将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:三国志演義

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 1週間くらい前に私は15時30分頃、1Fの私の家のポストで手紙を受け取っていました。ここは毎日15時に郵便が届くのです。
 その中でこのDMがありました。それが「横山光輝『三国志』」のCDの広告のDMです。私はこれは実際の漫画全60巻をすべて通して2回読みました。
 私は「吉川英治『三国志』」は高校1年の時に読みました。授業中にただひたすら読んでいました。それをある先生が取り上げて、でも何もいわずそのまま返してくれました。 私がこの「三国志」関連で読みました本を以下あげてみます。

  吉川英治「三国志」全3巻(吉川英治全集)
  陳寿「三国志」(裴松之の註も含んで。筑摩書房世界古典文学全集全3巻)
  羅貫中「三国志演義」(立間祥介訳)
  伴野朗「呉・三国志」(全10巻)
  横山光輝「三国志」(全60巻)
  宮城谷昌光(今はまだ7巻くらいまで)
  北方謙三「三国志」(全13巻)
  陳舜臣「秘本三国志」(全6巻)
  柴田錬三郎「三国志英雄ここにあり」(全3巻)
  王欣太「蒼天航路」(全36巻)
  井波律子「三国志演義」(岩波新書)15102401
 まだほかのもあるかもしれません。ただとにかくこうしてあげておきます。

11060403 私は「三国志」に関しては、いくつもの書物を読んできました。実は「三国志」というと、歴史書としての『三国志』と『三国志演義』が渾然となっている傾向がこの日本にはあります。
 歴史書としての『三国志』は実は完全に訳されたのは昭和の戦後のついこの頃(1977年、1982年、1989年で三巻。筑摩「世界古典文学全集」)のことであり、ほぼ『演義』が三国志とみなさえていたことがあります。
 ただ中国では、三国志というと、いわば関羽が神として中国には存在していますから、それも中華街に行ったら頭に入れておかねばならないでしょう。横浜中華街での「関帝廟」に行くと、「ああ、中国人は関羽が好きなのだなあ」とつくづく思います。ただし、この関羽が好きなことは、この日本人も負けていないでしょう。
 それに三国志の物語は、そもそも諸葛亮がかなり自分のことを作りあげてしまったことがあり、それの影響が多大だと思われます。日本人は、南北朝時代の楠木正成にも、大坂の陣のときの真田幸村にも、この諸葛亮孔明の姿をかさね合わせたのではないでしょうか。
 もともと孔明という人は戦は苦手であったと言ってよく、内政こそが得意の分野でした。だがこの彼が蜀をすべてやりきらないとならないわけで、実に無理があったと思います。だがとにかくやり通しました。だからこの三国志の世界は、後半はもう諸葛孔明の話であり、私などには大変に面白くは感じられないものなのです。
 曹操が主人公とも言える三国志の前半は、実に面白い英雄たちの戦いの話であり、しかも曹操の作った漢詩を思い出しますと、これまた雄々しいというか実に面白い男たちの話です。でも孔明が登場すると、どうしても主君に対する熱烈な愛の話、涙の話になるのですね。また実は、孔明もそういう話を意図的に作り上げているとしか思えないのです。
 諸葛亮孔明の「出師表」(これは前後の二つの文があります)は、鬼神も泣くとされ、泣かないのは男ではないとされてきました。私も「前出師表」はすべて暗記し、かつすべてを書き出せるように、FEPを鍛えたものです(今はGoogle漢字変換になったから違います)。でも今自分に問うのですが、そんなことは何になるのでしょうか。
 どう見ても、私自身も出師表よりもはるかに曹操曹丕曹植の詩のほうが数段好きですし、実にいい詩だと確信します。どうみても孔明の漢詩(孔明には「梁甫吟」という詩が残されています)なんか、私にははるかに駄目だとしか思えません。
 ただ、孔明の一途な気持にも私はどうしてもただただジーンとなってしまうものなのです。(2011.06.04)

