将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:乃木希典

2017032820 私はこのUPで、

彼の漢詩も好きで、今まで何度も詠ってきたものです。X12121402

と書いて、私のこのブログ内に私がUPした、乃木希典の漢詩をリンクするつもりでしたが、その時間がないままおはぎの家へ歩いて行きました。
私は乃木さんの詩を思い浮かべて、心の中で暗誦しながら歩いて行ったものです。

乃木希典「旅順をめぐる三つの詩」

でも私が書いていますはずの『乃木希典「詠富嶽」』は私の中で、七言絶句全体が浮かんできません。私はかなり焦りました。「こんなこことで、俺は乃木希典を好きだなんて言えるのか」と、
この「乃木希典『詠富嶽』」については、私は乃木希典「詠富嶽」のことで書いています。
それでここで改めて、乃木希典の四つの詩をここに書きます。

     金州城下作   乃木希典
山川草木轉荒涼  山川草木転(うたた)荒涼
十里風腥新戰場 十里風腥し新戦場
征馬不前人不語 征馬前まず人語らず
金州城外立斜陽 金州城外斜陽に立つ

    爾靈山   乃木希典
  爾靈山嶮豈攀難 爾霊山(にれいざん)は嶮なれども豈(あに)攀難(よじがた)からんや
  男子功名期克艱 男子の功名克艱を期す
  鐵血覆山山形改 鉄血山を覆いて山形改まる
  萬人齊仰爾靈山 万人斉しく仰ぐ爾霊山

凱旋      乃木希典
皇師百萬征強虜 皇師百万強虜を征す
野戰攻城屍作山 野戦攻城屍山を作す
愧我何顔看父老 愧ず我何の顔(かんばせ)ありて父老に看(ま)みえん
凱歌今日幾人還 凱歌今日幾人か還る

詠富嶽     乃木希典
崚曾富嶽聳千秋 崚曾(りょうそう)たる富岳 千秋に聳え
赫灼朝暉照八洲 赫灼(かくしゃく)たる朝暉 八洲を照す
休説區區風物美 説くを休めよ 区区風物の美を
地靈人傑是神州 地霊人傑 是れ神州

「乃木希典『金州城』」については、中国の郭沫若(私は「郭沫若『十批判書』」を書いています)は、「日本人の作った漢詩の中で最高のものである」と言っています。X12121403
   漢詩は韻を踏むということがあり、また平仄には「二四同じからず、二六同じ」という規則があるために、日本人には大変に作詞しがたいものです。夏目漱石の漢詩は中国人の詩のプロから見ても美しいもののようです。この乃木希典もまったく同じなのです。

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2016112006

X12121002 imajouの独り言久し振りに大街道へ出掛けるに以下がありました。私はまったく同感です。

2012-12-08[つぶやき]久し振りに大街道へ出掛ける
 ・・・・・・、明屋で歴史街道を買う。司馬遼太郎が乃木将軍を愚将として描いているが、それを批判している。この件は司馬遼太郎が間違いで、何故か乃木将軍に偏見を持っているような気がする。・・・・・・「坂の上の雲」はこの点で批判されて当然で、司馬遼太郎が何故乃木将軍を嫌うのか理由が判らない。乃木将軍の名誉のため、司馬遼太郎の誤りは明らかにしなければならない。

 私は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』も少しも好きになれませんが、『殉死』はもっとも評価できません。この本は最初から、乃木さんに「無能」という言葉を投げつけます。
 そうですね。私の知っている方でも、乃木が嫌がる静子夫人を無理やり刺し殺したように言っている人がいます。その人にも私はおおいに反論しましたが、その相手は今もそう思い、そう言っているのだろうな。
 この二人の辞世を私は次に書いています。

  乃木希典「旅順をめぐる三つの詩」

乃木の辞世は以下の二首です。

  神あかりあかりましぬる大君の
    みあとはるかにをろかみまつる

  うつし世を神さりまさしゝ大君の
    みあとしたいて我はゆくなり

静子夫人の辞世です。

  出てましてかへります日のなしときく
    けふの御幸に逢うそかなしきX12121001

 私はさらに、この二人のことを以下に書いています。

  乃木希典の愛した女、静子

 本当に司馬遼太郎はひどいです。私は昔から言い続けていました。左翼の東大安田講堂で逮捕起訴される随分前からですよ。
 もう何度も言い続けてきましたから、なんとなく、「いX12121001つまであなた方は阿呆なの、馬鹿なの」という思いです。でも乃木さんを無能といい始めたのは旧陸軍参謀本部なのですね。司馬遼太郎はまたそれを繰り返しただけですよ。
 どうにも私には評価できない人ですね。

