将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:中島莞爾

2018010701 また書いていきます。ここに載せた人物は中島莞爾です。私がずっと尊敬してきた人です。彼は昭和の2・26革命で死刑になりました革命家です。私の兄萩原莞爾は、この人で父がつけた名前なのです。
私が大昔から、ずっと尊敬してきた人です。もう忘れることはないでしょうね。続きを読む

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私が昔書いたことを見つけました。このサイトです。「空と海の青〜まゆの落書きブログ〜」で、書いてありました。
 以下全部引用してもいいのかなとも思うのですが、もういいや、してしまえとばかり以下引用します。

  ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2004年10月21日 (木)
星の王子さま
639「星の王子さま」サン=テグジュペリ   岩波書店   ★★★
「かんじんなことは、目に見えないんだよ」

 6年前。飛行機がパンクしてしまったサハラ砂漠で、ぼくは小さな星からやってきた王子さまと出会った。長い旅をしてきた王子さまが最後にたどりついた星・地球。彼が捜し求めていたものは・・・。

 実は。初めて読みました(笑)
 ストーリーも知ってるし、いろんな作品に引用されてると「ああ、あれね」と思う。でも、読んだことなかったんです。
 もっともっとメルヘンチックな話かと思っていて。読んでみると、印象違いましたね。
 小さくて美しくてはかない・・・まるで王子さまが大事にしているバラのようなお話でした。
 この本は、テグジュペリの生前に出た唯一の版となった1943年米国オリジナル版そのまま、なんだそうです。(その後出版されたものは挿絵が違うらしい)
 読み終えて感じたことは、「子供の頃に一回読んでおきたかった」ということです。子供の視点で一度読んで、大人になってからまた読み返す、ということをしたかったです。今の私はもうすっかり「大人の視点」で読んでしまっているので。やはり、小学生の頃、図書館で手にとればよかった、と後悔してます。

北原杏子 > まゆさんと同じく、実は私もこれ、ちゃんと読んでないです。やっぱり同じで、アニメになったのを見てたり、引用されたのを読んだりで何となく読んだような気になってました。こういう名作というものは、やっぱり子どもの頃に一度読んでおくべきものなんですねぇ…しみじみ。 (2004/10/22 00:57)

ぱせり > わたし、子どもの時、一度読んでるんです。でも、この本の良さがわかるような子じゃなくて、「なんだか退屈な本」ぐらいにしか思えなかったです。
大人になってから再び出会って、大好きな本になりました。「小さくて美しくてはかない・・・まるで王子さまが大事にしているバラのようなお話でした。」本当にそうですね。いろいろ深い意味がある話なのでしょうけど(よくわからい…)、ただ、切なくて切なくてたまらなく美しいお話、と思って、大切にしています。 (2004/10/22 06:50)

ざしきぼっこ > 私もぱせりさん同様、子供の頃に読んではいるものの、この本の良さが判ったのは大人になってからですね。
まゆさんの説明で気になったのは、はたして私が読んだのはオリジナルの挿絵のものだったのか?と言うことです。なにしろ年賀状の常連(ヘビ年に「帽子」、ひつじ年に「箱」とかを引用)だったので。。 (2004/10/22 09:33)

カリン > まゆさん、はじめまして。小学生の時にたぶん初めて自分で買った本が「星の王子さま」だったと思います。でもその本行方不明(悲)で、今年になってオリジナル版を購入して飾っていました。製本が頑丈…挿絵は?ちがうのね。比較できなくて残念。なんだか・・えらく哀しかったような記憶があります。読むときによって印象になる部分がかわるもんですよね。もう一度(飾ってないで・・・)読んでみますね。 (2004/10/22 13:35)

やまを > 私も小学生の時に読みました。意味がよくわからないのにとても印象に残る話がいっぱいで、気に入って本の場面を絵に描いたりしました。大人になってからは読んでないのですが、読み返すとまた違った感想をもつのでしょうね。 (2004/10/22 20:22)

