将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:三国志

12010915 思えば、じゅにのウンチの処理をしながら、各三国志を思い出していたものでした。

2012/01/10 12:56家を出るのが遅くなりましたので、今になりました。途中で昨日もらいましたメールで、北方謙三の名前がありまして、この彼の「三国志」のことを考えました。あとで私のブログで改めて書きます。
 もう私はいくつものことを正確に思い出せないのですね。これはまったくまずいです。情けないです。いや私には北方謙三さんへの批判があるのですね。
 それにしてもやはり吉川英治という人は、すごいです。彼の「三国志」は、原作の正史「三国志」よりも、「三国志演義」よりも上なのじゃないかなあ。いや、私は吉川英治を思い出すなか、「私本太平記」も思い浮かべました。
120109162012/01/10 13:22いや上の三国志を思い出す中、私はじゅにのウンチの処理をしました。
 いや私はそのほかに、横山光輝のマンガの三国志、柴田錬三郎の「英雄ここにあり」を思い出します。そして宮城谷昌光の「三国志」(これはまだ完結していない)ですね。
 そのほか私は吉川英治の作品を思い出します。
 上の2作のほか、「新平家物語」「宮本武蔵」「鳴門秘帖」・・・
(この間は食事でした)
「太閤記」「神州天馬境」「天兵童子」「新・水滸伝」・・・でもでもこうして各作品の固有名詞を書くのも、ものすごくこのポメラという機器は大変です。この機器の大きな欠陥じゃないかなあ。
2012/01/10 14:36そうですね。明日から、このポメラで私が過去読んだ各作品名を書いていこうかなあ。プロレタリア文学とか自然主義文学とか、今では誰も(私も)読まないだろう作品が最初です。
 この機器ポメラで書くのは大変なのですね。そもそも辞書があまりに悲惨です。それで普通なら、機器を投げ出したくなるものです。
 それを私はやっていこう。
2012/01/10 15:36私は高校2年のときに、文学史の近代現代文学の中で、「吉川英治は扱われないが、何故か」とただしました。大衆文学という言葉が出るなか、私はでも「今純文学というと、いわば「伊藤整『「変容』」くらいなもので、だから吉川英治のほうが偉大で、何故それを認めないのか、そもそもこういう文学史がくだらない。例えば近代文学でも坪内逍遥「小説神髄」より、「二葉亭四迷『小説総論』」の方が遙かに上だ」と述べたものでした。
 しかし、このときの現代国語の先生は、「ボクは『小説総論』は読んでいないんだ」といいまして、実にその翌週には、これを全文ガリ版で印刷してきたものでした(あの頃は、パソコンもコピーもないのです)。
 そのことを今でも懐かしく思い出します(この先生は10年くらい前に亡くなりました)。

 この最後に書いた先生を思い出します。彼は東大を出た先生で、彼が亡くなってしまった我孫子の湖北の家の前まで行きまして、私は涙が止まらなかったものでした。

11090501   Wednesday, November 03, 2004 9:43 PM
こちらこそ遅くなって申し訳ありません。
 十月は学園祭、運動会、修学旅行、遠足など学校と関係のある人は忙しい季節ですが、普通だともうなんの関係もないはずなのに先生はすべてに関係していらっしゃるんですねー。中でもいまだに母校の学園祭に出店していらっしゃるとはとは驚きました。こんな話は聞いたことがないです。ほかの学校では例がないのではないでしょうか。学校の職員の方も三十年前からずっと顔見知りの方がまだいらっしゃる訳ですか。昔の敵は今日の友とまでではいかなくても、なにやら懐かしいというところでしょうか。また一種の同窓会ともなっているのかもしれません。こういうのは絶対やるぞと強固に主張する人とそれに賛同してくれる人が数人はいないと続かないものですが、椎名誠とその仲間達の関係に似ていますね。その他、娘さんの勤めていらっしゃる学校の運動会やら、卒業なさった学校の父母会やら、なんて忙しそうなんだろうと驚いたりあきれたりしています。

 陳舜臣は検索してみるとものすごく著作が多いのに二作しか読んでいらっしゃらないとはちょっと不思議です。やはりその三国志に何か違和感を覚えられてあのではないでしょうか。その三国志はどうだったのか感想を少し教えてだけますか。三国志といえば宮城谷さんのが出ましたね。もうお読みになりましたか。私は蒼穹の昴が文庫になったので、ずっと以前から狙っていたものですから早速買って読んでいます。
 先生のエロイーズにも話したことのない美術品の売買とは何やらなぞめいていますね。きっとまた驚くようなエピソードがあるのでしょうね。
 私も人間の声というものには興味を持っています。なぜか教養や人格が現れるし、同じような性格の人は同じような声の場合がありますよね。声優や朗読というテーマはすごく興味があります。

   Sunday, November 21, 2004 1:47 PM
Re: こちらこそ遅くなって申し訳ありません。
 埼玉大学の学園祭とはずっと関係を続けてきたわけですが、もう私も56歳ですからね、もういつまでもやるべきじゃないかな、なんていう思いも抱きます。もう何もかも、みんな私の下のずっと年代になってしまいました。

その他、娘さんの勤めていらっしゃる学校の運動会やら、卒業なさった学校の父母会やら、なんて忙しそうなんだろうと驚いたりあきれたりしています。

 昨日は、私の次女が大学を出た最初の年に勤めた東京都文京区の小学校の「表現の日」(文化際のようなものです。2年前に私が行きました記録は以下です)がありました。

  ブルータスの学校での「表現の日」

 次女が帰宅してきて、私は知りました。前日私が帰宅できていたら、必ず行っていたのに残念です。前日は、私はもう飲みすぎで、泉岳寺、浅草といろいろ行きまして、もう帰宅できませんでした。
 私は娘二人がみている小学生に会えるのがとても嬉しいのです。もちろん、私は、先生である娘の父親だとばれないようにしますが、とにかく今の子どもたちはいいのですよ。「俺たちの子どものときより、いい子たちだな」なんていつも思えるのです。ただ、また今のほうが嫌なことも多くて、これまた考え込んでしまいます。ニュースでみる悲惨な事件ですが、実はもうどこでも起きる可能性があることのようです。さきほど、次女からは、次女の小学校のそばで子どもたちが、車に引きずり込まされそうになったり(つい2日前のことのようです)、男の生徒が不審者においかけ回されたりということがあったそうです。もう柏市の街の真ん中の学校なんですよ。そして警察は、犯人のただの一人も、捕まえていません。もう、悔しくて、悲しくて、恐ろしくてたまりません。

陳 舜臣は検索してみるとものすごく著作が多いのに二作しか読んでいらっしゃらないとはちょっと不思議です。やはりその三国志に何か違和感を覚えられたのではないでしょうか。

 いえ、陳さんには、特別「違和感」というような思いはないのです。ただ、なんとなく、それほどのめり込めないのですね。なんでかな。
 少し考えますと、以下のように思いました。
 私は、中国の漢詩を読むのが好きで、それも漢文という日本の古代からやって来た読み方で読んでいます。また漢詩だけではなく、たくさんの文章も漢文で読むのが好きです。ただ、これは間違えていけないのは、私自身にも間違えるなよと言い聞かせることは、このことは中国のことをよく理解できるためにやっていることではありません。日本人である私が、日本人の漢文という方法で中国の古典を読んでいるのは、あくまで、日本人の古典ともなってしまった中国の古典を理解するためにやっていることなのです。あくまで、日本の文化を知るためにやっていることなのです。いくら漢文を学んでも、中国のことを理解できるようにはなりません。日本のことを知りたいからだけのことなのです。
 それで中国人が書きました、文学なり、評論なりを、訳文で読んでみますと、かなり、我が日本とは違う国、違う風土、違う歴史の中国を感じます。私たち日本人が思い込んでいる中国とは、本当の中国とは、まったく違うもののようです。私が好きな漢文というのは、あくまで、日本人の抱く「中国」を見せてくれるだけなのです。
 ところが、この陳さんが書かれている小説の中での中国は、私が漢文で知ってしまっている「中国」と同じなのです。「中国の人なのに、なんで、こうなのかな?」というところが、私が彼の小説にのめり込めないところなのかななんて思ってしまいました。

三国志といえば宮城谷さんのが出ましたね。もうお読みになりましたか。

 現在第1巻を読み始めました。たくさん、思うことがあります。やはり、私はおそらく、この宮城谷さんの「三国志」が世界最大、最高の「三国志」になるかと思いました。

私は蒼穹の昴が文庫になったので、ずっと以前から狙っていたものですから早速買って読んでいます。

 現在、第4巻を読んでいます。
 上に書いたことに関係するのですが、この「蒼穹の昴」は私たちが過去読んで来た数々の中国ものの小説とはあきらかに違いますね。私が知ってきた日本の古典である中国の数々の漢文から生まれた小説ではなく、中国の実際の近代の歴史から書かれている小説のような感じを受けます。
 思えば、こうした思いをまたまとめて書いていかなくてはならないな、なんていう思いを今抱きました。

先生のエロイーズにも話したことのない美術品の売買とは何やらなぞめいていますね。きっとまた驚くようなエピソードがあるのでしょうね。

 ええとね、私のエロイーズといえば、ちょうど学生のときからつき合った女性なのですが、この女性には、この府中刑務所での、加藤道子さんのことを話さなかったということです。それで、この美術品の売買のことは、もう私が結婚して子どももいる時期のことなのです。はっきり書かなくて申し訳ありません。ただ、たしかに、この美術品に関しては、驚くべきエピソードはありますよ。とても大変に面白い話なので、また別に書きますね。

私も人間の声というものには興味を持っています。なぜか教養や人格が現れるし、同じような性格の人は同じような声の場合がありますよね。声優や朗読というテーマはすごく興味があります。

 私も同じです。そういえば、この加藤道子さんの思い出を、私のサイトの中にある「三上治の世界」でも、以下に書いてくれています。

   ある女優のこと

 今では懐かしく思いだす加藤道子さんの声です。萩原周二
(第225号 2004.12.06)

 今まで、

  「三国志」のことで
  「三国志」のことで(その2)
  「三国志」のことで(その3)

と書いてきました。
11060814 2011年6月6日IS01ブログの4 に書きましたように、この次の「その4」「その5」で、「三国志の作者」「三国志の主人公」を書くつもりなのですが、なかなか書いていられないのですね。
 それでとりあえずは、私がまた別に書いていたものをUPしていきます。そのあとにまた書くことにしましょう。

11060508「その2」に書いていた曹操が、この「三国志」の世界の前半の主役であることは間違いないでしょう。だが、曹操の奸雄と言われる魅力は、諸葛亮孔明が出てくると失せてしまいます。おそらくこの「三国志」(正史「三国志」だけではなく、「演義」含めた全体の「三国志」の世界)は全体の作者は私はこの孔明だと思っています。曹操が亡くなったあと、主役の曹操に変わった主役が孔明でした。そしてその孔明の最大のライバルが司馬懿仲達です。
 やがて、この仲達の司馬氏が魏を滅ぼして、やがて呉を滅ぼして(蜀は魏に滅ぼされます)、三国志の世界を終わらせます。
 魏の時代に、我が日本のことが、この世界にも現れてきます。邪馬台国卑弥呼の時代です。ただし、私はこの卑弥呼という人物は存在しなかったと思っています。このことはまた別に私は書いていますが、この魏から晋に移り替ることが大きかったことだと思うのですね。

