10122207 きゅうに本日が6・15だったことを思い出しました。1960年(昭和35年)6月15日、国会南通用門を入ったところで、樺美智子さんが亡くなりました。警官隊の警棒による殴打で亡くなりました。以前なら「国家権力により虐殺された」と強く言うところでしょうが、それは事実としても、結局当時の国家も必死だったという気がして、今はもう何かただ樺美智子さんのことを静かに考えたいだけの思いがします。

 二人の人のこと思い出しました。私がある会社で人事募集のとき、当時私は33歳でしたが、私と同じ昭和23年の早生まれの人を面接したことがあります。彼は何と、もうその年で年金の受給資格がありました。彼は家庭環境のために中学1年生のときから、ある雑誌社の勤労少年とかいうので働いていたのです。昔(たいがい戦前)の新聞記者のドラマなんかみると、新聞社に「少年」とかよばれて雑用している少年がいるものですが、目の前にそんな人が本当に現れるとは、かなり驚きました。彼も私が同じ年だというのに驚いたようでしたが、私はやはりきいてみたのです。60年のときはどうされたんですかって。やはり彼は国会が近い雑誌社でしたから、覚えてはいましたが、中学1年生のことで、そんな現場へいくのは止められたようでした。
 それとまた私より12、3歳上の上司とこの60年のことを話したことがあります。彼と私は非常に悲惨なのんべでよくしつこく飲んだものですが、そのあるとききゅうにこの6・15のこと訊ねました。彼はちょうど就職したばかりで、まったく60年安保のことなんか関心なく、あの日は野球を見ていたといっていました。「たかが、女子学生が死んだからってなんだっていうの」。……私はこの言葉に激しく抗議し、怒り泣き、飲み屋全体を白けた雰囲気にまでしました。
 東大生の樺美智子さんは国会へ行きました。私はあのころ、小学6年でテレビでしかあの闘争を知りません。中学1年で働いていた彼もいれば、私のかっての上司のようにまったく無関心な若者もいたわけです。
 私含めてあの日はみんなそれぞれいろいろなことをやっていたんだなと思います。そして今になると、やはりそれだからこそいいんだなと思えるようになってきたのです。

書名  人しれず微笑まん-樺美智子遺稿集-
編者  樺光子
発行所 三一書房

 樺美智子さんのこと思い出すと、私はまったくお会いしたことのない方ながら、写真の顔とか、いくつかの文とか、彼女のこと書いた文とかを思い浮かべてしまい、なんだか涙が出てきます。

  私先生が大好きです。いつも白いブラウスに薄青い水玉のスカート、清
 潔そのものの先生、私にはかしこくてやさしくて親切な、いいお姉さんの
 ようだったのです。そしてお笑いになる時、口びるをへの字にして笑う先
 生、私は、あなたの名前をラジオで聞いた時、はっとしました。もしかし
 たら、もしかしたら、いやちがう、ああ樺先生ではありませんように。で
 もそれもむなしく、やはりそうでした。あなたでした。先生でした。今も
 今も、私は先生が半そでの白いブラウスに水玉のスカートをはいているよ
 うな気がいたします。先生におそわったのは、ついついこの前のような気
 がいたします。いえ、私だけではありません。みなそうなのです。おもい
 がけない信じられない気持なのです。もの静かで美しいあなたが、全学連
 の人であったとはだれが考えられたでしょう。
 (樺美智子さんが教育実習をしたところの中学生が16日に書いた手紙)

 樺美智子さんはまさしく全学連を主導するブント(共産主義者同盟)を作った一員でした。彼女のような普通の優しい若者が作ったのがブントであり、あの60年安保闘争であったのでしょう。
 私たちの時代にはもはや国会へ出掛けるという形の闘争は無くなってしました(一部あるにはありましたが)。それはやはりこの60年安保闘争が大きかったと思います。もはや終焉してしまった擬制などに何のこだわりも感じなかったものです。

 擬制の終焉
 安保闘争は奇妙なたたかいであった。戦後一五年目に擬制はそこで終焉した。それにもかかわらず、真制は前衛運動から市民思想、労働運動のなかにまだ未成熟なままでたたかわれた。いま、わたしたちは、はげしい過渡期、はげしい混乱期、はげしい対立期にあしをふみこんでいる。そして情況は奇妙にみえる。終焉した擬制は、まるで無傷でもあるかのように膨張し、未来についてバラ色にかたっている。いや、バラ色にしか語りえなくなっている。安保過程を無傷でとおることによって、じっさいはすでに死滅し、死滅しているがゆえに、バラ色にしかかたりえないのだ。情況のしづかなしかし確実な転退に対応することができるか否かは、じつに真制の前衛、インテリゲンチャ、労働者、市民の運動の成長度にかかっている。
「擬制の終焉」1960.9「民主主義の神話」現代思潮社に掲載 「擬制の終焉」1962.6現代思潮社に収録された

 終焉した擬制はだがしかし、いまも私たちの前で踊り続けている。いったいあれは何なのだろうか。だからまだ言い続けなければならない。死滅した擬制の葬送の歌を唄え、死体である擬制の死水を取れ。(「周の吉本隆明鈔集」より

 樺美智子さんたちの闘いも私たちの闘いも、どうしても「今闘わなければいけないのだ」という闘いではなかったと思います。すくなくとも私はそう主張はしませんでした。デモの現場にいたものも、そこへ行かなかったものも、まったく無関心なものもそれはそれで同じ意味があるのだと考えています。この点を誤って認識するときに、その考え方は、死滅した「擬制」の側にいってしまうのです。

  「最後に」
  誰かが私を笑っている
  こっちでも向こうでも
  私を笑っている
  でもかまわないさ
  私は自分の道を行く

  笑っている連中もやはり
  各々の道を行くだろう
  よく云うじゃないか
  「最後に笑うものが
  最も笑うものだ」と

  でも私は
  いつまでも笑わないだろう
  いつまでも笑えないだろう
  それでいいのだ

  ただ許されるものなら
  最後に
  人知れず ほほえみたいものだ
         (1956年)

 樺美智子さんのことを考えるとき、涙が出るのと同時に、樺さんがいやブントのたくさんの若者たちが、かなりな思想的地点にまで至っていたように思えてしまいます。もちろんその後後退に後退してしまう傾向や思考もあったわけなのですが(私たちの中にも)。

  未来の親鸞
 人間はほんとに他人にたいして尽くすとか救済するとかいうことに関与するとしたら、ひとたび浄土へ往ってその浄土からひき還してきて、大いなる慈悲心でもって救済をかんがえるべきだ。もしじぶんができないで、浄土へゆくまでの過程で救済をかんがえたりすると、しばしば自己欺瞞に陥りますよ、と親鸞はいっています。
「未来の親鸞」1989.6.7東京北区青少年サミット主催「機工街に て親鸞を語る」による講演於昭和街区民センター 「未来の親鸞-> 解体論」1990.10春秋社に収録された

 もっともっと世の中のたくさんの人が、この世のことを真剣に考えていったらいいのだとは親鸞は言わないのだ。こうした自己欺瞞をひきおこしている思想がなんと蔓延していることだろうか。現在そしてこれからの世界は、往きと還りを同時に考えなければ解けない時代になっているという。そこに未来にも生きる親鸞の思想がある。(「周の吉本隆明鈔集」より)

 こうして樺さんの日にさまざま思い出してみました。(1993.06.15)