将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:三派全学連

   Friday, June 25, 2004 11:32 PM
親切なご教示ありがとうございます

11081207 誤字まであるはずかしいメールにご親切に返事をいただいてありがとうございます。
 以前偶然見つけてダウンロードしたのは確かに教えていただいたページです。しかしその時にはふりがなはなかったのです。長いこと自己流で読んでました。間の抜けた話です。はっきり知りたい気持ちが強くなり、思い切って頼んでみようと思い立ったのですが。そのページにはメールアドレスもなかったのでどこかメールアドレスのあるところはないかと探したら漢詩塾というところにあったので使わせてていただきました。
 北方謙三さんの戦いのシーンはユニットごとの動きがゲームの用にはっきりわかるように描写されているので分かりやすいとは思います。こんなに計算通りにいくものなのかなという疑問は起こることもありますが、戦いを知るという点では、歩兵と騎兵のぶつかりあう戦いというものを知っている人は戦中派といえども誰一人いないわけですから仕方がないのではないでしょうか。
 今は同じく水滸伝を回し読みしています。二番目が一番熱心です。金庸の武侠もの、小野冬美の十二国記、揚家将なども読みました。ちょっと先生の趣味とははずれますね。MM

   Sunday, June 27, 2004 8:47 AM
Re: 親切なご教示ありがとうございます

 こうして返事が遅くなりごめんなさい。
 やっぱり土井晩翠の詩ですね。私はあの詩を、高校生のころは全文暗誦できていたんですがね。
 あ、それで

そのページにはメールアドレスもなかったので

 私はこのホームページをはじめたときから、全ページにアドレスを置いていますよ。

北方謙三さんの戦いのシーンはユニットごとの動きがゲームの用にはっきりわかるように描写されているので分かりやすいとは思います。

 北方さんの歴史小説は、ほかにも私は読んでいるんですが、戦いのシーンは同じように読めています。ただね、

戦いを知るという点では、歩兵と騎兵のぶつかりあう戦いというものを知っている人は戦中派といえども誰一人いないわけですから仕方がないのではないでしょうか。

というふうには、私は思えないのですね。彼は、「俺は実際の戦い、ゲバルトを知っている、その場に実際にいたんだ」という気持なのだと思います。それが、あの「別巻」にそのまま書いてあったので、驚いたのですよ。三派全学連のブンド(共産主義者同盟)の、関西派(のちの赤軍派)と関東派のゲバルトを見て、それを「ものすごいものだった」と、自画自賛しているだけなんです。
 それをどうどうと言う彼に驚くと同時に、同じ現場にいた私としては、「こんな光景はなかったよ」としか思えないのです。何を勘違いしているのでしょうか。
 彼はブントと言っても、中央大学の「全中闘」(中央大学全学中央闘争委員会の略)にいたのです。そこで69年の1月の東大闘争で、東大にいた私たちのために、みんなで握り飯を作ってくれたのです。もう熱い飯を、手を真っ赤にして、ブンドの諸君は莫大に握り飯を作ったといいます。でもね、季節は真冬ですよ。暖かい握り飯も、すぐに氷のように硬くなります。そして機動隊の激しい放水と催涙掖です。すぐに握り飯は食べられなくなりました。それにくらべて、どうにも評価できない中核派ですが、彼らは食パンを用意していました。ビニール袋に入れておけば、冬の寒さも、放水も、催涙掖も、みなはねのけていつでも柔らかい食パンが食べられるのです。
 私はこんなことが実際の戦いの現場だと思っています。戦争の実際の現場というのは、食うものとトイレの問題が大切です。実際にずっと何十時間と戦い続ける現場では、食うことと、そしてトイレの問題が重要なんです。
 実際に、このことを、最優先していた武将がいますし、それを書いている小説もあります。小説では、ないのですが、陸軍参謀本部が書いた「日本戦史」において、たとえば、豊臣秀吉という人は、こういう糧食を運ぶ部隊と戦闘部隊とを明確に別けられた武将だったと思います。彼の「小田原攻め」の作戦なんかは実に感心します。「なるほどなあ」なんて読みながら、「でも、これを学んだはずの、日本軍って、どうしてあれほど、兵站という考えが皆無だったの」と怒りを覚えるものです。いや怒りというのは、私の父も、私の義父も、日本軍にいて、ただただ苦労をした兵隊でしたからね。私の父は、中国戦線で戦い、そして仏印進駐から、マレー半島南下、シンガポール攻略、タイへ転進、そして泰緬鉄道建設(のちにアメリカ映画の「戦場にかける橋」になった実際鉄道です)のをして、そしてまたスマトラに転進しました。
 私は、この日本人も、こうした戦いの現場はよく知っているのだと思いますよ。ただ、そうした実際の現場にいる人はただただ黙っていただけです。

今は同じく水滸伝を回し読みしています。二番目が一番熱心です。金庸の武侠もの、小野冬美の十二国記、揚家将なども読みました。ちょっと先生の趣味とははずれますね。

 そうねえ、私の一番の愛読書というと、司馬遷「史記」でしょうか。よくいつも読み直していますよ。この「史記」の中のたくさんのエピソードが、この日本の歴史の中でも、何度もいくらでも繰り返し出てくるのですよ。いやこれは「史記」には限らない話なんです。
 一つあげるとすると「太閤記」(この書物は江戸時代初期に、いくつもの太閤記が書かれています)の中で、竹中半兵衛を秀吉が、自分のところへ来てくれと、何度も通うところがありますね。あれは、「三国志」の中の「三顧の礼」の話そのままなのですよ。
 思えば、信長のことを書いた「信長公記(しんちょうこうき)」を書いた太田牛一(信長の側近の武将)なんかも、書いているそばには、中国の古典が何冊もあったのでしょうね。同じく徳川の「三河物語」にも、同じことを感じます。「あ、これは『史記』に書いている話のそのままじゃないの」なんて思うところがいくらでも出てくるのです。
 そういえば、「信長公記」は、もともとそれほど資料的に信用されていなかったのですが、伊勢湾台風のときに、尾張の古い家から「武功夜話」という書物が出てきて、それに、「信長公記」とものすごく合致するところが出てきまして、「信長公記」がまた再評価されたのですが、ついこのごろ、「武功夜話」は偽書だという説が出てきて、私はもうそれこそ、死ぬほど驚いていますよ。

