将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:五帝本紀

12110412 中国では、最古から「三皇(さんこう)五帝」で始まったといわれます。
 司馬遷はこの五帝本紀の最後に「太史公言わく」(太史公とは司馬遷自身のこと)として、書いています。

 学者が五帝の事績を論ずるのは久しいことだが、尚書(『書経』のこと)には、ただ帝堯以来のことを記してあるだけで、黄帝のことを記したのは百家の書である。・・・・・・私はかつて旅行を好み、・・・長者老人が、往々黄帝や堯・舜を語る地方へ行くと、風教がほかの地方と違っていた。・・・・・・。思うに、ただ深く考えぬだけのこと、記されていることは決して虚言ではない。・・・・・・

 神話を嫌った司馬遷です。だが神話や伝説が語る中になんとか人間の歴史を探しました。「記されていることは決して虚言ではない」。この司馬遷の言葉を深く思います。
 まだ当時は紙がありません、竹簡(ちくかん)にすべて書いてあったわけです。それを熱心に読んでいる司馬遷を思います。中国のたくさんの地域を歩いて、老人の話を聞いている司馬遷を思います。
12110413 これほどの人があの時代のいたことに、私はものすごく感謝します。ものすごく興奮します。
 私も今の時代に感謝します。こうしてインターネットで司馬遷と五帝のことを読めることにもものすごく嬉しいのです。

12110304  さて、私の書く司馬遷『史記五帝本紀第一』は、

  黄帝
  センギョク
  帝コク
  帝堯
  帝舜

に関しては、もうここで書きました。後の三人に関しては、「コク、堯、舜」と一字でよばれることの方が多いようです。
  ところで、センギョクは黄帝の子ども、昌意の子どもであり、黄帝の孫になります。帝コクの父は、キョウ極(きょうきょく)であり、その父は、黄帝の長子である玄囂(げんごう)なので、帝コクは黄帝の曾孫になります。
 帝堯は、帝コクの次男でしたが、兄の禅譲により帝位につきました。舜はセンギョクの七代の子孫だといわれますが、いわば普通の民間人でした。その舜が帝堯により、政(まつりごと)を任され、帝堯が亡くなったときに、一旦は堯の息子の丹朱があとを継ぎます(帝位につく)が、誰もその丹朱のもとへは行かないで、舜ばかりに来ます。そこで天は舜を薦めて、舜が天子になります。この「天が薦める」という意味が漢文では分からないわけでしたが、これはみんなが(民間人が)舜を次の天子としてほしいという願望で、天とは普通の庶民が薦めたことなのだと私の高校一年のときの漢文の先生が教えてくれました(ただし、そのときは「十八史略」の話)。
 私はこの丹朱も素直にそれを認めたものだなあと感心します。
 また舜の弟の象(しょう)ですが、これも最初には父と母と一緒に舜を殺そうとしたとあります。でも私は宮城谷昌光がけっして象を貶してばかりは書いていません(作品名が何だったか思い出せない)。象もまた兄舜を認めたのだろうと思います。
 私には丹朱は、まったくの他人であった舜を認め、象は結局は兄を認める、そのような優れた人物だったように思えます。

12110107 この舜は、この『史記五帝本紀』で一番多い記述です。たくさんのことが書かれています。「舜も人なり、我も亦人なり」という孟子の言葉が思い出されます。
 堯は自分の実の息子の丹朱ではなく、普通の民間人であった舜を一切の天子の仕事をやらせますが、亡くなると、舜は位を丹朱に譲り退くのですが、もはやみなは丹朱ではなく、舜のところへ来ます。
 それで舜は「天命かなあ」ということで天子になります。
 本紀には、それから舜の生涯が描かれます。舜の父親も母親(これは父の後妻でした)も弟の象(しょう)も舜を殺そうとしますが、舜のあまりな従順さに、それができずに、ついには堯の目にとまります。そのときは舜はもう30歳でした。
 堯は二人の女(娘とあります。名前は娥皇と女英といいます)を舜の妻とします。この二人も、舜の父親にも母親にも象にもよく仕えたとあります。
 もうこの本紀を読む限り、舜の父親瞽叟(こそう)も弟象もなんとか舜を殺そうとしますが、それがこの本紀でそのまま描かれていきます。舜がせっかく掘った井戸の中で上から土を入れて殺そうとして、舜がそれを察知してあらかじめ横穴を掘って置くところは圧巻です。それでも舜は父瞽叟を敬い、弟象を愛するのです。
12110108 このような舜を知り、堯はますます評価し、好きになっていったものでしょう。
 この舜は30歳で堯に使え、50歳で天子の仕事に就き、58歳で堯が亡くなると61歳で帝位につきます。思えば、現在64歳の私も舜のこのような生涯を知ると、「我も亦人なり」という言葉をまた思い出すのです。