まゆ > 北原杏子さん、そう、読んだ気になっちゃうんですが、やっぱりちゃんと読んでみると、想像してたのとちょっと雰囲気ちがったり。もっとほわほわした話かと思っていたら、けっこうシビアでした。実はほかにも「読むタイミングを逸した本」、いっぱいあります。
ぱせりさん、おっしゃる通り、大人になってから初めてその良さに気づく本だと思います。でも、子供の頃なんだかよくわからなくても、読んでおきたかったなあとつくづく思いました。「あ、そうだったのか」っていう感動を味わいたかったです。
ざしきぼっこさん、この本は2000年に出版されています。挿絵が違うと言っても微妙なところで、「星が一個足りない」とか「色合いが違う」というくらいらしいです。ひつじ年に箱って素敵ですね。
カリンさん、挿絵の違いといってもごくわずかなので、あんまり気にすることはないようですが、ここまで復刻しようという執念に驚きました。これは図書館から借りてきましたが、買っててもとにおきたいなあと思います。
やまをさん、ぜひぜひ再読をおすすめしますよ。たぶん、大人にならないとわからないだろうな、と読んでて思いました。今読むと、また感じるものがあるはずですよ。 (2004/10/22 21:17)

青子 > まゆさん、私は小学6年生の時に初めて読みました。でも、正直なところ、あんまり感動しなかったんですよね。大人になってからは、すごく好きな本なのでときどき引っ張り出して読んでいます。私にとっては、読むたびに新しい発見のある本です。あと何回くらい読むことになるのかなー。 (2004/10/22 23:37)

まゆ > おそらく、作者がこの物語にこめた想いは、大人にならなきゃわからないものなのではないでしょうか?じゃあ、私が本当にわかったかというと、それはとっても怪しいんですが・・・。私もこれからまた何度か読み返すことになりそうです。 (2004/10/23 00:02)

ありんこ > 私も最近借りてみたんです。まゆさんと同じく、実は内容をよく知らなかったので。でも途中で挫折しちゃいました。なんだか私には難しかったです〜。ちょっと哲学っぽい感じなんですね。かわいい王子様のお話を想像していた私でした。またいつか挑戦してみます〜! (2004/10/23 07:48)

まゆ > ありんこさん、私も途中で「んん?」って思うところがあって、それゆえの星3つなんですが・・・また気が向いたら、ぜひラストまで読んでみてくださいな。終盤はなんともせつなくて・・・。 (2004/10/23 10:09)

カリン > 挿絵のこと氣にしなくていいんですね。微妙な違いと書いてありますね。今まで開けてない私っていったい??昨夜読みました。始めのほうもほとんど忘れていましたこんな難しい本だったとは。記憶なんていい加減なものね。これは大人に向けて書かれていて、たぶん子どもにはわからないと思いました。大人になってもどれだけ氣づけるかどうか?これからも何度も読み返したい本ですね。 (2004/10/23 13:08)

周 >  まゆさん、今ごろになってレスします。
 私にとって、「星の王子さま」はとても難しい物語です。サン=テグジュペリは一体本当はどう考えていたのかな、そもそもこの「星の王子さま」では何を言いたいのかなというのは、私にはまだ判らないところばかりです。私には、彼の他の著作「夜間飛行」「人間の土地」「戦う操縦士」などとは、「星の王子さま」は、なんだかかけ離れた小説のようにしか思えません。ただ共通なところというと、「砂漠、星空、死」という言葉だけでしょうか。
 サン=テグジュペリはナチスに撃ち落とされたと言われていますが、思えば「星の王子さま」は彼が死を覚悟したときの遺書なのかもしれません。
 そういえば、サンテックスは今もコートダジュール沖の海の中に沈んでいるのですね(遺族の要請により、機体や遺体の捜索は行わないという)。
 私が書いた彼の「青春の手紙」という本の書評があります。

