将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:仮名手本忠臣蔵

11070803  この人物は生年月日は分かっていません。亡くなったのは、1351年3月24日(正平6年/観応2年2月26日)と言われています。
 この画像は、長年足利尊氏だといわれてきました。しかし今では高師直だと言われています。実際に、この像の真上には尊氏の息子の義詮が花押(かおう)が記してあり、自分の父親の像に上には、記さないので、これは尊氏ではありません。だが、かなりな人物であるわけで、今では高師直か、その息子ではないかと言われています。私はこの絵は昔から好きでしたが、やはり高師直であろうと思っています。
 それでは尊氏といえば、今まで平重盛の像と言われていた次の像です。11070804昨日書いた、足利直義の像と一緒に兄弟で並んでいるわけです。
「この頃都に流行るもの・・・」という「二条河原の落書」がこのとき都に書かれました。この落書の世相がこの高師直の時代だと思われます。
 また『仮名手本忠臣蔵』は、実際の江戸時代の元禄の時代ではなく、この時代になっており、浅野内匠頭長矩が塩冶判官、吉良上野介義央を高師直としています。ただ、このことはまた別に書いていく気でいます。
 ただ私には、この最初の像に見られるような高師直が好きであり、この時代を自分の思うまま駆けていたという気持ちがするのです。(2011.07.09)

11042905  仮名手本忠臣蔵の5段目(山崎街道の場)やそのあとの6段目(早野勘平腹切の場)を私もテレビでよく見ていたものでした。中学生のときにはこの話が、「忠臣蔵と何の関係があるのだろう?」と判らなかったものでしたが、高校生になると、実にこの場面の一つひとつが分かるようになったものです。
 おかるは夫勘平の仇討ちのために、身売りして行きます。だがそのときに勘平は義父を銃で討ってしまったと勘違いして腹を切ります。でも忠臣蔵の連判状には彼の名前も記されます。
 どうにも若い私には、あまりに理不尽な話の内容に、この忠臣蔵自体が嫌になってしまったものでした。
 いやこの仮名手本自体が実際の元禄の頃ではなく、南北朝時代の話になっていますから、分かりにくいのですが、このおかるを愛した勘平のことはよくよく判ってきたものでした。(2011.04.30)

10101620 義母に自分で「わが家に行きます」というメモを書いてもらいました。日付と時間も書いてもらいました。それを見れば、思い出すかな。
 きょうは「歴史さとう」で、仮名手本忠臣蔵の「勘平とお軽」を書きます。思い出せば、高校生の頃テレビで、この歌舞伎を見ていたものでした。
 それと「ニュースさとう」は何を見つけ出すかな。これからインターネット上を探します。
 写真は、10月16日の午前11時23分のご近所にあったお花です。(10/21)

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