 ごめんなさい、どうでもいいことを書き連ねました。萩原周二
(第203号 2004.07.05)

11050208 18日に「THE BOOM」の日比谷野外音楽堂でのコンサートへ家族4人で行きました。私の家族は全員がブームのファンなのです。もう昨年10月には、私を除く3人は沖縄までブームのコンサートへ行きました。私も行く予定でいたのですが、文教大学父母教の用があって、行けませんでした。そのときに私の替わりに券を購入してくれた静岡の女の子とも、偶然夜音の中で会うことができました。
 野音の前で娘二人と約束通り会います。中に入ると、私はすぐビールを飲みました。すぐにたぶん5千人くらいの観客でいっぱいになってきました。
 5時30分にコンサートが開始され、その2時間半にわたるコンサートでした。もう私は何度かこうして参加していますし、CDもよく聞いていますから、ブームの歌に同時に口ずさむことができます。ただ、おじさんには、すべて立ちっぱなしというのは、つらいですね。みんな元気なことです。
 この日比谷野音というのは、私たちの世代にはたくさんの思い出のあるところです。今年3月7日のイラク反戦デモでも、ここが集会場だったのですが、参加人数が多すぎて入れませんでした。でも大学生だった頃には、どれくらいここで集会をやったことでしょうか。たくさんのことを思い出します。円壇では三派全学連(三派とはセクト5派とそのほかもろもろいました)というのはよく殴りあいをやっていました。いつも怒号が飛び交う集会ばかりでした。
 私の父だけが、「俺の発言のときだけは、いつも喧嘩ばかりしている三派が、『親父いいぞう!』とみんな応援してくれた」と喜んで言っていました。それは1969年7月20日の「東大闘争勝利集会」での、統一被告団の家族会の代表として、私の父が発言したときのことです。私は府中刑務所に勾留されていましたから、まったく知らないことでした。
 そんな思い出もかみしめながら、私はブームの歌を聞いていました。ブームの歌はときどき泣きたくなるような思いになるほど、私には迫ってくるものがあります。
 それで、終わって、4人で帰るわけですが、どこかで食事しようということになりました。有楽町まで歩いていくうちに「あ、そうだ、ひさしぶりに『鳥ぎん』に行こうか」ということで、みな衆議一致しました。銀座5丁目の鳥ぎんは、子どもたちが小さいときから、妻の父母が連れてきてくれていたところです。焼き鳥も釜飯も美味しいし、日曜日にも営業しているのです。思えば、なんだか日曜日に銀座に来たときにいつもここで食べていた思い出があります。子どもたちもまだ小さいときから、ここの焼き鳥を「美味しい」と食べていました。私もいつもビールとお酒も腹いっぱい飲んでいたものでした。
 それで4人で、いろんな思い出を喋りながら、焼き鳥と釜飯を食べました。なんだか、とってもこの食事は愉しかったです。「またブームのコンサートに来ようね」「鳥ぎんにも来ようね」とみなで言い合っていました。

11040910 周の掲示板に、この書き込みがありました。

  私周こと萩原周ニは、いわゆる三派全学連、全共闘の世代で、文字通りその中で激しく生きてきました。三里塚闘争、王子野戦病院闘争にも参加し、東大安田講堂で1969年1月19日に逮捕起訴され、この年の8月20日に保釈出所しました。
 ただ翌月9月18日の芝浦工大殺人事件(殺人でもなんでもない、事故ですが)で、12月10日にまた逮捕され、翌1月何日かに起訴されました。
 私は昭和23年5月30日の生まれですから、文字通り団塊の世代(堺屋太一が団塊は名づけ親ということです)となりますが、ただ、思想的には、常に反帝反共を主張し、思想的には、北一輝の思想を受け継いでいるつもりでした。
 ただ、このことで、何度かテレビにも出たものですが、この世代は、長髪で昔はビートルズに憧れているのが大事なようで、私のように、坊主頭で詩吟を常にやっているというようなのはテレビ局のほうでも駄目なようです。仕方ないんですよね、私は毛唐の音楽なんか知らないのですよ。
 イターニンさんが、私を貶したいのか褒めたいのか、どうでもいいのか分かりませんが、人はいろいろです。私は逮捕されたときも、最初の弁護士の接見で、私の「天皇制を支持する」というようなことは、黙っているようにと言われたものです。もうどうでもいいことですがね。私は何といいましても、平将門を尊敬するのですから、そんなこと、わけが分からないよね。

 私は当然に共産主義・マルクス主義は嫌いでした。でも当然資本主義も嫌いでした。でももうすべてが遠くへ行きました。
 王子野戦病院闘争で、最初の集会場だった、王子柳田公園が綺麗になりました。私はいつもそこを通って昔を思い出しています。もう私の孫がそこで砂場遊びをしているのです。

10121408 あ、そうですね、この会は毎年やっています。でももうみんな歳をとりまして、ただのんびり飲むだけです。
 埼玉大学の関係の忘年会といいましても、昔の三派全学連時代の過激派、全共闘、埼玉大学むつめ祭の関係者です。あ、思想的には、私のような国粋主義者もいます。ですから、みんな多くの方は来なくてもいいです。来ても話が合わないよ。あ、インターネットとパソコンの話はおおいにしましょう。
 ただ、とにかく私をはじめとして、歳をとりました。ただひたすらに延々と飲んでいます。

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 imajouの独り言このUPがありました。

 神奈川県立学校の教職員135人が、入学式や卒業式で日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱する義務がないことの確認を県に求めた訴訟は、教職員側が全面敗訴(ココ)。当たり前だろう。

 私もこれは当たり前のことだと思います。何がどこが「不当判決」だというのでしょうか。

日の丸や君が代が日本の国旗・国歌として不適当と考えるなら、それを論議し変更するように働き掛けるべきで、それが実現するまでは日本の国旗・国歌として敬意を払うのが筋である。

 まったくその通りです。私は若き日には、三派全学連、全共闘の隊列にいました。でも常に日の丸を持っていたものでした。王子闘争、三里塚闘争でも、常に持っていました。ただし、掲げることはしませんでした。面倒なトラブルになるからです。
 君が代も常に歌いましたが、どうにも私はいつも孤立していたものでしたね。

 それにしても日の丸は美しい。昔、デザインを売って呉れと申し込んで来た国(確かフランス?)があったが、その気持ちは判る気がする。世界中で最も美しい国旗と思う。日の丸の太陽を月に変え、周囲を海の色とし、月の位置を少しずらして海に浮かぶ月としたのがパラオの国旗。パラオは日本に親近感を持ち、今も戦死した日本軍将兵の霊を弔って呉れている。