 http://shomon.net/books/books9.htm#san サン=テグジュペリ「青春の手紙」

 ここで私の思いはみな書いてありますが、読み直してみて、また書き足りないところを、今度書いてみます。

 私は彼のいくつもの作品を読みますと、何故かどうしても違和感を感じてしまうのですが、それでもこの「星の王子さま」は好きです。なんだかものすごく生々しく感じるところもありまして、サンテックスの資質をいつも考えてしまうのですね。
 たとえば、王子さまが、花と別れてから、星めぐりをしますね。真っ先に訪れた星では、やたらと威張りちらすというか、見栄を張りたがる王様に出会います。あの王様は何でしょうか。なんだか存在が寂しい描き方なように私には思えます。
 この王様は、実はサン=テグジュペリがド・ゴールのことを描いているですよ。サン=テグジュペリはド・ゴールをからかっているんですよ。
 第一次世界大戦では、不敗だったマジノ線でフランスはナチスを防げると考えていたのですが、ドイツ軍はベルギーからいとも簡単フランスに侵入して、フランスは降伏し、ビシー政権が出来ます。だがド・ゴールはそれを認めず、ロンドンに渡り、自由フランス軍を作り、フランス全土にナチスとの戦いの継続を訴えます。サン=テグジュペリは、ビシー政権からもド・ゴール派からも誘われますが、どちらにも与しません。だから彼は両派から非難されます。彼はアメリカに亡命します。そこで書いたのがこの「星の王子さま」なのです。
 そして、また再びナチスと戦うことを決意して志願して、北アフリカに赴きます。思えば、彼には自由フランスを率いるド・ゴールはこのたった独りでいばりちらす王様に見えたのではないでしょうか。なんだか、この王様を思うと、サンテックスの生々しいドゴールへの思いを感じてしまうのです。
 結局彼が属してナチスと戦ったのは、ドゴールの自由フランス軍ではなく、アメリカ軍の偵察隊です。思えば、このことが彼が行方不明で終わった(今も彼の死は明確には確認されていない)ことにもつながったのかなと思います。

 私が唯一フランス語の原典で読んだ本です。そしてやっぱり難しい本です。「サンテックスの遺書だったんだろうな」なんて思を私はいつも思ってしまいます。
(2004/10/24 09:16)

青子 > 横レス失礼します。周さんの「青春の手紙」を拝見しました。メインの遺書云々と少し外れるのですが、何度目かに「星の王子さま」を読んだ時、これはバラの花に寄せるラブレターだと思いました。だから、取り上げられた書簡を見てびっくりしました。やはりちゃんとモデルがいたのですね。なんだかすごく嬉しくなって一言お礼を、ありがとうございました。
原典で読まれるなんてすごいですね。
それと、確か今年、墜落した飛行機が見つかったというような記事を新聞で見かけたような気がします。間違っていたらごめんなさい。 (2004/10/24 10:53)

たばぞう > 私も10歳くらいでこの本を初めて読んで「?」でした。やはり良さがわかるようになったのは大人になってから。青子さんのバラに寄せるラブレターですが、確かちとわがままな奥様だったか恋人だったかがモデルだったような。サン・テグジュペリの伝記はかなり前に読んだので詳細は忘れてしまいましたが・・・。飛行機が見つかった記事は、私も読みましたよ。ただ、去年だったか今年だったかそのあたりがあやしいヘボい私の記憶〜。 (2004/10/24 16:49)

まゆ > カリンさん、そうですねえ。わかるようなわからないような・・・というのが正直なところです。でも、バラと、きつねと、最後のところは好きですね。またいずれ読み返してみたいです。
周さん、詳しいレスをありがとうございます。今の私は、正直言って、周さんのおっしゃりたいことが半分もわかりません。というのは、テグジュペリの著作はこれしか読んだことがないし、その人生についても通り一遍の知識しかないからです。こんなに丁寧に書いてくださったのに、すいません。でも、この作品とだけ向き合ったから感じたものもあるのかな〜という気がします。風刺やら批判やらも織り込まれていますが、テグジュペリのものすご純粋な祈りみたいなものを感じましたよ。
青子さん、飛行機発見のニュース、たしかにありましたね。でも、いつのことだったかは・・・。
たばぞうさん、子供にはわからないでしょうね。でも、やっぱりわからないなりに読んでおきたかったなあと思います。なんとなく、子供じゃないと気づけないようなことがあったんじゃないかな、と。 (2004/10/24 17:40)