(参考)第65回「卑弥呼 の2」(これを今読んでみまして、またあとでUPすることにしました)

 この仲達も実に、この三国志の時代には大きな役割を占めている人物です。そしてこの人物を考えると、いつも必ず私はこの人物を思い浮かべます。それは張合邦(合におおざとへんの一字で、ちょうこう)のことです。彼は諸葛孔明が北伐という魏への遠征のときに、最大の敵軍の将として立ちはだかります。だが彼は上司の仲達の無理な命令で孔明に破れ亡くなります。
 だがこの張合邦(ちょうこう)は、「吉川英治『三国志』」では実に三度も亡くなっています。私も「もうこの頃は吉川英治さんは、駄目だったのかな」と思っていまします。この人物を見事描いたのは、「横山光輝『三国志』」です。
 私には、三国志の最後は、仲達の世界になっていき、そしてその司馬氏が三国志を統一するわけですが、そこで戦っている張合邦(ちょうこう)のことをいつも思い描いているものです。(2011.06.06)

11060502 一つ前に書いたことで私は、「曹操の作った漢詩を思い出しますと、これまた雄々しいというか実に面白い男たちの話」と書きましたが、曹操をはじめとする三曹の詩は雄大なこともありますが、逆にメソメソとしたところもあり、とんでもなく奇想なことを書いてあることもあり、実に面白いです。
  一見ただ歴史の上では陰険だと思われる曹丕の詩はもう実に読んでいて感心してしまうものです。
 私は曹操の詩も好きですが、曹丕の詩も読んでいると、たまらなく好きになってしまいます。曹植は私は歴史の上の人物としてはあまり好きになれないのですが、でも詩を読むと、「この人は天才なんだなあ」とばかり思います。そして気がつくのです。父も兄もいつも、その曹植の詩の才能をものすごく愛していたのだろうなあ。
 もし、のちに杜甫という詩人が現れなかったら、今もこの曹植が中国第一の詩人と言われていたはずです。
 私は、私のブログで、「周の漢詩塾(ブログ篇)」を持っています。そしてホームページでも「周の三曹の詩」というページも持っています(もう私のホームページはなくなりました)。ここでぜひ、この三人の詩を読んでみてください。
 私には、この三人の詩も大きく「三国志」の時代なのです。(2011.06.05)

11060403 私は「三国志」に関しては、いくつもの書物を読んできました。実は「三国志」というと、歴史書としての『三国志』と『三国志演義』が渾然となっている傾向がこの日本にはあります。
 歴史書としての『三国志』は実は完全に訳されたのは昭和の戦後のついこの頃(1977年、1982年、1989年で三巻。筑摩「世界古典文学全集」)のことであり、ほぼ『演義』が三国志とみなさえていたことがあります。
 ただ中国では、三国志というと、いわば関羽が神として中国には存在していますから、それも中華街に行ったら頭に入れておかねばならないでしょう。横浜中華街での「関帝廟」に行くと、「ああ、中国人は関羽が好きなのだなあ」とつくづく思います。ただし、この関羽が好きなことは、この日本人も負けていないでしょう。
 それに三国志の物語は、そもそも諸葛亮がかなり自分のことを作りあげてしまったことがあり、それの影響が多大だと思われます。日本人は、南北朝時代の楠木正成にも、大坂の陣のときの真田幸村にも、この諸葛亮孔明の姿をかさね合わせたのではないでしょうか。
 もともと孔明という人は戦は苦手であったと言ってよく、内政こそが得意の分野でした。だがこの彼が蜀をすべてやりきらないとならないわけで、実に無理があったと思います。だがとにかくやり通しました。だからこの三国志の世界は、後半はもう諸葛孔明の話であり、私などには大変に面白くは感じられないものなのです。
 曹操が主人公とも言える三国志の前半は、実に面白い英雄たちの戦いの話であり、しかも曹操の作った漢詩を思い出しますと、これまた雄々しいというか実に面白い男たちの話です。でも孔明が登場すると、どうしても主君に対する熱烈な愛の話、涙の話になるのですね。また実は、孔明もそういう話を意図的に作り上げているとしか思えないのです。
 諸葛亮孔明の「出師表」(これは前後の二つの文があります)は、鬼神も泣くとされ、泣かないのは男ではないとされてきました。私も「前出師表」はすべて暗記し、かつすべてを書き出せるように、FEPを鍛えたものです(今はGoogle漢字変換になったから違います)。でも今自分に問うのですが、そんなことは何になるのでしょうか。
 どう見ても、私自身も出師表よりもはるかに曹操曹丕曹植の詩のほうが数段好きですし、実にいい詩だと確信します。どうみても孔明の漢詩(孔明には「梁甫吟」という詩が残されています)なんか、私にははるかに駄目だとしか思えません。
 ただ、孔明の一途な気持にも私はどうしてもただただジーンとなってしまうものなのです。(2011.06.04)

11052716 昨日ここで、「食人」ということを書きました。私としては、「俺もついに書いちゃったな」という思いなのですが、さらに書きます。

 三国志の物語の中で、これは原典は「三国志演義」にあるのだと思います。劉備玄徳が、曹操に終われて中国を南へ逃げて行きます。その逃げる途中であったことです。
 劉備玄徳は実に人望はあるのですが、とにかく曹操の方が圧倒的に強くて、ただ逃げていくのです。もう逃げるばかりで、食べるものの調達もできません。実は歴史上でも、この時期はひどい飢饉が続き、中国の歴史が始まって以来始めて人口が減ったと言われている時代です。
 劉備が逃げていく途中で、玄徳を尊敬崇拝する一族家族に世話になります。だが、曹操の軍勢が迫ってきています。その一族もなんとしても大事な玄徳を世話したいのですが、どうにもなりません。そしてそこからも逃げて行くのですが、その前に、何もないはずだったのに食料が出されます。それを劉備は食します。
 そして逃げるときに、その食料のことを感謝します。でもそのときに、あんなに何もなかったはずなのにというと、そのとき劉備が食したものは、その劉備を世話した人の妻の身体を食したのでした。そのことを語られて、実に劉備はものすごく感謝します。そしてその主人のいたとなりの部屋には、その夫人と思われる人の亡骸があったそうです。
 このことを三国志の世界では美談として描いているのです。
 吉川英治が、自分の「三国志」を描いた中で、「私はこのことだけは書けなかった。でも中国では、このことを美談として書いているのだが、私にはどうしても理解できない」とだけ、わずかに書いています。

 これが私も吉川英治と同じで、どうしても理解できない中国の「食人」の考え方です。
 魯迅が真剣に悩み、苦しんで、あの『狂人日記』を書いたということを、できたらご理解ください。

 諸葛亮孔明がまだ劉備に出会わないころのこと、南陽の隆中で隠栖していたときに、常にこの歌を詩っていたといわれます。
 土井晩翠「天地有情」の『星落秋風五丈原』の一節にこうあります。

   嗚呼南陽の舊草廬
   二十餘年のいにしえの
   夢はたいかに安かりし、
   光を包み香をかくし
   隴畝に民と交われば
   王佐の才に富める身も
   たゞ一曲の梁父吟

 この最後の梁父吟というのがこの詩です。「三国志」の「蜀志」に「諸葛亮好んで梁甫吟を為す」とあります。この詩は正確には孔明の作ったものではないでしょう(漢文の参考書には孔明の作としているものはあります)。だが、孔明が好んで詠っていたということで、おそらく孔明自身もこれと同じような詩を作っていたのではと私は推測します。そんなことで孔明の詩として紹介します。

  梁甫吟(註1)諸葛孔明
 歩出齊城門 歩して斉の城門を出で
 遥望蕩陰里 遥かに望む蕩陰里(註2)
 里中有三墓 里中に三墓有り
 累累正相似 累累として正に相似たり
 問是誰家塚 問う是れ誰が家の塚ぞと
 田彊古冶氏 田彊古冶氏
  力能排南山  力は能く南山を排し
  文能絶地紀  文は能く地紀(註3)を絶つ
  一朝被讒言  一朝讒言(註4)を被りて
  二桃殺三士 二桃三士を殺す
  誰能爲此謀  誰か能く此の謀を為せる
  國相齊晏子  国相斉の晏子なり

  (註1)梁甫(りょうほ)梁父ともいう。斉の泰山の麓にある山。
  (註2)蕩陰里(とういんり) 斉城の近くの村里名。
  (註3)地紀 「地維」に同じく、地を維持するつな。絶(き)
   れると地が傾き覆る。古の伝説によると、天柱地維があって
   天地が保たれると考えた。
  (註4)讒言 春秋時代の斉の名相晏平仲が景公に請うて、公孫
   接(こうそんしょう)・田開彊(でんかいきょう)・古冶子
   (こやし)の三子に二個の桃を与えさせた。晏子は三士に、
   「三士は何の功あってその桃を食うか」と詰る。公孫接は
   「大豕や虎も一打ちに捕らえる力があるためだ」と答え、田
   開彊は「伏兵を設けて再び敵を奔らせた功がある」という。
   古冶子は「われは君に従って黄河を渡った時、大亀が添え馬
   を咥えて河に入ったので亀を殺し馬の尾を握って水中から出
   た。その亀は河伯という黄河の神であった」という。二士は
     古冶子に及ばないのに桃を食うのは貪ることであると考え、
   貪欲の不名誉を受けて死なないのは勇気がないことになると
   いうので自殺した。古冶子は二子が死んだのに自分が生きて
   いるのは不仁である、人をはずかしめて名声を得るのは不義
   である、こんな遺憾な行いをして死なないのは、勇がないこ
   とになると考えてまた自殺した。
    このことは斉の国相晏子が、この三士が自分に対して起っ
   て礼をしなかったことを意に含んで陥れたのであった。これ
   を「二桃三士を殺す」という。(晏子春秋)

 歩いて斉の城門のそとに出て
 遥かに蕩陰里を眺めると
 里に三つの塚が見える
 相重なって皆似ている
 これは誰の墓であろうか
  これこそ田開彊・古冶子・公孫接の墓である
  彼らは、体力は南山を押し退けるほどに足り
  学徳は地維を絶地天地を動かすほどの人たちだった
  ところが一朝讒言を被って
  二個の桃がこの三士を殺すことになった
  誰がこの謀をしたのだろう
  それは斉の国相晏子のやったことである

 晏子は優れた人物といわれていたのですが、たいへんに心の狭い人間でこの三士が礼を失したというので、こうした策略を謀ったというわけです。それにひきかえ三士の心こそ誠に壮烈で、その死は惜しむべきであるというわけです。孔明は晏子の狭量を責めているわけです。

 と以上のように私は思ってきました(かつそのような解釈の参考書が多い)。だがちかごろは、どうも孔明の心は違うのではないかと思い至りました。たった桃二つで、勇者3人をかたずけることのできた晏子をこそ誉めているのではないのかと思い至ったのです。孔明はとにかく自分も晏子のような人物になりたいと言っていましたから。そしてこの3人が当時の斉の国の為には邪魔な人物だったのかもしれません。孔明はさらに、この3人もそれを知ってわざわざ死んでいったのだといいたいのかなとまで思いました。

