将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:三上治

12010109 香花さんが、私の「周の掲示板」に以下書き込んでくれました。

Re.Re.年末ごあいさつ 投稿者:石川  投稿日:2011年12月31日(土)21時40分5秒

  周さん
レスありがとうございます。
ブログに書かれているイラク反戦デモは覚えています。
あのときたまたま三上治さん等と三人でいましたが、近くに民族派
も一緒に歩いていたと記憶しています。

三上さんは今も頑張っているようですね。私はあまり日本にいないし、
正直に言えば、今の運動、たとえば憲法問題と原発問題を一緒の運動
でやることに微かな違和感をもちます。

私もfacebookとtwitterの両方をやっています。
twitterは業務上の情報収集、facebookは友人との交流に使い分けて
いますが、まだ洗練された使い方をしているとは言えない気がします。

そのうちfacebook上で、本名で周さんにご挨拶を送るかもしれません
が、その際はよろしくお願いいたします。

よいお年をお迎え下さい。

 こうして私のブログのほうで、掲示板に書かれたことを、こうしてLogをすべてあげてしまうと、いけないのかもしれません。
 でも今はいいだろうと勝手に思っているのですね。
 それでfacebookで、この香花の本名の「石川」を「香花」にしてほしいとの要望があったのですが、私はすぐやってみたのですが、管理人である私でもできないみたいです。本人はできるのじゃないかなあ。
 恥ずかしいのですが、私はよくわからないのですよ。
 この年末は、私の年賀状作成でもう必死で、ほかにやりきれないのですね。もちろん、孫のじゅにのところも、昨日も行きましたし(でもいつものように、千葉こども病院には、ずっといられませんでした)、明日も行きます。帰りに神田明神へも行くつもりです(私の神様が平将門様ですから、ここはいつもかかせないのです。
 三上治さんとは、このところ会っていません。あの人たちと会うと、三上治さんはいいのですが、一応あの人たちは、叛旗派ではないですか。この党派は、その前に「共産同」と着くではないですか。
 私は昔埼玉大学の2年後輩で、この叛旗派で三里塚で事後逮捕されて、そのお母さん家族と接して、お姉さんが「共産同叛旗派って、共産党の何か関係あるのか?」と聞かれて、「冗談ではない、日本共産党とは一切関係ない。あの党は最低です」と言っていたものですが、この三上さんの関係のあつまりで、どうしてか「我々こそが日本共産党だ」という、変な阿呆なおじさんがいて、私が詰問して(当然今の日共は完全に否定はしていましたが)、止めさせようとしたのですが、またそういったときに、私が殴りました。当たり前だよ。
 だからなんとなく、やっぱり共産主義が好きなのかな。私は大嫌いです。

 でも思えば、私の大好きだった、唐牛健太郎さんも、島成郎さんも、みな共産同(ブント)だったのですね。思えば、よく私は殴られなかったものですね。
 とにかく書き込みをありがとうございます。私はfacebookはまだよく使えないのですね。

11092907 吉本さんの割と最新の文章だと思われますものが以下に載っています。

書名  シリーズ20世紀の記憶
     60年安保・三池闘争
編集長 西井一夫
発行所 毎日新聞社
発行日 2000年9月30日
定価  2,381円+税

 この172〜173ページにわたって、「日本資本主義に逆らう“独立左翼”」という文章です。取材・構成は三上治さんです。
 60年安保闘争に関しては、吉本さんはなんどか文章を書かれています。ただ最後に書かれています「安保闘争体験から学んだこと」という文章の内容は、比較的このごろの吉本さんの考えのように思えます。(2000.10.12)

11072110 以下のようなメールをいただきました。たいへんに困ってしまう内容です。挨拶も自己紹介もないのですから、本来は返事を出すべきではないのかもしれません。

   September 15, 2002 11:27 PM
「三上治の文章について」
三上治さんの文章の活字が小さくて読みにくいので、できれば大きい字にしてくれたら助かります。

   Monday, September 16, 2002 12:48 AM
「Re: 三上治の文章について」
 そういうふうにするわけにはいきません。私のホームページすべては同じ環境にしてあります。見る人はたくさんの方がいるわけです。だから同じにしておかないと、たいへんなことになります。
 それで、話は、見る側のほうで、字をいくらでも大きくできます。それがいまではウェブの世界の常識です。ご自分にあった大きさに拡大してごらんください。萩原周二

 また、この相手のメールがHTMLメールになっています。だがもうそこまで指摘する気もありません。
(第109号 2002.09.16)

11070601 三上治さんの1月14日の新宿憲法村を思いだしていたときに、一緒にこのイベントに出席していた友人(というよりも私の先輩の年代の方です)の高岡さんのブログに出逢いました。

   瞬間タカオカ

 過去の投稿を読んでいて、いくつものことで頷いていましたが、以下が今一番心に残りました。

  年賀状始末記(4)電話しまくる

  電話というものは暴力的なもの。相手を忖度しないでこっちの
  都合でかける。一方的・攻撃的になる。……

 うん、そうだよなあ、なんて頷いていました。この手の話は私にもたくさんあります。今一番思いだしたのは、もう何年も前の話ですが、たしか日曜日の朝7時半頃、私の携帯電話に、ある社長さんからかかってきた電話があります。

