将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:上杉謙信

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 こうして「周のポメラ」を書いて行きます。

2015/10/27 09:55今リビングです。昨日はこの「周のポメラ」は書いていないのだなあ。
「じゅん散歩」を見ています。そもそもこれを見に来たのです。
 神楽坂を歩いています。私は何度もここは歩きました。途中にある路はいくつも歩きました。
 いいなあ。途中のあるお寺でお参りもしました。あのお寺では毘沙門天を祭ってあるのです。その時も上杉謙信を思い出しました。謙信は毘沙門天を敬愛することがしきりだったのです。あの川中島の戦い(この信玄との川中島の戦いは前後5回あります)でも「毘」という旗を掲げています。
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 私は上杉謙信の大ファンです。ここのサイドバーにも像を掲げてあります。
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 この挿絵を見て、上杉謙信を思いました。謙信は毘沙門天を信仰することしきりだったのです。いくつか毘沙門天を祭るお寺を見てきたものです。今は神楽坂の善國寺を思い出しました。私があのお寺を訪ねたのはいくだったろうか。随分前のことですね。

 逃亡兵ウンケルの事件は、けんの心に暗い影を落としていた。

 ウンケルは多分(たぶん、でそして私はウンケルがドイツに帰国できることを願っていますが)勇太と同じ運命になってしまったのでしょう。

 勇太の死は動かしがたい事実としても、せめてウンケルは無事であってほしい、いつの日か故国の母や恋人にめぐりあえますように……けんは、次郎長の形見の毘沙門天に朝晩、両手をあわせている。…………。

 なんか悔しいな。ウンケルが故国に到達することの困難さと、勇太の水死、そして安兵衛が拘留中でひどい拷問に会ったことなど、悔しくてたまらないことばかりです。この世には神などいないのです。もしいたら、こんなこんなひどい悔しいことに何故人間を出会わせるのでしょうか。
 なんだかいいようもない悔しさばかりになっている私です。
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 こうしていい画像をUPできて嬉しいです。いやスキャンしようとも思いましたが、こうして写真を撮りました。

2013/09/13 05:01これで書いていくと嬉しいです。このポメラについているストラップは上杉家の家紋です。購入しました楽天の「天然石&アクセサリー桜」では、上杉謙信と書いてありました。いつも謙信を思い浮かべています。
2013/09/13 05:55あ、ここで謙信を登録しました。でも固有名詞だけではなく、普通名詞でも登録してしまいましたので、こちらはどうやって削除していいか分からなくなっています。前にもやっているのですがね。
2013/09/13 06:16そういえば、この謙信の家紋のストラップはこのポメラにつけています。
 ああ、このストラップと一緒に入っていたのが、ここの画像です。とても嬉しいです。こんな気持を持っていてくれることが嬉しいのです。
2013/09/13 18:32今は娘おはぎの家で孫たちと接しています。それにケータイメールではK子さんと接しています。
 もうミツ君が帰ってきました。
 あ、上の「謙信」はもっと前に正確に登録整理しました。
2013/09/13 18:52ここで食事をしていくことになりました。

 食事のあと、午後9時をすぎておはぎママとおしゃべりしていたポコ汰が眠ってしましました。ポポはばあばとおしゃべりしているし、ポニョはミツ君パパのそばにいます。私はそれをながめているだけです。

 上杉謙信は一生涯独身でした。だが恋をしたことはあるのです。私は以下の中に書いています。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/16800759.html 
                                             「上杉謙信の短歌」

11021414 以下の歌は、上野の平井城主千葉采女(うめね)の娘伊勢と一緒に見た桜のことだと思います(実は私はあまり確信がもてていません)。謙信は、この女性に恋をしていたのだと思います。ただ、彼女は謙信が独身の意思しかないのを知りまして、17歳で青龍寺の尼になったようです。