12103106 この堯になって、初めてこの『史記五帝本紀』に多くの記述が表れます。おそらく司馬遷は、この堯でたくさんの書くことがあって少しは嬉しかったのではと思われます。
 私には、十八史略の「帝堯陶唐氏は帝コクの子なり」という文が浮かんできます。これは私が書きました曾先之『十八史略』にある文です。だから元の時代に書かれたものであり、この司馬遷の『史記』にある文章ではありません。それにこの『十八史略』では、この五帝の時代の前の三皇を詳しく書いています。
 つまり、この時代になると、いわば歴史を作り上げてしまうわけです。だからつまらない。でもでもこの日本人ではやはりこの『十八史略』から入っていくのでしょう。
 この堯で有名なのは、「禅譲」という言葉ではないでしょうか。この堯は自分の天子としての地位を息子の丹朱に譲らず、舜という普通の人に譲ります。彼が聡明でよく事をやりとげることができたからです。
 この日本では、この天子の地位を他人に譲るということはありえませんでした。でもあえて堯はそれをなしたのです。
 晩年の堯は舜を見て、ものすごく嬉しかったのではないでしょうか。そんな堯の笑顔が見えるような気になります。

12102917 私の司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』にYAGURUMAさんがコメントをくれました。私が医者にも行く用がありましたもので、中途半端ばかりになりました。
 それで私は当初は、

  司馬遷『史記五帝本紀第一センギョク帝コク』

は書く予定ではなかったのですが、

私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです

と書きましたような具合なのですが、それでも書こうと思ったものなのです。
12102916 いや実は毎日私が本を読んだ記録を書こうと思って、日本、中国・朝鮮他アジア、欧米と書いて行こうと思っているのですが、欧米で、「トーマス・マン『ベニスに死す』」、「トーマス・マン『ワイマルのロッテ』」、「ボッカチオ『デカメロン』」、「ゲーテ『ウィルヘルム・マイステル修業時代』」、「アベラールとエロイーズの書簡集」と考えて、結局まとまらずこれをを書いてしまったのです。

 でも

2. Posted by YAGURUMA   2012年10月29日 17:25
 周 様
 レス了解です。確かに、黄帝記事へのコメントとしては不適切なので取消します。失礼致しました。

を読みました。それで私が少しいきりたっていて申し訳ありません。12102918

 先のYAGURUMAさんの以下は読みました。

 そして、シュリーマンがトロイの遺跡発掘で明らかにしたように神話の中核には歴史の真実が込められています。現在の比較神話学というキリスト教単性社会で発達した学問の限界を超え、歴史の真実を明らかにすることが西欧中心主義による現在の民族紛争の混迷を抜け出す視野を開くのでは。吉本さんのアフリカ的段階につながるのではと考えています。日本の現状は啓蒙思想の段階から抜けきれていないのではと感じます。
12102919次ぎのHPの十以下を参照下さい。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/philolog.html

 そしてまたちゃんと私も学んで行きます。孔子については、私も思うことがあり、また書いて行きます。
 それから私はシュリーマンもトロイの故事も好きですよ。

12102904 私が書きました司馬遷『史記五帝本紀第一黄帝』の次の帝王がセンギョク(せんぎょく)でした。彼は黄帝の孫になります。在位は78年だったといわれます。
 帝コク(ていこく)は、黄帝の曾孫になります。
 センギョクに関しては、あまりに記述がありません。静かな性格で知恵が深く、計画があり、よく物事に通じていたとあります。
 帝コクは私たちには、帝堯の父親だということくらいでしょうか。
 実は、私は五帝は、黄帝、帝堯 帝舜に関しては、その顔を思い浮かべることができるのですが、この二人センギョクと帝コクに関しては無理なのです。ほかの三人はいくつもの出来事があるのですが、この二人には皆無といってもいいと思うのです。
 司馬遷もかなり苦労して資料をあさり、そしてやっと書いたのがこの二人だと思うのです。

