将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:今村均

……ラバウルは美しい火口港の縁に横たわっていた。かかる自然美
に恵まれた場所が、破壊と死の場所と化しているとは想像し難い。
われわれは暫し上空を旋回した。高度一万フィート。今朝は攻撃が
予定されている。アヴァンジャーの青い機影、高射砲弾の黒煙───
ラバウルの日本軍の砲兵は南太平洋で対空射撃が最高に正確だとい
う評判を持つ。当然であろう。連日のように腕を磨かされているの
だから。地上では火災が発生し始めた。町中にも路上にも人影は見
当たらぬ。にもかかわらず、何万という日本軍がそこに潜んでいる
のは知れたことだ。夥しい眼がわれわれを監視し、われわれに発砲
する価値があるかどうか監視していることだろう……。
         (リンドバーク「第二次世界大戦日記」より

12051508 これだけ米軍以下の連合軍に恐れられた存在がラバウルの日本軍でした。実に十万余の将兵が本土からの支援支給のないまま、自給自活の生活をしながら、日本敗戦の日までほとんど無傷でした。
 そのラバウルの歌で私たちがかなり唄ってきた軍歌があります。

曲名  ラバウル海軍航空隊
作詞  佐伯孝夫
作曲  古関裕而
 唄   灰田勝彦

一 銀翼連ねて 南の前線
  ゆるがぬ護りの 海鷲たちが
  肉弾砕く 敵の主力
  栄えあるわれら ラバウル航空隊
二 海軍精神 燃えたつ闘魂
  いざ見よ南の 輝く太陽
  雲に波に 敵を破り
  轟くその名 ラバウル航空隊
三 沈めた敵艦 墜した敵機も
  忘れて見つめる 夜ふけの星は
  われに語る 戦友(とも)のみたま
  勲(いさお)は高し ラバウル航空隊 
                   (昭和19年)

 英蘭豪米軍との戦闘の最前線だったラバウル、そして毎日毎日厳しい戦闘訓練にあけくれ、とうとう最後までここを守り抜いた将兵たちを思います。そして敗戦後最後まで「責任」をまっとうしたラバウルの将軍今村均大将に大いに敬意を感じます。
 この歌はまたいつもいつまでも唄っていきます。(1998.11.01)

11031302書 名 BC級戦犯
編著者 田中宏己
発行日 2002年7月20日第1刷発行
発行所 ちくま新書
定 価 700円+税
読了日 2002年11月15日

目 次
第1部 太平洋戦争を問いなおす
  (BC級戦犯はどう裁かれたか 
   戦争の構造を考える)
第2部 BC級裁判とは何だったのか
  (戦闘停止から収容所へ 
   帰還(復員)という大移動
   逮捕される戦犯容疑者
   収容所生活の実態
   勝者の「正義」と敗者の「悪」
   犯罪を決めた戦域の事情
   気まぐれな判決
   最後の釈放)

 この本でも、やはり今村均大将を偉大さを感じます。それとBC戦犯というのは、連合国のおおいなる復讐劇なのですね。思えばこの「戦犯」という存在は、第2次世界大戦で初めて出てきたものです。(2002.11.15)

11012304 私の父は、インドネシアのスマトラ島で終戦を迎えました。このスマトラ島で終戦後すぐに起きた事件のことを私は以下に書きました。

  テビンティンギ事件(1945.12.13)

 この中で、私が書きました。この「テビンティンギ事件」のほかに、「ビキティンギ事件」もあったようです。それについて、さまざま探してきたのですが、なかなか判りせんでした。それが、今年6月に目森一喜さんがメールにて知らせてくれました。それを以下書いてまいります。

 以下メールでもらったものと私がインターネット上で探したものを、いくつか必要なところだけ抜粋しました。

 以下のurlにブキティンギの話がありました。

  http://soejima.to/boards/koli3814/6.html

[288] 反日左翼の謀略(その2) 投稿者:キヨシ
                   投稿日:2002/05/25(Sat) 23:01:30

【産経抄】
 西スマトラ島・ブキチンギの「日本の穴」始末記は先月末に書いた。その現地を訪ねた本紙シンガポール支局長・千野境子記者の確認リポート(東京夕刊)は、“台風一過”とまではいかないがうれしい報告だった
▼「日本の穴」は戦時中に掘られたただの防空壕(ごう)だったが、戦後、ロームシャ大虐殺の現場として観光名所にされた。穴の入り口には銃剣をつきつけた日本兵のレリーフがあったが、ジャーナリスト加藤裕氏らのご尽力でこれが撤去された話である
▼しかし千野報告によると、現場を案内するガイドは相変わらずの説明をしていた。またブキチンギ市の助役も「レリーフは自然に落ちた」と苦しそうに説明したという。そうでもいわないと収まらない雰囲気がなお現地にはあることをうかがわせた
▼これまた日本罪悪史観の落とし子というべきもので、こうした風潮は一朝一夕では直らないことを示している。ありもしなかった日本の残虐行為が定かな証拠もないまま語り継がれるウソを改めていく作業は容易でない。しかし一つ一つ丹念につぶしていくほかないのである
▼うれしい話はまだあった。この「日本の穴」を虐殺の場として日本に紹介したのは、『アジアの教科書に書かれた日本の戦争』(越田稜編著・梨の木舎)と、北海道新聞に寄稿したG教授こと後藤乾一早大教授である。この両氏にはたくさんの読者から問い合わせが届けられたそうだ
▼そうしていまお二人とも潔く誤りを認めて「改訂の機会があれば謙虚に書き改めたい」と申し出て下さった。日本の歴史が一つ正されることになる。当然といえば当然だが、学者としての良心を示されたことを評価する。産経新聞1997年6月21日

