将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:三島由紀夫

201703020320170303022017030202    ここで最後に三島由紀夫対東大全共闘の対談での画像を載せています。私は三島由紀夫が市谷で自決の行動をしたときには、吉本(吉本隆明)さんとこの山口瞳が的確な批評を書いていたと思っています。 
ちなみに私たちは、浦和で三島由紀夫追悼のデモをやったものでした。埼玉県警もお線香を掲げてデモする私たちにとまどっていました。私もそのときだけ、嫌いな黒ヘルメットをかぶったものでした。いつも弾圧の埼玉県警もとまどっていたものです。ただ私にだけは納得できていたかもしれません。
   私は彼山口瞳の作品はほとんど読んでいます。読んでいないのは週刊新潮に長期連載されていたものだけです。
2017030204201703020620170302062017030207201703020420170302022017030203続きを読む

 私の大江健三郎のことで少しに、noraさんから、以下のコメントがありました。

1. Posted by nora   2012年05月07日 20:38
周さんは「読書の鬼」もしくは「渉猟者」とでも言いたいくらいですね。わたしは大江さんの場合、著作より彼の社会運動に注目しています。

1205070712050708 いや私は年間300冊の本・雑誌を読むようにしていたのですが、今は200冊に落ちてしまいました。私は『「書き言葉」と「話し言葉」』ということでは、「書き言葉」を優先するような考えになったのです。話すことよりも、まずは書くことだと思っているのですね。これはこうしてインターネット上のブログに限らず、手紙を書くことでも言えるように思っています。
 大江健三郎はね、若いときには熱心に読んだのですが、もう今はまったく読まないですね。大江さんは、ノーベル賞をもらったときに、なんだかノーベル賞そのものにがっかりした思いがあります。谷崎潤一郎や三島由紀夫がもらっていれば十分納得したのですがね。
 あ、これからなら、村上春樹がノーベル(文学)賞をとれば私はまた、この賞も見直す気になるかもしれません。

 1970年11月25日三島由紀夫が、市谷で自刃したことに関して、吉本(吉本隆明)さんは、

  三島が<日本的なもの>、<優雅なもの>、<美的なもの>とかん
  がえていたものは、<古代朝鮮的なもの>にしかすぎない。また、
  三島が<サムライ的なもの>とかんがえていた理念は、わい小化
  された<古代中国的なもの>にしかすぎない。この思想的錯誤は
  哀れを誘う。かれの視野のどこにも<日本的なもの>などは存在
  しなかった。それなのに<日本的なもの>とおもいこんでいたの
  は哀れではないのか?
                     (試行1971年2月「情況への発言」)

といっています。そしてこの「日本的なもの」とは、本居宣長がつくりだした概念であるといいます。
「本居宣長」というタイトルにひきよせらて、この新書を読んでみました。れのです。

  本居宣長は(1730−1801)はたえず再生する。多くの
 変動と転換を経てきた近代の日本にあって、文化史上、思想史上
 の人物で、宣長ほど、その都度、高い評価をあたえられながら生
 き続けてきた人物は、親鸞などの仏教者を除いたらほかには見当
 らない。ことに戦争をはさんだ前と後の時期に、なお変わらない
 評価の高さを保ってきたことは、考えてみれば不思議なことでな
 のだ。宣長は近代日本のそれぞれの時代に、ある評価の高さをもっ
 てたえず再生するのである。

  私が再生というのは、直接に宣長その人をふたたび当代に甦ら
 せることだけをいうのではなく、「日本とは何であるか」を求め
 るような、日本人のする「自己(日本)」への言及、日本の自己
 同一性(アイデンティティー)を求めるような発言を近代のおけ
 る宣長の言説の再生だと見る、

11050704 著者は日本文化論宣長神話の解体ということで、宣長の「畢生の大業」である「古事記伝」の解体をしていきます。
 中国の史書に範をとった「日本書紀」ではなく、「古事記」にこそ「皇大御国=すめらおおみくに」の本当の姿があるという。「漢意=からごころ」でない日本があるという。だが漢意でない「やまとごころ」とはいったい何であるのでしょうか。
 それに対する宣長の答えは、「絶えず漢意を否定すること」と主張しているとしてしか思えないのです。これがこの著者の「古事記伝」解体なのでしょう。まったくそのとうりなのだと思います。
 だけどなぜ宣長はそう考えたのでしょうか。そしてまたたとえば、そんな宣長にどうして小林秀雄があこがれてしまったのでしょうか。

