将門Web

周が日々仕事であちこち歩いたり、友人や家族と話した中で感じたことを発信しています。

Tag:信玄堤

11022504書 名 信玄堤
    千二百年の系譜と大陸からの潮流
著 者 和田一範
発行所 山梨日日新聞社
読了日 2003年9月28日
発行日 2002年12月18日

 私がたしか小学校4年ときだったと思いますが、狩野川台風という強力な台風が来たのですが、そのときに現代に造った堤防は壊れたが、武田信玄の造った「信玄堤」は壊れなかったというのを知ったものでした。その後、「甲陽軍鑑」をはじめとして、武田信玄についてはいろいろと読んできました。それで人物としての信玄は少しも好きになれませんが、こうした「信玄堤」のようなものは、いつも感心して読んできました。この「信玄堤」の考え方が、私の環境問題の関する根柢の考え方の一つになっています。清里へ行った帰りに、山梨文学館に寄ったときに購入しました本でした。なんだかすぐに読めてしまいました。(2003.09.28)

11010206書 名 水と緑と森
著 者 富山和子
発行所 中公新書
1974年1月25日初版

 この著者には、「川は生きている」「森は生きている」「水の文化史」等の著作があります。川や森が我が日本列島を長い間みずみずしく保つており、それが現代になって、破壊されてきたことにより、この社会は亡びてしまうかもしれないという警告をされています。

  私はこの国土で行われてきた破壊の事業のあとをたどりながら、そ
 のどこに誤算があり、誤算はどのように生まれたか、その秘密を探っ
 て行きたいと思う。おそらく、その鍵は川にかくされているはずであ
 る。というのも、当面するどのような問題………都市の緑の後退、水
 不足、災害、危機に瀕した農業や林業、汚染、山の破壊など、資源、
 環境、災害のどの側面からアプローチしても、結局のところ私が行き
 ついたのは水のとらえかたであり、川とのかかわりかたの問題だった
 からである。             (「序章自然観の断絶」)

 現在かなり日本中で水の被害がおきています。水不足で困り果てる年もあれば、逆に水がおそろしいくらいに暴れまわる年や地域もあります。この水を治めることが、日本人のみならず、人類の悲願だったのでしょう。それが今になってこうしたことがひんぱんにおきているように感じます。どうしてなのでしょうか。
 中国の夏王朝の創始者禹は、本当は神話上の神なのでしょうが、治水に専念したようです。父親の鯀は帝堯のときに、水を治めることに失敗し、罰せられました。禹は帝堯、帝舜の時代中国の全土を必死に工事して回ったようです(いや事実として、私は禹が中国全土を治水のために歩いていたと心の底から思いこんでいます)私が中国古代の伝説の王たちの中で、この禹が好きなのは、その必死に働いている姿にあるのです。彼は結婚しても家に帰らず、熊の姿に身を変えて水と闘ったといいます。父の悔しさを雪ぐことと、水を治めなくてはこの世界は人間のものにはならないのだという信念があったと思うのです。黄帝、堯、舜などに比べると、汗にまみれて水と闘っている熊の姿の禹のほうが私は好きなのです。
 そんな神話の時代ではなくても、我が日本でも古代から水を治めようと、私たちの祖先は苦労してきたはずです。

  治水。かつてこの言葉は、文明の基盤をほとんど包括してしまう。
 実に広い概念で用いられた。治水とは、単に河川改修を意味するのと
 どまらず、今でいう治山、砂防はもとより、利水や交通に至る、川の
 事業のいっさいを意味していた。治水家は、ときに政治家であり戦国
 武将であり、またときには学者、運河の開削者、港湾の建築家であっ
 た。            (「五 原点としての明治三十年」)

 たしか昭和三十三年にあった狩野川台風のときに、昭和の時代に作った堤防が崩れて、あるところに残っていた信玄堤はそのままだったというのをきいたことがあります。のちに「甲陽軍鑑」(江戸時代に書かれた、武田流軍学の本。信玄、勝頼の時代を描いている)を読んだときに、その解説書の中にこの信玄堤のことが詳しく書いてありました。そのとき、なるほどなと思ったものです。水を力で押えつけようという発想ではないのですね。

