11083110   Monday, October 11, 2004 10:31 PM
Subject: 台風の思い出
 伊勢湾台風を名古屋で、洞爺丸台風を札幌でとはどこまでもドラマがついてまわる方でいらっしゃる。!!
 今でも念入りに台風の準備をなさるのもむべなるかな。うちでは子供のころは今存在すれば築八十年にはなる古い農家に住んでいましたから、祖父が台風のたびに玄関などに板を打ち付けていました。近所からも打ち付ける音が響いてきたものです。今はアルミサッシの建具で強風でも風もはらみませんから何もしなくなりました。先生のお宅でも家屋に準備はいらないと思うのですが、いったいどのようなことをなさるのですか?参考までに教えていただけますか?
 私には幸いにして台風の被害の経験はないのですが、友人の一人に面白いエピソードがあります。彼女は堺にすんでいて三歳の時まともに台風が上陸してきたそうです。昔の家ですから玄関は薄いガラスと木材です。窓は雨戸を閉めて何とかなったそうですが、玄関は面積も大きいし吹き飛ばされそうになって内側から家族総出で押さえ続けたそうです。お兄さんは怖がって泣いていたそうですが、彼女は冷静に「毎年こんな怖いことが起こるなら、生まれてきたのは間違いだったかもしれない。」と考察していたそうです。
 近所の知人は、家は借家なのでほおっておいて、実家に応援に駆けつけて玄関などをおさえていたところ、自分の家に帰ってみると玄関の戸は吹き飛ばされて中はめちゃくちゃだったそうです。
 実の所私は人に話せるような少し怖い台風のエピソードを自分の物にしたいなとひそかに望んでいます。

   Wednesday, October 20, 2004 6:26 PM
Re: 台風の思い出

伊勢湾台風を名古屋で、洞爺丸台風を札幌でとはどこまでもドラマがついてまわる方でいらっしゃる。!!

 いえ、特別ドラマというような思いはないのですが、この二つの台風は思い出深いです。

 札幌の前には、秋田市に住んでいました。たしか私は6歳になった年(昭和29年)の6月に父が転勤で札幌市に引っ越ししました。
 秋田では、父の会社の女性社員の渡辺さんという方が、私たち兄弟3人をとても可愛がってくれていました。兄はもう中学1年生でしたが、私と弟は、まだ保育園から幼稚園生で、渡辺さんは、もういつも私たちの家にまで来て、私たちと遊んできてくれていました。
 ところがこの転勤で、もう会えなくなってしまったのです。私たちも渡辺さんもとても悲しかったはずです。でもその渡辺さんが、そのとしの9月に札幌に来てくれたのです。たしか、9月25日に私たちの家に泊まっていってくれました。そして翌日26日には、秋田に帰るといいます。もう列車も予約していました。青函連絡船も予約していました。洞爺丸という大きな客船だといいます。この船で宿泊するようでした。
 ところが、彼女が帰るというのを、私も弟も嫌がります。もう弟はちっちゃい分からず屋の子どもですから、渡辺さんが帰るというのを認めません。少しはもの分かりのいい子だったろう私も、きょうだけでも泊まっていけとダダをこねます。それで、とうとう渡辺さんは、根負けして、我が家にもう一晩泊まることになりました。たぶん、あの頃珍しかった電話で、電車の洞爺丸もキャンセルしたのでしょう。
 でも、その晩、洞爺丸は転覆して沈んでしまいました。とにかく私の父母も渡辺さんも驚いたはずです。