周 >  青子さん、レスをありがとう。
 あの書簡の相手のリネットという女性は、はっきり言いまして、嫌な女ですね。ただ、彼女のほうも言い分があるんでしょうね。「大事なのは、ちゃんと生活していくことよ。あなたなんか、そんな危ない飛行機なんか乗らないで、小説家として安定した生活をすればいいのよ」と言いたいのでしょう。それに対して、テグジュペリは、「いや、飛行機に乗って戦うことこそが、私の人間としても義務なんだ」と言っていたのだと思います。ただ、それにしても、この「星の王子さま」の存在が、彼の生涯の一つの光のような思いに私はなります。
 それから、私はこれをフランス語の原典で読みましたといいましても、なにしろ、そのときは、刑務所の中の拘置所だったもので、時間だけはふんだんにあったのです。ただ、読んでいてもけっして愉しい思いは少しもしなかった小説でした。私は独房の中でしたが、テグジュペリも砂漠の中で独りだなという思いばかりでした。(2004/10/26 05:55)

周 >  まゆさん、レス欄が長くなりすぎたかもしれません。
 サンテックスは、できたら他の作品も読んでくださいよ。あまり愉しい作品だとはいえないものが多いのですが。でも彼は飛行機乗りという仕事をしていまして、同僚や友人たちが事故でいろんなところに不時着して(山岳や砂漠の中に)しまうのを目の前にしています。そうした仕事上のことと、大きなこととしては、ナチスによって敗北してしまった祖国フランスがありました。ただ、敗北したと言っても、ビシー政権は、第1次大戦時の祖国をドイツから守り抜いた英雄ペタンが率いる政権でした。戦後になってビシー政権を「ナチスの協力者だ」と断罪できるような時では、その時期にはありませんでした。そして自由フランスを率いるド・ゴールは実に勝手でいばりやです。
 そんなときに、彼はあの「星の王子さま」を書いたのです。
 私は、この「星の王子さま」が好きで、よく人に、この「星の王子さま」のグッズをあげています。70数人にクリスマスプレゼントで、タオルハンカチをあげたこともあります。別な女性たちに、マウスパッドをあげたこともあり
ます。姪の子どもには、王子さまが全面に描かれたリュックをあげたこともあります。そしてそのあげるときに、少し「星の王子さま」とサンテックスのことを喋ります。そして今も地中海に沈んでいる彼のことを言います。機体が発見されても、彼の遺体は見つからないでしょうね。遺体の捜索は行わないというのが、遺族の希望のようですから。やっぱり、今も彼は王子さまと一緒に星めぐりをしているのでしょうかね。 (2004/10/26 06:15)

まゆ > 周さん、ほんとにありがとうございます。そういう背景があったのですね。私は翻訳ものの文体が苦手なので、あまり読まないのですが、そうですね、いずれ機会があったら読んでみたいですね。そうすれば、また作者がこの物語にこめた思いが見えてくるのかもしれません。 (2004/10/26 19:09)
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こうして私が昔書いたことが再び読めて嬉しいです。まゆさん、ありがとう。私は直接お会いしたことはないわけですが、こうして自分が書いたことが、またこうして読むことができて実に嬉しいです。
 そうですね。これを読みまして、「自由フランスを率いるド・ゴールは実に勝手でいばりやです」というところや「70数人にクリスマスプレゼントで、タオルハンカチをあげたこともあります。別な女性たちに、マウスパッドをあげたこともあります。姪の子どもには、王子さまが全面に描かれたリュックをあげたこともあります」を思い出しました。サン=テグジュペリはあまりに純情なのですね。
今週の土曜日25日に兄莞爾の一周忌で我孫子湖北の正泉寺でまたみんな(姪ともその子どもたちとも)と会えるのですが、またこうして嬉しい瞬間を味わうことができます。私の兄莞爾(この名前は2・26革命で死刑で処刑された中島莞爾からつけたものです)の墓の前でこのサンテックスのことも伝えます。
 ああ、まゆさん。貴サイトは私のサイドバーの「将門のブックマーク」でリンクさせてください。