11052709 この歌を詩って孔明はこの南陽の隆中で隠栖生活をしていたわけです。このときの孔明のことを、「臥龍」とか「伏龍」とかいうわけです。それで二七歳のときに劉備玄徳の三顧の礼を受け、いよいよ世に出ていくことになります。 これはいわば孔明のころよく歌われていた民謡とか歌謡曲といえるのかもしれません。「槊を横たえ詩を賦す」という曹操の「短歌行」の悲壮慷慨の気とはかなり感じが違うといえるかと思います。これが、白面の天才青年軍師というよりは、生真面目な農村の秀才肌の青年といった姿が孔明の真の姿ではないのかなと、私が思うところなわけなのです。
 そしてそんな姿の孔明こそ私は好きになれるのです。
 (なお晏子については、宮城谷昌光『晏子』 も読んでみてください)

11050508 お隣の家から借りて、思わず読み耽ってしまった漫画です。

書 名 三国志
著 者 横山光輝
発行所 潮出版社「希望コミックス」

 やはりこの60巻は読み応えがありました。通して2度読みましたが、けっこう時間がかかりました。
 最初読み始めたときには、「なんだ吉川英治の真似ではないの」と思いました。だが段々読み進むうちに、「三国志演義」そのものから書いているのかなというふしがあります。
 私たちの接する「三国志」というのは、通常羅貫中の書いた「三国志演義」です。そしてさらに我々日本人には吉川英治「三国志」に一番接してきたものだといえるかと思います。この吉川英治「三国志」も「三国志演義」から書かれたものです。
 本来「三国志」というのは、晋の陳寿が書いた「三国志」という歴史の本でした。ただ内容は「演義」とはかなり違っています。三国のうち魏を正統として書いているのです。そして実に簡潔です。いや簡潔、簡略すぎるといっていいでしょう。これがのちの世まで残る名著になったのは、南北朝時代の宋の文帝が、「あまりに簡略」と不満を述べ、裴松之(はいしょうし)という人に、「三国志」の補正をさせたことにあります。このことが、陳寿「三国志」を不朽の名著にしました。
 実にこの裴松之の付けた註こそが、陳寿の書いたものよりも膨大な量であり、実に内容が豊富であり、面白いのです。のちの「三国志演義」も、この裴松之の註から生まれたともいえるでしょう。私たちの知っている「三国志」のたくさんのエピソードは、実は陳寿ではなく、裴松之の註に書いてあるのです。
 ところで、この陳寿作・裴松之註「三国志」は、実は日本で訳されたことは、長い間ありませんでした。日本で初めて全訳されたのは、昭和五〇年代のことです。筑摩書房の「世界古典文学全集」でです。当初は高橋和己が訳す予定だったのです(高橋和巳は亡くなってしまいました)。私は高橋和己の訳でも読みたかった気がしています。
 でも、ということは、すなわち、これだけ日本人に親しまれた歴史物語なのですが、正史「三国志」というのは、この日本でそれを通して読んだ人は、江戸時代、明治時代もまずほとんどいなかったのだといえるでしょう。
 それが今では、いわば正史であろうが演義であろうが吉川英治であろうが、誰でも読め、さらに光栄のパソコンゲームともなっていて、まさしく、このところ永遠に続く「三国志」ブームのような雰囲気があります。そしてそのブームのまた一つの中心が、この漫画である横山光輝「三国志」といえるでしょう。

 これを読んで新しく知ったこともいくつかありました。戦いのときに、銅鑼を鳴らして合図したり、味方を鼓舞したりするのは、なるほどなと思いました。おそらく最初の「てっぽう」も、こうした合図の道具だったのでしょう。そうすると、我が国の合戦では、こうした銅鑼は使っていなかったのかな。太鼓だったのでしょうか。
 また関羽の八十二斤の青龍刀や張飛の一丈八尺の大矛などを、絵でみてみるとよく判ります。ただ、あれで馬上で闘うのは、かなりな苦労でしょうね。一騎討ちのシーンなどをみると、日本の平重盛と源義平との闘いなどとは少し違うようだなと思いました。源平合戦のほうが、華麗な感じがしています。三国志では、なんだか、闘いの場の大地そのものがもっと無味乾燥なところという気がしています。
 それにしても、当初さまざまな群雄たちが集う、中国の大地が、どうしてか諸葛孔明が現れると、雰囲気がまるで違ってしまいます。戦の仕方ががらりと違ってきます。孔明の出現により、三国志は群雄たちの物語ではなく、孔明の世界になってきてしまうのですね。孔明はいつも勝利していますが、どうしても魏を倒すことができません。
 絵を見ていて、関羽、張飛などは、こんな顔していたのかななどと思いましたが、劉備はもっと太っているんじゃないのなんて思いました。董卓はもっと腰の幅が大きかったはずです。私がどうみても、この姿は違うんじゃないかと思ったのは、曹操の部下の、徐晃はもっと優男ではないのか、張コウはもっとひげ顔なような気がする。呉の陸孫はいくらなんでも、美丈夫なはずではないのか。等々のことを思いました。

 この漫画から三国志の世界に入っていくやりかたもあるのでしょうね。おそらくどこかでこれから三国志を見ている少年に会えるような気がします。そのときに、おそらくいろいろなことを言うことが出てくるでしょうね。そんな出会いを今からずっと期待していたく思います。(1998.11.01)

11021204 中国という国はあまりに長大な歴史を持っています。そして歴史の本も実にたくさんあります。これがあまりに多いために、元の時代に曾先之という人が、十八の歴史書をまとめて子ども向けに書いたのがこの本です。
 最初『史記』(司馬遷)から始まり、2『漢書』(班固)、3『後漢書』(范曄)、4『三国志』(陳寿)……という順番になっています。
   以下は5『晋書』(房玄齢)、6『宋書』(沈約)、7『南斉書』(蕭子顕)、8『梁書』(姚思廉)、9『陳書』(姚思廉)、10『魏書』(魏収)、11『北斉書』(李百薬)、12『後周書』(崔仁師)、13『隋書』(魏徴・長孫無忌)、14『南史』(李延寿)、15『北史』(李延寿)、16『新唐書』(欧陽脩・宋祁) 、17『新五代史』(欧陽脩)、18『宋鑑』』(李熹)と『続宋中興編年資治通鑑』(劉時挙)の二書。
 実は私も4までは、どうやら知っています(そして3以外は読んでいます)が、そのあとは欧陽脩の名前と性格が少し分かるくらいです。
 このそれぞれを実に簡略に書いたもの(だから中国では子ども向けの本とされている)なのですが、ただ、日本ではこれが中国の重要な歴史の本だと思われており、とくに江戸時代には、これは漢文の本として多く読まれたものです。
 私たちも漢文でこの本のいくつかは読んでいるかと思います。
 ただし、『史記』では、夏(か)の国の前の五帝の時代の最初の黄帝から歴史が始まるのに、この『十八史略』では、その五帝の前の三皇の時代の以前からも書かれています。私たちが漢文でも親しい文章も多いために、私なんかは実によく親しんできた本です。
 私が読みましたのは高校1年のときでした。もちろん、そのときには『史記』を読んでおり(筑摩書房世界文学大系で)、そこらへんのことは、この『十八史略』は、あまりに略すぎて不満なところでした。
 だが、元の前の宋の時代になると、とくに私なんかは、読んでいた本がないわけで、宋(南宋)が滅びるときに元のフビライ汗と決然と戦う文天祥の話には、涙を誘われたものです。
  今でも私はその高校1年のときに覚えた文天祥の『正気歌(せいきのうた)』は、全文暗誦できますし、彼の『過零丁洋(れいていようをすぐ)』は今でもときどき詩吟として詠っています。つい先日にも詠ったものでした。(2011.02.12)

 先週、ある会合で、会合あとの食事会のときに少し顔見知りの方に突如声をかけられました。

  作家によって、同じ三国志と言っても、随分描き方が違うんで
  すね。吉川英治でも柴連(柴田連三郎)でも違うし…………

 私はすぐ答えました。

  そうですね、例えば北方謙三さんの三国志も違いますね。例え
  ば、一巻で、劉備玄徳が最初小さな村の役人として赴任して、そ
  こで中央からやってくる役人を殴るというところが北方さんには
  あるんですが、あれは普通は張飛がやったことになっていますが、
  北方さんは堂々と劉備にしている。実は劉備の実像は、かなりな
  暴れ者ですから、あれが真実なんだろうと思いますが、あれは
  「演義」ではなく、「世説新語」に書いてあるんですね。
   そちらの説を取り、張飛をこそ劉備の悪いところを一身の引き
  受けてしまった役割をはっきりさせたのは、北方さんの描く三国
  志ですね。

11020603 思えば、吉川英治の「三国志」も独特なところがあります。「三国志演義」には描かれていないことがいくつもあります。桃園の義の前に、関羽が「草堂牧舎」といういわば学習塾をやっていたことになっていますが、これは「演義」にも出てこないし、「正史三国志」の裴松之の膨大なる註にも出てきません。いやいや吉川英治でも、こうして思い出せば他にもいくらでも出てきます。
 同じ時代を同じ題材で描いたとしても(誰もやはり演義が下敷きになっています)、その作家によって違う解釈の作品ができてきます。これは実に面白いところです。
 こんな小説の話ではなくとも、こうしたことをあちこちで感じています。さまざまな出来事に対処するのにも、いくつもの解があるのだなと思っています。そのことをあちこちで感じています。(2002.03.25)

11012705 私の友人が共通の友人のところへ遊びに行ったときに、ある公園でそこの小学生の息子とボートに乗ったのだそうです。ところが、友人はこの息子と二人でボートに乗ったことをすぐに後悔しました。この息子は「三国志」の大ファンで、その話を仕掛けてきたのです。

  そりゃ、あなたなら「三国志」は得意なのだろうけれど、俺は
 まったく知らないんだよ。ボートの上じゃ、逃げることもできな
 いから、本当に困ったよ。

 この息子は、横山光輝「三国志」とゲームの「三国志」のファンだったようです。たしかに私なら、その少年といくらでも話を続けているでしょう。
 私は、こんな少年との出会いがあるかもしれないと思って、けっこう「三国志」に関する本は見つけ次第、読むようにしてきました。正史「三国志」も羅貫中「三国志演義」、吉川英治「三国志」も何度か読んできました。評論でいうと、魯迅のこの時代に関する論述にはいつもうなずいてきました。また小説、評論に限らず、三曹の詩や孔融をはじめとする七子の詩もよく見てきました。
 そんなことで、今回以下の本に出会いました。