 諸共(もろとも)に見しを名残の春ぞとは けふ白川の花の下かけ

 この女性も辛かったのだと思います。謙信が「嫁に来い」と言ってくれたなら、すぐにでも来たことでしょう。でも謙信はそういう男ではありませんでした。
 この時代は、子ども(子孫)ができないと、その家もその多くの家臣たちも大変なことになってしまいます。だから、多くの側室を持つのです。でもでも、この謙信だけは違います。実に変わった英雄でした。
 この上洛したときに、私は謙信がいっそ長尾幕府(その頃はまだ上杉とは言っていない)を作れば良かったのに。桓武平氏の出身の彼には、十分にその資格はありました。そうしたら、私たちは、長尾幕府初代将軍長尾景虎を歴史で見ることができたのです。

 彼は京都に兵を率いて2度登っています。ある貴族の女性に見そめられて、慌てて春日山に帰ったこともあります。
 そうですね、この伊勢は悲しみのあまり自害したという説もあります。(2011.02.15)

201705290210103003 私が日本の戦国時代の武将の中で誰が一番好きになれるかというと、それは上杉謙信です。私が中学生の頃最初に詩吟に接して吟ったのも、この上杉謙信の詩でした。

      九月十三夜陣中作  上杉謙信
    霜滿軍營秋氣清  霜は軍営に満ちて秋気清し
    數行過雁月三更  数行の過雁月三更
    越山併得能州景  越山併せ得たり能州の景
    遮莫家郷憶遠征  遮莫(註1)家郷遠征を憶う

(註1)遮莫(さもあらばあれ)  そんなことはどうでもよい

霜は陣営に白く満ちて秋の大気が清らかである
空には飛び過ぎる雁が見えて月は今や真夜中である
遠く越後越中の山々や能登は何ともいえぬよい景色である
故郷の者は遠く遠征に来ていることを心配しているだろうが、そんなこと
はどうでもいい。この景色を前にして自分は非常に愉快なのだ

これはちょうどいよいよ織田信長との戦いのときに、信長方であった能登の七尾城を攻めたときの詩です。この城を落として、さらに柴田勝家の軍を大いに破ることになります(手取川の戦い)。

戦国の大名の中で、謙信は武田信玄、今川義元、毛利元就などと違って、都に兵と一緒に二回上っています。思えば、いっそそのときに長尾幕府(当時はまだ長尾景虎といっていた)を作ってしまえばよかったのにななんて思ってしまいます。征夷大将軍は代々源氏の長なんていうのは、江戸時代から言い出したことであって(ちなみに景虎の長尾氏は桓武平氏の出身であり、上杉氏の祖先は藤原氏北家の出である)この時に景虎にその気があれば、幕府を設立することは可能だったと思うのです。景虎にはその気がありませんでした。
上杉謙信という人はいつも何を目指していたのかななんて思ってしまいます。この京都での幕府なんてこと考えると、彼には京よりは関東こそ眼が行っていたのでしょう。思えばここらが彼の限界といわれるところなのかもしれません。でも関東人である私には、いつも関東での覇権をこそ考えていた謙信こそ好きになれるのです。
川中島の戦いもよく信玄の勝利のようにいわれますが、いつでも石橋を叩いて渡るような信玄をあれほどの戦いに引き出し得たのは謙信の戦略戦術です。川中島の戦いは前後5回あるわけですが、いわゆる謙信信玄の一騎討ちがあったとされる激しい戦いは永禄四年(一五六一)九月一〇日のことです。おそらくは、歴史上日本で行われた野戦の中では最も激しい戦いだったと思われます。
後年ここを訪れた秀吉が、土地の古老の話を聞く中、「なんにしても、無駄な戦さをしたものだ」といったそうですが、その言葉を聞いたら、多分信玄は顔を赤らめるでしょうが、謙信は「では無駄かどうかまたやってみようか」とでも言いそうな気がします。そこが、信玄の現代にも通じるところであり、謙信は歴史の中の戦う詩人とでも言えるところなのではと思ってしまいます。

考えてみれば、頼山陽の「川中島」も謙信の側から書いているわけなのですが、それはこの二人のことを比較するとき、当然かなという気になります。あくまでこの戦いは謙信の側からのみ展開したものといえると思います。

    題不識庵撃機山圖(註2)(川中島)
不識庵機山を撃つの図に題す
            頼山陽
鞭聲肅々夜過河  鞭声粛々夜河を過る
曉見千兵擁大牙 曉に見る千兵の大牙(註3)を擁するを
遺恨十年磨一劍 遺恨なり十年一剣を磨き
流星光底逸長蛇 流星光底長蛇(註4)を逸す