 ドストエフスキーやランボーに関する小林秀雄の文章を読んでいると、よくこれだけ読み込めるものだと感動してしまいます。それがこと宣長のことになると、どうしてああまで万歳してしまうのか。そこに三島由紀夫と同じ哀しさがあるような気がするのです。
 この本を読みおわっても、「なんだこれだけなのか」という不満が残りました。「本居宣長『古事記伝』解体」というような書名だったら、わざわざ買わなかったのに。「本居宣長」とあるのなら、宣長の源氏もやってほしかった。
 小林秀雄がはじめて折口信夫に会ったとき、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ。ではさようなら」といわれたといいます。私にはこれが重要なのですよ。漢意を拒絶する本居宣長に肯定したり否定したりしてつきあって、いったいそれが何になるのだ。
「物のあわれ」に核心をおいた宣長の源氏こそ、絶えず再生する宣長の存在といえるのではないのか。
 平安時代、貴族の男たちは毎日漢文で日記をつけていました。そして婦女子が読む物語など、頭から馬鹿にしていたはずです。これは近代にいたるまでそうであると思われます。だが当の婦女子たちは、ちょうど少し前に現代の男の子たちがたちが、毎週「ドラゴンボール」を見たいがために「少年ジャンプ」買うように、あの時代の少女たちも、紫式部の物語を待ったことでしょう。そんな少女たちと、彼女たちの読む「物語」をきっとその時代の大人たちは愚かだと感じていたことでしょう(今と同じですね)。
 それを、それらの物語をはじめてまともに評価したのが、本居宣長ではないでしょうか。そこに私はいまも生きている、いまも再生する宣長を感じることができるのです。これが折口信夫がいいたかったことであると思います。宣長の怪しげな漢意を排するやまとごころなどにのっかって、自刃したりすることが、宣長を正当に評価していることではないのだ。
 またこの著者は宣長について書いてくれるのかな、などと思いますが、こんどはよく立ち読みしてから買いましょう。(1998.11.01)

11011609 随分昔のことになりますが、強烈な二日酔が夕方になってもさめないまま、何人もの友人や初対面の人たちと飲みはじめたことがあります。私はこうしたことは実はいつものことでもあるのですが。そこでどういうわけか戦争文学の話になってしまいました。
  最初は大岡昇平「俘虜記」「野火」の話です。私は当時吉本-埴谷論争のため大岡昇平には非常に不愉快に思っていたこともあり、「俘虜記」のあのシーン、銃の照準で白人兵をとらえたとき結局銃をぶっはなさなかったというのに猛烈に異議をとなえました。あの兵が大岡昇平ではなく私たちのような普通の庶民だったら躊躇なく引き金をひいていたのではないか。そしてそれのほうがあたりまえだ。したがってあんな小説は戦争の実体をとらえてはいないのだ。

  そして誰かが日本にはまともな戦争文学というのはないのではないか、あれだけの戦争をやってまっとうに文学で描いていないのではないかというのに対して、段々二日酔も醒めてきて、本格的なその日の酔いになり激しく反論しました。第1次大戦後のフランスのドレフィス事件やロシア文学でのショーロホフ「静かなドン」からソルジェニーツィンの話のあと、では日本はどうなのかという話です。
 私は五味川純平「戦争と人間」、大西巨人「神聖喜劇」、島尾敏雄の数々の作品をあげました。そして、山口瞳の「江分利満氏の優雅な生活」も立派に戦争をとらえていると主張しました。
 その山口瞳のこの小説のお話です。

書 名 江分利満氏の優雅な生活
著 者 山口瞳
発行所 新潮文庫

 三島由紀夫はこの小説を絶賛していました。同じ戦中派としての共感もあったようです。それに対して、山口瞳はどうもありがたくないという対応だったと思います。だが、山口瞳からいわせれば、ゲートルをうまくまけないでビンタはられていた自分と、東大出の秀才とが同じ戦中派であるなんて信じられなかったのだと思います。
 あるとき羽田空港で若いひとたちに囲まれている三島を山口瞳がみて、なんだか三島の回りはボーッと明るかったそうです。あんな華やかな人間が同じ戦中派であるわけないということのようです。山口瞳のひがみでもあるのでしょう。そして三島は、そんな山口瞳に対して、「いやいや、俺だってあなたたちの仲間なんだよ」と気弱にいっている気がします。