11052716 昨日ここで、「食人」ということを書きました。私としては、「俺もついに書いちゃったな」という思いなのですが、さらに書きます。

 三国志の物語の中で、これは原典は「三国志演義」にあるのだと思います。劉備玄徳が、曹操に終われて中国を南へ逃げて行きます。その逃げる途中であったことです。
 劉備玄徳は実に人望はあるのですが、とにかく曹操の方が圧倒的に強くて、ただ逃げていくのです。もう逃げるばかりで、食べるものの調達もできません。実は歴史上でも、この時期はひどい飢饉が続き、中国の歴史が始まって以来始めて人口が減ったと言われている時代です。
 劉備が逃げていく途中で、玄徳を尊敬崇拝する一族家族に世話になります。だが、曹操の軍勢が迫ってきています。その一族もなんとしても大事な玄徳を世話したいのですが、どうにもなりません。そしてそこからも逃げて行くのですが、その前に、何もないはずだったのに食料が出されます。それを劉備は食します。
 そして逃げるときに、その食料のことを感謝します。でもそのときに、あんなに何もなかったはずなのにというと、そのとき劉備が食したものは、その劉備を世話した人の妻の身体を食したのでした。そのことを語られて、実に劉備はものすごく感謝します。そしてその主人のいたとなりの部屋には、その夫人と思われる人の亡骸があったそうです。
 このことを三国志の世界では美談として描いているのです。
 吉川英治が、自分の「三国志」を描いた中で、「私はこのことだけは書けなかった。でも中国では、このことを美談として書いているのだが、私にはどうしても理解できない」とだけ、わずかに書いています。

 これが私も吉川英治と同じで、どうしても理解できない中国の「食人」の考え方です。
 魯迅が真剣に悩み、苦しんで、あの『狂人日記』を書いたということを、できたらご理解ください。

11050508 お隣の家から借りて、思わず読み耽ってしまった漫画です。

書 名 三国志
著 者 横山光輝
発行所 潮出版社「希望コミックス」

 やはりこの60巻は読み応えがありました。通して2度読みましたが、けっこう時間がかかりました。
 最初読み始めたときには、「なんだ吉川英治の真似ではないの」と思いました。だが段々読み進むうちに、「三国志演義」そのものから書いているのかなというふしがあります。
 私たちの接する「三国志」というのは、通常羅貫中の書いた「三国志演義」です。そしてさらに我々日本人には吉川英治「三国志」に一番接してきたものだといえるかと思います。この吉川英治「三国志」も「三国志演義」から書かれたものです。
 本来「三国志」というのは、晋の陳寿が書いた「三国志」という歴史の本でした。ただ内容は「演義」とはかなり違っています。三国のうち魏を正統として書いているのです。そして実に簡潔です。いや簡潔、簡略すぎるといっていいでしょう。これがのちの世まで残る名著になったのは、南北朝時代の宋の文帝が、「あまりに簡略」と不満を述べ、裴松之(はいしょうし)という人に、「三国志」の補正をさせたことにあります。このことが、陳寿「三国志」を不朽の名著にしました。
 実にこの裴松之の付けた註こそが、陳寿の書いたものよりも膨大な量であり、実に内容が豊富であり、面白いのです。のちの「三国志演義」も、この裴松之の註から生まれたともいえるでしょう。私たちの知っている「三国志」のたくさんのエピソードは、実は陳寿ではなく、裴松之の註に書いてあるのです。
 ところで、この陳寿作・裴松之註「三国志」は、実は日本で訳されたことは、長い間ありませんでした。日本で初めて全訳されたのは、昭和五〇年代のことです。筑摩書房の「世界古典文学全集」でです。当初は高橋和己が訳す予定だったのです(高橋和巳は亡くなってしまいました)。私は高橋和己の訳でも読みたかった気がしています。
 でも、ということは、すなわち、これだけ日本人に親しまれた歴史物語なのですが、正史「三国志」というのは、この日本でそれを通して読んだ人は、江戸時代、明治時代もまずほとんどいなかったのだといえるでしょう。
 それが今では、いわば正史であろうが演義であろうが吉川英治であろうが、誰でも読め、さらに光栄のパソコンゲームともなっていて、まさしく、このところ永遠に続く「三国志」ブームのような雰囲気があります。そしてそのブームのまた一つの中心が、この漫画である横山光輝「三国志」といえるでしょう。