 このパラオの国旗を拝見しました。パラオの方々の気持が嬉しいです。そしていい国旗ですね。
 思えば、私なんか、過去の自分のことを正直に発言すると、それではマスコミも困るようです。あの頃の若者は、ビートルズが好きで、長髪で、でも闘争して、そののちは、いい会社へ就職して頑張って出世したけれど、今は定年でもう辞める時期のようだという経歴のようです。

 でもそんなのは嘘です。私は、ビートルズなんか知らず詩吟ばかりでした。頭はずっと坊主がりでした。闘争しましたから、普通の会社には就職できず、「定年」制度なんてない会社ばかりで働きました。

 私は教員になりたかったものでしたが、ずっと公民権停止で、受験資格すらありませんでした。選挙権もなかったよ。教員になった幸運な人が、「日の丸君が代訴訟」をやるなんて、少しも分からないことです。

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 昨日この新聞を手にして声をあげました。「早大全共闘から三派全学連へ」という活字の横に、大口さんの顔写真が載っていたからです。「しばらくお会いしていないなあ」ということを真っ先に思ったものでした。

新聞名 図書新聞第2911号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年3月29日
読了日 2009年3月22日

 大口昭彦氏(元早大全共闘議長)に聞く 60年代・70年代を検証する
早大全共闘から
三派全学連へ
大口昭彦(聞き手・小嵐九八郎)

 これは実に長いインタビュー記事です。思えば、大口さんは、私よりも4歳年上なのですね。

▲大口昭彦(おおぐち・あきひこ)氏=1944年神戸市生まれ。63年、早稲田大学入学、ラグビー部、剣道部に所属、学生運動に参加。65年第一政経学部学友会委員長に当選、さらに全学共闘会議議長に就任。66年1月からの早大全学バリケードストライキを指導。二度にわたる逮捕、除籍処分を受けるが、早大生の圧倒的な支持が寄せられる。以後も早大を代表する学生運動のリーダーとして活躍。70年に京都大学に再入学。81年、弁護士となり、1047名鉄建公団訴訟など国鉄や全逓の労働者、三里塚農民、学生の運動を一貫して支援し、また靖國訴訟などに取り組んでいる。

09031813 全共闘運動が大きく開花した一九六八年に先立って、六六年に早稲田大学で第二学館の自主管理・運営権を求め、学費大幅値上げに反対する学生たちの全学ストライキが闘われた(第一次早大闘争)。早大史上初の全学バリケードストライキ突入、連日のような三〇〇〇〜八〇〇〇人の集会とデモ、機動隊の度重なる導入、一万五〇〇〇人が集まった総長団交、本部封鎖をめぐる体育会系との衝突、期末試験ボイコット、一挙二五〇人逮捕をはじめとするあいつぐ大量逮捕、機動隊常駐の戒厳体制下での入試、四年生の自主卒業式、全学部の再ストライキ突入、大浜総長辞任、除籍・停学の大量処分、そして各学部学生大会でのストライキ終結と、一五五日間にわたる波乱の展開であった。それは、六〇年安保闘争敗北後の学生運動、労働運動が再興していく大きなステップとなった。この闘いを担った早稲田大学全学共闘会議の議長であった大口昭彦氏にインタビューした。(編集部)

09031814 大口さんは、私には活字上の方でしかなかったのでしたが、初めてお会いしたのは、1972年に、私は埼玉大学の6年でしたが、7月14日のパリ祭の日に、京都駅前で、ダークスーツにサングラスで集まろうといういわば悪い冗談にのって、出かけました、この日は大阪の大昔の革共同の浜野さんという(昔参議院選挙に出ています。黒寛も、赤尾敏も出ていた選挙でした)御自宅へ行き(でもこの浜野さんからもずっと年賀状をいただいていましたね)、それから翌日また京都へ行きまして、平安神宮で、当時京大へ入学されていた、大口さと初めてお会いしました。
 平安神宮でお参りしたあと、飲み屋で数時間過ごしましたが、大口さんは正座を少しも崩さず、私のようなチンピラ活動家は、ただただ唖然としてしまったものでした。

 その後社会に出てからも、私には、一貫として尊敬いたします大先輩です。ただし、靖国神社の問題などでは、どうしても私は話が合いませんから、私が調子に乗ると、怒られてしまいます。大口さんは、今でも厳然とした左翼なんですね。

小嵐 剣道の方は、結局、今は何段なんですか。
大口 四段です。もっと稽古しなければいけないんだけど、心がけています。

 ずっと剣道一筋、左翼一筋の方ですね。

党派を超えて仲のよかった彦由常宏氏(故人、当時早大の中核派活動家)とか、生協のN氏とか、文連のS氏なども剣道をやってました。

09031815 この彦由さんにも、私は可愛がってもらいました。私が赤坂の広告制作会社にいたときに、彦由さんにも会社に来てもらったことがありました。

小嵐 当時、早稲田で学生運動に参加していくのはどういう形態だったんですか。
大口 それは、革マル派との関係が問題でしたが、大衆運動としては、社会主義青年同盟・解放派と社会主義学生同盟(ブント)とマルクス主義学生同盟・中核派によるいわゆる「三派連合」ですよ。とくに、六〇年安保闘争敗北後の分裂状況の中で日韓会談反対闘争をきっちりやっていたのは三派連合だったんです。それに構造改革派が参加してきてました。

 思えば、私の年代の懐かしい思い出に繋がっていく時代の動きでしたね。もう私の中でも、もはや思い出でしかなくなってしまいましたが。

小嵐 早大闘争の中で印象に残ったことは何ですか。ここに大口さんのストライキ突入宣言があるんですが、「本日、結集された全学生諸君! この記念すべき日を迎えたことを喜びたいと思う。早稲田の全学部が圧倒的な力の結集をもって、ストライキに突入することを確認しようではないか。僕たちは、学費値上げ粉砕、学生会館の管理運営権の獲得の要求をまさにわれわれの、その結集した力として断固かちとっていかなければならないのだ。そしてそのために本日、結集されたことを喜びとして迎える。」とね。解放感が湧き出ていますよね。