11091510  18日松戸自主夜間中学を早めに早退しましたのは、唐牛真喜子さんを囲む忘年会があり、私はその幹事でした。でも仕方ないから、2次会から参加しようと考えていたのですが、おもいもかけず全国から大勢の人が集まり、しかも私が司会だなどというので、どうしても早退することになりました。
 それでいろいろ面白かったのですが、とにかく4次会まで終って、結局ゴールデン街を経て、ミッチャンの店に入ったのが19日の午前4時。そこでまた結構な大激論をするという、楽しいことがありました。
 先客に、元気で美形で男っぽい喋り方をするオカマがいまして、どうしてか乃木希典の旅順攻略戦の話になりました。実に2時間半から3時間くらい話していたかな。私は乃木が好きなのです。相手は、どうせ乃木のことを、司馬遼太郎の影響で、そして旧陸軍参謀本部の判断と同じで、評価しないのだろうと思っていました。まあ大体はそうだったのですが、またこのオカマのさまざま詳しいこと詳しいこと、いささか感動の思いがありました。人は当然見かけによらないものですね。でも嬉しくなりました。今度かなり学習してから、彼のお店にいこうかな。司馬遼太郎では話にならないから、どうしようかな。児島壌「日露戦争」は、かなり詳しいとはいっても、あれだけではつまらないですからね。陸軍参謀本部編纂の「日本戦史」だけでも、何故か不満ですね。 なんていいながら、もう本屋でさまざま探してしまいました。もういくつか読んでいます。日露戦争の戦前戦後の、どこらへんで、日本は勘違いしたのかというのが知りたいのです。それにまたあの美形のオカマとも、論争したいし。
 それで、その論争のあと、勿論また彼とは再会を約して別れましたが、どうせ私が土曜で休みというので、また8時ころから、ミッチャンと喫茶店兼飲み屋に行きました。そこは、もう朝のさまざまな新宿人のたまり場なんですね。キャッチのおねえさん方がグループで総括していたり、ヒモが女待っていたり、そしてさらにそれらの女性やオカマに金貸している男がうろうろしていたりして、まさに新宿の縮図です。でもそこの雰囲気は、前に行ったときは妙に暗いのですが、あの日は変に明るいんですね。なんだかそれが、今年のさまざまな情況を象徴しているように思えました。あの明るさはなにか危険です。「アカルサハホロビノ姿デアロウカ」(源実朝の言葉)という感じです。少なくとも、新宿のあの飲み屋街あたりは、かなり変わるでしょうね。それが新宿の飲み屋だけではないのかもしれません。
 今年のおわりに、こんなこと思ったのでした。

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11081709  乃木希典のこととなるといろいろと話したいことがあります。旅順攻防戦のこと、明治天皇への殉死のこと、昭和天皇への教育のこと、それに彼の作った漢詩のことなどです。ここでは日露戦争における旅順攻城戦に関する彼の三つの詩を見てみたいと思います。

彼は日露の開戦で第三軍の総指揮官に任命されました。彼は休職の身だったのですが復職の命令をうけそれに従うことになります。旅順はロシア太平洋艦隊の基地でした。日清戦争ではたつた一日で陥落させた旅順をまた簡単に落とせると日本は考えていました。しかし最初の南山の戦いは攻略終るまで一四時間かかりました。しかも予想を越える死傷者の数です。大本営もその死傷者の多さに誤報ではないのかと問い合わせてきたといいます。この南山の戦いで乃木は長男勝典(かつすけ)を亡くします。この勝典の墓標の前で作ったのが以下の詩です。

    金州城下作   乃木希典
山川草木轉荒涼  山川草木転(うたた)荒涼
十里風腥新戰場 十里風腥し新戦場
征馬不前人不語 征馬前(すす)まず人語らず
金州城外立斜陽 金州城外斜陽に立つ