12102813 この長大なる歴史書を少しでも書こうと思いまして、こうして最初の三皇五帝を書くのですが、司馬遷はあまりに神話としてしか思えない三皇は書かないで、この五帝の黄帝から書くのです。しかも神としての要素も強かったであろうこの黄帝をあくまで人間として描いていきます。
 そのことが私には、この司馬遷の魅力であり、彼の書いた『史記』の大きな魅力なのです。
 この黄帝は老荘すなわち老子荘子と並んで、黄老(こうろう)と呼ばれ中国の三大宗教の一つである道教の神(神といっていいのかな?)となります。しかし私には道教というのが、どうしても分からないし、そのたびにこの「司馬遷『史記』」に立ち返っています。
 黄帝は名を軒轅(けんえん)と言います。おそらく黄帝は皇帝からつけた名前なのでしょうね。三皇の最後の神である神農(初めて農業を始めたという)氏のあと、帝王になります。
 この黄帝はまず神農氏の最後の皇帝である炎帝を阪泉の野で戦い勝ち、次に蚩尤(しゆう)という一番凶暴な諸侯の一人を戦い勝利して殺します。これで天下が統一されたのでしょう。
 黄帝には25人の男子があったといいます。だから奥さんが何人もいたのでしょうね。 私には黄帝はいつも人間の歴史で最初に出てくると思っている人です。

 この陶淵明(陶潜)の「飲酒」の詩も最後になりました。私が高校1年のときに、「飲酒 其五」を知ってから、こうしてやっと最後にたどり着きました。思えば、この詩をすべて読むのに、46年の月日が流れているのでしたね。

   飲酒 其二十  陶淵明
  羲農去我久 羲農(註1) 我を去ること久しく、
  挙世少復真 世を挙(あ)げて真に復(かえ)ること少なし。
  汲汲魯中叟 汲汲(註2)たり 魯中の叟(註3)、
  弥縫使其淳 弥縫(註4)して 其を淳(じゅん)ならしむ。
  鳳鳥雖不至 鳳鳥 至らずと雖(いえ)ども、
  礼楽暫得新 礼楽 暫(しばら)く新しきを得たり。
  洙泗輟微響 洙泗(註5) 微響(びきょう)を輟(や)み、
  漂流逮狂秦 漂流して 狂秦に逮(およ)ぶ。
  詩書復何罪 詩書 復た何の罪かあらん、
  一朝成灰塵 一朝にして灰塵(かいじん)と成れり。
  区区諸老翁 区区(註6)たる 諸老翁、
  爲事誠殷勤 事を為して 誠に殷勤なり。
  如何絶世下 如何せん 絶世(註7)の下、
  六籍無一親 六籍 一の親しむ無きを。
  終日馳車走 終日 車を馳せて走るも、
  不見所問津 問う所の津(註8)を見ず。
  若復不快飲 若し復たすみやかに飲まずんば、
  空負頭上巾 空しく頭上の巾(きん)に負(そむ)かん。
  但恨多謬誤 但だ恨むらくは謬誤(びゅうご)多からん
  君當怒醉人 君よ当に酔人を怒(ゆる)すべし 

7e6ce0df.jpg  (註1)羲農(ぎのう) 伏羲、神農のこと。
  (註2)汲汲(きゅうきゅう) せっせと励み勉める。
  (註3)魯中叟(ろちゅうのそう) 魯国の老人。孔子をいう。
  (註4)弥縫(びほう) 衣の破れめをぬいつくろう。
  (註5)洙泗(しゅし) 魯国を流れる二つの川、洙水と泗水のこと。
  (註6)区区(くく) 勤直なさま。またつまらぬ、細かい、こせこせしたさま。
  (註7)絶世(ぜっせい) かけはなれた世。
  (註8)所問津(とうところのしんを) 孔子の一行が渡し場を尋ねた故事。

