもともとのホームページの将門Webは、「周のプロレス塾」は結構な部屋だったのですが、今このサイドバーのバナーをクリックして、「あ、まずい」と思いました。もうこの頃は、何も書いていないのですね。

 私の「読書さとう」では、

  村松友視『プロレス3部作』
  ブル中野『金網の青春』

を書いたのですが、これじゃまずいよな。いや本の紹介だけでなく、いろんなことを書かなくちゃいけないよなあ。
 私は国際プロレスのラッシャー木村が一番好きで、猪木との対戦は蔵前国技館の特別リングサイトに行きまして、応援していたものです(でも応援と言っても、猪木プロレスは観客が殺気だっていて、木村の応援の声なんかあげられません)。
spt025 この木村に私は偶然代々木上原駅前で会いました。木村はそこに乗ってきた自転車から降りていました。私は感動して、その駅前の私のクライアント(8皆建てのビルで地下から8階までのすべてを使っていた会社でした)の2階の総務の女の子に、ケータイで伝えたのですが、その子は何も感動しなかったようです。(綺麗な子だったのに、私はものすごく、その子にもがっかりしました)。
 とにかく、私はラッシャー木村の大ファンでした。

09092610 六本木の森美術館のアイ・ウェイウェイ氏の作品 に書き始め、そしてその後では私のこのブログに引き続き画像を載せて行きました。氏の作品を掲載した書籍がありました。私は美術展に行きますと、そのカタログなり書籍を買います。自分であとで熱心に読まないと、目でみた作品がよく理解できないからです。
 あ、映画でも必ず解説のカタログを買っていますよ。
 それにこのときも会場では、解説してくれるマイクも手に持って耳にあてて各作品の前で聴いていました。その解説を聴きながら、そしてあとでカタログや本を読んでようやく少しはその作品が理解できるのです。

書 名 AI WEIWEWI ARCHITECTURA WORS 1999-2009
執 筆 Ai Weiwei
    Fake Design
    佐々木瞳(森美術館)
日本語翻訳 木下哲夫
制 作 森美術館/淡交社
定 価 2,667円+税
読了日 2009年9月26日

 この9月14日に森美術館で見たアイ・ウェイウェイ氏の作品は圧倒的な迫力でした。その自分の身で感じた迫力が何なのか、私はこのカタログ解説本を必死に眺め、読んでみました。
 私は中国は好きですし、とくに数々の漢詩を読んで、そして詩吟で詠うのが好きです。でもでもどうしても今の中国は嫌悪感を持っていまいます。中国共産党が嫌なんですね。
 ただ、このアイ・ウェイウェイ氏の作品を見て触れてみて、やはりあの大地とそこに活きる人たちへの感動を覚えました。やっぱり中国は私の好きなところです。

 あ、それから余計なことです。私はこの本の表紙を見て、「あ、ラッシャー木村だ」と声をあげてしまいました。私の一番好きだった国際プロレスのラッシャー木村の顔姿に、この本の表紙のアイ・ウェイウェイ氏はよく似ているのです(ここにその画像を掲げました)。

 もう私はそればかり考えていました。しょうがない私ですね。

0a25385a.jpg ラッシャー木村がいつも血だらけだったというのをよく覚えてくれていましたね。嬉しいです。私は蔵前国技館での10・8と11・12の猪木との試合に特別リングサイドで臨んでいたものでした。
 昨日も義母は午後5時から大変でした、とくに6時を過ぎると、自分の父親を探し、そのあとは「小さな子ども」を探しているのです。それで着替えて、何度も家の外へ出ようとします。もう私は義母の前に立ちふさがったり、身体を手で引き留めないとなりませんでした。もちろん義母にはそんな実力で身体を抑えるのは、大変申し訳ないなあと思っています。それでこれを数度繰り返し、それで私は妻が帰ってきてくれたときは、疲れ果てていました。夜9時頃眠ってしまっていました。なんだか私はクタクタに疲れていました。
 写真は24日谷中の「アラスアラサン」で手に入れた桜井桜花さんの写真の絵はがきです。これもどなたかにプリントして送ります。綺麗なお花で心が休まります。(10/28)

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「グレート草津が死んだ」を、目森窟さんがトラックバックしてくれました。

 すべて忘れていました。
 そうです。TBSのプロレスだったんです。ビル・ロビンソンもこっちだったと思います。日テレの方では、外人は絶対に悪役でしたが、TBSでは、ビル・ロビンソンがいい方でした。サンダー杉山もいたし、ラッシャー木村もいました。国際と名乗ってましたが、全日本よりもセコイ感じの、不思議な雰囲気の団体でした。

 そうですね。いくつも思い出してきます。ビル・ロビンソンはいいレスラーでした。人間風車という技のネーミングした人って、凄いなあと思ったものでした。

 でも全日本に登場してからのビル・ロビンソンはどうにもいただけなかった思いがあります。リングの上から投げキッスしている姿なんか、私は嫌でしたね。人間風車ビル・ロビンソンがそんなことをやるなよ、という思いでしたね。

 ダイナマイト・キッドもこの国際プロレスに始めて登場したし、アンドレザ・ジャイアントも、もともとモンスター・ロシモフという名で、ここへ最初に登場したのでした。

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 目森窟このUP がありました。

21日、プロレスのグレート草津が死んだ。
死因は食道ガン。66歳だったという。
忘れていた人が、死んだ。

 え、驚いてしまいました。「忘れていた人」が急に甦ってきます。あの姿、あの声……、不器用な方だと思いましたが、彼がリング上でマイクを握ってアピールしている姿を思い浮かべます。
 TBSプロレスという団体で、草創のときのメインレスラーでした。でも不器用でした。身体も大きいし、アメラグ出身で、もっと活躍するのだろうと思いましたが、タッグを組んでいたサンダー杉山のほうが器用でした。でもやがては、この団体は国際プロレスと言って、ラッシャー木村をメインにしだしました。最初は東富士もいたし、豊登もいたし、それに一番強いのは、実は社長の吉原だなんてことも言われていました。
 でもいつも、「グレート草津はどうするのかなあ?」という思いがありました。
 なにもかもが、どんどん追いやられていく気がします。さみしいです

 合掌します。

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