   (註2)不識庵 謙信のこと。機山 信玄のこと。
   (註3)大牙 旗竿に象牙を飾ることからいう。
(註4)長蛇 信玄のこと。

この詩はもちろん頼山陽の詩であり、山陽の詩では一番知られている詩かもしれません。しかしよく謙信の心をつかんでいると思います。
信玄と山本勘介の「きつつき戦法」とかいうのを読んで、謙信は妻女山からおりて「鞭声粛々」と犀川を渡ります。鶴翼の陣で待ち受ける武田軍に車懸りの陣形で堂々と大将旗を擁して進んでいきます。霧が晴れて、暁の光にどんなに信玄は驚いたことでしょうか。このときの為に謙信は十年もの間、剣を磨いてきたのだが、流れ星が光るような一瞬の間に信玄を取り逃がしてしまいます。
  また次の詩の作者も謙信のことが好きだったのだなと思います。

    春日山懐古      大槻磐渓
    春日山頭鎖晩霞 春日山頭晩霞に鎖さる
    華留嘶罷有鳴鴉  華留(註5)嘶き罷んで鳴鴉有り
    憐君独賦能州月  憐れむ君が独り能州の月を賦して
    不詠平安城外花  平安城外の花を詠ぜざりしを

(註5)華留は両方の字ともに馬がついている。

春日山(謙信の居城であつた)は霧に閉ざされている
黒栗毛の馬は声もなく鵜がなくのみである
謙信がひとり能登の七尾城攻めのとき詩を詠んだのだが
残念ながら京都平安城の詩を詠ずることはなかった

謙信が「九月十三夜陣中作」で能登の月を詠じているのに、京都までは届かなかったのだなと残念がっているわけです。私の好きな詩の一つです。

最後にあまり好きな信玄ではないのですが、彼の詩も見てみたいと思います。謙信の詩と一緒にしか、こうして信玄の詩なんかみることはもうないと思いますので。

     新正口號        武田信玄
淑氣未融春尚遲  淑気未だ融せず春尚遅し
霜辛雪苦豈言詩  霜辛雪苦豈詩を言わんや
此情愧被東風咲  此の情愧ず東風に咲われんことを
吟斷江南梅一枝  吟断す江南の梅一枝

新春の気が融けず春はまだのようだ
霜や雪の寒さの中で詩も出来ない
これでは春の風に笑われてしまう
梅の詩でも詠ってみようかな

この詩を見ていると、信玄という人は猛将というよりも、かなりこまやかな神経をした人物だったのかななどと思ってしまいます。(これは私が50歳のときに書きました)。

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09111503 周の雑読備忘録「花ヶ前盛明『上杉謙信』」へのコメント周の雑読備忘録「半藤一利『徹底分析川中島合戦』」へのコメントでレスを書いたのですが、このお二人は同じく上杉謙信のことを書いておられまして、私も当初は同じ方かと思いましたが、でもIPアドレスはまったく違います。だから別な方のようです。ただし、同一の方が2台のパソコンで投稿されていると判りません。
 できたら、ハンドル名でも記されるといいのですが。いえ、「A」でも「よい子」でもいいのです。「匿名」だと、私にはよく判らないのですね。
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09111502 私の 周の雑読備忘録「半藤一利『徹底分析川中島合戦』」に匿名の方から次のコメントがありました。

1. Posted by 匿名   2009年11月14日 03:56
 こんばんは
謙信公は欲の無い人です。
そして公僕の鏡です。
 越後国主として関東菅領として、弱った幕府を支えながら自分の役務に忠実に生きた人です。
 越後人は、皆さん謙信公を敬慕しております。
その一例は、越後民が飢饉で苦しんでいる時に、謙信公は五年間もあらゆる諸税(武課)を無税にしてくれました。
その様に、部下に対してだけでなく、領民にも慈悲深く接してくれました。
        敬具

