将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:佐野洋子

10110507『100万回生きたねこ』の作者の佐野洋子さんが昨日亡くなられましたね。この絵本は忘れられないものです。私はこの本の感想の中で次のように書いています。

 たぶん、やっとこの猫は生きることを知ったのだと思います。幸せになることの意味が少しは判ったのだと思います。
 思えば、「100万回生きた」のではなく、やっと、これだけ何回も生きて、それでやっと「生きる」ことの意味を見つけたのだと思います。

 佐野さんの霊に合掌しました。
「読書さとう」で、「ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』」を書きました。ショーン・コネリー主演の映画も思い出します。
「ニュースさとう」では、パソコンの学習のことを書きました。私はパソコンを教えたカナダ人の大学の先生を思い出したものでした。
 写真は、11月05日の午後2時12分のこのご近所の光景です。(11/06)

e4d30c4e.jpg

 私の 周の雑読備忘録「佐野洋子『100万回生きたねこ』」へのコメント破茶さんから、さらに次のコメントをもらいました。

1. Posted by 破茶    2008年05月14日 12:16
私も 「100万回生きた猫」の童話には 感銘を受けた一人です。白い猫を好きになったトラねこが羨ましく思えました(^-^)

 ありがとうございます。そうですね。この絵本のお話は実にいいです。やっぱり、この絵本を読んだ子どもは、「なんで、この猫も死んじゃうのだろう?」って思うはずです。でもそれがだんだん判っていくようになっていくと思うのですね。
 そうして、実際に、「人を愛すること、人から愛されること」って、一体何だろう、と判るようになれるんじゃないかな、と私は思うのです。
 だから、とってもいい絵本なんだと思うのですね。
 あ、できたら、私の次女にも、生徒さんたちの前で、この絵本を読んでもらいたいなあ。そしてそのときの生徒さんたちの感想が聞きたいものです。

続きを読む

fd0da196.jpg

 周の雑読備忘録「佐野洋子『100万回生きたねこ』」ナミちゃんから、次のコメントを頂きました

1. Posted by なみんと    2008年05月14日 01:35
周さん〜今晩は☆☆「100万回生きたねこ」を早速読んでくださったのですね。
最初手にとったとき..随分前になりますが100万回という言葉の響き。。ちょっとユーモラスな感じがしたのですが・・内容は想像していたのとは違っていました。。今再び手にとって。。とらねこの気持ちがよ〜くわかります。自分よりも愛する人たちにめぐり合えたとらねこさんに・・心より良かったね・・っていいたいです。人を愛することが出来るのは幸せなことですね。

 ありがとう。私はこうした絵本を読むことができるのは、ナミちゃんが、ブログで書いてくれたからなのです。そうでない限り、私は知ることのできない本でした。

 人から愛されることは、まずその人を愛することだと私は思っています。このねこは、そのことの前に、まず自分だけが大好きでした。でも白い猫が現れて、その白い猫を恋し、愛することによって、またこの猫も愛されるようになりました。そのときに、始めて幸せになれたのだと思います。
 このことは、この絵本の中の話だけなのではなく、生きている私たちの世界の話なのだと思っています。人は愛すことにより、愛されるようになります。このことを私に教えてくれたのは、ゲーテの言葉なのです。

続きを読む

100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))
 ナミちゃんのブログで紹介されていました。

 http://blogs.yahoo.co.jp/namint7/37877928.html 絵本「100万回生きたねこ」

 次の文から始まります。

 100万年も しなない ねこが いました。
 100万年も しんで、100万回も 生きたのです。

書 名 100万回生きたねこ
作・絵 佐野洋子
発行所 講談社
定 価 1,400円+税
発行日 1977年10月20日第1刷発行
読了日 2008年5月11日

 100万人の人が、この猫を可愛がり、その100万人の人はこの猫が死んだときに泣きました。でも、この猫は1回も泣きませんでした。
 王さまに飼われて、船乗りに飼われて、サーカスの手品使いに飼われて、どろぼうに飼われて、ひとりぼっちのおばあさんに飼われて、小さな女の子に飼われて、でも、誰のことも嫌いでした。「大嫌い」でした。
 そのあと、誰の猫でもなくなり、猫ははじめて自分の猫になりました。そうしたら、大勢の猫たちがこの猫にすりよってきます。でもこの猫は、自分が好きなだけで、誰も好きになれませんでした。

 「おれは、100万回も しんだんだぜ。いまさらおっかしくて!」

 猫は、ただただ自分だけが好きだったのです。
 でもそんな猫の前に、一匹の白い猫が現れます。猫が、「俺は100万回も死んだんだぜ」と言っても、何も驚きません。何も感動しません。
 この自分に何も、100万回も死んだことに、何も驚かないこの白い猫に、この猫は恋をしたのです(この「恋」ということは何も書いてありませんが)。たぶん、白い猫も、そんな100万回も死んだことを言わなくなった猫に恋するようになったのでしょう(でも、そんなことは何も書いてありませんが)。
 可愛い子どもができて、猫はとっても嬉しくて幸せだったはずです。猫はこの白い猫と、たくさんの子猫が、自分のことよりも好きになったのです。
 やがて、子猫はみんな出て行き、白い猫はやがて死にます。
 猫は、ずっと泣きます。100万回も泣きます。そして、やがて、

 ねこは、白いねこの となりで、しずかに うごかなくなりました。

 ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。

 たぶん、やっとこの猫は生きることを知ったのだと思います。幸せになることの意味が少しは判ったのだと思います。
 思えば、「100万回生きた」のではなく、やっと、これだけ何回も生きて、それでやっと「生きる」ことの意味を見つけたのだと思います。

 この私も生きることの意味、生き続けること、家族と一緒に生きること、友人と語らい合うことの大きな意味を考えていました。
 共同幻想はやがて、桎梏となってしまうわけですが、対幻想は、妻との幻想、娘との幻想、孫との幻想は、私には決して桎梏とはなりません。生きることはいいこと、生きたことはいいことだと言える思いがしています。

↑このページのトップヘ