書 名 三国志演義
著 者 井波律子
発行所 岩波新書
1994年8月22日第1刷発行

 この本を読んで、まだまだ「三国志」をめぐる物語はたくさんあることを知りました。「世説新語」「三国志平話」などという古典があることを知りました。「三国志演義」を生んだのは、正史「三国志」及び裴松之の註が一つの流れであり、もう一つの流れが民衆の世界で育まれた物語戲曲の系譜だといいます。そうした民衆の中の物語で残っているのが「三国志平話」だということです。
 私は、いわゆる「三国志」の主役といったら、曹操と諸葛孔明だと思ってきました。最初は曹操を元とする群雄たちの戦いの物語であり、なんと言っても、その中心には曹操がいます。だが孔明が出てくると、曹操の存在は色が薄れてしまって、孔明の劉備への忠節の物語になってしまう気がしていました。だが、この著者は以下のように言っています。

 『三国志演義』の校訂者毛宗崗によれば、『演義」には「三絶」、
 つまり三人の傑出した登場人物が存在するという。「智絶(知者
 のきわみ)」の諸葛亮、「義絶(義人のきわみ)」の関羽、「奸
 絶(悪人のきわみ)の曹操の三人が、これにあたる。これはさす
 がに的を射た卓見である。なぜなら、彼ら「三絶」こそ『演義』
 の世界を動かす真の主役なのだから。
             (第5章「主役たちの描かれかた」)

 私もなるほどなと納得してしまいました。魯迅から言わせれば、「演義」は曹操を悪役、劉備を善役としていて、それだから不満なわけですが、この著者によると、羅貫中は、曹操を単に悪役奸雄としてのみでは描いていないとしています。それが、曹操と関羽の関係の描き方の中に、あらわれているというのです。たしかに「演義」では、曹操は悪役であるわけですが、関羽とのからみを描くときに、曹操の英雄である面をおおいに見せてくれています。赤壁の戦いに破れた曹操を、華蓉道にて、見逃す関羽の姿は、実に爽やかさを見せてくれます。曹操も、関羽との友情を垣間見せる曹操の部下張遼の姿も、実にいいのです。それに対して、関羽はどうあっても曹操を逃すだろうと、予測している孔明の言い方は、あんまり感じのいいものではありません。自分の能力をひけらかすのではなく、男同士、英雄同士の友情とか義というものを信じろよ、と私はいいたくなるのです。
 こうしたことの他にも、いろいろとうなずけて読めた本でした。長大なる「演義」の物語からすると、薄っぺらい新書なのですが、かなり興味深く読むことができました。(1998.11.01)

2016112704

10111105 この詩を私は高校3年のときに暗記暗誦したものでした。それを以下ここに書きます。いえ、この詩は私のブログに書いておきたいのです。長い詩ですが、私のホームページを今年5月最初に廃止したもので、とにかく私のブログにUPしておきたいのです。(2010.11.11)

私は三国志の世界では、曹操が好きであり、また詩人としても曹操、曹丕、曹植が好きです。ただ諸葛孔明は、その「誠」とでもいうべき姿勢には、心を打たれる惹かれるものを感じます。その孔明の心情を一番表しているのではと私が思うのがこの詩です。

星落秋風五丈原(「せいらくしゅうふうごじょうげん」或いは「ほしおつしゅうふうごじょうげん」)
                  土井晩翠(どいばんすい或いはつちいばんすい)
     
  祁山(きざん)悲秋の 風更(ふ)けて
陣雲暗し 五丈原(ごじょうげん)、
零露(れいろ)の文(あや)は 繁(しげ)くして
草枯れ馬は 肥ゆれども
蜀軍の旗 光無く
鼓角(こかく)の音も 今しづか。

丞相(じょうしょう)病 あつかりき。

清渭(せいい)の流れ 水やせて
むせぶ非情の 秋の聲(こえ)、
夜(よ)は關山(かんざん)の 風泣いて
暗(やみ)に迷ふか かりがねは
令風霜の 威もすごく
守る諸營(とりで)の 垣の外。

丞相病あつかりき。

帳中(ちょうちゅう)眠(ねむり) かすかにて
短檠(たんけい)光 薄ければ
こゝにも見ゆる 秋の色、
銀甲(ぎんこう)堅く よろへども
見よや待衞(じえい)の 面(おも)かげに
無限の愁(うれい) 溢(あふ)るゝを。

丞相病 あつかりき。

風塵遠し 三尺の
劍(つるぎ)は光 曇らねど
秋に傷めば 松柏(しょうはく)の
色もおのづと うつろふを、
漢騎十萬 今さらに
見るや故郷の 夢いかに。

丞相病 あつかりき。

夢寐(むび)に忘れぬ 君王(くんのう)の
いまわの御(み)こと 畏(かしこ)みて
心を焦(こ)がし 身をつくす
暴露のつとめ 幾とせか、
今落葉(らくよう)の 雨の音
大樹(たいき)ひとたび 倒れなば
漢室の運 はたいかに。

丞相病 あつかりき。

四海の波瀾 收まらで
民は苦み 天は泣き
いつかは見なん 太平の
心のどけき 春の夢、
群雄立ちて ことごとく
中原(ちゅうげん)鹿(しか)を 爭ふも
たれか王者の 師を學ぶ。

丞相病 あつかりき。

末は黄河の 水濁る
三代の源(げん) 遠くして
伊周(いしゅう)の跡は 今いづこ、
道は衰へ 文(ふみ)弊れ
管仲(かんちゅう)去りて 九百年
樂毅(がっき)滅びて 四百年
誰か王者の 治(ち)を思ふ。

丞相病 あつかりき。

      二
嗚呼南陽の 舊草廬(きゅうそうろ)
二十餘年の いにしえの
  夢はたいかに 安かりし、
  光を包み 香をかくし
  隴畝(ろうほ)に民と 交われば
  王佐の才に 富める身も
  たゞ一曲の 梁父吟(りょうほぎん)。

閑雲(かんうん)野鶴(やかく) 空(そら)濶(ひろ)く
風に嘯(うそぶ)く 身はひとり、
月を湖上に 碎(くだ)きては
ゆくへ波間の 舟ひと葉、
ゆふべ暮鐘(ぼしょう)に 誘はれて
訪ふは山寺(さんじ)の 松の影。

江山(こうざん)さむる あけぼのゝ
雪に驢(ろ)を驅(か)る 道の上
寒梅痩せて 春早み、
幽林(ゆうりん)風を 穿(うが)つとき
伴(とも)は野鳥の 暮の歌、
紫雲たなびく 洞(ほら)の中
誰そや棊局(ききょく)の 友の身は。

其(その)隆中(りゅうちゅう)の 別天地
空のあなたを 眺(なが)むれば
大盜(たいとう)競(き)ほひ はびこりて
あらびて榮華 さながらに
風の枯葉(こよう)を 掃(はら)ふごと
治亂(ちらん)興亡(こうぼう) おもほへば
世は一局の 棊(き)なりけり。

其(その)世を治め 世を救ふ
經綸(けいりん)胸に 溢るれど
榮利を俗に 求めねば
岡も臥龍(がりょう)の 名を負ひつ、
亂れし世にも 花は咲き
花また散りて 春秋(しゅんじゅう)の
遷(うつ)りはこゝに 二十七。

高眠遂に 永からず
信義四海に 溢れたる
君が三たびの 音づれを
背(そむ)きはてめや 知己の恩、
羽扇(うせん)綸巾(かんきん) 風輕(かろ)き
姿は替へで 立ちいづる
草廬あしたの ぬしやたれ。

古琴(こきん)の友よ さらばいざ、
曉(あけぼの)たむる 西窓(せいそう)の
殘月の影よ さらばいざ、
白鶴(はっかく)歸れ 嶺の松、
蒼猿(そうえん)眠れ 谷の橋、
岡も替へよや 臥龍の名、
草廬あしたの ぬしもなし。

成算(せいさん)胸に 藏(おさま)りて
乾坤こゝに 一局棊(いっきょくき)
たゞ掌上(しょうじょう)に 指(さ)すがごと、
三分の計(けい) はや成れば
見よ九天の 雲は垂れ
四海の水は 皆立(たち)て
蛟龍飛びぬ 淵の外。


英才雲と 群がれる
世も千仭(せんじん)の 鳳(ほう)高く
翔(か)くる雲井の 伴(とも)やたそ、
東(ひがし)新野(しんや)の 夏の草
南(みなみ)瀘水(ろすい)の 秋の波
戎馬(じゅうば)關山(かんざん) いくとせか
風塵暗き ただなかに
たてしいさをの 數いかに。

江陵去りて 行先は
武昌夏口の 秋の陣、
一葉(いちよう)輕く 棹(さお)さして
三寸の舌 呉に説けば
見よ大江の 風狂ひ
焔(ほのお)亂れて 姦雄の
雄圖(ゆうと)碎けぬ 波あらく。

劔閣(けんかく)天に そび入りて
あらしは叫び 雲は散り
金鼓(きんこ)震(ふる)ひて 十萬の
雄師は圍(かこ)む 成都城
漢中尋(つい)で 陷(おちい)りて
三分の基(もと) はや固し。

定軍山の 霧は晴れ
汚陽(べんよう)の渡り 月は澄み
赤符(せきふ)再び 世に出(い)でゝ
興(おこ)るべかりし 漢の運
天か股肱の 命(めい)盡きて
襄陽遂に 守りなく
玉泉山(ぎょくせんざん)の 夕まぐれ
恨みは長し 雲の色。

中原北に 眺むれば
冕旒(べんりゅう)塵に 汚されて
炎精(えんせい)あはれ 色も無し、
さらば漢家の 一宗派(いちそうは)
わが君王を いただきて
踏ませまつらむ 九五(きゅうご)の位(い)、
天の暦數 こゝにつぐ
時建安の 二十六
景星(けいせい)照りて 錦江(きんこう)の
流に泛(うか)ぶ 花の影。

花とこしへの 春ならじ、
夏の火峯(かほう)の 雲落ちて
御林(ぎょりん)の陣を 焚(や)き掃ふ
四十餘營(しじゅうよえい)の あといづこ、
雲雨(うんう)荒臺(こうだい) 夢ならず、
巫山(ふざん)のかたへ 秋寒く
名も白帝の 城のうち
龍駕(りょうが)駐(とどま)る いつまでか。

その三峽の 道遠き
永安宮(えいあんきゅう)の 夜の雨、
泣いて聞きけむ 龍榻(りょうとう)に
君がいまわの みことのり。
忍べば遠き いにしえの
三顧の知遇 またこゝに
重ねて篤き 君の恩、
諸王に父と 拜(はい)されし
思(おもい)やいかに 其(その)宵(よい)の。

邊塞(へんさい)遠く 雲分けて
瘴烟(しょうえん)蠻雨(ばんう) ものすごき
不毛の郷(きょう)に 攻め入れば
暗し瀘水(ろすい)の 夜半(よわ)の月、
妙算世にも 比(たぐい)なき
智仁を兼ぬる ほこさきに
南蠻いくたび 驚きて
君を崇(あが)めし 「神なり」と。

      四
南方すでに 定まりて
兵は精(くわ)しく 糧(かて)は足る
君王の志 うけつぎて
姦(かん)を攘(はら)はん 時は今、
江漢(こうかん)常武(じょうぶ) いにしへの
ためしを今に こゝに見る
建興五年 あけの空、
日は暖かに 大旗(おおはた)の
龍蛇(りょうだ)も動く 春の雲、
馬は嘶(いなな)き 人勇む
三軍の師を 隨へて
中原北に うち上る。