 コメントをありがとうございます。越後人の方だけでなく、誰もが好きになれる方ですね。ただお酒を飲みすぎかな。ただとても不思儀な英雄ですね。今も判らないところが私にはいくつもあります。戦のやり方も信玄や氏康や信長とはあまりに違います。
 この半藤さんの本は実にいいです。江戸時代からこの川中島の第4回目の大合戦を信玄の勝ちという方が多かったのですが、半藤さんは違います。実に冷静にかつ、自らの思いも書いていると思いますね。

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09111501 私の 周の雑読備忘録「花ヶ前盛明『上杉謙信』」に匿名の方から次のコメントがありました。

1. Posted by 匿名   2009年11月13日 23:40
ありがとう
 謙信公と上杉家は
  我が恩人です

 コメントをありがとうございます。私はただ中学生の頃から、上杉謙信が好きなだけなのです。できたら、匿名さんも、ブログなりで謙信のことを書いていただけたらと希望します。

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09103004上杉謙信
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 昨日この本を手にしまして、すべて読んでしまいました。いい本です。

書 名 上杉謙信
著 者 花ヶ前盛明
発行所 新人物往来社
定 価 2,000円
発行日 平成3年11月2日初版発行
読了日 2009年10月29日

 扉に載っていた著者略歴と目次は以下です。

著者略歴
花ヶ前盛明(ハナガサキモリアキ)
昭和12年生まれ、國学院大學大学院修士課程(日本史学専攻)修了。(現職)越後一の宮居多神社宮司。新潟県文化財保護連盟理事。新潟県文化財保護指導委員。上越市文化財調査審議会委員。
(著書)『上杉謙信と春日山城』(新人物往来社)『中世越後の歴史』(新人物往来社)『上杉謙信』(新潟日報事業部)

目次
一 上杉謙信
1年表 上杉謙信「四十九年一睡夢」
2上杉謙信
  春日山城での呱々の声
  巨星謙信の登場
  鞭声粛々夜河をわたる
  謙信と信玄の一騎討ち
  関東管領上杉家を相続
  天下統一への夢
  霜は軍営に満ちて
  一期栄華一盃酒
  教養と人柄
  毘の軍旗
  経済力
  食と酒
  敵国に塩を送る
3川中島の合戦
  宿命の川中島
  両雄の対陣
  上野原の戦い
  妻女山に布陣
  毘の軍旗
  鞭声粛々夜過河
  暁見千兵擁大牙
  謙信・信玄一騎討ち
  殿軍甘粕近江守の奮戦
  血染めの感状
  信玄退治の願文
4上杉謙信―毘沙門天の化身二度の義軍
  毘沙門天の化身
  第一回上洛
  越後の統一
  第二回上洛
5上杉謙信とその組織
  謙信、長尾家を継ぐ
  政権が安定してからの家臣団
  軍団内の武器編成
6長尾氏
  越後守護職長尾氏
  長尾為景と下克上
  上杉謙信
  上杉景勝
7上杉謙信合戦事典
  栃尾城の戦い
  黒滝城の戦い
  城戸城の戦い
  駒返の戦い
  北条城の戦い
  小田原城攻め
  松山城攻め
  唐沢山城攻め
  館山城攻め
  騎西城攻め
  小山城攻め
  小田城攻め
  石倉城攻め
  本庄城攻め
  富山城攻め
  松倉城攻め
  朝日山城攻め
  栃尾城・増山城攻め
  七尾城攻め
  手取川の戦い
8上杉謙信関係史跡事典
9上杉謙信孤高の四十九年
10上杉景勝
  謙信の養子に
  御館の乱
  新発田重家の謀叛
  佐渡平定
  会津移封
  米沢入城
二 越後一の宮居多神社
1居多神社
  居多神社の「居多」は「気多」神階
  社領
  越後一の宮
  宮司花ヶ前家
2居多神社文書
3花ヶ前家の歴史
  付 諸国の宮一覧
三 史跡および資料
1延喜式内社頚城郡十三座
  奴奈川神社
  大神社
  阿比多神社
  佐多神社
  物部神社
  水嶋礒部神社
  菅原神社
  五十君神社
  江野神社
  青梅神社
  円田神社
  斐太神社
2新潟県の主な城館跡
上杉謙信年譜
越後上杉氏系図
越後長尾氏系図