金州城外の山川も草木も悉く荒れ果てて実にさびしい限りである
十里に渡る戦場は風もまだ血臭い
   この酸鼻の極まりを眼の前にして、馬は進まず自らも声が出ない
   金州城外に夕日をあびて立ちなお暫く感慨無量であつた

この詩は郭沫若が「日本人の作った漢詩中の最高傑作である」と激賞しています。たしかに見事な詩だと思います。私は昔いろいろな漢詩の平仄と韻を詳細に調べたことがあるのですが、乃木の詩はきわめて原則に忠実に作られています。逆に李白なんか驚くくらい自由奔放に作詩しているところがあります。いつかまた「周の漢詩作成講座」とか称して、この漢詩の構造を見てみたいなと思うのですが、中国人ではない乃木が戦場でどのように平仄(ひょうそく)など使い分けられたのでしょうか。

しかし南山の苦しい戦いがこの旅順要塞攻略戦のほんのほんの最初でした。それから苦しく困難な戦いが続くことになります。
戦いの詳細はここでは述べませんが、やがて旅順を攻略するのには二〇三高地を落とし、そこから旅順残存艦隊を攻撃しようということになります。だがこの二〇三高地をめぐる戦闘も激しく死骸の山をきずく戦いでした。

爾靈山    乃木希典
爾靈山嶮豈攀難 爾霊山(註1)は嶮なれども豈攀難からんや
男子功名期克艱 男子の功名克艱を期す
鐵血覆山山形改 鉄血山を覆いて山形改まる
萬人齊仰爾靈山 万人斉しく仰ぐ爾霊山

(註1)爾霊山(にれいざん)二〇三高地のこと

二〇三高地は難攻不落といわれているがどうして攻め上れないこ
とがあろうか
男子たるもの功名を為すには艱難辛苦を打破しなけらばならない
たくさんの兵士たちの熱血で山の形も変わるかと思われるほどで
あった
世人は永遠に爾霊山を仰いで尊い英霊を弔うであろう

「鐵血覆山山形改」という詩句はまさしくそうだったと思われます。二〇三高地は日露両軍の血で埋まりました。ここでも次男保典(やすすけ)を失います。旅順開城後、乃木と第三軍はさらに満州の地に向い奉天大会戦に参加します。旅順を落とした勇猛な乃木軍団がくるというのはロシア軍にはかなりな脅威だったようです。

日露戦争が終って日本に凱旋したとき、他の将軍たちが華やかな馬車で意気揚々としているのにくらべ、愛馬にのった乃木はまるで敗戦将軍のような姿表情でした。この心境を表しているのが次の詩です。

凱旋     乃木希典
皇師百萬征強虜 皇師百万強虜を征す
野戰攻城屍作山 野戦攻城屍山を作す
愧我何顔看父老 愧ず我何の顔(かんばせ)ありて父老に看みえん
凱歌今日幾人還 凱歌今日幾人か還る

我が軍はロシア軍を征し
原野に戦い城を攻め屍は山をなす程であった
だがこうして帰ってきてもどうして兵士たちの老いた親たちに顔
をあわせられようか
凱歌に迎えられる中、生き帰ったものは僅かであり、ただただ面
目ないばかりである

ここらへんのところがいつまでも乃木が日本人に人気のあるところなのでしょう。だが日本陸軍は、乃木をただ無能な軍人として描きたかったようです。これは陸軍参謀本部編纂の「日本戦史」に明解に表れています。それをそのまま写してしまっているのが、司馬遼太郎他だと思います。しかし、庶民は乃木を「一人息子と泣いては済まぬ。二人亡くした方もある」と口ずさみ、共感を覚えていたようです。

乃木は明治天皇の死にあたって殉死します。その前に昭和天皇に帝王学とかいうことの最後のことばを伝えるのですが、この内容へは私はかなり興味が有り、またこのような内容ではないのかという推測があるのですが、それはまた別な話です。
乃木の辞世は以下の二首です。