 これを読んで新しく知ったこともいくつかありました。戦いのときに、銅鑼を鳴らして合図したり、味方を鼓舞したりするのは、なるほどなと思いました。おそらく最初の「てっぽう」も、こうした合図の道具だったのでしょう。そうすると、我が国の合戦では、こうした銅鑼は使っていなかったのかな。太鼓だったのでしょうか。
 また関羽の八十二斤の青龍刀や張飛の一丈八尺の大矛などを、絵でみてみるとよく判ります。ただ、あれで馬上で闘うのは、かなりな苦労でしょうね。一騎討ちのシーンなどをみると、日本の平重盛と源義平との闘いなどとは少し違うようだなと思いました。源平合戦のほうが、華麗な感じがしています。三国志では、なんだか、闘いの場の大地そのものがもっと無味乾燥なところという気がしています。
 それにしても、当初さまざまな群雄たちが集う、中国の大地が、どうしてか諸葛孔明が現れると、雰囲気がまるで違ってしまいます。戦の仕方ががらりと違ってきます。孔明の出現により、三国志は群雄たちの物語ではなく、孔明の世界になってきてしまうのですね。孔明はいつも勝利していますが、どうしても魏を倒すことができません。
 絵を見ていて、関羽、張飛などは、こんな顔していたのかななどと思いましたが、劉備はもっと太っているんじゃないのなんて思いました。董卓はもっと腰の幅が大きかったはずです。私がどうみても、この姿は違うんじゃないかと思ったのは、曹操の部下の、徐晃はもっと優男ではないのか、張コウはもっとひげ顔なような気がする。呉の陸孫はいくらなんでも、美丈夫なはずではないのか。等々のことを思いました。

 この漫画から三国志の世界に入っていくやりかたもあるのでしょうね。おそらくどこかでこれから三国志を見ている少年に会えるような気がします。そのときに、おそらくいろいろなことを言うことが出てくるでしょうね。そんな出会いを今からずっと期待していたく思います。(1998.11.01)

 先週、ある会合で、会合あとの食事会のときに少し顔見知りの方に突如声をかけられました。

  作家によって、同じ三国志と言っても、随分描き方が違うんで
  すね。吉川英治でも柴連(柴田連三郎)でも違うし…………

 私はすぐ答えました。

  そうですね、例えば北方謙三さんの三国志も違いますね。例え
  ば、一巻で、劉備玄徳が最初小さな村の役人として赴任して、そ
  こで中央からやってくる役人を殴るというところが北方さんには
  あるんですが、あれは普通は張飛がやったことになっていますが、
  北方さんは堂々と劉備にしている。実は劉備の実像は、かなりな
  暴れ者ですから、あれが真実なんだろうと思いますが、あれは
  「演義」ではなく、「世説新語」に書いてあるんですね。
   そちらの説を取り、張飛をこそ劉備の悪いところを一身の引き
  受けてしまった役割をはっきりさせたのは、北方さんの描く三国
  志ですね。

