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 ナミちゃんが、この絵本を私が読んだことを書いてくれました

心優しい周さんの事ですから涙でいっぱいになってしまうかもしれないと
おもいましたが・・・。
お母さんのことを想いながら読んでくれました。

 そうねえ、この絵本を読みながら、ずっと母を想いました。厳しくて強い母でしたが、実に優しい母でもありました。
 私の埼玉大学の学生課の職員の方も、私の母は実に印象深かったようです。私はちょうど19歳の頃、大学の管理棟本部で、バス代値上阻止闘争のときに、私はハンガーストライキをやったのです。あのときは、日本共産党民青はまったくの敵対者であり、そして表面上は私たちの側である顔をしていた中核派も、実は私たちの敵でした。彼等は、もっと大きな闘いがあるのだということで、こんなちっぽけな闘争を認めませんでした。唯一たくさんの一般学生とでもいうべき広範な学生が味方であるはずなのですが、彼等は24時間大学にいるわけじゃないからね。
 でも大学は、私の親たちに連絡するといういわば卑怯と思えた(その頃はそう思ったのです)手段を取りました。それで、母が我孫子から、浦和下大久保の大学の管理棟まで来たのです。このとき、私の母と会った大学の職員は、今でも「あなたのお母さんが一番印象的だった」と懐かしくその思い出を語ってくれます。
 私が芝浦工大事件で、逮捕されたときにも、我孫子から朝霞警察まで来てくれて(もちろん接見禁止中ですから、会うことはできません)、差し入れてくれたものです。でも埼玉は、食べ物の差入れは(差入屋の弁当ならいい)できませんが、でも私の取調のデカは、それを母からあずっかって、私の取り調べのときに食べさせてくれました(もちろん、こういう温情はありましたが、取り調べは激しいよ)。この刑事もその後30年ぶりくらいに、偶然会うことがあったのですが、私の母が一番印象的だったと言っていました。

 その前には私が東大闘争で、府中刑務所にいたときにも、遠いところを来てくれていたのよ。そういえば、1969年の8月には、母は、自分の姉(私の伯母)も一緒に府中まで連れてきてくれましたね。接見室で驚いたものでした。私の母は、いわば色が黒い女ですが、伯母は驚くくらいに色白で綺麗な女性なのよ。その時伯母は私の顔を見て、元気そうだと喜んでくれていました。今あの伯母も、自分の妹の死にどんなに驚いていることでしょうか。

周さんのお母さんはどんな時も来てくださったそうです。
そして大きな愛を示してくれました。

 その他にもいっぱいさまざまなことがありました。私の母は、もう日本中で秋田犬を飼って歩いたわけですが、その街にいる野良犬ともすぐに仲良くなるんです。そして、その野良犬の一人ひとりと、またごく親しくなっていたのが、この私なのです。

 さて、でもまたあの世へ行って、父と会うと、また勝手な父にまた負けずに言い返しているでしょうね。

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