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周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:中國古典詩叢考

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 周の雑読備忘録「近藤光男編『中國古典詩叢考』」へのコメント に私は次のように書いていました。

 まずコメントをありがとうございます。それでインターネットで検索しますと、たしかに「勁草書房発行」とあります。私だけが「岩波書店」としています。
 とにかく、再度王子図書館で借りまして、確認いたします。それで改めてUPいたします。申し訳ないです。確認して、再度UP致します。

 今確認しました。写真にUP致しましたように、この本は勁草書房の本でした。お詫びいたします。またもとの書込みも訂正しました。

07102105 まだ全部読み終わっているわけではありませんが、パソコンをやりながら読んでいて、最初の「序説」から気に入ったものなのです。ちょうどそのところを書き記してみたくなったものです。

書 名 中國古典詩叢考−漢詩の意境
編 者 近藤光男
発行所 勁草書房
定 価 1,200円
発行日 1969年7月10日第1刷発行

 この序説の最初に、杜甫の「絶句」という五言絶句の説明から、この本の編者の近藤光男さんが書かれています。

   絶句    杜甫
  江碧鳥逾白 江碧にして鳥逾(いよいよ)白く
  山青花欲燃 山青くして花燃えんと欲す
  今春看又過 今春看(みすみす)又過ぐ
  何日是歸年 何れの日か是れ帰年ならん

 この詩について、私が少し書いたことがありました。

  http://shomon.net/bun/reki15.htm#nihon 「日本の誇り」ということに関して

 これを私が当初書いたときには、また別なことを展開しようというところで、まだ中途半端だったのですが、それでもそのまま書いていました。
 次のように、この杜甫の詩について私は書いています。

 私たちが、この詩を読むと、最初の2句で、実に鮮やかな景色を思い浮かべてしまいます。「碧の大河の中に浮かんでいる真っ白な鳥、そして鮮やかな山の緑色の木々の中に真っ赤な花が咲き始めている」と思えるのではないでしょうか。ちょうど1句は若山牧水の

  白鳥は悲しからずや海の色空の色にも染まず漂う

の色の配色と同じように感じてしまうむきがあるかもしれません。だが、本当をいえば、杜甫が見たこのときの景色の色と、私たちが思いこんでしまう景色の色とは、かなり違うのではないのかと私には思えるのです。河の「碧」の色も山の木々の色も、日本と中国では違うはずなのです。ただ、杜甫の詩を日本の古典にしてしまった私たちの祖先には、この詩をあくまで自分達の色の景色の中で描いてしまったものなのではと私は思うのです。郭沫若が、日本人の中国の漢詩の解釈を知って、「これは日本人のほうが、中国の漢詩を深くとらえているのではないか」と書いていたのを読んだことがあります(これは「深い」というよりも、日本人が思うようには、中国の風物は美しくはないよということかもしれません)。
 このことが日本のいいところでもあったし、また問題でもあったのではと思ってしまうわけです。

 私は同じ漢字を使う東アジア人なのだが、この日本と中国にはかなりな隔たりがあるということを言いたかったのです。

 それで、私はこの近藤さんの「序説」の中に、思わず「なるほどなあ」と唸ってしまったところが、いくつもあるのですが、最初の一つだけ書き出します。

まず「江」であるが、同じ「かわ」にもいろいろある。河(か)とか漢(かん)とか淮(わい)とかの中での江(こう)なのであって、あの大陸を大きく南北に流れる長江、いわゆる揚子江である。それは風土のうえからも、また文學のうえからも、河すなわち黄河とは、まったく異なったイメージを投げかけている文字(ことば)なのである。とはいえ江ということばは、それをとりまく一類の語の中に存在していた。ということは、そういう全體の中である價値をもっているということであり、またそれだけに、その字自體の影像が一層はっきりしてくるのだということが、おわかりになるであろう。「碧」という色彩にしても、それは紅とか白とかなどとの系列においてももとよりながら、さらに青・翠・緑などに取り巻かれていることに考え及べば、その色彩がいかにも鮮やかに浮かび出てくるのである。(「中國古典詩叢考」の近藤光男『序説───中国古典詩の構成』

 いやはや、これだけでも私は黄河と長江の違いをはるかに想像し、また考えていました。いや、もっとこの序説はたくさん考え込んでしまう箇所があります。この本を見つけ出してきてよかったなあ、とひたすら思っております。

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