 私はこのことを母が他の人に語っているのを聞きました。小学校5年のとき(昭和59年)に名古屋北区の大曽根でご近所の方に語るのを聞いていました。「莞爾」という名は中島莞爾からつけたものであることを。13103103
 中島莞爾は大正元年10月の生まれで佐賀県出身でした。2・26革命で昭和11年7月12日に刑死しました。25歳でした。
 私の父久二は、大正2年12月8日の生まれです。父はこの中島莞爾を大変に尊敬しており、母たか子との間にできた兄に、この名をつけたのです。
 私の一族は茨城県笠間の一族で藤原秀郷(彼が平貞盛と一緒に将門様を滅ぼします)の子孫です。でも平将門の闘いのときに、自分の一族ではなく、将門様を篤く支持しました。
 ために私どもにもその心が伝わっているのです。
 ただし、私は今は着物も着て歩くことはないために、常時自分の財布にこの紋をさげているのです。
 これが以下です。
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13102603 こうして兄莞爾が亡くなりました。その遺影の前で四人の孫と私は会えるのです。

2013/10/31 06:07さすが昨日は疲れたのかなあ。どうしても起きるのが遅くなってしまいました。
 私は兄の莞爾の名前について、私の弟も義妹もそれが中島莞爾の名前からいただいたものであることを知らなかったので、そのことに私は驚いたものでした。
 このことはまたあとで書きます。
 昨日ブルータスからケータイメールがばあばにあり、12月3日の兄の告別式にじゅにも来られるかもしれません。できたらこのときに孫四人がみんなで会えればいいなあ。そうすれば、兄莞爾が私とこの孫たちに与えてくれたものです。私はただただ嬉しいです。そのことをしきりに思います。
2013/10/31 06:54上に書いたように、今日おはぎの家に行きまして、このことも孫たちに伝えます。


 私が孫たちのことを思うことを大きく伝えます。そして私の兄莞爾のことも伝えます。

13102510 私の兄莞爾が亡くなりました。それで私が驚いたことがあります。私の弟の正志も義妹の道代もこの兄の莞爾という名前を石原莞爾から取ったものだと思っていたのです。そうではないです。私の父も母も石原莞爾は大嫌いでした。私の兄の莞爾の名は佐賀の中島莞爾からいただいたものです。中島莞爾は2・26革命で昭和11年7月12日刑死しました。私はこんなことを弟夫妻は知らなかったことに大きなショックを受けたものです。

2013/10/30 06:06またリビングへ来ました。テレビをつけることはいいですね。
2013/10/30 06:25いつもこれを打つ時に前日書いたものも目に入りますから、読んで「あ、そうだ」と気がつくのです。クリーニング店に行くこと(引き取りで)と、牛乳パック等をサミットストアに出しに行かないとなりません。
 あ、朝食も考えよう
2013/10/30 13:47今は常磐線に乗っています。もうただただ悲しい思いです。でもこのポメラでは兄の莞爾が亡くなったことはまだ言っていないのだ。
 もうすぐ柏です。我孫子からタクシーで兄の家まで行きます。
2013/10/30 16:34今は兄のお通夜と本葬の相談です。

  我孫子ライフケア「メモリイプレイス

2013/10/30 17:04今はこのポメラですべてをやれば何もかもすべていいのです。13102808
2013/10/30 17:13まだ打ち合わせが続いています。私周ちゃんは全然分からないから、みんな正志や町子さんに任せています。


 私はこうした兄弟姉妹を持って嬉しいです。

1304170113041702  とうとうこの日になってしまいました。最後にある「完」という文字がものすごく心を打ちます。

 的矢六兵衛はすがりつく隼人の手を取り、まるで笹舟を水面に浮かべるほどやさしい力で、そっと押しやった。
 目を細め唇を引いて、実に莞爾として笑うた。それから鷹揚と身を翻し、御書院門を潜り、雨後の干ぬ石段を下って行った。