神あかりあかりましぬる大君の
みあとはるかにをろかみまつる

うつし世を神さりまさしゝ大君の
みあとしたいて我はゆくなり

静子夫人の辞世です。

出てましてかへります日のなしときく
けふの御幸に逢うそかなしき

乃木はひとりで死ぬ気でした。どうしても静子夫人もついていきたいという。二人の子どもも亡くなって、一人で生きていきたいとは思わなかったのだということでしょう。この時くらい妻の言うことをきいてもいいのかもしれません。
殉死なんてアジア的な野蛮な風習なのかもしれません。だがこのときの乃木と静子夫人の気持は判る気がします。
だが判らなかったのは、軍部と国家官僚たちです。彼らは乃木の遺書を抹殺し、乃木は精神に異常をきたし自殺したということでかたずけようとします。ところが最初かけつけた警官が感動のあまりこの遺書のコピーを作っており、公表されることになりました。だがまだ野蛮であり、無責任だという非難が続きました。そのときに森鴎外と夏目漱石が一篇の小説を書きます。鴎外が「興津彌五衛門の遺書」、漱石が「こころ」です。これによってどうやら乃木の死は普通に悼まれるようになったかと思います。
乃木の詩はよく詩吟の世界では吟われます。私もよく詠うほうです。私の好きな吉本(吉本隆明)さんも愛国少年のころ吟ったようです。

1941年(昭和16年)16歳
4月半ば土曜日府立化工にて、電化全員出席の「弁論会」を開
く。第1回目、「現時局下に於ける日本の立場」という題で弁論。
最後に乃木希典「金州城外作」を吟ずる。この弁論会から機関誌
「和楽路」が生まれる。
(私が作成している「吉本隆明年譜」より)

でもいつも思うのですが、乃木さんは、戦場でも馬上でも漢和辞典とか「詩韻含英異同弁(しいんがんえいいどうべん)」(註2)とかもっていたのかな。

(註2)「詩韻含英異同弁」とは、日本人が漢詩をつくるときに使
用する辞書。漢詩を作るには、平仄と韻を踏むことが前提条件で
す。ところが中国人でない日本人には、音(おん)でそれを判断
することはできません。漢和辞典で1字ずつ、確認しなければな
らないのです。そこで韻を確認して、そこから詩句を比較的すみ
やかに作成しやすいようにできるのが、この辞典なのです。昔の
日本の知識人達の便利なフリーウェアみたいなものでしょうか。
私は和本と昭和三八年発行の松雲堂書店版で持っています。今も
神田の松雲堂へ行くと、手に入ります。

すらすらと漢詩が口から出てくるというのは考えられないのです。乃木さんの詩はどこをとっても、律儀に律儀に規則どおり作っていますから、あれが思うままに出てくるとは思えないのです。ただもちろんこのことは乃木さんの詩の価値をいささかも低めるものではありません。
おそらく、日本の漢詩人で、菅原道真、頼山陽などという人は、漢字ごとの平仄や韻はすらすらと判断して(つまりはすべてを暗記できていただろうと思います)、いつでも詩句が思い浮かんだと思います。その意味では、乃木さんも同じだったろうと思います。漢詩を作成しだすと、「仄音」の漢字はどれだと判断するのはそれほど難しいことではないようで、その「仄音」以外がすべて「平音」ですから、乃木さんが馬上であっても、詩文は口をついて出てくることはあると思うんです。
江戸時代の武士の子供たちは漢詩を作成するのが、一つの教養であり、勉強ですから、私たちが考えるよりは簡単に作成できたものであろうとは思います。とくに時代を経るにしたがって、漢詩作りのいわばアンチョコがたくさん出回ります。「詩語粋金」「幼学便覧」「幼学詩韻」等々という漢詩作りのさまざまな辞書というか「虎の巻」が出てきます。だから江戸時代の武士の子供の中には、「夜中に小便に立って、厠からそとを見ると、月が綺麗だった」というような、どうでもいいことまで七言絶句にしてしまうようなことすらできてしまいます。
ただ、そうだとはしても、頼山陽のように自らの才能をひけらかす乃木さんではありませんから、詩句は思い浮かんできたとしても、きっと夜深く、独りでそうした辞書で、平仄や韻を確認していて、その上で公表したのではと、私は想像するのです。あっと言わせるような詩句を使って読む人を驚かすのは李白とか頼山陽には得意なわざであっても、乃木さんにはただただ律儀に律儀に推敲作成している姿しか私には想像でできないのです。
私はこうした姿の乃木さんが好きなのです。(1998.11.01)