六たび祁山の 嶺の上、
風雲動き 旗かへり
天地もどよむ 漢の軍、
偏師節度を 誤れる
街亭の敗(はい) 何かある、
鯨鯢(げいげい)吼(ほ)えて 波怒り
あらし狂うて 草伏せば
王師十萬 秋高く
武都(ぶと)陰平(いんぺい)を 平げて
立てり渭南の 岸の上。

拒(ふせ)ぐはたそや 敵の軍、
かれ中原の 一奇才
韜略(とうりゃく)深く 密ながら、
君に向はん すべぞなき、
納めも受けむ 贈られし
素衣巾幗(そいきんかく)の あなどりも、
陣を堅うし 手を束(つか)ね
魏軍守りて 打ち出でず。

鴻業果(はた)し 收むべき
その時天は 貸さずして
出師(すいし)なかばに 君病みぬ、
三顧の遠い むかしより
夢寐に忘れぬ 君の恩
答て盡す まごゝろを
示すか吐ける 紅血(くれない)は、
建興の十三 秋なかば
丞相病 篤かりき。


魏軍の營(えい)も 音絶て
夜(よ)は靜かなり 五丈原、
たゝずと思ふ 今のまも
丹心(たんしん)國を 忘られず、
病(やまい)を扶(たす)け 身を起し
臥帳(がちょう)掲(かか)げて 立ちいづる
夜半の大空 雲もなし。

刀斗(ちょうと)聲無く 露落ちて (註)刀は正式には「ちょう」の字
旌旗(せいき)は寒し 風清し、
三軍ひとしく 聲呑みて
つゝしみ迎ふ 大軍師、
羽扇綸巾(うせんかんきん) 膚(はだ)寒み
おもわやつれし 病める身を
知るや情(なさけ)の 小夜(さよ)あらし。

諸壘あまねく 經(へ)廻(めぐ)りて
輪車(りんしゃ)靜かに きしり行く、
星斗(せいと)は開く 天の陣
山河はつらぬ 地の營所(えいしょ)、
つるぎは光り 影冴えて
結ぶに似たり 夜半の霜。

嗚呼陣頭に あらわれて
敵とまた見ん 時やいつ、
祁山の嶺(みね)に 長驅(ちょうく)して
心は勇む 風の前、
王師たゞちに 北をさし
馬に河洛に 飲まさむと
願ひしそれも あだなりや、
胸裏(きょうり)百萬 兵はあり
帳下三千 將足るも
彼れはた時を いかにせん。


成敗遂に 天の命
事あらかじめ 圖(はか)られず、
舊都(きゅうと)再び 駕(が)を迎へ
麟臺(りんだい)永く 名を傳ふ
春(はる)玉樓(ぎょくろう)の 花の色、
いさをし成りて 南陽に
琴書(きんしょ)をまたも 友とせむ
望みは遂に 空(むな)しきか。

君恩(くんおん)酬(むく)ふ 身の一死
今更我を 惜しまねど
行末いかに 漢の運、
過ぎしを忍び 後(のち)計る
無限の思(おもい) 無限の情(じょう)、
南(みなみ)成都(せいと)の 空いづこ
玉壘(ぎょくるい)今は 秋更けて、
錦江の水 痩せぬべく
鐵馬(てつば)あらしに 嘶きて、
劔關の雲 睡(ねぶ)るべく。

明主の知遇 身に受けて
三顧の恩に ゆくりなく
立ちも出でけむ 舊草廬
嗚呼鳳(ほう)遂に 衰へて
今に楚狂(そきょう)の 歌もあれ、
人生意氣に 感じては
成否をたれか あげつらふ。

成否をたれか あげつらふ
一死盡くしゝ 身の誠、
仰げば銀河 影冴えて
無數の星斗 光濃し、
照すやいなや 英雄の
苦心孤忠の 胸ひとつ、
其(その)壯烈に 感じては
鬼神も哭かむ 秋の風。


鬼神も哭かむ 秋の風、
行(ゆき)て渭水の 岸の上
夫の殘柳(ざんりゅう)の 恨(うらみ)訪(と)へ、
劫初(ごうしょ)このかた 絶えまなき
無限のあらし 吹(ふき)過ぎて
野は一叢(いっそう)の 露深く
世は北邱(ほくぼう)の 墓高く。

蘭(らん)は碎けぬ 露のもと、
桂(かつら)は折れぬ 霜の前、
霞(かすみ)に包む 花の色
蜂蝶(ほうちょう)睡(ねむ)る 草の蔭、
色もにほひも 消(きえ)去りて
有情(うじょう)も同じ 世々の秋。

群雄次第に 凋落し、
雄圖(ゆうと)は鴻(こう)の 去るに似て
山河幾とせ 秋の色、
榮華盛衰 ことごとく
むなしき空に消行けば
世は一場(いちじょう)の 春の夢。

撃たるゝものも 撃つものも
今更こゝに 見かえれば
共に夕(ゆうべ)の 嶺の雲
風に亂れて 散るがごと、
蠻觸(ばんしょく)二邦(にほう) 角(つの)の上
蝸牛の譬 おもほへば
世ゝの姿は これなりき

金棺灰を 葬りて
魚水の契り 君王も
今(いま)泉臺(せんだい)の 夜の客
中原北を 眺むれば、
銅雀臺(どうじゃくだい)の 春の月
今は雲間の よその影
   大江(たいこう)の南 建業の
   花の盛も いつまでか。

五虎の將軍 今いづこ。
神機(しんき)きほひし 江南の
かれも英才 いまいづこ、
北の渭水の 岸守る
仲達(ちゅうたつ)かれも いつまでか、
聞けば魏軍の 夜半の陣
一曲遠し 悲茄(ひか)の聲。

更に碧(みどり)の 空の上
靜かにてらす 星の色
かすけき光 眺むれば
神祕は深し 無象(むしょう)の世、
あはれ無限の 大うみに
溶くるうたかた 其(その)はては
いかなる岸に 泛(うか)ぶらむ、
千仭暗し わだつみの
底の白玉 誰か得む、
幽渺(ゆうびょう)境(さかい) 窮(きわ)みなし
鬼神のあとを 誰か見む。

嗚呼五丈原 秋の夜半
あらしは叫び 露は泣き
銀漢(ぎんかん)清く 星高く
神祕の色に つゝまれて
天地微かに 光るとき
無量の思 齎(もた)らして
「無限の淵」に 立てる見よ、
功名いづれ 夢のあと
消えざるものは たゞ誠、
心を盡し 身を致し
成否を天に 委(ゆだ)ねては
魂遠く 離れゆく。

高き尊き たぐいなき
「悲運」を君よ 天に謝せ、
青史の照らし 見るところ
管仲樂毅 たそや彼、
伊呂の伯仲 眺むれば
「萬古の霄(そら)の 一羽毛」
千仭翔(かく)る 鳳(ほう)の影、
草廬にありて 龍と臥し
四海に出でゝ 龍と飛ぶ
千載の末 今も尚
名はかんばしき 諸葛亮。

私は昔からこの詩を何度も何度も読んできました。一時は全文暗誦できたものです。やはり私には、この詩こそ諸葛亮孔明のことを一番よく表しているように思えます。

司馬懿仲達と何度も闘った五丈原で孔明は、大きな流れ星が落ちると同時に亡くなりました。仲達という当時最大の軍略家は、とうとう最後まで孔明が中原に進出するという悲願を防ぎとおしました。仲達は第二次ポエニ戦争におけるハンニバルに対する大スキピオといえるのでしょうか。ただしスキピオはザマでハンニバルに直接勝利しますが、仲達は孔明に勝利はしないのです。負けなかっただけなのです。しかし、魏と蜀の関係では、魏は負けなければ、もはや中原を支配しているのですから、それだけで蜀には勝利していることになるのです。
それにしても、この詩を読んでいると、誠に一途な孔明を感じてしまいます。ひたすら劉備玄徳の恩に酬いたいがために、なんとしても中原にうって出たい孔明の気持、中原を制覇して、漢室を再興することこそ、玄徳への恩をかえすことであり、またそれが、中国の大衆を苦しみから救うことだと考えていたのでしょう。それに対して、仲達の存在はもはやそんな考え自体もう時代遅れだよといっているようにも思えます。
また土井晩翠もまたこの孔明にかなりな愛を感じているのがそのまま伝わってきます。それに、この詩の語句はまた三上卓「青年日本の歌(昭和維新の歌)」でもいくつか使われていますね。私もどうしても自然に口から出てくるような詩句がいくつもあります。(ある方の指摘により作詞作曲者名を間違えていましたことに気がつき訂正しました。ありがとうございます)
そしてこの詩が収められている「天地有情」ですが、やはりこれ全体がいいですね。やはりこうして孔明の真心を天は知っていて、孔明の蜀に勝利をもたらす訳ではありませんが、孔明が亡くなる時に、星を五丈原に降らすわけです。天は黙って見ているのです。

高校時代の文学史の授業で、明治の詩人としては、北村透谷や島崎藤村のみ扱われて、土井晩翠をさほど評価しない内容だったのに、私は強烈に文句をつけたことがあります。とにかく私には中学生の時から好きで音読していた詩人でした。
  私の持っている「天地有情」の収められている詩集は、新潮文庫の「土井晩翠詩集」で、中2のときに鹿児島のある古本屋で買ったものでした。編者と解説がなんと保田與重郎です。

  私は晩翠詩の初めての讀者に對しては、語句の詮議を第二として、まずその作をよみ、これが音調を味ふことをすゝめる。由來和漢の文藝は、一應字を讀みうれば情おのづとうつるものである。晩翠詩中に於て、まことに難解と考へられる字句は極めて僅少である。そこで歌はれてゐる事實は日本人としての教養に缺くことの出來ない東西古今の文物史蹟である。これを知識として知ることは、文明の國民の單なる義務である。(保田與重郎「土井晩翠詩集」解説

この古本屋に、土井晩翠訳のホメロス「イーリアス」が置いてありました。それを見あげて、高価なので買えないことを悔しがっていたものでした。

私がときどき行くゴールデン街の飲み屋(「ひしょう」でした)で、2軒目としていきますから、夜の12時ころになりますが、そこで1年に1度くらい会う(私がこんな夜遅く行くからなかなか会えないのです。1軒目としていけばもっと会えるのでしょうが)、元国立大学の先生がいます。もう65歳くらいでしょうか。その方が私の顔を見ると、必ず「あ、彼が来ちゃった、俺帰れなくなっちゃうよ」などといいながら、私に向かって

土井晩翠「星落秋風五丈原」!!

と叫びます。私は立ち上がって、この詩を暗唱しだします。しかし、もう私はちょうど1連くらいしか暗唱できないのです。彼は絶えず、「あ、一行抜かした」だの「それ読み方が違う」だのうるさいのです。私が「もうここまでくらいしか覚えていませんよ」というと、今度は

諸葛亮孔明「出師の表」!!