花ヶ前盛明著作一覧
 <中世史・城郭史研究シリーズ>
あとがき
著者略歴

「霜は軍営に満ちて」(58ページ)に次が書いてあります。

 九月十三日、謙信は中秋の名月に七尾城で酒宴を催し、

  霜満軍営秋気清 霜は軍営に満ちて秋気清し
  数行過雁月三更 数行の過雁月三更
  越山併得能州景 越山あわせえたり能州の景
  遮莫家郷憶遠征 さもあればあれ家郷の遠征をおもふは  (頼山陽『日本外史』)

と吟じたといわれている衣。ところが謙信には生涯この詩しかなく、しかも九月十三日には、いまだ七尾城は落城していなかった。後世の人が、謙信の気持を察して作ったのであろう。

 ここには、「後世の人」とありますが、この人が頼山陽であることは明らかだと思います。ただ誰もこの詩を上杉謙信の詩としてきました。
 私が最初に詠った詩も、この「九月十三夜陣中作」でした。私は中学2年のときでした。
 次の「川中島」は頼山陽の詩として名高いわけですが、

    題不識庵撃機山圖(川中島) 頼山陽
  鞭聲肅々夜過河 鞭声粛々夜河を過る
  曉見千兵擁大牙 曉に見る千兵の大牙を擁するを
  遺恨十年磨一劍 遺恨なり十年一剣を磨き
  流星光底逸長蛇 流星光底長蛇を逸す

 これらは、すべて以下に私が書いています。

   http://shomon.net/kansi/kansi1.htm#uesugi 「上杉謙信をめぐる詩」

 また私は

   http://shomon.net/kansi/siika1.htm#050320 「上杉謙信の短歌」

で謙信の短歌を抜き出しています。
 でも以下の短歌は、この本で知りましたものです。

 春月
とははやなたか見るみる空に春の月の かすみかすまぬかけはありやと

 この歌と次の2首は、謙信が上洛したときに前関白近衛稙家(たねいえ)、関白近衛前嗣(さきつぐ)親子との交流の中で、「春日同読三首和歌 弾正少 景虎」というものです。
 あと二つの短歌は以下の通りです。

 雲雀
  なれもまた草のまくらやゆうひばり すそ野の原におちてなくなり

 祈歌
  つらかりし人こそあらめ祈るとて 神にもつくすわがこころかな

 また謙信の短歌を詠んで行きたいと真剣に思いました。思えば、私は日本の歴史の中で、この上杉謙信が一番好きです。

徹底分析 川中島合戦徹底分析 川中島合戦

 14日に我孫子の自宅へ行きましたが、行くときに電車の中で、チェーホフ『子犬のカシタンカ』を読みまして、帰りには、自宅にあったこの本をちょうど半分本を読み、そしてさきほど読み終わりました。もう随分前に読んでいた本でしたが、また読みかけると最後まで読んでしまうものです。

書 名 徹底分析川中島合戦
著 者 半藤一利
発行所 PHP研究所
定 価 1,300円+税
発行日 2000年6月22日第1刷発行
読了日 2008年1月17日

08011701 私は川中島の戦い(第4回目の永禄4年1561年9月)は、やはり上杉謙信の勝利であると思ってきましたが、この半藤さんの考えも同じなようです。ただ、その後の第5回目の戦いののちには、このあたりは武田信玄の領地となり、やはり武田の勝利だという人も多いのですが、上杉謙信には、領土を獲得するという意思があまりに感じられないない武将なのですから、その判断では計れないと思うのです。
 それにしても、実に謙信という人は私にはまだまだ理解しにくい武将ですね。今後も、より多くの人がこの人のことを書いていくのだろうと思いました。