 私の兄が名前が「莞爾」といいます。このことを言うと必ず誰もが石原莞爾のことをいいます。私は激しく、「違う」といいます。彼はむしろ2・26の否定者でした。私の父は2・26革命で死刑になりました中島莞爾からつけた名前なのです。私はいつもこの中島莞爾を忘れたことはありません。
 でもこの江戸城を去る六兵衛を迎える人々がいます。

 御濠端の夕風にそよぐ柳の根方に、奥方と御隠居夫妻と二人の男子が佇み、そのうしろに若党と中間奴が控えていた。栗毛馬の面懸と鞦(しりがい)には、御書院番八番組に徴たる紅白の緒が飾られていた。

 こうしてこの江戸城を去る六兵衛を迎えてくれる家族、人たちがいます。電話もインターネットもない時代なのに、どうやって連絡13041509を取ったのだろうと思いますが、「門番の官兵はみな蹲踞して送った」というのが、その中に私も加わりたい思いです。いや私も心の中で加わっています。

 供連は翳りの中をしずしずと去ってゆく、漆黒と純白のみを彩と信ずる江戸の夕景は、そのうしろかげにこそふさわしい。

 そしてこのあとに「完」という字があるのです。もはや大きな時代が終わったのです。これから本当の「明治」という時代なのです。

11053101 よく仕事で渋谷法務局と渋谷税務署へ行きますが、あの建物の東北の隅に「悲母観音像」があります。いつもお花と線香が絶えたことがありません。
 昭和天皇が亡くなった日、あの前を車で通りましたが、いつもよりたくさんのお花と線香の煙が見えました。その前で老年の紳士と婦人がなにか熱心に話されていたものです。
 あの悲母観音像は2・26事件の殉難者をまつる慰霊像です。あの法務局と税務署の場所で2・26の青年将校たちは銃殺されました。陸軍刑務所のあったところです。

書 名 磯部浅一と2・26事件
著 者 山崎国紀
発行所 河出書房新社

 私は過去いつも繰返し、2・26のこと考えてきました。そしていつも悔しい思いに涙してきましたた。昭和天皇が自分の意思を明かに出したのは、あの時と敗戦の時だけといわれています。いや思えばあれほど激しく自分の意思を表明したのは、この2・26の時だけといえるのではないでしょうか。

  朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ム
 ルニ等シキ行為ナリ、...朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ
 当ラン

とまで激怒したといいます。これはいったい何なのでしょうか。それなら、もっと激怒することがたくさんあったのではないでしょうか。何故このときだけなのでしょうか。私はこのことずっと考えてきました。いろいろな資料あたってきまし。そしていまはその答えが分かったつもりです。
 ただここでは、その問題を話すつもりではなく、それはまた別の機会に譲りたいと思います。ここではあくまで磯部浅一のこと考えていきたいと思います。
 2・26事件では17人の青年将校と2名の民間人(北一輝と西田税)が銃殺されています。もっとも、磯部浅一と村中孝次は軍務を解かれており、15人と4人というべきなのでしょうか。昭和11年7月11日15名銃殺。磯部、村中、北、西田の4名は翌12年8月19日。

 私はいつも思うのです。何故2・26の当日宮城に突っ込まなかったのでしょうか。

  二十六日中に、天皇を掌中に握り、反対する将軍や省部の佐官
 は全員を逮捕、収監し、国家革新への障害を主体的に排除すべき
 であった筈である。

 まったく私も同じ思いです。真に革命を考えていた磯部なら、絶対にやるべきであったと思います。彼らがあこがれていた幕末の志士たちはやったではないですか。大久保も、岩倉も、西郷もやり通したのではないですか。北一輝も「玉を奪え」と念じていたはずです(いや北がこのようにこの事件にかかわったということではありません。北と西田に関しては、磯部のいうとうりデッチアゲです。権力は何にしろ北の思想を殺したかったのでしょう)。それが何故磯部にはできなかったのでしょうか。
 荒俣宏「帝都物語」(つまらない小説と私は言ってしまいます)では、この2・26のところで、中島莞爾(私は2・26の決起将校の中で、一番この人が好きです)が、一隊を率いて宮城を占拠しようと向かうシーンがあります。この姿勢このやり方なんですよ。………この小説では、宮城の前で、突如として巨大な平将門が現れたちはだかります。中島莞爾が、