ということで、私はまた

先帝業を創めてより未だ半ばならずして、中道にして崩徂す。今天下三分して益州疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり。然れども待衛の臣内に懈らず、忠志の士身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追うて、これを陛下に報いんと欲するなり。誠に宜しく聖聴を開張して、……………………。

と暗誦しだします。
しかし、実にこれがいつものことですが、実に大変なのですね。もう長年の酒のせいかだんだんと記憶力がおちてきて、もうどれも正確に暗誦できなくなってきているのです。(この先生は、もう亡くなりました。もう随分の時間が経ちました。2005.08.14)

でもこうして、土井晩翠の詩や「出師表」を通して孔明を思ってくれる人がいるのは実に嬉しいことです。「演義三国志」での孔明はなぜかすべてを判りきっている大軍師のようで、あんまり好きにはなれないのですが、孔明の本当の姿というのは、この詩で土井晩翠がいう

消えざるものはたゞ誠、

ということにあるように思います。「誠」一筋の人だったよ、と思うのです。(2005.08.14)

またこれを読んで、暗記暗誦できるようにしていきます。(2010.11.11)

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2016122901

10110511 私は筑摩書房の「世界古典文学全集」という全集を昭和三九年三月に「ホメーロス」が最初発行されたときから、購入してきました。全部で五〇巻なのですが、例えば正史「三国志」は当初の予定は一巻の予定が三冊になったりすることがあり(しかも当初は訳者はかの高橋和己の予定だった)、冊数がかなり増えてきました。そしてそれからの約三〇年余を経て全巻発刊終了しました。その最後の最後に発刊されたのが、「老子・荘子」だったのですが、同じく最後のほうの発刊だったのが「韓愈機廖峇斂供廚任靴拭
 この韓愈なのですが、私たち日本人にはそれほど親しい中国の詩人(詩人というよりは政治家として知られているかもしれません)とも思われません。多分杜甫、李白、白楽天、陶淵明、蘇軾のそのあと、杜牧とか王維、張継などにもさらに下まわるような親しみかと思います。私も彼の詩はほとんど知りません。ただ私がいつも口ずさんできた詩がひとつだけあります。

 韓愈は盛唐の時代七六八〜八二四年に生きた思想家、政治家、散文家、そして詩人です。超自然の存在を尊敬せよという仏教を激しく攻撃し、ために時の皇帝の怒りをかいました。彼には自覚された人間への深い愛があったと思われます。
 この詩は元和元年(八一九)の作です。

 左遷至藍關示姪孫湘 左遷されて藍関(註1)に至り姪孫湘(註2)に示す
            韓 愈
一封朝奏九重天 一封朝に奏す九重の天(註3)
夕貶潮州路八千 夕べに潮州(註4)に貶せられる路八千
欲爲聖明除弊事 聖明(註5)の為に弊事(註6)を除かんと欲す
肯將衰朽惜殘年 肯えて衰朽を将つて残年を惜しまんや
雲横秦嶺家何在 雲は秦嶺(註7)に横たわつて家何にか在る
雪擁藍關馬不前 雪は藍関を擁して馬前まず
知汝遠來應有意 知る汝が遠く来たる応に意有るべし
好收我骨瘴江邊 好し我が骨を収めよ瘴江(註8)の辺

(註1)藍関(らんかん) 首都長安の東南三〇キロほどにある関所
(註2)姪孫湘(てつそんしょう) 姪孫は兄弟の孫、韓湘が見送りに来てくれたことに対して示したのがこの詩である
(註3)九重の天 天子の宮廷を比喩的に言った
(註4)潮州 広東省潮陽県
(註5)聖明 天子
(註6)弊事 仏骨即ち釈迦の骨を礼拝することをいう
(註7)秦嶺 潮州に至る途中の山
(註8)瘴江(しょうこう) 山川に毒気があるのでこの名がついた

朝に仏骨を論ずる一文を朝廷に奉った為に
その夕には路八千里もある潮州に流されることになった
天子の為に弊事を除かんと決意したからには
かく衰えて先のない短い身を惜しむものではない
ここまで来てみれば雲は秦嶺に横たわって自分の家、家族はどこにあるかわからない
行き先の藍関は雪に閉ざされ馬も進まない
お前がわざわざ来てくれたのは何か意があってのことだろう
私は客死するだろうから骨は瘴江の辺に埋めてくれ

 実際にはこの流罪は翌年、憲宗の崩御とともに、許されて都に還れたわけなのです。

 私はこの詩を知ったのは、東大闘争での府中刑務所の拘置所の中ででした。ちょうど雪の多い年で、この詩の内容が当時の私のおかれていた情況に似て思え、よく独房の中で声にして読んでいたものでした。
 また私もサラリーマンだったときに何らかの提案を会社に出しても、それが無視されるときに、よくこの詩を思い出し、「一封朝に奏す九重の天 夕べに潮州に貶せられる路八千」と口ずさんだものです。

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 Spider job  蜘蛛業 に書いております 歴史さとう が2010年2月1日〜3月19日までのUPしました4回目の10回分が以下の通りです。

2010/03/18(木)
食人、宦官、纏足のことで
2010/03/18(木)
纏足
2010/03/15(月)
「後宮佳麗三千人」のことで
2010/03/05(金)
宦官
2010/03/02(火)
食人の2
2010/02/28(日)
食人
2010/02/17(水)
二人の孫子
2010/02/05(金)
「三国志」について その3
2010/02/03(水)
「三国志」について その2
2010/02/01(月)
「三国志」について

 今回はけっこう時間がかかりました。まだ「三国志」については書き続けていきます。それと他にもたくさん書きたいことがあります。でも驚くことは、私がここが10回分を書いたのだということを忘れていたことです。もうどんどん、駄目になっていますね。

 前にこの「歴史さとう」で中国について、「食人」ということを書きました。私としては、「俺もついに書いちゃったな」という思いなのですが、さらに書きます。
 三国志の物語の中で、これは原典は「三国志演義」にあるのだと思います。劉備玄徳が、曹操に終われて中国を南へ逃げて行きます。その逃げる途中であったことです。
 劉備玄徳は実に人望はあるのですが、とにかく曹操の方が強力に強くて、ただ逃げていくのです。もう逃げるばかりで、食べるものの調達もできません。実は歴史上でも、この時期はひどい飢饉が続き、中国の歴史が始まって以来始めて人口が減ったと言われている時代です。
 劉備が逃げていく途中で、玄徳を尊敬崇拝する一族家族に世話になります。だが、曹操の軍勢が迫ってきています。その一族もなんとしても大事な玄徳を世話したいのですが、どうにもなりません。そしてそこからも逃げて行くのですが、その前に、何もないはずだったのに食料が出されます。それを劉備は食します。
 そして逃げるときに、その食料のことを感謝します。でもそのときに、あんなに何もなかったはずなのにというと、そのとき劉備が食したものは、その劉備を世話した人の妻の身体を食したのでした。そのことを語られて、実に劉備はものすごく感謝します。そしてその主人のいたとなりの部屋には、その夫人と思われる人の亡骸があったそうです。
 このことを三国志の世界では美談として描いているのです。
 吉川英治が、自分の「三国志」を描いた中で、「私はこのことだけは書けなかった。でも中国では、このことを美談として書いているのだが、私にはどうしても理解できない」とだけ、わずかに書いています。
 これが私にもどうしても理解できない中国の「食人」の考え方です。
 魯迅が真剣に悩み、苦しんで、あの『狂人日記』を書いたということを、できたらご理解ください。

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 結局このポメラはどこでも書けるからいいのですね。

2010/01/29 07:17蜘蛛業に毎朝UPしている(実際には主宰の目森一喜さんにメールします)のですが、いつもこの時間には終わっています。
2010/01/29 08:18「ウェルかめ」を見始めました。この主人公の書いた手紙が今読まれています。私もよく手紙を出しますが(昨日も出したものです)、こうして読んでいただいているのかなあ。手紙はメールとは大きく違います。いやメールほど便利ではないです。文面にURLやメールアドレスを書いてもそれをクリックしてもなにもなりません。文の内容で勝負しなければならないのです。
 このことは大事ですね。
2010/01/29 10:34今地下鉄に乗りました。新江古田までです。いえ、蜘蛛業にUPすることで、三国志のことを書いたのでしたが、UPする寸前に止めました。
 うーん、いろいろと思うことがあるのですね。考えちゃうな。最初は私は、張合邦(合におおざとへんの一字で、ちょうこう)のことを書くつもりでした。そして、司馬懿仲達のことも。でも何故か、諸葛孔明のことと曹操のことを少し書けただけです。いやいや、三国志に関わるいくつものことも書きたい思いでした。
 だから、これできょうはUPして、(家に帰ってから)そのあとまた書き続けます。「その2」「その3」と続けようかなあ。
2010/01/29 14:19今浜松町です。いえ、大江戸線で都庁前で乗り換えるのを忘れました。「グーグルの全貌」を読んでいたからです。困ったものですね。とにかく、急いで帰ります。いえ、いろいろなことがありますね。でも私には「グーグルの全貌」はよく内容が理解できたとはいえないのですね。グーグルって、私にとっては親しい存在のはずでしたが、今の私ではもうついていけないですね。自分にいささか呆れてしまいます。
 これから帰ってちゃんと反省しよう。
2010/01/29 14:30でもなあ、あんまり信用できない能力しか私にはないですからね。
 王子駅から、歩いて帰ってそれで考えましょう。
 明後日はブルータスに会えることが嬉しいです。ポコ汰のこととポニョのことをいっぱい喋ります。さてやっと王子に着きます。              
2010/01/29 17:53長女の家に来ました。でも今長女から電話があって、きょうはミツ君の実家に行くので、ここのは帰ってこないといいます。そうすると、私は何でここにいるのだ。だから帰ろう。
2010/01/29 19:16家でビール飲んでいます。孫に会えなくてつまらなかったのです。明日なら会えるかな。これで、食事が終わったらUPします。
 もっとなんとか、このポメラをもっとうまく使いたいなあ。手紙もけっこうこれで書いているから、これでいいのかなあ。ただし、今はやることが多くなった気がするなあ。

 きょうは新江古田へ行きました。そこでいろいろと打ち合わせました。

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 きょうは、妻のガン検診で、一緒について行きました。ついていく必要があるみたいです。思えば、私は家族だし、夫です。

