将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:三曹の詩

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12112404 私は「純と愛」2012.11.23へのコメントに次のように書いていました。

そうですね、「諸葛亮孔明『出師表』」なんかいつも心の中で懸命に読み上げているものです。そうねえ、「土井晩翠『星落秋風五丈原』」なんかもいつも頭の中にあります。そうですね、曹操や曹丕の詩も同じですね。

 孔明の『出師表』は、前『出師表』と後『出師表』の二つがあります。だが後『出師表』は孔明の作ではありません(と言われています)。だから私も高校生の頃から暗記暗誦してきたのは、前『出師表』ばかりです。
 それで、「曹操や曹丕の詩」(さらに曹植を含めて三曹といいます)は、私は以下のように紹介してきました。

曹操(155年〜220年3月15日)
 短歌行
 苦寒行

曹丕(187年〜226年6月29日)
 短歌行
 燕歌行
 釣竿
 上留田行
 芙蓉池
 寡婦

曹植(192年〜232年11月28日)
 吁嗟篇
 野田黄雀行
 七歩詩

 なんだこれだけなのかといささか不満にもなります。いえ、私の過去のホームページ将門Webには、もっと紹介していたのですが、今のブログでは上だけです。
12112405 今後、私たちが読める限り(もう歴史上失われた詩もあるのです)の詩は、ここで紹介していきます。
 私はこの三曹が好きです。ですからある限りの詩はここで書いて行きます。ただお馬鹿な私ではけっこう大変なのですね。

12090101 私の「土井晩翠『星落秋風五丈原』」に、松岡博さんから以下のコメントがありました。

1. Posted by 松岡 博   2012年08月31日 20:53
「星落秋風五丈原」がこんなに長い詩だとは知りませんでした。土井晩翠の天才的文才に驚きました。
ところで、歌の解釈で質問があるのですが、お考えをお聞かせください。
1.五丈原の戦いはウキペディアによると,
「蜀軍と魏軍の対陣は百日余りに及んだが、234年8月、諸葛亮は病死し蜀軍は撤退した」とあります。晩翠は「秋風」と歌に有り、秋に戦いがあったように書いてありますが、この食い違いはなんでしょうか。土井が情を込めるため夏を秋に変えたのでしょうか
2.出だしの歌の「零露の文は繁くして」の「文は繁くして」は露が作る葉の上の模様が複雑な図柄を描いている、ということでしょうか。
3.「草枯れ馬は肥ゆれども」は何を言っているのでしょうか。時は秋だということをこのように歌っているのでしょうか。

恐れ入りますが、ご返事をお待ちしております。
松岡博 
mhiroshi62@yahoo.co.jp

 私が高校2年か3年の文学史の授業で(授業は「現代国語」だったかな。でも教えた教員は古典の先生でした)、明治以降の詩歌に関しては、北村透谷と島崎藤村と正岡子規しか扱わなかったことに、私は強烈に文句をつけました。それは「土井晩翠がいるではないか」ということです。思い出しても、私はしつこく言い続けたものです。
12090102 私は晩翠の「天地有情」は中2のときに、新潮文庫で読んでいました。またそのときに、この『星落秋風五丈原(せいらくしゅうふうごじょうげん)』も読んだと思うのですが、よく覚えていません。
 高校一年の9月に「吉川英治『三国志』」を読みまして、孔明の魅力は分かりました。ただこの小説から私は曹操の魅力に取り付かれたもので、かつ彼の詩は実に素晴らしく覚えたものです。
 私は曹操『短歌行』は実に好きになりまして、大学一年のときの夏休み、大学の秩父山寮へ行ったときに、この詩を暗誦しながら山道を歩いていたことを思い出します。
 ただ孔明『梁甫吟』は、私はそれほど好きだとはいえない思いなのですね。

 さて、お尋ねの件です。
『晩翠は「秋風」と歌に有り、秋に戦いがあったように書いてありますが』ですが、この戦いが終わった(孔明の死で蜀軍が退却します)のが8月秋のことです。まさしく、孔明が、「星が落ち」たのは秋なのです。これは五丈原の戦いを詠っているのではなく、孔明が亡くなったときの詩(うた)なのです。
「零露の文は繁くして」とは、草の葉からこぼれ零(お)ちる露のしずくの輝きは文(あや)模様を織り成すように重なるこの仲秋8月の季節ですなのです。
「草枯れ馬は肥ゆれども」は、この季節は天高くもう草は枯れて馬肥ゆる秋なのですが、どうしてか蜀軍は孔明の病で元気があるようには見えないのです。
 以上ご質問には答えた気持で私はいます。
 どうか、またこの「星落秋風五丈原」を読んでみてください。諸葛亮孔明の存在、土居晩翠の気持がよく分かってくると思うのですね。

12090103 私は三国志の世界(これは「陳寿『三国志』」も『三国志演義』も)は、諸葛亮孔明が作ったものだと思います。それが今も漫画にも映画にもなっているのだと思います。だがだが、それでも曹操をはじめとする三曹の数々の詩は輝きを失ってはいません。むしろ私にはもっと輝いているのです。