 思い出しても、やはり三派というのは(実際には三つの派ではなく、もっといたわけですが)、魅力あったと思いますね。王子闘争、三里塚闘争というのは、実際に参加してみて、実に魅力があったかと思っています。

大口 三派全学連といわれますけど、三派の力が拮抗していて、かなり強かったからそういうんで、実際にはいろんな党派、グループが総結集する求心力があったということですよ。反革マル、反民青ということが、逆に排除ではなくて、吸引するものだったという情勢だったですよね。いろんな人がいてもいいという運動ですよ、三派の運動は。
小嵐 そうですね。そういう三派が基礎になって、基盤をつくって、その上に六八年からの全共闘運動が起こっていくわけですから、大きな意味がありましたね。
大口 一政だけじゃなくて、当時の活動家や意識的な学生は党派的にある程度系列化はされているけど、全体として三派支持だったんですね。三派が分裂するんじゃなくて共闘することを望んでいたということでしょうね。

 もう今では、ただただ思い出だけですが、でもこれからも思い出していくことでしょう。

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 SHIROのポメラ日記 の [子どもと携帯電話]に、1月25日、このUPがありました。

 2006年9月、長野県小諸市の小学6年生の女の子が、携帯のネットで知り合った男性に会いに行ってしまった事件は、全国的に話題になりました。覚えている方も多い事でしょう。
 いわゆる「出会い系サイト規制法」でも「18才未満の子どもは出会い系サイトを利用してはいけない」となっていますし、我々大人は「ネットで知り合った人に会いに行くな」などと子どもに言います。

 この事件は私は覚えていません。でもこれに類似したことが起きていることはよく感じています。ただし、私にはこうした子どもたちの心の中は少しも判っていません。

 しかし、なぜ子ども達はそんなに“会いに行ってしまう”のでしょうか?
 一つ参考になる情報として、ユニセフ(国連児童基金)が世界の先進国(約30カ国)の子ども達の実態調査をした統計があります。

 ぜひとも、この「SHIROのポメラ日記」のここにあるグラフを見てほしいと思います。もうただただ驚いてしまいます。ここには、

   「孤独を感じた事がある」15歳
    「自分は未熟で居場所がない」15歳

の二つのグラフは、この日本が第一位になっているのです。

 15才の子どもに「あなたは孤独を感じた事がありますか?」と質問すると、他の国はほとんど10%以下なのですが、日本だけ約30%でダントツのトップなのです。
 同様に、「自分は未熟で居場所がないと感じていますか?」という質問でも、約18%で日本はトップになっています。
 つまり、日本の今の子ども達は「わかってもらえない」大きな孤独を感じていて、「こんな僕じゃダメ」「どうせ私なんか」と自己評価が低い子が多いのです。

 だからこそ、日本の子どもたちは、ケータイで知り合った同じ子どもたちや、少し年上の大人たちに、話を聞いてほしい、話をしたいのだと思います。ケータイなら、どこででも連絡がとれるのです。

 そんな時、ネットで知り合い、優しい言葉をかけてくれる人に対して、「この人ならわかってくれる」「今の自分じゃダメだけど、この人に付いていったら新しい可能性があるかもしれない」と思ったら、会いに行ってしまうのです。
 大人からすれば「知らない人に会いに行くなんて危ないじゃないか」と思うのですが、「危ない」は「自分は大切で守るべきものだ」という意識があって初めて成り立ちます。「自分なんてダメダメだ」と自己評価が低い子どもは、危険なハードルを飛び越えてしまいます。
 ですから、「出会い系サイトを見るな」「会いに行くな」などと言えば済む問題ではありません。「私は大切な存在だ」「ここにいて幸せだ」と子ども達が思えるような環境を、家族や地域の大人達がどう作っていくかが大切なのです。

 だから、単純に「『出会い系サイト』はダメだ」「そんなところにすぐにアクセスできる携帯はダメだ」としか思わないし、そうしか言えないのです。

 私の高校時代の友人が、携帯電話を子どもから言われて、やっと持ったのですが、その子どもが少しも携帯電話で電話してこないというのです。その子どもたちは、お父さんに、「だから、ケータイメールしてきて」(実際にその親子の会話も直接私は聞きました)というのですが、お父さんには判らないことなのです。私にも、何度かケータイ電話してきても、私はいつも出られない時間と場所でした。あるとき、朝私が急いで歩いているときに、ちょうど柳田公園を歩いていたのですが、そのときに、携帯電話があり、私が「今はとても電話では話していられないから、ケータイメールをくださいよ」と言ったのですが、彼は、これじゃ息子と同じだと思ったらしく、それからは何の連絡もくれません。よっぽどケータイメールが嫌らしくて、その後は年賀状もくれません。

 いえ、私には、この感じの友人が何人かいます。もうこうなると、私が和紙の手紙を出しても取り返しがつかないようです。彼には、私の、ケータイメールも和紙の手紙も、インターネットもホームページも、私がよく喋る漢詩のことも、三派全学連のことも、すべてが嫌なことのようです。

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新聞名 図書新聞第2902号
発行所 図書新聞
定 価 240円
発行日 2009年1月24日
読了日 2009年1月17日

 前号を読んだときと同じで、どうしても読み耽けるという状態にはなりませんでした。でも「とにかく読まなくちゃあ」という思いで、一面の「和光晴生氏(パレスチナ戦士)に聞く 60年代・70年代を検証する 全共闘運動からレバノンの戦場へ」を読みました。

 私と同じ歳である和光さんの言われることの、私はどうにも頷くことができません。私と同じ1948(昭和23年生)といっても、大学入学時が私が67年で、彼は68年です。一年違うと、こうまで違ってしまうのかなあ、なんて私は勝手に考えていたものでした。
 私は思えば、いい年に大学へ入って、ちょうど大学2年のときに東大闘争安田講堂で逮捕起訴されたのは、実に安楽なことだったのかもしれないなあ、とつくづく思いました。
 一つ思うのは、私はいわゆる「全共闘運動」というものに、少しも親しみを覚えません。その前の三派全学連の行動には、優れて共感を覚えています。いつも少数であり、過激な暴力派でした。だが、全共闘とかいうものになったときに、何故か、「正しい」存在になったという錯覚があったように思います。

 それに、私はいわゆる全共闘運動と、日本赤軍の運動とは、関連を感じることはできません。それに、そもそも私は「全共闘」にも違和感がありますが、「赤軍」なんて、「それはもともとソ連軍のことじゃないか。大嫌いだよ」としか言う気になれません。