2009/04/20 08:08テレビを見ていますが、ただただあきれかえる事態ばかりです。それとときどき思いますが、みのさんの発言もあきれかえることがよくありますね。そのときその場に見ている人に迎合した発言はいい加減にしてほしい。もっと一貫してほしいです。
2009/04/20 08:17でもNHKのこの連ドラはラジオ放送局の開設の話なんだ。なんで今更ラジオなのかなあ。なんだかピントはずれに思えるなあ。
2009/04/20 12:49今は「国立柏がんセンター」に妻と待っています。私が手術に立ち会う必要があるのです。ここへ来たのは私は初めてのことです。電車とバスの中で「林雅之『「クラウドビジネス」入門』」を読み終わり、ここでは『「三国志」武将34選』を読んでいます。
2009/04/20 14:07今もう本を読んでしまいましたから、困りました。もう1冊持ってくればよかったな。ケータイでブログを書けばいいのですが、ここは病院だから(いけないのだろうな)、私はやりません。
2009/04/20 14:16今「6,000字以上の文書作成は中止」と出てきてしまいました。だからファイルを新しくしました。6,000字制限があるのですね。
 それでかなりファイル管理をしました。時間がかかりましたね。
 でも帰りのバスとJRで読む本も考えておけば良かったな。
 でも、このポメラで書くのは、自分の頭の中で考えることばかりだから、けっこう大変ですね。これはインターネットに接続しているわけではないですからね。そこが不満です。仕方ないことかなあ。
2009/04/20 14:43少し前に、妻を待つ必要の時間が「あと1時間」と告げられました。このまま、待っているのも大変ですね。漢詩作りでもしていればいいのでが、考えてみれば、このポメラだけじゃ無理なんですね。いつも漢和辞典や詩韻含英異同瓣を持っているわけにもいかなしなあ。いや、私は電子辞書を持っているのだから、あれで平仄や韻は判るのですね。でもそれじゃ無理なんだよな。頼山陽なんかは、電子辞書は持っていないないわけだ(そんな時代じゃないよなあ)が、いつもいっぱい資料を持参していたものなのでしょうね。
 思えば、江戸時代ってそんな時代だったのでしょうね。でもそうすると、菅原道真なんかはどうしていたのでしょうか。あのころは、あんなアンチョコ書籍はないですものね。
 いや、少し電子辞書で調べてみよう。
2009/04/20 15:29今「柏の葉キャンバス駅」です。まだ妻は帰れませんので、私が先に帰ります。義母のお迎えがありますから。帰りに東武ストアで買い物をして帰ります。つくばエクスプレスの中で書いています。
2009/04/20 15:42まだままだですね。次は「八潮」です。この前に「流山セントラルパーク駅」あたりで書いていた文章を消してしまいました。まだ私はよくポメラを使い慣れていないのですね。
2009/04/20 15:50次が北千住だ。ここで乗り換えます。常磐線に乗ったら妻にケータイメールを書きます。もちろん先ほどもう書いていますが。なにしろ、もう読む本がないのよ。
2009/04/20 15:58今常磐線に乗りました。これで帰るとけっこう大変です。王子駅前の東武での買い物がありますから。
 あ、それと本日配信のメルマガのページも作らないといけないですね。それに来ていたケータイメールにも返信しなくちゃいけないのですが、帰ってパソコン見ないと答えられない内容なのです。
 もうすぐ日暮里です。
2009/04/20 16:13今京浜東北線に乗りました。西日暮里駅です。

 思えば、電車の中でけっこう書きましたね。ただ、やはりあわてて帰ってきました。でも今歩いて、10,000歩は達成しましたよ。

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水滸伝〈8〉青龍の章
書 名 水滸伝 八 青龍の章
著 者 北方謙三
発行所 集英社
定 価 1,600円+税
発行日 2002年9月30日第一刷発行
読了日 2008年7月21日

 この本は電車の中と、パソコンを再起動するときなどに読んでいるだけで、今回は電車にも長く乗ることが少なかったので、かなり読み終わるまで時間がかかってしまいました。
 しかし、「水滸伝」というと、私たち日本人には親しく思えてしまう物語なのでしょうが、やはりこの北方謙三さんの「水滸伝」は印象が大きく違います。
 思えば、私は水滸伝の物語を始めて知ったような思いになりました。私は北方謙三さんの「三国志」は読んでいて、少しも好きになれませんでした。でもこの水滸伝は違います。ときどき、どうしても物語のいくつかの場面で涙を流している私です。
 思えば、水滸伝というのは、こんな物語だったのですね。

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「三国志」の世界では、私は昔からいつも曹操が好きでした。とくに私は彼の作った詩が好きでした。
 その三国志の世界の中で、董卓が後漢王朝を簒奪し、袁紹を盟主とする蹶起軍が起き、董卓が洛陽を捨て、函谷関の西の咸陽に去り、蹶起軍がそれを追う様があります。これが一番この三国志の世界で悲惨な惨状を見せてくれています。
 このときのことは曹操は他でも表現していたと思いますが、この詩もそのことを顕しています。董卓軍もひどいものですが、袁紹を盟主とする蹶起軍もひどいものです。
 咸陽まで無理やり追い立てられる民衆の泣き声が今も聞こえる気がします。その中にあって曹操だけは、その民衆の声を聞いて、この中華をまとめようとします。そうした英雄でした。
 そのときの状態を書いた曹操の詩です。

   蒿里行(註1)  曹操
  關東有義士 関東(註2)に 義士(註3)有り、
  興兵討群凶 兵を興して 群凶を討つ。
  初期會盟津 初め 盟津に会するを期すも、
  乃心在咸陽 乃(すなわ)ち心は 咸陽に在り。
  軍合力不齊 軍合わさるも 力斉(そろ)はず、
  躊躇而雁行 躊躇して 雁行す。
  勢利使人爭 勢利 人をして争はしめ、
  嗣還自相ソコ 嗣還(註4) 自ら相そこなう。
  淮南弟稱號 淮南 弟称号し、
  刻璽於北方 璽(じ)を 北方に置いて刻む。
  鎧甲生キ虱 鎧甲(がいこう)に キ虱(きしつ)を生じ、
  萬姓以死亡 万姓 以て死亡す。。
  白骨露於野 白骨 野に露(さら)し、
  千里無鷄鳴 千里 鶏鳴無し。
  生民百遺一 生民 百に一を遺す、
  念之斷人腸 之を念(おも)へば 人の腸を断たしむ。

  (註1)蒿里行(こうりこう) 士大夫や平民の葬送の際の歌。
  (註2)関東 函谷関の東。
  (註3)義士 義軍の軍勢。後漢王朝を簒奪した董卓征伐の義軍。盟主は袁紹。
  (註4)嗣還(しせん) その後まもなく。

  関東で、蹶起軍がおこり、
  兵を起こして、凶暴な勢力を討った。
  最初は、盟津で合流することを期したが、
  その心は、咸陽を討つことにある。
  軍勢は連合したが、足並みが揃わない、
  少しずつずれて、斜めになって遅れてしまっている。
  勢力と利益は、人を争わせてしまっていて、
  その後まもなく、自分たちで互いに争い始めた。
  淮南にいる従弟・袁術が皇帝を称し、
  北の方(冀州)では、袁紹が皇帝の玉璽を彫っている。
  兵士の鎧には虱がわき、
  多くの人民は、災禍に遭遇し、死亡している。
  白骨を野にさらし、
  遥か遠くまで、人の生活の痕跡がない。
  生き残った民は、百に一つであり、
  このことを思えば、断腸の思いにさせられる。

 この思いから、曹操は決起し戦い続けるのです。曹操は実に真面目な英雄です。当時中国は未曽有の大変に危機的な時代でした。中国の歴史始まっていらい、初めて人口が減少してしまうという悲しい時代でもありました。でも曹操は、その中でも雄々しく闘い続けるのです。

 以下のページにいくつも、曹操、曹丕、曹植の詩をあげています。

  http://shomon.net/kansi/sansou.htm 周の三曹の詩

 ぜひ、この三人の詩人たちの詩を読んでみてください。私の大好きな3人の詩人です。

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08043006  http://floatingworld.livedoor.biz/  it's a floatingworld! blog で、「水滸伝」のことが何回か語られています。以下の通りです。

 http://floatingworld.livedoor.biz/archives/50996724.html
           「水滸伝」備忘録 その1
 http://floatingworld.livedoor.biz/archives/50997832.html
           「水滸伝」備忘録 その2
 http://floatingworld.livedoor.biz/archives/50999034.html
           ドラ本 第3号 「水滸伝」駒田信二訳
 http://floatingworld.livedoor.biz/archives/50999147.html
           テレビドラマ「水滸伝」
 http://floatingworld.livedoor.biz/archives/50999156.html
           ドラ本 第4号 「新釈 水滸伝」津本陽・著
 http://floatingworld.livedoor.biz/archives/50999160.html
           ドラ本 第5号 「水滸伝の世界」高島俊男・著
 http://floatingworld.livedoor.biz/archives/51005256.html
           ドラ本(別格)「水滸伝」北方謙三

 この北方謙三さんの「水滸伝」に関しまして、以下のようにあります。

 間違いなく「水滸伝」の最高傑作である
作品の価値とか味わいとか
そういう判断基準を笑ってしまうほど
魅き込まれた

 ここを読みまして、私も早速王子図書館から借りて読みはじめました。
 私は北方謙三さんの、日本の歴史ものや、現代のサスペンスものはいくつか読んできましたが、中国に関しては、北方謙三「三国志」しか読んできていませんでした。
 この北方さんの「三国志」についていえば、まず呂布をあまりに強いと描きすぎな思いがしました。たしかに、正史「三国志」でも、呂布は強い武将です。だが、あの時代を切り拓く政治家ではありえませんでした。強い武将といっても名将とはいえなかったと思うのです。そこらへんも指摘してほしかったなあ。
 それと、のちの蜀の五虎将軍の一人、馬超なのですが、これも評価しすぎな感じがしましたね。
 それで肝心の「水滸伝」ですが、私は今はまだ第1巻を読んでいるところです。なんでも全部で19巻あるということです(今インターネットで調べました)から、この段階では何も言えません。とにかく、今後読んでまいります。

 それで、高島俊男「水滸伝の世界」も私には実に面白かったです。それで私は、この高島俊男さんの本はいくつも読んでいます。オノ君が、

高島俊男氏は以前書評を書いた「漢字と日本人」(文藝春秋)というとても面白い本も著されています。

と書いていますが、もうその通りです。もう私は、この本を読みながら、実に声をあげて笑いました。でも涙を流してしまったところもあります。
 私は週刊誌は読まないのですが、「週刊文春」だけは、この人の「お言葉ですが…」がありましたから、読んでいました。ということは、この連載がなくなりましたから、もう当然読みません。これが単行本になったものはすべて読んできましたが、思えば、つい先月全部売ってしまったのですね。しかたないなあ。
 とにかく、北方謙三「水滸伝」を読んでいきます。でも電車に乗らないと、読んでいる時間が見つけ出せないのですね。あとは、こうしてパソコンを打ちながら読むしかありません。

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 三国志―正史と小説の狭間

書 名 三国志!
著 者 満田剛
発行所 白帝社
定 価 1,800円+税
発行日 2006年2月20日初刷発行
読了日 2008年1月6日

 ほぼ電車の中で読んできましたが、暮から外出することがわずかで、読み進みませんでした。
 これまで三国志関係はいくつもの本を読んできていました。以下にも書きましたように

 http://shomon.livedoor.biz/archives/51154589.html もう一つの「三國志」

「三国志」「三国志演義」をめぐる本はいくつもありまして、目につく限りは読むようにしているのですが、とにかくどれも長いので、家で読んで、そのあと自宅に置いておくのは大変なことです。

a9fe185e.jpg でもこの本では、最初第三章「西暦百九〇の主役───袁紹と袁術」で次のところで文章にひかれてきました。

 董卓は独裁者のもつ恐ろしさからであろうが、長安の近くに万歳オという塞を築き。そこに財宝・兵糧を蓄えていた。ちなみにこの万歳オは曹操の形の原型、うなわち「自らの勢力の中心から首都を遠隔操作する二重政府」の原型となったと考えられる。