 さてこの小説は、大正十五年生まれで、現在東西電機(本当はサントリー寿屋なのでしょうけれど)に勤める江分利満(実は作者)のごく普通の日常が書いてあります。「ごく普通の日常」といったって、私たちはそれが毎日毎日たくさんの大変なできごとの積み重ねであることを知っています。江分利にとっても、戦後どうにかやってきた自分は大変なことをごくあたりまえにやってきたという自負があると思います。
 江分利は面白いんですね。大酒飲みで、人にからんで喧嘩ばっかりしている。妻のノイローゼも息子の喘息も、親父の借金も本当にたいへんなことばかり。

  東西電機の赤羽常務が江分利にきく。
 「江分利。お前、兄さんどうしてる?」
 「ええ。まあ、なんとかやっているようです」
 「へええ。奥さんの病気は?」
 「おかげさまで。まあまあですね」
 「ふうん。坊やの喘息は?」
 「咳は出ますが、まあいいようですね」
 「あ、そうや、お父さん退院したそうじゃないか。どんなふうや?」
 「ええ、まあ、ぶらぶら……」
  常務はついに癇癪を起こす。
 「なんや!お前の言っていることは、ちっとも訳わからんやないか!」
  そんなこといったって仕方ないじゃないですか。これが現状なん
 ですから。

  マンモス企業のマンモスビルの社員食堂にカレーライスを食べよ
 うと思って、つらなる長い長いバカバカしい列にいる三五歳の中堅
 社員、典型的なホワイトカラー、そんなものはどこにも存在しない。
 そんなものは、どっかの社会心理研究所の調査にまかせればよい。
 マス・ソサイアティのなかのひとり、とは江分利も思っていない。
 「あなたは通勤の満員電車の中でどんなこと考えていますか?」
 「はい、何も考えておりません」「あなたの就職の動機は?」「ま
 あ、なんとなく」
 「あなたは今の職場に満足していますか?」「ええ、満足していま
 す」
 「将来、何になりたいですか?」
 「大過なくつとめたいと思います。みんなのために」「あなたの尊
 敬する人物は?」「さあ、ちょっとおもいあたりませんね」

 江分利はカルピスが恥ずかしい。神宮の野球場も恥ずかしい。文学座も、築地小劇場の食堂のカレーライスも、N響も恥ずかしい。何故なのか。

  昭和のはじめにあって、昭和のはじめに威勢がよくって、それが
 ずっと十年代から戦後のいまでも威勢がいいような、そういうもの
 がはずかしいんじゃないかね。

 江分利はある日曜日妻と息子ととある公園にいく。江分利は当然二日酔いだが、角瓶をもっていく。それを飲みながら、だんだん思い出してくるのです。

  江分利の前に白髪の老人の像が浮かびあがってくる。温顔。どう
 してもこれは白髪でなくてはいけない。禿頭ではダメだ。禿頭はお
 人よし。神宮球場の若者たちは、まあいい。戦争も仕方ない。すん
 でしまったことだ。避けられなかった運命のように思う。しかし、
 白髪の老人は許さんぞ。美しい言葉で、若者たちを誘惑した彼奴は
 ゆるさないぞ。神宮球場も若者の半数は死んでしまった。テレビジョ
 ンもステレオも知らないで死んでしまった。「かっせ、かっせ、ゴォ
 ゴォゴォ」なんてやっているうちに戦争にかりだされてしまった。
 「右手に帽子を高くゥ」とやっているうちはまだよかったが「歩調ォ
 とれェ、軍歌はじめェ、戦陣訓の歌ァ、一、二、三……やまァとお
 のことうまれてはァ」となるといけない。
  野球ばかりやっていた奴、ダメな奴。応援ばかりしていた奴。な
 まけ者。これは仕方がない。
  しかし、ずるい奴、スマートな奴、スマート・ガイ、抜け目のな
 い奴、美しい言葉で若者を吊った奴、美しい言葉で若者を誘惑する
 ことで金を儲けた奴、それで生活していた奴。すばしこい奴。クレ
 バー・ボーイ。heartのない奴。heartということがわからない奴。
 これは許さないよ。みんなが許しても俺は許さないよ、俺の心のな
 かで許さないよ。

