12080906 藤田典さんの「ダダさんの掲示板」に、この書き込みがありました。

昭和二十年代の前半 投稿者:管理人  投稿日:2012年 8月 9日(木)19時21分48秒
周さんが一年生の時、クラスに「70人」いたと書かれていますが、当方が通っていた小学校では、余りにも子供の数が多くなったため、教室の数が足りなくなり、低学年の1〜2年生は、午前と午後に分かれて授業が行われ「二部授業」と呼ばれました。
勿論、講堂も間仕切りをして教室の代用に使われたのですが、新校舎が出来たのは、卒業を目前に控えた六年生の三学期のことでした。

 私は「二部授業」というのは、札幌での昭和29年のことだったと記憶しています。いやこの藤田さんの言われることで、甦ったのです。
 それで70名の人数から57名くらいに(実は50人教室にしたかったのでしょう)なりました。分校を作ったそのあとで、こんな人数でした。
 でもでも、私の兄(昭和17年2月生まれ)なんかは、東京の巣鴨にいたときは実に「三部授業」だったといいます。どこも大変な事態でした。だから米軍の豚のえさだったスキムミルクが給食に出されたのでしたね。
 このスキムミルクの思い出は、どこでも話しましたね。あれは成長期の子どもには何もならないものなのです。

12080907 私の名古屋南区の桜小学校でも、3年の最初に分校が出来て、クラス編成(ようするにクラス換え)がありました。3年の4月のことでしたから、最初のクラスは25日くらいの期間だけでした。
 でもでも、私の場合は、中学(鹿児島市の甲東中学)でも最初の14組(全部で14クラスで、一組57名くらいでした)は、みな分けられて他のクラスに配属され、同じクラスになったのは2学期からでした。でもクラスはみないろんな部屋を間借りしていて、私なんか理科室で、実験用の机に座っていたものです。
 でもでも、私の場合はこれが昭和36年くらいの話ですが、私の姪(弟の娘)も中学は実に大変でした。プレハブ校舎が急遽建てられました。
 でもでもさらに私の姪(兄の娘)の二人の息子は、あまりの子どもの多さに、通う学校も学区を我孫子市が大きく変えたものでした。私の娘が通ったのと同じ小学校になる予定が一つ隣の学校になりました。前に建てられて、壊されたプレハブ校舎がまた建てられたのです。これは平成20年代の今つまり平成23年の話ですよ。
 そういえば、私の孫もたくさんいる保育園で、私は心の中は実に嬉しいものなのです。