 日本赤軍の国際ゲリラ路線による闘争は、作戦準備過程で逮捕者が出て失敗に終わり、その失地回復に大使館占拠や旅客機ハイジャックなどをやって、獄中から同志を奪還するというパターンの繰り返しでした。ところが、日本赤軍によって対外的に公表される総括は、失地回復のために実行された「ハーグ」「クアラルンプール」「ダッカ」などの成功した作戦についてのものばかりで、それらの作戦を必要とさせた事前の敗北であるヨーロッパでの商社員誘拐計画失敗、ストックホルムでの2同志の逮捕、ヨルダンでの2同志の逮捕といった件についての検証、とらえ返しは、機密・保安を口実に、対外的に明らかにされることはほとんどなかったのです。
 結局のところ、「よど号」グループの人たちにせよ、日本赤軍にせよ、当初は共産同赤軍派の「過渡期世界論」をベースに「世界党‐世界赤軍‐世界革命戦線構築」をめざして「国際根拠地」建設に向け海外へ飛び出していったのが、国外での活動を経験する中で、日本国内への回帰を志向するにいたった、というパターンで共通しています。国内回帰志向となったのは、両者ともに、行った先の実社会内に活動現場をつくることが果たせず、自らの足場・基盤を構築できなかったからだろうと思われます。

 だが、そう総括しているとしても、今後はもうどうするのでしょうか。

 私は、49歳のおりレバノンで拘束され、彼の地の刑務所に3年、その後日本に送還され、拘置所に8年間、計11年の獄中生活を経験してきました。もう還暦をすぎています。
 かつて68年当時の熱い時代を闘い抜いた方々の中には、20代で逮捕され、有期最長の刑を受けて、50代にいたってようやく出所できたというような方もけっこうおられます。そのような方々の社会復帰・社会参加は大変なことでしょう。
 60代を越えてからの刑務所行きも、肉体的には大変な面があると思います、それでも、衣食職住完備の特別養護ホームへの入所の前倒しという感じもします。官僚独裁の奴隷社会というのが刑務所の実態なのでしょうが、塀の中を自分の「持ち場」と心得て、しつこく長生きしてやろうと思っています。世界金融危機とか、激動が始まった時代に、自分の「持ち場」からしっかりかかわっていくつもりでいます。塀の外の皆さんの健闘と健康を願っています。

 思えば、この和光さんは、私がインターネットでホームページを作った頃より、ずっと獄中にいて、今後もそれが続くわけです。
 もう大変に違うところ、私はもはや違う地平にいるのだということをつくづく感じます。そして私の知っている多くの友人たちも、もはや私と同じような地平にいることを、おおいに感じていました。

 なお、この取材記事を書いている小嵐九八郎さんは、私は一度お会いしたことがありましたが、私は彼の小説も読んでおります。実に彼の筆のよさを、この取材でも感じていました。

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 周の掲示板 に次の書込みがありました。

初めまして  投稿者:流れ者  投稿日:2007年11月11日(日)00時59分6秒
 大変おもしろい充実したサイトですね。
私も将門のファンで、よく神田明神に遊びに行ったものです。
そこでしか入手できない「神田明神史考」という本を今も大切にしています。
ところでワルシャワ労働歌も大好きなので、こちらには驚かされました。
私は30代後半なので、インターナショナルの方がなじみがあります。
どこかの集会かデモで思い切りワルシャビヤンカを唄ってみたいものです。
これからもサイトの発展を祈念しております。

 ありがとうございます。TOPで流している ワルシャワ労働歌 は実に私の好きな歌です。 青年日本の歌 も好きなので、MENU のページで流しています。
 ただこのところは、このブログで書いているばかりです。もう今までのインターネット上のホームページよりも、このブログのほうが検索にも実に素速く応じられるので、どうしてもこちらのほうが親しく感じてしまうのです。私が書き込むと、30分も経たないうちに、それをGoogleやYahooJapanの検索で見つけてきてくれる方がいます(私にはアクセス解析がつけてありますので、すぐに判るのです)。これは実に嬉しいことです。
 思えば、前には、どこのホームページでも、「リンクはトップページにお願いします」なんて言っていたじゃないですか。私はいつも「リンクはどのページでも結構です」とずっと言ってきていました。それがもう私の言うことが、この時代になると、いいもどうも「許可する」も何も、どこでも至極当然になってきました。
 私は神田明神へもよく行きます。いつもお正月は家族で必ず初詣でしてきたものです。将門様を討つためにある成田権現は大嫌いです。そうねえ、私は藤原秀郷は今も好きになれません。だから思えば、昔は私は成田三里塚闘争に行ったものでしたね。もっとも、私が将門様のことを言っても、三派全学連の人たちは、誰も何も知らないし、関心もありませんでした。いつも怪訝な顔をされたばかりでした。
 そんな昔を思い出しました。

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 私は昭和23年生まれで、大学に入学したのは昭和42年(1967)のことです。ちょうど私は「団塊の世代」と言われる年齢であり、大学では三派全学連、全共闘の時代でした。そして私もその真っただ中で激しく活動していました。ただ、私は学生運動だけではなく、サークル活動も、学園祭も、恋愛も、アルバイトも、何もかも激しく動き回ったつもりであります。
 そんな私の学生時代とその時代の仲間たちのことを書いておこうと思っておりますページがここです。
 まだたいしてUPはしておりませんが、そのうち当時のビラや写真が発見できると思いますから、たくさんいろいろと書いていきたいと考えております。
 書きました日時の順で並んでいます。 (2004.03.11)

   http://shomon.net/garakuta/gaku.htm  周の学生時代

 思えば、学生時代のたくさんの記録もあるのですが、なんだか私のホームページ上に書いておくのも羞しい気持にもなってしまいます。思えば、ただただ若いだけでしたからね。
 今は少し思い出して、「これは書いておこう」というものは書いていこうとだけ思っています。青春はやはり、いくつも懐かしいが羞しい思いがこみ上げてくることばかりです。

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戦国合戦の虚実―日曜歴史家への誘い

 

 