 朝日新聞(二十三日付)で元ワシントン総局長が「日本は過去を反省しつつ、独立東ティモール安定、発展に関与していかねばならない」と書いている。 なんで反省しなくてはいけないかというと、その根拠が「東ティモールで戦時中、四、五万もの住民が(日本軍によって)殺され…しかも戦後賠償は行われていない」という後藤乾一早大教授の著作によっているのだ。
 この教授は、つい最近もスマトラ中部のブキティンギにある旧日本軍の地下防空施設を「地元民を強制労働させ、あげくに機密保持のために三千人全員を底無しの穴に突き落として殺した」虐殺の場だと発表した人物である。
 それが真っ赤なうそだったことは当の地元民が証言し、インドネシア政府も認めている。
 そんな人物が「(島民の一割にあたる)四、五万人を殺した」と書いたら、普通は眉につばをつける。あるいは独自に調べてみるものだ。それもしないで、「インドネシア学の泰斗」(同記事から)に仕立てて、真実風にするのはいかがなものだろう。
 ついでにいえば、朝日だけでなく、その他新聞もこの“泰斗”の言葉を鵜呑みにして「日本も応分の贖罪を」なんてやっている。
 ウソつきから一転、泰斗にしてもらった教授、それに恥ずべき植民地施政の責任を日本に転嫁してもらったポルトガル政府の高笑いが聞こえてくるようである。(編集委員) 産経新聞1999年9月25日夕刊

2001/05/14 >> 産経新聞記事情報
“十年一昔”からいえば五十年は、若い人たちにとって気が遠くなるほどの時間かもしれない。たとえば日本とインドネシアの間でも、その遠い昔の“誤った史実”が大手を振ってまかり通りつつあるという
▼かつて駐ジャカルタの新聞特派員だった加藤裕氏(六五)が自費出版で『こだわりのインドネシア』という本を出した。そのなかで戦時中の“遺跡”が「日本の穴」という名の観光名所にされ、いわれもない日本軍の残虐行為を宣伝していると指摘している
▼加藤さんによると、西スマトラにブキチンギという高原の町がある。日本の第二十五軍司令部のあった町だが、昭和六十一年からインドネシア文部省が「日本の穴」を観光客に一般公開した。この穴で三千人のロームシャ(労務者)を虐殺したというものだった ▼穴は防空壕として掘ったが、機密保持のため全員が殺されたというのである。穴の入り口には銃剣をもった日本兵が人びとを脅しているレリーフがあり、見学した日本のインドネシア学者までが「まさに地獄に直結した穴」(昭和六十一年、北海道新聞)と書いていたという 
▼ところが加藤さんや、旧「スマトラ新聞」記者だった菊地秀広氏(元北海道新聞論説委員)が調査してみると、全くの事実無根。穴を掘った第二十五軍の直接の責任者などの証言で、工事中は一人の死傷者もなく、労務者にはきちんと日当が支払われていた… ▼加藤さんはいま対イ・ボランティア活動をしているが、力をこめてこう訴える。「日本の戦後世代が戦争中の東南アジアの歴史について教育されてないのと別な意味で、インドネシアの誤った史実による歴史教育は弊害を生みます」と。

【産経抄】産経新聞1997.05.28東京朝刊
 [ID:i4912]
2001/05/14 >> 産経新聞記事情報
 本日はうれしいご報告を。小欄で何度か「日本の穴」のことを書いた。西スマトラのブキチンギという町で、戦時中に掘られたただの防空壕(ごう)が「日本の穴」と称する虐殺の観光名所にされていた話である
▼この事実を指摘したのはジャーナリストの加藤裕氏(六六)だった。その加藤さんがこの五月二十日に再び現地を訪ねると、なんと日本兵が銃剣をつきつけた虐殺のレリーフや説明板がきれいに撤去されていた。ただの防空壕跡に“訂正”されていたというのである▼加藤さんは電話で「活字の力は大したものです」と感謝していた。しかしレリーフなどが取り除かれたのは活字の力ではない。第一に加藤さんたちの奮闘のたまものだが、東京医科歯科大名誉教授・総山孝雄氏のご尽力もあったことだろう
▼総山さんは将校としてアジアで戦った経験の主だが、東京のインドネシア大使館に働きかけ、大使が現地へ電話を掛けてくれたという。日本の外務省や現地の大使館が動いた形跡はないが、「過ちを改むるにはばかることなかれ」を即実行したインドネシア政府の良識に感謝する
▼また、たくさんの読者から怒りと嘆きのお手紙をいただいた。そういう読者の熱意も事態を動かしたに違いない。ありがとうございました。この「日本の穴」には「これが地獄の道」などという新聞寄稿で反日をあおり立てる日本人のインドネシア学者がいた
▼たとえばG氏という早大教授もそうで、かかる虐殺の遺跡は「世代から世代へと歴史化されている」などと書いていた。事実と全く異なるウソを、意図的としか思えない姿勢で流布していたのである。G教授からは相変わらず一片の説明もない。