 江分利は思い出す。ウィスキーに手がのびる。夏子夫人が「パパも、もう止めなさいよ」という。もうここらへんになると私は涙があふれ、とまらなくなるのです。この「白髪の老人」とは一体誰のことになるのでしょうか。

 三島由紀夫の自刃のときにも、適確に書いていたのは、私は吉本(吉本隆明)さんと、この山口瞳であると思いました。実に執拗に執拗に書いています。
 山口瞳はもう亡くなりました。もう戦中派と言われる人も亡くなっていくんだなと悲しかったものです。彼の著作はほんんど読んでみました。そしてとくにこの小説はいつもいつも読み返しています。(1996.11.01)

11011001 明治から大正戦前戦後という時代の流れを考えるときに、帝都となった東京という都市の変貌の仕方が大きな意味があるように私には思えてしまいます。この東京の姿から日本の近代化を解明した文章があります。磯田光一のものです。

  私はこの磯田光一のことを思うと、まずどうしてあんなに早く亡くなってしまったのだいう思いにかられます。もう情況の在り方に耐えられなかったのかななどと思いめぐらしてみています。

書 名 思想としての東京-近代文学史論ノート-
著 者 磯田光一
発行所 講談社文芸文庫
1990年3月10日第1刷発行(1978年10月国文社より刊行)

 磯田の著作を読むといつもそうなのですが、その切れ味のよさには感服しながら、どうも「否、否!」とつぶやいてしまいます。どうしてもその切り方に眉につばをつけてしまうのです。
 最初、森茉莉の「気違いマリア」から「要するに、浅草族は東京っ子であり、世田谷族は田舎者なのだ」という言葉を引用して、これには半面の真理が含まれているとしています。

  昭和の東京が西側に膨張しながら近代化を達成したことを考えれば、
 新上京者として日本近代化の指導層になった地方人は、主として世田
 谷、杉並方面に居を構え、森茉莉の“浅草族”を工業地区のうちに封
 じこめることによって近代化を達成したのである。とすれば、このひ
 ずみが文学のうちにどうあらわれざるをえなかったかを問うことは、
 日本の近代化の精神構造をトータルに問い直すことにもなるはずであ
 る。

 たしかにそうだなとは思っても、なんだか私などが飲み屋でやっている戯れ言のような気にもなってしまます。要するにこのように私たちが普段思っていながら、単なる酒のみ話にしてしまうことを、磯田は真面目に向い合い論じているということなのでしょうか。

   東京生まれの谷崎潤一郎が関東大震災後に関西にのがれて感受性の
 安定をはかり、永井荷風や石川淳が地方人にたいして強固に武装しな
 がら“下町”の江戸文化に固執し、さらに小林秀雄、永井龍雄、福田
 恆存、中村光夫らが、東京の近代化に絶望して鎌倉に“第二の江戸”
 を求めざるをえなかったのはけっして偶然のことでない。住居の選定
 も人間生活の上では、最も広い意味での表現である。それはひょっと
 したらイデオロギーの表皮の下にある感受性の質まで関係があるのか
 もしれない。いま挙げた人々に加えて下町育ちの吉本隆明の、新宿に
 たむろする文化左翼への激烈な憎悪、あるいは江藤淳の、ファナティッ
 クなものへの嫌悪感をつけ加えておいていいかもしれない。

「住居の選定も人間生活の上では、最も広い意味での表現である」とはまったくその通りだと思います。例えば吉本さんはすべて東京の谷中、千駄木、根津、駒込、御徒町等々というところを転々としているわけです。まさか杉並や、世田谷や目黒に住むなどということは考えられないのです。
 そこで磯田の書こうとしていることが、なるほど単なる戯れ話ではなく、やっぱり真面目に取り組んでいて、そして読む価値がありそうだなと私は思い至るわけです。あとはその内容こそが問題なのでしょう。
 この「思想としての東京」に「文学史の鎖国と開国-身内の眼・他人の眼」という補論がついています。この最初の部分が実に印象的です。花田清輝の葬儀の際のエピソードをあげています。