 董卓というのは、三国志の中でいわば一番どうにも評価できない存在でしたが、こんなことをも見ていくべきなんですね。
 後半の時代が魏から晋に替わって、蜀が滅ぼされ、呉も滅ぼされる時なんかはいわば、私たちがよく読まないところであり、でもこれで少しはまたその時代にも触れられた思いがあります。

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 私の 周の漢詩入門「曹丕『善哉行』」ナミちゃんから次のコメントをもらいました。

1. Posted by なみんと    2007年10月15日 20:36
この詩・・いいですね。
落ち着いてきます。
人生如寄
多憂何為
今我不楽
・・他」に
湯湯川流
中有行舟
・・・大きな川の流れに任せて・・と解釈してよろしいんでしょうか。

 まずありがとう。そして、まずこの曹丕の詩とは関係ないことを書きます。私はきょう、Aと会ってきました。彼の会社のことで、もう前から早く会うべきだったのですが、いろいろと機会が見つけられないで、きょうになってしまいました。でもね、会っても、きょう行ったことの目的の資料を彼が用意できなくて(その場でも用意できなくて)、大変に困りました。でも、そのあと、ずっとしばらく一緒にいて、彼のお母さんの介護に関すること、私の義母の介護のこととか、いろいろとお話しました。彼からは、私が「これは大事なことだなあ」と思うことも聴いて(介護に関することですね)、そこで言われたことを、私は、私の長女とその彼と(ポコちゃんの前で)、お話したのです。妻にも話しました。彼のお母さんも、私のことも、私の父母のこともよく知っているので、今度会いに行って、お話したいなあ、と思いました。
 また彼の奥さまにも会いたいのですが、今回は無理でした。でもきょう私が持って行ったお土産のお菓子を、奥さんも、彼の長女も食べてくれたでしょうから、そのお菓子の楽しさに、私の気持を少しは感じてくれたかなあ、と思っています。
 私が書いている、青木昌彦の「私の履歴書」のことも、彼も日経新聞で読んでいて、私もたくさんのことを思いました。思えば、彼も京都にも長く居たのですね。

 それで曹丕の詩です。いい詩でしょう。「・・・大きな川の流れに任せて・・と解釈してよろしいんでしょうか」と聞かれても、明確に応えられないけれど、「大きな川の流れに任せて」の「大きな川」というのが、黄河なのかどうかということでは、華北の当時のいくつもの河なんじゃないかなあ。ただし、「いくつもの小さい河も」と言っても、私たちの身近である利根川よりも大きな河川なんでしょうね。

 曹操は四言詩が多いのです。短歌行 がそうですね。まだ詩の形は「まだまだこれから〜」という時代です。でも 苦寒行 は五言詩ですね。そして三曹の中で、いつもどこでも詩を紹介公開される曹植は五言詩ばかりです。(ああ、私はこの曹植『吁嗟篇』なんか、どう言ったらいいのか判らないくらい好きな詩です)。
 でも私は、曹丕「燕歌行」のところで、

 曹植の詩がほとんど五言詩なのにくらべて、この詩は七言詩です。たぶんもっとも早い七言詩でしょう。

と書いたのですが、こうして見ますと、曹丕って、やっぱりすごいものを持っているでしょう。自分の思いをそのまま述べるとしても、歌う詩をこうして、形式を新しく作ろうとしているのです。だから私は、この曹丕を、多くの歴史書・物語の「三国志」で描かれている姿ではないのだと思っているのです。曹丕の詩は、この私のホームページ内だけではなく、このブログ内でも以下の

   http://shomon.livedoor.biz/archives/50066808.html  曹丕「於玄武陂作」

を書いています。
 いつも曹丕を詩を読み、「やはりいいなあ」と思いながら、曹植の詩で、「でもこれは天才だなあ…………もし、唐の時代に杜甫が現れなかったならな………」なんて思っていて、でもまた曹丕の詩を読み、またぐずぐずになっています私なのです。
 そして結局はまた曹操の詩を見つけ出して、読み、また納得している私なのです。

 曹丕もまた、そしてその父親の曹操もまた、こうした詩を作りながらも、時代の中で必死に闘って行ったのです。私には、その父と兄に、息子と弟の曹植だけには、自分たちのような政治の世界でだけ活きるのではなく、詩の世界でのみ活きてほしい、という意思をいつも感じてしまうのです。それが父と兄の心だったと私は思うのです。

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2017041109

中村愿『三国志曹操伝』を読んで、この詩を知りました。ただし、この本の中では詩の原文ではなく、この著者の訳しかないものですから、自分で探しました。
いい詩ですね。やはdd628922.jpgり曹丕もいいです。私は彼の詩を読んで、演義で言われている彼の姿とあまりに違う姿が思い浮かぶものですから、いつもその違いに驚いています。
でも私はいつも、私がこうして、詩そのものを読んで、思い浮かべる曹丕こそが本当の姿であろうと思っています。

善哉行 曹丕
上山採薇 山に上り 薇(わらび)を採り
薄暮苦饑 薄暮(はくぼ) 餓えに苦しむ
谿谷多風 谿谷 風多く
霜露沾衣 霜露(せいろ) 衣を霑す
野雉羣ナ 野雉(のち) 羣(むらが)りナき
猿猴相追 猿猴(えんこう) 相追う
還望故郷 還りて 故郷を望むに
鬱何壘壘 鬱(うつ)として何ぞ 壘壘(るいるい)たる
高山有崖 高山に 崖有り
林木有枝 林木に 枝有り
憂來無方 憂い来たり 方無く
人莫之知 人の之(これ)を 知る莫し
人生如寄 人生は 寄るが如し
多憂何為 多く憂えるも 何をか為さん
今我不樂 今我 楽しまずんば
歳月如馳 歳月 馳(は)するが如し
湯湯川流 湯湯(ゆゆ)たる 川流(せんりゅう)
中有行舟 中(うち)に 行く舟有り
隨波轉薄 波に随って 轉薄(てんぱく)して
有似客遊 客遊に 似たる有り
策我良馬 我が良馬に 策(むちう)ち
被我輕裘 我が軽裘(けいきゅう)を被り
載馳載驅 戴(すなわ)ち馳せ 戴ち驅(か)り
聊以忘憂 聊(いささ)か以って 憂いを忘れん

山に上って蕨を採り
日暮れになって腹が減る
谷間に風が多く
霜や露が衣を濡らす
野の雉は群れに鳴き
猿たちは二匹で追いかけ戯れているのに
我が故郷の空を顧みると
ただ樹木の鬱蒼たる山が重なり合っているのみである
高い山には崖があり
林の木には枝があるものを
憂いの訪れ方は定めがなく
誰もそれを予知し得ないだろう
誰の人生も寄る辺がない
いくら憂えたとてどうにもならぬ
されば今のうちに楽しまねば
年月は馳せるが如く過ぎ去ってしまう
流れてやまぬ川の流れの
中に漂う小舟一つ
波の間にただよう姿
自由きままな旅人のようだ
さあ、我が良馬に鞭をあて
軽い外套ひっかけて
この山野を駆け巡り
憂いなどを吹き飛ばそう

いつも曹丕の詩を読みますと、実にいい詩だな、見事だなあ、と思うのですが、詩の作品としては弟の曹植のほうが上だと思ってしまいます。
でもそれはそういうことを前提にして思ってしまっている私がいるだけなのです。個々の作品を読むと、やはりいつも曹丕のほうの作品のほうがいいんじゃないかなあ、といつも思い、そしてまた、曹植の作品を読むと、その詩の前で、感歎の声をあげてしまっています。
やはり曹丕・曹植ともに、大詩人である父曹操の息子たちなのですね。

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07100802 曹操の息子 に書いた本です。このところ我孫子への行き帰りとクライアントへの行き帰りの電車の中で読んでいます。でもけっこう中身がたくさんつまっている感じで、まだ読み終わりません。

 日本人が読める「三國志」としては、以下の本を私は読んできました。私が読みました順です。

 吉川英治「三国志」
 柴田連三郎「英雄ここにあり」
 陳寿「三國志」(裴松之の註を含む)
 羅貫中「三國志演義」
 横山光輝マンガ「三国志」
 北方謙三「三国志」
 伴野朗「呉・三国志 長江燃ゆ」

 もちろん、あと短いものはいくつも読んでいます。

   土井晩翠「星落秋風五丈原」は一時は全文暗記暗誦できたものでした。あと「世説新語」、「三国志平話」はまだ読んでいません。手に入れるのが大変だから、図書館でと思っています。
 それと宮城谷昌光さんの「三国志」が「文藝春秋」で連載中です。私はこれが世界で最大の「三国志」になるだろうと思っています。

 ところで、この坂口和澄さんのこの本ですが、大変に読み応えがあります。
「西南夷の章」の「南征の目的はどこにあったか───諸葛亮」というところは、実に頷きました。孔明の南征は、「一体あんなことが何になったのかなあ?」という思いもあったのですが、実に納得できました。

 それにしても、もう少しでこの本は読み終わります。でも電車に乗らないと、読んでいる場がないですね。
 それと、この坂口和澄さんの他の本も見つけ出して読んでみたいと思っています。

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 今王子のサミットストアに行きまして帰ってくると、次女ブルータスから連絡があったことを知らされました。いよいよブルータスの結婚式ですから、こちらの親族の名前住所を聞いてきたのです。それですぐにケータイメールしました。
 そうするとまた電話があり(妻が出た)、私の兄の名前の漢字の確認です。
 それで、すぐさま私がケータイメールしました。以下の内容です。

莞爾だよ
「にっこり」笑うという意味があるんだ。我孫子じいちゃんが思いを入れて考えた名前だから、間違えるなよ。三国志に「諸葛亮孔明、莞爾として笑う」なんていうところがある。「にっこり笑う」という意味だね。2・26事件で処刑された中島莞爾(あびこじいはこの人を尊敬していた)という人から付けた名前だよ。

 思えば、私の兄の名前は「莞爾」で、私は「周二」で、弟は「正志」です。私の兄と私との間には、日本の敗戦という歴史の事実がありました。
 そういえば、「莞爾」というと、まず誰もが石原莞爾のことを言います。「彼から名前をつけたのか?」というふうに聞いてきます。何を言うのですか。そもそも私の家では、この石原莞爾のことが大嫌いでした。
 そもそも、2・26事件のときに石原莞爾はすぐさまこの決起した将校たちの処刑を主張します。私からいわせれば、とんでもない人物です。
 あるとき、ゴールデン街でこのときの石原の振舞いを私が非難していましたら、早稲田大学の活動家だった人が、「あのときには、石原莞爾は満洲にいるんではないか?」などといいますので、私はやはり石原莞爾は、あのときに東京にいて、ただただ2・26の決起将校たちの処刑ばかり主張したと繰り返しました。
 その後何ヶ月後かに、また再び同じ飲み屋で彼と再開したときに、彼は「たしかに、あのときに石原莞爾は東京にいたんだね」ということで、その彼も「今までは石原莞爾というと、すごい人物かと思い込んでいたが、あなたの言うとおり、とんでもない人物かもしれないなあ」と言ってくれたものでした。

 ああ、いわばどうでもいいのですが、そのくらいのことをここに記しておきたかったのです。

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