 私は私に対して、さまざまなことを教えてくれた父たちが、愛するインドネシアの友人たちに対して、卑劣なことをけっしてするわけはないと信じていました。それがこうして証明されています。
 ただ、まだまだ言い続けなければならないでしょうね。
 私のこの「テビンティンギ事件」の書込みの最後に書いていました、インドネシア方面軍の司令官であった今村均大将の言動を私はいつも思い出しています。(2003.09.22)

10081305 どうしても午前4時代から6時までは、大変なのです。6時すぎると簡単にUPできます。

2010/08/21 04:04また試練のときですね。なかなかこの時間はブログがUPできないのです。実に大変なのです。
2010/08/21 12:54どうしても朝は「ゲゲゲの女房」を見ていられませんでした。私の次女への手紙とその嫁入り先のご両親への手紙を書いていたのです。そしてそれを長女に届けました。もう今の時間なら、ブルータスは読んでくれたかなあ。
 それでこのテレビは見ていられなかったのです。でも今見て、また私は涙です。水木しげるさんは、ラバウルにいたのですね。私にはラバウルの将軍今村均は、私の大好きな人、尊敬する人です。私が高校1年のときに、『呉子』を読んで、この呉起が主張する思想をそのまま体現している人だと思ったものでした。

 今村均を思うと、いつも呉起を思い出します。いつも繰り返し同じ思いです。

 九十九匹の羊 を書いてみて、私は今村均のことを思い出していました。それについて、私がこのブログに書きました文章があります。
 2006.04.15に次を書いています。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/50550803.html
                  今村均を思うと呉起を思い出す

 それから、2006.04.21に次を書いています。

   http://shomon.livedoor.biz/archives/50560563.html
                        呉起のことで少し

22986a2d.jpg この今村均という人は、大東亜協栄圏の思想を実際に信じていた将軍でした。そして彼は実際にインドネシアでそれを実現します。そして戦後ラバウルの法廷でもそれを主張するのです。
 私はいつもこの今村均を思い出してきました。そしてまたいつも、この聖書の言葉も思い出すのです。

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米国側資料が明かすラバウルの真実
書 名 米国側資料が明かす
    ラバウルの真実
著 者 吉田一彦
発行所 ビジネス社
定 価 1,700円+税
発行日 2007年6月15日一刷発行
読了日 2007年11月10日

 つい「ラバウル」という文字で、手に取ってしまいました。必ず今村均を思い出すのです。実際にラバウルで今村均と接した方ともお会いしたことがあります。やはり、その方のお話は、私にとって貴重な今村均の思い出でした。そしてやっぱり私の思っていた今村均そのものが、事実としての今村均だったと私には思われます。そしていつも今村均を思うときに、私はいつも『呉子』を書いた呉起を思い浮かべています。
 それにしても、日本帝国というのは、実に情けないというかひどいものです。でもやっぱりかなり米国には脅威な存在だったのですね。かなりなものとして闘っています。
 もうそれにしても、やはり大変な戦いをしてしまったものなのですね。

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 もう前のようには飲んでいない私です。でも週に1度くらいの頻度で、千駄木の「浅野」には飲みに行っています。

   http://shomon.net/sake/suisen1.htm#031120  千駄木『浅野』

 この店のすぐ近くに、この「インドネシアの雑貨・布・服・アクセサリー」というお店があり、私はときどき寄っています。よみせ通りを浅野から歩いて行って、ときどきお邪魔しています。

店 名 alas-alasan アラスアラサン
住 所 113-0032
    東京都文京区千駄木3丁目39番7号
    電話・FAX 03(3821)2675
営業時間 12:00〜20:00
定休日 火曜日
URL http://www17.ocn.ne.jp/~alasan

 ここで今までいくつかのものを買って、孫にあげたりしています。
 私はインドネシアというと、インドネシア独立のときの今村均中将のことがずっと尊敬する人物でしたから、そのことからのみ考えてきたものでした。実際の文化や生活は何一つ知らないわけでした。
 でもこうして、ここで「インドネシアの雑貨・布・服・アクセサリー」をいくつも知りまして、とても嬉しくなっています。
 このお店の店長の女性は、きっとインドネシアが好きで、たくさんの思いがあるんだろうなあ、と思っています。ただ私はいつも飲んでいるだけですからね。こうして、インターネット上でも、このサイトを知って、もっと新しいインドネシアのことも知らないといけないなあ、と感じています。
 写真は9月20日に、このお店で、孫のポコちゃんい買いましたお土産です。可愛い象さんです。
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