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11051315  乃木希典は1849(嘉永2)年12月25日〜1912(大正元)年9月13日の生涯でした。その奥様の静子夫人は1859(安政6)11月29日〜1912(大正元)年9月13日の生涯です。
 二人の辞世は、乃木希典が、「うつ志世を神去りましゝ大君乃みあと志たひて我はゆくなり」で、静子夫人が「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」でした。
 私は何度も、いくつも乃木希典の詩を吟じてきました。そしていわば好きな人です。司馬遼太郎は『殉死』で、この乃木の自死を描いています。どうにも私が好きになれない作品です。あれでは、乃木がいわば静子夫人を殺したようにしか思えないではないですか。私は司馬遼太郎は、ほとんどの作品を読んでいます。ただ、この『殉死』も『坂の上の雲』もどうにも好きになれない作品です。
 乃木は明治天皇の死に際して、自分も死のうと思いました。ただ静子夫人も死ぬといいます。乃木は一人で死ぬ気でした。でもこのときくらい静子の気持を聞いてもいいのかもしれません。
 このことを乃木が静子夫人をも無理やりに死なせたと思い込んでいる人がいて、「これは目茶苦茶な思い込みだなあ」と思ったもので、もう私は心の底から嫌になったものです。あまり知らないのは仕方ないが、どうかひどい偏見だけは持たないでほしいものです。
  夏目漱石が『こゝろ』を書き、森鴎外が『興津弥五右衛門の遺書』を書きました。みな乃木希典の死で書いたものだと思われます。(2011.05.14)

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 Re.乃木希典「詠富嶽」 について で次のように書いていました。

 なんとか調べて、またここで返事いたします。

 それで本当に時間がかかり申し訳ありませんでした。「上野貞紀『漢詩と吟詠』」(教育社)でも調べました。やはり「漢詩愛好者」さんの言われるとおり、この乃木希典の『富嶽』の承句の「赫灼」は、「かくしゃく」です。漢和辞典で調べても、上の本で見ましても、「漢詩愛好者」さんの言われるとおりです。
 私も詩吟で詠うときにも、そう詠っていたのだなあ、と思い出しました。私の宗家荒國政先生にそのとおりに習っていたことを思い出しました。かつ私の「栖山流吟道会」にも、この詩の好きな方がいます(彼はアマチュアの手品のと得意な方でときどきテレビにも出られます)。
 大変に時間がかかり申し訳ありませんでした。今後もちゃんと詩吟をやっていこうと強く思ったものです。

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 私の 周の掲示板 に次の書込がありました。

乃木希典「詠富嶽」 について 投稿者:漢詩愛好者  投稿日:2010年 3月 3日(水)09時06分43秒

 こんにちは、漢詩が大好きなので、周さんのページを興味深く読ませて
いただきました。

標題の漢詩についてなのですが

(註2)赫灼(しゃくやく) あかあかと光りかがやくさま

とあります。しかし、この読みは赫灼(かくしゃく)ではないのでしょうか?
もしかしたら、「しゃくやく」という読み方もあるのかもしれませんが、
調べた範囲では見当たらなかったので、指摘させていただきました。
あら探しすみません・・・   

 まず、こんなにレスが遅くなり申し訳ありません。当然すぐにこの書込は読ませていただきましたが、そして私も漢詩愛好者さんの言われる通りだと思うのですが、実は私のそばにある漢詩の本には、この詩が載っていません。それで、私のすぐそばには、最低3冊の詩吟の教本があるはずなのですが、どうしても見つかりません。要するに、私の身の周囲は目茶苦茶に乱雑になっているのです。
 それでインターネットで「乃木希典 詠富嶽」で検索しますと、上の2つの検索結果が、私のサイトが出てしまうのです。だから、私がそこを参照してもどうにもなりません。もちろん、漢和辞典も調べましたが、言われるとおりです。でもでも、私としてはちゃんと調べたいのですね。
 そもそも、私が私自身を信用できないのですね。そもそも私は漢文の授業なんてまともに受けたことがないのです。だから私のホームページではいつまででも「漢詩入門」でしかないのです。けっして、ちゃんとやった得意の分野という気持は少しもないのです。
 それでまだ時間をください。それでなんとか調べてみます。私は乃木希典が好きですから、彼の漢詩の本も持っているはずなのですが、今はどこに行ったのか皆目判らないのです。
 なんとか調べて、またここで返事いたします。時間がかかり申し訳ありません。