書 名 戦国合戦の虚実
著 者 鈴木真哉
発行所 講談社
定 価 1,500円+税
発行日 1998年11月15日第1刷発行
読了日 2007年2月3日

 私は、この著者の本をいくつか読んできた思いがあります。いつも興味深く、かつ面白く読んできました。かつ、この本で書かれていることも、他の本でも読んできていました。キヨスクで置かれている本で読んだかなあ?という思いでした。
 間違いなく、今後も読んでいきます。「虚実」なあ、だからそうすると私たちの時代、三派全学連、全共闘の時代も、その「虚実」を書いていくべきだよなあ。

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 私の 吉本隆明鈔集「外国から靖国神社へ行くのは外交の妨げですなんていわれたら、冗談はよせやいと一言のもとにいうところです」imajou さんが次のコメントをくれました。

2. Posted by imajou    2007年01月08日 18:37
素晴らしい。大賛成です。政治家にこの発言をして欲しいのですが、言えるのは小泉さんか麻生さんくらいしか居ないでしょうね。

 まずimajouさん、お兄さんが亡くなられたのですね。どんなに力を落とされたことかと推察いたします。imajouさんのインターネットでのいくつもの活動は、多くの方にかなり励みになっているはずです。どうかお元気でやり続けてくださいね。
 私はimajouさんとお会いしたいなという気持でずっときていましたが、今年こそなんとか実現したいなと思っています。
 私はですね、ニフティの「戦前戦中フォーラム」で2度目のオフ会のときに、靖国神社へ行きましたときに、実に驚いたことがあるのですよ。私は遊就館にて、滂沱として涙を流していました。でもその私の涙を不思儀に見ていた人たちがいます。それは若い人ならその私の涙に対して、「なんか判らないなあ」という気持は少しは判るのですが、ちょうど昭和一けたの方たちに何人かいたのです。
 私のようないわば、彼等が嫌うはずの「全共闘」(私は全共闘だけではなく、その前の三派時代の活動家でもあります)が、なぜあんなに涙を流すのだという大きな疑問でしょう。そして彼等は、靖国神社が嫌いでした。
 でも、私は靖国神社遊就館で私が流す涙は、もうこらえきれない私の本当の涙です。

 私の父は、私が東大闘争の69年1月18・19日の闘いで、逮捕起訴されたときに、実によく闘ってくれました。私の勾留されていた府中刑務所だけではなく、他の刑務所・拘置所にも行きまして、すべて他の家族会の仲間と一緒になって激しく闘いました。だから、私の父は、いわゆる三派の中で、中核派と社青同解放派が激しく殴り合ったり、ML派も出てきてまた殴りあったりするのをよく見てきていまして、実に面白くて気に入ったようです。でも私の父が気にいらなかったのは、この靖国神社のことです。靖国神社に対する三派全学連の姿勢です。靖国神社には、その当時も私の父は戦友たちといつも参拝していたものです。
 その私の父の思いは、私も同じです。

 あ、とにかく、今年こそimajouさんにお会いしたい。この思いでいっぱいです。

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詩人・評論家・作家のための言語論

 私の 吉本隆明鈔集「外国から靖国神社へ行くのは外交の妨げですなんていわれたら、冗談はよせやいと一言のもとにいうところです」目森一喜 さんが次のコメントをくれました。

1. Posted by 目森一喜    2007年01月08日 07:00
 小泉が靖国参拝をする事を非難する人達は、「政府の命令と主導で大勢引き連れていく」のと同じ質の事を反対側からやっているだけですね。自由とは何なのかをちゃんと考えた事のない人たちです。

 ありがとうございます。まったくこの通りです。もう私は「ひでえもんだね」としか思わないのです。
 あのですね。私は昔の三派全学連や全共闘の人たち(私ももちろん、その中で激しく活動していた)が、「え、その主張では単に反米というだけじゃないの?」ということで、「それでは安保全学連のときから、私たちは反米なんていう日共とは違うのだが、今のあなたの言うことでは『反米』じゃないの?」というと、ずっと私はしつこく言っていくと、「そういうことでもいいよ」なんていうことになります。
 もうふざけるな。それじゃ、私たちのたくさんの先輩たち左翼の活動家は何のために闘ったのよ。ただただ嫌になります。

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 いやなブログこのUP がありました。

人が集まると、なぜかどうでもいいようなことほど議論が紛糾してしまう傾向がありますが、このような現象のことを、FreeBSD のコミュニティでは自転車置場の議論 (bikeshed discussion) と呼んでいることを知りました。 (2006.10.14)

 そうだなあ、と思い当たります。以下を読みますと、もっと思い当たります。

この、「瑣末なことほど議論が紛糾する現象」はパーキンソンの法則という本の「議題の一項目の審議に要する時間は、その項目についての支出の額に反比例する」という法則として知られています。

この本の中で著者は、原子炉の建設のような莫大な予算のかかる議題については誰も理解できないためにあっさり承認が通る一方で、市庁舎の自転車置場の屋根の費用や、果ては福祉委員会の会合の茶菓となると、誰もが口をはさみ始めて議論が延々と紛糾するというストーリーを紹介しています。

 そして自分が経験してきたいくつものことを思い出します。思い出せば、どうしてもどうでもいいことに関して、論議が紛糾することがあります。でも論議している当事者は、もう論議に自分の主張を通したいために夢中であり、そのそもそもの論議している意義なんか忘れています。
 このことは私たちが常に年頭に置いておかないといけないことだなあ、と私も自分に言い聞かせました。

 思い出せば、三派全学連(三派とは、3ツの派ということだが、実はあの三派全学連には大きく5つのセクトがいました)なんかは、隣の党派とは自分たちは違うのだということで、別な主張を無理に言い張っているという傾向がありました。

 ところがそれが、今現実の私たちでもつい実際に経験してしまっていることではないでしょうか。これは、私たちの住んでいる町内やマンションの自治会のことでも、学生さんたちの小さなサークルなんかでも、よくありがちなことではないのかな。
「それは小さなどうでもいい問題だ」と誰かが指摘したとしても、「小さな問題かもしれないけれど、私たちみんなのお金を使うのだから、ちゃんと話し合わないといけないのではないか」という意見のほうが通ってしまいます。
 このことは、私たちはよくよく自分たちを律していかないといけないと思いますね。

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 私の ボイス将門第10回放送「ボイスレコーダーを使いまして」(2006.05.05)に次のコメントをいただいていました。

1. Posted by 伊藤 幸雄    2006年09月25日 21:47
 パソコンで詩吟を聴くとは思いも考えなかったです。私は1938年生まれです。
30年前に習い始めに歌った頃を懐かしく思い出しました。有り難う。
また聞かせてください。