  告別式が終って人々が徐々に帰りはじめたとき、私は中野重治氏と
 竹内好氏との姿を認めた。私から数十メートル離れたところを、両氏
 が背中をたたいたり肩を組むような格好をしなげら、談笑して車のほ
 うに歩いていく後姿を、私はじっとみつめていた。私は一瞬、感動の
 こみあげてくるのを覚えながら、ここにまぎれもなく、“日本”があ
 る、と感じた。

 私は歩いて行く二人の姿より、それを見て感動している磯田のほうに眼がいってしまうのです。この「日本」というのもそのあとの説明でもあまりはっきりはしないのですが、当時共産党員であった「村の家」の中野を、「魯迅」の竹内が飲み込んでしまうというようなことを、「日本」といっているのでしょうか。どうにも私にはまだ異和感が残ってしまうのです。こんなところに「日本」を持ち出す磯田に、異和を感じるのです。単に年寄り二人が、仲よく歩いていて、ほほえましいなとだけ感じられないのでしょうか。私は「日本って、そんなもんじゃないんじゃないの」といいたいのです。
 この著作は何度か開いてきました。まだまだすんなりと中に入っていけない自分を感じてしまうのです。
 要するに、私は磯田のことをこう思っているのです。磯田は吉本隆明の存在を後ろに大きく感じながら、三島由紀夫に向いていた。ところが三島の自刃のあと、かなりな苦悩ののち、どうしてか江藤淳のところへ行ってしまった。おそらくは、もっと違う形があったはずなのに。だからあの若さで死んでしまった。
 私はこのような偏見で磯田をみているのです。かなりまとはずれで、いいすぎなのかもしれません。
 できたら今後彼の全作品を読んで、また考えていき、考え直していきたいと考えています。(1998.11.01)

10111601題名  博奕打ち総長賭博
封切 1968年1月
脚本  笠原和夫
監督 山下耕作
配給会社 東映
キャスト
 中井信次郎 鶴田浩二
 松田鉄男   若山富三郎
 石戸孝平    名和  宏
 中井つや子  桜町弘子
  松田弘江    藤  純子
  仙波多三郎  金子信雄
  右翼        佐々木孝丸

  この映画はヤクザ映画の最高傑作といわれています。とくに三島由紀夫が絶賛していました。ところが、私にはどうしてもこの映画を好きになることができませんでした。見ているのが、なんだかつらすぎるのです。それでも何とか判りたいと思って何度も見てきました。そして何度も何度も見ることによって、やっと何かがつかめたような気持になってきました。

  私が一番理解できず、かつ不満だったのは桜町弘子扮するつや子が手首を切って死ぬところでした。どうして彼女が死ななければならないのだろうと不満だったのです。夫信次郎と約束していたことが果たせなかったから、彼女は死にます。夫へのそれが義理のたてかたなのです。だがこれはあまりに不条理の世界です。どうしたってつや子が死ぬのはもう必然の道のように用意されてしまっているのです。その道以外にはいきようがなく、判っているのに死に向っていくのです。だからいくら私が不満であっても、つや子はその道をそのまま行くしかないのです。
  実はこのつや子の死がすべて、この物語全体に流れていることを象徴しています。誰もが避けることができないかのように、破滅に向っていきます。ちょうどギリシアのオイディプスの悲劇のように、誰もその悲しい運命から逃れることができません。これまたなんという悲劇の世界なのでしょうか。これはやはりやくざの世界だからなのか、それとも日本自体がこうしたことを抱え込んでしまっているのかと考えてしまいます。

  天竜一家の総長荒川が病に倒れ、その跡目相続が問題となります。本来なら松田鉄男が継ぐべきなのですが、彼は今刑務所に務めています。中井は推挙されるのですが、本来自分は天竜一家の人間ではないので辞退して松田を押します。だが荒川の舎弟分の仙波は松田の舎弟分の石戸を指定し、彼が二代目総長を継ぎます。仙波は石戸なら、自らの思うままになるから跡目にしたのです。ちょうど時代は昭和9年のこと、仙波は天竜一家を解散して国家の期待する右翼団体として生きていきたいのです。
  跡目相続の花会「総長賭博」の準備は中井の仕事になります。この花会の一カ月前に松田が出所してきます。松田は中井の妹弘江を妻にしています。松田は組の跡目の決定に不満です。自分でなく、中井が継ぐのならいいのだが、石戸では認めるわけにはいかないのです。それで花会をつぶそうとしています。やくざの掟、いわばしがらみによって、中井は松田を止めなければなりません。だが、松田は石戸を襲います。中井は仙波に責められ、心ならずも松田を刺しにいきます。
  自分の夫松田を殺した、自分の兄に対して、弘江がいいます。