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 私の 周の掲示板に以下の書込みがありました。

不識庵の詩について  投稿者:貴志白文  投稿日:2007年 8月 5日(日)07時02分9秒

   九月十三夜陣中作  上杉謙信
    霜滿軍營秋氣清  霜は軍営に満ちて秋気清し
    數行過雁月三更  数行の過雁月三更
    越山併得能州景  越山併せ得たり能州の景
    遮莫家郷憶遠征  遮莫(註1)家郷遠征を憶う
の詩についてお訊ねします。末句の「遮莫家郷憶遠征」の「遮莫」は字源によれば"其れはそうであろうが・・・。ままよ・・。”。と在り、広字苑によれば"不本意であるがそのままにしておこう。どうであろうと・・・。”と解釈されています。此の二辞典の解釈。更に此の詩の醸し出す"壮大な雰囲気”、七尾城を落として"ほっとした雰囲気”を感じるには「遮莫遠征憶家郷」と為る方がすっきりします。此の原詩の"家や故郷はどうでも好い。唯"遠征を想う。”では詩が納まり難い。「憶家郷」を末尾に置く事で詩が引き締まる。
詩人で在る謙信、フィーリングに則る生き方をしていた謙信を考えた場合、遠征の二文字を末尾に置かないと想われるが・・・。
謙信の真筆を見たいものである。

 こうして私にお尋ねになっていまして、そもそも私に答えられる器量があるのだろうかと思ってしまうのですが、とにかく考えました。
 短歌に関しては、いくつも残している謙信です(「上杉謙信の短歌」)が、漢詩については、この七言絶句一つだけです。武田信玄はいくつもの漢詩を作っていますが、謙信はこの七尾城を落としたときの詩だけです。
 漢詩作りは、江戸時代には、実に盛んになりましたが、この戦国時代には、かなり大変なことだったろうと思うのです。江戸時代には、漢詩作りのためにたくさんのアンチョコ本が出てきます。漢詩を作るのには、日本人ではまったく考えることも予想もできない平仄のことがあるのです。私たちは、それを「音(おん)」で理解することはできません。でもそれは避けられない鉄則です。
 ただし、良寛のような人は、この平仄には全く関係なく漢詩をたくさん作っています。でも武田信玄や上杉謙信は、そうはいかなかったのだと思います。
 これについて、私は 漢詩のいくつかの規則に次のように書いています。

1.平仄の並べ方の法則
 各句のところで、二番目の語と四番目の語は反対の平仄に、二番目と六番目の語は同じ平仄にという法則があります。これを「二四不同、二六同(にいよん同じからず、にいろく同じ)」といいます。

 さて、これで、この謙信の決句を見てみます。

   遮莫家郷憶遠征

では、「莫」は平、「郷」は仄、「遠」は平、で規則にかなっています。

   遮莫遠征憶家郷

では、「莫」は平、「征」は仄、「家」は仄、で規則を逸脱しています。

 おそらくは、良寛のような人は、「平仄」なんて、俺には関係ないよ、と言いきれたでしょうが、信玄や謙信のような人は、ただただ教わったことに忠実にしたがったのだと思います。おそらく、これは「中国人が読んだら、音がちゃんと正しく聞こえてこないんだよ」というくらいの説明は聞いていたことだろうと思います。
 漢詩作りをすると、最初に考えていた語が使えないということが多々出てきます。でもそれは、もう仕方のないことだと思っていたことだろうと私は思いますよ。
 こういうことが嫌いだったから、信長や秀吉という武将は漢詩を作っていないのです。思い出せば、足利義昭なんか、漢詩をいくつも作っていますね。なんとなく納得してしまいます。

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上杉謙信―信長も畏怖した戦国最強の義将
書 名 上杉謙信
    信長も畏怖した戦国最強の義将
著 者 相川 司
発行所 新紀元社
定 価 1,800円+税
発行日 2007年1月30日初版発行
読了日 2007年4月8日

 私はやはり戦国時代では、この上杉謙信という武将が好きです。武士というものが、自分の主家に対して忠節を尽くすなんていうことは、江戸時代になって何度も言われて、どうやら「そういうものが武士なのか」と勘違いするようになっただけで、そもそも武士の発生のときから、この江戸幕府ができるまでは、ただただ騙しや裏切りの連続が、武士の姿でした。とくに、南北朝時代から、室町戦国時代に至る関東地方は、もう説明ができないくらいな、いわば仁義なき戦いに明け暮れた地域でした。
 そういえば、「孫子」が好きだった武田信玄が、「兵は詭道なり」というところで、本来真面目なだけの信玄も「そうか、詭道か」と感心して、その道ばかりを極めた感じがしていますね。その信玄には、謙信という人間がどうにも訳が判らなかったでしょう。
 山内上杉氏、扇谷上杉氏、謙信の実家である長尾氏、そして鎌倉公方たる古河公方などが入り乱れる関東は、もうどうしてもその状態を明確に説明することができません。そういえば、太田道潅は、扇谷上杉氏の執事として苦労したのですね。でもその関東に、後北条氏が出てきます。もう大混乱の歴史が続きます。
 だが、その中で、上杉謙信だけは、実に「義」に生きた武将だと思います。こんな武将がよくあの時代に生きていたものだなあ、と思います。