11020603 思えば、吉川英治の「三国志」も独特なところがあります。「三国志演義」には描かれていないことがいくつもあります。桃園の義の前に、関羽が「草堂牧舎」といういわば学習塾をやっていたことになっていますが、これは「演義」にも出てこないし、「正史三国志」の裴松之の膨大なる註にも出てきません。いやいや吉川英治でも、こうして思い出せば他にもいくらでも出てきます。
 同じ時代を同じ題材で描いたとしても(誰もやはり演義が下敷きになっています)、その作家によって違う解釈の作品ができてきます。これは実に面白いところです。
 こんな小説の話ではなくとも、こうしたことをあちこちで感じています。さまざまな出来事に対処するのにも、いくつもの解があるのだなと思っています。そのことをあちこちで感じています。(2002.03.25)

11012705 私の友人が共通の友人のところへ遊びに行ったときに、ある公園でそこの小学生の息子とボートに乗ったのだそうです。ところが、友人はこの息子と二人でボートに乗ったことをすぐに後悔しました。この息子は「三国志」の大ファンで、その話を仕掛けてきたのです。

  そりゃ、あなたなら「三国志」は得意なのだろうけれど、俺は
 まったく知らないんだよ。ボートの上じゃ、逃げることもできな
 いから、本当に困ったよ。

 この息子は、横山光輝「三国志」とゲームの「三国志」のファンだったようです。たしかに私なら、その少年といくらでも話を続けているでしょう。
 私は、こんな少年との出会いがあるかもしれないと思って、けっこう「三国志」に関する本は見つけ次第、読むようにしてきました。正史「三国志」も羅貫中「三国志演義」、吉川英治「三国志」も何度か読んできました。評論でいうと、魯迅のこの時代に関する論述にはいつもうなずいてきました。また小説、評論に限らず、三曹の詩や孔融をはじめとする七子の詩もよく見てきました。
 そんなことで、今回以下の本に出会いました。

書 名 三国志演義
著 者 井波律子
発行所 岩波新書
1994年8月22日第1刷発行

 この本を読んで、まだまだ「三国志」をめぐる物語はたくさんあることを知りました。「世説新語」「三国志平話」などという古典があることを知りました。「三国志演義」を生んだのは、正史「三国志」及び裴松之の註が一つの流れであり、もう一つの流れが民衆の世界で育まれた物語戲曲の系譜だといいます。そうした民衆の中の物語で残っているのが「三国志平話」だということです。
 私は、いわゆる「三国志」の主役といったら、曹操と諸葛孔明だと思ってきました。最初は曹操を元とする群雄たちの戦いの物語であり、なんと言っても、その中心には曹操がいます。だが孔明が出てくると、曹操の存在は色が薄れてしまって、孔明の劉備への忠節の物語になってしまう気がしていました。だが、この著者は以下のように言っています。

 『三国志演義』の校訂者毛宗崗によれば、『演義」には「三絶」、
 つまり三人の傑出した登場人物が存在するという。「智絶(知者
 のきわみ)」の諸葛亮、「義絶(義人のきわみ)」の関羽、「奸
 絶(悪人のきわみ)の曹操の三人が、これにあたる。これはさす
 がに的を射た卓見である。なぜなら、彼ら「三絶」こそ『演義』
 の世界を動かす真の主役なのだから。
             (第5章「主役たちの描かれかた」)

 私もなるほどなと納得してしまいました。魯迅から言わせれば、「演義」は曹操を悪役、劉備を善役としていて、それだから不満なわけですが、この著者によると、羅貫中は、曹操を単に悪役奸雄としてのみでは描いていないとしています。それが、曹操と関羽の関係の描き方の中に、あらわれているというのです。たしかに「演義」では、曹操は悪役であるわけですが、関羽とのからみを描くときに、曹操の英雄である面をおおいに見せてくれています。赤壁の戦いに破れた曹操を、華蓉道にて、見逃す関羽の姿は、実に爽やかさを見せてくれます。曹操も、関羽との友情を垣間見せる曹操の部下張遼の姿も、実にいいのです。それに対して、関羽はどうあっても曹操を逃すだろうと、予測している孔明の言い方は、あんまり感じのいいものではありません。自分の能力をひけらかすのではなく、男同士、英雄同士の友情とか義というものを信じろよ、と私はいいたくなるのです。
 こうしたことの他にも、いろいろとうなずけて読めた本でした。長大なる「演義」の物語からすると、薄っぺらい新書なのですが、かなり興味深く読むことができました。(1998.11.01)