12082902 この長春有情さんのUPでいくつものことを思い出しました。

 篤姫が鹿児島では評判の悪い財政改革をした調所広郷や井伊直弼の死を悲しんでいた場面に心を打たれました。

 うーん、そうですね。調所広郷は実に大変だったなあ、という気持を抱きます。島津重豪が大変な人でしたからね。島津藩を借金だらけにしました。まあ、ここではそんなことをいうところではありません。
 でも彼の死に篤姫が泣く気持は分かるつもりです。いえ、これは原作宮尾登美子の描く篤姫のことですよ。
 ただ私は井伊直弼は今でも少しも好きになれません。ただただことなかれ主義のどうしょうもない保守性の人でした。その保守性の中で開国していますのですね。
12082903 私の一番好きな詩は、「黒澤忠三郎『絶命詩』」ですがこれは桜田門外で井伊直弼をテロしたときの詩です。万延元年三月三日のこの日(実際には安政7年)のこのことを詠った『絶命詩』を私は70年安保闘争の6・23で埼玉大学のバリケードの中で、私も詠いました。もちろん、そのときに私のかぶるヘルメットは私だけの思想のものでした。

 でも私も自分の中学甲東中に行きたいな。

 4月28日の中学校の同窓会の時に、中学校訪問もありました。
 中学校卒業写真を校長室で見せて下さいました。 
 その時、君の写真を見たことを伝えておきます。
 そこには私のイメージにある君がいました。

 懐かしいです。でも私がもうあの中学へ行くことはないだろうな。

 君とは同じクラスにはなりませんでしたが、廊下や校庭で、
 二言三言話をしたことははっきり覚えています。
 君の薩摩弁ではない語り口からの知識に、少年の私は何か惹きつけられたのではと、今思います。

 私は言葉は、名古屋にけっこう長くいたのですが、名古屋の言葉は非常に汚くて大嫌いでした(私は秀吉とおねねが言い合いをしているともうひどい名古屋弁で言い合いしているさまが見える気になります)。だから、あの鹿児島で話す私の言葉は札幌のものじゃないかな(札幌も私には嫌な都市ですが)。

 君の好きな曹操、私も次第に彼に惹かれてきました。

12082904 曹操はいいですよ。歴史上の彼もいいですが、彼の詩は最高です。いえ、もちろん曹丕の詩もいいし、もちろん曹植もいいです。この三曹の詩は、私のこのブログでは大部分紹介していますが(一部まだやっていません。長すぎるのだと、どうしようかと悩むのですね)、そのうちにやります。漢詩は大変なのです。出てこない漢字があると(これはいくつもあります)、それをどの字に置き換えるかということで悩みすぎるのです(そしてその解説はしますよ)。

 ついでに、先日の同窓会には当時の生徒会長健一君も来て挨拶をしました。彼はお医者さんになっています。
 君と同じ高校に行った、秀才の女性も3人来ていました。
 MNさん、MYさん、SNさん。
 わかりますか。
 

 懐かしいです。あの生徒会長は熊本大学だったのじゃないかな。
 MNさん、MYさんは分かりましたが、SNさんって今では分からないのです。12082905

 そういえば、長春有情さんは69年70年のころは高田馬場や戸塚町にいたのじゃなかったかな。私も当時あそこらへんにいたので、懐かしいのです。今歩いても懐かしいです。私の今住む王子とは都電で今もつながっているのですね。

10120806 いつもテレビを見ていて、いくつものことを思い出しています。

2010/12/08 07:35昨日も私はいくつものことがあったのですね。
2010/12/08 07:58この時間は食事をすることと、ゴミを集めたりいろいろです。
「てっぱん」を見始めました。そういえば、昨日この番組のホームページを見ました。あかりの本当の父親が気になります。
2010/12/08 09:59「ちい散歩」を見ています。私は2度目の逮捕は朝霞警察署に拘留されました。逮捕されてパトカーの中で眠り出したら(実は前日は大宮厚生病院のアルバイトで徹夜だったのです)、起こされて起きたところが朝霞で、私は「朝霞は野戦病院がある。去年デモしに来た」といいましたら、逮捕した埼玉県警の人も1年前のことを覚えていました。懐かしいな。
2010/12/08 11:57ちょうど義母の介護の時間でした。
2010/12/08 12:22三曹の詩のことを書いています。
2010/12/08 12:42さて、まだまだやるべきことがあるな。いくつもの飲み屋も行きまして、そこで話したいこともあります。
 あ、ある手紙を書こうと強く決意しました。

 手紙は、私は今後は、自分の署名のみは手書きにしようと思ったということです。

ecbad676.jpg 私の、このブログでの 周の漢詩塾(ブログ篇)でも、周の三曹の詩 でも、私は曹操、曹丕、曹植の詩を扱ってきました。それで、私が手に入れられる詩では、曹操も曹丕もほぼ紹介できたかと思っています。あとは曹植がまだまだいくつもあるのですが、詩が長詩ばかりなので、実に大変なのです。
 いえ、実は曹操の詩でも、『歩出夏門行』をここで紹介できていないのですが、これまたものすごく長詩なのですね。だから大変なのです。
 しかし、その大変というのは、まずどの詩でも漢字がこのインターネット上では表わせないものがいくつもあります。それを他のごく似た字に置き換える(そしてそのことは解説します)ようにしているのですが、それが実に至難のことなのです。
 長詩と言えば、私は文天祥『正氣歌』をインターネット上で紹介解説しようと思い、もう四年以上前に、その詩は書いてあるのですが、これまたインターネット上では表わせない漢字がいくつもありまして、それを置き換える作業が終わりません。
 このことは私の大変な悩みです。
 さきほどから、曹操『歩出夏門行』も書いてはいるのですが、書き下し文を書いて、訳してという段階でまだ時間がかかります。そもそも出てこない漢字はどうしようかと大変なのです。
 なんとか時間がかかっても、やっていかなとなりませんね。
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