 私の 周の掲示板にも次の書込みをいただきました。

詩吟について  投稿者:伊藤 幸雄  投稿日: 9月25日(月)22時04分35秒    引用 
周さんの詩吟素晴らしかった。又 聞かせて下さい。

 伊藤さん、ありがとうございます。このところ ボイス将門 もずっとお休みしています。いえ、実はつい先日も外出先で、喋ってみたのですが、外で、人前だと、どうしてもうまく録音ができません。人前で喋るのは大変なのです。
 それでまず喋れないと、まして詩吟をやるわけにもいきません。詩吟は酒飲んで、いきなりやるくらいですね。しかも親しい飲み屋で、そして周りのお客さんも、少しでも顔見知りだと、1、2曲なら構わないのですが、大勢の方のいる居酒屋なんかだと、大変なんですよ。
 まず、周囲にいる方全員の了解をとります。そして次に店に了解をとります。そのとき、「他のお客さんの迷惑ですから」なんて店側に言われますと、「いやもうみなさんに了解を得ました」ということで、詩吟をやりだします。
 でもやはり、「七言絶句」までなのですね。それに、私の娘なんかいましたら、絶対にやらせてもらえません。

 でも私は、長女の結婚式でも詩吟をやりましたし、次女のときも予定しています。次女は、「もう絶対にやらせない」と言っていますが、でもなんとしてもやりますよ。娘の嫁入りを祝う中国の古い詩をやります。

 私はちょうど三派全学連と全共闘の時代でしたから、私も積極的に前面で闘いましたが(でも私はマルクス主義者ではありませんでしたが)、そのときも集会で詩吟をやりましたよ。みなわけが判らなかったようでした。いえ、詩の内容が判らないというよりも、「何でこんなところで詩吟が詠われるのだ」と不思儀だったようです。

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 余丁町散人の隠居小屋この記事 がありました。

可哀想だが、まさにアホ丸出し。農村への思いこみと憧れを持つ「環境指向」のインテリ都市住民は、まさに彼ら農村利権集団の絶好の餌食となる。

やっていたのは、東北かどこかの田舎に50aの農地の購入に、大枚5000万円を地元の農村利権団体にむしり取られた定年熟年夫妻の悲哀ストーリー。50アールじゃ、食えないだろう。欧州(遅れていると言われるポーランド)の農村のお父さんは、ひとりで360ヘクタールを耕す(ここ)。一ヘクタールは100アール。だからこの定年退職夫妻は、欧州の標準的農家の720分の一の小さな農地に、自分の虎の子の5000万円を投資したことになる。まさにアホそのもので、気の毒だが、何故このような詐欺的農地販売行為が成り立っているのかを考えるべきだ。

まずは、都会もんからは思いっきり、ぶんだけるだけぶんだくれという農民精神。いやはや、あっぱれ。(2006.09.18)

 これは実にいい記事でした。本当に私たちの世代の中に、こうして実際に定年後(つまり58〜60歳くらいに)、「帰農」とか「田舎に帰ろう」とかいう運動があるのですよ。まあ、「田舎」というのはまずいのか、「故郷へと帰ろう」とか「故郷回帰運動」とか言っていますね。私は言いにくいのですが、そういうことを言っているのは、三派全学連や全共闘をやっていた人が多いです。もう嫌ですね。私はそんなのとは絶対に同意しません。
 むしろ私は都会に回帰したいという思いですね。

NHKは、都市住民が払う視聴料で成り立っているくせに、払う視聴料がごく少ない彼ら百姓勢力の宣伝塔と化している。公共放送NHKは、いったい誰の見方か? NHKは政治的にバイアスが掛かった放送局といわれる所以である。もっとも、アホな民放も例外ではない。資金力が豊富な農協関係団体の影響で民放も「オイシ?!」連呼の田舎礼讃番組ばっかり(貧乏な東京12chなんかすぐにあいつらに買収される)。

 私はよくテレビを見ていますが(というよりも、ただ耳で聞いていることが多いな。私はほぼブログ等々を書いていまして、となりでテレビが映っています)、こういう番組はあると別なところに替えてしまうから、あんまり判らないですね。でもこうだとしたら、NHKもその他のテレビ局も嫌だなあ。

 それとですね、一番この中で気になりましたのが、塩津計さんが書かれたこのブログへの次のコメントです。

小阪というアホ左翼が「思想としての全共闘世代」に馬鹿なことを書いている。反体制・反資本主義・反権力を志向する全共闘世代の究極の理想は帰農であり、田舎にいって有機農業にいそしむことなんだそうだ。こういう全共闘世代は20代も何も考えず馬鹿やってだだこねたが日本の政治には何の影響ものこさず害だけなしたが、それから40年たって定年を迎えても、やっぱり馬鹿でヒャクショウに自ら喜んでむしられにいく馬鹿だった。こういうオツムのなかでのみとらえた勝手な権力=都会の大企業、民衆=弱者=ヒャクショウという構図にしがみ付くアホの全共闘世代は丸ごと帰農してもらって滅んで欲しいもんですな。

 私は昭和23年生まれで、大学は1967年入学で、ちょうど三派全学連の時代で、2年生になったときにいわゆる全共闘運動の真っ盛りでした。それで東大闘争の安田講堂で逮捕起訴され、220日後保釈になりましたが、また芝浦工大事件で、逮捕起訴されました。
 それで、ずっと同じ学生運動の仲間とはつき合いが続いていますが、私はこのような「究極の理想は帰農であり、田舎にいって有機農業にいそしむこと」なんてことは、少しも思っていません。もうこういう連中(昔は三派や全共闘の活動家で、今はただのおっさんでそういうことを言っている連中)は馬鹿で阿呆じゃないのか。

 小阪さんは、今度道端で会ったら(彼は予備校の講師しているから、ときどき御茶ノ水の道端で偶然に会うのね。でももう会うこともないかな)、このことを指摘しますよ。でももう判んないのかな。でも彼自身が帰農なんかしないでしょう。でも彼のこの本は買う気もしないけれど、この馬鹿な部分くらい立ち読みしてみようかな。
「アホの全共闘世代は丸ごと帰農してもらって滅んで欲しい」と言われても、私も阿呆な全共闘世代ですが、絶対に帰農なんかしたくないよ。田舎なんか、嫌いです。私は酒飲みなので、車は運転しない(できない)から、車がないと生活できない田舎なんか絶対に嫌です。