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私はどうしても武田信玄という人が好きではありません。でも彼の作った漢詩はいくつもありまして、いつもその作り方にいろいろな思いを抱いています。
何ごとにも熱心に研究してとりくんだのだろうなと思うのです。おそらく今いて、パソコンに取り組んだらまた熱心にやっているでしょうね。

当時は珍しかったろう薔薇の花を詠んだ詩です。7939e9bf.jpg

薔薇 武田信玄
滿院薔薇香露新 満院の薔薇(しょうび) 香露新たなり
雨餘紅色別留春 雨余の紅色 留春を別(こと)にす
風流謝傳今猶在 風流謝伝(註1) 今猶お在り
花似東山縹渺人 花は東山 縹渺(ひょうびょう)の人に似たり

(註1)謝傳(しゃでん) 東晋時代の隠棲していた風流人。のちに仕官し、の ちに東晋の宰相となり、肥水の戦い(肥は本当の字はさんずいがついています)で苻堅ひきいる前秦を破って、国難を救った。

庭を満たしている薔薇の花は 香を含んだ露がおりて新鮮である
雨が振ったあとのその紅の花の色は 去りゆく春を惜しんでいる
風流人謝安の伝記は、今もなお残っている
東山に隠れ棲んでいた霞んでいてしか見えなかった謝安の姿に似て美しい

なんとなく、漢詩を作る勉強をしていて、美しく咲いているある垣根に囲まれた庭を見ていて、そのままの風景を、自分が今勉強した中国の古典の中で、この三国志時代のあとの南北朝の肥水の戦いで、東晋が勝利できたことの嬉しさを、自分の今の日本の戦国時代に比したのだろうと私は思います。
上杉謙信にくらべて、どうしてもあまり好きになれない信玄ですが、彼の詩を詠むと、「こうしたいつも勉強熱心なのが信玄の姿なんだろうな」と強く感じています。

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 borg7of9のソーシャルネットワーキングと心理学この記事 がありました。

 遂にネットレーティングまでミクシィの伸びが止まったと発表しました。既にALEXAのアクセス数字は2006年の2月頃から、横ばいとなっており、ミクシィ利用者の活動は停滞していたのですが。筆者に言わせれば、これは明らかに経営者の招いた人災です。(2006.11.21)

 私もミクシィの会員になっていますが、ほとんど書いていません。このごろはアクセスもしていないですね。

 本年2月に(株)ミクシィを名乗り、上場に向けて始動し始めた頃から、ミクシィ内でビジネスをしようとする人達、エッチな振る舞いをする男女など、 『ミクシィに相応しく無い参加者』をばさばさ切り始めました。そして上場前の夏頃にはこのような動きがピークを迎えたと言われています。

 ええと、私は感じるのは、この書かれている方とは反対のようです。私は、ミクシイにアクセスしないのは、「ミクシィ内でビジネスをしようとする人達」が嫌でたまらないからです。いや私はどこでビジネスをしても構わないと思っていますし、私だってどこでもビジネスにつなげたいと思っています。
 でもミクシィでは、あまりにあからさまなのです。とくに若い女性を名乗る方たちのミクシィでの接触には、もう嫌になるばかりです。あんなのをビジネスと思うのは、その人の勝手ですが、私はもうそうした方たちとは触れ合いたくないのです。
 思えば、だから私は駄目なのかもしれませんが、でもでも私はこういう点は変わりようがないですね。

 ただし、私が「反対のようです」といいましても、それは私のミクシィへのかかわり方が、普通に振舞えないだけの狭い人間ということだけで、本来はこの方のいうようにやるべきかなとは思いました。