  あの、手形って何ですか。教えてください。

 私はまだベットで眠っていました。私より随分年下の社長さんでしたが、私はどうやら眠りを払って答えました。
 そこの会社は手形を使うような商売ではないのですが、相手が支払いをどうしても手形にしてくれということで、受け取ったが、どうしたらこれは現金になるの? ということなのです。私は「俺はあなたの顧問じゃないよ。あなたの会社の顧問の税理士でも、つき合いのある銀行にでも聞けばいいじゃないか」という思いでしたが、とにかく答えました。
 若い彼は、かなり年上の税理士先生に聞くのはできないのでしょう。しかし、まだ眠い日曜日の朝、私には本当に迷惑です。ただ、彼はかなり焦っていたのです。私なら、丁寧に教えてくれるだろうという思いだったのでしょうが、もっと別な時間にしてくれよという思いでした。
 あ、だんだん、他のことも思いだしてきました。電話というのは、携帯電話はもっとひどい傾向がありますが、たしかに暴力的ですね。
 たくさんのことを思い出しました。そして、「俺はやっていないだろうな」なんて考え込んだものです。

11052101 今月3月27日に「三上治『1970年代論』出版記念会」があるのですが、6日の午後から、その告知の手紙をだす作業がありました。「午後1時からムスケルをやりますから」ということで、私もお手伝いに行きました。実は午前中から日本テレビの取材があり、1時には間に合わなかったのですが、とにかく私は「どうせDMの封入作業だろう。終わったらすぐ飲めるな」なんて気持ちで行きました。
 ところが現場にいきますと、まだ入力されていない名簿がたくさんあるのです。まだ封入どころではありません。まだ入力の必要な名刺や葉書があります。それに、名簿のダブリも検索しなければなりません。
 ただ、そこにはパソコンが一台しかありません。ただ、私はいつもノートパソコンをもっています。それでまず今ある名簿と、未入力の名簿との検索作業をやります。そして、未入力の名簿を私のパソコンでも入力しはじめました。
 このムスケル作業に来ているのは、60年代、60年代後半の元活動家ばかりです。三上さんももちろん来ています。「でも、やっぱりパソコンがないと、この作業はできないね」なんていいながら、やっていきました。私もこうして、いつもパソコンを持っていまして本当に良かったです。
 どうやら、この作業も時間がかかりましたが、入力を終わり、封筒に宛名印刷して、封入を終え、どうやらビールを飲むことができました。昔のガリ板、鉄筆の時代では、こう速くは行かなかったでしょう。
 だが、私たちは、その後飲み屋に場を変え、そしてまた私が調子に乗るので、また場を変えて、結局延々飲んで、また私の軍歌が続くことになりました。
 思えば、パソコンで処理すると、すべて仕事は速く終わるのですが、そのぶん、腹いっぱい酒を飲むことになりますね。

11a4b567.jpg

新聞名 図書新聞第2934号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年9月19日
読了日 2009年9月12日

 いつも思うのですが、この新聞を読んでも、日経新聞を読んでも、もう私には、新聞そのものよりも、パソコンの画面で読んでいたほうが読みやすいのですね。なんだか、もう新聞紙というものが、私には読むのに向いていない思いがします。この号も新聞紙よりは、やはりインターネット画面で読んで、「あ、こんなことが書いてあるんだ」と感心したりしています。
 一面の「日本赤軍私史――パレスチナと共に重信房子 河出書房新社」についての三上さんの文章もまた、私は新聞よりも、改めてインターネット上で読んで行って、興味が持てたものでした。

評者◆三上治 意識的な生の現在的困難さ重信房子のアラブ行きは、宿命という他ない

 僕が重信房子にはじめて会ったのは1965年か1966年だった。確か彼女は詩を書いているということだったが、髪の長い少女という記憶が残っている。〜彼女は笑顔が素敵な活動家になっていた。

 これで、「なるほどなあ」と当時の重信房子の顔が甦える思いがしました。思い出せば、1966年というと私は高校3年生だったのでしたね。
 でもこの味岡さん(三上さんの名前です)の文は、いくらもいろいろな思いを抱かせてくれます。
 1969年のことであるらしいのですが、次のように書いてあります。

映画関係者に会うためにそこに行き、その場で彼女に会った。彼女はアラブに行きたいがどう思うかと聞いてきたように思う。僕はやめた方がいいよと言った。このことは後々まで気になった。塩見孝也や田宮高麿、あるいは森恒夫らとブンド内部で論争していた時期以降の赤軍派がどのように活動しているのかを、僕はもう分からなかった。赤軍派から連合赤軍にいたる一方で、アラブへ行く面々が分岐していく過程は複雑であったのだろうが、本書で書かれているように、彼女は森恒夫とは体質的に合わなかったのだろうと思う。僕らが持った彼女の明るい印象と豊かな感受性は、森とは合わなかったと推察できるからである。その意味では彼女がアラブに行ったことはよかったのだと思う。そうでなければ彼女は連合赤軍に参加し、真っ先に粛清の対象になったと思えるからだ。彼女のことを思うと、ここはいつも思い出すところであった。

 思えば、私はこの69年は大変な年でした。1月19日に東大安田講堂で逮捕され、8月20日に保釈で府中刑務所を出所し、でも9月18日の芝浦工大事件で、私はこの年の12月10日に浦和地裁の前で逮捕されました。
 でも思えば、ブンドも大変な時期だったのですね。でも味岡さんが、「彼女がアラブに行ったことはよかったのだと思う」と言われるのは、充分納得できるのですが、でもでも悲しいことですね。なんだか、もう左翼というのは嫌なことばかり抱えてきたなとしか思えません。

評者◆杉本真維子 「ふと」の彼方へ

 彼女は「ふと」という言葉のことを書いています。ふと思い出したりすることが私にもあるわけですが、このふとしたことを、どこからか、誰かからの届いた石のように思う心は私にもあるのです。

この誰かからの石を、拾った、という感触をもった私自身が、「思い」が届く、ということへの、まぎれもない証人なのだと、信じられないことに、信じられるのだ。

 またきょうも、いくつものことをして、いくつものことを思い出して行くことでしょう。

↑このページのトップヘ