  本来、天皇の敵である平将門が何故だ

と叫ぶ………………とにかく磯部はやらなかった、できなかったのです。
 結局磯部以下、みんな政治を知らなかったということだと思うのです。経験がなかった。皇道派だろうが、統制派だろうが、年よりの嫌味な軍人たちのほうが2枚も3枚も上手でした。政治を分かっていた。磯部たちにはあまりに政治の修羅場を知らなすぎたのです。
 年は同じくらいでも、幕末の大久保や岩倉のほうが、ずっと政治の場数を踏んでいました。たとえ政治は汚いものであっても、その汚さを経験していないと、現実の局面では勝てないということなのでしょうか。
 でも、その磯部の最後の凄まじさは、獄中日記であるかと思います。私はひょっとすると、もっとこの磯辺の獄中の手記がまだどこかに存在しているのではないかと想像しているのですが、いまのところここまでなのでしょうか。
 
 「天皇陛下 何という御失政で御座りますか 何故奸臣を遠ざけ
 て忠烈無雙の士を御召し下さりませぬか」
 「今の私は怒髪天をつくの怒りにもえております、私は今は 陛
 下をお叱り申上げるところに迄精神が高まりました、だから毎日
 朝から晩迄、陛下を御叱り申しております、天皇陛下 何という
 御失政でありますか 何というザマです 皇祖皇宗に御あやまり
 なされませ」

 ここらが三島由紀夫が「英霊の声」を書いたところであるかと思います。三島は実に昭和天皇のことは嫌いでした。そして三島のあの最後の市谷の事件をもっとも嫌がったのも、昭和天皇であったと思います。もちろん、もうまさか

  朕自ラ……

とは言わなかったわけですが。

 私は今後も2・26に関する書物を読み続けていくかと思う。そして少しづつ分からなかったことを理解していけよう努力していくつもりです。
 それにしてもこの本では、青年将校の中で、ただひとり北一輝「国家改造法案大綱」を一点一角まで実現しようとした革命家磯部浅一のさまざまな面を知ることができました。彼の故郷のこと、妻登美子との熱愛のこと等々です。
 私はいまもまた渋谷の悲母観音の前でときどき、しばらく佇んでいます。(1998.11.01)

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07061901「ワレ皇居(キュウジョウ)ヲ占拠セリ」―二・二六事件秘話「宮城坂下門内の変」

書 名 ワレ皇居(きゅじょう)ヲ占拠セリ
    二・二六事件秘話「宮城 坂下門内の変」
著 者 仲乗匠
発行所 恒友出版
定 価 1,800円
発行日 1995年2月26日初版第1刷発行

 まず最初に書かなくてはいけないのは、私に16日にある貴重な本を送ってくれた方に、そのお礼の手紙を書いたのですが、私が読んでいたこの本のタイトルを「ワレヲ皇居(きゅじょう)を占拠セヨ」と書いてしまいました。申し訳ないです。印刷したら、このお相手の住所が間違えていて、再び印刷するのに、ついでに書き加えたのですが、それが間違えてしまいました。ごめなさい。
 この本は16日に我孫子へ行った帰りに電車の中で読んできました。でも半分しか読めず、そのあとは本を開いている機会がありません。