  伏羲氏、神農氏の時代ははるか昔のことであり、
  世の中が純朴な姿に帰ることはなくなった。
  かって魯の国に孔子があらわれて、
  せっせとほころびをぬいつくろい純朴の世に戻そうとした。
  鳳凰はやってくるまでにはならなかったが、
  しばらく礼や学は面目を一新した。
  ところが洙水と泗水の流れのかすかなひびきがやんで(孔子の教えも途絶えてしまい)、
  時代は漂い、狂のような秦の時代になった。
  詩経や書経にはどんな罪があるのか、
  一朝にして灰燼となってしまった。
  それでもこせこせした漢代の学者たちが、
  誠に丁寧に学問上の仕事をした。
  だが、もはやこうしたかけはなれた世では、
  六経のどの一つにも親しまなくなった。
  終日車をとばして走るものがいるが、
  孔子の一行が渡し場をたずねたような光景はたえてみられない。
  こんなでは、さっさと酒でも飲まないことには、
  頭の頭巾に対して申し訳がたたないではないか。
  さてこうしてさんざんに世迷いごとばかり述べてきた、
  酔っぱらいの言うことだゆるしてほしいものだ。

 伏羲、神農のことなどというのは、私が高校1年のときに、「史記」の五帝本紀の最初の黄帝のところで、その前の神農氏と炎帝のことが書かれているくらいでした。まして、伏羲氏のことは、この後漢が滅んだあとになってようやく整ってきたものなのでしょうか。
 ただ、孔子のことはたくさんの事実として、書物とともに、みなが知っていたことでしょう。

 こうして、やっと「飲酒」をすべて読み終わったことに、大変に感激しております。今後も何度もこの「飲酒」のいくつもの詩を読んでいくことでしょう。

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 私はいろいろなところで、実によく「何が専門なのですか?」と聞かれることがあります。そうすると私はいつも返事に困ってしまいます。経営コンサルタントだとすると、「得意な分野は販売管理です」とか「労務管理だ」とでも答えていけば相手は安心するのでしょうかね。
 そもそも私には専門な分野などないのです(いや、そもそも「労務管理が専門です」なんて気持悪いよ。「販売管理の専門」というのもおかしいです。それは大学の先生の話でしょう。何の役にもたたない先生方ですね)。
 いろいろなクライアントでは、顧問であるわけだし、あるところでは「パソコンの先生」と呼ばれているし、あるところでは「詩吟の先生」などと言われています。
 そんな私がいつも返事で困っているわけなのですが、それなら逆に何が得意かといえば、比較的に得意だということなのですが、中国の歴史については詳しいと思っているところでしょうか。思えば私は学生時代は「東洋史」が専門でした(でも学生時代は、ただただ学生運動をやっていたわけですが)。そこでそんな私が、中国に関したことをここで披露していきたいと考えました。
 今後ももっとUPしてまいります。とくに「中国の神話」については、「舜あるいは俊」(これは「史記」の「五帝本紀」の最後の帝王の舜は、一般の人民の出身だというが、実はもともとは神ではないのか。しかも中国の北と南ではまた違う性格の神ではないのか、というところにあります)という題名でのUPをしなくちゃと思っているのですが、まずは確認したいことがあり、その確認のための書物をなくしてしまったもので、それを古書店で探してからと考えております。(2002.02.04)

   http://shomon.net/garakuta/naka.htm  周の中国の話

 いや、このところなかなか書いていないなあ、と反省しきりです。

 このごろスカイプで中国の若者と話すことがありますが(彼らが日本語で喋ったりチャットしたりしてくれるから、私も話せるだけです)、中国の漢詩のことを聞いたり、魯迅のことを話そうとしても、あんまり今の若者は、そんなことに関心はないようですね。李白の詩のことを言っても(チャットでテキストで書けるから、彼らも読めるはずなんですが)、全然知らないということがあるようです。
 大変に残念ですね。

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