08052606 私は長春有情に以下を書き込んでいるのですが、どうししても「リクエストは受け付けられませんでした。」というメッセージが出るだけです。もうくたびれたので、ここにPします。

 乃木さんのことは昔から今も好きです。
 このUPに、私のブログで以下を書きました。

  http://shomon.livedoor.biz/archives/51428879.html
                       漱石の『こころ』のことで

 そうですね。私はずっと乃木さんが好きですよ。そしていつも乃木さんのこ
とを貶してばかりいる司馬遼太郎が、嫌いです。

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 私のこのブログのサイドバーに、「きなりずむ」のバナーを置きました。ここをクリックすると彼女のサイトへいけます。

きなりずむ 彼女は、平将門様の縁で知り合うことができました。「なんだか、将門様のことを詳しく丁寧に書いているサイトがあるなあ」という思いで、そこを訪れて、何度も読んでいくうちに、彼女が私なんかよりかなり若い女性であることを知りました。
  そして一昨年のちょうどこの時期に、私は当時彼女の勤めていた横浜ランドマークプラザに買い物に行きました。私の大好きな女性にプレゼントをするのに、彼女に選んでほしかったのです。贈る相手は、大変に美人の女性なのですが、私はそういう女性に何を贈ったらいいのか、皆目判らないのです。
 でもこの「きなりずむ」の彼女も、大変に元気で若い綺麗な女性です。ハンドル名が、鷽姫さまとかウーロンさんと言っていました。
53405858.jpg それで、きょう彼女から、ケータイメールをもらって、会話する中(もちろん、グーグルメールでの会話になりましたが)、彼女は今乃木希典に関して調べているということで、私に訊ねてきてくれたのです。もちろん、私は答えましたが、詳しくは、我孫子の自宅にいかなければ判らないので(行っても本は莫大に、そしてもう梱包してあるから、判らないけれど)、不十分な答えしかできませんでしたが、とにかく、こうして彼女とメールで会話できることは嬉しいことです。
 ちょうど彼女は赤ちゃんができたところです。今は生まれて4カ月というところでしょうか。そうしたら、私のポコちゃんを連れて会いに行こうかなあ。なんて思いましたが、思えば私はじじだから、まずはポコちゃんのママの許可を取らないとならなないのですね。
 下駄っぱきで歩く私を、ママであるおはぎはポコちゃんを連れて歩くのは許さないだろうなあ。
 でもぜひこのサイトを訪れてみてください。

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2016112102

07103103 私の周の掲示板に次のような書込みがありました。ありがとうございます。

乃木希典 富嶽  投稿者:中井一雄  投稿日:2007年10月29日(月)17時01分44秒
  乃木希典 富嶽 の 朝揮 は 朝暉 朶と思いますが   

 ありがとうございます。私の 周の漢詩入門乃木希典「詠富嶽」 を読まれてご指摘いただいたものだと思います。まったくご指摘の通りです。訂正いたします。
 こんなに返事が遅くなり申し訳ありません。
 正しくは以下の通りです。

    詠富嶽       乃木希典
  崚曾富嶽聳千秋 崚曾たる富岳 千秋に聳え
  赫灼朝暉照八洲 赫灼たる朝暉 八洲を照す
  休説區區風物美 説くを休めよ 区区風物の美を
  地靈人傑是神州 地霊人傑 是れ神州

 この頃はこの掲示板も見るのが遅くなり申し訳ありませんでした。

 この詩は制作年代が不祥ということになっています。ただ、以下のような事情だったようです。

 明治45年1月、オーストリアの陸軍中佐ティー・フォン・レルヒのもとめに応じ書き与えたもので、のちにこの詩はドイツ語にも翻訳されています。このレルヒ中佐が、新潟県高田で、日本にはじめてスキーを伝えた人です。

 この詩は、私の属する栖山流吟道会で、これを好きで詩わられる方がいます。その方がこの詩を吟わられる時が、私はいつも大好きです。実はその方は、アマチョアでは手品で、テレビにもよく出られるかたですよ。いつも、朴訥ですが、いい詩吟を聞くことができます。彼は乃木さんが大好きなのですね。私もいつも、その気持にジンとなってしまっています。
 私も乃木希典が大好きです。

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