 曹植で一番有名な詩といったらこの「七歩の詩」だと思います。この詩に見られる事件がおきたのは、建安二五年(延康元年)のことです。「三国志演義」に描かれています。

  七歩詩    曹植
 煮豆持作羹  豆を煮て羹と作(な)し
 漉叔以爲汁  叔(註1)を漉(こ)し以て汁と為す
 其在釜下燃  其(註2)は釜の下に在りて燃え
 豆在釜中泣  豆は釜の中に在りて泣く
 本是同根生  本是同根より生じたるに
 相煎何太急  相煎ること何ぞ太(はなはし)く急なる

 (註1)叔(し)は上にくさかんむりがついている。醗酵させた豆のこと。
 (註2)其(まめがら)は上にくさかんむりがついている。

 豆を煮て、それで豆乳を作り、
 豆を漉して汁を作る、
 豆がらは釜の下で燃え、
 豆は釜の中で泣く。
 もとはといえば同じ根から生まれたのに、
 どうしてそんなにはげしくいりつけるのですか。

10112806 この兄弟はかなり不幸でした。二人は共にかなりな優れた人たちでした。だが、どちらかが曹操のあとを継がねばなりません。そこで二人の近臣たちは暗闘することになります。曹操は曹丕を後継者ときめたにもかかわらず、曹丕には曹植の動向が絶えず気になったことでしょう。
 ほぼその闘いには曹丕側が勝利して、この事件がおこります。羅貫中「三国志演義」では次のようにこの事件を記しています。
 曹丕はある日、曹植に七歩ゆく間に詩を作れ、できなければ死を賜うといいます。題材はそこにあった二匹の牛が争っている水墨画でした。ただし牛とか二匹とかいう文字の利用は許しません。曹植は歩きだし、七歩で見事な詩を作ります。曹丕もその臣下も感心しますが、曹丕はさらに即座に兄弟を題にした詩を、しかも兄弟の二字を使わないでつくれと命じます。できなければ、そのとき曹植の首はありません。この曹丕の言葉の次に、曹植がすぐに詩いだしたのが、この詩でした。
 もとは同じ曹操の子として生まれた兄弟なのに、どうしてそんなに私を激しく責めるのですか───という詩に、兄曹丕も思わず涙ぐみます。
「演義」ではこの詩は最後の二句はありません。最初の4行だけになっています。古来からこの詩は名高かったのですが、一体曹植の詩であるかどうかは確証がありませんでした。ただ私には、やはりこれは曹植が作った詩だと思ってしまいます。本来は仲のいい兄弟であったはずなのに、魏という大帝国を父から受け継いだ二人はどうにも不幸な関係になってしまったのです。曹丕は弟を愛しながら、そして詩人としての才能に嫉妬することもあったでしょうが、どうしても迫害してしまいます。弟は兄を敬愛し、なんとか魏の為に政治の世界に携わりたいのですが、どうしても許されません。「兄よ、私にもあなたの政治を助けさせてください」という植の思いに、曹丕はきっと心の中でこう答えていたに違いありません。

  弟よ、私には少し悔しいことでもあるのだが、お前は多分大変に詩人としての才能に恵まれているのだ。お前が政治の世界に出てきたら、私はお 前を殺さねばならないのだよ。政治は私がやる。おそらく後世にはお前は世界でも第一級の詩人として名高いことだろう。私にはそれが嬉しいのだ。

 二人の兄弟の思いを私はこう考えるのです。兄曹丕にそうした思いを抱かせてくれたのはこの詩ではないのかと私は思っているのです。(私はこれは、2003年の6月頃書いていました)

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