 私はもうずっと都会に住んで、孫の手をひいて、あちこち歩いて、それから飲み屋で騒いでいきます。(以上9/23)

    以上書いた内容で、私のまったくの誤解がありました。それで小阪修平さんに申し訳ないことをしました。そのことを、以下に書いておきました。(10/07)

   周の雑読備忘録「小阪修平『思想としての全共闘世代』」

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 私がこの「ある弁護士からの内容証明」という3つのUPをしましたのは、今朝NHKテレビで、今はお年寄りを狙った詐欺が多くなっており、それに対して、解説者が「弁護士に依頼すればいいのですが」というようなことを言ったからです。私は「弁護士なんて信用できないのが多いよ」と声をあげました。
 私は不断から、

  弁護士というのは、能力のないのが5割、悪い奴が4割、まともなのは1割

と言っています。そして私が信用できるのはその1割のさらに少ない数です
 私が信用している弁護士というのは、実にわずかですが、確実に存在しています。私がずっと信じている大口昭彦弁護士は、もう私が実に尊敬する方です。彼は、実は剣道4段であり、彼の手帳を私が盗み見たときに、剣道のことがずっと書いてありました。
 かつ、私とある方の相談事に行ったときに、その帰りに、ある剣道道場があったのですが、そこで練習している大勢の少年少女たちを、「いいなあ」と行って見ている大口さんには、実に私は感激していたものでした。
 思えば、この大口さんは、三派全学連のときに社青同解放派の早稲田大学の活動家だったわけですが、それが実によく判る気がします。解放派って、なんだかあんな方が多いんだなあ。
 私がこの大口さんと始めてお会いしたのは、彼が京都大学へ通っているときであり、京都のある飲み屋で始めてお会いした大口さんは、酒は大量に飲みますが、最後まで正座をくずさずに、「これは実にいい男だなあ」と私は感動し続けたものでした。

 彼の紹介で、私は何人もの方にお会いしました。弁護士ですと、法的な問題は解決するように努力されるわけですが、「これは法の問題ではなく、経営の問題だ」というときに、私のところに来るのです。
 あるときに、その相手の経営者がどうみても、「これは昔は活動家だが、でもなんだか喋り方が違うな」という方が来まして、「大口さんとはどういう知り合いなのですか?」と聞きましたら、それはもちろん昔の早稲田大学の活動家でしたが、なんとそのセクトが日学同だったのです。
 彼がいうのには、

 自分は、日学同でした。新右翼です。大口さんは、社青同解放派、いわゆる三派全学連、新左翼ですが、本当はあの方も私たちと同じ新右翼なんです。でも私たち右翼がだらしないから、ああゆう方は三派のほうに行ってしまったのです。

 それで私は、何人もの早稲田の活動家の名前をあげました。例えば、もう亡くなりました彦由さんをあげましたところ、

 あの方も、本来は右翼なんです。でも私たち右翼がだらしないから、あの方も三派のほうへいきました(彦由さんは早稲田で珍しく中核派でした。彼がテレビに出ていたときは、私はいつも心配で見ていたものでした)。

 でもその他私があげる早稲田の活動家もみな

 あの方も、本来は右翼なんですが、私たち右翼がだらしないから、三派のほうに行かれていました。

といわれるばかりでした。
 でもなんだか、その言葉が私にはよく判る気持がしたものです。思えば、彦由さんも、何故か私を可愛がってくれたなあ。

 とにかく、いい弁護士を見つけましょうね。私が今何故かときどき王子駅で出会います弁護士さんも、いい弁護士ですよ。思えば、ああゆう弁護士さんに会うのは至難のことなのでしょうね。

 ある弁護士からの内容証明 の5 へ続く

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 私の 5月30日私は58歳になりました にコメントをいただきました。
 まっくまっくの彼女から

これからお互いに沢山の楽しい思い出を創っていきましょうね。

というコメントです。そうですね。思い出ね。でも私なんか今までの思い出はすべて記憶にありますが、今後はどうなのかな。58歳なんてまだまだ若いとも言えますが、でもねえ、けっこう若年性認知症が増えているみたいですね。
 なんかねえ、たくさん記憶していることが増えているし、でもそれをインターネット内ですませるようにしないといけないんだろうな。
 司馬遷「史記」の「刺客列伝」の中の一人一人の話の中に出てくる人物を今思い出そうとしても、思い出せないしね。だから、インターネット上ですぐ解ればいいんだよなあ。いや、まだ「史記」はいくらでも思い出せるんですが、「春秋左氏伝」の魯の国の王の名前なんか忘れちゃったしね。もう忘れてもいいんだよな………と、自分を納得させています。

 イエイリITラボ さんからは、以下のコメントをいただきました。

 お誕生日、おめでとうございます。
58歳ですか。私も将門さんの年になったとき、同じくらい若々しい発想ができるナイスな大人でありたいと思います。
これからも、楽しい情報発信を待ってますよ!

 いえ、もう58歳ですとね、まだめでたいのかな。私の長女に子どもが生まれでもしたら、それは実にめでたいことです。はやく、そうならないかな。そして次女も結婚して(この子は相手の親のところへ住みます。綺麗なお母さんだから、私は嬉しいけれど、ちょっとやっぱり寂しい)、これもまた、めでたいことになるでしょう。
 それとね、私は、昭和23年の団塊世代でね、ちょうど三派全学連や全共闘の時代のまっただなかで実際にその現場で闘っていました。それでムショにも入ったし。でも思想的には、国粋主義者で、全然周りの人たちとは違っていました。集会で詩吟いれたアジをしたことがありますからね。でもね、全学連や全共闘の友人たちとは、今もつき合いがありますが、でもなあ、彼らはあまりに保守的でね、パソコンもインターネットもまともにやりませんから、それがとても私は不満です。
 今私は、ニュースきくち を毎日UPしていて、このITでどうか建築の世界ももっとまともに変わってほしいと思っています。
 あ、建築の現場で、スカイプ使って点検できるんじゃないか(もちろん、映像を入れてスカイプをやるんです)と思っているんです。そうすれば、建築設計の現場と、建築した現場とで、実際に映像で検証できるじゃないですか。携帯電話でもいいみたいだけれど、スカイプなら(もちろん動画のカメラが必要ですが)何時間でも無料ですし、映像も使えるというのが、いいと思うんですね。

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