 私は2・26事件では、決起した将校のうちで、中島莞爾が好きです。これは私の父もまったく同じでした。父は、中島莞爾に憧れて、昭和15年夏に出征するときに、母のお腹にできた私の兄に、「莞爾」という名前を付けたのです。
 後年、私の兄の名前に「莞爾」を、誰もが「石原莞爾から付けたのかなあ?」と言われると、母がつよく否定していたのを覚えています。父は石原莞爾なんか大嫌いですから、もうそんな問いは相手にしていませんでした。
 2・26の時に、決起した将校たちのすぐさまの鎮圧を主張していた石原莞爾など、父にも母にも許し難い人物だったはずです。
 だが、この中島莞爾が、佐賀県の出身で、いわば「佐賀閥」とでも言われるグループだったことは、この本で始めてしりました。私は九州というところも、どこも少しも好きではありませんでしたが、佐賀には親しみを覚えてきていました。思えば、母の胎内にいるときに、少しは感じることがあったのかもしれません。

 私が2・26で一番の不満は、「何故皇居に突っ込まなかったのか?」という点にあります。幕末の志士たちなら躊躇せず、皇居へ突入し、天皇を自分たちのいいなりにしていたはずです。
 私は勝手に夢想します。もしも、それがやりきれていれば、そののちの日中戦争は避けられていたのではないか。日中で戦争をしたかったのは、私にはむしろ中国側にあると思っています。そしてこの日中戦争の勃発が日米戦争につながります。蘆溝橋での一発の銃声が、やがては日米戦争に至る道でした。そしてその盧溝橋での最初の一発は、中国側、中国共産党によるものだと私は確信しています。蘆溝橋での一発の銃声を喜んだのは、中国共産党であり、スターリンであり、チャーチルです。これが、日米の戦争にいたり、ソ連と日本の戦争にはならないことを知っていたからです。(参考「尾崎秀実のことで」)

 いや、私が先走るのではなく、もう少しこの本をちゃんと読んでいこうと思っています。あと3分の1くらい読めば終わりなのです。

   周の雑読備忘録「仲乗匠『ワレ皇居(きゅじょう)ヲ占拠セリ』」の2 へ

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 今王子のサミットストアに行きまして帰ってくると、次女ブルータスから連絡があったことを知らされました。いよいよブルータスの結婚式ですから、こちらの親族の名前住所を聞いてきたのです。それですぐにケータイメールしました。
 そうするとまた電話があり(妻が出た)、私の兄の名前の漢字の確認です。
 それで、すぐさま私がケータイメールしました。以下の内容です。

莞爾だよ
「にっこり」笑うという意味があるんだ。我孫子じいちゃんが思いを入れて考えた名前だから、間違えるなよ。三国志に「諸葛亮孔明、莞爾として笑う」なんていうところがある。「にっこり笑う」という意味だね。2・26事件で処刑された中島莞爾(あびこじいはこの人を尊敬していた)という人から付けた名前だよ。

 思えば、私の兄の名前は「莞爾」で、私は「周二」で、弟は「正志」です。私の兄と私との間には、日本の敗戦という歴史の事実がありました。
 そういえば、「莞爾」というと、まず誰もが石原莞爾のことを言います。「彼から名前をつけたのか?」というふうに聞いてきます。何を言うのですか。そもそも私の家では、この石原莞爾のことが大嫌いでした。
 そもそも、2・26事件のときに石原莞爾はすぐさまこの決起した将校たちの処刑を主張します。私からいわせれば、とんでもない人物です。
 あるとき、ゴールデン街でこのときの石原の振舞いを私が非難していましたら、早稲田大学の活動家だった人が、「あのときには、石原莞爾は満洲にいるんではないか?」などといいますので、私はやはり石原莞爾は、あのときに東京にいて、ただただ2・26の決起将校たちの処刑ばかり主張したと繰り返しました。
 その後何ヶ月後かに、また再び同じ飲み屋で彼と再開したときに、彼は「たしかに、あのときに石原莞爾は東京にいたんだね」ということで、その彼も「今までは石原莞爾というと、すごい人物かと思い込んでいたが、あなたの言うとおり、とんでもない人物かもしれないなあ」と言ってくれたものでした。

 ああ、いわばどうでもいいのですが、そのくらいのことをここに記しておきたかったのです。

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