 いずれにしてもイーマーキュリーは(株)ミクシィを名乗り、上場まで果たしました。単なる名も無きベンチャーとしての長尾景虎時代(イーマーキュリー時代)と、上場を果たし上杉謙信、関東管領として世間に対応すべき(株)ミクシィ時代では、求められる説明責任が全く異なります。

 上杉謙信が関東管領として、鎌倉八幡宮に詣でる姿は私は好きです。でも本当は、そんな古いものに縛られず、いっきに長尾景虎として京都を目指せば、徳川時代ではなく、長尾時代が切り拓けたのではないかな、と私は思っています。あ、これはこの方の主旨とは違う話だ。

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 私は 「上杉謙信をめぐる詩」 に書いていますように、日本の戦国時代の武将では、上杉謙信が好きです。彼の詩は「九月十三夜陣中作」があり、私も好きであちこちで詠うことが多い詩です。
 ただ、漢詩は、これが一作だけであり、あとはいくつか短歌が残っているようです。私はなんとか彼の短歌も知りたくて、蒐集したいと思ってきました。でも、どうやって、彼の歌を知ったらいいのかが判らないのです。
 できたら、文献を教えていただければ、嬉しいなと希望します。できたら、直接短歌を教えていただけるのもありがたいのです。
 それで、以下は、私が今まで知りましたいつくつかの上杉謙信の短歌です。
 
   雲雀
 なれもまた草のまくらやゆうひばり すそ野の腹におちてなくなり
 
   旅行
 ものゝふの鎧の袖をかたしきて 枕にちかき初雁(はつかり)のこゑ
 
 野伏する鎧の袖も楯の端も みなしろたへのけさの初雪
 
   夏目詠夕立
 風の音をまづさきたてゝさゝの葉の みやまも迷ふ夕立の空
 
   祈歌
 つらかりし人こそあらめ祈るとて 神にもつくすわがこころかな
 
 以下の歌は、上野の平井城主千葉采女(うめね)の娘伊勢と一緒に見た桜のことだと思います(実は私はあまり確信がもてていません)。謙信は、この女性に恋をしていたのだと思います。ただ、彼女は謙信が独身の意思しかないのを知りまして、17歳で青龍寺の尼になったようです。
 
 諸共に見しを名残の春ぞとは けふ白川の花の下かけ
 
   謙信家訓
 極楽も地獄も先づは有明の 月の心にかかる雲なし
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 思えば18日は プロジェクト猪 の勉強会の日だったのに、すっかり忘れていました。
 
 その18日の 浅野 なのですが、ここで時々お会いしますご夫婦と一緒になりました。私はときどき詩吟をやるので、「私も昔教わったことがある」といいまして、ひとふし詠われます。昨年には、「孤軍奮闘〜」と詠われて、そのあと当然に私は、この詩を吟いました。 西道仙「城山」 です。この旦那さんは、昔満洲にいまして、国民学校で、この詩吟を習ったといいます。たしか昭和14年のときだったと言っていました。「あのころは私の黄金時代だった」とその少年のときを思い出されていました。
 今回は、「鞭声粛々〜」と詠われましたので、また私はしばらくたって(だって、まだ飲み始めたばかりだったから)、頼山陽「題不識庵撃機山圖」を詠いました(その前に、もう一つ詠いましたが)。これは 「上杉謙信をめぐる詩」 で扱いました。
 奥さまは、「川中島とはどんな処なの?」と聞かれますので、犀川と千曲川の交わる川中島を説明しました。本当は絵入りで答えたかったな。善光寺があり、茶臼山があり、そして妻女山がありという地形がまず、頭に入らないと、あの戦いは理解できません。
 でも、その旦那がいた満洲の話もいろいろとしてみたいですね。満洲映画、満鉄、甘粕、橘撲等々、いくらでも思い出します。あ、そういえば私は「満鉄の唄」を唄ったな。東海林太郎が唄っていました。
 ゴールデン街で飲むと、私たちの年代以下の方々ばかりでして、学生運動の思い出を聞かれたりすることが多々あるのですが、この「浅野」だと、もっと昔の話になりまして、実に愉しいです。そういえば、灘の「白鹿」と、茨城真壁の「白鹿」との商標登録の裁判闘争に話もしましたね。
 写真は、その「浅野」での最初の肴です。

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