三日月に対して、「我に七難八苦を与えたまえ」と祈っていたという、山中鹿之介を描いた、中山義秀の小説を読みました。

書 名 山中鹿之介
著 者 中山義秀
発行所 徳間文庫
発行年月日 1988年7月15日初版(昭和33年7月六興出版社より出版)

11051210 私は山中鹿之介が子どものときから好きであり、かつ中山義秀も好きな作家です。山中鹿之介に関しては、信長秀吉に会ってから以降の話はよく知っていましたが、その前の尼子再興のために出雲に上陸して戦うあたりは、あまり詳しくなかったので、この小説を古本屋で見つけて、すぐに読み始めました。
 私はやはり、中山義秀は「碑」あたりの小説を読んだときに、かなりな衝撃を受けたものでした。その衝撃からすると、この「山中鹿之介」は、鹿之介の全生涯を描いているわけではないので、何か中途半端な気がして、少し不満でした。でも義秀も、鹿之介の最後を描くのはつらかったのかななんて思ったところです。

 この小説を読み終わったときに、偶然飲んだ席で山中鹿之介の話になりました。やっぱり鹿之介は今も人気があるのだなと思ったものです。さらに、ここで少し私の思いを書いておきたいと考えました。

 山中鹿之介は勇士であり、人望もあるのですが、どうしても戦に勝てません。それはどうしてだろうかと思うのです。鹿之介が美々しい鎧兜姿で、戦いの前面に立つと、彼の前に向かってこれる敵兵はいないはずなのです。でもどうしてか、名もない毛利の雑兵たちに、追い立てられてしまう鹿之介の姿があります。悔しくて堪らないでしょうが、逃げるしかないのです。でも、鹿之介には、その理由が分からなかったのではないでしょうか。 そもそも、あの時期に尼子の再興というのが正しかったのでしょうか。いや、正しいか否かということよりも、尼子再興が当時の山陰の人々が受け入れられる合理的スローガンになりえるわけがないのです。新宮党尼子国久の孫勝久を見いだしたときに、鹿之介はもう半分は勝利できたと思い込んだかもしれません。鹿之介は、味方してくれる武将たちに、いくつもの恩賞を約束します。だが、それは「毛利に勝利できたときには」、という空手形でしかありません。この点ではやはり、毛利氏の方が数段上でした。山陰山陽の武将たちは、毛利についてさえいればすべてが保証されているのです。
 だが、鹿之介はおそらく、こうしたことには思いもよりませんでした。鹿之介は、毛利一の猛将吉川元春を倒せれば、事がなると考えていたかと思います。そして軍事力さえあれば勝利できると考えていたはずです。だから織田氏に助けを求めます。軍事力も領地も織田信長は毛利氏の3倍の力なのです。
 ただ、鹿之介は驚いたのではないでしょうか。自分が頼ろうとする羽柴秀吉という男は、吉川元春や自分のような勇士ではありません。ただの小男です。そして秀吉はじめ織田軍のもともとの尾張兵といったら、強兵とはいえずむしろ弱兵なのです。ただ弱兵といっても、百姓兵ではなく、1年中戦闘に参加できて、大量の鉄砲を使って、勝利しつづけているのです。
 秀吉のおかげで、鹿之介は尼子勝久を播磨上月城に入れることができました。だがおそらく信長にとっては、鹿之介や勝久など、旧時代の人間でしかありませんでした。「あんな連中は必要ない」と信長が判断したときに、勝久は腹を切り、上月城は落ちます。それでも、鹿之介は吉川元春と差し違えようと考えます。元春には、そんな鹿之介の心が読めていますから、簡単に鹿之介を殺してしまいます。ここが鹿之介を好きな人にとって、悔しい悲しいところなのでしょうね。私ももっと歴史はどうにならなかったものかなと悲しくなってしまうところです。(1997.08.08)