      この人殺し(これをわりとゆっくり茫然として、「このヒト、コロシ」
    というようにいいはなつ)

  石戸は松田による怪我の中でも、花会を立派にやりとげますが、自分が利用されていることを知ったときに、仙波に殺されます。仙波は中井も殺そうと刺客を向けます。だが逆に中井は、仙波を刺します。中井にとって松田は兄弟分であり、義理の弟でもあり、先代荒川の舎弟である仙波はいわばおじきなのです。やくざにはなんら仁も義もあるわけではなく、人情などひとけらもありません。つまらない掟があるだけなのです。仙波を刺すときの、

    仁侠道?  そんなものはねえ、俺は、ただのケチな人殺しなんだ

という鶴田浩二のことばが耳に残ります。何もすっきりしません。そのあと中井は長い懲役刑を受け、獄中で死ぬことが字幕で書かれて、この映画は終ります。
10111602  この映画の登場人物たちは、誰もどこへも逃げようがないのです、ただただ破滅へ向ってひたすら走り続けるのです。
  おそらく山下耕作は3年前に封切られた加藤泰の「明治侠客伝三代目襲名」を見て、かなり意識してこの映画を作ったような気がします。「そんなにやくざ映画は甘くはないんだぜ」という気持があるような気がするのです。だがやはりどうにも、「幼いな」と言われたとしても、私は「三代目襲名」の方を好きになってしまうのです。(1994.11.24)

42ccf299.jpg 昨日は、昔かなり世話になった小阪修平さんの偲ぶ会に行ってきました。彼は私より1歳上だっただけなのに、もうこうして別れてしまうのですね。彼が三島由紀夫と話している映像(「美と共同体と東大闘争」)を見ました。何もかもが遠い出来事になってしまいました。(9/28)
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 asahi.comで、このニュースを見つけて大変に驚いているところです。え、最後に会ったのはいつのことだったでしょう。

 小阪 修平さん(こさか・しゅうへい=評論家)が10日、心室細動で死去、60歳。葬儀は親族のみで行い、後日、お別れの会を開く。喪主は妻文子(ふみこ)さん。

 「思想としての全共闘世代」「非在の海――三島由紀夫と戦後社会のニヒリズム」などの著作や評論活動のほか、「イラスト西洋哲学史」など哲学、現代思想の入門書で知られた。 (評論家の小阪修平さん死去 2007年08月11日06時10分)

 彼は、私の御茶ノ水の事務所のあったそぐそばの駿台予備校で、論文を教えていました。ときどき道で出会うことがあって、挨拶していました。
 何年か前に、私の事務所に誘ってそこでお話しました。パソコンで、いくつかインターネット上の部屋を開いて話したものでした。彼は、パソコンで文章を書いていくのは(もちろん、彼もそうしているわけですが)、「どんどん言葉が開いてしまうから、困ることがある」というようなことを言われていたものでした。

 彼と始めて会ったのはいつのことだったかなあ。たしか1970年じゃなかったかなあ。1969年9月19日の芝浦工大事件のあと、私はこの事件の当事者でしたから、彼がある事務所にいてくれて、電話の番をしていてくれまして、私たちはいつもそこに電話して、彼の伝えてくれるニュースを聞いていました。それで、きょうの埼玉県警の動き等を聞いていたものです。
 でも同じ69年12月10日に逮捕され、翌年早々に起訴され、でも長期勾留を覚悟していましたら、70年3月に保釈になりました。
 たしかこの70年の秋ごろ彼と会ったんじゃないかなあ。大森で会ったような気がしますね。

 彼の出版された本は、ほとんど読んできたかと思っています。

 そううちに彼と会って、ゆっくり話すことができるだろうと思っていましたが、それも叶わないこととなりました。なんで、こんなに急ぐんだろうかなあ、という思いがしました。そうか私は現在59歳ですから、一つ違いだったんだなあ。

 合掌します。ゆっくりと休んでください。さようなら。

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