11031810書 名 無能の人
著 者  つげ義春
発行所 日本文芸社

 この本を読んだときに「実にひさしぶりにつげ義春の世界に耽ってしまったな」という感じでし。映画でもかなり評判になった「無能の人」です。
 私がつげ義春を知ったのは、あの「ガロ」全盛の時代です。たくさん読んだように覚えています。「もっきり屋の少女」「ゲンセン館主人」「李さん一家」「ねじ式」等々どれもこれも印象深かったものです。「日本漫画全集」の「つげ義春集」ももっていたはずなのですが、いま本棚にはありません。だからこれらの作品も細かいところまでは内容を自信をもって思い出すことができません。
 前に私がよくやる詩吟の一節が、埼玉大学の学園祭「むつめ祭」の統一テーマになったことがあります。それは71年のことです。

    呼狂呼賊任他評
     −我がなすことは我のみぞ知る−

というテーマでした。それで次の72年にもまた私の同じような内容とテーマが選ばれてしまいました。(この年から「統一テーマ」とはなく「メインテーマ」というようになりました)

    狂わせたいの
     −花弁はうずく女は叫ぶ、俺の墓はどこだ−

という内容でした。山本リンダの歌がはやった年でした。それでこの年のむつめ祭のポスターをこのテーマにあわせてどうしようかということになり、どうしてかつげ義春でいこうということになりました。たしか「ゲンセン館主人」だと思うのですが(たった今は作品集がないから調べられない)、千葉の夜の海を背景に男が手を広げてこちらを見ている絵があります、それに私のテーマをすりこんだポスターにしたのです。暗い海と、暗い顔したつげ義春の描く男の両側に、私のテーマが書き文字で並びます。この絵の使用をつげさんは電話のみであっさりと認めてくれました。
 このポスターは大学のみならず浦和中に貼り出されます。しかもあのころは、当時の学生運動のステッカーと同じようにむやみにどこでもボンドで貼ってしまいます。とうぜん非合法ですから、敵対勢力(当然敵は日共)にははがされてしまいます。それでもなんせはがしにくいですから、その後何年にわたっても、あらゆるところにこのポスターの残骸がのこっていました。それが、なんだかいいのですね。もう半分破られていて、しかもよごれているのに、つげ義春の描いた男は、あちこちで黙って私たちを見つめているのです。
 その男の残骸がだんだんなくなっていって、もうすっかり浦和の街が綺麗になった頃には、どうしてかつげ義春はあまり作品を発表しなくなってしまいました。
 私たちの友人にはけっこうつげのファンが多かったですから、みんなでどうしたんだろうなんて噂しあいました。たいがい、どうも本人自身がこの「無能の人」のようになってしまったらしいというような話をしていたように思います。
 この「無能の人」に収められた6つの連作は、1985年6月から86年12月まで、日本文芸社季刊誌「コミックばく」に連載されました。

 ……連載は継続される予定であったが、雑誌が休刊となり、現在
は中断したままである。いずれ続きを発表する機会があれば描いて
みたい気はあるが、発表の場がなければ、これきりでもいいと思っ
ている。           (「単行本のためのあとがき」)

 まさしくこの「あとがき」につげの現在があらわれているように思えます。「これきりでもいい」。いつ終っても、またもしかしたらまた書いていってもいいというのでしょう。
 作品の内容はつげ自身をモデルにしたと思える男が、石屋をはじめてしまうところからはじまります。

  おれはとうとう石屋になってしまった
  ほかにどうするアテもなかったのだ
  マンガ業、中古カメラ業、古物業と手を出してみたけれど
  ことごとく目ろみがはずれてしまった
  この石屋だってまるで素人だ
  本を読んでちょっと知識を仕入れただけなのだ
  ただ元手がかからないということが
  おれに向いていたのかもしれない (第一話「石を売る」)

ということだけで石屋になるのです。だけどこんなことでうまくいくはずがありません。第二話ではなぜ石屋になったのかという話が続きます。読む人によっては気がめいってくるかもしれません。
 本当はつげは乞食になりたいのかもしれません。でもいまの時代だとそうした道はむずかしいのでしょう。この本に彼の「乞食論」というインタビューがのっています。

 山人としてはやはり山窩を考えますね。山窩は関係としての異人
とみるのはちょっと微妙ですけれどね。独自の世界を築いてますか
ら。それでまあ、乞食にはなれないからせめて山窩になりたいなん
て思うわけ。           (「乞食論−乞食・山人」)

 だが現実にはもう山窩の世界などなくなってしまったわけだから、こうしてつげは漫画のなかでそうした世界に近いと思うことを書いているのかもしれません。そしてできたら、その漫画も書かなくてもいいのなら書かないでいたいのでしょうか。
 やはりもう少し、つげの作品をすべて読んでみてから、またこの「無能の人」を読み返してみたいと思います。それにはなんとか昔の作品群を手に入れないとならないようです。(1998.11.01)

 もうつげさんは今どうされているのでしょうか。そのことをしきりに思う私です。(2011.03.18)