 伊勢湾台風は昭和34年、我が家族は名古屋市北区大曽根に住んでいました。父の会社の営業所の2階が社宅になっていました。私は小学校5年生です。我が一家は私の小2の3学期に札幌から名古屋市南区若草町に転勤してきました。
 そのあと3年生の3月に千種区今池に転勤で、そこで4年生をすごし、5年生になるときに、北区に転勤になったのです。
 その社宅は、2階の南側がすべて大きな窓になっている社宅で、私たちは台風というのに、何の用意もせずにいました。あの頃は、今のようにテレビ等々の情報もあまりもたされていませんでした。我が家はその当時は秋田犬が2頭、英国コッカスパニュールが2頭、鶯が2羽、メジロが4羽、大瑠璃が1羽、もう一つ(種類を今思い出せない)が1羽、十姉妹が数知れずいました。
 それらの動物たちは、自分たちの犬小屋や、裏の庭の安全な場所に居てもらいました。だが、秋田犬の剣光号だけは、社宅の中に入ってきていました。彼はいつも「俺だけはここに入れてもらえる資格があるんだ」という気持のようでした。ただし、彼が入るのは、1階のみなの食事する小さな部屋の土間だけでした。
 でもこの日だけは、強い風のせいか、このケン(剣光号をケンとよんでいました)は、いつもなら絶対に遠慮する2階の部屋まで勝手に登ってきたのです。
 私たちはただテレビを見ていました。
 ある時間に突如大きな窓ガラスが1枚割れました。たぶん、夜の8時頃でしょう。父と母がなんとかその割れた窓を、なにかで防ごうとしていました。そのときに偶然私の叔父が電話してきたのを覚えています。父が「今台風で大変なんだ」と電話に叫んでいたのを覚えています。
 でもそのうち、次々に窓ガラスが割れ出しました。すぐ停電になります。もう2階にはいられません。家族5人、1階の3帖(ここでいつも食事していた)に降りました。ケンは最初のガラスが割れたときに、1階に逃げていました。 そして一家5人がこの3帖で、毛布なんかかぶって寝るしかないのです。ケンは絶対に家の畳の部屋には上がらない犬でしたが、このときは、家族5人の中に入ってきました。私はケンと抱き合って寝たのを覚えています。時間は午後9時くらいだったでしょうか。
 ただ、私は「これは一生わすれないだろうな」と思ったことがあります。夜2時頃、外へ出たのですが、そのとき雨も風も止んでいました。「これが台風の目なのかな」なんて父が言っていました。
 私は暗い空を見上げました。そうすると、私の目のはるかに上を、はるかな上空を、ものすごい勢いで、たくさんのものが飛んで、畳とか、戸とか、窓とか家とかが、なにもかもが、はるかな上空を飛んでいました。ものすごい勢いで北東のほうに飛んでいました。
 そして朝です。もう早々とみな起きて外を歩いています。ただただ驚きました。私の家は市電の通りに面していたのですが、大きな街路樹が根こそぎ倒れています。私の家は会社の営業所ですから、大きなネオンサインが1、2階についていたのですが、それがざっくりとれています。2階の窓ガラスはすべて割れています。だが、これは私の家だけではないのです。そして、私たちの住んでいた北区はいいのです。南区や港区はその後何ヶ月も大変なことになりました。
 いや、もう思い出すことがたくさん出てきます。また詳しく書いてみるべきだななんて思いました。

先生のお宅でも家屋に準備はいらないと思うのですが、いったいどのようなことをなさるのですか?参考までに教えていただけますか?

 たしかに私のところはマンションでして、まず何かを打ちつけたりということは必要ありません。私がやるのは、いわば精神的なことですね。まず台風をけっして馬鹿にしないということです。これは家族に言い続けます。そして、これは台風に限らないのですが、家族・親族含めて連絡網を密にするということです。これは、オウムのやった地下鉄サリン事件のときもそうでした。私も地下鉄で通っているのですが、私もあの事件に巻き込まれる可能性はありました。だから、私は事務所について、すぐ私の母の家に電話しました。私は安全で大丈夫だということを伝えたのです。この自分が安全だったということを伝えないと、母や妻が、私目がけて電話することによって、電話は混乱し、かけにくくなり、より母や妻は心配になります。私の母への電話で、母は妻の会社へ電話してくれて、それであとは他の家族・親族同士の連絡ですむのです。電話の混雑で連絡とれないで、あせるということがありません。何かに遭ってしまった側が連絡するのではなく、安全だった側が、「私は安全で、今はここにいる」という連絡が大事なのです。
 それからもう一つですが、「災害だから、もうすぐに帰宅しよう」というようなことをやらないこと、ということがあります。もうこれでまた帰宅の電車はおおいに混乱混雑して止まってしまうことがるのです。だからそんときは、どこかの飲み屋で時間を過ごしたほうがいいのです。私は本日もこれから、飲み屋に行こうかなと思っているところです。

 台風に関して、もっと書かないといけないなという思いがおおいにしています。まあ、とにかく台風を馬鹿にしないで、私の思い出を大事にしていこうとは思っています。萩原周二
(第221号 2004.11.08)