 「信玄堤」としていまもその跡をとどめる信玄の治水法は、洪水流を
 岩に衝突させ、あるいは洪水流どうしを二つの川の出合いで衝突させ
 るなどしてその勢いをそぎ、さらに霞堤を配して洪水を川の外へ逆流
 させるものであった。霞堤とは、河身に平行して堤を築かず、一定の
 角度で雁行状に堤防を断続させるものである。したがって洪水は自由
 に堤防の間から逆流停滞し、川の流量が減れば自然に川へ戻ることに
 なる。つまり洪水が道草を喰うように積極的に堤を配置することで川
 の流量調節機能を助け、それによって洪水時の川の負担を軽減させよ
 うとしたものであった。信玄は治水工事に当っては移転住民の租税を
 免除し、また堤が住民参加で維持管理されるよう配慮するなど、政治
 家としてのきめ細かな施策も忘れてはいない。
               (「五 原点としての明治三十年」)

 これに象徴されるのが、我が祖先の水に対する考えだと思うのです。自然に逆らうことなくその力を利用した知恵だったと思います。これに対して現在の河川への堤防のつくり方を見ると、水を堤防の中に留め、はやく海におし流そうというように思えます。だからときどき川は暴れてその堤防を簡単に越えてしまうのです。たくさんつくられたダムも同じ考えだったといえるでしょう。ダムを山を切り開くことによって貯水地が増え、水はふんだんに確保できるはずでした。それがダムをいくらつくっても水不足は解消されないのです。

  私たちはいまになって、人間が自然の力を借りて生きていくことを
 放棄したことの重大な意味を、かみしめねばならなくなっている。お
 そらく社会が犯した最も大きな誤算は、水に対する考えかただったに
 ちがいない。水を自然から切り離して扱おうとした堤防万能主義、ダ
 ム万能主義によって、水はいよいよこの国土に足りなく、一方ではい
 よいよ暴れ廻るようになってしまった。人間がこの国土に住みついて
 からこのかた、つねにその力を借りて生きてきた森林という自然の偉
 大な働き手を、なぜこの社会は拒否してしまったのだろう。
                   (「二 不足する水資源」)

 森林こそが、水を貯え、山崩れやがけ崩れを防ぎ、光合成により酸素を供給してくれます。気温を調節し、動植物を保護し、土壌の生産力を培います。木材も提供してくれます。残念ながら、それをいま破壊しつつあるのが現状だといえるでしょう。著者はそれを警告しているのです。もちろん我が日本は森林に関しては、他の国々よりはまだましなのかもしれません。ただそれは比較の問題でしかありません。
  著者はメソポタミアやエジプトの例もあげています。メソポタミアはかの文明のとき、森林の生い茂る緑深い地域だったはずです。またエジプトのナイル川に作られたアスワン・ハイ・ダムのことでも詳細に書いています。あの二十世紀最大といわれたこの事業も、「世紀の愚挙」だったようです。
 そして当り前なのですが、著者はまた「緑をふやせばいい」などとは言ってはいないのです。

  自分は自然に飢え、自然を欲しがっているのだから、自然のよき理
 解者だと自認することであり、また緑の量をふやすことで環境が回復
 されると考えることであり、山の緑は人為を加えぬことが自然保護だ
 と信じることである。          (「六 緑の破壊者」)

 これを著者は「奇妙な誤解」といっています。この誤解からは何も生まれないのです。

  都市が、その足元の自然を十分守りうる体質に生まれかわらない限
 り、山奥の自然もまた確実に、破壊されつづける。
                     (「六 緑の破壊者」)

 この著者はいまもあらゆるところでこうした警告を続けていると思います。私はこの著作のみならず、この著者の書かれていることからかなり大きな示唆を与えられましたことを感謝したいと思います。(1993.01.20)

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